時のうねりを作る人々

映画会社「日活」の創業者・梅屋正吉は明治時代1868年に長崎の米屋に生まれた。
場所柄、大陸や南洋に憧れる冒険心あふれる人物であったようだ。
朝鮮で不作の時に米を売って大もうけするが、次の年には朝鮮が豊作であったという単純な理由で借財をつくってしまった。
 日本に居づらくなり南方を歩き回った梅屋は14歳で上海にわたり、24歳の時、香港の現在のクイーンズロードセントラルで写真館「梅屋照相館」を開業している。経営は出張撮影などのサービスが評判になり、大成功を収めた。
そしてかの地で梅屋は、中華革命に挫折した中国人やそれらを支援する華僑と出会った。
 1895年に孫文の清朝打倒のための最初の広東武装蜂起が失敗し、逃れてきた彼らは香港に集まり次の機会を狙っていたのである。梅屋は彼らを匿ううちに血が滾るのを覚えた。
当時の梅屋はどんな思想や理念があったかは不明だが、いつのまにか興中会などの地下組織と繋がっていった。
そして写真館の常連客であったイギリス人の宣教師で医学博士ジェームス・カントリーと知り合い、その教え子である孫文を紹介される。
そして孫文の「人々が平等で平和な社会をつくる」という理想に共鳴し、梅屋は孫文に「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す」と告げている。
しかし梅屋の動きは官憲に知られるところとなり、香港を去りシンガポ-ルに渡った。
そしてこのシンガポ-ルで梅屋は人生を変える出会いをする。それは映画・興業師との出会いであった。
シンガポ-ルにはフランスの映画会社のパテ社の支店もあったために、香港で買い込んでいた映写機を使ってその興業師とともに上映活動などをしてそれが成功したのである。
梅屋は革命亡命者という立場で、興中会からの後押しで、テントや椅子・設備などを貸してくれ宣伝なども行ってくれた。しかし1904年に日露戦争がおこり、シンガポ-ルにも渡ってきた戦争実況映画をスクリーンに映すなかで、梅屋自身の心の中にも変化が起こった。
先立つ1900年中国の恵州武装蜂起に失敗し日本に亡命した同志が、革命の拠点を東京に移し1905年には「中国革命同盟会」が結成されたことを知った。
そして1906年梅屋は日本の土を再び踏むことになるが、この頃彼の名前は中国革命同盟会にも良く知られる伝説上の人物になっていたのである。
 さらに彼のトランクには、日本人がまだ見たこともない色彩フィルム大作がつまれていた。そしてさっそく新富座をはじめ映画興行を行い人々の注目を集めていく。
映画人としての成功をある程度おさめた梅屋は、新宿区大久保百人町に撮影所を兼ねた自宅を建てた。
そして1913年、第二革命に失敗した孫文を日本で出迎え、孫文が第三革命のため中国へ帰国するまでの2年8ヵ月間、この自宅兼撮影所に匿ったのである。
そういえば梅屋庄吉が創立した日活の映画に「嵐を呼ぶ男」というタイトルの映画があったが、このタイトルは梅屋庄吉の人生にもあてはまる気がする。孫文などのようなキ-パーソンの周辺にあって活動する彼のような人物の働きによって、時勢のうねりも嵐のように大きくなったり、また凪いだりするのものではなかろうか。
梅屋庄吉の場合、「革命」のうねりを作ったひとといえるだろう。

次に「平和」のうねりを作った人を語りたい。
広島市の浜井市長は「広島平和都市建設法」という戦後初の「地方自治特別法」が成立させた人物である。
浜井市長の思いは、「広島の復興」がどんなに日本にとって大きな意味を持つか訴えることであった。
それは、国から予算を引き出すための「戦略」でもあった。
しかし、いつもブツカッタのは、「財源」と言う壁だった。
何度も国会に陳情に赴き、有力議員を夜ガケ朝ガケで訪問したが、「復興予算」を獲得することができなかった。
何度も「辞職」を考えてたが、ある日GHQに働きかければ何とかなるのではとヒラメいた。
そして当時のGHQの国会担当に「法案」を見せたところ「素晴らしい」という応えを受けた。
これを機に「広島平和都市建法」実現へと歯車が動き出したのである。
しかし、人々の気持ちはいまだにバラバラだった。
新しい街づくりの為には、いままでの住宅地にソノママ人々が住み直すだけでは何の発展もなかった。
バラックを立て住み始めた人々に立ち退いてもらうことも必要がある。
市民の住みなれた土地に対する執着を断ち切るのは、そんな生ヤサシイものではない。
たとえ行政がどうあろうと、計画がどう立てられようと、彼らは自らの道を曲げないのである。
現に市民たちは続々と焼けただれた町に帰りはじめたのである。
復興局も、審議会も、こういう市民の姿を見ては、計画の完成を急がないではいられなかった。
浜井市長の在任期間をはさんで、途中「落選」したことがある。それは、100m道路(平和大通り)建設計画が理想的すぎると批判が強かったためで、縮小・見直しを公約に掲げた保守系の候補に敗れたためである。
しかしこの緑地を間に挟んだ道路建設は、広すぎるという批判を受けたが、交通のためではなく「防災の目的」であったことを強調している。
そしてトータルで4期16年務めた。
途中、突然押し入ってきた「立ち退き反対」のアヤシゲな人々との激しい口論もあったし、市長の襖を挟んで「奥さんが未亡人になってもいいのか」といった脅し文句さえもいわれた。
しかし、浜井市長は誰よりも腹が据わっていた。
浜井市長自身、原爆で死ぬべきはずの人間が、生き残ったのだから、自分の人生をすべて「広島復興」にささげようグライのと覚悟をしていた。
浜井市長が「死んだつもり」で広島復興に賭ける姿は、癌宣告をうけて公園設立に命をかけた黒澤明の「生きる」の主人公と、オーバーラップするものがある。
そして浜井市長は、何よりも広島を復興の為には広島市民の心を一つにすることが大事だと「平和の祭り」をすることを思いついた。
1947年4月、公職選挙による最初の広島市長となり、同年8月6日に第1回広島平和祭と「慰霊祭」をおこない、「平和宣言」を発表した。
1948年から式典はラジオで全国中継されるようになり、この年はアメリカにも中継された。
1950年、平和記念公園を建設。朝鮮戦争の影響で、平和祭をはじめ全ての集会が禁止される中、パリにおいて、朝鮮半島での原爆使用反対を唱えている。
1949年に制定された「広島平和都市建設法」は、当時の市民から「あまりに理想的」と批判をうけたが、現在の広島市を造る大きな基礎をつくる上で、この法律が果たした役割はキワメテ大きい。
「広島平和都市建設法」によって、広島市中区中島町に平和を祈念する公園(広島平和記念公園)の建設、同じく市中心部への幅員100m道路(平和大通り)の建設を打ちだし、現在の広島市の街並みの基礎を造ったのである。
さて、この浜井市長とともに「広島平和都市建設法」の成立に1人の会津人が深く関わることになる。
白虎隊士の「唯一」の生き残りの「飯沼貞吉の弟」を父にもつ内務官僚の飯沼一省は、静岡県知事、広島県知事、神奈川県知事などを歴任した。
公職を退いた後は、都市計画協会の理事長や会長を務め、都市計画に関連する「国の行政」に協力した。
とくに1949年制定の「広島平和記念都市建設法」については当時の浜井市長を助け、法案の提出に尽力したという。
戊辰戦争の敗戦で荒廃した会津人と被爆した広島人とが「共感」し合うのもわかる気がする。
このように会津人は「原発」バカリか、復興というカタチで「原爆」とも関わりをもっている。
広島物産陳列館は「原爆ドーム」として1966年に永久保存され、1996年に「世界遺産」に登録された。
さてチェ・ゲバラといえば「キューバ革命の英雄」だが革命から半年後の1959年に広島を訪れている。
当時31歳のゲバラは原爆資料館を訪ね大きな衝撃をうけた。
ゲバラはその時に撮った慰霊碑を写した一枚の写真を革命の朋友カストロに見せ、ぜひ広島を訪問するようにすすめた。
そして44年の時を経て。2003年3月にカストロ議長は広島を訪れている。
キューバにおける核の意識の高さの背景には、カストロ政権下でおきた「キュ-バ危機」が忘れられない記憶として残っているからである。
キューバ危機は、1962年ソ連がキューバに核ミサイルを突然配備しそれに対してアメリカのケネディ大統領が、核ミサイルを撤去しなければ核戦争も辞さずと対抗し、ソ連は核ミサイルを撤去したという出来事である。
核戦争「一歩手前」にまでいったキューバでは、毎年8月6日にカストロ議長自ら演説台に立ち日本の被爆者を偲び、「この日を忘れてはいけない」と訴え続けている。
また中学校の授業では、歴史の時間に日本の原爆を勉強したり、毎年テレビなどは朝から原爆関係の映像を流し、慰霊関係の行事も頻繁に行われている。

最後に「祭典」のうねりを作った日系人夫婦のことを紹介したい。
1964年東京オリンピックの68年にメキシコオリンピックが開催されたのも、ロサンゼルスに住む日系人夫婦のハタラキが大きかった。
フレッド・和田勇・正子夫妻である。和田氏の父は和歌山県からカナダのバンクーバーへ「出稼ぎ漁師」として移住している。
その後、同郷の女性と結婚し、カナダ国境に近い米国ワシントン州ベリングハムで小さな食堂を開いていた。
生活が苦しく和田氏は12歳の時からシアトル郊外の 農園に住み込んで、雑役夫をしながら学校に通った。
17歳のときにサンフランシスコの農作物チェーン店に移り、1年後にはソノ「仕事ぶり」が評価されて店長に抜擢された。
さらにその2年後には独立してオークランド市内に「野菜販売」の屋台を出すようになる。
当時アメリカの青果店では様々な種類の野菜をゴチャマゼに陳列するのが当たり前だったのに対し、和田氏の店は「陳列」を工夫して野菜を種類別に「見栄え」のするように店頭に並べた。
そして、この青果店は大繁盛し、和田氏はオークランドの「日系人社会」で一躍注目される存在となった。
そして和田氏は、1933年26歳の時に正子と結婚して二人の子が生まれた。
そして和田氏は、34歳の若さにして、25人の従業員と3軒の店を持ち、日系食料品約70店からなる協同組合の理事長になっていた。
しかし、1941年12月に太平洋戦争が勃発すると「状況」は一変した。
日系人の太平洋沿岸3州での居住が禁止されてしまったことから、「強制収容所行き」をヨシとしなかった和田氏はユタ州の農園が人手不足で困っている事を聞きつけ、翌1942年3月にユタ州に移り「大規模な農園」を開設したが経営はうまくいかず、ユタ州の別の農地に移り「家族で」農業を営んだ。
1945年8月15日、和田夫妻は日本の敗戦を知り、空襲で焼け野原になったと聞く祖国のことを思うと涙が止まらなかったという。
戦後は、子供達が喘息持ちだったために、湿気の少ないロサンゼルスに移住しスーパーマーケットを開いた。
このスーパーも非常に繁盛し、カリフォルニア州内で17店舗を構えるまでに成長させた。
ロスを中心とする西海岸だけで10万人以上の日系人が住んでいたが、当時日本はイマダ占領下にあり、GHQのマッカーサーに「出国許可」を得て遠征したが、「旧敵国」としてジャップと言われたり、唾を吐きかけたり、ホテル宿泊を「拒否」されたりした。
そうした中、1949年8月、選手8名からなる日本水泳チー ムがロサンゼルスに到着した。
全米水泳大会に出場するスポーツ界「戦後初」の海外遠征である。
日系人達はは日本の敗戦で「肩身の狭い」思いをし、白人から「ジャップ」と蔑まれてきただけに、祖国日本の選手たちに熱い期待をかけていたのである。
そして和田夫妻は、選手たちの「宿泊」から食事までスベテ「自費」で面倒見ようと申し出たのである。
妻正子は、おいしく栄養のつく「日本食」でもてなした。
日本で貧しい食事しかしていなかった選手たちは、正子のごちそうに大喜びし、広いベッドで十分な睡眠をとった。
また和田氏は、練習のためのオリンピック・プールへの「送り迎え」を担当した。
そしていよいよ全米選手権が始まった。
結局、日本チームは3日間で自由形6種目中5種目に優勝、9つの世界新記録を樹立し、個人では古橋が1位、橋爪が3位、さらに団体対抗戦でも「圧倒的」な得点で優勝を飾った。
古橋と橋爪をたちまち50人ほどの白人が取り囲んで、「グレート・スイマー!」「フライング・フィッシュ・オブ・フジヤマ!」と賞賛した。
和田夫妻もバンザイをしながら、止めどなく涙があふれたという。
和田邸での内輪の祝賀パーティーで、古橋選手らの活躍によって、ジャップと呼ばれていたのが、一夜にしてジャパニーズになり、みんな胸を張って街を歩けるようになったと、涙を浮かべつつ挨拶した。
そしてこのころから実際に、日系人の「入店拒否」がなくなっていったのである。
また和田氏はコレを契機として、当時日本水泳連盟会長だった田畑政治や東京大学総長だった南原繁、後に東京都知事となる東龍太郎らとの親交が生まれた。
1958年には東京オリンピック招致に向けた準備委員会が設立されるが、和田氏も田畑・東らに懇願される形で委員に就任した。
和田氏は東京でオリンピックやれば日本人に勇気と自信を持たせることができ、日本は大きくジャンプできるにちがいないと、その仕事に燃え上がった。
しかも、デトロイトや、ウィーン、ブリュッセルなどもオリンピックに「立候補する」という情報が入っていたため、モハヤ店のことなど「二の次」となってしまった。
和田氏は「中南米諸国の票」がカギを握っていると考え、自費で各国のオリンピック委員を自ら説得して回ろうと考えた。
しかし、スーパーの客として知り合った1人のメキシコ以外には、南米にはなんのツテもなかった。
そのメキシコ人の農園を訪問し、誰でもいいから「有力者」を1人紹介して欲しいと説得し、ようやく1人のIOC委員への面会まで「辿りつく」ことができた。
そして和田氏はその人物に、オリンピックはいままで欧米でしか開催されたことがない、東京で開くことに投票してもらえないかと「懇願」した。
しかし委員は、南米の国々はアメリカの開催を何より望んでいる、アメリカの意向を無視することはできないと拒否した。
そこで和田氏はその委員にオリンピックを「一緒に」実現しないかと意外な訴えをした。
片や「アジア初」の東京開催が実現したら、「中南米初」のメキシコシティー開催を支援しようと訴えたのである。
この言葉に、メキシコ人のIOC委員の心が動いた。
1959年、外務大臣の手配で和田氏は「特命移動大使」権限を与えられ、首相からの「親書」をもってプロペラ機に乗り込んで、南米10カ国を1ヶ月以上かけて廻る旅に出発した。
そしてIOC総会では、事前のデトロイト、ウィーンが東京よりも有利という「予想」を覆し、1回目の投票で東京が「過半数」を制し、1964年「東京オリンピックの開催」が決定したのである。
和田氏は、開催決定後は日本オリンピック委員会(JOC)の名誉委員となり、東京の次に開催される「メキシコオリンピック」の誘致活動にも尽力した。
1968年にソノ「実現」を見ることにより、メキシコへの「恩返し」を果たしたのである。
晩年は、福祉事業に力を注ぎ、日系の高齢者施設群を運営する「Keiro」の生みの親ともいわれ、日系社会の高齢者のために、看護病院や老人ホームを設立して総合的看護施設網の整備に尽力した。
2001年2月12日、肺炎のためロサンゼルス市内の病院で亡くなっている。