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ありのままのメシア 第十話


 四方を汚い壁に囲まれ、じめっとした空気と嫌な臭いが漂う、狭い部屋。窓は無く、壁に設えた燭台に灯った小さな炎だけが光源となっていた。
 この場所が、自分が生まれ落ち、これから生きていく世界なのだと受け入れてしまったのは、外の世界を全く知らなかったからであった。
 不衛生で淀んだ空間。太陽の光は届かず、太陽というものの存在すら知ることができない。しかし、そんな世界でも適応し、自分の力では寝返りも打てないほど未発達だった体も、ゆっくりと成長することができた。
 何より、唯一接することができた者の存在が大きかった。
 外の世界を知らない自分にとって、この者の香りが花であり、全てを許し慈しむような笑顔が太陽であった。
 透き通った声が心地よい風の音であり、優しく抱かれると伝わる柔らかな感触と温もりが大地であった。
 安心、信頼、慕情…あらゆる温かな感情の象徴と言っても過言ではないほど愛に溢れている存在。その愛情が常に傍になければ、この劣悪な環境の中で生きることなどできなかったであろう。
 月日の経過というものの概念すら持てないまま、最低限の栄養だけを与えられて過ごす。
 決して良いとは言えない環境。そんな中でも、確かに幸せを感じ、喜びという感情を与えられた。


   ・第一章 エリクシア

 人間の姿に、様々な動物が混ざったような種族を、人は『獣人族』と呼んでいる。
 陸上で生活する哺乳類の動物の姿が主で、特に犬や猫が多い。理由としては、そういった動物が特に人間と接点が多いからとされている。
 というのも、獣人族には、人間の魔法力の影響によって動物が進化したという説や、魔法で動物の姿に変わって戻れなくなった人間たちの子孫という説があるためである。
 特に有力なのは後者の説。獣人と人間が子を成せることが分かって以来、獣人は元々人間だったのではないかという説が広まったのであった。
 元々獣人が人間だったのでなく、人間が元々は獣人であったのではないかという逆説を唱える者もいるが、どちらにしろ確証は無い。だが、人間と獣人は、一時期は種族間で対立し、戦争にまで至ったこともあるので、元が同じ種族だとは考えたくないほど相手を嫌悪している者は、今でも多い。
 特に、西のトルシエラ大陸では、人間による異種族への差別が激しいため、トルシエラ大陸で獣人を見かけることは、めったに無い。
 一方、東のグレシアナ大陸では、人間の王子と獣人の歌姫の恋物語で有名なヒュブロ王国が大陸の大半の町や村を管轄下に置いているため、人間の獣人に対する理解は広まっており、人間と獣人の結婚も認められている。
 それでも、西の大陸で人間から迫害を受けて東の大陸へ渡ってきた獣人や、習慣などの問題で人間とは一緒に暮らしにくいという獣人は多いため、人間と獣人の数が均等という町は決して無く、獣人のみが暮らす村なども存在する。
 ソフィスタが向かっている村は、まさにそういった獣人が暮らす村であった。
 アーネスからヒュブロへと続く、長い道。その途中にある停留所の手前で道は東へ枝分かれし、その先に獣人族が暮らす村がある。
 村の名は、エリクシア。森に囲まれているエリクシア村は、人間が立ち入ることは許されているし、人間が住んでいないわけでもないが、人間の数が増えることを防ぐための掟は存在する。
 獣人と結婚した人間と、その混血の子供に限って住むことが許され、混血の子供が大人になって人間と結婚する場合は、村を出て行かなければいけない。また、観光や行商で訪れた人間には、五日以上滞在することは許されず、一度に村に入れる人間の数は十人以下というルールが枷せられる。
 人間にとっては厳しい掟ではあるが、獣人を保護するためと、ヒュブロは村に協力しているらしい。
 そこまで詳しく掟を知っているわけではないが、ソフィスタは村に長居するつもりは無いし、人間を何人も連れて入るわけでもないので、その点に関しては問題は無いだろうと考えていた。
 だが、メシアのことはどうだろうか。彼は人間ではないが、獣人族でもないし、爬虫類系の亜人種など今のところ発見されていないはずなので、いくら姿が様々な獣人族でも、メシアの姿には驚かされることだろう。
 せめてユドとの時のように、いきなり襲ってこなければいいが。そんなことを心配しながら、森に囲まれた細い道を馬車で進み続け、曇り空が闇夜に染められてますます暗くなった頃、ソフィスタの魔法の光が照らしている道の先に、ようやく村の灯りが見えた。
 村は高い木造の柵に囲まれ、門はがっちりと閉ざされている。村の灯りに見えたのは、その門の左右で煌々と輝く松灯りであった。
 そして、門の手前には二人の門番が槍を構えて立っている。
 ソフィスタは魔法の光を消し、スピードを緩めなが馬車を進めた。既に馬車に気付いている門番たちは、槍を門の前で交差させてソフィスタが近付くのを待っている。
 松灯りの光に晒される二人の門番の内、一人は頭部が犬のそれそのもので、川鎧から露出している両手足は灰色の毛に覆われている。もう一人は人間の若い男に近い姿だが、ウサギの耳が頭から伸びており、車輪の音に応じてピクピクと動いている。
 門番が立っている位置より手前で馬車を止めた時、二人の門番は、馬の手綱を引いている者が少女であることに驚いたようだ。
「あらまあ!こんな夜に女の子が外をうろついていちゃ危ないよぉ。どこから来たんだい?」
 犬の顔の獣人は、口調や仕草は女のもので、女物のアクセサリーも身に着けているが、体格はメシアといい勝負で逞しく、声も男っぽくしゃがれている。しかし、男っぽい声や体格の女獣人は珍しいものではないので、ソフィスタは気にしなかった。
 そもそも、人間から見て獣人は性別と年齢の判断が難しく、特に体を鍛えている者は、胸も乳房なのか筋肉なのか見分けがつきにくい。こうしたコミュニケーションの取りにくさもあって、人間との関係はイマイチ良くならないのかもしれない。
 それはそうと、ソフィスタは名乗りながら馭者台を下りる。
「アーネスから来た、ソフィスタ・ベルエ・クレメストです。馬車の中にも連れがいるのですが、怪我をして意識を失っています。先に医者へ運ばせてもらえませんか」
 そう言って、ソフィスタが車両の扉を開くと、中を覗き込んだ二人の門番は息を呑んだ。
 メシアはベンチの上に横たわり、自分の巻衣とソフィスタのマントを上から被せられているが、そこから露出している緑色の腕や足は、獣人族にとっても珍しいものだったようだ。
 包帯に滲んだ血が固まって赤黒いシミを作り、ベンチから垂れている長い銀髪にも固まった血が点々とこびり付いている。急いで砦を出たため、患部の周りしか血を拭っていなかったのだ。
 さらに、意思を持っているゼリー状の生物…セタとルコスが、馬車の揺れでメシアの体がベンチから落ちないよう支えている。
 緑色の肌の血まみれの大男と、青と銀のブヨブヨした生物二体を同時に目の当たりにすれば、誰だって驚くだろう。二人の門番も、目を丸くして馬車の中の様子を眺めている。
「早く中に入れて下さい!応急処置しか施していないんです!」
 こんな所で時間を喰っている暇は無いと、ソフィスタは二人の門番を急かした。
「そ・そうだね。じゃあ、アタシが先導するから、お前さんは見張りを続けとくれ」
 犬の顔の獣人に指示され、ウサギの耳の獣人は「分かった」と頷いて門を開けに走った。ソフィスタは再び馭者台に座り、馬の手綱を握る。
「ソフィスタちゃんっていったね。アタシの名はアザミよ。医者まで案内するから、アタシについておいで」
 門が内側に開ききると、アザミと名乗った犬の顔の獣人族は、ソフィスタにそう声をかけて村の中へと進んで行った。ソフィスタもそれに続き、馬車を進める。
 残されたウサギ耳の門番は、馬車が通過した後に門を閉じた。


 *

 村には人間の女医が一人だけおり、自宅も兼ねて小さな診療所を開いているという。
 診療所に着くと、あまり人に見られると驚かれると思って、ソフィスタはセタとルコスを馬車に残し、ここまで一緒に来たアザミに手伝って貰ってメシアを診療所の中に運び込んだ。予想していたより設備も整っており、ソフィスタは少し安心する。
 彼を治療室の寝台に横たわらせると、見た目は四十代前半くらいの女医が、さっそくメシアの包帯を外して容体を確認し始めた。包帯に引っかけておいたメシアの紅玉のアクセサリーは、あらかじめソフィスタが外して持っている。もし紅玉がメシアの暴走を止めていたのなら、外したらまた暴れ出すのではないかと思ったが、特にその様子も無く、メシアの体に変化も起こらなかった。
 メシアの体は、我を失って暴れていた時と比べて少しは筋肉が萎んだように見えるが、元の体格に戻るほどではなかった。しかし、女医はメシアの体格については特に驚いていないようだった。それも、アザミのように逞しい体格の獣人族に囲まれて暮らしているからだろう。
 呼吸は荒く、額は汗でじっとりと湿っている。悪い夢でも見ているのだろうか。呻き声を上げて体を震わせていた。
「…君。彼が負っている傷は、全て今日負ったものですか?」
 女医に尋ねられ、ソフィスタは「はい」と頷く。隣にいるアザミは、辛そうな様子のメシアを不安げに眺めている。
「確かに、傷はどれもこれも新しいもののようですね。太刀傷と見られるものは、浅いものも深いものも塞がっている。しかし、皮膚が膨らんで破れたような傷痕は完全に塞がっていない。…どういうこと?浅い傷のほうが治りが遅いなんて。それに、何があってこれほどの傷を負ったんですか?」
 女医の問いに答えるにも、正直、ソフィスタにもメシアの身に何が起こっていたのか、よく分からなかった。紅玉のことや肉体が変化していたことなど、詳しい事情を説明するには時間がかかりそうだし、理解することもできなさそうなので、適当に誤魔化しながら傷の説明をすることにした。
「…突然、悪漢に襲われたのです。私は途中で気絶させられたので、あまり見てはいなかったのですが、太刀傷は、そいつと戦って負った傷のはずです。他は…筋力を強化させる魔法でも使ったかのように肉体を変化させていたので、その反作用か何かで負った傷だと思います」
 かなりはしょったが、あまり嘘はついていないつもりだ。
「悪漢?もしかして、山賊ですか?どこで襲われたのですか?」
「…襲われたのは、この村からアーネスまでの道のりの、だいたい中間より村寄りのあたりでです。山賊かどうかは分かりませんが、少なくとも他に仲間はいませんでした」
 村の近くで悪漢に襲われたとなると、村の者たちにも早めに注意を呼びかけなければいけない。だから女医は、悪漢に襲われた場所や、その悪漢について尋ねてきたのだろう。ソフィスタが適当に答えると、女医は「そうですか…」と呟き、少し考え込む。
「…とにかく、熱も出していますし、意識を取り戻しても、すぐには動けないでしょう。時間をかけて休ませることですね。体力が回復するまで、この村で療養しなさい」
 女医の言う通り、この状態で旅を続けることは無理だろう。回復に向かっていないわけではなさそうだが、メシアがこうなってしまった理由がハッキリと分からない以上、いつ悪化しても対応できる状況にあるほうがいい。
 しかしユドのことも考えると、できれば同じ場所に長く留まりたくはないし、何よりメシアには早く元気な状態に戻って欲しい。いつもなら、メシアに優しいだの言われたり、彼を心配する自分に気付くと否定するソフィスタだが、今は心配を隠す気も、胸の痛みを否定する気も湧かなかった。
 悩んでいるソフィスタをよそに、女医は棚からピンセットなどの器具や包帯を取り出し、木のトレーの上に並べ始める。
「お嬢ちゃんも疲れているようだから、今日は診療所に泊まりなさい。病室が空いているから、そこを利用して下さい」
 てきぱきと治療の準備をしながら、女医はソフィスタに言った。村には宿もあるのだろうが、メシアの様態も気になるので、そう誘ってもらえるとありがたい。
 それに、珍しい種族の上にエルフに狙われているメシアを、あまり人に託したくないという気持ちもある。メシアが来てからは少しはましになったが、今で もソフィスタは人間不信であり、医者であっても面識の無い人間など、完全に信用できなかった。医療器具が揃った施設の管理下だから、仕方なくメシアを任せたといった感じである。
 ソフィスタは女医に「お世話になります」と言って頭を下げた。
「今日はここに泊まるってことでいいのね。それじゃあ、外の馬車だけ馬屋へ移動させましょ。案内するわ」
 ソフィスタにそう言って、アザミは先に治療室を出た。ソフィスタも女医に「では、そいつをよろしくお願いします」と声をかけてから、アザミに続く。
 治療室を出る直前に、ソフィスタはメシアを振り返ると、彼はまだ辛そうに呻いていた。


 *

 馬車を馬屋に預けた後、ソフィスタは村で泊まるのに必要な荷物と、今は必要のない荷物を分け、二つのザックにそれぞれを詰めた。必要の無い荷物は馬車に残していくが、女医が脱がしたメシアの服や巻衣は、血などの汚れを洗い落とさなければいけないので、紅玉のアクセサリーと一緒に必要な荷物を入れたザックに詰めた。
 必要な荷物が入っているザックを背負い、セタとルコスを肩に乗せると、アザミに案内されて村長のもとへ向かった。メシアがいつ旅ができるほど回復するか分からない以上、ヨソ者の人間が五日以上滞在してはいけないというルールを守れないかもしれないので、ひとまず村長と顔だけ合わせたほうがいいというアザミの判断であった。
 だいぶ歳を重ねた獣人族の村長は、奇妙な生物を連れた人間であるソフィスタに対し、最初から厳しい態度であったが、とにかく今日は遅いので、明日の朝、メシアの様子を見てからソフィスタたちの滞在を考えるということで話はまとまった。
 その後、アザミはソフィスタを診療所まで送ると、村の警備に戻った。その時のアザミには、どこかピリピリした様子が見受けられたが、あまり気にしなかった。

 診療所の治療室では、女医が助手と二人でメシアの傷の縫合を行っていた。声をかけるにも縫合の邪魔をするわけにはいかず、部屋の入り口でザックを床に下ろし、セタとルコスをザックの陰に隠れさせて、その場からメシアの様子を覗き見ながら声をかけるタイミングを窺っていた。
 やがて、手が空いた隙に助手がソフィスタを振り返った。手術衣で目元以外は隠されているが、頭から角が二本生えているように帽子が尖っており、音や女医の声に反応してピクピクと動いていたので、獣人族であることには既に気付いていた。
「話は妻から聞いているよ。彼のことは我々に任せてくれ。休むなら隣の病室を使うといい。あ、トイレは一階の廊下の奥だ。飲み水は台所の水瓶の中だ」
 この獣人は、女医の夫であったようだ。彼はソフィスタに早口で話すだけ話すと、再び縫合に戻る。
 ソフィスタは、少し考えてから「あの…」と静かに女医と獣人に呼びかけた。二人はこちらを振り返らず、獣人だけ「何だい?」と返事をした。
「私はアーネス魔法アカデミーの学生です。魔法で水や炎を出現できますし、他にも何かお手伝いできることがあれば、言って下さい」
 そう話すと、獣人は「えっ?」と驚いた様子で振り返った。すると女医に「危ないじゃない!」と小声だが厳しく叱られ、耳をしゅんと項垂らせた。
 魔法使いの存在は、こういった閉鎖的な村では一般的ではなく、魔法を使えるというだけで驚かれることもあれば、危険と見なされたりすることもある。
 しかし、ここはアーネスからそう遠くない場所にあり、魔法使いが村に立ち寄ることは少なくないはずだ。魔法と聞いて獣人は驚いたようだが、それはソフィスタのような若い少女が魔法を使えることに感心した程度のようだし、女医のほうは特に驚いてもいないようだ。おそらくアーネス魔法アカデミーのことを知っているのだろう。
「そうなの。じゃあ…お風呂のお湯を沸かすことはできますか?浴槽に水は張っているのですが、まだ外のカマドの準備もしていなくて…」
 縫合を勧めながら、女医はソフィスタに尋ねる。ソフィスタは「はい、できます」と返事をした。
「じゃあ、治療が終わったら私たちも体を洗うので、お風呂の用意をしておいて下さい。ソフィスタさんも入るでしょう?こっちはまだかかりそうなので、先に入って下さい。浴室はトイレの手前の引き戸を開けたところにあります」
 女医の話を聞き終えると、ソフィスタは「分かりました」と答え、治療室を出てドアを閉めた。
 廊下に出ると、ソフィスタは壁に背をもたれ、深く息を吐き出した。やっとメシアにましな治療を受けさせてやれたと思ったら、安心したためか、疲れがどっと出てしまった。
 ソフィスタもユドに強く蹴られたり、凶暴化したメシアを止めようと必死になったりと、心身共にボロボロになっていたのだ。自分より遙かにボロボロにされたメシアを早く助けるため、今まで気力で動いていたが、体力は限界に近かった。今日一日で、三日分は働いていたような気がする。
 今日はもう夜遅いし、メシアのことは女医たちに任せて休むしかない。明日からどうするかも、明日になってみなければ分からない。とにかく余計なことを考えるのはやめよう。
 再び息を吐き出し、セタとルコスに肩に乗るよう身振りで指示すると、壁から背を離し、浴室へ向かって廊下を歩き出した。しかし数歩進んだところで、はっとして足を止めた。
 先程、治療室の入り口でザックを床に下ろし、そのまま置き忘れてきてしまったのだ。自分が疲れていることを思い知らされ、またため息が漏れる。
 引きずるような足取りで、ソフィスタは治療室へ引き返した。
 治療室の入り口の脇に置かれていたザックを持ち上げようとした時、女医たちの話し声が聞こえた。
「…あの薬さえあれば、これくらいの傷、すぐに治るのに…」
 …薬?何のことだ?
 ソフィスタは音を立てないよう気をつけながら、治療室の中から聞こえる会話に耳を澄ます。
「ダメだ。あの薬を使わずに治療できるなら、時間をかけてでも薬に頼らないほうがいい」
「でも、あれはただ傷を治すだけではなく、体力の回復にも…」
「分かってる。だがあの薬は、村の者以外には使ってはいけないし、あまり知られてもいけない掟だろ」
「ええ…そうね。あの薬は効果が強すぎるし…」
「そういうことだ。それに、あの姉妹の二人がいない以上、すぐに薬は手に入らないよ」
「そうね。…でも、どこへ行ったのかしら。あの二人」
「さあな…あ、消毒液が無くなった」
「そこの棚の一番下の引き出しにストックがあるわ。ついでにガーゼも出しておいて」
 女医たちは、それ以上は薬の話をしなかった。ソフィスタは静かにザックを持ち上げ、その場から離れる。
 …女医たちが話していた薬って、そんなによく効くものなのかな。それに、あの姉妹って誰のことだろう。
 よく効く薬があるのなら、ぜひメシアに使ってもらいたい。しかし、村の者以外に使用することと、存在を知られることは禁じられているのでは、頼んでも簡単に使ってはくれまい。
 それに女医の夫は「あの姉妹の二人がいない以上、すぐに薬は手に入らない」と話していた。どこにいるのかも分かっていないようなので、薬を手に入れるなら、その姉妹の二人を探し出した上で、薬を貰えるよう頼むことになるだろう。
 …二人の姉妹か…。明日、もっと薬について情報を集めてみようか…。
 ぼんやりと考えながら、ソフィスタは再び浴室へと向かった。


 *

 浴室で、自分のマントやメシアの服と巻衣を洗おう広げた時、ソフィスタは奇妙なことに気付いた。
 ホコリや土などの汚れはそのままだが、血の跡は全く残っていない。ザックに入れる前までは、確かに固まりかけた血がこびり付いていたはずなのに。
 不思議に思って調べていると、巻衣に包んでおいた紅玉が床に落ち、カツンと音を立てた。ソフィスタはそれを拾い、じっと眺める。
 …まさか、コレの力が血の跡を消したのか…?
 メシアは、この紅玉について初めてソフィスタに説明した時、メシアの心に反応して力を発揮すると説明した。そして身に着けているだけでも、メシアを様々な危険から守っていた。
 だが今日は、メシアが身に着けていなくても、メシアの意思がなくても、不思議な力を発揮し、その力にソフィスタも守られた。どうやらこの紅玉には、まだまだ秘密があり、もしかしたらそれは、今までソフィスタが考えていた紅玉の役割を覆すかもしれない。
 だから、この紅玉が巻衣やマントに着いた血を消したという推測だって、決して可能性が無いとは言い切れないのだ。
 しかし、今は紅玉よりメシアの様態だ。それに彼が意識を取り戻さない以上、紅玉について悩んでいても仕方がない。そう気持ちを切り替え、浴室でメシアの巻衣や自分のマントの汚れを洗い落とした。
 そして浴槽の水を魔法で湧かすと、湯船には入らず、体や髪の汚れを洗い流し、巻衣とマントの水気も一緒に魔法で払った。
 ザックの中に詰め込んできた服に着替えると、脱衣所に待たせていたセタとルコスを肩に乗せ、ザックを担いで治療室の様子を見に行った。
 治療室の寝台にメシアはおらず、女医たちは器具を片付けている。
 ソフィスタに気付いた女医が、片付けを続けながら声をかけてきた。
「彼のことなら、もう心配いりませんよ。二つ隣の病室のベッドへ運んで寝かせてあります」
 どうやら、治療は無事終わったようだ。ソフィスタは女医たちに「ありがとうございます」と言って頭を下げた。
「いえいえ、これが医者の使命ですから。…そうそう、彼を運んだ病室には、もう一人怪我人がいます。二人とも寝ているから、様子を見に行く時は静かにね」
「はい、分かりました」
 それからソフィスタは、隣の病室に荷物を置いてから、さらに隣の病室に入った。一応ドアをノックはしたが、返事が無いので、女医の言う通り寝ているだけなのだろうと考え、静かにドアを開いて病室に足を踏み入れた。
 病室の中は、壁に設置された燭台の灯りで、足下が見える程度に明るい。ベッドは四つあり、メシアが寝かされているのは入り口から一番近いベッドであった。もう一人の怪我人は隣のベッドに横たわっており、こちらも時々小さく呻いていた。
 ソフィスタは、メシアが寝かされているベッドに近付き、彼の様子を眺める。
 傷を負っていた患部には包帯がきちっと巻かれ、確かにちゃんとした治療は施されているようだが、表情はまだ苦しそうであった。
 額に触れると、じっとりと汗をかいていることが分かる。まだ全身の痛みに、もがき苦しんでいるのだろう。
 ソフィスタは、ザックから取り出して持ってきた紅玉のアクセサリーを、自分の目の高さまで持ち上げて見つめた。
 …この紅玉、やっぱりメシアに持たせておいたほうがいいよな…。
 眠っている者に宝石を持たせれば、だいたい盗まれてしまう。しかしメシアの意思がなくても不思議な力を働かせられるのなら、たぶん大丈夫だろう。
 普段のメシアなら、眠っている隙に紅玉を盗ろうとすると、すぐに目を覚ます。頬を軽くつねっても起きないことを確認してからでも、一体どんな勘が働いているのか知らないが、紅玉を盗られる時に限って、メシアは目を覚ましたのであった。
 しかし、女医が包帯を取り替えようとした際に紅玉を外しても、メシアは起きなかった。ソフィスタが紅玉を持っていられるチャンスなど、今を逃して他に無いかもしれない。
 …メシアと出会って間もない頃のあたしだったら、迷わず紅玉をかっぱらっていたかもな…。
 あの頃と比べ、だいぶ人間が丸くなってきたと、自分でも思う。人に感心が無く、他人のことなんてどうでもいいと突っ張っていた自分が、少しずつメシアに心を開いてゆき、メシアが我を失って暴れていた時は体を張って助けようとしたし、今もメシアの身を心底案じている。
 否定することもできず、悔しい気もするが、どこか温かみを感じる。ソフィスタはため息をついて、メシアの左手に紅玉をはめた。
「…さっさと怪我を治せよ。そんなボロボロの姿じゃ、蹴っ飛ばすこともできないだろうが…」
 そう囁いて、メシアの左手をぎゅっと握った。メシアの体温が伝わり、大怪我をしながらも彼が生きていることを感じて、ほんの少し不安が和らぐ。
「あ…あの…そこの…ニンゲン?」
 不意に何者かの声が聞こえ、ソフィスタは体をビクッと震わせてメシアの手を放した。ソフィスタの肩に乗っていたセタとルコスの体の揺れも激しく、ソフィスタの動揺の大きさが伺える。
「ゴメ…ン…驚かせた…?」
 その掠れた声は、隣のベッドで眠っていた怪我人が発していた。そちらを振り返ると、その怪我人はベッドに体を横たえたまま、顔だけこちらに向けている。
 怪我人は頭を包帯でグルグル巻きにされているが、そこから突き出している耳は尖っており、猫や犬のように毛で覆われている。どうやら、獣人族のようだ。
 体は若干骨太で、身長もソフィスタよりはあるようだが、メシアやアザミほど背が高くも逞しくもなく、まあ普通の若い男の体格といったところだろう。胸は膨らんでいないが、アザミのような筋骨隆々の女獣人を見た後だと、外見だけでは性別の区別がつきにくい。
「アンタ…ヨソの人…だね。ちょっ…と…お願い…ベッドの下…荷物…中の箱を…」
 怪我をしている獣人の声は、掠れて弱々しいものであった。喉にも包帯が巻かれているので、声を上手く発せないのも怪我のせいなのだろう。
「なに?ベッドの下の荷物の中から箱を出せってこと?」
 ソフィスタは、この獣人が言おうとしていることを解釈し、聞き返す。獣人は「うん」と小さく答た。
 獣人のベッドの下には、薄く削った竹を編み込んだカゴが置いてあった。引っ張り出すと、汚れて所々切り裂かれている服と鞄と、同じく汚れて傷だらけだが原型は留めている箱が入っていた。両手に乗せて少しはみ出る程度の大きさの、浅い円筒状の木箱で、漆細工が施されていたようだが、見るも無惨に色は剥げている。
 ソフィスタは箱を取り出し、怪我をしている獣人に差し出して、「これ?」と尋ねた。獣人は両腕をゆっくりと上げ、箱を受け取ろうとする。
「ちょっと、無理すんな。この中から何か取り出すの?」
「…いや…。じゃあ、枕元に置いて…」
 言われた通り、箱を獣人の枕元に置き、獣人の腕を静かに下ろさせた。獣人は「ありがと…」と声を振り絞ってソフィスタに礼を言う。
「それと…も…一つ…お願い…明日…朝…日が出たらすぐ起こして…」
「へ?そんなに早く?何で…」
「頼む…協力して…アンタの連れの怪我…治す…から…」
 それを聞いてソフィスタは一度メシアと獣人を交互に見た。
「え…あ・アイツの怪我を治せるのか?どういうことだ!」
「…も…喋るの限界…明日…説明する…このこと…村の奴らには秘密…」
 確かに、獣人の声は喋り始めた時より掠れて小さくなっており、ソフィスタもそろそろ話をやめたほうがいいのではないかと思っていたところだった。まだ聞きたいことはあるが、本人も限界だと言っていたので、ソフィスタも話すことをやめて考え込む。
 疲れているのに早起きしろなど、怪我人の頼みでも嫌だが、メシアの様態が気になるので、早起きしてメシアの様子を見るついでに起こしてやってもいいとは思うし、早起きをして起こせ程度の頼みでメシアの怪我を治してくれるのなら、喜んで引き受けられる。
 しかしソフィスタは、この獣人を言うことを信用していなかった。村の奴には秘密にしろというところが特に怪しく、本当にメシアの怪我を治してくれるのかどうかも疑わしい。そもそも、他人の怪我をすぐに治せるのなら、なぜ自分はそれほど怪我を負ったままなのだろうか。
 しかし、獣人はこれ以上話せそうもないし、ソフィスタも疲れているので、早く休みたい。
 …早起きして起こすくらいなら、まあ引き受けてやるか。それからどうするかは、その時に考えよう。
「分かった。明日の早朝に起こすんだな?村の奴らにも黙っておく」
 ソフィスタが答えると、獣人は小さく頷き、目を閉じた。眠るつもりなのだろう。
 メシアを振り返ると、彼は相変わらず呼吸を荒げていた。
 …確かに、治してもらえるなら助かるんだけど…。とにかく、あたしも休もう。明日は早起きしなきゃいけないし…。
 悩んでいても時間の無駄だと判断し、ソフィスタは獣人のベッドから離れ、病室を出た。


  (続く)


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