夏のリゾート

英語で「リゾート」の本来の意味は、繰り返し行くという意味である。
しかしそれは、海辺や山中の施設ばかりでなく、何度でも記憶の中に蘇ってくる風景をも含むとしよう。
そして、何度も訪れたくなる心のリゾートをたくさん蓄えた人こそ幸せな人だ。
この夏、軟式全国高校野球大会の準決勝で激闘の末、中京(岐阜)が崇徳(広島)を3―0で破り決勝進出を決め、さらにその2時間後に行われた試合に勝利して優勝した。
準決勝では延長50回、3日連続のサスペンデッド(一時停止)試合となった歴史に残る試合だった。
甲子園(硬式)の歴史に残る試合としては、1933年の準決勝の「中京商」対「明石中」の試合が延長25回まで続き1-0で中京商(愛知)が優勝したが、実にその二倍の長さの試合であった。
両エースの投球数はそれぞれ700球、何よりもエラーが両チームあわせて4つとなど、引き締まった試合だったことがうかがわれる。
実際にプレーするものにとっても、試合を応援したものにとっても、「夏のリゾート」になるに違いない。
個人的には、1969年8月17日 松山商業と三沢高校の決勝戦は、夏と共にいつも心の中に還ってくる試合といってよい。
延長18回の死闘の末0ー0のまま決着がつかず、翌日に再試合が行われれ、松山商業高校が4-2で三沢高校を破り優勝した。
TVでみたあの日の試合のことは、40年を経ても鮮烈に蘇る。
当時、北海道や沖縄の高校のチームが甲子園で1勝することは、まだ「意外」と思われるで時代であった。
実は、この試合の年1969年は、佐藤首相とニクソン大統領の会談で、3年後の1972年に沖縄が返還されることが決まった年である。
また前年からこの年にかけて連続ピストル射殺事件が人々を恐怖に陥れたが、この年に逮捕された永山則夫は、北海道の網走で生まれ、青森から東京に「集団就職」した少年だった。
そして、「あの試合」のほぼ1ヶ月前の7月20日にアメリカは人間を月に送り込む一方、ベトナム戦争への批判も噴出し始めた時代であった。
青森県米軍基地の町三沢に育った高校野球チームの快進撃も、この時代の趨勢のヒトコマとして位置づけられるかもしれない。
そしてあの日の決勝戦は、まるで時代の「エア・ポケット」にでも入り込んだように、極限に近い人間ドラマを生み出し、多くの人々がそのエア・ポケットに吸い込まれていった。
あの日、5万5千人の観衆で観客席は立錐の余地もなかった。
青森・三沢高校のエース太田幸司投手は、一昨日の準々決勝、京都・平安高校戦から3連投になった。
日本人の父と白系ロシア人の母とを両親に持ち、真っ向から投げ下ろすフォームとその風貌は、かつての名投手スタルヒンを彷佛とさせた。
一方、愛媛・松山商業の投手・井上は体格には恵まれないが、コントロールには絶対の自信をもっていた。
さらに春センバツ2回、夏選手権3回の優勝を誇る四国の名門校としての誇りを胸に、この日戦後3回目の優勝を目指していた。
最も忘れがたいシーンは延長15回裏と延長16回裏におとずれた。
延長15回裏、三沢高校が一死満塁の大チャンスを迎える。
三沢の9番打者立花に対し、松山商の井上投手はスクイズプレイを警戒し3球連続でボールを出しカウント0-3となった。
あと1球ボールがきて「押しだしサヨナラ」で、、三沢高校の勝利がホボ確定的な場面を迎えた。
この時「松山商業の優勝」を予想できた人は、TVラジオ視聴者の中に一人もいなかっただろう。
しかし、守る松山商ナインはそれほどでもなく、井上のコントロールを絶対的に信じていたという。
観客は固唾を呑んで試合に見入った。
そして、次に井上投手が投げた4球目はストライク。応援席の叫びにも似た声が大歓声へと変わった。
その後も何度も歓声と悲鳴を交互に聞いたような気がする。
いまでも話題になる5球目は確かに微妙な判定だったが、低めのボールかに見えたとき郷司球審の手が、一瞬間を置いた後に力づよく上がり、何度も空をつきあげたシーンをよく憶えている。
苦しくて泣き出しそうな表情で必死に投げる松山商・井上投手であったが、この時の三沢高校の打者の回想は、この試合の雰囲気をよく表していた。
彼は井上がストライクがはいればいと思ったという。四球で終わるのはかわいそうで、三沢高校の他の選手もおおむね似たようなことを話している。
この試合は、勝敗を「超越」したところで行われていたのだ。
そして、フルカウントになり、立花は次の6球目を強打しピッチャーを強襲、投手井上もそれを弾き、その瞬間ゲームが終わったかに思えた。
しかし次の瞬間、弾いたボールを拾った遊撃手が矢のような返球を本塁に投げ、三塁走者は間一髪本塁アウトとなった。
松山商業の底知れない力を見せつけた場面であった。
井上にとって奇跡の25球であった。ベンチに戻った時、松山商ナインは泣いてた。
そして延長16回裏、投手井上は疲労にも疲労の色がみえたが、松山商にとってもう一度一死満塁の大ピンチがおとずれた。
しかし、今の回、井上は松山商のスクイズを見破りチャンスを逃した。
延長18回裏、1塁走者の太田が2盗に失敗して球史に残る4時間16分の死闘は引き分けで幕を閉じた。
この日、宿舎で就寝の床についた生徒たちの間からから、すすり泣きの声が消えなかったという。
再試合は、初回に松山商がいきなりホームランで2点を先取し、4対2で三沢高校に勝利し、優勝を果たした。
1969年優勝の松山商は、全国制覇だけを目標に猛練習に明け暮れたといってよいチームで、準優勝の三沢高校は小学生の時から顔なじみの選手たちが集まった田舎のチームにすぎなかった。
何のイタズラか、その両校が決勝の舞台で一歩もひかない死闘を繰り広げたのである。
まったく対照的なチームのようだが,両校とも地元の選手で構成されていた点では共通していた。
三沢高校ナインのうち5人が幼少から同じチームで野球を始めていたのだが、彼らが力をつけたのも駐留米軍の子弟相手に練習試合を行ったからだ。
つまり両チームとも、地域が育てたチームだったのだ。
そうした地域の繋がりのことを思うと、あの延長18回の決勝戦の試合がさらに輝きを増してくる。

最近の高校野球は、グローバル化を思わせるものがある。
グローバル社会における企業の生産拠点は、土地や賃金などが安い、規制が少ないなどの生産に有利な立地を求めて移動していく。
高校野球においても、優れた野球選手(またはその指導者や保護者)達も、甲子園に出れそうなチームを求めて越境入学する。
つまり力のある球児ほど地元高校には進まず、野球ブランドとして確立した学校へと進学する。
我が自宅から近い長丘中学は、新庄剛志を生んだ中学だが、有力選手は青森山田や福島聖光学園に進学している。
そういえば、このたび優勝した大阪桐蔭高校のキャプテンは、福岡県糸島の志摩中出身だと聞いた。
ブランド高を中心にこんなネットワークの確立されたからには、地域の生徒が地域の学校の選手として出場して活躍するという本来の高校野球の姿が見られなくなった。
地元チームがいくら強くても、他県出身者の混成軍というのでは、応援にも力がはいらない。
元ヤクルトのブンブン丸・池山選手のように、地元の高校を甲子園に出させたくて、あえて私立を断り市立尼崎高校に進学して、本当に甲子園出場を実現させた球児もいる、というのにである。
地域の希望の星となった高校野球チームとしては、1965年の三池工業の優勝や1971年の福島県磐城高校の準優勝を思い浮かべる。
1950年代の後半から、石炭から石油へと時代は移っていた。
そのため斜陽化する産炭地に奇跡のように現れたチームの快進撃は、地域の人々の希望のともし火となった。
それは、ブランド校への野球留学が行われるご時世にはお伽噺とすら感じられる。
磐城高校は、福島県常磐市にある県立高校であるが、この地域はフラガールで有名になった常磐ハワイアンセンター(現在スパリゾートハワイアンズ)のあるところである。
石炭業界は、1950年代前半の朝鮮特需期には需要増から一時好況となったものの、50年代後半には労働運動の盛り上がりによるコスト増から低価格な輸入石炭との競合が露呈し、さらに1962の原油輸入自由化によってエネルギー革命が加速して、構造的な不況に陥った。
常磐炭鉱(後の常磐興産)でも1955年から整理解雇が始まった。
そこで炭鉱労働者やその家族の雇用創出、さらに同社の新たな収入源確保のため、炭鉱で厄介物扱いされていた地下から湧き出る豊富な温泉水を利用して室内を暖め、「夢の島ハワイ」をイメージしたリゾート施設「常磐ハワイアンセンター」の建設を計画したのである。
しかし、社内でも先行きを疑問視する声が強く、炭鉱の最前線にいた社員たちの転身にも根強い反対があったが、最終的には当時の常磐湯本温泉観光社長が押し切る形で事業を進めた。
映画「フラガール」は、炭鉱の町をハワイアンセンターに変えた「いわき温泉」の戦いを、ひたむきかつユーモラスな「珍騒動」も交えて描いた。
常磐炭田は、福島県富岡町から茨城県日立市までに広がって存在した炭田である。夜ノ森と久慈川に挟まれた沿岸地域に立地していた。
この暗い炭鉱の地域を南国の風景に変えて、温泉にきた客人をフラガ-ルがダンスでひきよせるという企画がもちあがった。
映画の中で、肌を露出してする仕事に反対する人々に対して、一人の女の子が言っていた。
「今まで仕事っつうのは、暗い穴の中で歯食いしばって死ぬか生きるかでやるもんだと思っていた。んだけど、あんなふうに踊って、人様に喜んで貰える仕事があってもええんでねか」。
さて磐城高校を準優勝に導いた須永憲史監督は、1941年福島県いわき市生まれである。
早実で、エースの王貞治とともにセンバツ優勝。その後に磐城高校へ転向、日大から常磐炭鉱で一塁手として活躍し、68年磐城高校監督に就任。
1970年に2年生で甲子園に出場した時は捕手だった強肩で負けん気が強い田村を、新チームになり投手がいなかった為もあり投手にコンバートした。
2回戦からの出場となった磐城の対戦相手は優勝候補の日大一とあたった。
磐城田村は得意のシュート、カーブをコースに投げ分け、打たせて取る柔軟なピッチング。貴重な1点をもらった田村は、コーナーを巧みに突く丁寧なピッチングで焦る日大一打線をほんろうし、5安打完封で見事に金星をあげた。
スポーツ紙では話題にも上らなかった磐城だが、各スポーツ紙が磐城の大殊勲をほめ讃えた。須永監督の作戦の勝利であり、全員が総力を集中した体当たりの結果でもあった。
そして 磐城田村はコーナーを突く巧みなピッチングで静岡学園打線を5安打完封。6回以降は一人も塁に出さなかった。
準決勝進出を決めた瞬間、磐城応援団は総立ちとなり、拍手が鳴りやまなかった。
田村はいつしか「小さな大投手」とよばれるようになった。
対・郡山(奈良)戦では、小さな大投手の一球一球に観衆酔った。
郡山打線は毎回安打を放つが、試合ごとに力を増す磐城田村は、絶妙なコントロールと頭脳的な投球で要所をしめ、点を与えない。4-0と、見事3試合連続完封で、決勝進出を決めた。
決勝での対戦相手は 桐蔭学園(神奈川)で、無失点の磐城・田村、これまで4試合2失点に抑えてきた桐蔭学園・大塚の両投手によるの緊迫した投手戦となった。
試合結果は1-0で桐蔭学園の勝利。磐城高校によって優勝旗が白河の関を超えることはなかったが、好投手を支える堅実な守備で名勝負を演じた両校の選手にスタンドからは大きな拍手が贈られた。
産炭地を沸かせたといえば、磐城高校が甲子園を沸かせた6年前の1965年夏の甲子園を制した三池工業高校である。
人口21万人の福岡県大牟田市に凱旋パレードを見ようと集まったのは、総勢30万人。労働争議に揺れる炭鉱の町が、ひととき歓喜にわき返った。
決勝戦は、三池工業対銚子商業(千葉)で、6万もの大観衆があつまった。
一塁側アルプススタンドは大漁旗が何十本と翻り、「大漁節」で盛り上がる。三塁側はヘルメットにキャップランプの鉱員が調子づいていた。
そして炭鉱町の無名の初出場高・三池工業が2-0で銚子商業を破り、全国制覇を成し遂げた。
さて、当時の三池工業の監督の監督といえば現・巨人監督・原辰徳の父原貢である。三池工の監督に就任は1959年。
当時の三池工は全国どころか、地元大牟田地区でも全くの無名チームであった。
当時の野球部長が野球部強化のために優れた指導者を求めて、大牟田の大企業の野球部長に相談し、そこで紹介されたのが原貢であった。
原貢が監督に就任した当初はせいぜい3回戦どまりで限界を感じたのか、有力中学生のスカウトに乗り出した。
地元で「中西2世」と言われた中学生・苑田聡彦を口説き落として獲得した。
この時、他にも投手・捕手を補強して快進撃したが秋の福岡県大会は決勝で博多工に6-4と敗れている
しかしこの苑田が全国区のバッターでプロのスカウトが何人も試合に訪れるという大注目を浴び、有力中学生が三池工に進学した。
そして彼らが後に全国制覇を達成するメンバーとなっていく。
当時の原貢史の指導はまさに絵に描いたようなスパルタ指導で、集中力を欠いたプレーをしたら殴り、怠慢プレーしたらバットで殴りつけた。
エース上田は、鬼監督原貢について、「この監督を見返してやろうと。そうせんと、しんどいばかりだった」と語っている。
しかしそのシンドサはグラウンドの上ばかりではなかった。
三池工業の優勝から遡ること5年の1960年、炭鉱労働者が合理化に対抗した三池争議で街はふたつに割れていた。
エネルギー源の重油への転換に伴う人員整理に端を発する三池闘争が、労組の分裂で激化。議会から同じ社宅の家族同士までが、いがみ合った。
そして三川鉱炭塵爆発の大惨事。家族が、事故や解雇の犠牲になった部員もいた。
なんのシガラミもない高校野球だったからこそひとつになれた部分もある。
実際に、優勝の2日後に三池炭鉱は史上最高の出炭量を出している。
ちなみに、三池工業高校のエース上田卓三は南海ホークスに、銚子商業のエース木樽正明は東京オリオンズ(現ロッテ・マリーンズ)に入団している。
上田は中継ぎリリーフが多かったが、木樽は先発ローテーションの一角を担った。
「中西二世」といわれ広島カープに入団した苑田聡彦は、法政大学の山本浩二の入団とともに内野にコンバートされ出場機会を失い退団している。
三池工業から東海大相模監督となった原貢は1970年にも全国優勝を成しとげた。2014年5月にニュースで訃報が伝えられた。享年78。
さて今年の「軟式」野球大会決勝戦は、中京・崇徳という高校の軟式野球チームだった。
客観的資料もないままの個人的推測だが、彼らは地元球児の野球チームだったらキット硬式野球の選手として活躍できるくらいの実力がある選手だったかもしれない。
しかし硬式チームは他県からも有力選手が集められたため、軟式野球チームにはいった選手が少なからずいたにちがいない。
つまりこのたび準決勝を戦った中京や崇徳の軟式野球チームにこそ、本来の高校野球の姿があった。
それも、感動を与えた一因ではなかろうか。
さて、自分にとっての「夏のリゾート」は松山商業と三沢高校の試合だが、あの時代、家庭用ビデオが普及しておらず、「あの試合」のことを何度も反芻したため自然に心の奥に映像として焼き付いてしまった。
また、当時の三沢高校ではこの歴史に残る試合を記念して、出場選手達の「顕彰碑」を建てようという動きが起こった。
しかし、当時の校長はこの碑に野球部員たちの「名を刻む」ことに反対した。
すなわち彼らの栄光を永遠化するような「重荷」を彼らに負わせたくないという名配慮だった。
ほとんど映像に残らず、名も刻まれない試合、それがあの試合を夏のリゾートにした。