よみ人知らず

吉田学校といえば、終戦後に吉田茂首相の下で働いた若き官僚達で、後に有力な政治家になる池田勇人、佐藤栄作 前尾繁三郎などである。
しかし、もうひとつの吉田学校がある。作曲家・吉田正が育てた歌手(or俳優)として活躍した吉永小百合、橋幸夫、三田明などである。
ところで吉田正作曲のヒット曲には、 三浦洸一「異国の丘」 鶴田浩二「傷だらけの人生」 フランク永井「有楽町で逢いましょう」 松尾和子「誰よりも君を愛す」 橋幸夫「潮来笠」 吉永小百合「いつでも夢を」 三田明「美しい十代」などのほか数多くある。
実は、作曲家吉田正は、個人的にも馴染みのある名前である。
現在勤務する学校の校歌の作曲家にナント「吉田正」というビッグ・ネームを見つけた。
あの「有楽町であいましょう」の作曲家で「国民栄誉賞」を受けられた、アノ吉田正だろうかと思いつつ、「五十周年誌」で調べると、確かにアノ吉田正に間違いなかった。
初代校長の同僚の友人が日本ビクター専属の作詞家の井田誠一で、校歌の作詞を依頼したところ、そのツテでビクター専属の作曲家・吉田正に作曲を依頼することとなった。
井田誠一は、「若いお巡りさん」「バナナボート」のなどの曲で作詞(訳詩)をされた人物であり、我が勤務校の校歌は吉田正・井田誠一の「黄金コンビ」で作られたことになる。
1963年12月に作詞家の井田氏が東京から福岡にこられ、学校をとりまく環境や歴史的背景を見た上での作詞となった。
そして吉田門下の人気歌手の三田明が歌ったテープが学校に届き「お披露目」となった。
吉田正は1921年、茨城県日立市に生まれた。
1942年に満州で上等兵として従軍し、敗戦と同時にシベリアに抑留されている。
従軍中には部隊の士気を上げるため、またシベリア抑留中には仲間を励ますために曲をつくった。
その抑留兵の一人が詩をつけ、その歌が「よみ人しらず」として、いつの間にかシベリア抑留地で広まっていった。
1948年8月、いちはやくシベリアから帰還した抑留兵の一人が、NHKラジオの「素人のど自慢」で、この「よみ人しらず」の歌を「俘虜の歌える」と題して歌い評判となった。
吉田は、その直後に復員して半月の静養の後に「俘虜の歌える」が評判になったことも知らず、以前の会社(ボイラー会社)に復帰していた。
ところが9月、ビクターよりこの評判の歌に詞を加えられて「異国の丘」として発売されてヒットするや、この曲の作曲者が吉田正と知られるところとなり、翌年吉田は日本ビクター・専属作曲家として迎えられたのである。
その後、吉田は数多くのヒット曲を世に送り出し、1960年に「誰よりも君を愛す」で第2回日本レコード大賞を受賞している。
一方、昭和を代表する作曲家として若い歌手を育て、1998年6月肺炎のため77歳で死去したが、その翌月には吉田の長年の功績に対して「国民栄誉賞」が授与された。

吉田の作曲の原点は、1945年10月から1948年8月の舞鶴港帰還までの「シベリア抑留体験」である。
吉田は21歳の時に徴集され、ソ連との戦闘で瀕死の重傷を負い、その後シベリアに抑留され過酷な収容所生活を強いられた。
このシベリア抑留とは、敗戦時に満州にいた日本軍がソ連軍によりシベリアに連行され、過酷な環境の中で強制労働をさせられた出来事である。
そして1947年から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。
シベリアでは約5万の命が失われたが、栄養失調の為、帰還時にはヤセ細って別人のようになって還ったものが多くいた。
ところで最近、吉田が軍隊にいたときや、シベリア抑留中に作ったとみられる未発表の歌が、レコード会社などの調査で次々に見つかっている。
吉田の戦後の再出発のきっかけとなったのが「異国の丘」(作詩:増田幸治 佐伯孝夫)だが、その原点ともいうべき満州時代に自らが作詩・作曲した「昨日も今日も」という習作があったことが判明した。
4年前、一人の抑留経験者の情報提供をきっかけに、吉田が所属していたレコード会社とNHKがさらに調査を進めたところ、同じ部隊にいた人達やシベリアの収容所の仲間が、ノートに書き残したり、記憶に留めたりしていた20余りの曲が発見・復元された。
生前、吉田自身は、軍隊・抑留生活の中で作った作品を公にしてこなかったが、戦友や抑留経験者たちが“ヨシダ”という仲間が作ったという記憶とともに密かに歌い継いでいた曲だった。
戦後の日本歌謡の「原点」となるとして音楽関係者の注目を集め、作曲数2400曲と言われる吉田メロディーに、新たな楽曲が加えられ、レコード会社ではCDとして残していくという。
さて封印を解かれかのように見つかったこれらの曲は、敗戦に打ちひしがれていた日本を照らす「希望の旋律」でもあった。
実際にシベリア抑留兵の中には、あの時あの歌があったからこそ、いつか帰れる日を信じることがでたという人々も多い。
しかし、吉田自身は当時作った曲を忘れたと話していて、それらを残そうという気持ちはなかったようである。
むしろそうした歌を「封印」したフシさえあるのだが、自らが知らぬうちに「異国の丘」としてラジオで流れていたのである。
その時、吉田に戦後の復興にあたる日本を励ます歌を作ろうという思いが芽生えたにちがいない。

戦後の日本を力づけ励ました作曲家として吉田正と並んで、誰しも中村八大を思い浮かべるにちがいない。
第一回のレコード大賞受賞者は中村八大作曲の「黒い花びら」で、第二回が吉田正作曲の「誰よりも君を愛す」であった。
中村は「黒い花びら」で作曲家としてデビューして以降、「上を向いて歩こう」「夢で逢いましょう」「こんにちは赤ちゃん」等、300を超える名曲を作り、日本の高度成長を支えた企業戦士や子育ての母親たちにエールを送った天才ピアニストであった。
中村は1931年、国民学校の校長であった父・中村和之と母・こはるのもうけた3男2女の3男として中国大陸の青島に生を享けた。
青島はかつてドイツの支配下にあったが、第1次世界大戦後に日本が領した町でレンガ造りの建て物が多く、ヨーロッパの香り漂う国際貿易港がある町であった。
教育熱心な父と、青島という異国情緒は少なからず中村少年に影響を与えたに違いない。
父は早くから中村の音楽の才能を見抜いてピアノを習わせ、小学校4年の時には中国青島から一人で東京へ音楽留学させている。
中村は上京してクラシックを習う一方、休日には浅草でエノケンや古川ロッパ一座を観劇し、小学生にして音楽の楽しさや喜びを充分に体感している。
一時、青島に帰ることとなるが、ローゼフ・ローゼンストック氏(N響草創期の指揮者)とウィーン音楽院在学時の朋友ダ・カール・ヘルス氏の手ほどきを受ける幸運に恵まれる。
彼らは、厳しく教えるというよりも、楽しく中村少年を導きながらピアノを学ばせた。
特に、中村少年はヘルス氏に畏敬の念を抱きながら音楽表現を学び、中村の音楽の原点がここに形成されることになったといって過言ではない。
さて中村は中学・高校時代は実家のある福岡県久留米市の名門明善に入るが、再び上京して早稲田高等学院に編入し、さらに早稲田大学文学部英文科に入った。
大学在学中はジャズピアノに熱中し、「ワセダに 八大あり」の名声は瞬く間にジャズ界へと広がった。
そして、バンドを組んで進駐軍キャンプやジャズクラブで演奏する日々が始まった。
1959年、ロカビリー映画の音楽を担当することになり、早大の後輩である永六輔氏とコンビを組んでの作詞作曲がスタートする。
いわゆる「六・ハコンビ」の誕生である。
そしてこのコンビで映画の挿入曲「黒い花びら」を大ヒットさせ、第1回レコード大賞を受賞する。
その後も、このコンビでヒット曲を次々と世に送ったが、なかても、坂本九が唄った「上を向いて歩こう」は空前のヒットとなり、欧米でもヒットチャートを賑わした。
殊にアメリカのビルボード誌では「SUKIYAKI」の名で、1963年6月、日本音楽史上初めて3週間連続して第1位に輝き、中村の曲が国際的にも認知されることになった。
また長男・力丸の誕生の年に「こんにちは赤ちゃん」で第5回レコード大賞も空前のヒットとなり、1967年には大阪万博に先がけて「世界の国からこんにちは」を発表した。
誰をも口ずさむことのできる名曲を生み、坂本九・水原弘・九重祐三子等の歌手を育てたが、中村の曲作りの苦しみが相当なものであったことが明らかになっている。
61才の若さで、心不全のため惜しまれながらで逝ってしまった。
ところで、中村と妻・順子さんとの間に生まれた中村力丸は梓みち代が歌った大ヒット曲によって、生まれてスグニ「時の人」となった。
なにしろ「六・八」コンビの代表曲「こんにちは赤ちゃん」の「赤ちゃん」とは事実上中村力丸である。
力丸が生まれた日の夜の生放送番組「夢であいましょう」で、黒柳徹子が中村家に子供が誕生したことを紹介した。
これが父・中村八大の「こんにちは赤ちゃん」作曲のキッカケとなったのである。
中村力丸氏は大学を卒業後、音楽出版社に勤務し、1992年に他界した父の跡を継いで事務所の社長に就き、「父の背中」を追った。
作品の管理しながら、スタジオに残ったテープをデジタル化したりしたという。
「音楽にすべてを捧げた父の生涯を初めて実感し、創作の喜びと苦悩の一端にふれることができた」という。
現在、東京の世田谷文学館で開かれている「上を向いて歩こう展」に、作曲した中村八大の楽譜やメモ、写真などを提供している。
「世界70カ国以上の人々の愛されてきたこの曲の意義を世に問いたい」と語っている。

さて、戦争体験を一切語らなかった吉田正はシベリアで何を見たのだろうか。
その前に、そもそも「シベリア抑留」とは何だったのだろうか。
ソ連はどうして50万もの日本兵をシベリアにつれて生き、極寒の地で労働に従事させたのだろうか。
しかも、「生きて虜囚のはずかしめを受けるな」という戦陣訓に反して、それほど多くの日本兵がシベリアに向かったのはなぜだろうか、実は謎だらけである。
ただ中国東北部の関東軍は、南方戦線の軍人たちとは基本的に考え方が随分違い、沖縄・硫黄島といった自決をも辞さない徹底抗戦という動きは見せていない。
ソ連時代から今日まで、シベリア抑留がいつどのように決まったか公文書の公開が行われていないため、今もって真相はわかっていない。
おそらく、日本の「親ソ化」のための何かしらの要員として、大量に抑留されていたにちがいないというのが、一般的な推測である。
実際、「教化政策」が行われていて、少なからず「ソ連シンパ」が生み出されたようである。
日本政府もそれを警戒っしており、帰還後も公安にマークされ続け、彼らのほとんどは、本当のことを言わぬまま亡くなっている 。
ただ事実をいええば、日本に帰国すれば「共産主義」を広めると誓いの念書をして、早期に帰国した「念書組」と呼ばれる者達もいたし、再長11年も抑留された者もいる。
最近のNHKスペシャルでは、元シベリア抑留兵が「カタツムリさえも争って食べた」というほどの飢餓生活だったことを証言している。
シベリア抑留が、長引いた原因として、日本の米軍統治の問題がある。
米軍統治下の日本はソ連との国交回復のための運動がほとんどできず、捕虜解放のための交渉が大幅に遅れることとなった。
また、日本の自由党は米国からの支援を継続させるために、ソ連との交渉に消極的であったということもある。
さらには、日本国内の左派政党の内部事情も大きい。
まず、共産党は宮本顕治体制になりソ連との繋がりを重視し中国共産党や朝鮮労働党と断絶、国際派・中国派の党員を粛清していく。
そのため、シベリア抑留に対しては全面的にソ連支持に傾いていった。
また、社会党は党内左派がシベリア訪問を果たすが、帰国後には「よい条件で労働している」と嘘の供述をしている。
結局、親米一辺倒の吉田茂から鳩山一郎首相に替わって対ソ連交渉がはじまるまで、なんの進展もみせなかったというのが実情だった。
1956年に「日ソ共同宣言」をまとめた鳩山一郎は訪ソの前に次のように語っている。
「北方領土返還が最大の課題として話題になっているが、ソ連に行く理由はそれだけではない。シベリアに抑留されているすべての日本人が、一日も早く祖国の土を踏めるようにすることが、政治の責任である。
領土は逃げない、そこにある。しかし、人の命は明日をも知れないではないか」。
さて、シベリア抑留からの帰還者の中には、陸軍参謀の瀬島龍三もいたし、後に政治家になる相沢英之、宇野宗佑、財界人では坪内寿夫、その他芸能スポーツ界では、水原茂、三波春夫、三橋達也などもいた。
また作曲家では吉田正以外に、米山正夫がいた。
米山は、水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」や「ヤン坊マー坊天気予報」のテーマ曲で知られる。
そしてシベリアからの帰還兵士の舞台が、福井県・若狭湾の舞鶴港である。
そして舞鶴港帰還をテーマに「岸壁の母」が映画化された。
こののモデルとなったのは、端野いせという女性であった。
終戦後、端野は息子の生存と復員を信じて1950年の「引揚船初入港」から以後6年間引揚船が入港する度に、たとえ「復員名簿」に名前がなくても、「もしやもしやにひかされて」舞鶴の岸壁に立ち続けたのである。

吉田正は育てた教え子達には戦争中の体験を語ることはマッタクなかったという。そして自分が満州やシベリアで書いた曲を「封印」したかのようであった。
満州やシベリアでともに暮らした元日本兵の証言から推測する他はない。
満州時代に歩兵だった吉田は音楽の才能を認められ、軍歌を作っていたといたという。
四三七部隊のために作曲した「四三七部隊歌」は上官が書いた勇壮な歌詞に曲をつけたものである。
その四三七部隊は1934年の秋、南方の激戦地レイテ沖などで戦闘にのぞみ、300人以上の命が失われる。
同じ年、吉田が所属していた歩兵第2連隊は南方ペリリュー島の守備を命じられたが、日本軍1万人のうち最後まで戦って生き残ったのは34人であった。
吉田は部隊が転戦する直前に急性盲腸炎を発症し、満州に留まったために、仲間のほとんどが命を落とす中で生き残ったのである。
生前、あるテレビ番組で吉田は次のようなことを語っている。
「突撃するためにはマーチが必要だ。しかし突撃して亡くなった人々の責任を誰がとる」と。
さて吉田は、別のTV番組で次のようなことを語っている。
「私にもやがて五線紙のいらなくなる日が来るでしょう。いつの日か、あの”異国の丘”がそうであったように、私の歌を私の歌と知らないで、みんなが歌って いる光景に出会いたいと思っています。
歌はいつからか詠み人知らずになっていきます。そして本当のいい歌は永遠の命をもつのではないでしょうか。
私の作った曲の中から1つでも詠み人知らずになり、その歌を聴く日を楽しみに作曲を続けたいと思っています」。
吉田が自分の歌が「よみ人知らず」となっていくことを望んだのは、戦争体験を封印しつつも、絶えず亡くなった者たちへの追悼の気持を抱き続けたからではなかろうか。