菊池ワイフ物語

最近日本で、近代絵画の巨匠・バルデュスが脚光を浴びている。
今年4月から6月まで東京で展覧会が開かれたのがきっかけだが、バルデュスの日本人夫人がテレビや新聞に登場されたことも一因である。
この夫人自身が、扇情的な少女のイメージを描き続けたバルデュスのモデルでもあったからだ。
バルテュスの作品の中で「夢見るテレーズ」がよく知られ、デビットボーイ、U2のボノなどのファンをもつが、個人的には、手鏡をもってダラリと弛緩した肢体でこちらをみている少女の絵「美しい日々」がインパクトがあった。
最初に見た一瞬、少女の腹部に短剣が刺さっているように見えドキッとしたが、この短剣とは尖った手鏡の見間違いだった。
画家がそこまで計算して描いたどうかは知らない。
ただ誤解されやすい人だったことは確かだ。
何しろバルデュスは絵画の世界の中だけではなく、実生活においても、兄の妻の連れ子である少女と美しい風景の中で暮らす中、挑発的な絵を描きつづけたのだから、人々からトヤカクといわれても仕方ないといえば、仕方がない人なのだ。
しかしその絵は、単に扇情的であるばかりではなく、どこか中世の宗教画のような聖なる雰囲気を纏っている。
バルテュスはポーランドの貴族の流れを組む家柄の伯爵として、1908年にパリに生まれた。
父のエリックは画家、また舞台芸術家として活躍し、母のバラディーヌもまた芸術家であったという。
幼い頃から多くの芸術家たちに囲まれて育ち、芸術家としての資質は自然と身についたが、両親は必ずしもバルデュスが芸術の道に進むことに賛同したわけではなかった。
そこでバルデュスは、ルーブル美術館で過去の巨匠たちの作品を模写することによって、独学で絵画技法の基礎を身につけたという。
バルデュス29歳の時、高貴な家柄の出で、誇り高い貴族的な雰囲気の女性と結婚し、一児をもうけている。
その後に離婚するが、離婚後も互いの友情は絶えることがなかったらしい。
第二次世界大戦に従軍するが負傷してパリに戻るが、戦後はパリの喧噪を逃れたいとの理由から、モルヴァン山地のシャシーという小さな村に住んだ。
ここで前述のとうり兄の妻の連れ子だっ美少女と、約30匹ほどの猫と一緒に7年間ほど共同生活を送ってる。
この間、彼女を題材に「少女のエロテシズム」を数多く描いたために、様々な誤解や中傷をうけるが、バルデュス自身は、「これから何かになろうとしているが、まだなりきってはいない。要するに少女はこのうえなく完璧な美の象徴なのだ」と語っている。
そして自分の信じる美しさのみを描き続けるつつ、ここでの生活の間に風景画を数多く残している。
この頃、バルデュスの存在は才能アル画家の一人として一部には認められてはいたが、なお一般には理解されず、売れない画家の一人ではあった。
ところが、田舎暮らしに引き篭もるバルデュスに転機がおとづれる。
当時のフランスの文化大臣で熱烈な日本美術のファンであったのアンドレ・マルローが、バルテュスをローマにあるアカデミー・ド・フランスの館長に任命したのである。
バルデュスに与えられた仕事は、アカデミーが置かれていた由緒のある建物ヴィッラ・メディチの改修・修復であったが、それをこころよく引き受けた。
ほとんど過去の資料もない中、バルテュス自身の感性のみを頼りに、全身全霊で修復に取り組んだ。
バルデュスは、この頃ほとんど絵画の制作はしていないものの、生涯で最も幸福だった時期だと振り返っている。
そして59歳の時、マルローから任されたのがパリのプティ・パレ美術館での「日本美術展」であった。
そのの準備のために東京を訪れたバルデュスは、当時20歳だった上智大学の学生・出田節子と出会う。
そして彼女をモデルにして絵を描いたことがきっかけとなり、その後に彼女と結婚している。
さて、バルデュスをめぐる有名なエピソードといえばワインのラベルの話がある。
93年バルテュスが担当したワイン「シャトー・ムートン・ロートシルト」のラベルは物議をかもす。
そのラベルには全裸の少女が描かれ、アメリカではキリスト教のある宗派から批判を受け、輸入禁止となってしまった。
そのため、アメリカ向けのラベルは何も描かれない白紙のラベルに変えたという。
ところで、バルデュスの最後の伴侶・出田節子は、東京生まれで上智大学フランス語科に在籍していた。
巨匠は京都でたまたま出田節子と出会い、ヨーロッパで共に生活をすることになるが、バルデュスと節子夫人との出会いと同じように、名門のオーストリア人に見初められて、ヨーロッパで一生を終えた女性のことを思いだした。
ヨーロッパで有名な香水に「MITUKO」があるが、この香水の名前「MITUKO」の主は、青山光子という女性である。
青山光子は、東京牛込の骨董商の娘でった。
1874年、ある冬の日この骨董屋の前で氷水に足を滑らせ怪我をした外国人の世話をしたのがシンデレラ・ストーリーの始まりである。
この外国人男性はオーストリア大使として日本を訪れていた人物であった。
青山光子は日本人女性にしては背も高く教養もあり、お互いに美術面での趣味を共有し、二人は恋に落ちる。二人の結婚話となり、親はもちろん親戚一同猛反対したうえ、夫の名家カレルギ家側も結婚を認めず圧力をかけた。
しかし3年後、二人は周囲の反対を押しけて、めでたく入籍することになる。この時、二人の間には既に「光太郎」「栄次郎」という子供がいた。
まもなく夫に強制帰国命令が出るや、悩みに悩んだ光子は遠く離れたオーストリアに移住する決意をする。カレルギ家の領土はオーストリアのボヘミア地方にあり、光子は十数人の使用人のいるロスンベルク城で優しい夫と7人の子供とに囲まれ幸福な日々を送った。
しかし1906年、夫ハインリッヒの突然の死は情況は一変した。庇護者を失った彼女は、異国の地で一人で生きていかなければならなくなる。
夫の遺書には財産すべてを光子に譲渡するとなっていたが、当然カルレギ家は日本人女性などに財産を渡さないように裁判まで起したが、光子の毅然とした態度でこの裁判にも勝訴した。
光子という女性の優れた点は、子供たちに対する教育理念で、それは彼女が残した多くの手紙の中に表れている。
そしてヨーロッパの上流階級では、彼女の日本の明治思想と欧州の理念を融合させた厳しくも優しい教育理論は高い評価を得ている。
光子はすべての子供たちを名門学校に入れて、カレルギ家の伯爵夫人として、ウィーンの社交界に登場する。
日本女性として初めてことだったが、彼女の凛とした立ち居振舞いから「黒い瞳の伯爵夫人」として社交界の花形となっていく。
そして、彼女の噂にひろがるにつれ、フランスのゲラン社は「MITUKO」という名の香水を発売したのである。
しかし1914年に第一次世界大戦勃発し、敗戦国オーストリアの光子は、その財産を日本を含む敵国に奪われることになるとは、皮肉なめぐり合わせであった。
その後、光子はウィーン郊外で晩年を過ごし病と闘いながらも、カレルギ家の復興のため尽力した。
オ-ストリアでの45年間、一度も日本に帰国することなく1941年に67歳で亡くなっている。
ところで息子の栄次郎は、1923年に著書「パン・ヨーロッパ」を発表した近代におけるEU(欧州連合)の提唱者として知られた人物・リヒャルト・クーデンホーフ・カレツキである。
彼をモデルとした人物像を意外な映像で見ることができる。
なんと栄次郎は、映画「カサブランカ」でポール・ヘンリード演ずる反ナチス抵抗運動の指導者、ヴィクター・ラズロのモデルとなった人物なのだ。
ラストシーンではイングリット・バーグマンとともに飛行機で逃れる人物である。
リヒャルト(栄次郎)は母についてこう述べている。「彼女の生涯を決定した要素は3つの理想、すなわち、名誉と義務と美しさであった。
ミツ(光子)は自分に課された運命を、最初から終わりまで、誇りをもって、品位を保ちつつ、かつ優しい心で甘受していたのである」。
香水「MITUKO」の特質は、「気品あふれる香水で大人の女性に愛される」とある。
ちなみに、バルデュスは少年時より東洋への憧れを抱くが、その絵にしばしば登場する猫の名は日本名「ミツ」であった。

さてバルデュスの最後の伴侶となる出田節子は、熊本の菊池一族をルーツとしている。
1984年、6月に京都市美術館で開催中の「バルテュス展」にバルテュス氏、娘の春美さんと来日し、その折に家族水入らずで節子の祖先の地である菊池市を訪問している。
菊池一族は、熊本の隈府(わいふ)に本拠地があり、そこに今、菊池美術館が立っている。
この地は、南北朝時代に13代菊池武重が加賀祇陀寺の大智禅師を招いて建立し、開山された禅宗の寺跡で、菊池一族の拠点といってよいところである。
ところで、我が福岡も、菊池一族と縁が深いところである。
建武の新政が崩壊した後、後醍醐天皇は各地に自分の皇子を派遣して味方の勢力を築こうと考え、まだ幼い懐良親王を征西大将軍に任命し、九州に向かわせることにした。
懐良親王は薩摩に上陸し、足利幕府方の島津氏と対峙しつつ、九州の諸豪族である肥後の菊池武光や阿蘇惟時を味方につけ、1348年に隈府(わいふ)城に入って征西府を開き、九州攻略を開始した。
そして、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。
一方、足利幕府(北朝)は、博多に鎮西府大将として一色氏らを置いて、南朝勢力と対決しそれを潰しにかかった。
少弐頼尚に支援を求められた菊池武光は針摺原の戦い(福岡県太宰府市)で一色軍に大勝し、懐良親王は菊池・少弐軍を率いて豊後の大友氏泰を破り、一色範氏を九州から追い払った。
ところが少弐頼尚が幕府方(北朝)に寝返っため、菊池武光ら南朝方は1359年の筑後川の戦い(大保原の戦い)でこれを破り、懐良親王は1361にツイニ九州の拠点である大宰府を制圧する。
しかし1367年足利幕府は、今川貞世(了俊)を九州探題に任命して派遣して、それに対抗した。
その結果、懐良親王は大宰府を追われ、征西将軍の職を後村上天皇の皇子である良成親王に譲り、筑後矢部で病気で薨去したと伝えられている。
さて南朝方の九州の主力として、1333年に菊池武時は後醍醐天皇の密命を受けて、鎌倉幕府を倒すことを図っていた。
菊池氏は、元軍日本に攻めてきた元寇のときに奮したのにも関わらず、満足な恩賞をもらえなかったことや、北条氏から良い待遇をされなかったことに不満をもっていたからである。
今の博多駅に近い祗園辺りに鎌倉時代につくられた幕府の出先機関である鎮西探題があり、菊池武時はそこを攻撃した。
しかし菊池武時は少弐氏・大友氏の離反によって敗死し、馬上の武時の首は福岡市六本松付近で落ち、七隈付近でその胴体が落ちたといわれる。
この胴体を祭った胴塚が七隈菊池神社の創始とされ、現在福岡大学近くにある。
また、六本松の九州大学教養部近くには菊池霊社がある。
1978年、鎮西探題があったと付近だと言われている祗園町の東長寺前で地下鉄工事をしている際、110体分の火葬された遺骨がマトマッテ見つかった。
14世紀前半に埋没した溝の上から出土したこと、刀傷がある遺骨も含まれていたことから、菊池一族の遺骨ではないかと言われている。
菊池武時はこの戦いで敗れたものの、その後の鎌倉幕府の倒幕運動のきっかけとなり、2ヶ月後には鎌倉幕府は滅亡している。

熊本の菊池夢美術館には、隈府(わいふ)ゆかりの出田節子と徳冨愛子に関連したコーナーが常設されている。
徳富愛子は、明治の文豪徳富蘆花の夫人で1874年、菊池市隈府中町で酒造業原田家の長女として生まれた。
愛子は文学少女として成長し、長じて東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)に学んだ。
教師となるもあきたらず、英語、音楽、そして絵画の道を自らみがき、その多彩なる才能は夫・蘆花の作品にことごとく表れている。
一方、出田節子がフランス語を学んだ学生の頃、京都のお寺の国宝級の美術品が見られると聞いて、仏使節団の見学に参加した。
そこで、バルデュスに見初められ、モデルになるのを口実として交際するようになる。
バルデュスは、節子につき「憧れていた日本の形がその姿のうちに秘められてた」と語っていいる。
一方、節子は「私はバルテュスに誘拐されたようなもの」と語るが、次第に画家の考え方に惹かれ、一生を託してもいいと思うようになった。
1970年代の初めはイタリアで暮らしたが、77年からはスイス・アルプスのグラン・シャレに住み、2002年に 亡くなるまでバルテュスとともに暮らした。
夫妻がスイスに住むきっかけとなったのは、バルテュスがモロッコ時代に患ったマラリアで、スイスの山なら発病しないという医者の助言でスイスで棲家を探すこととなった。
そして二人でたまたま立ち寄ってお茶を飲んだホテルがとても気に入った。
木のきしむ音、屋根の傾斜などが日本の合掌造りの住まいを思い浮かばせ、しかもそれが丁度売りに出ていたのである。
そしてそこが二人が住居・兼アトリエとしたグランシャレである。
バルデュスの終の棲家は、結局子供の頃から心惹かれていた東洋の雰囲気が漂う古い木造建築であった。
実際グランシャレは、木造の構造や周囲の山々に囲まれた荘厳な雰囲気によって、日本の山中に建てられた感じさえ漂わせる。
そこで節子夫人はバルテュスの傍らで、常に和服を着て過ごした。
それは彼の強い希望だったようで、バルテュス自身も着物を普段に愛用していたという。
さらに節子夫人も自ら絵を描くようになり、バルテュスが本当の自分をみつける手助けをしてくれたと語っている。
さらに夫人は、「彼の絵のように私も彼によって造られました」と語っている。
そして1973年にバルテュス夫妻には、一人娘・春美が誕生している。
近年、Harumi Klossowskaという名前で、彼女のブティックが表参道のエスキス内にオープンした。
オープニングパーティーには母・節子と共に、女優の宮沢リエや、版画家の山本容子などを招待している。
なお、熊本菊池の隈府ゆかりの徳富蘆花と愛子夫人、バルデュスと節子夫人、ともども大変仲の良い「おしどり夫婦」と伝えられている。
仲の良い夫婦にあやかり、菊池では「よいワイフ=隈府」で「おしどり夫婦の里づくり」をアピールしている。
そして菊池市では毎年11月22日を「いい夫婦の日」と定め、「おしどり夫婦の里。菊池ワイフ物語」を町おこしの一環として発信している。