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ありのままのメシア -寄道話-
(第四話〜第五話の間)


   ・破壊のオラトリオ

 学校には、怪談話がつきものである。
 例えば、美術室に飾られている肖像画の目が、夜中に光るとか。
 人体模型が、ひとりでに動き出すとか。
 ピアノが勝手に鳴り響くとか。
 それらが実際にあった現象かどうかは分からないが、少なくともアーネス魔法アカデミーでは、実際に起こった現象である。
 しかし、美術室に飾られていた絵画の目が光っていたのは、生徒が面白がって光の魔法を肖像画にかけたからであり、人体模型も、元々魔法で動く人体模型であったため、たまたま誤作動が生じただけであった。
 何でも魔法で解決できる。それがファンタジーの世界。
 そして、勝手に鳴り響くピアノだが、これは少し複雑で、解決したのは、ごく最近になってからだった。

 これから書き記すものは、その解決に至るまでの様子の一部始終である。



 学校での昼食は、いつも個室で取っているソフィスタだが、今日は天気が良いから外で食べようとメシアが言いだしたので、たまにはそれもいいかと思い、二人はホームルーム棟の屋上で、持参した弁当を食べた。
 緑色のトカゲと外でランチタイムを過ごす様子を見られたくなかったソフィスタは、比較的に人気の少ないホームルーム棟の屋上を選んだのだが、食事を終えて個室に戻る途中、三階の廊下を二人で歩いている所でアズバンに遭遇した。
「ソフィスタくんにメシアくん、丁度いい所に来てくれた」
 あの合コン騒動の元凶でもあるアズバンを見て、ソフィスタはあまりいい顔をしなかったが、アズバンはおかまいなしに二人に歩み寄って来た。
「丁度いい所にって…何か用ですか?」
「ああ。ちょっと協力してもらいたいんだよ。一緒に来てくれ」
 アズバンは、否応を言わせる暇も与えずに二人の腕を掴み、ぐいぐいと引っ張って連行し始めた。
 何だ何だと言いつつも、ソフィスタとメシアはアズバンに連行されていく。

 二人が連れてこられたのは、ホームルーム棟三階の音楽室だった。
 音楽室は、主に歌声や楽器の音色を媒体として魔法を使う生徒の授業や、音楽系のサークル活動を行っている生徒が使用している。ソフィスタはどちらにも属さないので、実は一度も入ったことがなかった。
 ソフィスタとメシアを置いて、アズバンは部屋の奥まで入り、窓を閉ざしていた分厚い黒のカーテンを片っ端から開いた。暗かった室内は、たちまち日の日の光で満たされる。
 室内に机は無く、椅子は壁際に片付けられているため、やたらと広く感じられた。
 ソフィスタとメシアも、部屋に足を踏み入れた。分厚い防音扉が勝手に閉まるが、こういったバネ式の扉は、メシアも既に他の教室で体験していたので驚かなかった。
「アズバン先生。協力してもらいことって、一体何ですか?」
 メシアはもちろん、ソフィスタも初めて入る部屋なので、あらかじめ五線が書き込まれている黒板や防音壁を見回しながら、アズバンのもとへと進む。
「それなんだけれど…実はコレのことで、みんな悩んでいるんだよ」
 アズバンは、黒板の近くにあるグランドピアノの傍に立った。ソフィスタとメシアは、ピアノから二歩ほど離れた位置に並ぶ。
 メシアが「何だコレ」とでも聞きたげにピアノを見ていたので、尋ねられる前にソフィスタはメシアに説明してやる。
「ピアノという、楽器の一種だ。楽器くらいは知っているだろ?」
 ソフィスタに話しかけられているのだと気付いたメシアは、首を縦に振った。
 立派なグランドピアノではあるが、ソフィスタが見る限り、今普及されているピアノより二世代は古そうだ。だいぶ使い込まれいるようで、鍵盤は変色しているし、よく見ると修理の跡が所々にあった。
「…で、コレがどうかしたんですか?」
 ピアノを指差し、ソフィスタはアズバンに尋ねた。
 しかし、アズバンは「あっ!」と声を上げ、次の瞬間、ピアノの鍵盤がひとりでに弾かれ、荒々しく音をかき鳴らした。
 ソフィスタとメシアは体を震わせて驚いたが、アズバンは驚いておらず、代わりにばつが悪そうな顔で「あちゃぁ〜」と呟いた。
「わたくしを指差すなんて、失礼極まりなくってよ!!」
 さらに、聞き覚えのない女性の声が聞こえ、同時に黒いドレス姿の貴婦人が、ピアノの中からすり抜けて出てきた。
「うわっ!な・なんだぁ?」
 大きく開いた目で貴婦人を凝視しているソフィスタとメシアの前に、貴婦人は両手を腰にあてて立った。
「まったく!見るからに育ちが悪そうだとは思いましたけど、本当に失礼だこと!これだから庶民は!ああいやだ庶民は!」
 庶民庶民と連発する貴婦人を、メシアとソフィスタは目を丸くして眺めていた。
「ジロジロ見ないで下さる!まあ、わたくしほど高貴かつ崇高な姿は、庶民の目には眩しすぎることでしょうけど!オホホホホホッ!」
 貴婦人は、自分で自分を大袈裟に褒めて悦ぶ。その様子に、メシアは何が何だか分からないような顔をしているが、ソフィスタはいいかげん腹が立ってきた。
「…アズバン先生。この頭悪そうな顔の異常者は誰ですか?」
 貴婦人を指差し、涼しい顔でキツい悪口を、ソフィスタはさらりと言った。名前を呼ばれたアズバンは、ソフィスタと貴婦人を、気まずそうな目で交互に見る。
「何ですってェ!?口を慎みなさい!そこの下品な女!!そもそも、あなたのような庶民がここにいるなんて…」
「やかましい!!てめーがうるせーと話が進まねーだろが!黙らねーとコイツの足ぶった切ってテメェの口ん中ブチ込むぞ!!!」
 ソフィスタは貴婦人をガンつけ、メシアの緑色の足を爪先でゲシッと蹴りながら怒鳴った。女の口から出たとは思えないほど恐ろしいことを、迫力のある口調で言われた貴婦人は、怯えてすくみ上がる。
 悪いことをした覚えも無いのに足をぶった切ると言われたメシアが、「何故私の足を巻き込むのだ!」と文句を言ってきたが、それは無視した。
「…えっと…か・彼女は、このピアノに宿る精霊だ」
 アズバンの答えを聞いて、ソフィスタは納得したように「あ〜」と頷き、メシアは「精霊?」とアズバンに聞き返した。
「人が物を長く使っていると、人間の意思がこもった魔法力が蓄積して、自我を持つ魔法力のかたまりが宿るようになるんだ。それを、我々は精霊と呼んでいる」
 アズバンの説明に、ソフィスタが「はっきりと解明されたわけじゃないけど、それが一般説だ」と付け足したが、メシアはまだ理解できていないようで、腕を組んで「うぅ〜」と唸っている。
「それで、みんなが悩んでいることって、この精霊のことなんですか?」
 不満げにに突っ立っている、貴婦人の姿をした精霊をあごで指し、ソフィスタはアズバンに問う。
「そうなんだ。ホラ、そのピアノ、もうずいぶん古いだろ?それで、新しいピアノに取り替える話を持ち出したら、その精霊が出てきてね。どかそうとすると邪魔してくるようになったんだよ」
「邪魔とは失礼ね!!芸術をたしなむ学生たちとの、互いに高みを目指したふれ合いを邪魔しているのは、あなたのほうではなくて!」
 ソフィスタに脅されて黙っていた精霊が、再び口を開く。ソフィスタがうっとうしそうに睨むが、もう精霊は動じない。
「とまあ、こんな具合に、てこでも動かないんだよ。取り替えられるのがイヤなら、解体して部品を交換して、大々的に改装するということで妥協させようとしたんだけど、それもイヤだと言うんだ」
「わたくしをあしらうなんて、あなたもつくづく失礼ね!だいたい、わたくしに部品の交換なんて必要なくてよ!!解体されるなんて、まっぴらごめんですわ!!」
「でもねえ、最近のピアノに組み込まれている部品を使えば、もっと音の調整が利くようになるし…」
「必要ないと言っているでしょう!そんな部品に頼って音の調整をしていたら、ピアニストとしての技術の向上の妨げとなるだけでしてよ!」
「いや、でも、君に使われている部品にしても、だいぶガタがきているみたいで、音の質が落ちているという苦情も生徒から出ているんだよ」
「失礼ね!その生徒は、下手の原因をわたくしになすりつけているだけに違いありませんわ!!」
 何だかアズバンと精霊の言い合いが始まってしまった。ソフィスタは呆れ顔でその様子を傍観し、メシアはまだ精霊という存在について悩んでいる。
 やがて、業を煮やしたソフィスタが、二人の会話に割り込んで精霊に告げた。
「でもなあ、このまま拒んでいたら、最終的には改装どころか壊されることになるよ。いくらあんたでも、学校の教師と生徒たちに本気でかかられたら、ものの数秒で木っ端微塵だぞ」
 それを聞いて、精霊の顔が少しだけ青ざめた。
「精霊ってのは、宿っている物が完全に壊れたと認識した時点で、存在できなくなるそうじゃねーか。修復可能な程度に解体されたり壊されたりする程度なら、消えることはないんじゃないか?それなら、選択の余地はないと思うけど」
 ソフィスタが話し終わってから、精霊は、しばらく口をぱくぱくさせていたが、急にふんぞり返って笑い出し、三人に言った。
「オーッホッホッホッホッホ!!しょうがないですわねぇ!そこまで言うのなら、条件一つくらい出してあげてもよくってよ!!」
 意地でも高慢な態度を保ち続けたいようだ。その偉そうな高笑いも、ここまでくると腹を立てる気になれない。
 ソフィスタは面倒臭そうにため息をつき、アズバンは苦笑いしている。話を聞いていなかったメシアは、精霊がなぜ急に笑い出したのか分からなくて、不思議そうにしている。
「そうですわねぇ…今の姿の最後の思い出に、わたくしを満足させられるほどの素晴らしい演奏ができれば、大人しく改装されてあげますわ」
 精霊の言葉を聞いて、アズバンは「ええっ」と困った顔で声を上げた。
「このわたくしの、端正な姿を解体することを許してさしあげるのよ。それくらいやって下さらないと妥協できませんわっ。…まあ、少なくとも、今この学校にいる生徒や教員の中には、わたくしを満足させられるほどの腕の人間はいないようですわね」
 精霊はピアノの上に座り、足を組んでソフィスタたちを見下ろした。そして、三人を小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「そうは言われてもなぁ…。私はピアノは弾けないし、プロでも呼んで頼むしかないかなあ…」
 アズバンは腕を胸の前で組み、精霊を見上げて悩む。  精霊の言う通りなら、今まで精霊のピアノを弾いたことのある人間の腕では、満足できないということだ。
 やはりプロのピアニストを呼ぶしかないのか。それとも、精霊のピアノを弾いたことはないが、プロ級の腕の人間を探すか…。
 考えているソフィスタに、アズバンが声をかけてきた。
「参考までに聞いておくけれど、ソフィスタくんはピアノを弾けるかい?」
 話を振られ、ソフィスタは少し戸惑ったが、正直に答えた。
「ええ、まあ、少なくとも二年くらい前までは弾いていましたが…」
「うえぇぇぇっ!?」
 ソフィスタの回答を聞いて、アズバンと精霊がものすごく意外そうな顔をし、悲鳴に近い声で叫んだ。その予想済みのリアクションを、ソフィスタは「弾けちゃ悪いかよ」と一言であしらう。
 しかしメシアだけは、尊敬と好奇心が入り交じった瞳でソフィスタを見つめていた。
「ソフィスタ。お前は、あの楽器を奏でられるのか?」
 相変わらずメシアの眼差しが苦手なソフィスタは、彼から顔をそらして「曲に聞こえる程度にはな」と答えた。
「フンッ。どうせ子供でも弾けそうな曲しか弾けないのではなくて」
 精霊は嫌みを言ってクスクスと笑うが、ソフィスタは「何とでも言え」と言って相手にしない。
「へ〜ソフィスタくんがピアノを弾けるなんて、初耳だな〜。それは是非とも聴かせてもらいたいな〜」
「うむ、是非とも聴かせてくれ」
 興味を持ったアズバンとメシアが、ソフィスタに演奏を勧めてきた。
「よろしい。今回は特別に、薄汚い庶民の指が触れることを許してさしあげましょう。さ、弾いてごらんなさい。弾けるものならねっ」
 精霊も、ピアノから降りてソフィスタに演奏を勧めてくるが、明らかに馬鹿にしている。おそらく、ソフィスタでは下手な演奏しかできないと思い、恥をかかせたがっているのだろう。
 珍しく自信なさげに「弾けるなんて言わなきゃよかった…」と弱音を吐くソフィスタだが、メシアたちはおかまいなく、早く演奏してくれと目で訴える。
「今回は特別って…今までにも生徒達に弾かれてきたんだろうが。全員貴族だったのか?」
「バッカね〜。音楽の才能ある人間が庶民なわけないでしょう」
 精霊はソフィスタを見下して言うが、ソフィスタは付き合ってられないとばかりに肩を竦め、鍵盤の前にある椅子に座った。
 そしてグローブを外し、性格と口の悪さに反比例したかのように細長くて女性らしい指を、そっと鍵盤に添えた。
「ちょっとぉ!ちゃんと手を洗ってからにして下さらない!!」
「元から汚い鍵盤だろうが。ったく、面倒臭い野郎だな…」
「誰が野郎ですってぇ!?まったく、汚いのは外見だけではないようね!」
「はいはい。んじゃ、とっとと弾かせてもらうぞ」
 精霊は、まだ文句を言おうとしていたが、それを遮るようにソフィスタは鍵盤を弾いた。

 ソフィスタが弾き始めたのは、音楽界ではポピュラーな、短いピアノ独奏曲であった。
 しかしポピュラーはポピュラーでも、弾く者にとっては決して簡単な曲ではなかった。
 リズムが変則的で速いが、確かに一つの曲として精製されているそれは、音楽界に名を残す作曲家が、ピアノ奏者が高度な技術を身に着けるために作曲したエチュード(練習曲)であり、プロでも一度や二度弾いただけではマスターできない曲である。
 しかし、ソフィスタの指は流れるように鍵盤を叩き、旋律に合わせて音の大きさの調整もこなして、この重厚かつ典雅なる曲を再現していた。
 二年もブランクがあると言っていたが、それ以前に相当な練習を積んだのだろうか。それとも、天性の才能だろうか。
 どちらにしろ、全く予想していなかったハイレベルな演奏に、アズバンと精霊は口を開けて驚いており、メシアは素直に聴き惚れいた。

 素人が聞けば、熟練のピアニストの演奏と聞き間違えるほどのものだったが、ソフィスタは演奏を終えたとたんに「ダメだっ」と言って鍵盤を叩き、耳障りな音を立てた。
「やっぱり二年以上もブランクがあると、腕が落ちているな。音を間違えたわ、テンポはズレたわで、とても人に聴かせられるもんじゃない」
 アズバンが「どこがっ!!?」と素早いツッコミを入れる。
「ピアニストを目指しているわけでもない子が、ここまで弾けるだけでもすごいよ!今のならコンクールでも入選するって!!」
「いや、アマチュアのコンクールでも、もっと上手い人は何人も出場していますよ。…精霊。お前だって、今のより上手い演奏くらい、何度も弾かれているだろ」
 ソフィスタが、隣で突っ立っている精霊に話をふると、口をだらしなく開けっ放しで固まっていた精霊は、わざとらしく笑って表情をごまかした。
「そ・そうね!あんな素人レベルの演奏では、わたくしを満足ひゃせることはできなくってよ!!」
 精霊は、明らかに動揺している。
「おい、今噛んだだろ」
「何のことでして?」
「本当は今の演奏で満足していたんじゃねーか?」
「そーんなわけないでしょう!ほら、弾き終えたのならどいて下さいまし!」
 精霊に背中をぐいぐいと押され、ソフィスタは椅子から立ち上がらされる。
「実はお前、レベルの低い…」
「おい、ソフィスタと精霊」
 ソフィスタは精霊に対し、まだ言いたいことがあったのだが、メシアが割り込んできたので口を止めた。ソフィスタと精霊は、メシアを見る。
「私にも、そのピアノとやらを使わせてはくれまいか?」
 メシアは、まるで新しいオモチャを見つけた子供のように、好奇心で満ちた目をしていた。ソフィスタの演奏を聴いて、自分でも弾いてみたくなったのだろう。
「別にお前まで弾くこたねーよ。精霊も今ので満足し…」
「あーらぁ!次なる挑戦者はトカゲちゃんね!いいわよ、弾いてごらんなさぁい!!」
 精霊はソフィスタを押し退け、メシアの腕を引いて椅子に座らせた。
 ソフィスタは、仕方なくアズバンの隣に並ぶ。
「…ソフィスタくん。メシアくんは、ピアノ弾けるのかい?」
 鍵盤を見下ろしているメシアの横顔を眺めながら、アズバンがソフィスタに尋ねる。
「ピアノを見るのも初めてのようですから、まず弾けないでしょうね。…あの精霊、見るからに腕力だけで生きているようなアイツが、ピアノを弾けると思ってんのか?」
「いや、数ヶ月前まで私と同居していた、メシアくんのような筋骨隆々の男友達も、実はバイオリンがめちゃくちゃ上手かったんだ。見た目が体育会系だからって、楽器の一つも演奏できないとは決めつけられないよ」
 一体、アズバンの男友達とは、どのような人間だったのだろうか。
「…でも、初めて触る楽器じゃ、弾けないよなあ…」
 アズバンが呟く通り、ソフィスタもメシアに演奏させるなど、無理で無茶で無駄なことだと思う。そもそも、演奏らしい演奏を弾くことすらできないだろう。
 しかし、メシアが楽器に対して示す反応には興味があるので、黙って様子を見守ることにした。
 全く期待していないソフィスタとアズバンと、まだ動揺している精霊にも気付かず、メシアはウキウキしながら鍵盤に指を添えた。
「よし…っ!では、いざ!」
 そう言って気合いを入れ、先程のソフィスタの演奏を真似るつもりか、メシアは両手合わせて計十本の指で一斉に鍵盤を叩いた。

 一打目。
 隣り合わせの鍵盤が同時に強く叩かれ、大きな不協和音がソフィスタたちの耳をつんざく。反射的に三人は耳を塞いだ。

 二打目。
 子供が面白がって弾くどころか、悪意ある不快音とも取れる音が響く。窓の外で、鳥が逃げていく様子が見られた。

 三打目、四打目、五打目…。
 ピアノでそんな音が出せるのか信じられないほど凶猛なカコフォニー(不快音)が、メシアの指先から創造され続ける。

 長いこと聞いていると頭がイカれそうな曲…いや、もはや曲とすら呼べない、その恐るべき音を、ソフィスタはメシアを蹴り飛ばして止めようと思ったが、その前にメシア自ら指を止めた。
 耳を塞いだだけでは防ぎきれなかった、聴くだけでも体力を消耗する不快音は、その余韻をソフィスタたちの鼓膜に残していた。メシアだけはきょとんとした顔で鍵盤を見下ろし、他の三人は息を切らしながら頭痛と吐き気に耐えていた。
「…なぜ、おかしな音ばかりが出る。いつの間に壊れたのだ?」
 そんなすっとぼけたことを言うメシアに、ソフィスタと精霊が「壊れとらんわ!!」とハモって突っ込みを入れ、アズバンは「ぶふっ」と吹き出して笑った。
「な、なんて最悪な演奏なの!わたくしからあんな音が出てくるなんて、信じられませんわ!!」
「だが、確かに私はこの楽器で演奏したぞ。やはり壊れているのではないか?」
「あなたの腕が壊滅的にドヘタだからでしょうが!!」
「ふむ…ソフィスタを真似て弾いたはずだが…」
「見よう見まねで上手く演奏できれば苦労しないわ!!」
 メシアが精霊と言い合っている中、まだ頭痛が治まらないソフィスタは、「あいつ、あたしの演奏のどこを見ていたんだ」とぼやいた。
「まったく!いくら素人でも、ここまでメチャクチャな演奏はしないわよ!その様子じゃ音階も知らないんじゃなくて!」
「それくらいは知っておるぞ!ええと、曲を構成する五つの基本的な音のことであろう」
「七つよバカ!ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シの七つ!そんなことも知らないの!?」
「あの精霊、古いピアノの精の割には、五音階も知らねーのか…」
 完全に傍観者と化しているソフィスタは、その会話を聞いて小声で呟いた。
 昔は基本的な音階は五つまでであったが、後に二つの音が追加されて現代に至るとされている。
 メシアの種族では、五音階が主流のようで、七音階は使われてはいないのだろう。後で『メシア観察ノート』に書いておこうと、ソフィスタはメシアの発言を記憶に留める。
「信じられない!音階も知らないだなんて!そんなドレミのメロディーすら弾けなさそうな腕じゃ、わたくしを満足させようだなんて千年早くてよ!」
 自分でメシアに演奏を勧めておきながら、精霊はオーバーに両手を広げて肩を竦めてみせる。
「土塀のメロディー?何だそれは」
「ドレミのメロディーよバカ!!ピアノ初心者がまず最初に習う曲で、ドの音で始まり、ドの音で終わる曲のことよ!」
「…は?どのような音であると?」
「違う!ドのような音じゃなくて、ドの音なの!!」
「だから!それがどの音なのだと聞いておるのだ!!」
「ソとレはドじゃない!!」
 全く絡み合っていないメシアと精霊の会話を聞いて、アズバンが腹を抱えて笑い出したが、ややパニクっているメシアと、ヒステリックになっている精霊は、アズバンの様子に目もくれない。
「いい!これがドの音よ!!」
 精霊は、椅子に座っているメシアの隣に立ち、鍵盤の内の一つを弾き、荒っぽく音を鳴らした。
「ほら、弾いてごらんなさい!」
「へ、う・うむ…」
 話が絡み合っていなかった上に、精霊が突然ピアノレッスンを始めたものだから、さらに頭がこんがらがってきたメシアは、よく分からないまま精霊の指示に従い、鍵盤の一つを人指し指で叩いた。
 しかし、精霊が叩いた鍵盤の隣の鍵盤を弾いてしまい、精霊に怒鳴られた。
「それはレ!!!」
「え、わ・分かった!」
 突然、メシアは右腕を高く振り上げた。
 何をする気だとソフィスタや精霊が戸惑っている間に、右腕は振り下ろされ…鍵盤に手刀が叩き込まれた。
 ピアノ音の他にも、鍵盤楽器にあるまじき音をド派手に立てて、デタラメな重奏曲が奏でられる。
 単純に言ってしまえば、破壊音である。
 メシアの手刀一発で、盛大なカタストロフィーを迎えるはめになったピアノは、M字型に叩き割られ、バラバラになった鍵盤を床にぶちまけた。
 ピアノ音は聞こえなくなり、割れた木片がぶつかり合う音だけが響き、それも徐々に小さくなっていく。
 ソフィスタと精霊は、口をあんぐりと開いて固まっており、笑いすぎて腹が痛くなり始めていたアズバンも、笑いを止めて二人と同じ表情で壊されたピアノを眺めていた。
 音が何も聞こえなくなり、室内に静寂が訪れる。
「…よしっ」
 そう言ってメシアが腕を引っ込めた、次の瞬間、爪で鏡を引っ掻いたように高い声で、精霊が悲鳴を上げた。
「イヤ――――――ッッッ!!わわわなんてことをしてくれますNOォォォォ!!!!」
 精霊は両手で頭を押さえ、半狂乱になって首をぶんぶん振る。
「え?しかし、これを割れと…い・今音を出した板を割れと言ったのではないか?」
 我に返ったソフィスタは、メシアの言葉を聞いて、彼は精霊の「それはレ!」を「それ割れ」と聞き間違えたのだなと理解した。
「言ってないわよ!アーッ!消える消えるゥ!!何てことをしてくれたのよー!!」
 ひたすら騒ぐ精霊の黒いドレスと体が透け始め、徐々に周りの景色に溶け込んでいく。
「消える?うおわっ本当に消えているぞ!どうしたというのだ!?」
 焦って立ち上がったメシアに近付き、ソフィスタが教えてやる。
「宿っている物が壊れたと認識したら精霊は消えるんだよ。さっきあたしが話しただろ。聞いていなかったのか?」
 メシアは大袈裟に体を震わせ、「ええぇぇっ!?」と裏返った声を上げて驚いた。
「いやぁぁぁ〜わたくしがこんな情けない最期を迎えるなんてぇ〜」
 精霊は泣きながら床に突っ伏した。
「し、しかし、ほれ、この音を出す白い板は無事なのだ。これさえ残っておれば…」
 メシアは精霊の隣で腰をかがめ、そう言って足下に散らばっている鍵盤の一つを拾い、人指し指でグッと押した。
 当然、音は出ない。
 あれ?と首をひねって、もう一度押す。
 やっぱり音は出ない。
 ソフィスタたちが唖然と見守る中、メシアは手にしてる鍵盤を何度も突く。

メキッ

 指が鍵盤にめり込んだ。
「あっ…こ・壊れた!」
「とっくに壊れとるわアホォォォォォォォ!!!!」
 正に弾かれるように、そして断末魔のごとく、精霊は絶叫した。
 精霊の姿は霧のように消え、同時に絶叫も止み、室内には静寂が訪れた。
 しばらく、三人は壊れたピアノを黙って見下ろしていたが、やがてメシアがポツリと呟いた。
「…悪いことをしてしまった…」
 さすがに精霊を不憫に思ったソフィスタとアズバンは、申し訳なさそうな表情のメシアにかける言葉も見つけられず、口元をひきつらせた微妙な表情で、ただその場に突っ立っていた。




 その後、音楽室には新しいピアノが導入された。
 メシアが壊したピアノは、メーカーロゴ入りのプレートを残して撤去され、プレートは音楽室に飾られることになったそうな。
 こうして、生徒たちの間で怪談話になりかけていた、勝手に鳴り響くピアノの話はなくなったわけだが、そんな話より怖いのは、この緑色の直立二足歩行トカゲなのではないかと、ソフィスタは思った。
 勘違いでピアノを叩き割ったように、救世主の名を持つ彼の運命を奏しているオラトリオ(聖譚曲)の楽譜の中には、すさまじく破壊力のあるマルテラート(槌で打つように)が存在しているのではないだろうか。
 そして、それはいつ奏でられるのだろうか。
 …いや、こんな馬鹿が、そんな大それたことをするとは思えない…いやいや、馬鹿だからこそ、常識をすっぽぬけた破壊行動を起こす可能性があるのかも…。

「あの精霊には本当に悪いことをしてしまったな…。そうだソフィスタ、またピアノを弾いてくれないか?」
「やなこった」

 音楽室の前を通るたびに、メシアはソフィスタのピアノ伴奏と精霊を思い出し、ソフィスタはメシアに不安を覚えるのだった。


   (終)


・あとがき

 第五話があまりにダラダラと長く続くので、息抜き気分で書いたお話でした。たまにこういうギャグやらないと、疲れます。いや、第五話でもだいぶギャグ的なシーンもあるけど。
 実はソフィスタはピアノが上手いという設定を、どこかで出せまいか出せまいかと考えていたら浮上した話ですが…メインはメシアの壊滅的に下手な演奏シーンや、ピアノを叩き割る破壊シーンなってしまいましたね。まあ、だいたい物事にトドメをさすのは彼の役目ですから。
 本編では書かれない二人の日常には、こんなアホなショートストーリーも紛れています。ネタが浮上したら、また書きたいなーと思っています。

 …ちなみに、メシアが不快極まる演奏をしているところの文章を書いている時、私自身も気分が悪くなりました。
 感情移入しすぎ。いや、感覚移入?
 でもまあ、良い文章を書くには感覚も移入したほうがいいでしょう。
 その結果、書けた文章が良いものかどうかは別として。

2008.6.29 umiushi


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