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ありのままのメシア 第十二話


   ・第四章 七冊の詩の子

 ソフィスタとメシアは、まず個別で指導を受けることとなった。
 台本を完璧に暗記し、歌も踊りも演技も正確にこなすが、動作に心がこもっていないソフィスタは、役の感情が観客に伝わる動作の練習。セリフや歌は声に出さずに口を動かすだけだが、台本の暗記も踊りも演技もイマイチなメシアは、台本の暗記をしつつ、踊りや演技、セリフと歌に合わせて口を動かす練習をし、頃合を見計らって、他の劇団員たちと一緒に舞台の稽古を始めるそうだ。
 "魔力の王妃"と"証の神"が同時に舞台に登場するシーンの稽古は、ソフィスタとメシアも一緒に行ったが、この時、劇団員たちが抱えていた不安が少し解消された。
 メシアと一緒に演技をしている時のソフィスタは、心なしか、しおらしくなっていた。
 それも、メシアへの恋心ゆえである。メシアもメシアで、ソフィスタと一緒に稽古をしている時は、生き生きとしていた。
 それに気付いた劇団員に、二人は付き合っているのかと尋ねられたソフィスタは、直ちに否定したが、照れを隠しきれなかった。
 男女が「付き合う」という意味を、最近理解してきたメシアも、至極自然に当然のように「付き合っておらぬ」と答え、ソフィスタと劇団員に、ソフィスタの恋心は完全なる片思いであることを知らしめた。
 しかし"魔力の王妃"も、劇中では"証の神"への恋心は片思いとして描かれている。"証の神"は、"魔力の王妃"に想いを打ち明けられても、彼女への愛情を隠し通すため、本当は想い合っていたことを、"魔力の王妃"が知ることは無いのだ。
 その辺りは原作とは違っているのだが、それはともかく、今のソフィスタとメシアの関係が演技にリアリティを持たせることを、劇団員たちは期待した。
 そして団長も、劇団員たちとは別の期待を、ソフィスタとメシアに抱いていた。
 フェザーブーツ劇団には、ソフィスタほど魔法を使える者はいないので、せっかくだからソフィスタの魔法と、できればメシアのずばぬけた身体能力も生かして、何か演出はできまいかと団長は考え始めたのだった。
 その件については、いずれ相談させてもらうと、ソフィスタとメシアは団長に声をかけられた。

 食事や休憩の時間も、メシアはソフィスタに台本の暗記を手伝ってもらい、夜は消灯の時間を過ぎても、メシアは踊りの稽古に励み、ろくに睡眠時間を取らなかった。
 ソフィスタもメシアに付き合って夜遅くまで起きていた。メシアは恐るべき体力と精神力で、起きている間は頭も体もしっかりと働いていたが、ソフィスタは明らかに寝不足の状態で、昼食を終えた頃からウトウトしている様子が見られた。
 そんなソフィスタを気遣い、メシアは「夜まで私の稽古に付き合うことはない」と彼女に言ったのだが、「そうやってあたしを気遣う余裕が、今のお前にあるのか?でかい口を叩くなら、もっと台本を暗記してからにしろ!」と厳しく返されてしまった。
 寝不足のソフィスタは機嫌が悪く、その影響を稽古には出すまいと努めているが、休憩中は目つきも声も怖く、劇団員たちは用も無く彼女に近づくのを避けるようになった。
 それは、ただソフィスタが怖いからではなく、メシアのために尽力していることも理解しているので、休める時はしっかりと休ませてあげたいという、劇団員たちの心配りでもあった。

 こうして、稽古開始から二日目、アーネス魔法アカデミーの校長から、先日送った手紙の返事が送られてきた。
 校長は、ソフィスタとフェザーブーツ劇団、そしてティノー王子へと手紙を出したそうだ。ティノー王子宛ての手紙の内容は分からないが、フェザーブーツ劇団に宛てた手紙には、自校の生徒が劇団員に怪我を負わせた件等の謝罪文が綴られていた。
 ソフィスタ宛の手紙にも、「今後、気を付けなさい」などと文面で注意してきたが、怪我をした劇団員の代役を務めるため、しばらくヒュブロに滞在して稽古に励むことについては「頑張りなさい」とエールを送ってきた。
 さらに、「フェザーブーツ劇団所属の子役のリーミンちゃんからサインをもらってきて下さい」と記されていた。そういえば以前、校長と共に王都ヒュブロへ訪れた時、彼がリーミンという子供の役者のファンであると語っていたことを、ソフィスタは思い出した。
 当時は、リーミンが主演の舞台が二ヵ月後に公演されると校長が騒いでいたが、それより先に公演される"詩の子"が、テロリストの件があって公演が延期され、それに伴ってリーミン主演の舞台も延期となったそうだ。
 その話は、リーミン本人がメシアに語っていた。
 舞台"詩の子"には出演しないリーミンだが、大人の役者たちの稽古の様子を熱心に見学したり、自分が主演となる舞台の台本を何度も読み返している様子から、子供ながら強いプロ意識が覗えた。
 しかし休憩時間になると、ちょくちょくメシアのもとへやってきた。
 彼女は、紅玉の力で人間になったメシアの姿を甚く気に入り、トカゲ男姿のままのメシアにも寄ってくるようになった。メシアも、人間の子供に懐かれるのが嬉しくて、リーミンには優しく接していた。
 なんとなく、その様子がソフィスタには面白くなかったが、メシアから頼んでもらえば、リーミンはサインくらい、いくらでも用意してくれそうだ。ここで校長に恩を売っておくのも悪くはないと、ソフィスタは考えた。
 また、アズバンが公演初日の劇を見に行くそうなので、念のため旅費の追加分を彼に持たせ、ソフィスタに渡すよう指示をしたと、校長からの手紙の最後に書かれていた。
 アーネスの知り合いや、学校のクラスメイトには、劇団員の代役として舞台に立つ姿を見られたくないソフィスタは、校長宛の通信で、代役の件は誰にも話さないよう頼んでおいた。しかしアズバンは、ソフィスタとメシアがアーネスを発つ以前から、今回の舞台でバイオリン奏者を任された友人に誘われ、劇を見に行くべく休みを取っていたそうだ。
 アズバンにも、代役の件は秘密にするよう、校長は頼んだそうだが、何にしても、アズバンにはソフィスタとメシアが舞台に立つ姿を見られることを知り、メシアは喜び、ソフィスタは頭を抱えた。

 夜、劇団員たちは、男女に分かれて大部屋で眠る。アーネスでは一緒の部屋で眠っていたソフィスタとメシアも、ここでは別々に眠っていた。
 そんな夜を二回迎え、三日目の稽古が始まった。
 歌も踊りも演技もポンコツだったメシアだが、寝る間を惜しんで自主練習を続けていた甲斐があって、"証の神"の役が、だいぶ様になってきた。セリフと歌は口を動かすだけであるが、その演技も、稽古開始一日目と比べて、かなり上達していた。
 ソフィスタの、どこか人間味の無い演技も、だいぶ改善され、今日から二人共、舞台に出る劇団員たちと一緒に稽古を行うことになった。
 午前中に、一度、序幕から終幕まで通して演技をしたが、ソフィスタもメシアも、同じく舞台に立つ劇団員たちも、動きや演技を厳しく指摘された。
 特にメシアは、寝る間も惜しんで練習したはずの演技や踊りを何度も間違え、メシアの指南役である劇団員と、様子を見に来ていた団長に、心が折れかけるほど怒られた。
 こうして、舞台で役を演じることの厳しさが、舞台に立つ者全員の身に改めて染みたところで、昼食と休憩の時間となった。


 *

「…ソフィスタ。役者の世界というものは、実に厳しいものなのだな…」
「そりゃ、生活もかかっているしね。それより、早く食べなよ」
 多目的会館の二階にある、椅子とテーブルが並ぶ広い部屋で、劇団員たちと共に昼食を取りながら、ソフィスタとメシアは会話をしていた。
 稽古が始まってから今まで、メシアは毎日のように厳しく指摘されてきたが、努力して上達してみせると、前向きに励んでいた。しかし今日は、休憩時間になるとソフィスタに弱音を漏らし始めた。
 それでも食欲はあり、いつもより遅いペースであったが、ソフィスタより先に仕出しの弁当を食べ終えていた。
 ソフィスタは、いつも通りの涼しげな表情で、いつも通りのペースで食事を進めている。
 昨晩はわりと睡眠時間を取ることができたため、今日のソフィスタは機嫌が悪くない。休憩中はソフィスタの肩に乗っているセタとルコスも、ソフィスタの機嫌が悪い時は緊張しているが、今はリラックスしていた。
「…役者を目指しているわけでもないのに、演技がダメだとか踊りがダメだとか言われたくらいで、そんなに落ち込むことはないんじゃない?」
「そうかもしれんが…今まで相当な努力をしてきたはずなのに、ああも厳しく指摘され続けると…」
「周囲は役者の玄人で、あたしたちは素人なんだ。プロでさえ厳しく指摘を受けているのに、素人であるあたしたちが、いくら努力したとは言え、ものの数日で褒められるほどの技術が身に着くとでも思ってんの?厳しくて当たり前。いちいちへこんでいたら、キリが無いよ」
 メシアと違って合理的で冷淡なソフィスタは、そうやって割り切って考えており、演技を厳しく指摘されても、従いはするが、そんなに落ち込みはしなかった。
「そうであるな…。だが、寝ている間でさえ役を演じるほど、真剣に稽古に取り組んでいたというのに、ソフィスタよりも多く指摘を受けてしまった…」
「寝ている間にって…何ソレ」
「寝言で、"証の神"の歌を歌っていたそうだ。たまたま起きていた劇団員が教えてくれた」
「…そうか…お前が寝言で歌をねぇ…」
 メシアの寝言は、ソフィスタも聞いたことがある。ヴァンパイアカースの件とユドの件で、メシアが意識を失った時の二回だけだが、その二回とも、メシアは故郷で飼っていた猫の名前を呟いていた。
 もしかしたら、同じ部屋で眠っている時にも、ソフィスタが起きない程度の小声でメシアが寝言を呟いたこともあるかもしれないし、ソフィスタにだって寝言を呟く可能性もあるが、それはともかく、二人は会話を続ける。
「それで、その寝言で歌った歌は、上手かったのか?」
「いいや、下手であったと言われてしまった」
「…まあ、寝言だし、口を動かす練習しかしていないからね。寝言で歌うのはいいけれど、本番では客席に聞こえるほど声を出して歌うんじゃないよ」
 口を動かす練習と言っても、口の動かし方に少しでもリアリティを持たせるようにと、よほど近づかなければ聞こえないほど小さな声で、メシアは歌っていた。息を吐き出すような声で、音程など全く無いが。
「分かっておる。…だが、できれば本番でも歌いたかったな…」
 話しながら、ソフィスタは食事を進めていたが、自分の弁当の中身が半分ほど減ったところで、メシアに「あとは食べて」と弁当を渡した。
 ここで配給されている弁当は、ソフィスタには多く、メシアには少ない。だから二人は、食事の時間になると隣り合って席に着き、ソフィスタの食べ残しをメシアが処理していた。
「歌うこと、好きなの?」
 ソフィスタは、カップに満たされた温かいお茶を一口すすってから、メシアに尋ねた。ソフィスタの食べ残しを掻き込んでいたメシアは、口の中を空にしてから答える。
「嫌いではないが…。ただ、"証の神"と"魔力の王妃"が共に歌う場面があるだろう。そこを、私はソフィスタと一緒に歌ってみたかったのだ。私が歌を練習して、ちゃんと歌えるようになっておれば、一緒に歌えるのだがなあ…」
 ソフィスタに対し、恋愛とは関係の無い意味の好意を持っているメシアは、友達と遊ぶような感覚で、彼女と一緒に楽しく歌いたいと思い、そう言った。
 一方、メシアに対して恋愛的な意味の好意を持っているソフィスタは、彼がソフィスタと一緒に楽しい何かをしたいと発言するだけで、胸が高鳴ってしまう。もちろん、メシアに恋愛的感情を抱かれていないことは、ソフィスタも自覚しているが。
 それに、"魔力の王妃"と"証の神"は、互いに惹かれあっている関係。二人が歌う場面では、そんな関係を示すように、見つめ合ったり手を取り合ったりと、恋模様を漂わせる動作が多い。
 実際、昼食前までの稽古で、ソフィスタとメシアは互いに触れ合っては離れる動作を何度も繰り返した。
 そして、"魔力の王妃"と"証の神"が一緒に歌う歌には、互いの想いを告白し合うような歌もある。
 演技であることは分かっていても、手を取り愛を囁かれ、もはやメシアにときめかされっぱなしのソフィスタは、生きた心地がしなかったとすら感じた。顔や動作には現さないよう努めたのだが、隠しきった自信は無い。
 昼食前までのメシアとのやりとりを思い出し、さらにメシアと一緒に舞台で歌う様子を思い浮かべ、ソフィスタの頬が、かあっと熱を帯びる。
 しかし、メシアの歌が下手であったことも思い出して、胸の高鳴りが少し落ち着いた。
 その時、劇団員たちの足音に交じって、硬質な何かが何度も床を打つ音が、後ろのほうから聞こえた。
 ソフィスタとメシアは振り返り、白髪交じりの中年の男性が劇団員たちに親しそうに声をかけられながら、こちらへと向かって来る様子に気付く。
 男性は左足を床に着いておらず、松葉杖と右足で移動しており、額には包帯が巻かれている。痛々しい姿だが、ソフィスタとメシアの視線に気付くと、笑顔を見せた。
「こんにちは。君たちが"魔力の王妃"と"証の神"の代役ですね」
 初めて見る顔に少し警戒しつつも、年配の男性に対し、ソフィスタは軽く頭を下げた。メシアも頭を縦に一度振ったが、ソフィスタとは違い、肯定の意を示すべく頷いたのだった。
 この多目的会館の二階は、公演が終わるまでフェザーブーツ劇団が貸し切っており、関係者以外は立ち入り禁止のはずだし、劇団員たちと親しそうな様子から、彼が劇団と深く関わりのある人間であることは、ソフィスタとメシアも想像できた。
「団長さんから、珍しい種族の子が"証の神"の代役を務めるって聞いて、会いに来たんですよ。…隣に座ってもいいですか?」
 男性はソフィスタの隣の空いている席を指差した。馴れ馴れしいとソフィスタは思ったが、劇団関係者で、しかも怪我人を無下にするわけにもいかないので、直ちに立ち上がって椅子を引き、彼の体を支え、座るのを手伝った。
 男性のズボンの裾から覗く左足は、がっちりと包帯で固定されている。顔のあちこちにも擦り傷の跡が見られるが、怪我を痛がる様子は無く、ソフィスタが思ったよりスムーズに、男性は椅子に座ることができた。
「ありがとう。食事中にお邪魔して、すいませんね。私もけっこう忙しくて、今くらいしか暇が無いもんで。…あ、私のことは気にしないで食べていて下さい」
 松葉杖をテーブルに立て掛けながら、男性はソフィスタに礼を言った。ソフィスタも、男性に言われて食事を再開したメシアの隣に座り直す。
 劇団員の一人が、男性にお茶とお菓子を用意して差し出した。男性が「ありがとう」と劇団員に礼を言うと、劇団員は「何かご用がありましたら、そのへんの劇団員をこき使って下さい」と冗談めいたことを言って、軽く頭を下げてから立ち去った。
 劇団員とのやりとりからして、男性の立場は劇団員より上だが、わりと親しい間柄なのだと、ソフィスタは考える。
「初めまして。私の名前はワブルです。西のトルシエラ大陸の聖地アムセルで主に活動をしている考古学者です」
 男性の名前を聞いて、ソフィスタの涼しげな表情に、驚きの色が現れる。
「アムセルのワブル…さん?"七冊の詩の子"の著者のワブルさんですか?」
 ワブルに興味を持ったように聞き返すソフィスタを、メシアは弁当の中身を減らしながら横目で見て、他人への関心が薄いソフィスタにしては珍しい行動であると思った。
「ええ、そうです。あなたは、アーネス魔法アカデミーのソフィスタさんですね。君の研究には私も興味があります。会えて嬉しいよ」
「こちらこそ、お会いできて光栄です。アムセルの考古学の権威である、あなたの著書、興味深く拝読させて頂きました」
「おやおや、ご丁寧にありがとう。舞台"詩の子"の脚本に関わった身としては、私の本を読んでくれた子がヒロインを演じるなんて、なんだか嬉しいよ。あの本は、ここグレシアナ大陸では広まっていないのに」
「"魔力の王妃"と"証の神"の歌の作曲にも携わったそうですね。あの歌には、あなたの"詩の子"への見解が、確かに反映されています」
「ありゃ、分かってしまいますか。"七冊の詩の子"を、しっかり読んでくれているのですね」
 ソフィスタとワブルは会話を弾ませるが、メシアには、二人が"詩の子"の話をしているということしか分からず、会話の半分くらいは理解できなかった。
 弁当を平らげ、温かいお茶で口の中を漱いでからも、二人の会話に割り込めず黙っていたが、急にワブルに声をかけられた。
「ところで、そちらの緑色の彼…団長さんから名前を聞いたんだけれど、メシア君ですね?君は、出身はどちらですか?」
 何の前触れもなく名前を呼ばれたため、少し驚きはしたが、すぐに落ち着いてメシアは答えた。
「海も山も越えた、遠く離れた地である。これ以上は答えられぬ」
「答えられない?…そうかい。名前からして、聖地アムセルあたり出身かと思ったんだがねえ…」
 かつて恐ろしい呪いから世界を救ったとされるヘロデ王国の聖なる王の名前も、メシアであったことを、ソフィスタは知っている。
 広くはマーシャスという仮の名前で知られており、本名メシアのほうで聖なる王を呼ぶ者は、少なくともソフィスタの周囲にはいなかった。
 しかし、ヘロデ王国がある聖地アムセルの考古学者であるワブルなら、聖なる王の本名を知っていてもおかしくはない。だから、この緑色のトカゲ男もメシアという名前であることを聞き、聖地アムセル出身と予想したのかもしれない。
 しかし当のメシアは、こんなことをワブルに尋ねた。
「何だ、その…聖地アムセルとは」
「えっ、知らないのかい?」
 メシアが聖地アムセルを知らないことに、ワブルは目を丸くして驚く。
 人間の社会では、子供の頃に学校に通っていた者であれば、聖地アムセルが人類発祥の地であることを、間違いなく習う。学校に通わなくても、多くの子供が親から話を聞かされるものである。
 人間とは離れて暮らしている種族でも、言葉が通じる種族であれば、ほとんどが聖地アムセルを知っている。それほど、世間では常識なことであるため、アーネス魔法アカデミーで改めて学ぶことも無い。ソフィスタの監視と言う名目で授業に参加していながらも、メシアがアムセルについて知る機会は全く無かった。
「メシアは知らなかったっけ?西のトルシエラ大陸にある、人類発祥の地とされている場所だよ」
 ソフィスタは、メシアが世界地図というものの存在に驚き、アーネスがあるグレシアナ大陸の名前すらも知らなかった様子を、彼と出会った四日後に見ていたので、今更驚きもせず、さらっと説明する。
「そうか。…ところで、七冊の詩の子とは、何のことだ?何が七冊あるのだ」
 ソフィスタとワブルの会話を隣で聞いていて、気になったことを、メシアはソフィスタに尋ねた。
「…あ〜、八百年ほど前に、物語"詩の子"が書かれた古い本が、トルシエラ大陸の幾つかの図書館で発見されたって、以前話したよね。覚えている?」
「ああ、覚えておる」
「発見されている本は、今のところは五冊。だけど、まだ発見されていない本が、もう二冊あるはずなんだ。つまり、物語"詩の子"の原本は、七冊あるということなんだよ」
「なぜ、七冊あると分かるのだ?」
「原本をよく読むと、そう推測できる箇所があるんだよ。なぜ、そう推測できたのか。そして、なぜ"詩の子"の物語が作られたのか。それらについてのワブルさんの考察をまとめた本の題名が、"七冊の詩の子"だ」
 ソフィスタは、そう説明するが、一度聞いただけではいまいち理解できなかったメシアは、「そうか…」と唸るように呟いた。
「私の考察ってほどじゃないよ。昔から、"詩の子"を調べている人は多くいます。その人たちの、様々な考察をまとめ、そこに自分の考えも加えたような本だよ。今まで、まとまった資料が無かったから、"詩の子"に関心がある人には重宝されているみたいだけれどね」
 ワブルは笑いながら、そう謙遜すが、過去に"詩の子"について調べていた者が残した資料の中には、時代が古くて解読困難なものや、矛盾し合っている考察もある。それらを上手く文章にまとめるのに、どれほどの労力を要するかは計り知れない。
 ワブルが笑って話すほど、"七冊の詩の子"が出版に至るまでの努力や苦労は、決して軽いものではないと、ソフィスタは考えていた。
「"詩の子"が七冊あるって推測だって、ずっと昔からあるものだよ。…あと二冊…"魔力の王"と"記録の神"の書が見つかれば、"詩の子"にある多くの謎が解けるかもしれないのになあ…」
 ワブルは、深くため息をついく。
 ソフィスタも「そうですね…」と小さく呟いた。一方メシアは、きょとんとした顔でワブルを見ている。
「…"記録の神"?誰だ、それは」
 "詩の子"に登場する主要人物は、全て"力の神"や"魔力の王"といった、肩書きのような呼び方で表現されている。ワブルが言う"記録の神"も、"詩の子"に登場する神のことを示しているのだろう。
 だが、"記録の神"と呼ばれる神は、舞台"詩の子"には登場していないはずだ。台本の暗記にまだ自信が持てていないメシアでも、それだけは確かと言える。
「ああ、"記録の神"は、原本には登場しているんだけど、フェザーブーツ劇団演じる舞台では、都合によって省かれているからね。"記録の神"は、"証の神"の親友で…」
 原本を知るソフィスタは、メシアに"記録の神"について説明してやろうとしたが、途中で止め、首を横に振った。
「いや、せっかく台本を暗記できてきたんだから、余計なことまで覚えないほうがいいよ。台本には無いものを下手に覚えると、わけがわからなくなりそうだから」
 ソフィスタにそう言われ、メシアは「そうか…」と残念そうに項垂れる。その様子が、なんだか可哀想に見えたソフィスタは、彼の背中を宥めるように軽く叩いた。
「…代役の務めが終わったら、ラゼアンへ向かう旅の道すがらにでも話してあげようか?ヒュブロを出てから、馬車で丸一日はかかるから、気になったことは何でも説明してあげるよ」
 それを聞いて、メシアは「そうか!」と表情を明るくし、ソフィスタの手を取った。
 メシアに急に手を握られた上に、こうも嬉しそうな顔をされると、ソフィスタも嬉しくなって口の端が緩みそうになる。メシアへの恋心は認めたが、まだ彼とは今の関係を続けたいソフィスタは、気持ちを悟られまいと顔を逸らし、手をさりげなく振りほどいた。
「それより、食器がテーブルに置かれたままだぞ。片付けてこいよ」
 照れを誤魔化すために、ついぶっきらぼうな言い方をしてしまったが、メシアは特に気にもせず、「そうであった」と立ち上がった。
「茶を飲み終わったのなら、その器も持っていくぞ」
 メシアは使用済みの食器を重ねて持ちながら、ソフィスタとワブルが使っているカップを目線で指し示した。ワブルが「じゃあ、お願いします」と空のカップをメシアに差し出すと、二人の間に座るソフィスタが、それを受け取り、自分が使っていたカップと重ねてメシアに渡した。
 メシアは、食器を抱え、部屋の隅に置いてある台車のもとへと向かう。劇団員たちが使い終わった食器は、まとめて台車に乗せて給湯室に運ぶことになっている。
「…人間から見て、ちょっと怖い外見だが、真面目そうな良い子ですね。ここへ来る前、団長さんと話をしていたんだが、メシア君のことを褒めていましたよ。運動神経は良いし、根性が据わっているとね」
 ワブルは、離れていくメシアの背中を眺めながら、穏やかな声で話した。
 今日の午前の稽古中、まだまだ動きが素人丸出しのメシアに、団長は何度も厳しい声を飛ばしていた。それがプロの役者の世界とは言え、心が折れかけたメシアを可哀想に思い、ソフィスタは心の中で団長を責めていたが、ワブルの話を聞いて、少し考えを改めた。
「本番では、どんな演技を見せてくれるのか楽しみだよ。…地下神殿の調査のついでに、舞台を見に来たつもりだが、調査は打ち切りになってしまったから、ヒュブロにいる間は、こちらへちょくちょく顔を出そうかなあ」
 ワブルの言葉に、ソフィスタは「地下神殿?」と聞き返す。
「そう。王都から少し離れた場所にある、地下神殿の調査に来ていたんです。考古学者仲間に誘われて、"詩の子"の舞台が公演される日も近いから、いいかなと思ってね。だが、神殿が崩れて、私の他にも怪我人が出たし、発掘調査のリーダーだった若い女性が特に重傷を負い、頭も打って意識不明になってしまったので、調査は打ち切りになったんですよ」
 ワブルが話す地下神殿というものに、ソフィスタは察しがついた。王都ヒュブロから少し距離があり、考古学者が調査に入りそうな神殿と言えば、一つしか思い当たらない。
「あの、竜を祀った神殿ですか?五百年ほど前に建てられ、そこで竜の神に供物を捧げていたという…。私も御堂を見に行ったことはありますが…崩れてしまったんですか?」
 地下神殿は、ヒュブロの観光地の一つとされており、一般の者でも入ることが可能であった。森の中の、分かりにくい場所に入口があり、人工の階段を下った先に御堂がある。
 ソフィスタが行った時には、森に入る前から案内板があり、スムーズに入口へと向かうことができた。しかし、御堂の中までは一般の者は入ることができず、手前に設けられている柵の隙間から内部を覗うことしかできなかった。
 神の存在を研究テーマとしているソフィスタは、いつかは御堂に入り、中をしっかりと調べてみたいと思っていた。
「ああ。そのリーダーの女性が、御堂の奥で罠を作動させてしまったらしく、そのせいで重傷を負い、神殿も崩れてしまったのです。…あの神殿には、まだ解明できていない謎も残っていたから、私も興味があったのになあ…」
 残念そうに話すワブルの気持ちが、ソフィスタにもよく分かった。神の存在の有無を示す手がかりがあったかもしれない貴重な資料が失われたという知らせは、ソフィスタにとっても衝撃的であった。
「でもまあ、私もこうして怪我は負ったけれど、死者が出なかったことは幸運だったと思わないとな。エルフの彼も、命がけで彼女を外へ運んだわけだし」
 お菓子を食べながら話を続けるワブルは、今度は先程とは違う意味で衝撃を受ける単語を口にした。
 ソフィスタが「エルフの彼」と聞いて、まず思い出すのは、ここ王都ヒュブロへ来る途中に遭遇した、二刀流の剣士ユドである。
 メシアの種族、ネスタジェセルを駆逐することがエルフの掟であると語ったユドは、メシアを本気で殺そうとし、重傷を負って凶暴化したメシアに両腕をへし折られ、ソフィスタに「エルフを敵に回したことを後悔させてやる」と吐き捨てて去っていった。
 あれから、他のエルフに会うことも、エルフがヒュブロにいるという話を聞くことも無かったが、警戒していなかったわけではない。
「…エルフの男がいたんですか?珍しいですね。発掘調査に参加していたんですか?」
 エルフに関する情報は、可能な限りは得たい。そう思って、ソフィスタは雑談を装ってワブルに尋ねた。
「ああ。そのリーダーだった女性の助手として調査に同行していたんです。古い遺跡とかには、侵入者を排除するための魔法のトラップが仕掛けられていることが多いから、発掘調査の際は、エルフの男をボディーガードも兼ねて助手とする決まりになっているんです。彼らは強くて頼りになるし、なんか私たちに協力的なんですよ」
 なんとなく察していたが、ワブルはお喋りが好きなようだ。ソフィスタが聞いてもいないことを、勝手にベラベラと喋ってくれる。
 確かに、大きな遺跡などには魔法による罠がしかけられていることが多いとは、ソフィスタも聞いたことがある。しかし、その対策としてエルフを雇う決まりになっていることは、初耳であった。
 エルフの男は強い。それに寿命も人間に比べて遥かに長いので、経験を積んだ者が長くボディーガードとして現役でいられるというメリットもある。
 しかしワブルの話しぶりだと、遺跡の発掘調査に限り、エルフ全体が協力的であるように聞こえる。
 エルフの男であれば、護衛や傭兵の仕事くらい、いくらでも転がり込んでくるであろうに。しかし、そういった仕事にエルフが関わったという話を、ソフィスタは聞いたことが無い。
 考えすぎだろうかと思いつつも、ソフィスタはワブルの話を聞く。
「それにしても、エルフって奇抜な格好の人が多いんだよね。そのエルフも、普段からヘルメットを被っているみたいだし…。背は低いけれど、顔は悪いほうじゃないのに…残念なファッションだったなあ」
 ソフィスタが聞き出そうとするまでもなく、ワブルはベラベラと喋り続け、そのエルフの特徴まで教えてくれた。
 顔の良し悪しは気にしていなかったが、背が低くてヘルメットを被った残念なファッションの男というイメージは、ソフィスタがユドに抱いたイメージと一致している。
 …でも、メシアに腕をへし折られたことは知らないみたいだね。この人が怪我を負ったのは、あたしたちがユドに会う以前か。
 ユドに会ったのは、ソフィスタとメシアがヒュブロへ向かっていた途中。彼は、各地を巡って気ままに旅をし、ヒュブロの近くからアーネスへ歩いて向かう途中だと語った。
 しかし、ヒュブロ近くの地下神殿で発掘調査に関わっていたという話はしていなかった。そもそも、雇い主が意識不明の重体というのに、放って一人で旅に出て良いものだろうか。
「その重傷を負った女性は、まだ意識が戻らないのですか?」
 怪我をした女性を気遣っているように、ソフィスタはワブルに尋ねる。
「おそらくな。手当はしたのだが、このままでは意識が戻らないかもしれないと言って、エルフの彼が彼女を運んでいったよ。エルフの国にいる、エルフの女性の治癒能力があれば、意識も回復するだろうってね」
「エルフの国へ?そうですか…」
 エルフたちは、遥か北にある島に国を築き、多くがそこで暮らしている。
 人間が島に立ち入ることはできるが、長く滞在することや住むことは許されておらず、人間との結婚も、寿命に差がありすぎるという理由で、エルフ側は認めていない。
 国自体が狭く、これといった観光地でも無いので、好んで島に入る人間も少なく、物資のやりとりくらいしか人間とは交流が無い、閉鎖的な国であると、ソフィスタは学んだことがある。
 しかし、ユドは一人でアーネスへ向かっていた。女性をエルフの国へ送ってからアーネスへ向かうには、陸路と海路を合わせ、三ヵ月はかかる。転送の魔法が使えるのなら話は変わるが、そんな長距離に及ぶ転送の魔法を使えるほど、ユドには魔法力は無かったはずだ。
 他に移動の手段でもあるのだろうか。とにかく不審な行動が多いユドについて、ソフィスタはワブルから聞き出したいことはまだまだあったが、ワブルは「そろそろ、おいとましないと」と言って、テーブルに立て掛けておいた松葉杖を取った。
 ソフィスタも、もうそろそろ稽古を再開する時間なので、やむなく話を聞き出すことは諦め、立ち上がろうとするワブルを手伝おうとしたが、「立ち上がるくらい、一人でも大丈夫ですよ」と、やんわりと断られた。
「それじゃあ、稽古、頑張って下さいね。メシア君にもよろしくね」
 ワブルはにっこりと笑って、そう言うと、他の劇団員たちとも挨拶を交わしながら、松葉杖をついて去っていった。
 …せっかく考古学の権威に会えたってのに、"詩の子"について、そんなに話を聞けなかったな。また話せる機会があればいいけれど…。でも、エルフに関する情報は、かなりの収穫があったと考えていいだろう。
 遺跡の発掘調査などに、なぜエルフが協力的なのかは分からないが、そういった作業が行われそうな場所にはエルフがいる可能性があるということだ。それは、ソフィスタとメシアにとって、とても有益な情報である。
 …このことは、メシアにも話しておこう。今は舞台の稽古に集中してもらいたいから、話すなら舞台が終わってからかな。
 ユドには、ソフィスタとメシアがヒュブロを経由してラゼアンに向かっていることは話していない。ユドがアーネスへ向かったのなら、知り合いであるタギを頼るかもしれないが、タギがメシアに協力的なのであれば、メシアの居場所をユドに教えないだろう。
 もしタギが手の平を返したり、ユドがタギに情報を吐かせたり、他にソフィスタたちの居場所を知る人間が情報を漏らしたとしても、あのユドの怪我では、当分は仕返しに来ないはずだ。
 ユドが他のエルフにメシアのことを伝えたとしても、まさかフェザーブーツ劇団と一緒にいるとは思うまい。
 …絶対に安全とは言い切れないけどね。エルフに見つかる危険性については、舞台が終わったら、一度ちゃんとメシアと話し合おう。
 ソフィスタは、ふうっと一息ついて、椅子の背もたれに体重を預けると、その体勢のまま、メシアが戻ってくるのを待った。


 *

「きみとーわーたーしーが〜ここにーいーるーいみを〜…三歩下がって、ここでソフィスタの腕を引き寄せ、右回り…」
 多目的会館の二階、今は舞台用の大道具の倉庫として使われている部屋で、メシアは一人、踊りの練習をしていた。
 他の劇団員は既に就寝しており、メシアも先程までは彼らと同じ部屋で眠りにつこうとしていたのだが、日中の稽古で上手くできなかった踊りが気になって寝付けず、寝巻のまま、この場所で踊りの練習を始めたのだった。
 壁際には大道具が並べられているが、窓は遮られておらず、そこから月明かりが頼りなげに差し込んでいる。
 一人で踊りの練習をするぶんには問題の無い程度に空きスペースが設けられているし、劇団員たちが眠っている部屋からも遠いので、物音を立てても多少声を出しても、劇団員を起こしてしまう心配は無いだろう。
 稽古の時より声を出し、少々音程がずれた歌を歌いながら、メシアは膝を着いて両腕を広げ、天井を仰ぐ。
「それが〜あーかーし〜だーと〜…っと、これでいいはずだ。歌詞も合っているはず…」
 メシアは立ち上がり、窓の近くの床に置いてある台本を拾いに向かった。しかし、ふと気配を感じて立ち止まる。
 何者かが近づいてくる。じっと窓を見つめたまま、その場で警戒して立っていると、視線の先に影が現れ、部屋に差し込む月明かりが半分ほど遮られた。
「あ、いたいた!こんばんは、メシア!」
 窓の向こうに現れ、親しげにメシアの名を呼んだのは、人に隼が混じったような姿の少年であった。
 浅黒い肌、金色の瞳、頬には網目の模様、尖った耳、長い黒髪、両腕は隼の翼。そしてメシアの戦士の装束に似た柄の衣装。予想だにしていなかった、その少年との再会に、メシアは声を上げて驚く。
「ホーク!いや、ホルス?」
「そうそう。ホークじゃなくて、ホルス。覚えていてくれて嬉しいよ」
 窓ガラス越しに、にっこりと笑う少年は、校長の帽子を奪い、返して欲しければ港町ラゼアンへ来いと言ってメシアとソフィスタをアーネスから旅立たせた、ホルスであった。
 メシアのことを知り、メシアの故郷では神官服とされる衣装をまとった、謎の多い少年。だが、実に親しそうな声と笑顔に、メシアは警戒を解いてしまう。
「ホルス、なぜここへ?ラゼアンへ向かったのではなかったのか?」
「行ったよ〜ラゼアンへ。そんでラゼアンでメシアが来るのを待っていたよ〜。でも遅いから、気になって様子を見に来ちゃったんだ。…それより、ココを開けてくれる?壁のへりに立つの、しんどいんだよ」
 ホルスは翼で窓ガラスを叩き、メシアにそう頼んだ。窓には鍵が掛かっており、外からでは開けられない。
 メシアの様子が気になって来るにしても、なぜ居場所が分かったのか疑問に思っても良かったはずだが、ソフィスタのように疑い深くもなく、どうもホルスを警戒できないメシアは、二階は関係者以外立ち入り禁止であることも忘れ、窓に近づいて開錠してしまった。
 ホルスが翼を羽ばたかせて窓から離れると、ガラス戸が外側へ開かれる。ホルスはメシアに「ありがとう」と礼を言って部屋に入り、鳥と同じ形の足で床に降り立った。
「そうそう、アーネス魔法アカデミーの校長の帽子なら、ラゼアンへ置いてきちゃったよ。ソフィスタに見つかったら、力尽くで取り上げてくるだろうからね。…いつまでにラゼアンへ来いとは言わなかったから、来るのが遅くてもいいけどさあ、なに寄り道してんの?この部屋にある変な物は何?」
 ホルスはキョロキョロと部屋を見回し、近くの床に置かれている台本に気付くと、それを翼で器用に拾った。
「ねえ、これは何?メシアの本?…"詩の子"?」
 ホルスは台本の表紙に記されている文字を読み上げると、「あ〜」と納得するように頷いた。
「"詩の子"の台本だね。この物語はボクも知っているよ。じゃあ、この部屋にあるのは舞台の大道具ってところだね。へ〜、舞台の台本なんて、初めて見たよ」
 ホルスが台本を、羽を使ってパラパラと捲り始める。そこでメシアは、ホルスが来る前まで踊りを練習し、台本を確認しようとしていたことを思い出した。
「それは、私が使っている台本である。返してはくれぬか」
「メシアの?そうなんだ。でも、使っているって、どういうこと?」
 ホルスは素直にメシアに台本を返しながら、そう尋ねてきた。
「今、私とソフィスタは、"詩の子"の芝居の稽古をしているのだ」
 メシアはホルスに、フェザーブーツ劇団で芝居の稽古をすることになった事情を説明した。
 説明が終わると、ホルスは苦笑する。
「アハハ…大変そうだね。でも、メシアが"証の神"を演じることになるなんて、何の因果かな…」
 ホルスの言う「因果」とはどういうことなのか、メシアは気になったが、ホルスが喋り続けるので、尋ねられなかった。
「でもボク、この物語は好きじゃないんだ。"魔力の王妃"と"証の神"の悲恋だなんて、悲しくも美しい物語のように呼ばれているけれど…」
 そう語るホルスの金色の瞳に、怒りの炎がちらついたことに、メシアは気付いた。ホルスは、それを隠すようにメシアに背を向ける。
「この物語は、人間が神をたくさん殺め、居場所を奪った物語なんだよ。神も怪物を作りだして、居場所を取り返そうとしたけれど、そんな殺し合いに心を痛めた"証の神"が怪物を止めたのに、人間は"証の神"を…騙して殺したんだ!世界を創造した神への感謝も忘れた、傲慢で悪辣な人間が、最後は世界の支配者となるなんて、許せない!まったく、嫌な物語さ!」
 ホルスは肩を震わせ、荒々しく語った。まるで、人間に恨みでもあるような言い方である。
 しかし、"詩の子"の物語の中で、確かに人間は神を貶め、殺害している。最初に神の力を手に入れた人間が、その力を与えた神を殺害することから始まり、それから数十年経った場面で登場する"証の神"も、多くの仲間が人間に殺されたと、"魔力の王妃"に語っており、その"証の神"も、ホルスの言う通り人間に騙されて殺害される。
 信心深いメシアにとっては、とても信じられない話である。ソフィスタには、あくまで架空の世界の話だと何度も諭され、怪我をさせてしまった劇団員の代役を果たすべく稽古に集中してきたが、人間が神に仇なす物語を演じることに抵抗が無かったわけではない。もし、怪我を負った劇団員が、"証の神"を騙して殺害した"魔力の王"の役を担っていたら、メシアは代役を務める気にはなれなかっただろう。
「…ホルスの言う通りかもしれぬ…」
 メシアはポツリと呟き、それが聞こえたホルスは、メシアを振り返り「でしょっ?」と笑う。
「だが、嫌な物語と決めつけることは、私にはできぬ」
 ソフィスタから聞いた話を、メシアは思い出していた。
 二千年以上前、その時代を生きた人間が書き残し、千二百年ほどを経てから世に出された、架空の物語。それが"詩の子"であると、ソフィスタはメシアに説明した。
 作者は不明だの、何者かが図書館に置いて回っただの、他にも不思議な点は多いが、おそらくそれは、"詩の子"を作った者が、この物語を通じて後世に伝えたい何かがあったから、あえて不思議な点を作って注目されようとしたのかもしれないと、メシアは考える。
 もし、人間が神を、もしくは人間にとって神に等しい者を貶めた事実があり、それを伝えるために物語が作られたのであれば、人間と神が恋に落ちる話など加えなくてもよかったのではないか。人間の残虐性を主張したければ、"魔力の王妃"と"証の神"のように、敵である者同士が恋に落ちた事例があっても、物語には反映させないはずではないか。
 だが"詩の子"は、"魔力の王妃"と"証の神"の恋を中心に描いている。
 人間と神。対立してしまった二つの存在。それでも互いに想い合うことができた者たちがいた。"詩の子"の作者は、それを伝えたかったのではないだろうか。
 推測にすぎないが、それでも"詩の子"には、作った者の切実な願いが込められていると、メシアは信じたかった。
 今まで出会った、心優しい人間たち。ケンカもするが、互いに助け合ってきたソフィスタの存在。彼女たちの温かな心を知っているからこそ、メシアは人間そのものを憎みたくはなかった。
「"詩の子"は、相成れぬ存在同士でも心を通わせ、想い合うことができるということを、後世へ伝えるために残された物語であると、私は信じたい…」
 メシアの、その言葉を聞いたホルスは、しばし沈黙の間を置いてから口を開いた。
「…メシアは優しいね。最期まで人間を信じた"証の神"のようだよ。…でも、それだけじゃダメなんだ…」
 ホルスは悲しそうに微笑み、金色の瞳を涙で潤ませた。
 なぜ、そんな表情をするのかと、メシアはホルスに尋ねようとしたが、先にホルスが涙を拭って語り始めた。
「そう、それじゃダメだ。舞台を成功させるには、もっと練習を積まなきゃダメなんだ!よーし、ボクもメシアに協力してあげるね!」
 先ほどまでの悲しげな表情は、どこへ消えたのか。瞳にはまだ涙が残っているが、ホルスは明るく笑って、メシアの両手を台本ごと翼で包んだ。
「え、いや…しかし、お前は"詩の子"が嫌いなのではなかったか?」
「嫌いだよ。でも、メシアは舞台を成功させたいんだろう?ボクはメシアの味方だって、前に言ったよね。だから協力するのっ」
 怒っていると思ったら、悲しげな顔を見せ、今度は明るく笑う。コロコロと変わるホルスの態度に、メシアは戸惑わされる。
「…協力してくれるのは、ありがたいが、なぜお前は、私の味方なのだ?確かに、お前の衣装はネスタジェセルの神官のものであるが…」
「まあまあ。そんなことより、今は舞台の稽古に集中しようよ。さっきまで踊りの練習をしていたんだっけ。じゃあ、次は歌の練習だ!楽譜は無いの?演奏があるほうがいいよね。楽器も無いの?探して持ってくるから、ちょっと待っててね!」
 ホルスは勝手に話を進め、部屋の外へ出て行こうと走り出した。
「ま・待てホルス!歌の練習は必要無いのだ!」
 部屋の出入り口のドアを開いたところで、ホルスはメシアに呼び止められ、立ち止まる。
「歌わないの?どうして?」
 ホルスはメシアを振り返り、無邪気な顔でそう尋ねる。
「私は歌が下手なので、歌も言葉も、声に出すのは他の者に任せることになっておるのだ。そのぶん、演技や踊りの稽古に時間を費やしておる」
 ホルスに歩み寄りながら、メシアが説明すると、ホルスは翼を腰に当てて怒りだした。
「何だよソレ!歌が下手だなんて、そんなの練習させてもらっていないからじゃないの?練習しなきゃ、誰だって下手なままに決まってるじゃん!なのに、メシアは歌が下手だって決めつけて練習を諦めるなんて、人間は失礼だなー!」
「だが、私は演技や踊りも下手なのだ。任せられるものは他の者に任せたほうが、そのぶん効率良い稽古を…」
「ダメダメ!人間なんかに見下されて、悔しくないの?こうなったら、ボクと秘密の特訓を始めよう!本番で上手に歌って、人間たちを見返してやるんだ!メシアだって、舞台本番でソフィスタと一緒に歌いたくないの?」
 劇団員たちに見下されているとも、見返してやりたいともメシアは思っていないが、ソフィスタと一緒に歌いたいという気持ちは確かにあり、今日の昼、それを彼女に話したばかりであった。
 ホルスに心を見透かされ、メシアは言葉を詰まらせる。その様子を見て、ホルスはニヤリと笑う。
「大丈夫。歌も演技も踊りも、ボクが上手にしてあげるよ。なんたってボクは、メシアを導く者だからね。じゃ、ちょっと待ってて!」
 その自信はどこから来ているのか。メシアを導くとはどういうことなのか。そして、楽器や楽譜をどこから持ってくるつもりなのか。メシアがそれを聞く間も与えず、ホルスは部屋を出て行ってしまった。
 訳が分からないまま、走り去るホルスを見送ることしかできなかったメシアは、やがてため息をついてドアを閉めた。
 …待っていろと言われても…すぐに戻って来られるのか?
 何にしても、今夜はまだ眠れそうにない。少し踊りを練習したら眠るつもりだったのに、強引に歌の練習まで始めることになってしまったようだ。
 自由奔放すぎるホルスの調子に振り回されていることを、メシアは自覚しつつも、ホルスに従い彼を待つことにした。
 メシアの稽古に付き合ってくれるということは、その間はホルスと一緒にいられるということだ。その間に、謎の多い彼のことを知る機会があるかもしれない。
 そう考え、メシアは歌の練習も決意し、ホルスが戻ってくるのを待っている間は台本を読み返そうと考え、月明かりを求めて窓辺へ近づいた。

 こうして、日中はソフィスタと劇団員たちと共に演技や踊りの稽古、夜はホルスの指導の下で歌の稽古という、さらにハードになった日々をメシアは送ったが、自分でも驚くほどの体力と精神力で乗り切った。
 しかし、ホルスのことをよく知りたいと思って彼との特訓を始めたのに、練習に熱中しすぎて、それ以外のことを話す機会は、ろくに無かった。


  (続く)


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