人生の入れ替わり

「人生劇場」という物語があったが、最近では人生が劇場ではなく「実験場」のように見えることがある。
実験室以外ではあってはならないことが起きているという意味である。
IPS細胞の山中教授はノーベル賞受賞式で「どんどん失敗しなさい」と語ったが、これは理系の研究者の発想だと思う。
人生は失敗したら取り戻せない「再生不能」の要素が大きい。
社会科学とて普通「実験」などというリスクは犯せない。アベノミクス当初「リフレ派の学者の実験か」といわれたが、今後「異常金融緩和」の出口をどうするかはとても大きなリスクをともなう。
人生においてヘタな実験はとりかえすことのない結果を生むからこそ、人々はフィクション上での「人生実験」を楽しむのである。
例えば、三浦綾子さんのデビュー作「氷点」という物語は、自分の娘を殺した殺人犯の娘を知らぬ間に育てるという想定で「汝の敵を愛せるか」と問うた。
NHKテレビドラマの「八日目の蝉」は、不倫相手の子をおろした女性が男の子供を連れ去った時、母子にどんな絆が生まれるか、連れ去られた側の家族は回復するかという「実験」のようなドラマであった。
実の人生であったらいけないことといえば、人と人とが「入れ替わる」ことである。
古くは王様と乞食とが入れ替わる「王様と乞食」という物語があった。
サスペンスでは、アランドロンの「太陽がいっぱい」は、貧しい青年が富かな青年にマルゴト入れ替わるという完全犯罪だった。
最近の日本映画でも、映画「犬神家の一族」では、二人の男が復員船の中で入れ替わったし、「永遠のゼロ」においても、出撃直前に飛行機を「入れ替わった」ことで生者と死者が入れ替わった。
最近、フィクション上で「実験」のように描かれた人生が、現実のこととして起きていることを見聞きする。
例えば、ある芸能人が自分の子供のDNAを調べたら、自分の子供ではなかったことが判明したというニュースがあった。
さてその時、夫婦や親子の絆は一体どうなるのかという気持ちでことのナリユキをみる。
はからずも人生が「入れ替わった」たケースは冤罪事件といえるかもしれない。
無罪のまま40年以上も刑務所に入れられた袴田さんというのは、結局人生を真犯人と「入れ替え」られたに等しい。
人生の「再生不能さ」を痛切に思わせる出来事である。

「戸籍」というものは人間の存在証明といってよいものだが、戸籍を売ったり、抹消された人の話というのを聞いたことがある。
戸籍を売る人というのは、身寄りもなく知り合いもおらず飯場で生活をしているような人のところに、見知らぬ人から数万円で「戸籍」を売ってくれないかともちかけられる。
残り少ない人生、別に戸籍を売っても差しつかえないとわりきって売ってしまう。
もちろんその戸籍が何らかの違法行為や犯罪に使われるのは承知の上である。背後には、闇でパスポートの偽造をやっているような組織がある。
以前、福岡県大刀洗町で陸軍中野学校出身の老人と会ったことがある。
中野学校は帝国陸軍のスパイ養成所のことで、老人は中野学校に入った時点で戸籍から「抹消」されたのだそうだ。
そして戦後は「別の名」で生きてきたという。
中国は一人っ子政策であるめに、存在しないはずの「黒孩子」が話題になったことがある。
こんなこと日本では起きようもないと思っていたら、最近「戸籍がない」人が増えているらしい。
戸籍がないということは、「法律上」存在しない人間なのだ。
どうしてそういう事態になったかというと、DVで苦しんだ女性が夫と離婚できぬまま隠れて暮らし、新しいパートナーとの間に子が生まれたような場合である。
この場合その子は戸籍上「夫の子」となるために、カップルは「出生届け」を出さないケースがあるという。
この子達は、法律上存在していないことになっているので学校にもいけないし、保険の適用もないので病院にもかかれない。
第一に「自分が誰なのか」をさえ客観的に証明することができないのだ。
昨年、6年間育てた息子が病院で取り違えられた他人の子どもだと分かった2組の夫婦を描いた映画「そして父になる」があった。
この映画が上映されたと同じ頃、映画と同じような出来事が、実際に起きていた。
東京・江戸川区の60歳の男性は、60年前の昭和28年、生まれた病院で別の赤ちゃんと取り違えられたとして、病院を開設した東京・墨田区の社会福祉法人「賛育会」を訴えた。
東京地方裁判所は、DNA鑑定の結果から、東京の男性が60年前に病院で「取り違え」られていたことを認め、3800万円を支払うよう命じた。
ではなぜ取り違えが起きたか。
判決文からその経緯を見ると男性は昭和28年3月の午後7時17分に生まれた。
この病院では、生まれた赤ちゃんにはすぐに足の裏に母親の名前をひらがなで記入し、名前が書かれた「バンド」を手首か足首に取り付ける。
男性が生まれた13分後の午後7時30分に、同じ病院でもう1人の男の子が生まれた。
同じ時間帯に生まれて間もない2人の男の赤ちゃんが病院にいたことになり、どの時点で取り違えられたかをはっきりとは特定できなかったものの、DNA鑑定の結果取り違えは明白となった。
生前「産着がちがうことに違和感を覚えた」という母親の話を聞いていた実の弟らは、両親の死後、顔や性格が全く似ていない「兄」とされた男性との血縁関係を疑うようになった。
そして家庭裁判所でDNA鑑定が行われ、「兄」とされた男性とは「血のつながりがない」ことが4年前に分かったのだという。
そして、弟たちは裁判所に病院の記録の検証を申し立てたり区や法務局に問い合わせたりして、ようやく「兄」である男性を探し出した。
この実の兄をAさんとして、兄と取り違えられた方をBさんとしよう。
Aさんは、取り違えによって全く別の人生を余儀なくされていた。
男性が育った家庭では父親が幼いころに亡くなり、母親が3人の子どもを育てていて、経済的に厳しかったという。
家族4人が6畳のアパートで生活し、当時普及しつつあった家電製品が何一つないという状況であった。
男性は家計を助けるために中学を卒業するとともに町工場に就職し、働きながら定時制の工業高校を卒業した。
一方、実の家庭は経済的に恵まれた環境であった。
両親は教育熱心、実の弟たちはいずれも私立高校から大学や大学院に進学している。
判決は「生育環境の格差には歴然たるものがあった。男性は実の両親のもとで経済的にも不自由なく育ち、望みさえすれば大学での教育を受ける機会を与えられるはずだった」と指摘している。
Aさんは都内で会見に応じ、「実の親にも育ての親にも感謝」と語った。
しかし無念にも実の両親はすでに亡くなっていた。
実の両親の写真を見てできれば生きているうちに会いたかったと思って涙が止まらなかったと述べた。
とはいえ60年前の赤ちゃん取り違え事件は、間違えられて裕福な家庭で育ったBさんの方も被害者であるのちがいない。
しかしBさんの声はきこえてこない。
何しろ長男として親の会社を相続しているので、傍からみて幸運ともいえそうだが、果たしてAさんのように「生んでくれた親にも、育ての親にも感謝」という言葉はでるだろうか。
何しろ「赤の他人だから」という理由で相続権を失い、会社も取り上げられるだとしたら、それどころではないのかもしれない。

人生の「入れ替わり」ほどでなくても、プチな「入れ違い」のようなことは起きるものだ。
つまり、ある分岐点で別の道を進むかもしれなかった人生の「掛け違い」のようなものである。
韓国のフィギュア・スケートのキムヨナ選手は姉と共にスケートに励むが、家計が苦しくて姉の方は母親から突然選手を辞めてくれといわれる。
そして母親はフィギュアスケートの韓国代表となった妹とつきっきりとなるが、姉は妹のスケートのために自分の夢を断念して看護婦になる。
テレビで見る限り姉は全く不満を言わずに、父親の世話や家の事も担当し、妹のためにがんばっているかんじであった。
さて我が地元・福岡には柔道の古賀兄弟がいる。
この兄弟の道筋を分けたのが、全日本柔道選手権だったかもしれない。
古賀稔彦とその兄・元博は、鉄工所を経営する父親のもと、年少の頃より柔道をはじめる。
二人が所属した佐賀県の鳥栖少年クラブは全国大会に出場し、稔彦が先鋒、兄が大将をつとめ見事優勝の栄冠に輝いた。
少年時代の稔彦にとって兄・元博は強く光り輝き、何をしても勝てなかったという。弟は、その兄に追いつけ追いこせと毎日練習に励んできた。
しかし、弟は次第に兄にとって脅威となっていく。
そして兄弟にとって避けては通れない時がやってきた。1985年秋、全日本体重別柔道選手権大会決勝である。
会場の観衆は、古賀元博・古賀稔彦兄弟の戦いを固唾をのんでみていた。
古賀元博氏は弟・稔彦氏との決勝での闘いを次のようにふりかえっている。
「私は、体内のすべてのエネルギ-をふり絞って逃れようとした。懸命に私の関節をしめあげようとする稔彦の鼓動が聞こえる。一本、という審判の声だけが微かに聞こえた。負けたんだ。その夜、私は一人で泣いた。悲しかったからなのか、嬉しかったからなのか私にもわからない。ただ言えることは、稔彦が私を超えたこと。そして、もう何も教えることがなくなったことだ」と。
そして兄の元博氏は、福岡県県立高校の体育の先生として柔道の指導を長年されているが、あの試合の勝敗如何では人生が入れ替わっていたかもと思わぬではない。
次に実業界における人生の「掛け違い」である。西武鉄道の創業者・堤康次郎は「ピストル」とも渾名され、相当にヤバイこと強引なこともやって一代で財をなした。
戦後の皇室領を買い漁って、ホテルを建て政界にも進出して衆議院議長もつとめた。
ホテルにプリンスホテルという名を付けたのは、ホテルの敷地が元皇族の土地という一等地に立つことを示したかったのだろうか。
ところで、堤康次郎氏の「妾の子」といわれた堤清二氏は、堤康次郎の繊細で情緒的な部分を受け継いだ人のように思える。
清二氏は大学に入るまでは父親の後継者として考えられていたが、終盤にさしかかった父親の人生をあたかも「糾弾」するかのような歩みをするようになる。
つまり何人もの妾をつくり、異母兄弟が多数存在する一族の姿に嫌気がさし、東大在学中に共産党に入党し、左翼運動に身を投じた。
しかしこの「不肖の息子」はやがて肺結核を患い、政治運動からも身を引いた。
そこで父康次郎は、清二氏の弟でまだ高校生だった義明氏に自分の後を継ぐことを願い、息子の前に土下座して頼み込んだという。
清二氏が病気から回復した時には、後継者は弟義明に決定しており、清二氏は当時二流であった西武百貨店の書籍売り場の担当からその働きをはじめる。
清二氏はやがて28歳で西武百貨店の取締役となり、西部鉄道グループでは傍流であった百貨店事業を任される。
西武グループの本流は、弟の義明氏が担うことになり、1964年に父康次郎が死去すると、西武グループの資産を弟・義明が全て相続する。
しかし渋谷でパルコを中心に再開発した堤清二氏は、一時は時代の寵児ともなる。
しかし清二氏が創立した「西部環境開発」は、その経営領域において弟義明氏の「国土開発」とバッティングしたため利益率は低く、バブル崩壊によって清二氏はグループのトップから去る。
一方、弟義氏明の方も、2005年インサイダー取引で証券取引法違反の判決を言い渡され、控訴せず判決どおり有罪が確定している。
ところで堤清二氏は「辻井喬」というペンネ-ムで知られる作家でもあった。
辻井氏の「虹の岬」は、トップの座を目前に住友を去った一代の歌人川田順と、京大教授夫人との恋愛ものであった。
この小説は、財界人としてトップを走る人生と、趣味人として心豊かにいきる人生のコントラストをしめし、ある時期の堤兄弟の二人の生き方を重ねているようにも読める。
さて、芸能界でインパクトの大きい人生の「掛け違え」は、ケーキ屋ケンチャンで知られる宮脇健氏とその陰にいた兄のことが思い浮かぶ。
今や60歳に近い宮脇健氏は、40年ほど前はブラウン管では「日本一」幸せな子(役)だったが、実の家庭はスッカリ崩壊してしまっていた。
ブラウン管の背後では、ケンちゃんに付き添って朝から晩まで世話をする母親がいた。
日本一有名な息子を持った父親は教師業のかたわら、広報活動に精を出していた。
そして、全く家族から忘れ去られた感のある「実の兄」がいた。
時の経過と共に、家族はジワジワと崩壊していった。
父の浮気と両親の離婚、兄の自殺未遂、多額の借金に自宅も手放すアリサマとなる。
何かが少しずつ狂い始めていくのを感づきながらも、ケンチャンは殺人的なスケジュールをこなしていった。
ケンちゃん自身も今では想像も付かないほどの「大スター」扱いに正常な感覚を失っていった。
数十万円のお小遣い、気に入らないスタッフをクビにする、ロケでホテルのVIPルームに宿泊するなどし、現金でベンツを買いに行くこともあったという。
思うに、宮脇家の実際の姿を描いた「裏けんちゃんシリーズ」でも、結構視聴率が稼げたのではなかろうか。
それでもある意味、ケンちゃんは「幸運」だった。そして「偉く」もあった。
それは自分の生活の異常さに気がつくチャンスが与えられたからである。
子役から大人の役になると、誰も相手にされなくなり、仕事もなくなった。
山のような借金をかかえ、転職も35回以上したが、結婚し平凡な家庭の生活に帰ることができた。
つまり人生帳簿に「黒字」をつけられるメドがようやくタッタということだろう。

先進国で幸福の度合いが低い国のひとつが日本である。
戦争もなく物質的に豊かな日本人が、なぜ幸福を感じられないのか。
いま心理学や脳医学などさまざまな分野の学問を融合し、幸福のメカニズムを科学的に研究する「幸福学」が注目されている。
最近では、ハッピーな人をつくることが企業の業績や町の活性化に繋がるということで「幸福の研修」なんてものが行われているという。
今年1月にあった「白熱教室 幸せの処方箋」はなかなか興味深かった。
この番組で講演をしたエリザベス・ダンという女性教授によると、そして幸運と幸福、不慮の事故についてあまり「相関がない」のだという。
幸運ということでスグニ思い浮かぶことは、「宝くじ」が当選することだが、アメリカのブラウン教授によると、宝くじに当って以前より生活の状態がよくなった人は少ないのだという。
また「不慮の事故」の場合、夫が亡くなった直後の未亡人は幸福度が一機に下がるが2年もすれば回復し、それ以降はむしろ夫がいた頃の生活を上回る幸福度を示している。
またGNPと幸福度を研究したら、高度経済成長がはじまる1950年代の終わりぐらいから、日本人の幸福度はずっと「横ばい」なのだという。
こういう結果からドストエフスキーの小説「貧しき人々」の中で語られた「人間は、いかなることにも馴れる動物である」という言葉を思い浮かべる。
人間は幸せにも不幸にも慣れて、リッチもプアも、そんなものかと特別なものと思わなくなるのかもしれない。
エリザベス教授によれば、様々なデータの中から幸福な人の共通の「3つの要素」を見出すことが出来るという。
それは「人との交わり」「親切」「今ここにいる」ことの3つだそうだ。
人との交わりは内向的か外交的かに関係なく、ほんの少しでも人と関わることで幸福を感じられるものだという。
また「親切」は「感謝」と置き換えられる。
人に親切にする人は、同時に自分の中で感謝の気持ちを増すのだそうだ。そして「感謝日記」を付けた人は驚くほど幸福感が増したのだという。
最後に「今ここにいる」は、目の前のことに集中することである。
不愉快な事を考えれば幸福感が減るし、楽しい物思いであっても、今この瞬間にいることにはかなわない。
目の前のことに集中してやることが、振り返ったときに幸せだったと感じられるらしい。
人生の入れ替わりや掛け違いは我々に「幸せとは何か」と問うているようにもみえる。
そして、幸せのレシピというものは案外とシンプルなものなのかもしれない。
そこでロシアの文豪トルストイの言葉を思い浮かべた。
「幸福の顔はひとつだが、不幸の顔は様々である」