予算オーバー

どんなプロジェクトでも、「予算獲得」こそはことの成否を決める重要な要素だが、それが性急な成果主義と結ぶついて不幸な結果を生んだのが STAP細胞論文問題である。
STAP細胞問題の背景に、理研の「特定国立研究開発法人」昇格とそれに伴う大はばな予算獲得への焦りがあったことが推測される。
最近では、東京オリンピックの舞台となる新国立競技場建設の予算削減が話題になっていたが、ある部分国のシンボルになるだけに、少々残念な気がした。
世界を見渡せば、このレベルの斬新な建造物では、シドニーのオペラハウスのケースがある。
オペラハウスとえばオーストラリアのシンボル的存在で、毎年世界中からたくさんの観光客が訪れる。
遠くから眺めるオペラハウスは、シドニー湾に漂うヨットの帆のようでとても壮観である。
驚くべきことに、このオペラハウス、1973年に完成してその後一度も修繕されていない。
真っ白なオペラハウスの屋根を保つには、タイルの張替が必要と思いがちだが、あの白さには秘密が隠されている。
真っ白のタイルと、ベージュのタイルを交互に張り合わせることによって、より白さを強調しているのだ。
あの斬新なデザインは没にされていたが、遅れて参加した審査員の一人が却下されたデザインをもう一度見せてくれと懇願し、このデザインが敗者復活して最終的に選ばれたもの。
ところがオランダのデザイナーによる斬新なアイデアを実現するには難題が多く、斬新で複雑なデザインだけに、何度も試行錯誤されたからだ。
当初の予算の何倍もかかり、とんでもない国家予算オーバーとなったが、よくも建設が続けられたと思う。
実は、その資金は”宝くじ資金”から工面されたという。
しかし、資金や期間がオーバーしても、なんとか実現にこぎつけたのは、プロジェクトそのものに人々をひきつける魅力があったのではなかろうか。
そし多くの人々が今や、オペラハウスがそれだけのコストをかけただけの相当の価値を見出しているのである。

1891年、チャイコフスキーの指揮でのこけら落としとなった音楽の殿堂カーネギーホール。
その歴史の中に、そして50人の子どもたちと一人の女性が、このステージで満場の喝采を浴びるほのぼのとしたシーンがあった。
今からおよそ20年前、たった50挺のヴァイオリンから始まった物語である。
ロベルタ・ガスパーリという女性、夫と離婚し、2人の子どもとともに生まれ故郷へ戻ってきた。
生活のため、彼女はギリシャで買った50挺のヴァイオリンとともに、ニューヨークでも最も物騒な地域、イースト・ハーレムにある小学校にやってきた。
校長の理解を得て「臨時教員」として50人の音楽クラスを受け持つことになる。
しかし、管理主義的な学校のシステム、人種差別の壁、暴力に巻き込まれ家族を失う生徒、複雑な家庭環境に育った「一筋縄」にいかない小学生バカリであった。
夢を抱くにはあまりに過酷な運命に巻き込まれる者もした。
しかしロベルタは、「あなたたちは何でもできる」と子どもたちの無限の可能性を信じ、ヴァイオリンを通して自分に誇りを持つことを、教えつづける。
しかしヴァイオリンを手にした子供たちは、音楽を奏でる喜びと誇りを抱くに至ってミルミル上達し、保護者を前に開いた「演奏会」も大盛況に終わった。
そして、50人の子どもたちから始まったこの“イースト・ハーレム・ヴァイオリン・クラス”は、今では毎年150人以上の生徒を抱える人気クラスとなった。
しかし一方で、ロベルタ先生の「実生活」は大変なものだった。
離婚以来荒れて手のつけられなくなった息子との関係に悩み、交際していたパートナーとも別れることになった。
それでもロベルタの「音楽とふれあう喜び」を教えようとする彼女のひたむきな姿は、やがて子どもたちに希望を灯し、そして自分の力を信じることを教えていく。
しかし苦難の時を経て10年後には、ロベルタのヴァイオリン教室は3校に150人の生徒を擁し、受講者を「抽選」で決めねばならないほどの人気クラスとなっていった。
しかしクラスが始まってちょうど10年目、それだけの成果にも関わらず、ニューヨーク市の教育委員会は経費削減のため芸術科目への資金打ち切りを決定した。
ロベルタが育てたクラスは存続の危機に立たされていた。
そこでロベルタは、 クラス存続のため、ロベルタはみんなの力を借りてチャリティ・コンサートを開こうと決意する。
友人の夫がヴァイオリニストだったことも手伝って、一流のヴァイオリニストがこのコンサートの趣旨に賛同した。
しかし、コンサート会場がトラブルのため使用不能になり、開催さえもが危ぶまれる羽目に陥る。
ところが、ここから「サプライズ」がおきる。
事情を知った有名ヴァイオリニストの「運動」で、ナント、会場が「カーネギーホール」に決定したのである。
大勢の観客が見守る中、ロベルタと50人の子供たちは、世界の「音楽の殿堂」で、アイザック・スターンが、イツァーク・パールマンが、ジョシュア・ベルなど有名ヴァイオリニストを交えたセッションが、カーネギーホールで行われた。
観客は、子供達のヴァイオリン演奏にスタンデイング・オベーションで応えた。
1996年のアカデミー賞ドキュメンタリー部門に、ロベルタがカーネギーホールでのコンサートを成功させるまでの活動を記録した映画「スモール・ワンダーズ」がノミネートされた。
この作品を観て感激した映画会社社長とウェス・クレイヴン監督が映画化の権利獲得に奔走し、まさにアカデミー賞授賞式の会場で、ロベルタ本人との契約が成立した。
そのドキュメンタリーの長編映画化が、メリル・ストリープの主演の映画の「ミュージック・オブ・ハート」である。
そしてロベルタの作ったヴァイオリン教室は大きな話題となり、まさに「ミュージック・オブ・ハート」の撮影中、市の教員委員会によりクラスは再開され、「その後」も存続することになった。
さらに、ロベルタの住んでいる通り(118丁目)に由来して、非営利団体「オーパス118音楽センター」財団となった。
この財団は小学校カリキュラムの中心に音楽と芸術を戻すために活動し続けた。

今から4年前に帰還に成功した「はやぶさ」は、珍しくも世界に先駆けた日本の挑戦だった。
何しろ、この広い宇宙のなかで芥子粒ほどの小惑星イトカワから物質を集めて、「地球創生」または「宇宙創生」の秘密をさぐろうというのだ。
仮に、地球外物質を採取できたとしても、地球に戻ってこれるかは、「発射台から地球の裏側のブラジルのサンパウロのてんとう虫に当てる」ぐらいの難しさなのだそうだ。
ところで、この「はやぶさ」の成功をより感動的にしたことは、幾度か「ダメか」という窮地においこまれつつも、「復元」したからである。
それは「はやぶさ」というロケットのことではなく、この開発に関わった人々の気持ちのことでモある。
特に、「はやぶさ」からの電波が数ヵ月も届かずに、その行方は「絶望視」されたこともあった。
約30名ほどからなるスタッフは、「はやぶさ」から電波が届く限りにおいて、そのデータを解析したり、修正したりして、日々充実した仕事にあふれていた。
しかし、電波が届かなくなった途端に、何もすることもなくなった。
せいぜい、管制室にブラリとやってきて話をする程度だった。
そんな時、「はやぶさ」プロジェクトのリーダーである川口淳一郎氏の役割は、皆の気持ちを「繋ぐ」ということだった。
川口氏はメンバーが立寄ったときに、管制室に熱いお茶が置くとか、ゴミをチャント捨てておくことを通じて、このプロジェクトが依然「死んでいない」というメッセージを送ったという。
さらに川口氏は、「はやぶさ」からのデータが途絶したあとでもスタッフに、「もしもこういう場合にはどうする?」という形の宿題を出し続けたという。
それは宿題の内容も、スタッフの「気持ち」を繋ぐコトが主な目的であったという。
その為にはプロジェクトが「アクティブである」というメッセージを出し続けたといってよい。
しかし、川口氏が「繋ぎ」とめるべきもっと重大なものがあった。
それは、国の「予算」である。
データ途絶により、文科省のなかでも「予算打ち切り」の話がもちあがっていた。
川口氏は次年度の予算を確保するために、つまりプロジェクトの「継続」をはかるために、「通信が復活する」可能性をバックアップ用のバッテリーの「残存量」などからはじき出した。
それを客観的に提出して、ドウニカ国の予算を確保することができた。
スペースシャトル・チャレンジャーでの爆発事故の際、低温でおきる装置の不具合が「予測」されたが、そのリスクが客観的な数値として提出されていなかった為に、そのリスクが「過小評価」されたのだという。
川口氏の場合は、残った成功の「可能性」を導き出したために、「プロジェクト」は生き残ったということである。
そしてある日突然に、「通信」が復元したのである。
実は、小惑星イトカワの表面はとてもゴツゴツしていて、探査機が着地できる状況ではなかった。
そこで、担当外のスタッフのアイデアで、シャトルから弾丸をはなち、そこからマキ上がる物質を採取するという方法がとられた。
そして「弾丸」が発射されたという「信号」が地球におくられてきたのだ。
管制室にたまた残って仕事をしていた「はやぶさ」スタッフは、この「信号」にワキにワイタのである。
早速、「世界初の快挙」のニュースは、世界にも伝えられた。
ところがわずかその1週間後に、プログラムミスがみつかり、「弾丸が発せられていなかった」可能性があることが判明した。
川口氏自身が「知らないほうがよかった」ともらした情報である。
内部で隠しておけば当面は隠せるものであった。
一時は、口もキケナイほど消沈していた川口氏だが、その事実をあえて世界に公表した。
逆にこの「不都合な真実」の公表がプロジェクトの「信用性」を高める結果となった
。 ところが、ソレカラ数か月後に、突然「はやぶさ」の電波が管制室の画面に確認されたという。
そして、イトカワの物資を採取した「はやぶさ」は見事にオーストラリアに着地することに成功したのである。
誰も口に出しはしなかったものの、正直「アキラメ」た者が多かった。
しかし真実を隠蔽せず、少しの可能性にも賭けスタッフの気持ちを繋いだ点が、成功に繋がった。

黒澤明は「生きる」に次いで、リアルな時代劇の制作を考えた。
それまでの時代劇は歌舞伎などの影響を受けすぎており、そのイメージを根底から覆すようなリアルな作品を撮るということである。
黒澤を含む3人は45日間、箱根・水口園に閉じこもって脚本を書いていた。3人はそれぞれが並行して書いていき、一番いいものを採用するという方式をとった。
その時の緊迫感は、お茶を運びに来た女中も怖くて声なんかかけられないほどであったという。
そして、七人の侍のキャラクターのイメージは大学ノート数冊にびっしりと書かれている。
そして侍と農民の間をつなぐキャラクターの造型には3人とも相当に 呻吟した。
このキャラクターこそ半分武士で半分農民である三船敏郎演じる「菊池代」である。
黒澤は、ある対談で、どうしたらあのような絶妙なシナリオが書けるのか問われると、この脚本の根底にあるのはトルストイの「戦争と平和」であると答えている。
黒澤作品の多くは、世界文学の影響を受けているものが多いが、それが世界に通じる「普遍性」を得た主因なのかもしれない。
黒澤は、アメリカで西部劇の傑作を生んだ「ジョン・フォードみたいな時代劇が作りたい」と考え、そのリアル感の追及も半端なものではなかった。
一人の人間が何十人もの相手を斬るって言うのは嘘だと、何十本もの刀を用意して刀を替えながら戦ったという剣の名人の足利義輝に倣って、菊千代に刀を地面に立てさせ、何人か斬る毎に刀を替える場面を挿入している。
また黒澤監督はドボルザークの「新世界交響曲」が好きで、今に監督になったらこんな感じの映画を撮りたいと思い続けていた。
それにしても、豪雨の中での合戦シーンというそれまでになかった手法に、ハリウッドだけでなく世界中の映画関係者、映画ファンを驚かせた。
「新世界」というバックミュージックとマッチしていたのは、黒澤がそこからイメージを膨らませていいったものだったからかもしれない。
景撮影は大部分が東宝撮影所付近の田園(現:世田谷通り大蔵団地前)に作られた巨大な村のオープンセットと、伊豆から箱根にかけて、丹那トンネル直上や伊豆市堀切など各地の山村でのロケーション撮影で行われた。
ロケ地にもオープンセットと違和感なくつながるように村の一部を建設したため建設費も大きくなった。
冒頭の武士が村を見下ろす場面と、大俯瞰の村々のセットは丹那トンネル真上に作られた。
「七人の侍」出演の決まった無名時代の仲代は毎朝早くに撮影所に出掛け、家に帰る頃には足の親指と人差し指の間が(鼻緒で)擦れて血だらけになっていて、仲代は「黒澤監督ってのはすごいよ、今日も一日歩かされた」と語っている。
浪人が歩く数秒のカットだけで、黒澤監督は何日もリハーサルを重ねて撮影に臨んでいた。
また、場面に相応しい雲が出現するまで撮影を行わなかった。
「七人の侍」の撮影は1953年5月に始まったが、会社側は8月いっぱいで撮影と編集を終了させ、秋に公開するという予定だった。
しかし、撮影は8月が過ぎても一向に終わる気配がなく、秋になると「一体いつ終わるのか」と賭けをする者もあらわれ、黒澤自身までその賭けの仲間に入ったという。
そうこうするうちに年越しの気配となり、撮影所所長が余りの予算と日数のオーバーの責任をとって、辞表を出す騒ぎとなった。
こうしてついに東宝本社は撮影中止命令を出し、「撮影済みのフィルムを編集して完成させる」と決定した。
そして、重役だけ集めて試写を行った。
試写フィルムは、野武士が山の斜面を駆け下り、菊千代が「ウワー、来やがった、来やがった!」と屋根で飛び上がり、利吉の家に旗がひらめいたところで終わり、ここから合戦という場面でフィルムがストップする。
重役から「これの続きは」と詰め寄られ、黒澤は「ここから先はひとコマも撮っていません」と告白した。
そのまま予算会議となり、追加予算を付けてもらうことに成功した。
重役達は「存分にお撮り下さい」と黒澤に伝え、撮影所所長は復帰した。
撮影再開が決まり、黒澤家ではスタッフキャストを集めて乱痴気騒ぎの大宴会が開かれた。
黒澤は「最初からこうなることを予測して、最も肝心な最後の大決戦の所を後回しにして撮らなかったんだよ」と語っている。