国の格づけと外交

今、アメリカを中心とした太平洋地域の安全保障秩序に中国が喰い込んで緊張が高まっている。
日米関係に着目すれば、岸首相は「片務的」であった安保条約の改定をめざし、中曽根首相は日米関係を「同盟関係」とし、安部首相は集団的自衛権行使により日米関係の「対等化」をめざしているようだ。
こうした流れを「良い方」に解釈すると、国際社会における日本という国の格付けをあげようという努力なのかもしれない。
つまり、いつまでも「小国」の立場に甘んずまいということのように映る。
今、客観的な国の「格付け」基準ナンテものはないが、古く中国と周辺諸国との関係では、ある種の「格付け」がおこなわれていたように思う。
中国は古代において、世界の中心でオレがオレがと叫んでいるがゴトキ世界観を抱いており、周辺の国は定期的に貢物をもって中国の皇帝に服従の意をを示してきた。これを「朝貢交易」という。
日本の邪馬台国にせよ、博多の奴国にせよ貢物をもって中国に挨拶にいっていったのである。
そのかわりに、中国皇帝お墨付きの「国王」として認められたのである。
そのシルシが志賀島で見つかった金印である。
現在、中国と領土問題で対立している海域の国は、日本にせよベトナムにせよ、かつて東アジアには中国を宗主国とした「華夷の秩序」に組み込まれていた国々である。
ただし、飛鳥時代の推古天皇のように、中国との「対等化」をめざした時期もあった。
推古天皇(聖徳太子摂政)のもとで派遣された小野妹子(遣隋使)が「日昇るところの天子より、日没するところの天子にいたす」という国書を渡すと、隋の皇帝・煬帝はの激怒したといわれている。
一般には文面の「日昇る」と「日没する」が煬帝を激怒させたとみられがちだが、ムシロ「二人の天子」の表記の方に問題があった。
中国からすれば、「華夷の秩序」の中で、二人の天子はいらなかったということだ。
その意味で、日本は「華夷の秩序」とは独立した小世界の存在を中国に示したことになる。
そこまでいかないにせよ、日本が中国中心の東アジア秩序に何らかの抵抗を示したことは確かである。
そして中国(天子)からみた周辺諸国の「格付け」が、周辺諸国同士の関係にも微妙な影をなげかけることになる。
さて、こうした秩序など完全無視したのは鎌倉時代の執権・北条氏で、中国・元の国の使者をコトもあろうに、切り殺している。
これが元寇を招いた一因だが、元軍(モンゴル軍)といっても、南宋や朝鮮(高麗)の兵力が主力であったので、日本と中国と関係の亀裂は相当深いものがあったといえる。
この日中間の亀裂をなんとかカバーできたのは、それ以前の平安時代に日宋貿易の隆盛があったことや、元との間でも「私貿易」は相変わらず続いていたことがある。
そして室町時代になると、亀裂修復のためか足利義満は中国中心の秩序(冊封体制)に入ろうと「日本国王臣源」を名乗っている。
それでは朝鮮との関係はどうであったろうか。何しろ豊臣秀吉の「朝鮮出兵」により日朝間の亀裂は中国との関係以上に大きくなっていた。
元寇や朝鮮出兵というアジアと日本人の「過去の怨念」をどう克服するかは、現代日本の外交とも通じるものあると思われる。
そして朝鮮との関係の修復は、豊臣方を倒して将軍となった徳川家との間でなされた。
豊臣秀吉の朝鮮出兵により日朝関係はとても傷ついたが、江戸時代に朝鮮から通信使を将軍の「代替わり」ごとに日本におくることにして友好関係をつくり、対馬を窓口として日朝間の貿易もさかんに行われるようになっていった。
1607年には総勢504名の朝鮮使節が徳川秀忠の二代将軍就任を祝って江戸にやってきた。
この使節は駿府へも立ち寄り、家康を表敬訪問している。そして1609年に「己酉条約」が結ばれて交易が再開する。
初期の通信使は日本側に朝鮮侵略の意図がないかという偵察の意図もあったと推測されるが、日本側の歓待により、そうした警戒感も薄らいでいったようだ。
なにしろ朝鮮文化は源流・中国に近いものであるために、学ぶべきものが多くあった。
使節がとまる宿舎周辺には多くの人々が出入りして、儒学や医術などを多く学んだことが通信使側の記録によってよくわかる。
ただ豊臣秀吉の朝鮮出兵以前は三港において日本との貿易をみとめていたが、それ以後は釜山一港に限られ、日本の貿易商人の居住地も「倭館」だけに限られて、しかも厳しい監視下におかれて勝手に居住地から外へでることは認められず、実際に漢城(ソウル)にまでいった日本使節もなかった。
この点は、朝鮮出兵の傷いまだ癒えぬというころであった。
そして幕府は鎖国政策のなか日朝貿易は例外的に対馬藩を窓口にして認める一方で、対馬藩の存亡は朝鮮貿易に大きく依存していた面がある。
対馬藩・家老による「国書改竄」など危険な賭けにでることさえもあった。
つまり日本の朝鮮への「従属」を意味するような内容に書き換えたりして、実際それが発覚もしたのだが、朝鮮との交易が止まるまでには至らなかった。
幕府も、日朝貿易の利益(間接的には日中貿易の利益)の大きさを認識していたからである。
朝鮮使節の派遣は12回であるが、そのうち1655年以降は、新将軍の就任慶賀のためで、使節は時に江大阪から江戸まで壮麗な行列をなし、時には家康を祭る日光に参詣までもいったのである。
それは、徳川幕府には中国中心の「冊封体制」とは違う小秩序の中心としての威信を見せる意味での一大イベントであったのである。
一方、朝鮮側は、面接などを行って、知性・ルックスの水準の高いものを選び「派遣の品格」を少しでも高めようとしたのだが、通信使派遣が日本優位の国内向けパーフォ-マンスであるとは百も承知であったと思われる。
ただ、日本の徳川将軍は足利将軍とちがい中国の冊封体制にはいっておらず、つまり中国皇帝のお墨付きのない将軍であったために、朝鮮は将軍のことを「国王」ではなく一段低い「大君」という言葉であらわしたのである。
朝鮮通信使の受け入れまたは処遇の問題は、ソノママ日本という国の格づけの問題でもあった。
そして、そういう日・中・朝、間のグレイ・ゾ-ンのなかで、朝鮮通信使との対応をせまられたのが、6,7代徳川将軍に仕えた新井白石という人物である。
そして新井白石は、将軍もしくは日本国の中国が中心の東アジア社会における地位向上を目指した点で、冒頭で紹介した現代の三人の首相が直面した問題と一脈通じるものがあると思われる。

さて、江戸時代の朝鮮通信使の往来の行程には、通信使と沿道の日本人との交流を物語る数多くの痕跡がある。
通信使との交渉の窓口は対馬藩の宗家が一手に引き受け、釜山からやってきた李王朝の特使一行を宗家の役人が先導して江戸へのぼった。
長崎県対馬では毎年8月に日韓の市民らが参加して通信使行列を再現した「アリラン祭り」が開かれている。
通信史が江戸へむかう道中では沿道の大名が負担した。大坂までの道中を、福岡の黒田藩、山口の毛利藩、広島の浅野藩、岡山の池田藩の順で、通信使達は過分な接待を受けながら江戸へ上った。
諸藩は幕府への手前、最大級のもてなしを行い、また他藩との対抗上、その接待には殊更に力をいれたのである。
たとえば広島県蒲刈島ではキジ・カモのスキヤキ風、アワビの煮物などの本膳の最高料理でもてなした。
当時の朝鮮通信使は、500名ばかりの行列を組んで福岡の相島、下関、瀬戸内海そして、陸路・大阪から江戸へとむかうが、大名間のあまりの「接待競争」のエスカレートと幕府の礼をつくした接待に財政負担はましていた。
そこで待遇の簡素化により、幕府財政の健全化につとめたといわれている。
さて、新井白石は江戸時代に「正徳の治」という一時代を築いた政治家であるが、儒学者であったことから、個人的には温厚篤実な人物というイメージを抱いていた。
しかし、1657年の江戸の大火の直後に生まれたことから「火の児」とよばれ、その名にふさわしいほど激しい性格だったそうである。
それを表す一面は、屋久島に流れ着いた外国人を江戸で自ら尋問して「西洋紀聞」などという本を書いている。
しかし外国人からあれだけの情報を引き出したというのは、当時の西洋研究のありようとからすれば、何か鬼気せまるものがあったのではないかと推測する。
それではその鬼気がどこからくるかというと、一つは、同じく徳川家宣に仕えた間部詮房が、能役者あがりでありながら「側用人」として重要視されたのとは対照的に、学者あがりの白石はあくまでも「無役」であり、せいぜい「相談役」という位置づけしか与えられなかったことと関係しているかもしれない。
さて、新井白石が直接に関わった朝鮮通信使の待遇は、幕府側(白石側)、朝鮮側、そして窓口となった対馬側の様々な利害や思惑が錯綜して、それ自体が興味深いものである。
日本の将軍が朝鮮「国王」よりも一段低い「大君」など、「火の児」白石にすればナントモ許すことはできないものではなかったろうか。
そこで、新井白石がやったことは、自らの将軍の威信を高めるために、衒学者的言辞を弄してまでも、通信使に将軍を「国王」と呼ばせることに成功したうえで、さらに朝鮮使節接待の「簡素化」というのもやった。
これは、日本側も朝鮮に対してそこまでする必要ないということを態度で示したということではなかったか。
以上のような白石外交に対して、天皇をこそ「国王」とよぶべきであり、将軍を「国王」とよぶなど、天皇を蔑ろにしたという批判もあった。
しかしその批判をかわす意図もあってか、天皇の皇子達が宮家が不足して僧籍にはいらざるをえないところに、予算(石高)をつけて「閑院宮」なる家を創設したりもしてもいる。
また朝鮮使節が日本に来た際には、日本の学者などと漢詩の創作競争が行われたが、白石は漢詩創作の上達をめざして、その修練には余念がなかったといもいわれ、これも「火の児」の一面であったかもしれない。
さて、我が地元・福岡にはその行程のひとつである相島が新宮町沖に浮かんでいる。
相島では近年、通信使の接待料理を八種類からなる和風フルコースで再現している。
主な食材は近海から集めた広島のタイ、博多湾の鯖、古賀町のコイやフナ、長崎県の豚肉などである。
個人的に2005年の夏、この「有待邸」の跡を尋ねて相島を訪れた。
相島の山道を港から30分ほど登ったところに有待邸跡を示す石碑が一応建っているが、「有待邸」の場所は、諸説あり実際にはよくわかっていないらしい。
通りかかった軽トラックの運転手に道を尋ねたところ、荷台に目指す場所まで乗せてくれた。
その時ガイド本を荷台に置き忘れてしまったが、帰りに渡船場にいくとナントその本が切符売り場に届けられていたのである。
相島は新宮の渡船場からわずか15分で着く小島であるが、福岡の市街では感じることのできない人情にふれることができた。
ところで朝鮮通信使の影響は、博多の町に残っている。博多祗園山笠の「青道旗」は実は朝鮮通信使先頭の旗と同じものなのである。
福岡から瀬戸内に目を向けると朝鮮通信使との交流あとが広島県・岡山県・滋賀県には多く残っている。
広島県・尾道の千光寺、福山鞆の浦の福禅寺、岡山県・牛窓の本蓮寺などは通信使の客館として利用された。
牛窓における厄神社の秋の祭礼(10月24日)では、少年が異国風の衣装をつけて踊る唐子踊が催され、その踊りは通信使がもたしたものといわれている。
また本蓮寺の下にある海遊文化館に朝鮮通信使資料室があってVTRで唐子踊が見られる。
滋賀県の「朝鮮人街道」は野洲から鳥居本まで、つまり中山道を野洲で左に折れ、鳥居本でまた合流する道で、井伊氏が通信使一行を歓迎するために特別に琵琶湖沿いに切り開いた道である。

戦後、日本の格づけを変えた場面があったとするならば、それは外交努力や政治力などではなく、日本が世界にむけて作った、精巧で故障しない日本製品ではなかったであろうか。
「メイド・イン・ジャパン」の浸透こそ、日本という国家の格をも高めたといえる。
ただ1980年代の「集中豪雨的輸出」は欧米で「反日感情」を高めた局面もあった。
しかしいまや、グローバル企業とはいえ、中国や韓国も日本と同じレベルの製品をつくっている。
というわけで日本のある政治家達には、国家の格あげには経済力にたよるばかりではいられないという思いもあるだろう。
最近はあまり聞かなくなったが、第一次安部内閣の際には、首相の「戦後レジームからの脱却」という言葉があった。
戦後レジームとは戦後に出来上がった政府の体制や制度である。
現代の日本では主に、太平洋戦争での日本の降伏後、出来上がった日本国憲法を始めとする法令・政府・国体を意味する言葉として使われている。
安倍首相によって進められている「戦後レジームからの脱却」とは、今の日本の基本的枠組みの多くが時代の変化についていけなくなったことから憲法改正をはじめとした改革を行うという事である。
その日本の戦後レジームを作ったのはアメリカなのだが、アメリカはこのたびの安部首相の靖国参拝につき不快感を露わにした。
さて、中国人の死生観は、日本人の死生観とは根本的に違っている。
日本では、人間は誰も死によって罪を逃れるが、中国は人間が亡くなっても罪は罪で、決して消えるようなことはナイ。
例えば、日中戦争で日本政府と組むことによって彼ナリニ和平を追求した汪兆銘は「売国奴」として、手を後ろでに縛られ頭を垂れる像が作られ、中国の観光客はソノ像を棒で突っついたり、ツバを吐きかけたりもする。
中国人の精神は、死後まで人を責めない日本人特有の「鎮魂」の精神風土とカナリ隔たりがあるようである。
また、中国人は人が亡くなると魂になると考える。
したがって、靖国神社には「好戦の魂」が漂っていて、靖国神社に参拝すると、再びソノ「好戦の魂」が蘇って、日本人は再び戦争を起こすのではないかと考えるのである。
一方、日本人の祈りの方向性は「安らかにお眠り下さい」なのである。蘇って欲しくないのである。
鎮まってほしいからこそ、「英霊」として重きをおいてナダメルのである。
しかし安部首相が「公式参拝は不戦の誓い」といっても、文化の深層に関わる部分で、なかなか理解されない面が大きい。
そして今この問題に対する、中国の対応は世界記憶遺産の申請にまで表われている。
世界記憶遺産には、正の遺産と負の遺産がある。ホロコーストに関するイスラエルの申請は「負」で登録された。
中国が申請しているのは、南京大虐殺の記録と従軍慰安婦に関する記録だという。
今、中国には、自国の正の遺産に光を当てることよりも、敗戦国日本の負の遺産を世界に知らしめることの方が「優先」するのだろうか。
ちなみに日本では4件が名を上げている。「全国水平社」「知覧特攻隊の遺書」「シベリア抑留者引揚げ」「東寺百合文書」などである。
またアメリカにおける韓国社会の要求で、アメリカのある州の教科書では、日本海と「東海」を併記するように求めてそうなったし、アメリカの各地で「従軍慰安婦像」が建てられている。
最近のニュースによれば、日本が少子化により労働人口が減り、外国人労働者なくしてはたちいかなくなっているようである。
あまり国際社会における「格」になんてものにこだわりすぎると、この国自体がガラパゴス化して、外国人が住みにくい国になりそうな気配もある。
緊迫するアジア情勢のなかで、今のところ求められるのは国家の理想の追求などではなく、理想と国益とのバランスをはかるということではないだろうか。