憲法の裾野

数日前の新聞に、作家の大江健三郎氏が夏目漱石の「こころ」は明治という時代の精神を表していたと書いていた。
その辺のことはよくはわからないが、日本国憲法が戦後の「時代精神」を表していたというのは、実感としてよくわかる。
さらに大江氏は、安部政権が閣議決定による解釈改憲で「集団的自衛権」を認めようとしているヤリカタは、民主主義の直接的無視のみならず、「不戦の誓い」の否定であり、戦後の「時代精神」を真っ向から葬り去ろうとしているという趣旨のことを書いている。
終戦直後、アメリカは「ポツダム宣言」に則って、日本の自発的意思による「新憲法制定」を期待し、指導者層にそれを促していた。
政府内部にはに松本烝治を委員長とする「松本委員会」が作られ「憲法改正要綱」が作られ、マッカーサーに提出された。
ところが「天皇制」をそのまま残した感じの「要綱」は、マッカーサーによって拒否され、「真に民主的憲法を作成する能力がない」日本政府に変わって、マッカーサー自らが「草案作り」に乗り出したことは、あまりにも有名な話である。
「マッカーサー草案」といえども、「何か」を参考や材料として作られたハズでありソノコトに言及がないために、突然に空から降ったような感が否めない。
こうしたことが「憲法押しつけ論」の背景のひとつとなっているにちがいないのだが、マッカーサー草案には占領軍のスタッフばかりではなく直接間接に関わった「名もなき人々」がおり、ソノ裾野の広がりコソが憲法が戦後の「時代精神」たりえた理由ではなかろうか。
というわけで「日本国憲法」作りに関わった人々を「四人」を紹介したい。
東京のモンジャ焼きで有名な月島において貧民調査を行った高野岩三郎とその弟子森戸辰男、近江でメンソレータムを造った「近江兄弟社」を起こしたアメリカ人ヴォーリス、そして日本に住むロシア人音楽家の家政婦の小柴美代つまり「家政婦のミヨ」である。

日本敗戦後のGHQの占領期においてその最大の任務である軍国主義的傾向の除去と民主憲法の制定につき、アメリカの日本研究をかなり行っていたにもかかわらず、法律専門のスタッフもおらず「徒手空拳」のママ10日間程度で「憲法草案」を作成することは至難の業であった。
アメリカは11カ国でなる極東委員会が設置され日本統治に口を出すまえに、日本政府により自主的な(と思わせる)憲法がつくられたという既成事実を作っておきたかったのである。
そこで注目したのが、すでに政府に提出されていた森戸らの「憲法研究会」の試案であったのだ。
この会の座長的存在は東大教授の高野岩三郎で、高野の弟子である森戸辰男も呼び寄せ加わっていた。
高野は、日本の労働運動黎明期の活動家・高野房太郎の弟で、長崎県生まれで「社会政策学」を設立し、ドイツ留学後は東大で統計学を講じた。
東京月島における社会調査は有名で、その後大原社会問題研究所の所長となっている。
森戸も師・高野に倣ってドイツ留学の経験がありドイツの「ワイマール憲法」に学んで「生存権」を研究会の憲法試案において提をし「労働権」の導入をさえ主張していたのであった。
ただ森戸は改革を急がずこの段階での「試案」では真に民主的たりえないので10年後に「国民投票」を行うべきだと主張していた。
森戸はドイツ留学において、第一次世界大戦に敗戦したドイツの混乱を目の当たりにした。
ドイツは「ワイマール憲法」という最も民主的な憲法を持ちながら、この混乱の後に共産党とナチスが台頭し、ヒットラーによる「一党独裁」を招いてしまう。
こうしたドイツの状況と敗戦後の日本を重ねて、森戸はドイツのテツを踏んではならないと考えていた。
そして天皇制を否定し「共和制」までを主張した師・高野岩三郎とは一線をカッした。
森戸は広島の旧士族の生まれであるが、戦時中も栃木県の真岡への疎開経験があり「天皇信仰」が地方でいかに根強いかということをよく知っていたのである。
そこでイギリスの「立憲君主制」などに倣って、天皇を「道徳的シンボル」とするといった斬新な考えを提起するのである。
そして、こうした考えがマッカーサー草案の「天皇=象徴」に影響を与えたのはホボ間違いない。
さらに森戸は、終戦後社会党の代議士となり、「マッカーサー草案」にはなかった「生存権」をネバリ強く盛り込んだ。
森戸の「生存権」の提案は、憲法25条第一項「日本人は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」として盛り込まれるのである。
森戸は戦後初の文部大臣に就任するが、1950年強く嘆願されて初代広島大学学長に就任し、原爆の跡が生々しく残る同大学の再建・充実に尽力している。

1905年2月2日、近江八幡駅のホームにウィリアム・メレル・ヴォーリズというアメリカ人青年が降り立った。
この24歳の青年はYMCA本部から宣教のために日本に派遣され、八幡(はちまん)商業高等学校の英語教師として着任した。
着任した八幡商業高等学校は、近江商人たちの多額の資金提供によって開校したばかりの学校であったが、ヴォーリズは、英語教師のかたわら自宅でもバイブルクラスを開き、多くの生徒たちが集まるようになった。
その中には、「フォークの神様」とよばれた岡林信康の父親もいて、ヴォーリズに心酔して牧師となっている。
しかし、地域の人々のバイブルクラスへの反発もあって、ヴォーリズは来日してわずか2年で教師を解任されてしまう。
ヴォーリズはそのまま日本に留まり、キリスト教の伝道をしながら、近江兄弟社を設立しメンソレータムを日本で広めた。
その資金を元に本来の専門である「建築設計」の実現のために事務所を開いたりもしている。
ヴォーリズの設計で最も有名な建築は、数多くの文豪に愛された東京の「山の上ホテル」である。
1931年、日米関係は最悪の状況になり、暗雲が立ちはじめたが、ヴォーリズは日本への帰化することを選び、「一柳米来留」(ひとつやなぎ・めれる)と改名した。
しかし青い目をした一柳米来留は、戦時体制の影響で建築事務所も解散させられたうえ、「スパイ容疑」をかけられ、日本人の夫人とともに軽井沢でひっそりと暮らしていた。
それはとても辛い時期だったに違いなのだが、太平洋戦争が日本の敗北で終わった頃、突然にヴォーリズの運命を「転換」する舞台へとひきだされる。
1945年8月30日、厚木基地に降り立ったマッカーサーは、天皇を「戦犯とすべき」第一人者と考えていた。
そんな緊迫したなか、元首相の近衛文麿の「密使」が軽井沢のヴォーリズのもとへ向かった。
近衛からヴォーリズに伝えられた要請とは「天皇陛下の件について、マッカーサーと話し合いたいので、その場を取り持ってほしい」というものだった。
ヴォーリスは、その時のことを日記に「鉄を流し込まれる思い」と書いているほどである。
そして、このときに少佐から、マッカーサーが「戦争犯罪者」としての天皇の処遇を思案中であることを聞き出した。
そしてヴォーリズは何とか天皇を守らなければならないと「ある案」を考えついたのである。
それが、天皇自身が神ではなく人間であることを認め、天皇を神秘的世界から解放し、日本国民とともに歩んでいただく、ということであった。
この考え方ならば、キリスト教を神とする連合国側の宗教観と対峙することなく、「妥協点」を見出すことが出来ると考えたからである。
さらに9月12日、ヴォーリズは近衛に会い、天皇が「日本の象徴」として「人間宣言」をするというアイデアを提案をすると、近衛はその提案に満足げに受け入れたという。
そして翌日、マッカーサー元帥と近衛文麿の会談が実現したのである。
それから2週間後の9月27日、昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問した。
「回顧録」によれば、マッカーサーは、天皇の国民を思う真摯な態度に打たれ、天皇の戦争責任を不問にすることを決意した。
それどころか「日本国の統治において天皇の存在は必要不可欠」と考えるようになったと言われている。
1946年正月、陛下はいわゆる「人間宣言」をしたが、この裏にはヴォーリズの存在を抜きに考えることはできない。
ヴォーリズは1964年に84歳の生涯を閉じるまでこのことを口にしなかったが、ヴォーリズの当時の日記や夫人の証言などから次第に明らかになった。
そして1983年10月31日東京新聞がそのことを報じて、世に知られることになったのである。

日本国憲法の制定に少なからぬ影響を与えた家政婦がいた。静岡県・沼津の網元の娘・小柴美代で、「家政婦のミヨ」ということになる。
さて、このロシアのウクライナ地方キエフの町にユダヤ人レオ・シロタ・ゴードンという音楽家と貿易商の娘との間に、ベアテという娘が生まれた。
父レオ・シロタはオーストリアのウイーンに留学し、1920年代「リストの再来」と評され、世界の三大ピアニストに数えられるほど「超絶技巧」を誇るピアニストとして注目されていた。
しかし、1917年のロシア革命の混乱で帰国不能となり、家族と共に「オーストリア国籍」を取得した。
しかし、当時のヨーロッパ経済は不安定で公演のキャンセルが続き、ドイツを中心として「反ユダヤ主義」が台頭していたこともあり、一家三人は半年間の「演奏旅行」のツモリで1929年の夏、シベリア鉄道でウラジオストックへと向かった。
そしてレオ・シロタはこの「演奏旅行」の途中で、日本を代表する音楽家・山田耕筰と「運命的」な出会いをする。
ハルビン公演を聞いた山田耕筰がホテルを訪れ、日本での公演を依頼したのである。
レオはその年に訪日して1カ月で16回もの公演を行ない、山田耕筰によって東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授に招聘された。
そして世界恐慌でのヨーロッパ情勢の不穏の中ベアテ一家は日本に滞在し続け、東京赤坂檜町に居を構えた。
ベアテ家では、母オーギュスティーヌがたびたびパーティを開き、山田耕筰や近衛秀麿、ヴァイオリニストの小野アンナなどの芸術家・文化人、在日西欧人や訪日中の西欧人、徳川家、三井家、朝吹家など侯爵や伯爵夫人らが集まるサロンとなっていた。
幼いベアテにとって、家の近くの乃木神社の境内などは格好の遊び場となった。
そしてすぐに近所の子供たちと仲良くなり、色々な遊びを覚えていった。
特にオハジキが得意で、戦利品を家族にみせるのがベアテの日課だったという。
そして遊びと結びついた童歌や童謡などをも聞きながら日本の文化を学び、日本に来て3カ月ぐらいで日本語を話せるようになっていた。
そしてベアテは当時目黒区にあったアメリカンスクールに通い、6歳ごろからはピアノ、ダンスを習い始めた。
しかし自分にピアノの才能がないことは、父レオが自分よりも他の生徒達を熱心に指導することなどから、悟らざるをえなかったという。
しかしベアテは、ベアテ家に集まる人々との情報のやり取りの中で様々なことを吸収していった。
とりわけ、ベテル家では日常的に日本語、英語、ドイツ語、ロシア語、フランス語が飛び交う環境で暮らしていたことも幸いして、ベアテ自身はさして努力をしているワケでもないのに、日本語をはじめとする5カ国語の会話とラテン語をマスターしていったのである。
そしてもう一人、ベテルの精神形成に大きな影響を与えたのが、家政婦の小柴美代であった。
ベアテ家は、洋画家・梅原龍三郎の家のすぐ近所でもあった。
あるとき、近所に著名なピアニストが引っ越してきたと聞いた梅原氏が、自分の娘にもピアノを教えてもらえないかと訪ねてきた。
梅原氏は、5年間ほどフランスに留学した経験からフランス語が話せたため、両家の間で自然に交流が生まれたのである。
そしてベアテ家の方から梅原氏に、身の回りの世話を頼める「家政婦さん」を紹介してくれないかという申し出があった。
そしてやってきたのが、小柴美代であった。
彼女は高い能力がありながらも「教育を受ける機会」がなかった当時の日本人女性を「代表」しているような女性であったという。
そしてベアテにとって小柴は一番「身近に」接していた日本人女性であったため、ベアテの精神形成に大きな影響を与えたのである。
小柴を通じて、ベアテの心の中に「日本の女性」についての情報が蓄積されていった。
好きな人と結婚することもできず、父母の決めた全然知らない人と結婚させられる。
結婚の前に一度も会わないことすらもあり、そういう結婚のために嫁いだ先でトラブルに悩まされ、理不尽な生活に追い込まれている女性達がいた。
日本では正妻とおめかけさんが一緒に住んでいるとか、夫が不倫しても妻からは離婚は言い出せないとか、夫が他の女性に産ませた子を養子として連れ帰ったとか、東北の貧しい農家では娘を身売りに出しているとかいう話を聞いた。
ベアテ自身も様々な体験の中から、日本女性が置かれている状況について身をもって感じとっていた。
日本の女性たちが夫と外を歩くときには必ず後ろを歩くこと、客をもてなすときにあまり会話に入らないこと、夫婦で話す時間が少なくまして夫婦で何かをする時間がほとんどナイように感じられた。
つまりベアテは自分が育った環境とのヒラキを身にしみて感じ取ったのである。
またベアテにとって忘れられないの日が、1936年2月26日の大雪の日であった。
226事件が起こった際には、ベアテの自宅の門にも憲兵が歩哨に立ったのだが、ベアテはそれを実際に見ながら、日本人は表立っては優しいのに、内面にカゲキナなものを秘めていると強く思わせられたという。
また軍神・乃木希典をまつった乃木神社には、戦地で亡くなった兵隊達の葬列を見かけることが増えるにつれて、日本の雰囲気が次第に慌しくなっていっていることも、子供心に感じとった。
そして1939年5月、ベアテは日本のアメリカンスクールを卒業し、もうすぐ16歳になろうとしていた。
ヨーロッパでは、「ユダヤ人敵視」をかかげるナチス・ドイツが目覚しい台頭がを見せつつあった。
そこで両親は、ベアテをアメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ近郊のオークランドにある名門女子大学ミルズ・カレッジに留学させることにした。
ミルズ・カレッジは全寮制の女子大学で、ベアテにとってこの大学が「女性の自立」について深く学べる場所となったのだという。
ベアテ女史は、大学卒業後アメリカ国籍をとり、一時期ニューヨークのタイム社でリサーチの仕事をしたことがあたがそれが大いに役にたつことになる。
そして1945年太平洋戦争の終結とともに、一刻も早くに日本にいる両親に会いたくて、日本に入国可能な「軍関係」の仕事を探し、偶然見つけた仕事がGHQの民生局であった。
そして民生局課長ケーディス大佐の面接を受けて、政党科に配属されたという。
さらに「晴天の霹靂」であるかのように、ベアテ・シロタ・ゴードン女史が22才の若さで、日本国憲法制定の「人権委員会」のメンバーに選ばれたのである。
しかし日本に戻ってきたベアテ女史にとって思いで深い乃木坂の家は焼けつくされ、ようやく玄関の柱で確認できたのだという。
ベテア女史の両親は軽井沢に逃れていたために難を逃れていたが、悲しみが抑えきれなかった。
日本に帰って1ヶ月ぐらいして、突然に民生局に「憲法草案作成」の指令が出た。
そしてベテル女史の抱いた悲しみは、日本で新しい「憲法草案」を作るという「使命感」によって次第に打ち消されていった。
そしてケーディス大佐は、この大学を出て間もない22歳の女性に、「女性の権利」についての条文を書くことを命じた。
しかし、そんなベテア女史の仕事は「極秘事項」であり、両親にさえ口外することが許されていなかった。
もしそれがわかったら、そんな小娘に日本国憲法が書かせたのかと、「反対勢力」に利用される可能性があったからだ。
そして10年にわたる日本の暮らしから、日本人女性に何の権利もないことを知っていた。
ベアテ女史はかつてタイムス社のリサーチの仕事の経験が「憲法草案作り」にも生かされていった。
まずはジープで図書館を回り、世界の憲法が「女性の権利」をどのようにに定めているかをリサーチした。
草案の作成は「極秘」で行われていたために、民生局の人が沢山の本を持っていったとか、一カ所だけで調べものをしたりすると怪しまれるので、ワザワザいろいろな図書館を回って資料を集め、それをGHQの「民政局」に持ちこんだのである。
ベアテ女史が憲法の24条の「両性の本質的平等」の草案を書くにあたって、赤坂の乃木坂の家で家政婦として働いていた小柴美代の存在がものを言ったことは確かである。
というのは、ベテル女史は講演会などで、必ずといっていいほど小柴との出会いを語っていることでもうかがわれる。
また1966年には、ニューヨークの自宅に小柴を呼び寄せたりもしている。
さらに、ベアテ自身の著書「日本国憲法を書いた密室の九日間」に、小柴美代の口から「子守唄のように」聞かされた「日本女性の地位の低さ」が、憲法24条を書く積極的な動機となったと語っている。