人吉市 旅行記 

この掲載は、人吉市(ひとよしし)へ1泊旅行をしたときのもので、既に11年が経ってしまった。だが、その当時の出来事を思い起こしながら記述してみる。記:2021年6月16日

 この時は、車の運転に慣れてないなかでの高速道路(宮崎自動車道⇔九州自動車道)や長いトンネル(加久藤トンネル(かくとうトンネル))での運転であり、緊張しっぱなしの状態であった。脇に乗っていた妻が、怖い思いをしたことは言わずもがなであった。

この旅で思い出すなかには、良いことや残念なことなど、いくつかあった。

☆ 食事ができて、お風呂も入れる宿泊所に行った時のことである。 

 人吉は初めてであるので、所在場所の確認で事前に行き、昼食・入浴OKを貰った。その後、予定時間になったので、再度いった時は、NOとなってしまった。わざわざ当地を訪れたということで入浴はOKとさせた。何が何だかわからない状況であった。 
 浴槽は、ジェット噴流ありで、その場所からは、球磨川(くまがわ)が眺められ先ず先ずの状況であったのに…………

☆ ローカル鉄道の「くま川鉄道湯前線(くまがわてつどうゆのまえせん)」の人吉温泉駅から乗車した時のことである。 

 勿論、この電車の乗車は初めてで、観光列車の前で写真を撮っていると、乗務員の方から、「撮りましょう。」の言葉があり、二人撮りの写真がゲットできた。電車が走ってから、同じ方が席まで見えて、当地のことを説明してくれた。 
 心地良く、終点駅の湯前駅までの往復乗車となった。民営化された会社の方の情熱を感じたところであった。

☆ ホテル近くの食事処で夕食を摂った時のことである。 

 此方では、鯖の刺身はよく食べるとのことで、メニューにあり、食べたところ、酸っぱさが何か違うように感じた。 
 一元さんと感じたのか、何か手を抜かれたように感じた。馴染みでないお客は大事にしない意識が潜在的にあるのかな!。

☆ 青井阿蘇神社(あおいあそじんじゃ)近くのお土産屋で、買い物をしている時のことである。 

 妻が、女性の店員と、子供のこと等をあれこれ話すうちにバッグの話になり、作成して贈ることとなった。 
 旅先での新たな出会いは、嬉しいものである。

1日目 2010年5月25日(火)

 人吉城址で撮影 
 標木(ひょうぼく)に何気なく手をかけているが、それに印されている文字は「於津賀社跡(おつがしゃあと)」である。その時は意味不明であった。 
 鎌倉初期に相良氏(さがらし)が入国する前に当地を治めていた平氏代官の矢瀬主馬祐(やぜしゅめのすけ)を祀る霊社とのこと。 
 頭の上に見える線の場所が三ノ丸、その上の線の場所が二ノ丸となる。

 「於津賀社跡」のベンチで一休み
 此処まで来るのに、バス停から階段が結構ありで大変疲れた。 
 後ろに、球磨川(くまがわ)と市街地が見える。 
 当川は、熊本県内最大であり、最上川・富士川と並ぶ日本三大急流の一つである。 

 くま川鉄道人吉温泉駅のホーム
 2009年4月から2016年6月まで、湯前駅(ゆのまええき)を終点に、一部の列車に観光車両「KUMA1」「KUMA2」が使用されていた。その後、別の観光列車が登場したが、2020年3月末で定期の観光列車は廃止とのこと。

 観光車両「KUMA1」の車両内
 窓の後ろに見える光景で、縦長の標木には「大村横穴群(おおむらよこあなぐん)」と書かれている。 
 国指定史跡で、6~7世紀初めの古墳時代後期に造られた墓群で、27基の横穴のうち8基の外壁には動物や武器、幾何学紋様などがみられるようだ。

 観光列車の「KUMA1」前で 
 乗務員の方に声を掛けられ、撮影してもらう。 
  
 現在は、「令和2年(2020年)7月豪雨」、即ち令和2年7月3日から7月31日に発生した豪雨により、橋りょうの流失や多数の盛土流出など、非常に大きな被害を受け、全線で運転を見合わせているが、代替手段として輸送バスを運行中とのこと。

 
  

2日目 2010年5月26日(水)

 青井阿蘇神社(あおいあそじんじゃ) 
 現在の社殿は相良長毎(さがらながつね)により、慶長15年~18年(1610-1613年)にかけ造営されたもので、平成20年(2008年)には、本殿、廊、幣殿、拝殿、楼門が国宝に指定された。
 撮影場所は、禊橋(みそぎばし)の上からで、背後に鳥居、楼門そして拝殿を見る。 
  
 人吉の市街地内の当神社も、令和2年7月4日に発生した大水害で、一瞬のうちに飲み込まれたとのこと。当神社が受けた被害としては、本殿の床下浸水、廊・幣殿・拝殿の床上浸水、楼門にいたっては1.5メートルの深さまで水没したとのこと。また蓮池に架かる大正10年架橋のコンクリート造り禊橋は、欄干とその両脇の灯籠が破壊されたとのこと。 
 現在は、復興と併せて、「隈 研吾」設計による「国宝記念館」の建設事業にも取り組んでるようだ。

 永国寺(えいこくじ)本堂の南洲書 
 西郷隆盛が田原坂の戦いに敗れ、八代(やつしろ)から人吉へ逃れ、明治10(1877年)年4月27日に当地に到着して、当寺を薩軍本営にあてた。このことから、この書があるようだ。 
 この寺は、室町時代に実底(じってい)という僧侶が建立した。その僧は、球磨川に身を投げて死んだ女性の幽霊を絵に描き、女性の幽霊にその絵を見せて成仏さという説話があり、「幽霊寺」と称するようになったようだ。 

 左記の南洲書の解説
 掛け軸の下の畳に置かれていた。 
 独り時情に適せず 豈款笑(あにかんしょう)の声を聴かんや 羞じを雪(そそ)がんとして戦略を論じ 義を忘れて和平をとなう 秦檜(しんかい)は遺類多く 武公は再生し難し 正邪今なんぞ定まらん 後世必ず清を知らん  南洲(西郷隆盛) 
 豈:決して……ない 雪ぐ:恥や汚名を、新たな名誉を得ることによって消す。すすぐ 秦檜:中国、南宋の政治家。政権維持のため言論を弾圧し、後世、奸臣(かんしん)の典型とされる。 遺類:生き残った者ども。残党。 武公:中国春秋時代初期の鄭の君主。父の後を継いで、従子でもある周の平王を補佐して、鄭を強国にした。 正邪:正しいことと、よこしまなこと。 
  
 この人吉滞在時は、敗走している時であり、征韓論に敗れ下野したことなどの気持ちも含めて「無念さ・残念さ」の心を表しているように読み取れた。

 永国寺本堂の内部
 この寺は、曹洞宗の寺院で、大本山總持寺(瑩山禅師(けいざんぜんし))の直末寺(じきまつじ:本山直属の支配下にある寺院)である。 

 永国寺仁王門 
 入るときに、仏法守護のための、一対の神像を見ることができた。口を開いた阿形(あぎょう)の金剛、口を閉じた吽(うん)形の力士、悪を跳ね除けるような迫力ある像であった。 
 二階中央に梵鐘(ぼんしょう:釣鐘)が見える