ウクライナの危機

今年は、第一次世界大戦「100周年」にアタルが、その年に、第一次世界大戦と「似た状況」が起きているのは、何かのイタズラのようだ。
それは1月下旬に安部首相がダボス会議で、「日中関係」を第一次世界大戦前の「英独関係」になぞらえた、あのニュースをさすものではない。
第一次世界大戦は、ギリシアが南端に位置するバルカン半島に位置するセルビアのスラブ人の民族主義運動とそれを阻止しようとするオーストリアの間に起きた戦いに端を発する。
その戦いの構図に似た状況が生まれているということである。
今、ウクライナ共和国内のクリミア自治国でのスラブ人の分離・独立運動に乗じてのロシアの軍事的侵攻に対し、アメリカやEUは制裁を課してこの動き「阻止」しようとしている。
そして我々が「歴史に学ぶ」ことがあるとするならば、第一次大戦が起きた1914年当時の「雰囲気」というものもあろうが、戦争は「不可避」だったわけではなく、ヤハリ各国指導者の「情勢判断」に大きな誤りがあったということだ。
周知のように第一次世界大戦は、セルビアの一青年がオーストリアの皇太子を狙った「一発の銃弾」から始まる。
それからワズカ一周間で戦火はヨーロッパ全土に広がった。
「一寸先は闇」という言葉がコレホドあてはまる事例はあまり知らない。
では、どうしてこういう事態に至ったのか。
第一次世界大戦当時、名門ハプスブルク家の皇帝を戴く「オーストリア帝国」というものが存在した。
そして1989年以降の「冷戦終結」は、或る部分で世界を第一次世界大戦当時に「引き戻す」動きでもあった。
ソ連という共産主義から自国を守るために、民族を超えて融合していた国が、ソ連崩壊により民族の対立が表面化して、再び「小国」に分裂したからである。
その時、そうした小国のカスガイのように存在した、かつての「ハプスブルグ帝国」すなわちオーストリア帝国は、今でこそ小国だが当時は多民族を抱えもつ大国であった。
ところで、バルカン半島は黒海から地中海へ出て、アフリカ・アジア・中近東へと様々な利害が交錯する「地政学的」な重要拠点である。
この地域には6~7世紀ごろよりスラブ人が住み着き、ボスニアやセルビアといったスラブ人の小国が存在していた。
ちなみにセルビアの名は「南スラブ人」を意味する。
当時、オスマントルコがバルカンを支配していたものの、もはや「死に体」に近く、オーストリアはオスマントルコの弱体化に乗じてバルカンへの進出をねらい、オスマントルコ領の「ボスニア」を青年トルコ党による「革命」の混乱に乗じて「併合」していた。
このため、隣国の同じくスラブ人の国セルビアでは、「反オーストリア」の民族主義が高揚していった。
そればかりかオーストリアの領内にも、スラブ民族を含む多様な民族が同居しているため、隣国セルビアの民族主義の高まりには、警戒を強めていた。
そんな折の1914年6月28日、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナンド夫妻が、併合したボスニアに駐屯するオーストリア軍の陸軍演習を「閲兵」するために訪問したのである。
セルビアからすれば、皇太子夫妻は「オーストリア専制主義」のシンボル的存在であった。
そして、ボスニアの首都サラエボで「一発の銃声」が響いた。
皇太子夫妻は自動車で通過中に暗殺された。そして逮捕された犯人はセルビア人の青年であった。
当時オーストリアの皇帝はフランツ・ヨーゼフであったが、皇太子との関係が悪く、その死に対して冷ややかであったと伝えられている。
しかしながら、名門ハプスブルク家の「皇位継承者」を殺されたオーストリアの世論は激昂した。
そしてオーストリアはセルビア政府に疑惑の目をむけた。
青年の背後にセルビア政府があるならば、逆にバルカンに進出する口実ともなるからだ。
調査団は証拠を見出せなかったものの、オーストリアはセルビア政府に、反オーストリアの運動を弾圧すること、およびオーストリアの裁判に関与することを求める「最後通牒」をつきつけた。
それはセルビアの「主権侵害」にもあたる「苛酷」なものだったといってよい。
セルビアは、オーストリアの要求の大半を受けいれたものの、両国間の関係は「悪化」の一途を辿っていた。
しかしこの段階で、各国の指導者が「適格な」情勢判断をしたならば、歴史の「歯車」は止められたかもしれない。
つまりオーストリアとセルビアの「局地戦」で留まっていた可能性があるということだ。
この時、セルビアのスラブ人民族主義運動をこの地域への「勢力伸張」の口実にしようとしたのがロシアであった。
ロシアは南に「不凍港」を確保すること、およびエーゲ海や地中海への航路を確保する必要あり、それが歴史的に繰り返された「南下政策」だった。
そのためには、バルカンからトルコのボスポラス、ダーダネルス海峡へのルートの確保は「死活問題」であった。
一方、サラエボの銃声後、オーストリアとともに「汎ゲルマン主義」を打ち出すドイツは、さすがにロシアも「皇太子暗殺」には批判的だろううから、ロシアが「介入」してくるはナイと安穏に構え、オーストリアの「全面支持」を打ち出したのである。
そしてオーストリアは、こうした「ドイツの支援」を頼りにセルビアに「宣戦布告」した。
しかしロシアも「スラブ人の保護」を名目にしてオーストリアに宣戦布告をしたのである。
かつてロシアはウクライナの穀物を輸出するために黒海への「南下政策」を試みて、イギリスフランスとの対立から「クリミア戦争」(1853年)に発展して破れたことがある。
何度も南下政策を頓挫させられたロシアは、今度もセルビアの「スラブ人保護」に失敗したとなると「国の威信」は地に堕ちることになる。
そこでロシアはバルカンの「汎スラブ主義」の動きに乗じてオーストリアに「宣戦布告」したのである。
ロシアが介入したとなると、同じくオーストリアにつくドイツも宣戦布告した。
そしてフランスは普仏戦争で敗れた屈辱から、ドイツの拡大を警戒して「挟み撃ち」するかのようにロシアと同盟関係を結んでいた。
そしてドイツがフランスを攻撃するためにベルギーに侵入すると、同じくドイツを警戒するイギリスもフランス・ロシア側に立って「宣戦布告」したのである。
そしてイタリアは、アフリカでフランスと対立していた。
かくして「イギリス・フランス・ロシア」(三国協商)対「ドイツ・オーストリア・イタリア」(三国同盟)という戦いの構図がヨーロッパに形成されたのである。
そして日英同盟(1902年)で「三国協商」側にたつ日本が、中国遼東半島の青島のドイツ基地を攻撃することによって、戦火は第一次世界大戦へと一気に拡大していったのである。

さて、オーストリアハプスブルク家におけるフェルディナンド夫妻について少し付言したい。
実はセルビアの青年によって暗殺されたフェルディナンド夫妻は、日本を訪れたことがあり、それは「オーストリア皇太子の日本日記」にまとめられている。
皇太子は当時29歳で1892年12月~1893年10月まで10カ月の世界旅行を行い、日本には約1カ月ほど滞在している。
旅行の目的は「世界旅行者のような素朴な好奇心からではなく異質な国民、民衆、文化、民俗についての知見を獲得し、異国の芸術を鑑賞し、さらには、汲めども尽きない異郷の自然に肌で接したい」というものだった。
しかし当時のオーストリア帝国は、すでにかつてのハプスブルク家の栄光は傾きかけており、海外進出の面でもイギリス、フランス、ドイツに後れをとっていた。
旅行の最大の目的は東アジア地域における商業上の権益の確保などオーストリア帝国の立て直しのための「視察」という意図もアッタと推測される。
実は驚くべきことに「通訳者」として、シーボルトが同行しているのである。
オーストリア皇太子一行を乗せた船が1893年8月3日に長崎に入港し、それから日本の軍艦に乗り換えて熊本に向かった。
熊本で第六師団を視察後、水前寺公園に遊びヤガテ陸路を経由して福岡に到着した。その後、再び船で京都に向かった。
京都での宿泊は大宮御所であった。それから大阪から奈良に行き春日鹿園で自ら鹿に餌を与えたりしている。その際に能や狂言を見て、京都に戻った。
京都では、桂離宮を見物して保津川を下り嵐山にて舟遊びをしている。
その後、東京に向かい箱根の富士屋ホテルに宿泊後、8月18日東京新橋で熱烈な歓迎を受けている。
そして浜離宮で休憩の後、正午過ぎには皇居に参内している。退出後は再び浜離宮へ戻っている。
その後、日光や横浜などを訪れ、8月25日にはカナダに向けて日本を離れた。
「オーストリア皇太子の日本日記」は、日本と日本人についての優れた「観察の記録」でもある。
たとえば「男性と比べれば、この民族の女性は一般的にきれいだと思う。より厳密にいえば、かわいらしいといってもよい。わたしたちが出会った女性はひとりのこらず、みんな同じタイプであった。彼女らが軽ロをたたきあいつつ微笑を浮かべて歩く姿を見ていると、まるで生命を吹き込まれた愛らしい陶製人形を眺めているような心地がする」といった具合である。
ところで、この暗殺されたフェルヂナンド夫妻は、オーストリアの「悲劇の皇妃」エリザーベトとも近い存在でもあった。
第一次世界大戦期のオーストリア皇帝はフランツ・ヨーゼフで83歳の老齢であった。
このフランツ・ヨーゼフが24歳の時に結婚したのが、「絶世の美女」といわれたバイエルン公女・エリザーベトであった。
しかしヨーゼフ皇帝は、1889年1月に皇太子ルードリヒを雪のマイヤーリングの「情死」で失い、1898年には皇妃エリザーベトを「暗殺」によって失っている。
そしてメキシコ皇帝となった弟も革命勢力による銃殺という「非業」の死をとげている。
実はその弟の子供こそがフェルディナンドだったのだ。
つまりフェルディナンドは皇帝の甥にあたり、次の「皇位継承者」になっていたのである。
エリザーベトは、伯父さんの奥さんということになる。
しかし、このフェルディナンドは伯父が望まぬ平凡な貴族の女性と結婚した。
そして伯父は保守的で無趣味な人だったが、甥フェルディナンドは「改革的」な考えの持ち主であった。
伯父と甥とは性格があわず冷ややかであり、フェルディナンド夫妻の子女には、「帝位継承権」さえ認められていなかったのである。
そして、フェルディナンド夫妻の暗殺からはじまった第一次世界大戦の最中に、フランツヨーゼフ皇帝は亡くなり、アトを継いだカールは敗色濃厚になった1918年11月に国事への関与を「放棄」してオーストリアを去った。
ここに至って、君主としてのハプスブルク家は終わりを告げたのである。

最近は多少カスミつつある言葉だが、「ドルは有事に強い」という言葉の裏側の意味は、アメリカが軍事力を背景にして「石油の確保」を強力に行っているということである。
アメリカは冷戦後も、様々な口実をつけてイランやイラクやアフガニスタンをはじめ中東諸国で軍事力を展開しているが、ソノ本当の狙いは「石油資源」の安定確保に他ならない。
つまりアメリカが石油を中東で入手し、それを「精製」し世界に売る。アメリカの石油会社から石油を買うためにはドルが必要で、中東諸国もドルで取引をする。
そういう状況を維持できる限りでは、ドルは「基軸通貨」としての地位を失わず、その特権をいつまでも享受できる。
それは「ドルー石油本位制」と言い換えてもよいかもしれない。
ところで近年、ウクライナ共和国のすぐ東方に位置する「グルジア共和国」という国が注目されるようになった。
グルジアといえばワインの発祥地で、独裁者「スターリンの生誕地」としても知られている。
グルジアは天然資源もない小国で化石燃料をロシアにたよっている。
そんなグルジアが世界の「資源戦略」において重要度を増したのは、バクーなどの一大油田を擁するカスピ海と黒海を結ぶ回廊上にあり、「石油パイプライン」が通ることになったためである。
今、バクーとシリア国境付近のシェイハンを結ぶ、全長170キロメートルに及ぶパイプラインが建設中である。
米国は、レバノンからシリア、イラク、イラン、アフガンという「親米政権」を作って、米国企業が石油とパイプラインを独占するという壮大な計画をもっている。
この地域への「親ロシア」の勢力を植えつけられることは、アメリカのそうした計画を揺さぶるものであり、易々と許されるものではない。
ところで今世界の注視をあびるクリミアは、現在はウクライナ共和国内の自治共和国である。
モンゴル系のクリミアハン国が15世紀以来支配して、現在クリミア・タタールと呼ばれる人々が住んでいた。
ところが、ロシア帝国が18世紀に併合し、セヴァストーポリを基地とする「黒海艦隊」を創設した。
そしてソ連時代、タタール人はスターリンにより中央アジアに「強制移住」させられ虐殺されたという歴史がある。
その結果、クリミアの6割はロシア系の人たちとなったのである。
クリミアは1954年にロシア共和国からウクライナ共和国に移管された。
ところが1991年にソ連が崩壊したことから、この重要な「戦略的拠点」と艦隊を失うまいとするロシアと、ロシアの「覇権主義」を警戒するウクライナの間で対立が生じることになった。
そこで、1997年、ロシアとウクライナは艦隊と基地を分割する「協定」を締結し、ロシアは基地の使用代をウクライナに支払う形で、艦隊の維持をする。
それに対してウクライナも、この協定によってロシアに対する「エネルギー債務」を相殺するというカタチで一応落ち着いた。
しかしこの協定の「延長」をめぐって対立が続き、ロシアとしてはもっと安定したカタチでクリミアを確保したいという目論見がある。
ウクライナ共和国では、ソチオリンピックと前後して、ロシア寄りに「転じた」ヤヌコービッチ大統領が辞任させられた。
そしてEU寄りの「暫定政権」ができると、クリミアのロシア系住民はロシアへの「帰属」を求める運動を起こした。
またソレに呼応するようにロシア軍が侵攻してクリミアを事実上掌握している。
ロシアは「住民投票」の結果を受けて、クリミアの「編入」を進めるカマエを見せているが、ウクライナの暫定政権は「住民投票」は憲法に違反し、認められないとして強く反発し、アメリカやイギリスはロシア軍がクリミアから即時に「撤退する」ことを要求している。
こうしたウクライナの事態を第一次世界大戦との構図に重ねると、セルビアのスラブ人民族運動を理由にしたロシアの南下と、クリミアのロシア系住人の独立運動を理由にしたロシアの介入とほぼ似かよっている。
また第一次世界大戦ではロシアの南下を阻止しようとしたのがヨーロッパの大国オーストリアであったが、今回のウクライナ危機では、アメリカやイギリスがこうしたロシアの動きを牽制している。
こうした構図の合致のせいか、サラエボの「一発の銃声」の記憶がまだ生々しく残っているように思える。
ただ第一次世界大戦と「異なる要素」としては、ウクライナが核・原子力の大国であるということである。
ソビエトの核兵器産業の中核だったウクライナは未だに15基の原発が稼働し、核関連技術やミサイル技術を保有している。
ここにおける国際的な「脅威」への広がりは、ハカリしれないということである。