その系図に聖人なし

聖書には一人の聖人も登場しない。
人間がなんでも偶像化したがること知っているかのように、いつかどこかで過ちとボロを露呈する人間ばかりが登場する。
というより、それが人間なのだといわんばかりだ。
人が偶像を作りたがるのは、カトリックが立派だとおぼしき人間を「聖人」に列することにも表われているが、それと同じくらいに人は人を安易に裁きたがるものである。
聖書にあるとうり、悲運や不幸や病にある人を裁く傾向がある。
しかし悲運や不幸は神に捨てられるどころか神に近づく機運となり、むしろ神に愛されて「扱われている」人であるように思える。
聖書には「神は愛するものを訓練し受け入れるすべての子を鞭打たれる」(ヘブル12:6)とある。
反対に神の前に空しい栄光というものあるし、この世の誉れがアダになって神に捨てられるということもある。
さらに人間には、なぜか神の恵みと哀れみが寄り添う人間もいるし、才能もあり人望も大きいのに神の恵みを喪失して転落していく人間がいる。
例えば、サウル王とダビデ王の人生を対比してみるとそれがよくわかる。
また、十字架にむかうイエスを明確に否定した人間は2人いる。
一人はイエスを売り渡したユダ、もう一人はイエスを三度も知らないといったペテロである。
ところが二人の運命はまったく異なっている。
ユダは首をくくって死に、紐が切れて内臓が岩に露出したことまでも記載されている。
一方ペテロは、イエスの預言どおりにイエスを裏切り泣き崩れる姿が記載されているが、イエスの復活と出会いキリスト教会の基となっている。
「神はその愛そうとするものを愛し、恵もうとするものを恵む。(出エジプト33:19)」とある。
さてこの世には、神を慕う「悪人」もいるし、神に無頓着な「善人」もいる。果たしてどちらが神の目にとまっているか。
一般的なことはいえないが、「おおよそ自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるだろう」(ルカ18:14)と、善人を自認するものに実に手厳しい。
この世界で、神の祝福を受ける人の条件はハカリガタシなのだが、聖書は神がこの世の価値観とは相当異なる視点で人をみているということはいえそうだ。

新約聖書の冒頭は、イエス・キリストの系図で始まる。
この系図の中には、一般に王たるものや聖なるものの系図としては、絶対に「抹消」されるであろう四人の女性が登場する。
タマルは故意に人を欺き姦淫を犯した女、ラハブはエリコの遊女であり、ルツは当時のユダヤ人が忌み嫌ったが異邦人モアブの女、そしてダビデとの不義の末にソロモンを生んだウリヤの妻である。
真実を知れば、この血筋の中から「救世主」(メサイヤ)が生まれるナンテと思いたくもなる系図なのだ。
さて、イエス・キリストの系図はアブラハムにはじまる。そしてイサク、ヤコブ、ヨセフと続くが、出エジプトの指導者モーセはこの系図にはいっていない。
ヤコブはイスラエルと名前をかえるが、イスラエルには12人の子がいた。
そしてこのイスラエル12部族が「イスラエル民族」であり、その多くは歴史のかなたに雲散霧消した。
ただ12人の子のうち長男の「ユダ族」は比較的まとまって残存しており、イスラエルの民を「ユダヤ人」と称するようになったのである。
さてこのユダはカナン人の娘を気に入ってめとり、エル、オナン、シェラという男の子を生んだ。
そしてユダは長子エルにタマルという妻を与えたが、エルは神の怒りをかって死んでしまう。
そこでユダは、次男のオナンに兄嫁のところにはいって子孫を残すようにいったが、オナンは生まれる子が自分のものにならないことを知って、その務めをよく果たさなかった。(そこでオナンに派生する言葉が生まれた)。
このことは神を怒らせ、次男のオナンもまた死んでしまう。
そこでユダは、兄嫁のタマルに三男シェラが成人するまで寡婦(やもめ)のままでいなさいと命じた。
しかし、タマルはシェラが成人してその子供を生んだとしても、シェラの妻にされないことを知って、ある信じられない策を講じた。
舅(しゅうと)であるユダが羊の群れの毛を切るためにティムナという町に出かけたという噂をききつけ、先回りしてその沿道で「遊女」の姿をして待っていたのだ。
ユダは、その遊女が自分の嫁だと知ることもなく、彼女のもとにはいったのである。
そして遊女に扮したタマルが、ユダに何をくれるかと尋ねると、ユダは群れのなかから子ヤギを送ろうといった。
そこでタマルは、その「しるし」を求めたので、ユダは印形の紐と杖を与えた。
そしてタマルは舅ユダによって身ごもり、また寡婦の服を身にまとって何ごともなかったように元の生活に戻ったのである。
その後ユダは「遊女」に約束どうりに子ヤギを送ろうとしたが、そのあたりに遊女などはもいないことを知って不思議に思った。
さて約3ヶ月して、寡婦の嫁タマルが売春によって身ごもっていると告げるものがあった。
ユダは彼女を引きだして焼き殺せと命じたが、タマルは「これらの品々の持ち主によって身ごもった」といって印形の紐をとりだして見せた。
舅ユダはそれを見定めて言葉を失ったが、彼女をそれ以上責めることはなかった。
そしてタマルの胎内には舅ユダによって双子が宿っていたのである。

イエス・キリストの系図をさらにくだると「ラハブ」という女性が登場する。
出エジプトを実現したモーセがなくなり、その後継者ヨシュアによってめざすカナーンの地に入ろうと したときに、ヨシュアはその状況をさぐろうと二人の斥候(スパイ)を遣わせた。
彼らはエリコに住んでいたラハブという遊女の家にはいり、そこに宿泊した。
ところが通報するものがあり、エリコの王はその斥候を連れ出すようにと、使者を遣わせた。
ラハブは二人を屋上の亜麻の茎の中に隠しておいたのだが、使者に二人がどこから来たのかさえ知らず、朝早くでかけていったと誤魔化して彼らを匿った。
その後ラハブは二人の斥候に、エジプトをでたイスラエルの民が紅海の中を通って逃れ、エジプトの兵士が溺れ死んだことなどを聞いて、イスラエルの神を恐れていることを語った。
そしてラハブは、イスラエルの民がカナーンに攻め入る際には、自分が二人に真実をつくしたように、彼らも自分の家族を救ってくれるように頼んだ。
そして二人は、ラハブとその家族を救うことを約束したのである。
ラハブは、彼らを綱で窓からつりおろして逃し、自分の住まいの目印として窓に「赤いひも」を結んでおいた。
この「赤いひも」は、イスラエルがエジプトを脱出するに至るまで様々な災いがエジプトを襲うが、疫病がイスラエルの家には襲わない(つまり過ぎ越す)ように、鴨居に羊の血をぬった出来事と符合する。

さらにイエスの系図を下るとルツという女性がでてくる。この女性は遊女に扮装したり、またラハブのように遊女だったわけでもなく、当時イスラエルが忌み嫌う異邦人の女性であった。
さて、イスラエルの地に飢饉があった。そしてベツレヘムからモアブの地に移り住んだエリメレクの家族がいた。
モアブといえば、アブラハムの甥のロトの子孫であり、イスラエルからすると「異邦人」である。
モアブに移住したエリメレクは亡くなり寡婦となったナオミは、モアブ人の女性を二人の息子に嫁として迎えた。
こうして彼らは十年の歳月を過ごしたが、ナオミは二人の息子にも先立たれてしまう。
夫にも先立たれ、二人の息子をも失う不幸に見舞われたナオミは、涙も涸れ果ててしまったようだ。
そんな折り、故郷ベツレヘムから豊作の知らせが届き、ナオミは故郷に戻れば、食べることだけには困らないかもしれないと帰郷を決意した。
しかしナオミは、イスラエル人が異邦人(モアブ人)を嫌っており、モアブ人である嫁までも連れて行くことに気がひけた。
それは、聖書の次の言葉によくあらわれている。
「アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その10代の子孫でさえけして主の集会にはいることはできない」(申命記23章)
そこでナオミは、二人の嫁の幸せを願ってれぞれの実家に帰り、再婚して新たなスタートをきるようにすすめた。
息子(弟)の嫁のオルパは、この勧めに従って故郷に戻ったが、もう一人の息子(兄)の嫁のルツはナオミの勧めを受け入れず、あくまでも姑ナオミについて行くことを願った。
その時ルツは「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」(ルツ1章16節)と訴えた。
つまりルツは、姑ナオミの信じる「イスラエルの神」を信じ、ナオミと共に生涯を送ろうという意思を表明したのである。
姑ナオミは、堅く離れようとしないルツを受け入れ、二人はナオミの故郷ベツレヘムへとむかった。
二人がベツレヘムに到着したのは、大麦の刈り入れの始まった頃であった。
ナオミの旧知の人々は声をかけたが、ナオミは「楽しむもの」を意味する自分の名で呼ばれるのさえつらく、いっそ「苦しみ」を意味するマラと呼んでくれと語っている。
ところで亡くなった夫エリメレクは土地を所有していたが、継ぎがいないままであり、その土地は売られて他人の手に渡ろうとしていた。
ユダヤ法では、夫がなくなるとその兄弟がマズ優先的に土地を買い取る権利を有する。
また結婚した男性が子どものいないまま死んだ場合、死んだ男性の兄弟が寡婦を自分の妻としてめとる権利があった。
ベツレヘムには、エリメレクの遠縁にボアズという金持ちがいた。そしてボアズもその土地を買い戻す権利を持つ一人だった。
また当時、ユダヤでは、寡婦となった貧しい者や寄留者には、収穫後の「落ち穂拾い」の権利が与えられていた。
そして何の導きによるのものか、ルツは「はからずも」ボアズの畑へと導かれていたのである。
ボアズは、働き者のルツに好意を寄せ、落ち穂を拾いやすいようにするようにと畑の若い者たちに命じた。
ボアズのルツに対する好意を知った姑ナオミは、寡婦の権利に訴えて、ルツの将来を保証しようとしたのである。
そしてナオミは、ルツにからだを洗い、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行くこと、ボアズが寝る時に、その足のところをまくって寝ることをすすめた。
これは、当時のユダヤの「求婚」の習慣に従ったものであってけして特別なものではない。
ボアズは、そんなルツの姿を見て「あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっている」と語った。
先の真実というのは、ルツが夫の死後、姑のナオミについてきて異国の地までナオミを支え仕えたことを指している。
あとからの真実というのは、自分の夫の名を相続地に残すために、一族であるボアズを夫として選んだことである。
そして、ボアズがルツを妻として迎えたことによって、モアブの女ルツは、はからずもダビデ王の「曾祖母」となることになる。
全てを失ったかに見える姑ナオミと嫁ルツに対して、神は故郷ベツレヘムで、溢れんばかりの祝福を与えたのである。
異邦人に神が等しく祝福を与える「預言」のような出来事だが、異邦人の女性が「信仰」によって祝福をうけることは、後にイエスの接した女性の中にもいた。
それは娘が悪霊につかれて苦しんでいると助けを求めたカナン人(異邦人)の女性に対して、イエスは女性の信仰をためすかのように「自分の子供のパンを子犬に与えるのはよくない」と答える。
すると女は、主人のテーブルをめぐる子犬でさえもパンくずぐらいはいただくと答える。
イエスは異邦人の中にそんな信仰をもつものがいるのかと驚嘆して、彼女の娘が今癒されたことを宣言したのである(マタイ15章)。

イエスキリストの系図に登場するもう一人の問題の女性はウリヤという男の妻である。
ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王室の屋上を歩いていると一人の女性が体を洗っているのが見えた。
その女性は非常に美しく人をやってその女性について調べたところ、ウリヤの妻であるとの報告を受けた。
ダビデは使いのものを送ってその召しいれてその女性と寝た。
そしてダビデは女が身ごもったことを知るや、夫であるウリヤをよびつけ戦いの恩賞を与えた上、隊長であるヨアブに手紙を持たせた。
その手紙にはなんと「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなた方はしりぞき、彼が打たれて死ぬようにせよ」と書いてあった。
そしてウリヤも激戦の中で戦死した。
そして妻は夫ウリヤの死を聞いていたみ悲しんだ。
喪が明けると、ダビデは彼女を自分の家に迎えいれて彼女を妻とした。
しかしダビデのこうした行いは、神を大いに怒らせダビデはこのとにより大きな試練を経験する。
幼子の一人を失い、息子の一人が王位を奪おうと反乱をおこす。
ダビデはその反乱に追い詰められるのが、その息子が事故で死ぬやだれも慰めるものがいないほどに号泣するのである。
ところでダビデ王とウリヤの妻との間にできた子供こそがユダヤ王国全盛期の王ソロモン王なのである。
ソロモンは智恵に溢れた王で、その智恵は周辺諸国に聞こえた。
有名なシバの女王もソロモンの智恵を伺いにユダヤ王国を訪問している。

旧約聖書の出来事は、新約聖書と独立してよむのではなく、新約聖書の「影」または「預言」として読むとその奥行きの深さがわかる。
聖書は、アブラハムの子孫であるイスラエルに属するものではない「異邦人」であっても、この系図に「接木」されることを語っている。
「しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのである」(ローマ11章)。
それでは何によって「接木」されるかというと、パウロは異邦人が「信仰」によってアブラハムの子孫と同じになることを書いている。
「聖書は、神が異邦人を信仰に信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに”あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう”との良い知らせを、予告したのである。このように、信仰による者は信仰の人アブラハムと共に祝福を受けるのである」(ガラテヤ人3章)
さらに、「アブラハムの受けた祝福が、イエスキリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためにである」(ガラテヤ人3章)と言っている。
とするならば、いかにイスラエルの民籍に遠くとも、信仰によってイエスキリストの系図と「接木」され、アブラハムの子孫と同じ祝福にあづかる立場になることを意味する。
聖人ばかりの系図ならばさぞや敷居が高かろうが、イエス・キリストの系図の人々は、我らと何ら変わることない弱点と欠点ばかりの人達なのでした。