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ありのままのメシア 第十話


 栄養が満足に行き届いていない体。不衛生な環境。いつ病気になってもおかしくなかったが、健やかとまでは言えないものの、これといった病にかかることも無く、手足を着いて自らの力で前へ進むことも覚えた。
 筋力と体力が乏しい体では、この狭い部屋の壁から壁まで移動するにも、休みを挟まなければもたなかった。しかし好奇心が旺盛な今、興味を持ったものに自らの力で少しでも近づこうとできることは、喜びであった。
 硬く冷たい床を爪先で蹴って体を前へと押し出し、倒れないよう細い腕を突っ張らせる。
 進めるところまで進み、疲れて床に突っ伏していると、細い体が持ち上げられ、柔らかい感触へと導かれた。
 穏やかに声をかけられながら、優しく背中を撫でられる。心が安らぎ、疲労すら心地よくなる。
 顔を上げると、その声と感触の主が、笑顔で見下ろしていた。
 痩けた頬に、艶のない髪。肌は荒れ、身に着けている服は襟がすっかりくたびれている。
 しかし、自分が知る世界の中で、この者は何よりも美しく、何よりも愛おしかった。
 この者の名前は、まだ知らない。この者が自分にとってどういう存在かは分かっているが、それを示す単語は、ハッキリと認識できていない。
 それでも弱々しく声帯を震わせ、この者を呼ぼうと声を振り絞った。


   ・第二章 イケてるユリ

 空は白み始めたが、まだ太陽は姿を現さない。そんな時間に、アーネスの自宅から持って来た目覚まし時計がベルを鳴らした。
 部屋の外まで音が漏れないよう、極力小さい音が鳴るようにされていたが、その音に聞き慣れているソフィスタは、すぐに目を覚ます。
 朝は弱い方で、こんな早朝に起きることなどめったにないソフィスタだが、今日は頭もすぐに覚醒し、体を起こして時計のベルを止めると、大きく伸びをしてからベッドを下りた。
 昨日の疲れは抜けきっておらず、体がだるい。だが、日が昇ってすぐ起こしてやると約束をした者がいるので、寝間着代わりにと持ってきた、薄手で着心地の良いワンピースを脱ぎ、昨日の夜だけ着ていた服に着替え始める。
 その間に、テーブルの上で布を被って休んでいたセタとルコスも覚醒し、もそもそと動いて布から這い出てきた。
 昨日のユドとの戦闘で、二体もだいぶダメージを負っていたが、どうやら回復しているようだ。
 メシアの様態はどうなのだろうと、何気なくメシアがいるはずの部屋側の壁へと視線を移した時、ぐうぅ〜と腹が鳴った。
 …あ…そういや、昨日の夜は何も食べていないんだった…。
 空腹を忘れるほど心身共に疲れ果てていたが、今朝になって少し疲れが取れたら、食欲も沸いてきたようだ。
 …こんなに朝早くじゃ、店もやってないだろうな。
 馬車に戻れば、置いてきた荷物の中に携帯食があるが、まだ日持ちするものなので、できればとっておきたい。まあ、あの獣人を起こした後にでも食堂を探せばいいだろう。それに、宿も探しておきたい。
 旅の目的地であるラゼアンの町を目指して、早く旅を再開したいが、メシアの様子によっては、もう一晩この村に泊まるかもしれない。それに、メシアの怪我が本当にすぐ治るとは思っていなかった。
 あの獣人…今日の早朝に起こすと約束をした獣人は、メシアの怪我をすぐに治せると言っていたが、ソフィスタはそれを完全に信用してはいない。
 起こすだけ起こして、その後のことはその後で考える。そのつもりで、ソフィスタは獣人の頼みを聞き入れた。
 …治せなかったら、何か別の方法を考えなきゃだめかな。昨日、女医がこそこそと話していた薬ってやつを調べてみよう。
 考えながら着替えを済ませ、セタとルコスを肩に乗せると、静かに部屋を出た。
 この診療所は二階建てで、女医とその夫は、普段は二階の部屋で生活しており、今も二人とも二階で眠っているはずだ。少しくらい物音を立てても気付かれないだろう。メシアと獣人が眠っているはずの病室の前で、ソフィスタは控え目にドアをノックする。
 中から返事は無い。二人とも眠っているのだろうか。
 少しドアを開いて、隙間から病室の様子を覗くと、メシアも獣人も、それぞれのベッドの上で寝息を立てていた。ソフィスタは部屋の中に入り、ドアを閉める。
 メシアは、まだ苦しそうに呻いていた。この様子だと、まだ目を覚まさないだろう。ソフィスタは近くの棚からタオルと水差しを勝手に取り出しながら、メシアの隣のベッドで横になっている獣人にに呼びかけた。
「おい、約束通り起こしに来たぞ。起きな」
 声をかけただけでは反応すらしないかと思ったが、予想に反して、獣人は「う〜…」と唸り、ごろっと寝返りを打った。
 …あれ?全身を怪我しているわりには、寝返りを打っても痛がっていない…。
 よく見ると、獣人の包帯は昨晩より雑に巻かれている。女医が包帯を取り替えたのなら、もっと丁寧に巻かれているはずだ。
 不思議そうに見ていると、突然、獣人が勢いよく上半身を起こした。それに驚かされて、ソフィスタは水差しを落としそうになった。
 獣人は、包帯でぐるぐる巻きにされている両手で、探るように胸や脇腹に触れる。
「あ…あはははっ!なにコレ痛くない!コレって治ってね?治ってんじゃね?超治ってんじゃんコレェ!!」
 獣人は元気に両腕を振り回し、高い声を上げて笑った。昨晩の弱々しい様子と、今の元気そうな様子にギャップがありすぎて、ソフィスタは唖然と獣人族を眺める。口調もやたらと軽くて明るく、あの掠れた声が嘘のようだ。
「ィヤッフゥ!!完全復活ゥ!超イケてるー!!」
 そう声を上げ、獣人はベッドの上で立ち上がり、両腕を左右に水平に伸ばした。
 すると、カーテン越しに僅かに差し込む日差しを反射して煌めく何かが、細い軌道を描いて獣人の全身を駆け巡った。その軌道に沿って、獣人の包帯が切り裂かれ、獣人が右足を軸にクルッと一回転すると、包帯は紙吹雪のように舞い散った。散り散りになった包帯がこちらに飛んできて、ソフィスタは思わず目を閉じ、タオルと水差しを持ったままの腕で顔を庇った。
「うわっ!何やってんだ!」
 そう怒鳴って、ソフィスタは目を開け、腕を下ろした。包帯は床やベッドに散らかって落ち、獣人は下着しか身に着けていない姿でベッドの上に立っていた。
 獣人のストレートの茶髪は、肩より少し長い位置で切り揃えられ、目の下には大きな隈のような模様があった。
 細いがそこそこ筋肉のついている体は、獣人にしては体毛が薄く、首から下だけを見ると普通の人間と変わりない。歳はソフィスタと同じくらいだろう。
 あれだけ包帯を巻いていたというのに、体には傷も傷痕も無かったが、それ以上に驚くべきものに気付き、ソフィスタはとっさに獣人から顔を逸らした。
 獣人が履いている、ピンクのショーツ。縁をレースで飾った、いかにも女の子らしくて可愛らしい下着だが、そこには女にあるまじき膨らみがあった。
「ん〜開放感!…あ、そこの女の子、起こしてくれてサンキュっ♪」
 獣人はソフィスタに礼を言い、投げキッスを飛ばした。そんな明るい様子の獣人とは対照的に、ソフィスタはものすごく嫌そうな表情をしていた。
「おっ…お前、男じゃねーか!何で女物の下着を履いているんだ!変態か!!」
 顔だけではなく体も獣人から背けて、ソフィスタは言い放った。獣人はムッとして、太い眉を吊り上げる。
「はあ?なにソレ。超ひどくない?確かにアタシは体は男だけど、心はマジ乙女なんですけど。乙女が可愛い下着を履いちゃ悪いんスかぁ?」
 獣人はソフィスタを見下ろして、わざとらしく深いため息をついた。その喋り方と態度に、ソフィスタはイラッとしたが、ここは堪えた。
 …そうか。コイツは、そのテの男か…。
 自分の性が男であることは理解しているが、心は女だと言い張る。いわゆるオカマの類だろう。そういった者と話をするのは初めてで理解も無く、気持ち悪くて相手にすらしたくないとソフィスタは考えているが、知り合ってしまったのでは仕方ない。それに、なぜかは分からないが、彼は昨日のように弱々しくないし、それどころかテンションが高い。つまり、昨晩ソフィスタが、この病室を出てから今朝までの間に、怪我を治したということになる。
 これなら、メシアの怪我も本当に治してもらえるかもしれない。となると、あまり獣人の機嫌を損ねる態度を取るわけにはいかない。
 仕方ないと、ソフィスタは自分に言い聞かせる。
「…あの、とにかく、服を着てくれ。そのカッコのままじゃいられないだろ」
 そうソフィスタに言われると、獣人は「それもそうだ」とベッドから下りた。
 早くも疲れたように、ソフィスタは項垂れると、獣人が着替えている間にメシアの面倒を見ておこうと、落とした水差しとタオルを拾う。
「じゃあ、あたしは水を汲んでくるから、着替えを済ませておけよ」
「あ、アタシも喉乾いてっから、ついでに汲んできて。あと、アタシの名前はユリ。人呼んで、コギャルのユリでぇっす☆アンタは?」
「…ソフィスタ」
「そう。んじゃソッフィー、よっろしくぅ♪」
 馴れ馴れしく、そして勝手にあだ名を付けられて呼ばれ、ソフィスタはものすごく気分が悪くなったが、こんな陽気なオカマと取り合っても無意味だと考え、何も言わずに部屋を出た。


 *

 水差しとコップに飲み水を注ぎ、タオルを水に濡らして絞ってから台所から戻ってきたソフィスタは、着替えを終えたユリの姿に、口をひきつらせた。
 昨日は暗くて気付かなかったが、あの汚れていたユリの服も、ばっちり女物であった。白のブラウスとベージュのベスト、紺のスカート、やたらとゆったりとしたソックス、そして腕にはシュシュという、いわゆる女子高生ルックで固められている。そんなユリの、これでもかという女の服装に、もはやソフィスタも呆れ果ててしまった。
「ヤッダ!あんまり見ないでよぉ!服ボロボロで恥ずかしいんだからー!」
 体をくねらせて恥じらうユリに、「恥じらうのはそこじゃないだろ」と小声で突っ込むと、丈の短いスカートから覗く太股は見ないように気をつけながら、ソフィスタはコップをユリに渡した。
「サンキュッ☆もう喉乾いちゃってさ〜マジ助かるわ〜」
 そう言ってコップを受け取り、ユリは水を飲み始める。
 ソフィスタはメシアに近付き、寝汗で湿った彼の体を拭いてやる。包帯も取り替えてやりたいが、包帯を巻いたのも縫合を行ったのも女医で、今のメシアの詳しい様態が分からない以上、うかつに触らないほうがいいと考え、手を出すのはやめた。
 多少腕や足を持ち上げても、メシアは目を覚まさなかった。一通り彼の体を拭き終えると、タオルを置いて水差しを手に取る。ユリがコップを持ったままソフィスタの隣に並び、メシアの様子を眺めるが、放っておいた。
「セタ、ルコス。メシアの頭と首んところを支えてやってくれ」
 仰向けに横たわった状態では水が飲みにくいだろうので、ソフィスタは肩のセタとルコスに、そう頼んだ。二体のスライムは、ソフィスタがやろうとしていることを言われなくても察し、メシアの頭と肩の下に滑り込んで、静かに彼の上半身を傾ける。
 ユリはセタとルコスの姿に「うわ気持ちわるっ」と早口で感想を言い、実に気味悪そうに二体を見ていた。
 眠ったまま水を飲めるとは思っていない。ただ、目を覚ました時にいつでも水が飲めるよう、水を汲んできたのだが、とりあえず試しに飲ませてみようと、ソフィスタは水差しの吸い口をメシアの口に差し込んだ。
 水差しをゆっくりと傾けて少し水を注ぐと、メシアはわりと素直に飲み込んだ。眠りながら飲めるとは、よほど喉が渇いていたのだろうか。
 ユリは、中身を飲み干したコップを適当な場所に置き、メシアに水を飲ませ続けるソフィスタへと視線を移す。
「へえ、そいつメシアって名前なんだ。…それよりアンタ、な〜んかひねくれた感じの女の子だなって思ってたけど、面倒見がいいじゃん」
 ユリはニコニコと笑顔で話すが、ソフィスタは彼を無視する。それでもユリは笑顔だったが、再びメシアへと視線を戻すと、表情が厳しくなった。
「…カレ、辛そうじゃね?ヤバくね?これなら薬を半分くらい残しときゃよかったかな〜」
 あちゃーと頭を抱えるユリの言葉に、ソフィスタは手を休めてユリに顔を向け、「薬?」と尋ねた。
「そう、薬。ホラ、昨日アンタに出して貰った箱ん中に入ってたんだよ。あん時のアタシも死にそうだったし〜、まず自分の怪我を治さないと材料も取りに行けないからと思ってぇ、根こそぎ全部自分の傷に塗っちゃったんだよね〜。や〜マジごめん」
 それを聞いて、昨晩、女医が薬がどうとか話していたことを思い出した。
 傷を治すだけでなく、体力まで回復できるという薬。この村にあり、村の外には知られていけない薬。それは、どこかの二人の姉妹がいなければ入手できないという。
 ユリが使ったという薬が、女医が話していたそれなのだろうか。
「…なあユリ、メシアの怪我をすぐに治すっつってたけど、その薬を使って治すつもりだったのか?」
 ソフィスタの問いに、ユリは「うん、そう」と頷く。
「そうか。薬は使い切ったって言ってたけど、材料を揃えれば作れるのか?」
 女医が話していた薬のことであるにしろ無いにしろ、昨晩はあれほど弱々しかったユリの回復ぶりを見ると、ユリが使った薬の効果が、それだけ絶大で早く効くということが窺える。
 これなら、メシアをすぐに治せると言ったユリの言葉にも期待が持てそうだ。ソフィスタは身を乗り出すようにして、ユリに問う。
「うん。アタシんちに材料があるんだけど、一つだけ足りない薬草があってぇ、それさえ森から採ってくれば、すぐに作れるよ」
「じゃあ、その薬草を採ってくればいいんだな?」
「そうそう。…でもねぇ〜」
 ユリは急に言葉を濁す。
「どうした?何かあんのか?」
「…実はさあ、その足りない薬草のことで、ちょ〜やっかいなことになってんの。その薬草が生えている森には木の精霊がいてぇ、薬草を採りに森に入ったアタシたちを襲ってきたんだよね〜。あれは超ヤバかったわ〜」
 ユリの喋り方だと、ヤバいと言っても深刻そうに聞こえないが、そこはつっこまなかった。
 人が物を長く使っていると、人間の意思がこもった魔法力が蓄積して、物に自我を持つ魔法力の塊が宿るようになる。それが、精霊と呼ばれているものである。
 同じように、植物にも人間の強い意志によって精霊が宿ったという例は、わりと多い。人間とは全く干渉が無い植物でも、長い年月を経れば精霊が宿るほどの魔法力は蓄積する。
 ちなみに、人間や動物に精霊が宿ったという例は、今の所無い。理由として、人間や動物は既にハッキリとした意思を持っているため、僅かに他者の意思がこもった魔法力を外界から取り込んでも影響されないからだと言われている。
「あたしたちって…一人で森に入ったんじゃなかったのか」
 精霊が人を襲うという事例は、たまに聞く。実際ソフィスタも、襲われたとまではいかないが、精霊に迷惑をかけられたことがあった。なので、ソフィスタは精霊に関しては特に驚かず、それより気になったことをユリに尋ねた。
「そうなのー。アタシのアネキと妹が一緒でさー。アタシたちは逃げようとしたんだけど、途中ではぐれてぇ、アタシも散々精霊に襲われてぇ、気が付いたら村の人に助けられていたってカンジ。我ながらダッサ。超イケてない」
 それでボロボロになっていたのかと、ソフィスタは頷く。
「…ってことは、薬を調合するには、その精霊が襲ってくる森に入らなければいけないってことか」
「そーゆーこと。ホント、マジ気が滅入りんぐ。でもさぁ、その精霊は…」
 ユリがそこまで話した時、天井が軋む音が聞こえた。ユリはハッとして口を噤み、ソフィスタは天井を見上げる。
 耳を澄ますと、音だけではなく話し声も微かに聞こえた。二階で眠っていた女医たちが起きたのかもしれない。
「やっべ!ねえソッフィー、アタシのことは村のみんなにはナイショにしてね!薬も必ず作って持ってくるから、上手くごまかしといてよ!」
 ユリは、自分が寝かされていたベッドの下から鞄を引っ張り出して肩に下げると、慌てて窓から出ていこうとした。
「おい、ちょっと待て!あたしも行く!」
 ソフィスタはユリを呼び止め、空になった水差しをメシアの枕元に置いた。ユリはソフィスタを振り返る。
「危険だから、アンタはココにいたほうがいいよ。せめてアタシくらい強くないと」
「あたしだってアーネスの魔法使いだし、危険な目に遭っても乗り越えてきてんだ。そのへんの人間よりは、戦う力も度胸もあるつもりだよ。それに、あんたのことを医者に説明するのも面倒だ」
 ユリは自分で強いと豪語するが、結局は精霊に太刀打ち出来なかったから、ボロボロになって村に戻ってきたのだ。一人で森に入らせても戻ってこれる見込みは薄い。それに、精霊に襲われたことや、それを他の連中に秘密にしようとしていることなど、もっと詳しい話をユリから聞きたい。
 メシアを置いていくのも心許ないが、ここは仕方ない。さっさと行って薬草を採って戻ってくるしかない。
「ん〜…分かった。とりあえずアタシの家に行くよ。準備はできてる?」
「ちょっと待って、荷物を持ってくるから。…ルコス、お前はメシアについていてやってくれ。セタは一緒に来るんだ」
 そう指示され、メシアの上半身を支えていたセタはソフィスタの右肩へ飛び移り、ルコスはゆっくりと体を縮めてメシアをベッドに横たわらせた。
 ソフィスタは「じゃあ、すぐに戻るから」とユリに声をかけてから、自分の荷物が置いてある病室へと駆け出した。


 *

 外では警備の獣人が数人、巡回をしていた。
 ユリに案内され、警備の者に見つからないよう、村の西側にある一軒家へ向かった。その家で、ユリは姉と妹と共に三人で暮らしているという。
 木造の古い家に入ってすぐユリはドアを閉め、「家にいることを知られたくないから、声は潜めてね」とソフィスタに注意した。
「じゃ、どっかそのへんで待ってて。服も着替えたいしぃ、ハラぁ減ってんだよね〜。ソッフィーもハラ減ってんでしょ。何か持ってくるわ」
 ユリはソフィスタを居間に案内すると、そう言ってさっさとどこかへ行ってしまった。仕方なく荷物を床に下ろし、適当な椅子に座って、言われた通り待つことにする。
 何気なく辺りを見回すと、わりと掃除が行き届いており、壁際にある棚の中には、本やら何かの道具やらが整頓されていた。
 ハート柄の可愛らしいカーテンや、ピンクと白と黄色の組み合わせのカーペットなど、やたらと趣味が乙女っぽい。玄関にもバラの香りの芳香剤が置いてあったし、ドアノブにもフリルがついた花柄のカバーが取り付けられていた。
 女っぽい趣味を比較的持ち合わせていないソフィスタだが、それを差し引いても、この家の少女趣味っぷりは、いくら女三人暮らしでもやりすぎなのではないかと思う。右肩に乗っているセタも、心なしか戸惑っているように体を揺らしている。
 まあ、女三人暮らしと言っても、一人は確実にオカマなのだが。
 …そういえば、オカマって女以上に女っぽい趣味って聞いたことがあるような…。
 まさか、ユリが言う姉と妹も、実は男なのではないだろうか。
「おまたせぇ〜♪パンとフルーツがあったから、持ってきたよ〜」
 ものすごく嫌な予感をソフィスタが感じていた所に、バスケットとポットを抱えたユリが戻ってきた。先程まで着ていたボロボロの服ではなく、同じファッションだが汚れていない服へと着替えを済ませている。
「あ・ああ、ありがとう…」
 ソフィスタは微妙な表情をしていたが、ユリは特に気にせず、テーブルの上にバスケットとポットを置く。バスケットの中には、パンと果物、皿やティーカップなどといった食器が入っていた。ユリはティーカップを二つ取り出し、ポットの中のお茶を注ぐ。
「早く森へ戻りたいけど、ハラ減ったままじゃ体力尽きるからね。ま、喉に詰まらない程度に早く食ってちょ」
 話ながら、ユリはお茶を注いだカップの一つをソフィスタに差し出す。ほんのりと柑橘系の香りが湯気と共に立ち上る、上品そうな紅茶であった。
「…それで、その精霊に襲われたって森に入って、薬草を探しに行くのは分かったけど…」
「ちょっとぉ、薬草だけじゃなくて、アネキたちも探すしぃ」
「分かってるって。…でも、それを他の人たちには秘密にしておくのって、どういうことなんだ?何かワケがあるのか?」
「そうそう。ワケあんの。ちょっ〜とややこしいんだけどー」
 ユリは、ソフィスタとテーブルを挟んで向かい合って椅子に座り、バスケットの中から皿一枚とリンゴ一つを取り出す。
「あの森に精霊が住んでいるって話したじゃん。その精霊ってのは、子供っぽくてイタズラ好きで、前から村のみんなを困らせるようなことを、しょっちゅうしていたから、嫌われててさー」
 軽い口調で喋りながら、なにやらリンゴを撫でるように手を動かしていると思ったら、ユリは「はいっ、プチ手品〜☆」と言って手を開いた。すると、リンゴは縦に八等分にカットされて皿の上に落とされた。皮をウサギの耳に見立てて切り込まれ、芯の部分もきれいに取り除かれている。
 …魔法を使う素振りは見せなかったし、魔法力の高まりも感じなかった…本当に手品のなのか?
 驚いているソフィスタの前に、カットされたリンゴ四切れを乗せた皿が差し出された。ユリは何事もなかったように、自分のぶんのリンゴにかじりつく。
「半分食べなよ。…そんでさー、その精霊なんだけど、確かにイタズラはするけど、いきなり人を襲って傷つけるようなことはしない子だったんだよね。ってゆーか、そんなに悪い子じゃなかったしぃ、森で迷った時に助けてくれたこともあったしー」
 口の中でクッチャクッチャとリンゴを噛みながら軽い口調で喋るユリは、はっきり言って行儀が悪い。しかし、ユリに関して細かいことを気にするのをやめたソフィスタは、バスケットの中のパンを一つ頂き、黙々と食べながら話を聞く。
「それが急に襲い掛かってきたとなると、やっぱり原因があるんじゃね?って思うんだよね〜アタシとしては。だから、村のみんなに助けを頼む前に、もう一度森へ行って精霊のことを確かめに行きたいんだよ。村のみんなは精霊のことを嫌っているし、ウチら姉妹って村ではアイドル的存在だからぁ、そんなアタシらが襲われたとなるとぉ、村のみんなは精霊狩りじゃーとか言って森に入りそうな勢い〜みたいな?それに少数精鋭ってやつ?のほうが、精霊を刺激しないで済むと思ってぇ」
 喋り方や態度、アイドル的存在と自称しているところなど、ふざけているとしか思えないユリだが、ちゃんと事態を把握し、自分なりに冷静に分析して考えていたようだ。少しだが、ソフィスタはユリを見直す。
「それに、つい最近、山賊が現れてさあ、村が襲われてぇ、まあ村の獣人たちは強いから撃退したけど。その山賊たちがどこに潜伏しているかも分からないから、ヘタに村の警備を手薄にもできないわけ。薬をきらしちゃったのも、その時に怪我した人に使ったからでさ〜。マジ山賊ムカつく」
 そういえば昨晩、メシアの様態を調べていた女医が、山賊に襲われたのではないかと尋ねてきたし、村の警備にあたっていた獣人のアザミも、どこか緊張していたように見えた。それも、山賊を警戒していたからなのだと、ソフィスタは納得した。
「ということで、アタシは一人で森に戻って、精霊の様子を調べーの、アネキたちを助けーのしようと思ってたワケ。オッケェ?」
 ユリの説明が終わり、ソフィスタは、口の中に残ったパンのカスを紅茶で流し込んでから「理解した」と頷いた。
「要するに、森へ偵察に行くってところか」
「そゆこと。あーダメだ。リンゴ半分だけじゃ足りねぇー」
 リンゴを食べ終えたユリは、再びバスケットに手を伸ばす。ソフィスタもパンを一つ食べ終えたので、ユリに差し出されたリンゴをフォークで取った。
「ところで、その精霊ってのは、どんな力を持っているんだ?人を襲えるほどの力はあるんだろ?」
 そうユリに尋ねてから、ソフィスタはリンゴを囓る。
「そうだな〜、植物を魔法で操るし、植物の中に隠れることもできるから、どこにいるか分からないし…そのへんがやっかいなんだよね〜」
 ユリが唸っている間に、ソフィスタは噛んでいたリンゴを飲み込み、口の中を空にした。
「精霊の居場所なら、魔法力が強い所を探れば探知できるはずだ。探知されていることを気付かれて、魔法力を押さえられたら探せなくなるけど。…森に入る前に、まず探ってみたほうがよさそうだ」
「えっ、そんなイケてることできんの?あんたスッゲーじゃん!」
 ソフィスタの話を聞いて、ユリは身を乗り出して驚く。魔法力を探知することくらい、アーネス魔法アカデミーの生徒のほとんどができることなので、大袈裟に褒められてもソフィスタは涼しげな態度を崩さなかった。
「ってことは、いきなり不意打ちされる心配は無いってことか。アンタ、けっこう頼もしいじゃん。味方になってくれると助かる〜」
「そのへんの人間よりは、戦う力も度胸もあるって言っただろ。でも、油断はしないほうがいいだろう」
 基本的に精霊は魔法力が高いが、知能は低く、肝心な魔法を使いこなせる精霊自体、めったにいない。ほとんどの精霊が、自我や具現化した体を維持するためだけに魔法力を消費して、そのうち力尽きて自然と消えてしまうなんてケースは多い。アーネス魔法アカデミーで会った精霊のように、高い知能と強い魔法力を持つ者が多く集まり、魔法力で溢れる町で生まれた精霊なら、知能も付くし長生きもできるが。
「そだね。でもマジ助かるわ。ソッフィーが来てくれてよかった〜♪」
 純粋に喜ぶユリを見て、ソフィスタは肩を竦めた。
 姉と妹が攫われ、自分も散々な目に遭ったはずなのに、この明るさはどこから来ているのだろう。強がっているような素振りは見当たらないし、ノンキにも程がある。
 …メシアもユドに襲われて、ひどい怪我を負った。そして、ユドを痛めつけ、腕をへし折った。…アイツ、自分がやったことを覚えているのかな。覚えていたら…自分のことを、どう思うんだろう…。
 気を失う前のメシアが見せた、弱々しい瞳。あれほど怯えた姿のメシアは、今まで見たことがない。一体何が、メシアの心を追い詰めていたのだろうか。
 そして、それほど恐ろしいものを目の当たりにした彼は、果たして立ち直ることができるのだろうか。
 …いや、余計なことは考えるな。今は薬を手に入れることだけを考えよう。
 余計な不安を振り払おうと、ソフィスタはリンゴを荒っぽく囓り、ユリと共に打ち合わせと食事を続けた。


  (続く)


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