・第三章 レッスン開始フェザーブーツ劇団の団員たちに紹介されたソフィスタとメシアは、まず劇団員二人を負傷させてしまったことを、深々と頭を下げて謝った。そして、七日後に公演される舞台"詩の子"で、負傷した二人が演じるはずだった"魔力の王妃"と"証の神"の代役を、ソフィスタとメシアがそれぞれ務めることを、団長が団員たちに告げると、ほぼ全員から反対された。 それは団長も予想しており、なにも本気で代役を務めさせるわけではないと、団員たちに説明を始めたが、そこで予期せぬ事態が発生した。 ソフィスタとメシアが舞台に出るかもしれないという情報を、城に戻った馬車の馭者から聞いたティノーが、全面的にソフィスタとメシアを支援すると言い出し、使者を送ってよこしたのだ。 治療を受けている劇団員たちの医療費、壊された資材の弁償、ソフィスタとメシアの舞台衣装代や滞在費などは、王子の権限で国が負担するとのことで、さらには「ソフィスタとメシアが立つ舞台の成功のためなら助力を惜しまない。見事、代役の務めを果たすことを祈っている」というティノーの伝言を受け、ソフィスタは、ティノー王子の余計なお世話で舞台本番での代役を余儀なくされ、追い詰められた気分になってしまった。 劇団員たちも追い詰められた気分になったが、それよりティノー王子を後ろ盾とするソフィスタとメシアに驚かされた。 ソフィスタもメシアも、あまり目立ちたくないので、ティノー王子の命の恩人であることは、公にはしないでもらっているのだが、それはともかく、ティノーの気遣いを素直に感謝しているのは、メシアだけであった。 こうして、ソフィスタとメシアが七日後の公演まで王都ヒュブロに滞在し、劇団員たちと本格的に舞台の稽古を積むことが決まってしまった。 まず、劇を知らないメシアのために、劇団員たちは劇場へ移動し、舞台で"詩の子"の演目を披露した。 "魔力の王妃"と"証の神"は、かつてその役を演じていた男女が、ここで代わりを務めた。二人は、役柄に合った年齢をだいぶ越えてしまったため、今回は若手の役者の演技指導にあたっていたそうだ。ソフィスタとメシアも、主にこの二人から指導を受けることになるのだろう。 音楽は、この場に居合わせた王宮楽士団の団員のみで演奏され、舞台の小道具や衣装も全ては揃っておらず、かなり違和感のある舞台となったが、それはそれでフェザーブーツ劇団の舞台裏を見ているような気分になり、客席にいるソフィスタは楽しむことができた。 メシアも、本番では無いとは言え初めて見る舞台に感銘を受け、序幕から終幕まで一通り終わると、舞台に向かって大げさに拍手を送った。 劇場を出る頃には、既に日が暮れはじめていた。劇団員たちと共に多目的会館に戻ったソフィスタとメシアは、稽古を始める前に、舞台で役を演じるにあたって必要な能力を調べるためのテストを受けた。 劇団員たちはソフィスタとメシアに全く期待をしていなかったのだが、このテストで彼らはソフィスタとメシアの驚くべき実力を知ることとなった。 特に劇団員たちを驚かせたのは、ソフィスタであった。メシアも知らなかったが、ソフィスタは歌も踊りも本格的に習ったことがあり、二年以上のブランクがあると話すものの、ソフィスタを乱暴な少女と思っていた劇団員たちを呆然とさせるには十分であった。 先ほどまで見ていた舞台での"魔力の王妃"の踊りを、完璧とまではいかないが、ほぼ正確に再現し、歌のほうも、歌詞や音程を間違えること無く歌いきった。 一度見て聞いただけで振り付けもセリフも覚える記憶力。舞台に向いた、よく響く声と、口と態度の悪さからは想像もできない美声。そして、かつては多くの詐欺師たちを欺き返し、メシアを騙し、ヴァンパイアカースを欺き、ノーヴェル賞受賞式典では愛想良く振舞った、実戦で鍛えぬいた演技力。それらを披露された劇団員たちは、意外すぎるソフィスタの実力に、怖いとさえ感じた。 だが、"魔力の王妃"と"証の神"の悲恋とも呼ばれる舞台には不向きであると感じた劇団員は、少なくなかった。 ソフィスタの歌と踊り、そして演技には、心に響く何かに欠けている。 定められた動作を淡々とこなしているだけで、役の心情を理解しようともせず、客を喜ばせたいという気持ちもこもっていない。そんなソフィスタの、少女と呼べる年齢の割には冷めた性格を、劇団員たちは感じ取ったのだ。怖いと感じたのは、そのせいでもあった。 実際ソフィスタは、この面倒くさい事態から抜け出したい気持ちでいっぱいであった。 そういうわけで、劇団員たちは、恋物語のヒロインをソフィスタに演じさせることに不安を覚えたのだが、それ以上に劇団員たちを不安にさせたのは、メシアのほうであった。 メシアの故郷ルクロスには、年に何度も神に歌や踊りを捧げる祭りがあり、メシアは幼いころから、それに参加するために歌や踊りを大人たちから教わってきた。だから、歌にも踊りにもメシアには自信があったのだが、舞台を見た時、その自信は既に大きく失われていた。 そもそも、ルクロスにある音楽は五音階が主流であり、舞台"詩の子"で用いられる音楽は、全て七音階を主流としたものであった。慣れない音階の歌を歌えと言われて何度も音程を外しても、メシアにとっては仕方がないことだが、役者たちにとっては衝撃的な音痴ぶりであった。 歌詞もリズムも慣れないものばかりで、上手く歌えない。当然、踊りのリズムも慣れないものばかり。しかもソフィスタの後にテストを受けたものだから、メシアのポンコツぶりは、さらに強調され、それはそれは絶望的であった。 そして演技力のほうもポンコツで、セリフはわざとらしくて表情は硬い。 バカ正直で嘘が下手なメシアでも、ヒュブロ城で人間の騎士のふりをしたり、相手を威圧するために怒りの表情を作ることはできるのだから、少しは演技力に期待してもいいだろうとソフィスタは考えていたのだが、いざ誰かに演技しろと言われ、意識して演技をしようとすると、それが裏目に出てしまうようだ。人間の騎士のふりも、礼儀正しい立ち振る舞いは元々身についていたようだし、その際に貰ったアドバイスが「相手が誰であろうが、しこたま敬いなさい」と大雑把であったため、あまり難しく考えず、ただ礼儀正しく振舞っていただけだから成功したのかもしれない。 公演は七日後。真面目に稽古を積んでも、果たして重役を演じきることが可能であろうか。ソフィスタも含め、劇団員のほとんどが、メシアには不可能であると感じた。 やむなく団長は、歌とセリフは他の劇団員に任せ、メシアには歌とセリフに合わせて口を動かす演技を指導することにした。リズム感が全く無いわけではないし、身体能力にかけては群を抜いているので、踊りだけならどうにかなるかもしれない。それが団長の判断であった。 ソフィスタとメシアのテストが終わった頃には、既に外は暗くなっていた。まだ夕食も取っていなかった劇団員たちには仕出しの弁当が配られるそうだが、急に来たソフィスタとメシアのぶんまでは無い。 二人は舞台の台本を渡され、「今日は宿に戻って、台本を読み込んで下さい」と団長に指示された。馬車や荷物は宿に預けたままだし、アーネス魔法アカデミーの校長にも、状況を報告しなければならないので、今日中に荷物を整理して用事も済ませ、明日の朝早くに馬車と一緒に多目的会館へ移動し、公演当日まで劇団員たちと寝食を共にしろとのことであった。 団長の指示に従い、多目的会館を出たソフィスタとメシアは、途中にあった飲食店で夕食を済ませてから宿へ戻った。 * アーネス魔法アカデミーへ魔法で通信を送りたかったが、そのための設備がある通信所は、多目的会館を出る頃には既に営業を終了しており、明日の朝にならないと設備を借りることができないので、今日は見送った。 連絡する内容をまとめたり、荷物の整理をしたりと、今日中に済ませておきたいことは多いが、まずソフィスタは、難しい文字が読めないメシアのために、彼が渡された台本を読みやすいよう直すことから始めた。 歌も踊りも絶望的だったメシアは、ソフィスタ以上に練習量をこなさなければならないことになるだろう。台本の暗記の時間も、可能な限り与えたい。要領よく作業をこなさなければ、メシアには代役の務めは果たせないと考えてのことであった。 読みやすくなった台本を渡されたメシアは、早速台本を読み込み始めた。まだ残っていた読めない文字や、台本からは伝わりにくい風景などは、ソフィスタが荷物の整理をしながらメシアに教えてやった。 真夜中になって、ひとまず台本は読めるようになったが、全てを暗記するには、まだまだ時間が必要だ。メシアは徹夜で台本を覚えるつもりだったが、メシアと向かい合ってベッドに腰掛けているソフィスタに、こう言われた。 「メシア。根詰めるのは良くないよ。ちゃんと睡眠を取って、頭を休めることも必要だ。明日からの練習にも、しっかり打ち込めるよう、もう寝たほうがいいよ」 ソフィスタの言うことはもっともだし、先に寝てもいいと言ってもメシアに付き合って起きていてくれている彼女のことも考えると、そろそろ区切りをつけるべきだ。台本に集中していたメシアは、ふうっと息を吐いて肩の力を抜き、開いているページに付箋を貼って台本を閉じた。 ソフィスタも、開いていた台本を閉じてメシアに渡し、「鞄の中に、一緒に入れておいて」と頼むと、ベッドに横になった。ソフィスタもメシアも、既に寝巻に着替え、いつでも就寝できる状態ではあった。ソフィスタの眼鏡やメシアの装飾品も、テーブルの上に置かれている。 セタとルコスは、ソファーの上で丸まって体を休めている。ソフィスタと同じく、自分が眠るベッドに腰かけていたメシアは、側に置いてあった鞄の中に台本を入れてから、体を倒してベッドに背中から沈んだ。 「…私は"魔力の王"に会う。会って、我々が聖地に住まう許しを請う。これ以上、人間と神が犠牲にならぬよう…だったかな」 先ほどまで開いていたページに記してあった"証の神"のセリフを、メシアはなんとなく暗唱する。 「いけません、"証の神"よ。私が眠っている間にも続いていた争いの中で、人間たちに植え付けられた神々への恐れと憎しみは大きく膨らみ、人の命も重んじる貴方の言葉であっても、鎮めることは叶わないでしょう。もはや人間は、神々の言葉に耳を貸しません」 次の"魔力の王妃"のセリフを、ソフィスタが頼まれてもいないのに続けてくれた。こうしてお互いにセリフを言い合ったほうが覚えやすいと、ソフィスタはメシアに協力し続けていたのだ。 メシアも、この後に続く"証の神"のセリフを暗唱する。 「だが"魔力の王妃"よ、貴女は私の話を聞いてくれたではないか」 「それは私が、心優しき"大地の神"に、かつて仕えていたからです。…まだ"魔力の王妃"のセリフは続くけれど、その前に…メシアの今のセリフ、間違っていたよ」 ソフィスタに、そう指摘され、メシアは「えっ」と声を上げて起き上がり、台本をしまった鞄に手を伸ばそうとしたが、ソフィスタに「台本は出さなくていい」と止められた。 「貴女は私の話を聞いてくれたではないか…ってメシアは言ったけれど、正しくは、聞いてくれているではないか…だよ」 ソフィスタは、"魔力の王妃"や他の役のセリフだけでなく、台本に記されていた注意書きなど、完璧に暗記していた。ソフィスタの記憶力に関しては、アーネスにいる頃からメシアも信頼している。 メシアは、鞄に伸ばしかけていた手を引っ込め、カクッと項垂れる。 「そうであったか…。"魔力の王妃"よ、貴女は私の話を聞いてくれているではないか」 正しくセリフを暗唱し直すメシアを、ベッドの上に仰向けになったまま、ソフィスタは眺めていた。 "詩の子"の原本も知っており、舞台も何度か見たことのあるソフィスタは、役者のセリフも動きも、今日改めて舞台を見る前から覚えていた。台本は初めて読んだが、それもすぐに暗記できた。 比べて、メシアは何度も台本を読み返して"詩の子"の内容を把握し、セリフの暗記は、現時点で半分覚えることができたかどうか…といった程度である。一晩眠ったら、暗記したセリフの三分の一は忘れてしまうかもしれない。 それでも、常人の感覚で考えると、メシアはかなり頑張って暗記できたほうである。ソフィスタの教え方が良かったのもあるが、それ以上に、メシアが集中力を持続していたからでもあった。 だが、どんなに頑張っても結果が出せなければ意味が無い。舞台本番まで、メシアはセリフを完璧に覚えることができるだろうか。セリフを声に出すのは別の役者で、メシアは口を動かすだけだが、それでもセリフはしっかりと暗記しなければ、動作に不自然が生じてしまう。 メシア自身も、ソフィスタも、不安を覚える。 「とにかく、もう寝な。灯りを消すよ。…おやすみ」 そう言って、ソフィスタは右手を翻した。それを合図に、部屋のあちこちに設えてある燭台の灯りが全て消えた。もちろん、ソフィスタの魔法によるものである。 薄いカーテン越しに、ほんのりと差し込む月明かりが、部屋の中を青白く照らす。そんな心地よい暗闇の中で、メシアもソフィスタに「お休み、ソフィスタ」と声を掛けてから、起こした体を再びベッドに倒した。 毛布を肩まで被せ、目を閉じる。 …しかし、役者の務めというものは、実に大変なものであるな。自分の役の言葉だけではなく、他の役の言葉も多少は覚えなければいけないし、ただ覚えて口にすればいいというものでもなく、感情も表現しなければならない…。 ソフィスタが演目"詩の子"を「難しいもんじゃない」と言った意味は聞かされた。 もっと長丁場の舞台や、激しい動きを取り入れた舞台に比べたらの話であり、軽々しく代役を務められるものではない。それは、セリフの暗記を始めてから、メシアは思い知らされた。 明日からは、セリフだけでなく、踊りの稽古も始まる。本番では決して間違えないよう、セリフも踊りも徹底的に頭と体に叩き込まなければいけない。役者たちも、そんな不安に駆られつつも、日々稽古を積んで、本番に挑んでいるのだろうか。 そう考えると、深く考えずに代役を務めると言ってしまった自分を、メシアはつくづく恥ずかしく思う。 そして、そうやって努力してきた二人の役者に怪我を負わせてしまったことを、愚かに思った。 …だが、こうなってしまったからには、明日から始まる芝居の稽古にも、しっかりと取り組まなければならぬ!ソフィスタほど物覚えが良くない私は、ソフィスタや他の役者たち以上の努力が必要なのだ!こんな遅くまで、言葉の暗記に付き合ってくれたソフィスタのためにも…。 そう考えた時、ふとメシアは、"詩の子"の物語の中での"魔力の王妃"と"証の神"の関係を思い出した。 …争いを続ける神と人間。その中で出会った神の男と人間の女は、互いに助け合っていた…か…。 団長にも言われたが、自分とソフィスタの関係は、確かに"魔力の王妃"と"証の神"に似ていると、メシアは思った。己を神に例えるのは恐れ多く、ソフィスタとは恋仲でもないが。 しかし、メシアの種族、ネスタジェセルは、かつて人間によって辺境に追いやられたことと、現在こうしてメシアとソフィスタが助け合っている関係は、"詩の子"の構成と似ている。 文字は違うが、言葉が共通している以上、ネスタジェセルと人間には交流があったことは、間違いないだろう。 そして、物語"詩の子"の中で、人間が神を聖域から追放したように、人間はネスタジェセルを辺境へ追いやった。 人間の多くがネスタジェセルの存在を知らないようなので、その出来事は、相当昔に起こったものだろう。 それから時を経て、神より使命を承って故郷を出たメシアと、人間の世界で暮らすソフィスタが出会った。"証の神"と"魔力の王妃"の関係に似ていると言えなくはないが、それはただの偶然だと、メシアは考える。 …そういえば、ネスタジェセルが人間によって辺境に追いやられてしまった話は、よく聞かされたが、それ以前の人間との関係は、教えてもらえなかったな…。 幼い頃、ネスタジェセルは人間とエルフによって多くの仲間を失い、辺境に追いやられたという話を聞かされたメシアは、それ以前のネスタジェセルと人間の関係や、人間がネスタジェセルを忌み嫌う理由を尋ねたことがあった。 しかし、大人たちは「まだ知らないほうがいい」などと言って、教えてくれなかった。 言葉が通じる以上、交流があったのは間違いないという考えも、故郷を出て人間に出会ってから、メシア自身が導き出したものであった。だが、その交流というものが、果たして良い意味のものか否かは分からない。 大人たちが教えてくれなかったのは、子供には難しい話になるからか、それとも子供心には衝撃が強すぎるほど、血生臭い話になるからか。 …もしかしたら、"詩の子"は、かつてのネスタジェセルと人間の関係を描いた物語なのかもしれぬな…。 真相を知らないメシアにとって、その可能性は否定しきれるものではない。 だが、肯定できるほどの証拠も無い。今のメシアの知識では、いくら考えても真相には辿り着けないだろう。 目を閉じたまま、メシアは静かにため息をついた。 …もし"詩の子"が、本当にネスタジェセルと人間の関係を模したものだとしたら、誰が書いたものなのだろうか。なぜ、物語として残したのだろうか。…人間がネスタジェセルの存在を知らないのは、エルフがネスタジェセルが生きた証を世界から抹消せんと動いているからでもあるが、それを欺くために、ネスタジェセルを神と例えて物語を作ったのだろうか。…そうまでして、ネスタジェセルと人間の関係を未来へ残そうとした者は、いったい何者なのか…。 考えれば考えるほど、分からないことが増えていく。そうやってメシアが悶々しているうちに、隣のベッドで横になっているソフィスタが、規則的で静かな寝息を立て始めた。 どうやら、ソフィスタは完全に寝付いたようだ。それに気づいたメシアは、自分も早く眠らなければならないことを思い出し、難しいことを考えるのはやめた。 …そうだ。今は"詩の子"の舞台を成功させることだけを考えよう。 せめて頭を使うなら、考えても仕方のないことで使うより、"証の神"のセリフを覚えることに使うべきだと、メシアは考え直す。 …"証の神"…。人間の少女と手を取り合い、神と人間が共に生きる世界を望んだが、叶わなかった者…。ネスタジェセルにも、"証の神"と似たような境遇の者がおったな…。 眠りにつくには、もう少し時間がかかりそうなメシアは、ぼんやりとした思案を続ける。 …いつだったか、ゼフが話してくれたことがあった。仲間と人間の命を重んじ、共に手を取り合う世界の実現に命を賭した男の話…。 だいぶ薄れたメシアの意識の中に、幼い頃の記憶が映し出される。 暮らしていた集落から、少し離れた森の中にある、小高い丘。亡くなったネスタジェセルの中でも、遺体を回収できなかった者たちの名前が刻まれている墓石の前。悲しそうな顔で立ち尽くしている、メシアの師であるゼフの姿。その隣に、メシアも並んで立っていた。 …ゼフの親友。一人の人間の協力を得るも、他の人間の手によって、若くして命を落とした男。…彼が生きた証は…今も人間の世界に…彼の名前は…。 ゼフがメシアに語った言葉。記憶のどこかに埋もれている、師の親友の名前を、メシアは掘り起こそうとしたが、その前に、睡魔によって思考は妨げられてしまった。 * 翌朝、ソフィスタとメシアは荷物をまとめて宿を出ると、アーネスから乗ってきた馬車で、劇場近くの多目的会館へと直行した。 アーネス魔法アカデミーへの連絡は、まだ朝早すぎて通信所が開いていないため、昼の休憩時間に通信を送ることにした。 会館に着き、フェザーブーツ劇団と合流。指示された部屋に荷物を預け、馬はフェザーブーツ劇団の馬と一緒に会館近くの馬小屋で預かってもらった。 劇団員たちと共に朝食を取った後、短い打ち合わせをした。昨日のソフィスタとメシアのテストの結果から、今後の二人の稽古の内容を話し合い、また二人の衣装を新調しなければいけないので、それぞれの採寸も行った。 衣装や小道具に関しては、ティノー王子が協力してくれるので、本番には間に合いそうとのことだった。 打ち合わせの後、劇団員たちと共に、毎朝恒例となっている体操と、発声練習を行った。 ソフィスタは、踊りを習っていたことがあるだけあって、体は柔らかいほうだったが、毎朝柔軟体操を行っている劇団員たちや、日々鍛錬を怠らないメシアほどではなかった。 発声練習でも、メシアのほうが声が大きく、もう少し抑えろと劇団員たちに注意されるくらいであった。 ソフィスタよりも、メシアのほうが注意されることが多かったが、素直に劇団員たちに従い、失敗を直していくメシアに、劇団員たちは、徐々に心を許していった。 フェザーブーツ劇団には、団長を始め、獣人も何人か所属しているので、緑色の大男の姿に対しては、劇団員たちは多少珍しがる程度で、そんなに怖がる様子は見せなかった。 さらに、本番では人間の姿で役を演じるというメシアに、そんなことができるのかと劇団員たちが興味を持ち、人間の姿になってみせてくれと頼んできたので、希望通りメシアは人間の姿になったのだが、それが女性劇団員たちから大好評であった。 ソフィスタも、劇団員たちの指示に従順で、何でも卆なくこなすのだが、メシア以外には冷淡で人間味の無い雰囲気に、劇団員たちは距離を縮めにくかった。 舞台を成功させるには、信頼関係も必要だ。なので劇団員たちは、ソフィスタとメシアにフェザーブーツ劇団に馴染んでもらおうとするのだが、それがソフィスタには、なかなか上手くいかない。協調性はあるのだが、心は許していないといった感じだった。 歌も踊りも演技も上手なソフィスタだが、人間性に難あり。 真面目で素直なメシアだが、歌と踊りと演技はまだまだ不安。 冷血と熱血。頭脳派と肉体派。そんな対照的な二人が、よく一緒に旅していられるものだと、劇団員たちは感じた。 そして、そんな対照的な男女を、いきなり劇団に押し込まれたことを、改めて考えさせられ、今後の苦労を予感した。 しかし、そんな不安をポロッと漏らした劇団員に、メシアがこう言った。 「こんなことになってしまったことを、申し訳なく思っている。だが、舞台本番まで全力で稽古に挑み、例えこの身が朽ち果てようとも、代役の務めを果たしてみせる!!」 熱意はしっかりと伝わったが、あまりに熱すぎて、それが空回りしそうな不安を、メシアの言葉から覚え、彼と一緒にいるソフィスタの苦労を、劇団員たちは垣間見たような気がした。 そしてソフィスタも、そんな劇団員たちの不安に共感し、この時ばかりは、彼らと心が通じ合ったような気がした。 こうして、柔軟体操も発声練習も終わり、各々不安を抱えての稽古が始まった。 (続く) |