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ありのままのメシア 第十二話


   ・第五章 開幕

 フェザーブーツ劇団による舞台"詩の子"の公演初日が、ついにやってきた。
 公演期間は、約一ヶ月。週に二日か三日ほど休みを挟みながら、午前と午後に一回ずつ公演する予定となっている。
 初日である今日は、日が暮れる頃に始まる午後の公演のみで、明日と明後日は休み。一日二回の公演が始まるのは、明々後日からである。
 公演初日の前日、ソフィスタとメシアは劇団員たちと共に、劇場でリハーサルを行った。今回の舞台で演奏を務める王宮楽士団員を揃え、背景用の大道具を舞台に配置し、舞台衣装も身に纏い、観客がいない以外は本番さながらの練習であった。
 ソフィスタもメシアも、最初から最後まで台本通りに演じきることができた。元々は二人に主演の代役を本気で務めさせる気は無かったのに、ティノー王子の余計なお世話で追い込まれたことで、仕方なく代役を任せることにした団長と劇団員たちだったが、これまでの二人の頑張りと、リハーサルでの演技を見て、この二人になら代役を任せられそうだと信頼するようになった。
 ソフィスタとしては、知り合いも含む大勢の人間の前で、悲恋の物語のヒロインを演じるなど、信頼されてもやりたくないのだが、代役は無理と判断されて公演が中止となり、賠償金を払わされるよりはマシだと自分に言い聞かせた。
 こうして、公演初日の朝も早くから、ソフィスタとメシアと劇団員たちは、多目的会館から劇場へと移動し、舞台道具や衣装の確認、そしてまたリハーサルを行うなど、忙しく動き回っていた。
 公演開始の時刻が近づき、観客たちが劇場の前に集まり始めても、その様子を見に行く暇も無かった。
 ティノーとアズバンも舞台を見に来るはずなので、公演が始まる前に会えないものかとメシアは考えていたが、ソフィスタに「少なくともアズバン先生となら、舞台が終わったら会う予定なんだ。今は舞台に集中したほうがいい」と諭され、それもそうだと納得した。

 観客の入場が始まった頃、舞台衣装に着替え終えたソフィスタとメシア、そして劇団員たちは、劇場内にある控室に集合した。ちなみにメシアは、赤い髪の人間に姿を変えている。
 劇団員たちの中には、本来の"魔力の王妃"役と"証の神"役の男女もいる。ソフィスタとメシアによって負わされた怪我は、ほぼ治り、昨日のうちに退院したが、舞台に復帰するのは明々後日からになるそうだ。
 ソフィスタとメシアが"魔力の王妃"と"証の神"の代役を務めるのは、今日だけで済みそうだと、ソフィスタは安心したが、それはそうと、控室の入口近くに立つ団長が、劇団員たちを見回してから「みんな、よくお聞き!」と声を上げた。
「今日は公演初日。この舞台が成功するか否かで、今後のお客様の入場率が決まります。王都ヒュブロはテロリストの件で観光客が減り、それ以前の活気を、まだ取り戻せていません。今こそ、我々フェザーブーツ劇団をごひいきにして下さるヒュブロ王国に、ご恩返しする時です!我々の力でヒュブロを盛り上げましょう!!」
 団長の激励に、劇団員たちとメシアは腕を振り上げて「おーっ!!」と気合の入った声で答えた。
 冷めた性格のソフィスタは、その熱気についていけなかったが、周囲に倣って腕だけ振り上げておいた。
 "魔力の王妃"の役として用意された赤いドレスを纏い、銀色に輝くティアラや首飾りを身につけ、眼鏡はかけず、化粧を施されているソフィスタの姿は、実に美しく、肩にセタとルコスが乗っていなければ、正にお姫様のようであった。
 もっとも、アクセサリーは全て、本物の銀や宝石など使っていないが。銀色に輝いて見えるのは、木製の素材に施された塗装によるものであり、宝石もガラス製である。
 しかし、ティノー王子が用意すると言ってよこしたドレスの素材は、なかなか高価なものであった。ヒュブロのセレブ御用達の有名ブランドによるオーダーメイドで、王の権力で無理やり注文をねじ込み、公演までの短い期間内に仕立てさせた代物に、物の価値がよく分からないメシア以外は、どん引きする思いであった。
 同じくメシアの"証の神"の衣装も、アクセサリー以外は、どん引きのオーダーメイドである。
 白を基調とし、金色の詩集が施されたローブで、メシアが着てもゆったりとするサイズに作られているため、彼の筋肉はすっかり隠されていた。
 頭に巻いたターバンに尖った耳を収め、赤い長髪はローブの内側に垂らしている。いつも左手に付けている紅玉は、その髪を結っている紐に巻き込んで固定されていた。
 顔立ちが聖なる王に似ているメシアは、立派な衣装を身に纏わせると、外見だけでは無く雰囲気まで王様のように感じられる。そう、ソフィスタは思った。
 そんなメシアの手を、子役の女の子リーミンがちゃっかりと握りつつも、団長の話を真面目に聞いている。
「今日の舞台に限り、特別版と銘打って宣伝してあります。今日を楽しみにしていらしたお客様が、多くいらっしゃることでしょう。その期待を裏切らない演技を、皆さんにお願いします。おわかり!!」
 再び劇団員たちは「おーっ!」と答えるが、その声はまばらで、先ほどより力がこもっていない。それに不満を感じた団長が、「もう一度聞きます。おわかり!!」と怒鳴ると、劇団員たちは今度こそ力を込めて「おーっ!!」声を揃えた。しかし皆、納得のいかない顔をしている。
 その理由を、ソフィスタは薄々と察した。団長は「特別版と銘打って宣伝してある」と言ったが、その情報を、ソフィスタは得ていない。おそらく劇団員たちにも伝えられていなかったのかもしれない。
 ずっとやる気満々で返事をしているのは、メシアだけであった。バカっぽく見えるが、本番を前にして緊張している様子は見られないので、その点にはソフィスタは安心する。
「それでは、間もなく開幕となりますので、各々スタンバイして下さい。解散!」
 そう言って団長は、さっさと控室から出て行った。彼の後を、数名の劇団員が慌てて追い、残る劇団員たちは、すぐには舞台へと移動せず、ざわつき始める。
「あのう、特別版とは、どういうことですか?」
 ソフィスタは、近くにいた劇団員に尋ねた。
「えっ?…たぶん、今回は劇団員じゃない君たちが主演を務めるし、魔法による演出も加えるから、特別版ってことにされたんじゃないかなあ」
 確かに、今までのフェザーブーツ劇団の演目"詩の子"の台本には無かった、ソフィスタの魔法による演出が、今回は組み込まれており、本番に向けて何度も練習してきた。
 しかし、それを特別版と銘打って宣伝するのはともかく、そうやって宣伝されていたことを、やはり劇団員たちも知らなかったのだろうか。
「皆さんも、特別版と銘打って宣伝されていたことを、知らなかったんですか?」
「いや、それは二日前から配布され始めた宣伝用のチラシに書いてあったから、知っているよ」
 確かに、今回の舞台の宣伝用のチラシを配布したと、団長が二日前に話していた。しかしソフィスタは、チラシなど見ている暇があるなら台本を読むほどメシアと共に稽古に取り組んでいたので、チラシの内容を気にしたことすら無かった。
「でも、何がどう特別版なのか、具体的な説明が無かったんだよね。団長に聞いても、はぐらかされたそうだし、団長の様子も何かおかしいし、みんな少し不安がっているようだ」
 劇団員の話を聞き、ソフィスタは、ここ数日の団長の様子を思い浮かべるが、特におかしいと思ったことは無かった。しかし、団長と付き合いの長い劇団員にしか気付けない違和感というものがあるのだろう。
「どんな具合に様子がおかしかったんですか?」
「…俺が見たわけじゃないけど、三日か四日くらい前から、団長が夜中に一人で外へ出て行くようになったんだ。たまたま見かけた劇団員が、どこへ行くのかと聞いても、教えてくれなかったそうだ。他にも、何か隠し事をしているみたいだし…」
「団長は、普段は隠し事はしないんですか?」
「そういうわけじゃないよ。たまに、劇団員にはナイショで舞台に変な仕掛けを施して、それに対する俺たちの素の反応を観客に楽しんでもらったり、役者のアドリブ力を試したりしているよ。…でも、それとは違う何かを隠しているような雰囲気があるんだよなあ…」
 ソフィスタは「そうですか…」と呟き、俯いた。
 いったい、団長は何が特別版のつもりで宣伝したのだろうか。しかし、それ以上に、劇団員が話す団長の不審な行動が気になる。
「おい、ソフィスタ。もう準備をせねば、舞台を始められんぞ」
 メシアがソフィスタの腕を掴み、そう声をかけてきた。顔を上げると、ほとんどの劇団員たちは既に控室から姿を消していた。開幕の準備へ向かったのだろう。
「やばっ!遅れたらシャレにならないよ!!」
 ソフィスタと話をしていた劇団員も、メシアの声を聞いて、慌てて控室から出て行った。
 いろいろ気になることは多いが、それより今は舞台に集中しなければいけないのだ。それを思い出し、ソフィスタはメシアに「そうだね」と頷いた。
「うむ!お互い頑張ろうな、ソフィスタ!」
 メシアは力強い笑みを見せると、ソフィスタの腕を掴んだまま走り出した。
「ち・ちょっと!引っ張るなって!!そんな早く走るな!!」
 そう文句を言いつつも、ソフィスタはメシアの笑顔を脳裏に焼き付け、腕から伝わるメシアの手の感触と体温を、しっかりと感じ取っていた。


 *

 舞台の正面に広がる観客席は、一階と二階に分かれており、二階は特等席扱いになっていた。二階席は、壁で幾つかに区切られ、特に豪華な中央のスペースで、ティノー王子は席に着いており、彼の周囲には近衛兵らが控えていた。
 演奏を務める王宮楽士団たちは、各々が担当する楽器を手にし、舞台のすぐ手前のスペースで構えていた。
 客席と舞台を仕切る分厚い幕…緞帳が下りている状態の舞台に、まず団長が現れて観客たちに挨拶の言葉を述べ、次に二階席からティノーの言葉があり、それが終わると、舞台と二階席を照らしているもの以外の照明が落とされた。
 客席は静まり返り、それから間もなく、弦楽器の音色が響き始めた。
 ゆっくりと奏でられる二重奏。優しくも情熱を秘めた二つの音色は、愛を囁き合う一組の男女を連想させる。
 これから始まるのは、"魔力の王妃"と"証の神"の恋を描いた物語。その序幕には、この舞台"詩の子"の主題歌とされている、"魔力の王妃"と"証の神"による二重唱が入る。今、奏でられていものこそが、その曲なのである。
 つまりソフィスタは、初っ端から舞台に出てメシアと共に、愛の二重唱を歌う恋人を演じるのだ。それも、ティノー王子や、一般の客席にいるであろうアズバンも含めた大勢の前で。
 舞台袖で出番を待っているソフィスタは、ゆっくりと上がり始めた緞帳の裏側を、げんなりとした顔で見つめ、「帰りたい…」と呟いた。
 緞帳のこちら側は、真上にある照明によって照らされているので、ソフィスタとは反対側の舞台袖にいるメシアの姿も見えるが、眼鏡をかけていないソフィスタでは、彼の表情までは分からない。
 緞帳が上がるにつれ、既に舞台に並べられていた背景用の大道具が、その様子を観客たちに明らかにしていく。
 背景は舞台の中央で景色が分かれており、客席から向かって右側の背景は城、左側は森となっていた。ソフィスタがいるのは、城側の舞台袖である。
 間もなく緞帳が上がりきる。"魔力の王妃"と"証の神"の歌は、まず"魔力の王妃"から歌い始めるのだが、緞帳が上がりきったタイミングで、曲は"魔力の王妃"の歌に差し掛かる。そこで、"魔力の王妃"役が舞台に登場するのだ。
 アーネス魔法アカデミーで、大勢の前で魔法生物の研究開発の成功を発表したり、ノーヴェル賞受賞式典でステージに立ったりと、大勢の前に立つことには慣れているソフィスタだが、これほどの前で本格的な歌や踊り、演技を披露するのは初めてである。他人に関心が無く、神経の図太いソフィスタも、さすがに緊張を覚えた。
 しかし時間は止まってくれない。一つ深呼吸をし、腹をくくると、歌の出だしに合わせて舞台へと踏み出し、観客たちの前に姿を現した。
 その外見の美しさと、気品ありながら哀愁を漂わせる仕草と表情に、観客たちはため息を漏らした。
 ソフィスタは歌いながら、舞台の中央へと向かって、ゆっくりと進む。

 ほら 私の手を引いて その胸へと抱き寄せて
 まだ 心は すれ違うけれど
 この想い 届けたい
 あなたへ

 そこまで歌ったところで、ソフィスタは立ち止った。
 入れ替わるように、反対側の舞台袖からメシアが姿を現し、ソフィスタと同じように舞台を進み始めた。
 歩きながらメシアは口を動かし、それに合わせて、背景の裏に隠れている"証の神"の声を担当する劇団員が歌声を響かせる。

 ほら 君の手を掴んで この胸へと抱き寄せたい
 今 言葉には できないけれど
 いつだって 想っている
 君だけを

 歌っているように見せかけているメシアの動きに合わせ、"証の神"の声役の劇団員も背景の裏側を移動しているので、観客たちの耳には違和感が少ないはずだ。しかし、ソフィスタはメシアの声を知っているし、この位置からでは、声がメシアから離れた場所から響いていることが、意識して聞けば分かる。
 その違和感を気にしないよう努め、ソフィスタは再び歩き出す。ソフィスタとメシアは、互いに歩み寄っていく形となる。
 そして、"魔力の王妃"と"証の神"は、時には共に、時には語り合うように交互に歌い、その情熱的な歌声と仕草で、見る者の心を熱くさせた。

 けど 二人 出会えたことが はるか彼方で この夢を

 叶えるなら

 描くなら

 刻み付けよう ここにある幸せを 消えないように

 ソフィスタとメシアは、舞台の中央まで来ると、優しい微笑みを浮かべて見つめ合い、手を取り合った。
 王宮楽士団の友人に、舞台に近い席を手配してもらったアズバンが、普段のソフィスタとメシアでは有り得ない様子に身を乗り出していたが、視力が良くないソフィスタと、自分の演技でいっぱいいっぱいのメシアには知る由も無かった。
 メシアの手は普段より熱く、小さく震えている。緊張していることは明らかであった。
 台本通りに表情を作ってはいるのだが、間近で見ると硬く、ソフィスタを見つめる瞳は微かに泳いでいた。舞台に立つ前までは緊張していなかったのに、いざ舞台に立つと、観客の多さに気後れしてしまったのだろうか。
 このままでは、何かヘマをしでかすのではないかと、ソフィスタは不安を覚えるが、まだ歌は終わっていない。すぐに、次の歌詞と動作へ移らねばならないのだ。
 二人は観客席を向いて、より高らかにソフィスタは歌い、メシアもそれっぽく口を動かした。

 未来を 物語を綴る筆に

 思い乗せ

 命に記した 二人の愛

 祈りを まだ明けない空へ捧げ

 目を閉じる

 重ねた手に残る 二人の温もりが
 再び 巡り合えると

 信じている

 歌はここで終わり、王宮楽士団が奏でる音色は、悲しげなものへと変わった。ソフィスタとメシアは、手を取り合ったまま体を寄せ合う。
 ここまでは台本通りにできている。メシアは緊張しながらも、どうにか演技をこなしているが、一部の観客や、舞台袖からこちらの様子を窺っている劇団員は、メシアの硬い動作に気付いているかもしれない。
 ソフィスタはメシアの胸に額を預け、「メシア」と彼の名を囁いた。その声に、メシアの指がぴくっと動いて反応を示す。
「大丈夫。台本通りにできている」
 観客席から口の動きが見えないよう気を配りながら、ソフィスタは小さい声でメシアに話す。
「今日の午後の稽古でも、ちゃんとできていたんだ。自信を持っていい。もし失敗しても、あたしが何とかしてやる。他の役者たちだって助けてくれる」
 今回の舞台は、特別版と銘打って宣伝されているのだ。もし台本通りにできなくても、周囲のフォロー次第で誤魔化すことができるかもしれない。
 だからと言って、台本通りにやらなくてもいいわけではないが、メシアの緊張がほぐれるよう、ソフィスタは言葉を選んで彼を励ましたつもりだ。
 メシアを見上げると、メシアはソフィスタを真っ直ぐと見つめて、柔らかく微笑んでいた。
 ソフィスタの不安も和らぎ、メシアから体を離して微笑んだ。台本でも、ここは互いに微笑み見つめ合う場面なのだが、二人の自然な表情は、舞台袖にいる劇団員たちを感心させた。
 ソフィスタは名残惜しそうにメシアの手を離し、もといた舞台袖へ歩き出した。すると、背景の城と森も、中央から左右に分かれて舞台袖へと移動を始めた。
 背景用の舞台道具の裏には車輪が取り付けられており、劇団員が裏から押すことで、背景は移動するのだった。
 背景より先に舞台袖に入ったソフィスタは、観客席からは見えない位置であることを確認すると、両手を壁に着いて俯き、深く息を吐き出した。
 …はあ…どうにか堪えられた…。
 メシアと見つめ合ったり、体を寄せ合った時、胸の高鳴りを抑えるべく、ソフィスタはメシアを意識すまいと必死であった。
 ひとまず、最初の出番が終わって気が抜け、心臓が思い出したかのように激しく脈打ち始める。しかし、物語の主役、"魔力の王妃"の役であるソフィスタが舞台で活躍を見せるのは、まだまだこれからなのだ。"魔力の王妃"と"証の神"が体を寄せ合う場面など、もっと情熱的なものが後半にはある。
 …いつまでも動揺しているわけにはいかない!この後も、すぐに出番が来るんだ!
 今やるべきことに集中する。避けられないことに頭を悩ませても無駄。自身の合理的な性格を前面に出し、二、三度ほど深呼吸をして鼓動を落ち着かせると、ソフィスタは近くにあるハンガーに掛けられている白い衣装を引っ掴んだ。
 一方、城と森の背景は完全に舞台袖に引っ込められ、後ろに隠されていた背景の全貌が明らかとなった。
 まるで神殿の内装のような造りの背景で、舞台の左側には豪華な見た目の寝台が置かれ、その上には一人の獣人族の少年が横たわっている。
 中央に立つメシアの、二歩ほど後ろの所の床には、"証の神"の衣装と同じデザインのマントと、羽飾りがあしらわれた冠が置かれている。今まで、森の背景によって隠されていたのだった。
 メシアはマントと冠を拾い、身につけると、観客席に向かって語るように口を動かし始めた。
「時は古代。多くの神々が地上に存在していた時代」
 メシアは今、語り部として舞台に立ち、観客たちに物語の世界観を説明していた。声を発しているのは、背景の裏にいる劇団員だが。
「ある時、悪しき心を持つ神が作り出した呪いにより、清き神も悪しき神も、多くが命を失った。呪いを受けるも生きながらえた、我が弟"力の神"は、呪いを受けずに生き残った神々と共に、この神聖なる地に住まい、神々が創造せし世界を管理し続けた。しかし、呪いは弟の体を徐々に蝕んでいった」
 ここで説明は終わり、流れていた曲も、ピアノのソロで締めくくられた。メシアは寝台を振り返り、そこに横たわる少年を、心配そうに見つめる。
「我が兄"大地の神"よ。そこにいるのですか?」
 寝台に横たわる少年が両手を伸ばし、弱々しく宙を掻く。動作が弱々しい割には、ハッキリとしてよく通る声を出すが、離れた席にいる客まで声を届けるには、ひそひそと話す者を演じようが、虫の息の者を演じようが、声を大きくせざるを得ないのだ。
 メシアは少年に近づき、心配そうに顔を覗き込む。
「もはや私は、立ち上がることすらままなりません。私が命を落とす日も、そう遠くはないでしょう。神たる力を持ちながら、なぜ私は、この呪いに苦しめられているのでしょう」
 そう嘆く少年の手を、メシアは握りしめ、口を動かした。
「"力の神"よ。かわいそうな弟よ。私は神々の王でありながら、その呪いを消し去ることができない。なんと無力なことか」
 マントを羽織り、冠をターバンの上から被った時から、メシアは"証の神"ではなく、"大地の神"の役として舞台に立っていた。冠とマントは、その二役を演じ分けるための道具である。
 そして、寝台に横たわっている少年こそが、"大地の神"の弟である"力の神"の役であった。
「せめて、お前のためにできることはないだろうか。苦しむ弟の姿を、ただ見ているだけなど耐えられぬ」
 "大地の神"の言葉を聞き、"力の神"は、ゆっくりと上半身を起こし、メシアの肩を掴んだ。
「ならば我が兄よ。この聖域にて神々に仕える人間の男の中で、最も魔法力が高い者を、私のもとへ呼んで下さい」
 そんな"力の神"の願いの意図を疑う様子も見せず、メシアは素直に頷き、ソフィスタが隠れている舞台袖を振り返った。
 白い法衣のような衣装を身に纏い、次の出番を待っていたソフィスタは、メシアに手招きをされると、しずしずと歩いて舞台に姿を現した。
 この時点でソフィスタが演じている少女は、まだ"魔力の王妃"と呼ばれておらず、そんな肩書に合う立場でも無い。ソフィスタはメシアのもとまで来ると跪き、「神々の王よ、ご用をお申し付けください」と頭を垂れた。
「この聖域にて、我々に仕える人間の男の中で最も魔法力が高い者を、ここへ連れてきてはくれまいか」
 "大地の神"に、そう頼まれたソフィスタは、「仰せのままに」と答えて立ち上がり、舞台袖へと戻った。その様子を見送ってから、メシアは"力の神"へと視線を戻す。
「あの少女は、今存在する人間の中では、最も魔法力が高い。ここへ連れて来られる人間の男の魔法力も、彼女には及ばないでしょう。そして、あなたを心から崇拝している。あなたは、実に良いしもべをお持ちだ」
 皮肉めいた言い方をする"力の神"に、メシアは気分を害されたような顔を作りつつも、"力の神"の体をそっと支え、寝台に横たわらせてやりながら口を動かす。
「身よりも無く、独りであったあの子を、しもべにするつもりで引き取ったのではない。私は、あの子を実の娘のように思い、父親のように接しているつもりだ」
「そうですか。しかし、彼女は立場をわきまえ、神々の王たるあなたに畏まっておりましたな。それに、あなたには実の娘がいる」
 メシアは、悲しそうなものへと表情を変え、"力の神"の手を取って話を聞き続ける。
「呪いによって、未熟な体のままである私は、妻を取ることも、子を成すことも生すこともできません。このままでは、私は何も残せないまま死にゆくことでしょう。このままでは…何も…」
 メシアは、じっと"力の神"を見つめて話を聞いていたが、ソフィスタが一人の人間の男を連れて舞台に姿を現したことに気付くと、"力の神"の手を離し、ソフィスタに歩み寄った。
 ソフィスタと男は、その場で立ち止まって跪く。
「仰せの通り、魔法力の高い人間の男を連れてまいりました」
 そう告げたソフィスタの前で、メシアは腰をかがめ、背景の裏から響く「ありがとう」という優しい声に合わせて口を動かした。
「おお、人間の娘よ、よくぞ連れてきてくれた!さあ、人間の男よ。私の傍へ来て、顔をよく見せなさい」
 "力の神"は声を弾ませ、急かすように腕を動かす。男は「はい」と頷いて立ち上がり、寝台に近づく。その間、ソフィスタはメシアに身振りで促され、立ち上がった。
 "力の神"の傍まで来た男は、「失礼致します。これでよろしいでしょうか」と、寝台に身を乗り出して、"力の神"に顔を近付けた。
 すると、突然"力の神"が男の頭を両手で荒々しく掴んだ。男は悲鳴を上げ、メシアは驚いた顔でそちらを振り返り、口を動かす。
「何をしている!!」
 メシアは寝台に駆け寄ろうとしたが、"力の神"から手を放された男が、よろめきながら寝台から離れ、頭を抱えて床に蹲ったので、メシアは男に駆け寄り、彼の肩に手を添える。ソフィスタは、その場で立ち尽くしていた。
「"力の神"よ!いったい何をしたのだ!!」
 "大地の神"の厳しい声に対し、"力の神"は淡々と答える。
「私の神たる力を全て、その人間に授けました。その人間は、人間の肉体でありながら神の力を持ち、そして私の意志を継ぐ、私の分身となるのです」
 "大地の神"は「なぜ、そのようなことを?」と"力の神"に問う。
「私は、このままでは何も残せないまま死にゆくと、お話したでしょう。この弱りきった肉体は、もはや役に立たない。だから、その人間に私の力と意志を授けたのです。私が何かを残すためには、こうするしかなかったのです。その人間が持つ魔法力も、私のために役立つことでしょう」
「だがっ…!この人間自身の意志はどうなる?彼にも、自らが望む生き方があるだろう」
 人間の男の自由を尊重する"大地の神"の言葉は、"力の神"を逆上させた。"力の神"は寝台に腕を叩きつけ、悲痛な声を上げる。
「あなたは私に、何も残せないまま死ねと言うのですか!!地位にも妻子にも恵まれたあなたに、私の気持ちが分かるものか!」
 涙ながら叫ぶ"力の神"の姿に、メシアは言葉を失ったように俯いた。
「…ふっ…ふははは…はははははっ」
 ふいに、人間の男が肩を震わせて笑い出した。メシアが戸惑った顔で男の肩から手を離すと、彼はゆらりと立ち上がった。
「なんと光栄な…!"力の神"よ!あなたは私をお選びになった!あなたの強大な力が、崇高な意志が、私の中にある!!神が私に与えて下さった!!」
 男は恍惚とした笑みを浮かべ、そして大げさな身振りで喜びを表しながら、再び寝台に近付いた。
 "力の神"も喜び、狂ったように笑う。メシアとソフィスタは、ただ呆然と二人を眺めていた。
「はははは!!そうだとも!お前は私の意志を継ぎ、私の力を以って偉業を成すのだ!私に選ばれたことを誇るがいい!」
 "力の神"は、震える手を男へ伸ばした。すると、男の笑顔が邪悪なものへと変わり、"力の神"が伸ばした腕を右手で掴んだ。
 "力の神"が、それに驚かされる間も無く、男は左手を振り上げた。その袖口から、ゼリー状の銀色の物体が現れた。
 その正体は、男の衣装の中に潜んでいたセタであった。セタは"力の神"の上で楔の形を取り、男が左腕を振り下ろすと、その切っ先を"力の神"の胸に突き立てた。
 観客には、楔が少年の体を貫き、沈み込んでいくように見えるが、実はセタは、少年の衣装の胸付近の隙間から中に入り込み、体を細く伸ばして、少年の腕を掴む男の腕の袖口へと移動していた。セタが移動する際の衣装の揺れは、少年が体を小刻みに動かしてごまかしている。
 フェザーブーツ劇団演じる"詩の子"では、人間の男が衣装の中に隠している布や紐を駆使して"力の神"を魔法で殺害する場面を演じるのだが、今回、魔法が使えるソフィスタと、伸縮自在のセタとルコスがいるので、せっかくだからと団長が演出を考え、この場面ではルコスが使われることとなったのだ。
 いつもと違う、フェザーブーツ劇団の演出に、静かだった観客席がどよめいた。
 セタが人間の男の衣装の袖へと体を移動させる終わると、男は"力の神"の腕を離した。"力の神"は、両腕を寝台から垂らし、動かなくなる。
「なんてことを!!"力の神よ"!」
 "大地の神"の悲鳴が上がり、メシアは"力の神"に駆け寄ろうとしたが、今度は人間の男はメシアに向けて手をかざし、その袖から勢いよく体を伸ばしたセタがメシアの腹を強く打った。
 セタの動きは速く、メシアの腹を打った際、大きな音が上がった。並の人間なら後ろへ吹っ飛ばされるほどの威力だが、鍛え抜かれたメシアの体にとっては、大した衝撃では無かった。しかし、ここは"大地の神"が、人間の男の魔法を受けて倒れる場面なので、メシアは自ら床を蹴って後ろへ跳び、背中から倒れた。
 セタは、"力の神"の時と同じように、メシアの衣装の隙間から中に入って体を隠す。
「"大地の神"よ!!」
 ソフィスタは、腹を抱えて蹲るメシアに駆け寄り、彼の背中に手を添えた。
 人間の男は、寝台を蹴り倒してから、ソフィスタとメシアの前に立ち、二人を見下ろした。
「素晴らしい…今の私には、人間の魔法力と、神たる力がある。神々よ!かつての呪いの死にぞこないどもよ!自らの創造物に過ぎないと世界を見下し、支配し続ける時代は、今を以って終わりとしよう!貴様らは消え去り、世界は我ら人間のものになるのだ!!」
 人間の男が、そう言い放った直後、低いピアノの音が入り、おどろおどろしい曲が流れ始めた。
「何を言っているの?"大地の神"は世界を見下してなんかいない!バカなまねはやめて!」
 ソフィスタはメシアを庇うように、彼の体に腕を回し、人間の男を睨みつけた。怒りと恐怖が入り混じったような表情を作ってはいるが、思いっきりメシアの体に胸を押し当てている、この状態から、早く解放されたい気持ちでいっぱいであった。
 メシアも苦しそうな表情で男を見上げる。男はソフィスタとメシアを、冷ややかな目で見下ろしていた。
「娘よ。そんなものは、お前の勝手な思い込みだ。"大地の神"は、我々人間を、そして"力の神"ですら見下していた。全てに恵まれていた兄は、全てに見放された弟を、哀れだ可哀想だと下に見て、優越感に浸っていたのではないか?私に受け継がれた"力の神"の意志には、そんな兄に味わわされた惨めな気持ちと、強い怒りで満ちている!!」
 男はメシアの胸ぐらを右手で掴み、強く引いた。ソフィスタは「やめて!!」と叫び、男の腕を振り払おうとしたが、男がソフィスタに向けて左手をかざすと、突風が生じ、ソフィスタは弾かれるように後ろに飛ばされた。
 もちろん、これはソフィスタが放った魔法である。少女の体が吹っ飛ぶほどの威力も無く、ソフィスタの倒れ方も、よく見るとわざとらしかったが、前髪を揺らす程度の風が客席に及び、観客たちは驚いていた。
 男は、倒れたソフィスタを一瞥し、メシアを睨む。その間、メシアの衣装の中に隠れていたセタは、メシアの胸ぐらを掴む男の腕の袖口へと移動した。
「口では優しい言葉を並べておきながら、本当は弟を見放していたのだろう!この偽善者が!!」
 メシアは男に突き飛ばされ、床に背中を打った。男は倒れたメシアに向けて両手をかざす。
 すると、体を槍のように細長く伸ばしたセタが、男の袖口からメシアの胸を目がけて飛び出した。"力の神"の時と同じように、メシアの胸を貫くと見せかけて衣装の中に潜り込み、さらに脇腹を通って背中から先端を出し、槍が"大地の神"の体を貫通したかのように見せかけたる。
 観客席からでも、よく見れば衣装が破られていないことに気付くだろうし、血も出ていないので、メシアの体が傷つけられていないことは明らかである。血に見せかけた液体を使い、よりリアルに見せることもできるのだが、そういった生々しい演出は、フェザーブーツ劇団では控えられているそうだ。
 しかし、目を大きく見開いて体を痙攣させているメシアの演技は、寝る間も惜しんで練習してきただけあって、よくできているとソフィスタは思った。
 プロの役者から見れば、まだまだ拙いかもしれない。ソフィスタの魔法やセタを使った演出は、その見た目の派手さで客の目を引き、ソフィスタとメシアの経験不足な演技を誤魔化す役割も兼ねていた。
 やがて、悲しげな顔を見せたのを最後に、メシアは目を閉じ、セタをくっつけたまま動かなくなる。
 メシアが演じる"大地の神"は、ここで絶命するので、あとは序幕が終わるのを動かずに待つのだが、くしゃみや咳などをしたら台無しになるし、呼吸による胸の上下も極力抑えたりと、まだ気は抜けない。
「"大地の神"!!"大地の神"よ!!」
 床に倒れたまま、ソフィスタは悲鳴を上げた。メシアに向けて腕を伸ばすが、そこに人間の男が立ちはだかった。
「目を覚ませ、娘よ。どうやら、お前も強い魔法力を持っているようだな。かつての呪いにより、神々は衰退した。我々人間の魔法力、そして私の神たる力があれば、王を失った神々など、恐るるに足らず。我ら強き人間こそが、この世界を総べるのだ。さあ、お前も私に力を貸すがいい」
 そう言って、人間の男はソフィスタに手を差し伸べた。しかしソフィスタは、怯えたように体を震わせ、首を小さく横に振る。
「いや!いや!"大地の神"!!"大地の神"!!いやあぁぁ!!」
 そう叫びながら、ソフィスタは頭を抱えて蹲った。すると、ソフィスタの衣装の裾から、体を薄く伸ばしたルコスが現れ、ドーム状になってソフィスタを包み込んだ。人間の男は、それに驚くように後ろへ跳ね、尻もちをつく。
 ルコスは青いゼリー状の体を、岩のように角ばらせる。薄く伸ばすことで半透明となっているルコスの体の内側で、ソフィスタは頭を抱えて蹲った体勢のまま動きを止めていた。
「な…なんだ、何が起こった!!」
 人間の男はルコスの体に触れる。
 この場面では、後に"魔力の王妃"と呼ばれるようになる少女が我を失って魔法力を暴走させ、自ら出現させた氷の中で眠りについてしまうのだ。舞台を既に見たり、"詩の子"の原本を呼んだことがある観客なら、ルコスが氷を模していることに気付くだろう。
 しかし、何も知らない者が今のルコスを見ても、氷を模しているとは思わないかもしれない。今までのフェザーブーツ劇団演じる"詩の子"でも、明らかに氷では無い不透明な水色の布を用いていた。
 なので、人間の男は「魔法力の暴走で出現した氷に、自ら閉じ込められてしまったのか…」と独り言のように説明した。叩くように見せかけたり、両手をかざして何かを念じるような演技で、その氷の硬さや魔法の強力さを示す。
「くそっ!なぜ我が力を以っても、この氷を破ることができない!!」
 人間の男は悔しがり、地団太を踏む。しばらく、ルコスを睨みつけて呼吸を荒げていたが、やがて一つ息をつき、ニヤリと笑った。
「…まあいい。その氷の中で、文字通り頭を冷やすんだな。いつか、その氷が解け、お前が目覚めた時…そこは神の存在しない世界となっているだろう!!」
 凍り付いた人間は氷が解ければ復活できるという設定をねじ込んだセリフの後、男は高らかに声を上げて笑った。その笑い声は、金属製の打楽器が、破壊音にも似た音を唐突に響かせる同時に止まり、舞台を照らしていた照明も落とされた。
 二階席の灯りが気持ち程度に舞台に届く中、ゆっくりと緞帳が下ろされ、序幕の終わりを示すと、観客席から拍手と歓声が沸き起こった。それを聞くと、まだ舞台が終わったわけではないことは分かっているが、ソフィスタとメシアは役目を果たした気分になり、緊張が少しほぐれた。
 緞帳が完全に下ろされると、舞台の内側に照明が戻った。メシアは直ちに体を起こし、いつもの丸い形状に戻ったセタを肩に乗せながらソフィスタに駆け寄った。
「ど・ど・ど・どうであった、私の演技は!私の顔、変ではなかったか?」
 まるで、好意を寄せている男性の前で緊張しきっていた乙女のようなことを、メシアは言う。セタと同じく、丸い形状に戻ったルコスを肩に乗せたソフィスタは、近づいてきたメシアに苦笑いを見せ「大丈夫だったよ」と答える。まだ収まらない歓声と拍手からして、序幕は成功したと言えよう。
「そうか!上手くできて良かった!ええと、次の私の出番は、第三幕からであったな。"証の神"として出るのであったな!」
 緊張が抜けた反動か、メシアは興奮気味であった。客席に聞こえないよう、声量を抑える配慮はできているが。
 ソフィスタは肩を竦めて話す。
「ああ。だから落着け。第二幕もすぐに始まるんだから、次の出番までに気持ちを落ち着かせてきな。台本の確認も忘れるな」
 既に劇団員たちは、第二幕に備えて準備を進めている。てきぱきと動く彼らに倣えと、ソフィスタは視線でメシアに示す。
 第二幕は、氷の中で少女が目覚める場面から始まるので、ソフィスタとルコスは今の位置で待機し、第二幕が始まる頃には、ルコスは再び氷を模した形状になってソフィスタを覆うことになっている。
 しかしメシアは、第三幕まで出番は休み。次の出番までは舞台袖で台本を確認するよう、団長からも指示されていた。
「うむ、よし、分かった!次の出番までには落ち着こう!アズバンとティノーとホルスに、みっともない姿を見せるわけにはいかんからな!よーし!!」
 落ち着く気があるのか無いのか、早口でそう言うと、メシアは舞台袖へ向かおうとしたが、「待て!」とソフィスタに呼び止められた。
「何でホルスの名前が出てくるんだ?ホルスが客席にいるの?」
 ソフィスタに問われたメシアは、普通に「うむ」と頷いた。
「正確には、客席の後ろの壁に寄りかかっておった」
「なんだって!?あいつ、何であたしたちがここにいることを知ってるんだ!」
 薄暗い観客席の奥にいる者の姿を、舞台から目視で見分けるメシアの視力を、ソフィスタは今更疑いも持たなかった。
「さあ、それは分からぬが…。そういえば、数日前から夜はホルスに芝居の稽古に付き合ってもらっていたことを、ソフィスタに話していなかったな」
 ソフィスタにとって、さらに驚くべきことを、メシアは口にする。ソフィスタは、観客には聞こえない程度に「はあ!?」と声を上げ、メシアの衣装の袖を掴み、彼に詰め寄る。
「お前、なんでそんなことを黙っていたんだ!」
「黙っていたわけではない。話す機会も少なく、聞かれることもなかったので…」
「こらこら、"証の神"と"魔力の王妃"がイチャつく場面は、第三幕以降だよ。早く第二幕に備えなさい!」
 顔を近づけてヒソヒソ話すソフィスタとメシアの様子を誤解した劇団員に、そう注意され、ソフィスタはハッとしてメシアから離れた。
 "力の神"役の少年が横たわっていた寝台や、メシアが被っていた冠も舞台から片付けられており、第二幕の冒頭から出番がある劇団員たちが、既に舞台にスタンバイしていた。ソフィスタとメシアを注意したのは、その劇団員の内の一人である。
「…仕方ない。ホルスのことは後で詳しく話してくれ」
 ソフィスタに言われ、メシアは頷くと、セタと共に舞台袖へと去った。
 …ホルスが来ている?しかも、数日前からメシアの芝居の稽古に付き合っていたって…どういうつもりなんだ、あのガキ。
 メシアの話は信用している。ホルスのことをソフィスタに話さなかったのも、口止めされていたわけではなく、本当に話す機会が無かったからなのだろう。
 だが、言動も存在も謎が多いホルスのことは、全く信用していない。メシアの芝居の稽古に付き合っていたのも、何か企みがあってのことなのではないか。だからメシアのみと接触し、疑い深いソフィスタには接触してこなかったのかもしれない。
 …それにしたって、メシアのやつは、どうしてホルスを疑わないんだ?疑っていれば、あたしに相談していたかもしれないのに!
 メシアが騙されやすい性格であることは、ソフィスタも熟知している。しかし、素性を偽ったり、校長の帽子を奪ったりするような、正体不明の存在に対し、いくらメシアでも警戒心が薄すぎる。
 ソフィスタが知らないところで、ホルスはメシアの信頼を買うようなことでもしているのだろうか。
 …とにかく、それは後でメシアに聞くとして、まずは舞台を成功させることだ。
 ソフィスタは衣装を整え、序幕が終わる直前と同じ体勢を取った。
 ルコスも、指示される前に氷を模した形状を取る。それを確認すると、ソフィスタは頭の中で台本の内容を復唱しながら、第二幕の始まりを待った。


  (続く)


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