空気の流れが急に変わったことを感じて、目を覚ました。 誰かが、この部屋の中に入ってきた。顔を上げようとしたら、頭を押さえつけられ、顔を胸に埋められた。 いつもは優しく包み込んでくれる腕が、震えながら体をきつく締め付ける。息苦しいのと、その震えから伝わる不安で、涙が滲み出てきた。 危険が迫っているのだと本能的に察し、怖くて顔を上げられないままうずくまっていたが、不意に首を強く掴まれ、驚く間も無く体を宙に引っ張り上げられた。 自分の身に何が起こったのか全く分からないまま、体を床に叩き落とされ、悲鳴を上げた。 今まで受けたことのない激しい痛みに全身を襲われ、たまらずボロボロと涙をこぼし、声を上げて泣いた。 寂しい時、お腹が空いた時、どこかが痛い時に、いつも助けてくれた者に泣き声で助けを求めたのだが、その者も床に這いつくばり、弱々しい声で何かを呟いていた。 ふと、影が落とされた。 誰かが、泣きじゃくる自分を見下ろしている。 涙で顔はハッキリと見えないが、この部屋で会ったことのある者ではない。そう、この部屋では。 記憶に無いはずなのに、なぜか全く知らない者とは思わなかった。それどころか、身近にいて、愛情を与えてくれる者だと直感した。 助けを求めるように両腕を伸ばすと、その手の先で、銀色の光が煌めいた。 その眩しさに目蓋を閉じた時、つんざくような悲鳴が上がり、それと同時に何かが左肩の下あたりの皮膚を破った。 ・第三章 ケヤキの森誰にも見つからないよう気をつけながら村を出てから、北へと歩くこと約三十分。ようやく森の外側の木の幹が見えるまで近づいた。この距離を、ユリは命からがら逃げてきたのだという。村から森までは整備された道が無く、人や獣が踏み固めてできたらしき細い道の周囲には、ソフィスタの肩くらいの高さまで伸びた草が生い茂っている。 歩きながらユリから、あの森の精霊の話を聞いたが、精霊は森の中にある一本の木に宿った精霊で、ユリたちエリクシアの住民は、精霊を「ケヤキ」という名で呼んでいるそうだ。 基本的に精霊は、宿っている本体からあまり離れることはできない。ケヤキの行動範囲も広くはないそうだが、その代わり、森の中の植物を自在に操ることができ、森の植物から何らかの方法で情報を得て、侵入者などの居場所を知ることもできるのだという。 しかしユリは、雑草などが操られている様子を見たことがないというので、操ることができる植物にも条件があるのかもしれない。 「そろそろ、獣道から外れたほうがいいんじゃね?この侵入ルートは見張られてると思うんだけど」 ユリは足を止めて身を低くし、ソフィスタにそう言った。ソフィスタもユリに倣って身を低くする。 「そうだな。ケヤキの本体である木は、森の中央、西寄りの場所に生えているんだったな」 「うん。…アネキたちが森から逃げ出せていなかったら、そこに捕まっているかもしれない」 「そうか。じゃあ、森に入ったらコソコソしないで一気に行くぞ」 精霊は、宿っているものが壊されてなくなれば消えるし、傷つければ精霊もそれなりに弱る。それが、精霊の弱点であった。 ケヤキも、それは分かっているはずだ。そう簡単に本体には近づけようとしないはず。だが、本体さえ押さえてしまえば、こちらのものだ。 …本体を抑えるのに失敗しても、精霊に会えば止めることはできるかもしれない。…何にしても、本体に近付く必要はあるな。 「ユリ、お前は自分で強いって言っていたから、それを踏まえた上で作戦を立てたけど、いいんだな?」 「おう、いいとも!不意打ち喰らいさえしなけりゃヘマしなかったし!」 ユリはガッツポーズを取るが、ちゃらけた女子高生ルックのオカマがそう言っても、信用する気になれない。 …まあ、保険はかけておくし、これ以上は悩んでも無駄だ。 やることが決まったら、余計なことは考えずに突き進む。悩めば時間のロスや油断に繋がるだけである。 二人は獣道から逸れ、草むらに身を隠しながら森に近付く。 「精霊ってのは魔法力に敏感だから、あたしが魔法を使うために魔法力を高めれば、あたしたちの居場所は気付かれるはずだ。だからケヤキに気付かれるまで、あたしは魔法力を押さえる。…ケヤキがあたしたちに気付いて、先に攻撃をしかけてくるかもしれないけど、魔法で植物を操っている以上、攻撃のタイミングを察知することはできる。その時はお前に教えるから、あたしが魔法力を高めるまで、お前が攻撃を防げ」 少しは緊張感を持たせようと、ソフィスタはユリを脅すように話したが、ユリは「まっかせてちょー!」とマイペースを崩さなかった。ソフィスタは「ホント頼むぜ…」と額に手を当てる。 「じゃあ、アタシが先に行って道を切り開くね。ソッフィーは後ろからついてきて。…攻撃してきそうな気配、ある?」 森のほぼ手前まで来ると、ユリは声を潜めてソフィスタに尋ねた。ソフィスタは森が帯びている魔法力を探る。 ソフィスタが魔法力を探れるのは、せいぜい見える範囲までだが、その範囲内でも既に、森が比較的強い魔法力を帯びていることが分かった。アーネスのような魔法学の街ほどではないが、これも精霊の影響だろう。 しかし、攻撃を仕掛けてくるような気配は無いので、ユリに「今の所は大丈夫そうだ」と答えた。 「オッケー。そんじゃ、いち・にの・さんっで踏み込むよ。…いち…」 ユリは真剣な顔つきで森を見据え、カウントを始めた。全く緊張感を持たないオカマかと思っていたが、そうでもなかったようで、ソフィスタは少し安心する。 「にの…さんっ!!」 ユリの合図で、二人は同時に草むらを飛び出し、森に踏み込んだ。 ソフィスタはユリより足が遅く、森で走るのに慣れていないので、ユリにはソフィスタのスピードに合わせて前を走ってもらっている。 ソフィスタは常に周囲を警戒しているが、まだ攻撃の気配も、精霊が近くにいる気配も感じられない。 …でも、敵は精霊だけじゃない。山賊もいるって言ってたな。 人を襲った精霊が住む森に、山賊が潜伏している可能性は低いだろうが、用心して損は無い。 そんなことを考えていると、不意に、周囲の魔法力の流れが乱れた。 「ユリ!来るぞ!」 ただ魔法力の流れが変わるだけでは、それが攻撃か否かまではソフィスタには判別できないが、考えるより先にユリに声をかけた。ユリは「え、もう?」とソフィスタを振り返ったが、それがいけなかったのか、何かに躓いて転倒し、バタッと地面に突っ伏した。 「いたーい!も〜サイアク!」 今、戦力となるのはユリだけだというのに、いきなり転ぶなんて、確かに最悪である。ソフィスタは怒鳴りつけてやろうとしたが、その前に周囲の土が盛り上がり、そこから太い木の根が勢い良く飛び出した。 木の根は触手のようにうねり、ソフィスタたちに迫る。 ユリの体勢は整っていないし、今から魔法を使うにも間に合わない。まだ森に入って間もないというのに、いきなりピンチに陥ったソフィスタは、とっさに腕を交差させて頭を庇った。 しかし、目の前で鉛色の光が弧を描き、それに触れた部分から木の根が切り落とされた。 鉛色の光は何度も煌めき、木の根は次々と切り落とされてゆく。切り落とされた先端部は動かなくなり、残った部分はソフィスタたちから離れる。 よく見ると、その鉛色の光を放っているのは、鎌の形をした刃であった。刃は、途中から茶色い髪の束へと変わっており、その髪はユリの頭に繋がっている。 「言ったじゃ〜ん。アタシは強いって☆」 ユリはうつ伏せの状態から、飛び上がって体を起こすと、ソフィスタの腕を掴んで引き、立ち上がらせた。 「…お前、その鎌は…」 「あははっ!アタシたちぃ、別名『カマイタチ三姉妹』って呼ばれててぇ、こういうことができるんだよね〜☆」 ユリの髪の鎌が、ピョコピョコと嬉しそうに左右に揺れる。 …体の一部が刃物に変わった?それに…魔法を使っているわけでもない…。 体の一部を武器に変える魔法なら知っているが、ユリからは魔法を使っている様子が無い。 確かに獣人族は、人間より五感や身体能力優れているという話は聞くし、特殊な能力を持つ動物の姿の獣人の場合、その能力を使える者や、さらに進化させた能力を使う者がいるということも、聞いたことがある。ユリもその類なのかもしれないが、ここまで体を変化させることができるものなのだろうか。 …いや、戦力になるに越したことはないんだ。余計なことを考えている暇は無い。 「ほらソッフィー、行くよ!」 ユリはソフィスタの腕を引いて走り出した。木々は根や枝を伸ばして次々と襲いかかってくるが、ユリは空いている右腕の肘から先も鎌に変え、次々と木の根を切り落としてゆく。 「ムダっつーの!アタシは姉妹の中でも、一番運動神経あるしぃ、髪まで鎌に変えられるのもアタシだけしぃー!」 自称していただけあって、ユリは強かった。行く手を阻む枝は腕の鎌一振りで薙ぎ払い、後ろから迫ってくる木の根は振り返りもせずに髪の鎌で切り落とす。すぐ後ろにはソフィスタがいるのだが、鎌は確かにソフィスタを避けている。 しかし精霊にとって、この森に数え切れないほど生えている木々は、全て武器となるのだ。いくら根や枝を斬り落としても埒が明かず、得意になって鎌を振るっていたユリの表情にも苛立ちが表れ始めた。 「あーもーウザっ!めんどくさっ!マジどーにかなんないのコレ!!」 ユリは鎌を振り回しながら、投げやりに叫ぶ。 「ユリ!鎌を引っ込めろ!」 いきなりソフィスタに、そう声をかけられたユリは、一瞬戸惑ったが、言われた通り鎌を引いた。すかさずソフィスタは、高めていた魔法力を解放し、両手を左右にかざし、半円の魔法障壁を生じさせた。 ソフィスタとユリを覆うように出現した魔法障壁は、ソフィスタたちの走りに合わせて移動し、襲い掛かる木の根を弾き飛ばす。それを見たユリが、「すっげー!イケてるー!」と歓声を上げた。 「これくらいの攻撃なら防ぎ続けられる。でも油断するなよ!」 「わーってるって!ソッフィーも、ちゃんと着いてきてよ!」 ユリは力強く笑って返事をする。髪と右腕は鎌のままで、障壁によって遮られる攻撃に対しても、一応警戒しているようだった。 ソフィスタの魔法障壁は、今までにも魔法生物マリオンや、ヒュブロで戦った魔獣の攻撃を防いできた、けっこう強力なものである。だが、走り続けながら障壁を保持させることは難しく、しかも全方向から立て続けに攻撃が来るので、障壁を広範囲に張り続けなければいけない。木の根や枝を振り下ろすという単純な物理攻撃でなければ、ソフィスタの力では防ぐことは不可能であっただろう。 それに、攻撃の威力自体、大して強くもないようだった。この調子なら、ケヤキの本体に辿り着くまで魔法障壁を維持することができるかもしれない。 …でも、この程度のヤツに、ユリは大怪我を負わされたってのか?それほどユリが弱いようには見えないけれど…。 もしかしたら、まだ精霊は実力を隠しているのかもしれない。もしかしたら、罠を張っているのかもしれない。 だが、心配しすぎては先に進めない。今、優位に立っているのはソフィスタたちで、意表をつかれているのは精霊のほうなのだ。 精霊はユリが姉妹を助けに来ることは予想していただろうが、まさかアーネス魔法アカデミーの天才少女と謳われる魔法使いを連れてくるなど、思いもよるまい。 下手に慎重になりすぎて、精霊に考える時間を与えるほうが危険だ。そう考えをまとめ、余計な不安は切り捨てた。 …それに、早く薬草を手に入れることができれば、それだけ早くメシアを助けてやれる! 全身に包帯を巻かれ、苦しそうに呻いていたメシアの姿を、ソフィスタは思い出す。 重傷を負い、何故かいつもより傷の治りが遅いメシアを助けるには、今はユリが作れるという薬にすがるしかない。いつまたエルフの剣士に襲われるかも分からないのだ。何より、苦しんでいるメシアの姿が、ソフィスタの心を締め付けていた。 ケヤキという精霊が、危険な奴なのは分かった。だが、絶対に薬草は手に入れる。 既に腹は括っている。あとは目的のために全力を尽くすまでだ。 …待ってろよメシア!必ず薬を手に入れるから、それまでの辛抱してくれ!! 離れた場所で眠っているはずのメシアを思い、ソフィスタは心の中で彼に呼びかけた。 * ユリが横たわっていたベッドに腰掛け、ルコスから渡されたメモ用紙を眺めていると、うなされていたメシアが急に静かになったので、女医はそちらを向いた。 まだ呼吸も荒く苦しそうだが、先程までよりは落ち着いていた。女医はメモ用紙を持ったままメシアのベッドに近付く。 静かに額に触れてみると、まだ熱はあるようだが、昨晩よりは下がっていた。ルコスはメシアの枕元で、彼の顔を覗き込むように身を乗り出している。 「ただいま!二人は戻ってきたか?」 玄関先から夫の声が聞こえ、女医はメシアの額から手を離す。 夫は女医がいる病室まで来ると、中には入らず、廊下から顔を覗かせた。女医は彼に「まだ戻っていないわ」と答える。 「そうか。村にはいないみたいだし、見かけた人もいなかったよ。…何も言わずに勝手に出て行くなんて、何かあったのかな…」 今朝、ユリとソフィスタが診療所からいなくなっていることに気付いてすぐ、夫は二人を探しに外へ出て行った。女医がルコスからメモ用紙を受け取ったのは夫が出て行った後なので、それに記されている内容を彼は知らない。 「でも、戻ってくる気はあるみたいよ。ここに書いてあるから」 女医はメモ用紙をヒラヒラと揺らして夫に見せた。夫は「何だソレは」と言いたげに首を傾げる。 「ユリさんの書き置きみたい。ソフィスタさんと一緒に出かけるけれど、後で戻ってくるって書いてあるわ」 「ユリが?じゃあ、あいつの意識が戻ったんだな!よかった!」 村の近くで怪我をしたユリが保護され、この診療所に運び込まれた時、彼に意識は無く、治療を終えた後もなかなか目を覚まさなかったので、女医も夫も心配していた。だから、彼が意識を取り戻したことについては喜ばしい。 それにメモ用紙には、確かにユリの字で『完全復活したユリっちでぇ〜っす。助けてくれてサンキュッ☆ソッフィーとプチ冒険してきまっす。ちゃんと戻ってくるから心配しないでね。ア〜ンド、他のみんなにはナイショだゾッ。あと緑色の彼のお世話をシクヨロ☆』と、明るいノリで書かれている様子からしても、本当に完全復活したのだろう。 「…でも、身動きが取れなさそうなほどの重傷を負っていたはずだが…」 「たぶん、例の薬を持っていたんじゃないかしら。あの怪我なら、一晩もあれば治るでしょう。昨晩のうちに意識を取り戻して薬を使い、今朝、書き置きを残して出ていった…ってところね。でも、何も告げずに出ていくなんて、ユリさんらしくないわ。それに、どうしてソフィスタさんまで一緒に…」 ユリは、ああ見えて律儀な面がある。怪我を負った所を助けられれば、せめて直接礼を言ってから去るはずだ。 それに、山賊を警戒して、警備の者が交代制で四六時中村を監視している。なのにユリたちを見かけた者がいないということは、ユリたちが監視網を意図的にかいくぐった可能性がある。 メモにも「他のみんなにはナイショ」と書いてあるので、村の者たちには秘密にしなくてはいけない急用があったことは間違いない。だが、なぜソフィスタまで連れて行ったのだろうか。 ソフィスタも、このメシアという青年を本当に心配していたのに、なぜ彼を置いてユリと一緒に出ていったのだろうか。 「しかし、ホントに丈夫な子だなあ」 夫が女医の隣に移動し、ベッドに横たわるメシアを見下ろした。女医もメシアへと視線を移す。 「それも、鍛えているからで済むもんじゃない。傷痕が多いから、たくさん血を流していたように見えるが、輸血の必要がなかった…」 夫が話す通り、女医もメシアを最初に診察した時に気付いたが、深い太刀傷を負っていたにもかかわらず、貧血の症状は見られなかった。むしろ、血が全身を勢いよく駆け巡る激しさに苦しんでいるように見えた。 メシアのような種族を見たことはないが、これが彼らの種族が重傷を負った時に見せる症状なのだろうか。そしてこれは、回復の傾向なのだろうか。 最近出没し始めた山賊。重傷を負ったユリとメシア。 訳が分からないこと、悪いことが、こうも立て続けに起こっていると、ユリとソフィスタの身にも、嫌な予感しかしない。 しかし二人とも…特にソフィスタのほうは、無計画に動くような女の子には見えない。村の者たちに気付かれないよう行動しているのも、彼女たちに考えがあってのことなのだろう。 「とにかく、二人とも戻ってくる気はあるみたいだから、待つしかないわ。みんなにはナイショと書いてあるけれど、あまり戻りが遅いようなら、村の人 たちに頼んで捜索してもらいましょう」 そう判断して夫に告げ、メモ用紙をポケットに入れた。 * 気付くと、植物による攻撃が止んでいた。 攻撃しても無駄だとケヤキが判断したのだろうか。しかし周囲の木々から感じられる魔法力は鋭い敵意を湛えており、攻撃の機を狙っていることが、ひしひしと伝わってくる。 ソフィスタの魔法障壁が及ぶ範囲から出ないよう気をつけながら前を走っていたユリは、徐々にスピードを緩めて立ち止まった。 「…攻撃が止まったみたいだけど、諦めたんかな〜」 ユリは周囲をざっと見回し、そう呟く。 「いや…攻撃の機を…窺って…いるみたい…油断するな…」 ソフィスタも立ち止まり、両手を膝に着いて息を切らす。 魔法障壁を維持させながら慣れない森を走り続けることは、かなり酷なことであった。むしろ、今までよく走り続けられたものである。 「そろそろ…魔法力も温存し始めないと…後々困るかも…一度…魔法を解くぞ」 そうユリに声をかけ、彼が右手と髪の鎌を警戒するように持ち上げて頷くのを確認してから、ソフィスタは魔法障壁を消した。魔法を使い続けていたぶんの負担も消え、ソフィスタは大きく息を吐き出す。 精霊が再び攻撃してくるのではないかと心配はしていたが、周囲の魔法力の流れに変化は無い。攻撃をするつもりはないようだ。 「ずいぶん疲れているようだけど…少し休む?」 ユリも、今の所は大丈夫そうだと少し警戒を緩め、ソフィスタに近付いた。 「いや…もう少し…で…ケヤキの…本体に着くんだろ?歩いて行く…」 「そっか。そんなら肩貸してあげる」 「かまうな。自力で歩ける」 うっとうしそうに言い放って、ソフィスタは背筋を伸ばし、歩き始めた。まだ荒い呼吸で横切るソフィスタを眺め、ユリは肩を竦める。 「あ、そう…ところで、さっきからポロポロ白いものが落ちているけど、ソレ何なの?」 ユリは、ソフィスタが歩きながら落としている、半透明の粘土なようなものを指して尋ねた。それは、ここまで走ってきた道のりに沿って、適当な間隔を置いて落ちている。 「村に戻る時の道しるべだ。あったほうがいいだろ」 「でも、帰り道ならアタシが分かるよ」 「お前が精霊にやられたら、あたしだけで戻れなくなるかもしれないだろ」 「そっか…って、アタシを置いて逃げる気!?」 「ま、状況によってはそうなるな」 「ヒデエ!!」 悲鳴を上げるユリを無視し、ソフィスタは黙々と歩く。ユリはムスッとした顔でソフィスタの後をついて歩いていたが、やがて口を開いた。 「ソッフィーってイミフ〜。冷たいの?優しいの?」 ユリに話しかけられても、ソフィスタはそれを無視して進む。しかしユリは、無視されていることに気付いているのかいないのか、一人で喋り続ける。 「あの緑色のデケェ男のことは心配してんだよね。だ〜ってぇ、アイツに対しちゃずいぶん態度が柔らかいっつ〜の?穏やかっつ〜の?だしぃ、危険を冒してまでアタシについてきてるってことはぁ、それだけアイツを早く元気にしてあげたいってことじゃん?そーゆー気持ちを優しさっつーじゃん?でもアタシに対してはドライっていうかぁ、何かアレじゃん、興味ない?みたいな〜。それが冷たく感じるっていうか〜」 ちゃらけた口調で、勝手にソフィスタのことをベラベラと喋り続けるユリを、ソフィスタは睨んで黙らせようと振り返ったが、先にユリが「ホラあれ見て!」と前を指差したので、ソフィスタは反射的に前を向き直った。 ユリが左手の人指し指で示した先に、ひときわ太い幹の木が見えた。苔に覆われ、枝に蔓を垂らし、いかにも年期が入っている木である。 「あの古い木が、精霊ケヤキの本体の木だよ。確か、樹齢五百年とちょいくらいだったなー」 樹齢五百年以上と聞いて、ソフィスタは驚かされる。 五百年以上という、人間の寿命を遙かに越えた年期に驚かされたわけではない。世の中には樹齢千年を越える木も存在するのだから、樹齢五百年の木など、特に珍しいものではない。 ただ、ケヤキは子供っぽい性格だとユリから聞いていたので、ケヤキの本体は若い木だろうと、ソフィスタは勘違いしていたのだった。 …そりゃまあ、アーネスみたいに魔法力の高い人間と干渉が無い限り、何かに精霊が宿るには数百年は必要なんだろうけど…。 植物を人間と同じ感覚で計ることは間違いであるとは分かっているが、あれに宿っている精霊が子供っぽい性格だとは、あまり想像できない。 「よーっし!あの木さえ抑えりゃこっちのもんだぜ!待ってろよアネキたち!!」 そう言って駆け出したユリがソフィスタを追い越し、古い木へと突っ込んでいった。ソフィスタは「待てバカ!!」とユリに向かって叫んだが、ユリは聞いていないようだった。 本体を抑えられると不利になる精霊が、本体の危機に手を打ってこないはずがない。なのに周囲の木々から感じ取れる魔法力の流れには、乱れも生じていなかった。何より、本体があるこの周辺が精霊ケヤキ自身の行動範囲内であるはずなのに、未だケヤキの姿が見当たらない。 …これから攻撃を仕掛けてくる気はないのか?だとしたら考え得るのは…既に罠を張られている可能性だ! ソフィスタは魔法で攻撃してでもユリを止めようとしたが、遅かった。古い木の手前で、突然ユリの右足が後ろに蹴り上げられたと思ったら、その勢いのままユリの全身が右足首から宙に引き上げられた。 ユリの右足は、古い木の枝から吊されている鎖に絡め取られている。 「きゃーっ!ちょっとナニナニ何なのォ!?やだエッチーッ!!」 逆さ吊りにされたユリは、きゃーきゃーと甲高い声で騒ぎながら左手でスカートを押さえる。 「誰も見たかねーよ!それより鎌で枝を切れ!」 キャーキャーわめいているユリに向かって叫びながら、ソフィスタは魔法力を高めた。 鎖の罠は、魔法とは関係の無い物理的なもので、あれではソフィスタも気付かないし、ユリの鎌でも切断は難しい。本体が狙われることを分かっていて、あらかじめ仕掛けておいたのだろう。 鎖を吊るしている枝に鎌が届けば抜け出せるだろうが、それより今、ソフィスタにまで攻撃が及んだらひとたまりもない。そう判断し、身を守るために再び魔法障壁を張ろうとした。 「ザンネンっ。疲れているオマエじゃ、すぐに魔法は使えないもんね」 突然、目の前に木造の人形のようなものが姿を現し、それに驚く間も無く、ソフィスタは背後から何かに首を絞められた。 「…オマエ、ヨソ者だね。オイラの目当ては、あのユリたちだけど…ジャマすると怒るよ」 首を締め付けているのは、木の枝のようだ。ソフィスタは痛みと息苦しさに顔を歪ませながらも、その木造の人形のようなものの顔を睨みつける。 口にあたる部分の窪みが動けば言葉を発し、顔の左右にある窪みの奥には緑色の光を灯している。木の株から腕と頭が生えたような体は、隅々まで細い筋が走り、足の代わりに木の根が何本も生えている。 …コイツが、精霊ケヤキか! 異形な外見と、植物が喋っているという時点で、少なくとも普通の生物ではない。目的はユリだと言ったので、これが精霊ケヤキであることは、簡単に察することができた。 「てめ…放せぇ…!」 もがきつつも、ソフィスタは手の平をケヤキに向けてかざし、高めていた魔法力を開放した。 「なにする気だよ!」 しかし危険を察知したケヤキが叫び、それと連動するように、ソフィスタの首を絞めている枝が後ろに強く引かれた。ソフィスタは体を仰け反らせ、ちょうどその時、開放した魔法力が破壊力を帯びた光球となって手の平の前に生じた。 ソフィスタの手の平は、仰け反った拍子で天を仰ぎ、そこに生じた光球は、天へと向けて放たれた。空を隠す木の葉や枝を突き破って森を抜け、光球はパンッと風船が割れるような音を立てて弾けた。 ソフィスタの首を絞めている枝は、後ろに引いた勢いのまま、ソフィスタの体を地面に叩きつけた。右肩を強く打ち付け、ソフィスタは掠れた悲鳴を上げる。 「びっくりしたあ…危ないじゃないか」 そう言って、ケヤキが腕を薙ぐように振ると、不意に首を締め付ける力が緩んだ。窒息寸前だったソフィスタは口を大きく開き、空気を一気に取り込み、同時に、鼻孔を通り抜けた甘い香りに気付いた。 倒れているソフィスタの周囲を、いつの間に咲いた桃色の花が囲んでいる。甘い香りを発しているのは、この花だろう。 小さく可愛らしい花だが、このタイミングで咲かれると、嫌な予感しかしない。ソフィスタは体を起こして立ち上がろうとしたが、全身から力が抜け、立ち上がりかけていた体は再び地に伏せた。 強烈な眠気に襲われ、重い目蓋を閉じまいとこらえるだけで精一杯となる。 「…テメエ…これは…」 植物は、人体に様々な症状をもたらす物質を含んでいる。お茶にはリラックス効果のある成分が含まれており、医療に用いる麻酔も、植物から抽出した成分を利用して作られたものだ。 おそらくこの花は、そういった成分をケヤキが魔法で強化したものなのだろう。朦朧とする意識の中で、ソフィスタはそんなことを考える。 「ソッフィー!ちょっとケヤキ!やめてよ!やめろっての!!」 細い視界の隅で、ユリが鎌を振り回して叫ぶ様子が見えたのを最後に、ソフィスタの意識は睡魔に誘われ、眠りに落ちた。 (続く) |