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ありのままのメシア 第十二話


   ・第十章 選んだ道

 第三幕でアメミットが登場した時、観客席にいたアズバンは、他の観客たちと同様に驚き、アメミットが"怒りの獣"のセリフを喋っていたことから、フェザーブーツ劇団の演出で、もしかしたら着ぐるみかもしれないと思った。
 しかし、アメミットを怪しまなかったわけではない。第三幕ではすぐに引っ込んでしまったため、ろくに姿も魔法力も観察できなかったが、第七幕で現れ、ソフィスタの魔法障壁を前足で触れただけで消し去った様子は、しっかり観察できた。
 アズバンほど魔法の知識も能力も長けた者であれば、ソフィスタが生じさせた魔法障壁が受けた攻撃が、どれほどの威力のものかも、どうやって消えたかも、察知することができる。
 おそらくアメミットは着ぐるみではなく本物の怪物で、その攻撃も芝居ではなく、消えた魔法障壁も、ソフィスタの意図によるものではない。ソフィスタとメシアは、多くの観客が芝居と思い込んでいる舞台で、アメミットと本気で戦っているのだ。
 だが、舞台のすぐ手前で王宮楽士団は平然と演奏を続けており、その中には、アズバンが心から信頼している友人もいる。彼らは、おかしいとは思わないのだろうか。それともやはり、お芝居にすぎないのだろうか。そもそも、あんな怪物を、フェザーブーツ劇団はどこから仕入れてきたのだろうか。
 座席で軽く身を乗り出した体勢でアズバンが困惑している間に、ソフィスタとメシアは、"魔力の王"の配下役の劇団員とアメミットに囲まれてしまった。
 "魔力の王"役の劇団員も、アメミットも、ソフィスタとメシアも互いに役の名前で呼び合い、舞台"詩の子"の芝居を続けている。
 やはり、これは演出なのだろうか。アズバンがそう判断しかけたところで、アメミットが吼えた。
「"魔力の王妃"よ。お前の存在が"証の神"を惑わしているのなら、私がお前を殺してやる!!」」
 あまりに迫力があったので、アズバンは思わず立ち上がってしまった。舞台に熱中するあまり立ち上がっている観客は他にもいるので、特に目立ちはしないが、後ろの座席の観客には露骨に迷惑そうな顔をされる。
 …もうダメだ!心配だ!大人しく座ってなどいられない!!
 アズバンの座席は、前から四列目の中央付近。ここから魔法でソフィスタたちをサポートしようと思えば、アズバンになら可能な距離だが、近付くに越したことはない。
 魔法力を高めながら、舞台に近付こう。そう考え、アズバンが移動しようとした、ちょうどその時、舞台のほうから、ソフィスタの今日一番の怒鳴り声が響いた。
 アズバンは全身を震わせて驚き、舞台を振り向いた。


 *

「もう、うんざりよ!!!!」
 いきなり、ソフィスタが怒鳴り声を上げたので、近くにいたメシアは思わず耳を塞ごうとしたが、腕が動かなかった。
 "魔力の王"の配下役の劇団員、"魔力の王"役の劇団員、そしてソフィスタの前に立つアメミットは、跳ね上がるように体を震わし、王宮楽士団たちも、驚かされて手元が狂ったらしく、楽器が変な音を立てた。
「まったく、どいつもこいつも命を粗末にして!!私が眠っていた数十年もの間に、どうしてこんなイヤな世界になってしまったの!こんな世の中、間違っている!!!」
 ソフィスタは、ホルスに対する怒りも込めて怒鳴り散らしながら、ティアラとヘアピンを外して床に叩きつけた。演奏は止まり、アメミットや劇団員たちは、ぽかんと立ち尽くしている。
 乱れた髪を、手で軽く整えながら、ソフィスタはメシアを振り返る。
「"証の神"よ!もう、この世界は、あなたが命を散らしただけでは変わらない!!五十年以上と続いた、この争いの世界を変えることが、どれほど難しいか、あなたは分かっているはずよ!!あなたのような意思を持つ者こそが長く生き、世界に訴え続けるべきでしょう!!!」
 ソフィスタはメシアの肩を掴んで引き、体を正面に向かい合わせた。
「人と神が手を取り合って生きる世界を望んでいながら、どうして、あなた自身は人間と共に生きようとしないの?あなたが死に急ぐ理由は何なの?それは、私と共に生き抜くことより大事なものなの?」
 ソフィスタに真っ直ぐ見つめられ、メシアは一瞬、ここが舞台であることを忘れた。
 演技ではなく、心からメシアに訴えている。"証の神"の役としてではなく、メシア自身に、ソフィスタ自身が訴えているのだと、ソフィスタの瞳から、メシアは感じ取ったのだ。
「何をしている!"魔力の王妃"よ、これ以上"証の神"をたぶらかすな!!」
 アメミットが吼え、右前足を振り上げると、"魔力の王"の配下たちも、槍を突き出してメシアに迫った。
 ソフィスタとメシアは、素早く立ち位置を入れ替える。
「ルコス!」
 下から掬うようにソフィスタが腕を振ると、ソフィスタの衣装の中に隠れていたルコスが袖から飛び出し、槍を弾いて撥ね上げた。
「はあぁっ!!」
 振り下ろされるアメミットの右前足を、ギリギリまで引きつけてから、メシアは長身に見合った長い足で、アメミットの右前足を蹴り上げた。アメミットは、その衝撃で体をよろめかせる。
 すかさずソフィスタが、メシアの背後からアメミットに向けて、破壊力を帯びた光球を放った。光球はアメミットの右後ろ足を直撃し、爆発を起こす。
 アメミットの体は右に傾いて倒れる。
 "魔力の王"の配下たちの相手をルコスに任せ、ソフィスタは魔法力を高めながら、メシアに体を寄せた。
「"証の神"よ。"魔力の王"が約束を守る可能性が低いことにも、あなたは気付いているはず。なのに、なぜ命を差し出すことができたのか、私には分からない。でも…あなたの本心は、本当にそこにあるの?」
 観客にも聞かせるつもりで、ソフィスタはメシアに語りながら、メシアの衣装の中に隠れていたセタを、観客からは見えないよう、自分の衣装の中へと誘導する。
「人も神も…立場も何も関係無く、あなたの心からの望みは何ですか?ここで命を落とすことが望みだったのですか?他の誰でもなく…あなた自身の心で答えて下さい」
 メシアは、「私自身の心…?」と呟き、ソフィスタを振り返った。ソフィスタはメシアと目が合うと、ニッと笑ってみせ、メシアにしか聞こえない声で、こう言った。
「いつも言ってるだろ。お前は難しく考えるなって」
 そしてメシアを肘で軽く小突くと、ソフィスタは彼に背を向けて駆け出し、ルコスに加勢した。
 ソフィスタを見送り、メシアは、先ほどまでの迷いが消えてゆくのを感じた。
 "証の神"には、死を選ばざるを得ない何かがあり、その何かが分からない以上、台本には無い事態に陥っても、生き抜くという選択ができないと、メシアは思っていた。
 ホルスに「いっそ自分は"証の神"なんだと思い込むくらい、役に感情移入するんだよ!」と言われ、それを心がけた結果、台本通りに"証の神"を演じるぶんには成功してきたと、メシアは思う。
 だが今、ソフィスタは、難しいことは考えるなと言った。
 他の誰でもなく、あなた自身の心で答えろと言った。それは"証の神"ではなく、メシア自身への言葉だと、メシアは感じた。
 …"証の神"も、愛する者と生きる道を選びたかったはずだ。だが、選べない理由があった。それがどのような理由かは分からない。…私は…私なら…どのような理由があっても…。
「ゥグオォォォォー!!!」
 アメミットが立ち上がり、雄叫びを上げた。毛を逆立て、ソフィスタを睨みつける。
 王宮楽士団たちが演奏を再開し、この状況に相応しい、激しいリズムの曲を奏でた。
「おのれ、"魔力の王妃"!!」
 アメミットは攻撃魔法を喰らったばかりの後ろ足で強く床を蹴って駆け出し、メシアを飛び越えてソフィスタに襲い掛かからんとする。
「うるさい!!しつこい!!」
 槍を手にした劇団員たちを、二人残して他は魔法で眠らせたソフィスタは、アメミットを振り返って手をかざす。そこに、幾つもの光の矢が生じ、アメミットの全身に降り注ぐように襲い掛かった。
 光の矢の威力は、大したものではない。当たれば弾け、チクッとする程度の痛みを与えるものだ。だが、重要なのはアメミットにダメージを与えることではない。
 光の矢は、アメミットの頭や腹、後ろ足や尻尾に当たって弾けるが、左右の前足に当たったものだけは、弾けもせずに消えた。
 …やっぱり、こうなったか!!
 ソフィスタは、一つの仮定を実証するために攻撃魔法を放ったのだった。
 魔法障壁がアメミットの前足に触れて消えた様子を見た時から考えていた、アメミットが持つ能力。そして、その能力が及ぶ範囲。それらは、光の矢をアメミットの全身に打ち込むことによって明らかになった。
 …アメミットには、魔法の効果を打ち消す能力がある。前足の指先から肘までが、その能力が及ぶ範囲と考えていい。
 攻撃魔法を放たれたことで、アメミットは反射的に怯んだが、その威力が弱いことに気付くと、左の前足を振り上げ、ソフィスタめがけて振り下ろした。
 …セタとルコスを、アメミットの前足に触れさせるわけには…いや、念のため、アメミットの体のどの箇所にも触れさせないほうがよさそうだ。
 迫りくる前足に気付いていながら、ソフィスタはその場から動かず、考え事をする余裕まであった。
 今は、この場所が安全であることを、ソフィスタは分かっていたからだ。
「てりゃあぁぁっ!!!」
 アメミットの胸のあたりの真下にいたメシアが、飛び上がってアメミットの胴体を蹴り上げた。アメミットの上半身が浮き、振り下ろした前足も、ソフィスタの頭上で空を切る。
 メシアは、床に着地すると、すぐさま走り出し、アメミットの左後ろ足に体当たりをかました。アメミットは、再び腹から床に突っ伏す。
 潰される前に脇へ跳んでいたメシアは、その場からソフィスタに向かって叫んだ。
「"魔力の王妃"!!お前と共に生きる以上に意味のある死など、私には有り得ない!!!」
 今までメシアは、"証の神"役として"魔力の王妃"を二人称では「君」と呼んでいた。
 だが今は自然に、"魔力の王妃"役として舞台に立つソフィスタを、「お前」と呼んだ。普段ソフィスタを、そう呼ぶと同じに。
 "魔力の王妃"ではなくソフィスタに向けた、"証の神"ではなくメシア自身の心の声。そう感じて、ソフィスタは胸が熱くなった。
「ありがとう…。ならば、共に生き抜き、望む未来のために尽力しましょう!そして…」
 ソフィスタは、ルコスと劇団員たちが戦っている場所を避けて通り、"魔力の王"に近付いた。
 立ち尽くしていた"魔力の王"は、「何を…」と呟いたが、ソフィスタが拳を振り上げたので、息を呑んだ。
「"魔力の王"よ!これが私からの下剋上よ!!」
 衣装の中に隠れていたセタが、袖から這い出し、ソフィスタが振り上げた拳を包み込んだ。ソフィスタは、それを"魔力の王"の顔面に、振り下ろすようにして叩き込む。
 同時に魔法で突風を放ち、"魔力の王"の衣装は派手に揺らされ、冠は外れて舞台袖の奥まで転がった。
 "魔力の王"は、ソフィスタの魔法の意図を、なんとなく察し、後ろに倒れた。ソフィスタは拳を振り下ろす勢いのまま、"魔力の王"の隣にしゃがみ込み、「このまま倒れて、気を失ったフリをして下さい」と彼に囁いた。
 セタはパンチの威力を軽減するために拳に纏ったが、魔法による何かで威力を増幅させているように見せかける効果も兼ねていた。突風も、より強く"魔力の王"を殴りつけたように見せかけるための演出である。
 今まで、おしとやかだった"魔力の王妃"が、自分より強い魔法力を持つ"魔力の王"を拳で昏倒させるなど、強引ではあるが、その辺りは、キレた乙女の強さと恐ろしさということで、観客たちには適当に納得してもらうしかない。
 "魔力の王"は、少し呻いた後、全身の力をカクッと抜いて目を閉じた。どうやら、ソフィスタの指示に従ってくれるようだ。ソフィスタの拳を包んでいるセタは、袖を通って衣装の中に隠れる。
 ソフィスタは立ち上がり、ルコスと戦っている劇団員たちや、アメミット、そしてメシアに言い放った。
「"魔力の王"を失脚させ、この国は私が治めます!神々は聖域へ迎え入れます!人も神も、反対する者は多いでしょうが、踏み出さなければ、互いに命を削り合う世界は無くならない!!」
 台本では、最終的には"魔力の王"は神々に殺害され、ほぼなりゆきで"魔力の王妃"が人間の国を治めることになるのだが、ここで思わぬ"魔力の王妃"の下剋上に、観客たちや、舞台袖からハラハラと様子を見守っていた劇団員たちは、どよめいた。ソフィスタ自身も、とんでもないことをやらかしてしまったとは思うが、アメミットを導入された時点で、既に舞台はとんでもないことになっているのだ。こちらとしても、思い切った行動に出なければ、対応もしきれない。
「"魔力の王妃"よ!なんてことを!!」
「血迷いましたか、"魔力の王妃"!」
 ルコスと戦いながら、劇団員が叫ぶ。ソフィスタのアドリブに乗ってくれるようだが、彼らを信用する気は、ソフィスタには無い。
 ソフィスタが「セタ!」と言って腕を振ると、袖の中からセタが飛び出し、劇団員の一人の首に巻きついた。怯んだところを、ソフィスタが魔法で眠らせる。
「"怒りの獣"よ!聞いたであろう!!"魔力の王妃"は敵ではないのだ!攻撃してはならぬ!!」
 メシアは、自信を持って声を上げた。台本には無い言葉でも、至らぬ点があっても、ソフィスタが補助してくれると信じているからこそ、もう迷わず声を出すことができた。
「いいや、人間は敵だ!"証の神"よ、あなたこそ目を覚ますのです!もう神と人間は相容れない!あなたたちが望む未来とやらは、そうやって軽々しく言えるほど、安易な道ではないのです!!」
 立ち上がりながら、アメミットは語る。その間、メシアはソフィスタのもとへと走る。
「神と人間の、五十年以上続いた殺し合いが培った憎しみこそが、この世界を、そして私を創造したのだ!あなたたちが、たった二人で抗ったところで世界は変わらない!少なくとも、私を止められないようでは、あなたたちに世界を変える力は無い!!」
 アメミットが、メシアの体を薙ぎ払わんと、尻尾を振るう。メシアは高く跳躍して、それをかわすが、あらかじめ避けられることを予測していたのか、アメミットの尻尾は直ちに軌道を変え、落下を始めたメシアに背後から襲い掛かる。
 宙に浮いている状態では体の向きも変えられず、しかも両腕は動かない。うかつに跳んだことを、メシアは後悔する。
 だがアメミットの尻尾は、尾びれがメシアの左足のサンダルを裂いたところで、ソフィスタが放った光球によって弾かれた。その余波を受けて、メシアは着地に失敗し、床に強く体を打ち付けるも、すぐに立ち上がった。
 裂かれたサンダルは、メシアが落下している間に脱げ、メシアより少し遅れて床に落ちた。
「悪い。気付くのが遅れた。怪我は無いか?」
 セタとルコスを肩に乗せたソフィスタが、メシアに駆け寄る。"魔力の王"の配下役の劇団員たちは眠らされ、まとめて舞台の隅に寝転がされている。
「かすっただけだ。どうやら、あの尾びれは刃のようになっているようだ」
 そう話し、メシアは左足を視線で指した。靴下が一文字に裂かれ、そこから覗く肌には浅い傷が刻まれている。
 メシアの視線を辿って、その傷を見たソフィスタは、思わずメシアの肩の傷と見比べた。
 動かせなくなった、メシアの両腕。その直前に、アメミットの尻尾によって両肩に刻まれた傷。
 急に、左足に上手く力が入らなくなり、メシアは体勢を崩してソフィスタに寄りかかる。
「メっ…あ、"証の神"?」
 ついメシアの名前を口に出しかけたが、どうにか誤魔化し、ソフィスタはメシアの体を支えてやる。メシアの体重はソフィスタの倍以上はあるが、少し支えててやっただけで、メシアは自らバランスを取り戻した。
「左足が動かなくなったんだな?両腕と同じように」
 ソフィスタに小声で尋ねられ、メシアも小声で「ああ」と答える。
「両腕ほどではないが…膝は曲げられぬ」
「そうか。かすったのは、尾びれの部分だけか?だとしたら…」
 メシアの両腕と左足の感覚を奪う麻酔薬のようなものが、アメミットの尾びれから分泌されているのかもしれない。ソフィスタは、そうメシアに伝えようとしたが、途中でアメミットが喋り出したので、説明を中断する。
「"証の神"よ。私の尾びれから分泌される神経毒を、あなたの左足に染み込ませ、麻痺させました。先程、あなたの肩を傷つけて両腕を麻痺させたのと同じように。時間が経てば動かせるようになります」
 ソフィスタとメシアを見下ろすアメミットが、ご丁寧にも説明してくれた。ソフィスタは既に予想していたが、メシアは「そうだったのか…」と呟く。
「…尾びれからは神経毒、前足は魔法を消す。あと、何度も攻撃を受けている割には、痛みや疲れが見られない。四角い姿をしていたこともあるし…ずいぶんと芸達者なこった」
 ソフィスタは、第三幕でアメミットが姿を現してから、その能力を分析し続けてきた。
 ソフィスタとメシアの攻撃を何度も受けながら、アメミットは平然と向かって来るし、怪我をさせるつもりで攻撃を仕掛けてくる。消耗戦に持ち込まれると、こちらが倒されるだろう。
 魔法の効果を消し去る能力も、厄介だ。ソフィスタの攻撃魔法はともかく、セタとルコスによる直接的な攻撃手段は避けなければならない。
 アメミットは、「少なくとも、私を止められないようでは、あなたたちに世界を変える力は無い」と言い放った。この発言により、この舞台"詩の子"のアドリブ合戦に、"魔力の王妃"と"証の神"が力を合わせて"怒りの獣"と戦うという筋書きが作られたと考えて良い。
 まさか、ほぼ無敵をいいことに消耗戦に持ち込み、ソフィスタとメシアを叩きのめし、"怒りの獣"が人類を滅ぼすという結末にする気ではないだろうか。
 …だけど、こちらが不利になることばかりが分かったわけじゃない。
 ソフィスタはメシアに、小声で尋ねる。
「おい、"怒りの獣"を何度も攻撃して、やけにアイツの体が軽いとは思わなかったか?」
「…言われてみれば、巨体のわりには軽かったな」
 かつて、魔法生物マリオンや、ヒュブロで戦った魔獣など、アメミットのように体の大きい生物に攻撃を加えた時の感覚を思い出しながら、メシアは答えた。
「そうか。思った通りだ」
 ソフィスタは素早く、舞台を見回す。
 倒された背景。第三幕で壊され、その場しのぎに板を張った床。両手首をロープによって拘束されたままのメシア。肩のセタとルコス。
 そして、アメミット。おそらく、この土壇場でアメミットの能力を全て把握することは不可能と、ソフィスタは踏んでいる。現時点で確認できている他に、どんな能力を隠し持っているか分からない。
 だが、戦いが長引けば不利になる。現時点で確認できているアメミットの能力から、打開策を練るしかないのだ。
 …隠されているかもしれない能力を警戒しつつ、現段階で分かっている弱点を攻める。それが上手くいけば、アメミットの動きを止められるかもしれない…。
「"証の神"、"怒りの獣"を傷つけるのが嫌なら、動きを封じるぞ」
 そうメシアに言い、ソフィスタはアメミットを見上げ、頭部に向けて手をかざした。それに気付いたアメミットは、首をよじって頭を動かすが、大人の身長の半分ほどの大きさもあることが災いし、ソフィスタが放った光球を避けきれなかった。
 小さな爆発が頭部を襲い、アメミットは「ギャッ」と悲鳴を上げる。その隙に、ソフィスタはメシアの両手首を拘束するロープを解きながら、メシアとセタとルコスに指示を出す。
「セタとルコスは、絶対にアメミットの体に触れるな。ルコス、第四幕で使った青い水や、劇団員の飲料水を、集められるだけ集めて持って来い。あたしとセタは、この縄でアメミットの前足を縛る」
 完全に解けたロープは、アメミットの両方の前足をまとめて縛るくらいの長さはあるが、半分に切っても後ろ脚を縛るぶんには及ばない。だが、それもソフィスタの計算の内だ。
 メシアの両腕は、力無く垂れ下がる。どうにか肩に力を入れてみようと試みたが、やはり動かせなかった。
「"証の神"、体を動かせないのなら、邪魔にならない場所にいてくれると助かるんだけど」
「…いや、左足も少しは動かせる。"怒りの獣"の気を引くくらいはできよう」
 メシアはソフィスタに自信を持って言った。
 動けなさそうに見えるが、メシアの戦士としての直観や洞察力、判断力が非常に優れていることを、ソフィスタは認めている。自分の状態や、アメミットの身体能力を冷静に考えた上で、できるとメシアは答えたのだろうと、ソフィスタは彼を信じた。
「そうか。じゃあ、あたしが"怒りの獣"の前足を縛っている間、奴の気を引いてくれ。尾びれの神経毒に気を付けろよ!」
「任せろ!」
 メシアは右足で跳ねながら、アメミットに近付く。それに気付いたアメミットは、ソフィスタとメシアのどちらに狙いを定めようかと迷い、二人を交互に見る。
 ルコスはソフィスタの肩から飛び降りると、極力目立たないよう気を付けながら背景の裏側へと移動し、ソフィスタはロープの端をセタに持たせながら移動を始めた。
 アメミットがソフィスタに狙いを定め、右前足を振り上げた。ソフィスタは、第三幕で壊されて応急処置に板を張った床の上で立ち止まり、破壊力を帯びた光球を足元に放った。
 光球が板を破壊する直前に、ソフィスタは横に跳び、振り下ろされるアメミットの右前足の軌道から逃れた。アメミットの右前足は、再び床に開けられた穴に、吸い込まれるようにして肩まですっぽりと嵌ってしまう。
 それを見て、メシアはアメミットの右後ろ足を、内側に蹴って払った。アメミットの体は右に倒れ、左の前足と後ろ足が床から離れて浮く。
 ソフィスタとセタは、その浮いた左前足にロープを巻きつけ、きつく縛った。余った部分を両手で握り、強く引くと、わりと簡単にアメミットの左前足を引き寄せることができた。
「何をする気だ!!」
 アメミットが叫び、ソフィスタの力に逆らって左前足を上げると、ソフィスタの体が浮きそうになった。しかし、メシアがソフィスタに近付いてロープを咥え、右足で踏ん張って引くと、アメミットの左前足は床に叩きつけられた。
 立派な衣装を身に纏っているが、第三幕でアメミットを蹴り飛ばしてから始まり、行動がかなりワイルドになってきた"証の神"だが、それはともかく、ソフィスタはアメミットの頭部を指差し、観客にも聞こえる声で言い放った。
「思った通りね。"怒りの獣"よ、お前は体が大きい割には筋力が無い!」
 アメミットは、第三幕でメシアの蹴りを喰らい、床に強く叩きつけられて穴を開けた。だが、ソフィスタの魔法障壁を破った、アメミットの全体重を乗せた前足による攻撃は、床を砕かなかった。
 魔法障壁によって威力が弱まったからではないし、尻尾を魔法障壁で防いだ時も、思ったより威力が無いと、ソフィスタは感じた。
 そしてメシアも、アメミットの攻撃は思うより軽かったと言った。つまりアメミットは、体が丈夫だが筋力は無く、その程度の力で支えられるほど体重も軽いのだ。どんなに体が丈夫で硬くても、遠心力を利用して尻尾を叩きつけられても、力が無く軽いのでは、空気抵抗によって威力は落ちる。
 あれほどの巨体でありながら、なぜ体重が軽いのかは分からないが、今はそれを考えている暇は無い。アメミットは、力で勝てないのならばと、口を大きく開き、牙を剥き出してソフィスタに迫った。
 だが、メシアがロープを再び強く引き、アメミットの左前足をソフィスタの手前に引き寄せて盾にした。アメミットの牙は、自らの左前足に突き立てられる。
 ガキンと音がして、アメミットの牙が半分ほど砕け散った。難を逃れたソフィスタは、アメミットの左前足を、穴に嵌っている右前足まで引き寄せ、ロープの余りを巻きつけて縛った。
 その時、倒れていない背景の裏から、ルコスがバケツを引きずって現れた。ソフィスタはロープを手放し、セタを抱え上げてメシアに近付く。
「あたしが魔法に集中している間、これを使って、"怒りの獣"の尾びれの付け根を、お前の左足首と結べ」
 そうメシアに囁きながら、ソフィスタはメシアの頭に巻かれているターバンに両手を突っ込み、耳を髪の内側に隠してから、ターバンを外して解いた。赤い髪の人間が、メシアの変身した姿であることをユドは知っているが、耳さえ隠せば、赤い髪の人間の男など特に珍しくはない。
 ターバンをメシアの肩に掛けると、ソフィスタはメシアから離れ、ルコスに駆け寄った。その姿をアメミットは目で追おうとしたが、メシアに頬を蹴られ、ソフィスタとは反対側へ顔を向けてしまう。
「セタ、ルコス。背景の裏側を通って、奴の後ろに回り込んで、メシアを手伝ってやれ」
 ソフィスタはセタとルコスに指示を出し、バケツを持ってアメミットから離れた。セタとルコスは、指示通りに移動する。
 メシアも片足で跳ねて移動し、アメミットの後ろ足に近付く。
 ソフィスタがバケツを床に置き、両手をかざす。アメミットは、ソフィスタが魔法を使おうとしていることを察して首を伸ばすが、口が届かない程度に距離を取られていた。半分残った歯を噛みあわせて音を立てても、ソフィスタは動じずに魔法に集中し続ける。
 ならばと、アメミットは後ろ脚で踏ん張り、床の穴から右前足を引き上げようとしたが、メシアのタックルを左後ろ足に喰らい、体をよろめかせた。
「ぐっ…こざかしい!」
 アメミットは、メシアめがけて尻尾を振り下ろすが、メシアは床を転がって、それを避ける。
 メシアは体勢を整え、アメミットを見上げた。既に左後ろ足は、しっかりと床を踏み締めている。
 セタとルコスがメシアに近付き、彼が咥えているターバンの端を引っ張った。二体が手伝おうとしてくれていることを察し、メシアはターバンを離した。セタとルコスは、素早くターバンの端をメシアの左足首に巻きつけて縛る。
 もう一方の端はアメミットの尾びれの付け根に結べというソフィスタの指示の意図を、メシアは理解しているつもりだ。だが、アメミットの尾びれに傷つけられると、その部位が麻痺し、既にメシアは両腕と左足が動かせない。
 セタとルコスは、アメミットの体に触れさせてはいけない。ここは、動かせる右足でアメミットの尻尾を抑え、その間にセタとルコスに、直接触れないよう気を付けながらアメミットの尻尾の付け根を縛ってもらうしかない。
 メシアは「よーしっ」と気合を入れると、足元のセタとルコスに声をかけた。
「私が"怒りの獣"の尻尾を押さえる。その隙に、布の端を奴の尾びれの付け根に結ぶのだ」
 そして右足で跳ねながらアメミットに近付き、再び振り下ろされた尻尾をかわすと、高く跳び上がってアメミットの背中に右の踵を叩き込んだ。
 アメミットは、腹を床に打ちつけて倒れ、着地したメシアは、すぐにアメミットの尾びれに近付き、右足で踏んで押さえつけた。
 すかさず、セタとルコスがターバンの端をアメミットの尾びれの付け根に結ぶ。
「何をする!!」
 それに気付いたアメミットがメシアを振り返った時、ソフィスタが、バケツに向けてかざしていた両手を高々と掲げた。すると、バケツの中の水が浮かび上がって二つに分かれ、それぞれコの字型の杭のような形状を取り、ほぼ一瞬で氷となった。
「"怒りの獣"よ!これを喰らいなさい!」
 そう叫んで、ソフィスタが両手を振り下ろすと、氷の杭は、アメミットの首の頭側と体側の付け根に落とされ、咥えこんで床に縫い付けた。
 アメミットは杭を外そうともがくが、少し内側に曲がった杭は、首の力だけでは引き抜くことができない。後ろ足で踏ん張ろうとすると、メシアが屈んで左足を強く引き、アメミットの尻尾はピンと伸ばされ、体も標本のように床に張り付けられた。
 武器となる尾びれの動きは封じられ、目の前にいるソフィスタには、鼻先も届かない。憎らしげにアメミットはソフィスタを睨むが、その瞳孔の細い瞳に、ソフィスタの手の平が映る。
「"怒りの獣"よ、もう諦めなさい。身動きがとれない以上、もはや私たちと戦えません」
 演奏に掻き消されない声で、そう言い放つも、ソフィスタは、本当にアメミットが戦えなくなったとは思っていない。箱のような形へと姿を変える他にも、アメミットには、どんな能力が隠されているか分からないのだ。
 だが、負ける気も無かった。ソフィスタの魔法力は、まだ残っているし、まだ両腕と左足が動かせないメシアも、瞳に闘志を湛えている。
 しばらく、ソフィスタとアメミットの睨み合いが続いていたが、やがて、演奏が音量を下げ始めて止まり、アメミットは全身の力を抜いて、口だけを動かした。
「…私を鎮めた、その力は認めましょう。しかし、これからお前たちが立ち向かわなければならない敵は、五十年以上に渡って培われた、神と人間の遺恨。それは、私以上に手強いことでしょう」
 アメミットと王宮楽士団が、示し合わせたかのように見切りをつけたことに、ソフィスタは驚かされるが、それを表情に出すことも、アメミットに追及することもなかった。ここで戦いが終わるのなら、それにこしたことはないのだ。
 メシアも、アメミットから戦う意志が無いことを感じ取り、警戒を緩める。
「それでも成し遂げてみせるというのなら、私は引き下がりましょう。しかし、成し遂げることができなければ、私のような存在が再び現れることでしょう。それを忘れぬことです」
 勝手に話を進めていると思ったら、アメミットの体が一瞬にして液状となり、それに驚く間も無く、アメミットの右前足が嵌っていた穴から全て流れ出てしまった。
 床は濡れておらず、アメミットの牙の破片も残されていない。目を疑うような光景に、ソフィスタとメシアは立ち尽くすことしかできなかったが、まだ芝居の演出だと思っている観客たちの歓声で、ソフィスタは我に返り、次にやるべきことに素早く頭を働かせた。
「"証の神"!!」
 ソフィスタは、床に座り込んでいるメシアに駆け寄り、ロープとターバンを外してやりながら、目立たないようにセタとルコスを衣装の中に隠した。
「"魔力の王妃"…。"怒りの獣"は、去ったようだ」
 アメミットの気配が消えたことを認め、メシアはソフィスタに、そう伝えた。ソフィスタは「ええ」と頷き、メシアの両手を取り、強く握った。
 感触からして、メシアはまだ指先すら動かせないようだ。
 …アメミットは、時間が経てば動けるようになると言っていたけど…いや、今は舞台を終わらせることだけを考えよう。
 本来なら、"証の神"が処刑された後の第八幕で、神々の隠れ里に向かった"魔力の王"が"怒りの獣"に殺害され、神々は復讐を誓って眠りにつく。そして終幕で、"魔力の王妃"は"証の神"の死を嘆くのだ。
 しかし"証の神"は生き残り、"魔力の王妃"が"魔力の王"を叩きのめすという、台本からかけ離れたストーリーへと進んでしまい、メシアのアドリブ力を考えると、これ以上芝居を続けるのは無理だし、これ以上ややこしいことが起こってほしくない。第八幕と終幕を省くことになるが、ここは終わらせるしかないと、ソフィスタは判断していた。
 さり気なく舞台袖を見遣ると、こちらの様子を窺っている劇団員たちも困り果てているようで、指示を出してこない。舞台の隅に捌けられた劇団員たちも、動かず倒れたままである。
 この舞台の幕引きは、ソフィスタとメシアのアドリブに委ねられたのだ。アメミットほどの規格外の生物を舞台に出され、どうにか観客には芝居として見てもらえるよう対応できたのだから、勝手に強引に終わらせても責められはしないだろう。
 ソフィスタは口を開く。
「けれど、"怒りの獣"の言う通り、私たちが望む世界は、過酷で困難な道のりの先にあります。きっと、人間と神が争い続けてきた以上の時間がかかることでしょう」
 ここまでは、ソフィスタのアドリブによるセリフである。次は、ここで幕を下ろそうとしていることを劇団員や王宮楽士団に伝わるよう、台本にもある"魔力の王妃"の最後のセリフを喋るつもりだった。
 "魔力の王妃"は終幕で、人間と神の争いと、それを止めようとして命を落とした"証の神"のことを、後世に伝えることを誓う。それが舞台の最後のセリフとなるのだ。
 だが、メシアが「それでも…」と自然と口を動かしたので、ソフィスタは目を丸くした。
 メシア自身も、ほぼ無意識的に声を出してしまったことに、自分で驚き、観客の視線を気にして少し焦ったが、すぐに気持ちを落ち着かせると、言葉を紡ぎ出した。
「お前が傍にいてくれる限り、私は決して絶望しない。想い合うことができた私たちの心を信じ、共に未来を切り開いてゆこう」
 ソフィスタとは、いつか別れる時が来て、それは仕方のないことだと、メシアは考えていた。
 ソフィスタがずっと傍にいてくれることは、ありえない。だが、今のメシアの言葉は"証の神"から"魔力の王妃"へ向けたものではなく、メシアがソフィスタに向けた、心からの言葉であった。
 もしソフィスタと想い合うことができたら、そこに困難が立ちはだかっても、未来を見失うことはない。そんなソフィスタへの強い信頼が、自然とメシアの口を動かしたのだった。
 なんとなく、メシアの言葉はソフィスタ自身に向けられたものだと、ソフィスタも察した。恋愛ではなく信頼からの言葉でも、仮にでもソフィスタを恋愛対象としたメシアの答えを、嬉しいと感じてしまう。
 現金な女だと、自分でも思うが、それもこれもメシアに恋をしているからなのだ。もう恋心の否定はやめたので、どうしようもない。
 ソフィスタも微笑み、「ええ」と頷いた。
「そして、いつか次の世代へ全てを託す時が来たら…私たちが想い合った、その証を残しましょう。この"詩の子"を、未来へ残しましょう」
 少し変えたが、これが"魔力の王妃"の最後のセリフであった。原本では、『いつか真実を知ろうとする者が現れた時のために、私たちが想い合った、その証を残しましょう』とされているが、舞台版では互いに想い合っていたことに気付かないまま終わってしまうので、『想い合った』の部分は『手を取り合った』に変更されている。
 舞台版ではなく、原本版のセリフを喋ってしまったのは、メシアと想い合いたいというソフィスタの願望の現れだったのかもしれない。自分でもそれに気付き、ソフィスタは思わずメシアから視線を逸らしてしまった。
 その時、王宮楽士団たちの演奏が始まった。
 曲は、序幕の歌のものである。終幕では、最後に"魔力の王妃"が、後半の歌詞を一人で歌うことになっている。
 舞台を終わらせようとするソフィスタの意図は、伝わったようだ。ひとまず安心して、ソフィスタはメシアに「立てるか?」と小声で尋ねた。メシアは両腕と左足に力を込めてみる。
「…少しずつ感覚が戻っているような気はするが…まだ動かすことはできぬ」
「じゃあ、支えてやるから立て。…この歌、ちゃんと歌えるか?」
 メシアを立ち上がらせると、ソフィスタは左腕で彼の体を支えながら、右手でメシアの左手を握る。
「この歌?…練習はしたが…私が歌ってもよいのか?"魔力の王妃"だけで歌う場面ではないのか?」
「"証の神"が生き残っちまったんだし、歌ったほうが様になるだろ。歌いたくないのなら、黙っていてもいいけど」
「いや、歌いたい!歌うとも!」
 メシアがそう答えることは分かっていたし、本当はソフィスタも、メシアと一緒に歌いたかった。少し興奮して答えたメシアに、ソフィスタは小さく笑った。
 そして、演奏が歌い出しに差し掛かると、ソフィスタとメシアは観客席へ向かい、声を揃えて歌い始めた。

 未来を 物語を綴る筆に

 思い乗せ

 命に記した 二人の愛

 祈りを まだ明けない空へ捧げ

 目を閉じる

 重ねた手に残る 二人の温もりが
 再び 巡り合えると

 信じている


  (続く)


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