父の日に寄せて

六月第三週の日曜日は「父の日」である。それはいつどのように始まったのだろう。
アメリカに、妻に先立たれ再婚もせず、6人の子供を育て上げた父親がいた。
その娘のアメリカのワシントン州に住むジョン・ブルース・ドット婦人の提唱により「父の日」が生まれた。
彼女は「母の日」があるのなら、父に感謝する日もあるべきと教会に呼びかけ各地へ広まり、1916年にはアメリカ全土で行われるようになった。
6月19日(第三日曜日)を「父の日」にしたのは彼女の父ウィリアム・ジャクソン・スマート氏の誕生日にちなんだものだった。
ただ正式に祝日となったのは、わりと最近で1972年のことである。
日本では1950年頃から広まり始め、一般的な行事となったのは1980年代とかなり遅い。
六人の子を育てた父親と聞いて、瀬戸大橋を設計建築した杉田秀夫のことを思い浮かべた。
杉田は、癌で病床にある妻を看病しながら工事現場にむかった。
杉田は、妻を亡くしてからは仕事をやめ、再婚もせず幼い娘3人を育てることに専念した。
杉田は、人生には瀬戸大橋を架ける以上に難事業があると、意味深なことを語っている。
「父の日」は、こういう人のために文句なく祝われるであろうが、父親の影が薄いまたは父の背中しか知らない家庭にあっては、「父の日」に何をどうしたらいいのか困ってしまうかもしれない。
ある父親が子供達に「何でも 母さん 母さん というな!」と注意すると、子供が珍しく「お父さん」と自分を呼んだ。次に続いた言葉が「母さん どこ?」だったという。
「父の日」は働く父親に感謝するというよりも、時には父親のことを思い起こす日、というのが実際かもしれない。
しかしなかには、父とともに夢を追う人生もあるし、父の幻を追うような人生もある。
また無念にも、父と子が共に歩むことのできなかった人生もある。

「父子鷹」(おやこだか)という言葉が似合いそうなのは、スポーツの世界の室伏父子、イチロー父子、レスリングの浜口父娘などが、その典型かもしれない。
アテネ・オリンピックで金メダルをとった室伏広治だが、20年も前にNHKで放映された室伏父子二人だけの「練習風景」には忘れ難いものがあった。
森の中に設置された投擲場で室伏広治選手が黙々とハンマー投げに励み、その姿をじっと見つめる父・重信選手があった。
実は室伏選手は、幼少よりハンマー投げの英才教育をうけ、高校時代には次々と記録を塗り替えていったが、大学時代にナゼカ記録が伸びず、高校時代の記録にさえ届かなかったのだという。
記録は必ず伸びるものだと信じていた室伏氏にとって初めて味わう挫折感だったかもしれない。
そしてその時の練習風景は、順調元気な練習風景ではなく、そういう「焦燥」の中での練習風景だった。
そこで、自らフォームや力のバランスを修正する必要があるのだが、どこに問題点があるのかナカナカ掴めないようであった。
そのカンどころはけして人に教えられるものではなく、自ら「掴みとる」以外はないのだ、というようなことをナレーターが語っていたように記憶している。
そして森の中の静寂の中、父子は技術的な話は一切するでなく、ハンマーを投げる息子とそれを見つめる父の姿があった。
時折のハンマーの回転音と地面への落下音だけが響き、単調な時間が延々と過ぎていく。
同じ状況が何週間も続くのだが、室伏選手が「聞ける状態」にある時を見計らって、父はアドバイスの言葉を溢れるようになげかけるのが印象的であった。
これは、けして室伏選手が父親のアドバイスを聞かないという意味ではない。
室伏選手が、父が語るアドバイスが一番「心に届く」タイミングをヒタスラ待つのだという。
その「忍耐力」というものに敬服させられた。
ところで室伏選手には、様々な「伝説」が残っていて、生まれて初めて話した言葉は「ハンマー」だったとか、おしゃぶりの代わりにハンマーをナメていたとかという作り話もある。
もっとも、イチローの歯ブラシはバットだったという伝説よりもマシだが。
しかし、ボーリング場でノーバウンドでピンに当てることに挑戦していて、店員におこられたという話は、アリソウな作り話である。
そして絶対に本当の話というのは、高校時代に初体験の「槍投げ」で国体2位になった時の話である。
室伏選手は高校3年生時、「べにばな国体」のやり投で68m16を投げ2位になり、槍投の千葉県高校記録をつくった。
実はこの大会に出るまで、槍投の経験はほとんどなくなく、友人であった今芸能人である照英に適当にコツを教えてもらい、当日駐車場で小石を投げて練習をした程度だったっという。
この時、昭栄は、室伏選手の記録にあまりのショックで槍投げやめたという。
  室伏選手は4才の時からハンマー投げの大会に出場しているが、スポーツ万能で様々な競技で優勝をさらっている。
ちなみに100メートル走でも10秒10をきる「瞬発力」の持ち主なのだそうだ。
投げる方では、2004年11月12日の日米野球の始球式でや2005年4月5日のプロ野球巨人横浜巨人戦でも始球式を行った。
とても野球のフォームとはいえない不思議な「ハンマー投法」で130キロ以上の急速を計測している。それよりほぼストライクをなげたのがすごい。
また格闘技の大ファンで、還暦を過ぎたらやってみたいと語っているという。
彼の論文「ハンマー頭部の加速についてのバイオメカニクス的考察」は、恒星間飛行の基本技術に使われているというから、こちらもすごい。
ちなみに現在、浅田真央も学んだ中京大学の教官である。
さて室伏氏の父親は、「アジアの鉄人」といわれた室伏重信氏で、現在は中京大授の名誉教授である。
オリンピック代表4回・日本選手権10連覇・アジア大会5連覇などの数々の「金字塔」を打ち立てた。
指導者としても卓越した手腕を発揮され、息子以外にもたくさんの名選手を世に送り出している。
1984年にマークした75m96の日本記録は1998年、実の息子である広治に破られたが、現在でも日本歴代2位にあたる。
この父親が「すごい」のは、日本記録を最後に更新したのが39歳の時であったことである。
体力の衰えをカバーするかのように、30代半ばを過ぎたあたりから「技術改良」を行い、次々に「記録」を塗り替え続けたことは、「驚異」という言葉以外には出てこない。
ところで室伏広治選手は、女性ファンが宿舎に押しかけるほどビジュアルに優れているが、それは実の母親がルーマニア出身のやり投げ選手だったことが大きい。
母親は現在、父・重信氏と離婚されて名古屋市内にお住まいなのだという。

かつて、もうひとつの「父子鷹」の典型として「イチロー父子」がよくテレビに紹介されていた。
しかしチチロー(鈴木宣之)の方は髪型同様にその存在感はすっかり薄くなってしまった。
というよりマスコミにはまったく登場しなくなったが、このイチロー父子も様々な「伝説」に色どられている。
チチロー氏は東海高校の外野手で愛知県大会ベスト4まで進んで、芝浦工業大学に進んだが、「選手」としての野球への関わりソコマデであった。
イチローが3歳の時に、はじめておもちゃのバットとボールを持たせたら、その日から寝る時も離さなくなったほど野球好きな子どもだったという。
小学3年生で地元のスポーツ少年団に入ったが、当時は日曜日しか練習がなく、イチローが平日も父親と野球したいと言い出して、毎日学校から帰って来てから暗くなるまでキャッチボールをしたという。
チチロー氏によれば、子どもが夢を見つける最初のきっかけは親が与えるもので、もしイチローがサッカーをやりたいと言っていたら、自分も一緒にボールを蹴っていたそうだ。
そのイチローといえどもどうしても見たいテレビがあって、野球道具を投げ捨てて家に帰ったことがある。
この時親子関係は険悪になったが、黙って子供の足をもんであげたりするうちに、親子の関係は改善した。
イチローは、小学校6年生では、「夢」という課題の作文の中で、はっきりと「将来は一流のプロ野球選手になりたい」と書いているが、こんなことは才能のない小学生にもアリガチのことである。
しかし、チチロー氏は息子がプロ野球選手になることを信じることができたそうだ。
とはいっても、いつも順風万帆というわけにはいかず、愛工大名電工高校に入学したての頃、練習試合に投手として出場し、散々打たれた後に「野球をやめたい」ともらしたこともあった。
父は理由を一切聞かずに、自分でしっかりと考えなさいとだけ言って見守ることに徹したのだという。
イチローには「感謝」することを常に教えたが、二人で通ったバッティングセンターの社長が、イチローのために特別速いボールが出るマシンを用意してくれたこともあった。
ちなみに、このバッティングセンターで、時々近くのボックスの打席に立っていたのが現・日本ハムファイターズの稲葉篤記である。
イチローは父親の「ボール玉には手を出すな」をしっかり守り、優れた「動体視力」が養われていった。

1977年新聞にのっていた作家・水上勉とご長男・窪島誠一郎の再会のことが強く印象に残っている。
実の父子でありながら生き別れ35年ぶりに劇的な再会を果たした奇縁の父子である。
作家水上勉は福井県の大工の家に生まれ5人兄弟の次男として育ち、9歳の時京都の禅宗に小僧として修行に出されるが、あまりの厳しさに出奔した。
その後一時連れ戻されるが再び禅寺を出たのち様々な職業を遍歴しながら小説を書く。
経営していた会社の倒産、数回にわたる結婚と離婚など、家庭的には恵まれないことが多かった。
1941年に水上氏は同棲していた女性との間に長男が生れるが、この頃結核にかかり血をはきながらも酒ばかり飲み自身の生活さえ維持するのがやっとであった。
アパ-トの隣人が水上氏に同情しまた結核が子供に感染することを心配し、一時長男を預かり養子先を探したのであった。
この時水上勉には養子先を知らされていなかった。その後、明大前付近は1945年4月の大空襲で焼け野原となり、長男は死んだものと思われていた。
しかし長男はそのとき養父母と石巻市に疎開しており空襲を無事に逃れていた。
戦後、養父母と明大前に戻って靴修理屋を再開する。
しかし自分が親と似ていないことや血液型などにより養父母が実の親ではないと確信する。
そのころ、養父母は明大和泉校舎の構内でクツ修理をしていたが、生活は苦しく生きるのに必死で息子の心の変化を知る余裕もなかった。
誠一郎氏は高校をでると、深夜喫茶のボーイ、ホテル従纂員、店員、珠算学校の手伝いなどをしながら、家計を助けるとともに金をためた。
結婚後、それをもとに喫茶店や小劇場(キド・アイラック館)・居酒屋を開き成功し大小5軒の店を構える少壮実業家となる。さらに銀座に好きな絵を集めて画廊を開いた。
自伝によると「高校時代から口八丁手八丁の男だった。深夜酒場のマスタ-は天職だったかもしれない。あれほど好きだった文学にはすぐに見切りをつけた。」と書いている。
窪島氏は生活の安定とともに、本格的に実の両親を捜し始める。
そして養父母である窪島夫婦が戦前、世田谷の明大前でクツ修理屋をやり二階を下宿にしていたことやそこに山下義正という学生がいたことを調べた。
そして1943年秋、山下氏が孤児をもらったといって二歳の赤ちやんを子供を欲しがっていた窪島夫妻のところに連れてきたことや、山下氏が住むアパ-トの隣の部屋にいて子供を預けた人物が、当時すでに流行作家としての名が知られていた水上勉氏であることをつきとめるのである。
終戦後間もない頃、誠一郎氏の父親である作家の水上勉は本が売れず妻の稼ぎに頼っていたが、妻は子供を置いて勤め先のダンスホールで知り合った男性と駆け落ちしてしまう。
1946年ごろ、水上勉は作家の宇野浩二を知り文学の師と仰ぐようになり、1947年に刊行された「フライパンの歌」が一躍ベストセラーとなるが、その後しばらくは生活に追われ、体調も思わしくなく文学活動からは遠ざかった。
しかし1959年「霧と影」で執筆を再開し、1961年「雁の寺」で直木賞を受賞し、「飢餓海峡」「越前竹人形」、「五番町夕霧楼」などの小説を相次いで発表し華々しい作家生活が始まったのである。
窪島氏は父が作家の水上勉氏であることを知った時について次のように言っている。 「それは天地が裂け、雷鳴が轟き、驚天動地でしたよ。人前ではかっこつけていましたが出会ったときには涙がでました。」
水上勉氏は、2004年9月8日肺炎の為、長野県東御市で亡くなる。享年85歳であった。
また窪島誠一郎氏も作家として父への思いなどを書いておられる。
水上父子の奇縁は、息子の妻が水上氏の代表作「飢餓海峡」に近い、北海道積丹半島出身の女性であったこと、そして何よりも息子・窪島誠一郎氏が水上作品の愛読者でもあったということである。
つまり本当の父親の名を知った時、窪島氏の本棚には多くの水上作品が並んでいたのだ。

昨年、ノーベル賞受賞の利根川進氏が愛息をなくされたニュースを聞いて一体何がと驚いた。
その数ヵ月後に、利根川氏が日経新聞に連載で「回顧録」を書かれた際に、家族と息子への思いを書かれている。
その記事の中でやはり胸を打たれたのが、亡くなった愛息への思いであった。
以下は日経新聞の「私の履歴書」の記事であるが、そのまま紹介したい。
//妻の真由美(吉成真由美)とは1985年に結婚しました。彼女は当時NHKで教育番組や特集などを担当するディレクターでした。
「21世紀は警告する」という特集番組を作るために、私にインタビューを申し込んできて、知り合いました。
私たち夫婦は長男の秀(ひで)、長女の英(はな)そして次男の知(さと)の2男1女に恵まれました。
3人ともボストンで生まれ育ったアメリカ人です。子育てに関しては、色々な機会をできるだけ与えるようにしようと心がけました。3人ともとても心優しい人間に育ったと思います。
秀は、マサチューセッツ工科大学(MIT)を卒業して日本のIT関係の企業に就職し、東京で1年足らず働いた後、その会社が買収したサンフランシスコにあるアメリカの会社で働いています。
英は、ニューヨークの伝統あるスキドモア大学を卒業した後、日本政府が行っているJET(英語が母国語の若い大学卒業生を日本に招いて中学・高校で英会話の授業を補佐する)プログラムで、埼玉県の高校で1年働いた後、この秋からパートタイムでマスコミの仕事をしています。
知は、ずば抜けて才能に恵まれた、ミステリアスなところのある子供でした。何をやっても見事にすんなり、すばらしくよくできてしまう。
物理、数学、歴史をはじめとする学業一切はもちろん、チェロとピアノを演奏しましたが、ピアノのコンペティションで勝ってカーネギーホールで演奏するほど、音楽の才能にも恵まれていました。
いつ見てもクールで余裕がある。これほどすごい才能を持った子供は将来どうなるのだろうと、本当に楽しみにしていました。
知は小さい頃からサイエンティストになると決めていて、3人の子供の中で唯一、私の知っている世界を目指していました。
夏休みにMITの生物物理研究室で働いてみたいというので、彼が教授との面接に行ったのです。後で何を質問されたのか尋ねてみると「何を目的にこの研究室で働きたいのかと聞かれた」と。
それに対して「エデュケーション、インスピレーション&ファン」と答えたというのです。
まったく17歳とは思えないような答です。
もちろん研究室に受け入れてもらい、かなり真剣に研究したようで、後に「セル」という有名な科学誌の論文に共著者として名前が載ることになっているそうです。
「一高校生がここまでできるとは信じ難い」と教授から言われました。
科学を志していた知は、残念ながらMIT一年生の時、誰にも何も告げずに、18歳で夭逝してしまいました。
親にとって、これ以上の残酷はありません。私も残りの人生それほど長くはありませんが、最後まで、十字架を背負って生きて行かなくてはなりません。
実は、私は余りにも次から次へと幸運に恵まれてきましたので、以前から時々「大丈夫かな」という気がしていました。
私は宗教を持たない人間ですが、やはり天は禍福を調整したのではないかと。
もしそうなら、ノーベル賞その他の幸運はいらないから、知を返してほしいと心から思います。
深い悲しみにくれる日々ですが、本当に短い間ではありましたが、あれほど魅力的な若者と過ごせたことを、感謝しなくてはならないのかと思うこともあります。//