偶然か必然か

水上勉の「飢餓海峡」(1962年)は、青函連絡船洞爺丸沈没事故と岩内大火が1954年9月26日の「同じ日」に起こったことをヒントにして、創作されたものであるという。
そして、時代を「敗戦直後」に置き換え、混乱した世相を背景にした貧困が生み出す悲劇を描いた。
この岩内大火と洞爺丸沈没事故の連続は、1982年2月のホテルニュージャパンの大火災と翌日の日航機羽田沖墜落事故の連続を思いおこさせた。
ただ1954年の連続惨事が台風という災害によって起こされたものであったのに対して、1982年の連続惨事は人間の命に対する異常な軽視によって起きた人災であったといってよい。
水上勉の「飢餓海峡」の面白さと怖さは、偶然と必然が渾然一体となって展開する点である。
ここで「必然」とは登場人物がそれぞれが、避けがたい結末に導かれるような感じがするところである。
すべては北海道岩内から始まる。ふたりの刑余者とひとりの男が、質店に強盗に入った。
金を奪取した3人は、一家を惨殺した上、家に火を放った。台風が接近していたため、一挙に火は市街地全域に燃え広がる。
そしてこの台風は同時にそれ以上の惨事をもたらせた。
青函連絡船の「層雲丸」を転覆させ、500人以上の死亡者・行方不明者を出した。
多数の船舶が捜査に参加し、これに便乗したのが質屋を襲ったアノ3人組みであった。
小型ボードで、救助艇にまぎれて、津軽海峡を渡ろうとしたのである。
しかし3人のうち、下北半島に上陸したのは、ただ1人で、浜辺でボートを燃やし証拠を隠滅する。
一時的に男が身を寄せたのが、大湊の娼家・花家であった。
娼家は一般の宿とは異なり、記帳の必要もなかったからである。男は自らを犬飼多吉と名乗るが、偶然にも八重という一人の娼婦と出会う。
犬飼は自分とその娼婦との運命を重ねたのか、"花家"を立ち去る際、奪った金の半分を残していく。
そのことによって、八重と家族は救われ、八重にとっては、犬飼は大恩人になる。
一方、岩内質店強盗殺人事件を追っていた刑事は、引き取り手のない2つの遺体に注目した。
この遺体は、網走刑務所を出所した刑余者のものだと判明するが、刑事はその2人が宿泊していた温泉の宿にたどり着き、宿帳に犬飼多吉というもうひとりの男の名を見つける。
そして10年の時を経たある日、八重の目にある新聞記事が飛び込んでくる。
「舞鶴の食品会社社長・樽見京一郎氏、刑余者更正事業に3千万円寄附」とあった。
そして樽見の顔は、八重が10年間感謝し探し続けた犬飼のものであった。
そしてその「新聞記事」こそが、二人を運命的な終結と向かわせるのである。

「飢餓海峡」は展開のカギは「同時性」なのだが、同時という言葉に多くの人は2001年のイスラム教過激派アルカイダによる「同時多発テロ」を思い起こすに違いない。
このテロは、その6年前の1995年におきたオウム真理教の「地下鉄サリン事件」と、日本軍の神風特攻隊をヒントにしたのだとしたら、二重の意味で日本人の過去がこのテロに反映されていたことになる。
その日本は、1945年8月6日広島に、その3日後に長崎に原爆が投下され、1950年の時点でおよそ30万人の人々が亡くなった。
大量殺戮が起きた場合には、あまりにも多い死者をマス(塊り)としてとらえがちであるが、一人一人が、この時この場所にいたというのはソレゾレの事情があってのことである。
そんなあたりまえのことを、現地に実際に行ってみてハジメテ気づかせられる。
それは、数多くの「慰霊碑」を見て、この場所にたまたま居合わせた人々の運命を痛感せずにはおかないからである。
長崎の爆心地近くには、朝鮮人犠牲者追悼碑、建設労働者職人慰霊碑、電気通信技術者慰霊碑、国鉄原爆死没者慰霊碑、長崎新聞少年慰霊碑などの「石碑」が立つことから、そこに様々な人々の運命が重なり合っていることが読み取れる。
被爆地は、人々の運命のいわば「バンデ-ジ・ポイント」(結集点/結束点)なのだ。
人々は様々な運命の糸をたどってグランド・ゼロに向かい、不幸にもそれを共有したのだ。
長崎の爆心地・平和公園には 右手の指を空に向けた平和記念像のあるが、その場所こそは長崎刑務所浦上刑務支所があった場所なのである。
長崎刑務所浦上支所は全壊し、支所にいた看守、職員、職員家族、囚人81名が即死した。
しかし、そこに運命のイタズラが作用した。
囚人約百名は三菱重工長崎造船所で働いていて難を逃れており、生き残った彼らは長崎市衛生課の要請を受けて、5日間にわたって市民の死体収容作業に従事している。
ちなみに長崎の被爆については、戊辰戦争において薩長側に武器を売ったグラバーの子供である倉場富三郎が長崎造船所を見渡せる南山手の自宅(グラバー邸)にいた。
倉場は、長崎被爆後に日本の敗戦が決定的になるにつれ、精神不安定に陥り縊死している。
倉場は、イギリス人でありながら日本に戦争協力をしたのを問われるのを恐れていたようである。
また被爆地には中国や朝鮮からの出稼ぎや強制連行された人々、連合国の捕虜など外国籍の人も多数いた。
特に広島には多くの韓国人がいた。
敗戦の時点で日本国内には236万5千人余の韓国人がおり、そのうち8万1千862人が広島県内に居住いたとされ、4万4千から7万の韓国人が被爆したとされ、その半数近くが帰国している。
韓国慶尚南道の北のはずれにハプチョンという「韓国のヒロシマ村」と呼ばれる一寒村がある。
そしてハプチョン郡内には約5千人という異常に高い被爆者の数の比率を示している。
このころ広島において、日本製鋼所広島工場が設立され、呉海軍工廠では戦艦長門が竣工するなど軍都広島への道を着々と歩みはじめている。
軍都広島は、出稼ぎにきた韓国人に対して衣食住だけは保障した。
そこでハプチョンでは、1920年頃から海峡を渡って広島に向かう人々の群れが起きているのである。何か「飢餓海峡」という言葉がよぎる。
また1923年の関東大震災で多くの韓国人が殺され、関東在留の韓国人は関西方面から西へと避難したという動きもあった。
韓国人にとって、借金をし田畑を売ってでも広島へ辿りつけさえすれば何とかなる、という気持ちがあったのである。
さて広島被爆と長崎被爆が同時ではなく「3日間のズレ」があったことに、特別な意味をもつ人々がいた。
広島と3日後の長崎の「両方」で被爆したという人々つまり「二重被爆」の人がいたという事実に、最初マサカと思った。
この事実自体が驚きなのであるが、さらに驚いたのはそうした二重被爆の人々の数がなんと百人を超えていたということである。
しかしよくよく考えてみると、広島と長崎は共に有数の軍都であり、まさにそれこそが原爆投下のターゲットになった理由なのだが、広島で軍関係の仕事した人が、連絡や輸送目的で、下関を経由して長崎に向かうということは大いにありうることだ。
「二重被爆」のひとつのケースを紹介すると、広島で被爆した男性で当時長崎市の三菱重工業造船部の技師をしていた人がいる。
1945年5月から3ヶ月の予定で、郷里の長崎には妻と長男を残して、広島に単身赴任をしていた。
広島事業所に向かった男性は、江波の電停で降りて歩き始めた所で被爆したのである。
これが1度目の被爆であるが、応急処置をして、焼け野原と化した広島をあとに、男性ら3人は8月7日昼、広島の西にある己斐駅(現在の西広島駅)から列車で長崎に向かった。
翌日8月9日、その男性は会社へ広島の報告へ出かけた時に、ピカッと来たのである。これが男性にとって2度目の被爆となった。
軍都であるゆえに人が吸い寄せられ、軍都であるゆえに原子爆弾のターゲットとなった、偶然のような必然であったといえる。

終戦から40年近い時を経た1982年といえば日本が今やバブル経済に入ろうとしている時期である。
昭和の時代ではあったが、「飢餓海峡」の時代とは正反対の時代で、「飽食の時代」ともよばれていた。
その年の2月8日、9日の二日間、大惨事が「連続して」起こった。
ホテル・ニュージャパン火災に続き、日本航空の羽田沖墜落事故が起こったのである。
そしてホテル・ニュージャパン火災ではオーナーの安全に対する無関心さ、後者ではパイロットが乗客を放置して避難したことで世の批判をあびた。
つまり二日間の出来事は、日本社会の「安全神話」が崩れた象徴的な出来事であったともといえる。
1979年に、ホテルニュージャパンを買収したオーナー横井英樹は、当時の高級ホテルブームに目を付け、宴会場には豪華なシャンデリア、ロビーにはルイ王朝時代の家具を置き、宿泊客を集めた。
しかし防火対策については、防火に適さない、空洞の壁、鳴らない火災報知器などあまりにも杜撰なホテルであった。
そして従業員たちは防災対策の心得すらなかったのである。
そして1928年2月8日にそれは起きた。死者33人、負傷者34人を出した未曾有の大火災となった。
炎と煙に包まれ、逃げ場を失う宿泊客、そして熱さに耐えられず、窓から飛び降りて命を落とす者もいた。
そしてテレビでその現場が映し出され、一人の父親が窓枠に立って助けを求め、それをテレビで見ている家族が泣き叫ぶ姿も放映された。
しかしこれだけの大火災で、このくらいの被害で済んだのは、消防庁レスキュー隊の勇猛な救出活動があったからといわれている。
東京消防庁・第11消防特別救助隊6人の屈強な隊員達で隊長は、高野甲子雄であった。
大火災の2か月前、高野はホテルニュージャパンを訪れている。
当時、ホテルニュージャパンは、東京消防庁から、防火に対する不備を何度も指摘されていた。
高野は、ホテルの中を見て回るが、建物自体にも、問題がある事を発見する。
ホテル内の廊下は、とても複雑に出来ていて、はじめて来た客ならずとも方向感覚を失いやすい構造になっていた。
廊下や客室を見て回ると、再三の警告にも関わらず、スプリンクラーが設置されていなかった。
しかも、ホテル全体が異常に乾燥している事に気づく。ホテルは、経費を浮かすため、湿度を保つ加湿器を止めていたのだ。
これらの事から東京消防庁は、オーナーの横井に再度警告をだし、横井は改善を約束し、まもなくスプリンクラーを設置した。
しかし信じられない事に、それは水も出ないタダの飾りものだった。
あの大惨事の前夜、ホテルニュージャパンには、352人の宿泊者がいた。
そして、この日はとても外国人客が多い日であった。
9階の938号室には、イギリス人のビジネスマンが長旅に疲れたのか、ホテルに着くとベッドに横たわり、タバコをすいながら寝入ってしまった。
このタバコが出火の原因となる。
当時ホテルで結婚式をあげた新婚夫婦が9階にいた。煙がたち込め逃げようとするが窓から脱出する事は不可能である。
午前4時。東京中の消防車128台が赤坂に集結していた。
はしご車で、次々と宿泊客が救助されていったが、9階の新婚夫婦がいた部屋はホテルの正面からはちょうど死角になった建物で、はしご車が入ってこられない場所だった。
夫婦の命は風前のともしびとなっていたが、その時2人の前に1本のシーツが降りてきた。
上階に宿泊していた韓国人がおろしたもので「シーツ・シーツ」と叫んでいた。
そしてそのシーを結びつけて9階から8階そして7階へとたどり着きさえすれば、7階には火はまわっていないようだった。
しかし夫婦にとってシーツで作ったロープのある所まで距離は2メートルだが、わずか20センチ幅の窓枠を歩かなければならなかった。
足を踏み外せば、30メートル下へと落下してしまう。
夫は妻を先に下ろし、妻を背負って非常階段を一気に駆け下り奇跡の生還を果たした。
ホテルニュージャパンの火災が鎮火したのは発生から9時間後の事2月9日12時過ぎで、壮絶な炎との戦いが終わった。
亡くなった宿泊客33人で、消防士が救い出した客は68人である。
消防の警告どうり、防火対策をしておけば、これだけの犠牲者が出なかったであろう。火災は偶然ではなく必然であった。
田園調布の自宅で連絡を受けた横井の第一声は「ロビーにあるアンティークをすぐに運び出せ」であったらしい。
事件後、横井は言い訳に徹し自らの非を認めることはなかったが、事件から11年後の1993年業務上過失致死傷で禁固3年の判決を受けた。

ホテルニュージャパン火災の翌日2月9日、当時の日本航空、福岡発東京行350便が羽田空港沖に墜落した。
事故を起こした350便は福岡空港を離陸し、その後フライトプランに沿って順調に飛行し8時35分には羽田空港への着陸許可を受け、車輪・フラップをおろして着陸準備に入った。
約高度200メートルまでは何の問題もなかったが、その直後の8時44分信じられないことが起こった。
機長は突然自動操縦装置を切ると、操縦桿を前に倒し機首を下げながら、エンジン4基のうち2基の「逆噴射装置」をさせた。
そして機体は前のめりになって降下し始めた。
副操縦士が操縦桿を引き上げたが、対地接近警報装置の警告音がコックピットに鳴り響くなか、滑走路手前の海上にある誘導灯に車輪を引っ掛けながら滑走路直前の浅い海面に機首から墜落した。
機体は機首と機体後部で真っ二つになったが、墜落現場が浅瀬だったため機体の沈没は免れた。
この墜落により乗客・乗員24名が死亡、149名が重軽傷を負った。
ホテルニュージャパン火災の翌日であり、東京消防庁は対応に追われている中であったが、特別救助隊や消防艇を出して救助活動にあたった。
ところでこの機長は、まだ副操縦士であったこの事故の6年前に始めて幻覚を見て、それ以後初期の精神分裂病、うつ状態、心身症などと診断をうけている。
そして350便が急降下した時、突然「イネ、イネ」という言葉が機長の頭全体に響き渡り、機長はとっさに「死ね、死ね」との命令と理解し、手動操作に切り替え操縦桿を押し込み、エンジンを「逆噴射」させたのだという。
副操縦士が「キャプテン、やめてください!」と叫び、空機関士と共に機長を羽交い締めにするようにして、操縦桿を思いっきり引いて機体が水平になったと思ったが、時スデニおそし。
滑走路進入端から510メートル手前の東京湾に墜落した。
副操縦士と航空機関士が制止しなければ、さらに犠牲者が増えていた可能性が高いと言われている。
機長は業務上過失致死罪により逮捕となったが、精神鑑定により妄想性精神分裂病と診断され、心神喪失の状態にあったとして検察により不起訴処分となった。
この機長、事故の前日にも異常な操縦も行って乗客からのクレームもあったほどだが、副操縦士が会社に対して報告を行っていなかったため、黙殺される結果となった。
その理由として、日本航空の会社としての異常な体質や、機長は管理職であり、副操縦士は評価をされる側で言いにくかったなどの理由が考えられている。
また航空機機長は、事故の発生時に乗客の救助を率先しておこなうよう義務づけられているが、同機の機長はそれらの「職責」を放棄し、乗客に紛れて脱出している。
当初、機長死亡という誤報が流れていたが、その後真っ先にボートで救出される機長の姿が報道された。
その後、機長は統合失調症であることが判明したが、そのような機長に乗務させていた日本航空の姿勢が「安全軽視」として厳しく批判された。
この羽田沖の墜落3年後の1985年8月12日、日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故がおきている。