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ありのままのメシア 第十二話


   ・第六章 怒りの獣

 序幕が終わり、拍手に包まれたホールを後にしたホルスは、金色の箱のようなものを乗せた台車を押しながら、舞台裏へと向かって廊下を黙々と歩いていた。
 かつてホークという名でソフィスタとメシアに接触した時の、長い黒髪と浅黒い肌の人間の姿をしているが、服装はその時のものとは違い、礼装に近い小奇麗なものを身に着けている。
「やれやれ。メシアとソフィスタの演技は、なかなか面白かったけれど、ああも人間が充満している場所にいると、おかしくなりそうだよ。そう思わない?」
 ホルスは、台車に乗せた箱に話しかける。周囲には誰もおらず、劇団員たちの慌ただしい声や足音が廊下の奥からよく響いていた。
「それにしても、メシアがラゼアンに早く着きすぎないよう、せっかくキミを用意していたのに…無駄になっちゃうところだったよ」
 体を丸めれば大人一人は入りそうなほどの大きさはある箱は、ホルスに話しかけられても、何の反応も示さない。しかし、ホルスは楽しそうに話し続ける。
「…でも、こういう予想外の苦難も悪くないね。メシアとソフィスタには、もっともっと、力を合わせて苦難を乗り越えてもらわなきゃいけないんだから」
 話しながら歩いていると、廊下の奥の曲がり角から、大柄な獣人族の男が現れた。ホルスは、その姿に気付くと、ニヤリと笑って彼に駆け寄った。
 男は虚ろな目をしており、ホルスが押している台車が目の前で止まっても、ぼんやりと突っ立っている。そんな彼に、ホルスは箱を台車ごと差し出した。
「はい。ちょっとの間、この子を任せるよ」
 ホルスにそう言われ、男は頷くが、目の焦点が合っておらず、言われたことを理解しているのかいないのか、その表情からはとても読み取れない。そんな彼を無視して、ホルスは可愛がるように箱を撫でると、こう囁いた。
「いいかい、アメミット。団長の言う通りに動いて、ちゃんと使命を果たすんだよ」
 ホルスが台車から一歩離れると、獣人族の男…フェザーブーツ劇団の団長は、ホルスに背を向け、台車を押して舞台裏へと走った。


 *

 緞帳が上がり、舞台"詩の子"の第二幕が始まった。
 舞台の背景は、序幕の最後の場面と変わっておらず、ドーム状の氷を模したルコスの中にいるソフィスタも、蹲った体勢のまま待機していた。
 傍には五人の人間が立ち、ソフィスタを見下ろしている。特に目立っているのは、分厚いマントを羽織り、宝石をあしらった冠を被り、黄金の杖を握った男である。もちろん、素材は舞台用の安物だが、いかにも王様といった雰囲気を出している彼を演じているのは、序幕で神々を殺害した人間の役を務めた劇団員であった。
 他の四人は、見た目はそこそこ豪華なローブを纏っている。
 緞帳が完全に上がると、王様のような衣装の男は舞台のへりに立ち、観客席に向かって語り始めた。
「人が神に反乱を起こしてから、時は流れ、神々がいなくなった聖域には人間の王国が築かれ、かつて神の力を得た人間の子孫が、代々王となって国を統治していた」
 彼は、今は語り部として、第二幕の世界観を説明していた。
「しかし、神々は滅びたわけではない。どこかへ逃げ延びた神々は、聖域を奪還するべく、恐るべき強さを持つ怪物を生み出し、人間の国を何度も襲わせた。現国王である私は、誰よりも強大な魔法力を持つことから"魔力の王"と呼ばれ、かつて"力の神"が人間に与えた神たる力も受け継いでいたが、その力を以ってしても怪物を倒すことができず、かろうじて追い返すことはできるも、その度に国は大きな被害を被った。一方、怪物は攻め入る度に強くなり、人々は、いつ怪物が襲ってくるか分からない不安な日々を強いられていた」
 "魔力の王"は、悔しそうに語っていたが、「だがっ!」と力強く言い放つと、客席側を向いたまま一歩後ろへ下がってから、全く動かず固まっているルコスに近づいた。
「聖域は、今や我々人間のものだ!我が国を、民の命を、神々に奪われてたまるものか!!…強力な魔法力を持ちながら、神に信奉した乙女よ。私に力を貸してくれ。世界は…時代は変わったのだ。もはや神は、人間の脅威でしかない。今こそ目を覚まし、共に国を守ろうぞ!」
 "魔力の王"は、ルコスに左手で軽く触れた。ルコスは体をゼリー状に戻し、触れた部分から氷が解けていくように縮ませ、蹲っているソフィスタの衣装の中に潜り込んで姿を隠した。
 ソフィスタは、ぐらりと体を横へ傾かせ、肩から床に倒れた。その風圧で、身に纏っている白い法衣のような衣装がはためく。
「うっ…うう…」
 うめき声を上げ、床の上に腕を彷徨わせるソフィスタの前で、"魔力の王"は腰を屈める。
「目が覚めたかい?さ、顔をよく見せておくれ」
 序幕で"大地の神"と"力の神"を殺害した人間と同じ役者が演じているとは思えないほど、"魔力の王"は穏やかに微笑み、ソフィスタに優しく声をかけた。
 ソフィスタは、その声に気付いて顔を上げた。そして"魔力の王"の姿を見るなり、「ひっ」と細い悲鳴を上げて体を起こした。
 ソフィスタが演じる少女にとって、慕っていた"大地の神"を殺害した人間と同じ顔が、目の前にあるのだ。"魔力の王"は、"大地の神"と"力の神"を殺害した人間と顔が似ている設定であり、そのため同じ劇団員が演じ分けることになっている。
 あの悪夢の続きと勘違いしている少女の怯える様子に気付いていないように、"魔力の王"は瞳を輝かせ、歓喜の声を上げた。
「おお、なんと美しい乙女よ!はるか昔に生まれ、不変のまま時を経て、この時代に蘇った、正に神秘の美貌だ!」
 舞台"詩の子"の観客として劇を楽しんでいた時は気にならなかったが、少女の姿を見て歓喜し、そう語る"魔力の王"は、なんと気持ち悪い男だろう。お芝居に過ぎないと分かっていながらも、ソフィスタは嫌悪感を覚えるが、怯え戸惑う少女の演技はしっかりと続けていた。
「私は"魔力の王"。この聖域から神々を追放し、人間の国を築いた者の子孫だ。しかし今、神々が生み出した怪物により、国は脅かされている。どうか、君の力を貸してほしい」
 "魔力の王"は、そう言ってソフィスタに手を差し伸べた。口調は優しく、表情も柔らかいが、ソフィスタは「やめて!」と叫び、首を横に振った。
「な・何をわけの分からないことを言っているの?あなたは…そう、"大地の神"を殺した!どうして、あんな恐ろしいことを!!」
 それを聞いてやっと、"魔力の王"は少女が怯えていることに気付いたようだ。"魔力の王"は、手を引っ込めて立ち上がる。
「そうか。君の記憶は、その時のままなんだね。取り乱すのも無理は無い」
 "魔力の王"はマントを翻し、ソフィスタに背を向けると、規則的な靴音を立てて舞台の中央へと進んだ。周囲に控えていた人間も、"魔力の王"の靴音に揃えて、その場で足踏みを始める。
「時代は変わった!!」
 舞台の中央で立ち止まった"魔力の王"は、両手を広げ、高らかに言い放った。すると、先ほどまでの靴音と同じリズムで、王宮楽士団によるバイオリンや打楽器の演奏が始まった。
「神の時代は終わった!今は人の時代!この私、"魔力の王"が世界を統べし時代!」
 音程は無いが、リズミカルな喋り方で、"魔力の王"はソフィスタに語る。
「人は家を建て、人は畑を広げ、子を成し、育み、人の国を築いた!そう、ここは聖なる地。今や人の国。神が住まう場所など、どこにもありはしない!だが、どこか遠くへ逃げ延びた神々は、聖域を取り戻さんと、怪物を使わした!奴は家を壊し、奴は畑を潰し、子を襲い、噛み殺し、人の国を滅ぼさんとする!」
 次の"魔力の王"のセリフからはメロディーが付き、演奏には管楽器が加わった。足踏みを続けていた人間は、床に膝を着き、"魔力の王"崇めるように両腕を伸ばして、コーラスとして歌に加わった。

 全ては民を守るため 人の未来のため
 人を脅かし傷つける神を 倒すのだ
 それこそが王の使命 そう 時代は変わったのだ
 神たる力を継ぎし 私の使命

 まるで、"魔力の王"の王たる自信と使命感を表現するような、堂々とした歌声と演奏である。ソフィスタは、ただ戸惑う演技を続けていたが、歌の区切りが良い所で、普通の喋り方で"魔力の王"に尋ねた。
「…時代は変わった?どういうことなの?あなたは、いったい何者なの?」
 演奏は続いているが、音量は控えられ、コーラスを務めていた四人の人間も、畏まるように黙って項垂れている。
「"大地の神"が死んだのは、五十年以上昔の話。君は長い間、氷の中で眠り続けていたんだよ。それを、私が目覚めさせた」
 普通の喋り方で答えながら、"魔力の王"は、特にリズムも定まっていない靴音を立ててソフィスタに歩み寄る。しかし、ソフィスタが肩を震わせて身をこわばらせると、その場で立ち止まった。
「怪物を倒すために、魔法力が高い君の力を借りようと考え、氷を解かして目覚めてもらったのだが…君はとても美しい。私の妃となることを許そう。力を合わせて怪物を倒した後には、何の不安も無い優雅な暮らしが、君を待っているのだよ」
 "魔力の王"は優しい声でソフィスタに告げるが、その口振りは一方的なものだった。"大地の神"を殺害した者と同じ顔の男に求婚を迫られた少女は、恐怖を煽られ、取り乱してしまう。
「い…いやぁ!!」
 ソフィスタは"魔力の王"に背を向け、慌てて立ち上がって逃げる演技をし、わざと足をもつれさせて転んだ。そこへ、項垂れていた四人の人間が駆け寄り、ソフィスタを取り押さえようとする。
「近寄らないで!!」
 そう叫んで、ソフィスタは演技しながら高めていた魔法力を解放し、周囲に光の膜を張った。
 物理的に力を加えられると軽く反発する、弱い防護結界である。ドーム状に張られたそれに触れた四人は、光に触れると、いかにも強く弾き返されたとばかりに体を後ろへ転ばせた。
「ほう、やはり君の力は素晴らしい」
 "魔力の王"は、少し驚いた顔をするが、この魔法による演出は何度も練習してきたものなので、今更ソフィスタの魔法に驚かされたわけではない。
「だが、魔法力は私のほうが上だ」
 倒れて呻いている四人の合間を縫って、"魔力の王"は防護結界に近付いた。そして、結界にギリギリ触れないよう手をかざすと、王宮楽士団の一人が、金属製の打楽器を一度打ち鳴らし、涼しげな音を響かせた。
 ソフィスタは、その音に合わせて防護結界を消し、"魔力の王"が魔法を解いたように見せる。"魔力の王"は、ふっと笑って手を引っ込めた。
「私は、魔法でなら君より強い。それでも、神々が生み出した怪物には手を焼いているのだ。このままでは、人間は怪物によって滅ぼされてしまう。もちろん、君も命を奪われるだろう」
 "魔力の王"が話している間に、倒れていた四人は体を起こし、立ち上がった。それを確認してから、"魔力の王"は再びリズミカルに喋り始めた。
「道は一つだけ!迷うまでもない!人が生き延びるためには戦わなければならん!君も同じこと。生き延びるためには、この運命を受け入れ、戦うしかないのだ!」

 全ては民を守るため 人の未来のため
 今 生きる人々が 力を合わせる時
 君も己が武器を持ちて 我らと共に戦おう
 それこそが 力を持つ人間の使命

 第二幕での"魔力の王"の歌は、ここで終わりとなる。音量を下げた演奏だけが続く中、抵抗を諦めたように項垂れたソフィスタを見下ろし、"魔力の王"は口を開く。
「…急に、こんな話をされ、混乱するのは分かる。君の部屋を用意するので、落ち着くまで休むといい。だが、あまり時間は無いぞ。怪物は、いつ襲ってくるか分からないのだから…」
 演奏は徐々に小さくなって収まり、ソフィスタは両手で顔を覆って泣き崩れる演技をする。
 状況を把握しきれておらず、"魔力の王"から逃れることもできず、慕っていた"大地の神"の死を思い知らされた少女の悲しみを、そのまま閉じ込めるように、緞帳が下ろされ始めた。
 緞帳が完全に下ろされるまで演技を続けているソフィスタと劇団員たちに、観客から拍手が送られる。
 …よし、第二幕は乗り切った。次は、第三幕だ!
 指の隙間から、緞帳が完全に下ろされた様子が見えると、ソフィスタは直ちに立ち上がり、衣装の中に隠れていたルコスを引っ張り出して肩に乗せた。そして、第三幕の準備を始める劇団員たちとすれ違いながら、舞台袖へと足早に進んだ。
「ソフィスタ!良い演技であったぞ!」
 そこには、赤い髪の人間姿のメシアが待ち構えており、近付いてきたソフィスタの手を取って、満面の笑顔で彼女を褒めた。
 自分より演技が下手な者に褒められても、そもそも演技力自体を褒められても、ソフィスタは嬉しくも何とも思わないが、相手がメシアであると話は変わる。メシアに笑顔と、素直な褒め言葉を向けられ、ソフィスタが僅かながら感じていた緊張がほぐれる。しかし、それを隠すべく、ソフィスタはメシアに厳しい態度を取った。
「声を抑えろバカ!すぐに第三幕が始まるんだから、ヘラヘラするんじゃない。ちゃんと準備はできているのか?」
 物語"詩の子"は、"魔力の王妃"と"証の神"の悲恋の物語。第三幕では二人が出会う場面があり、それはこの舞台の見せ場の一つでもある。
 見せ場でなければ気を抜いても良いわけではないが、盛り上がりを見せる場面は他以上に失敗は許されない。
「ああ、準備できているとも。いつでも、お前を助けに行くぞ!」
 "証の神"は、第三幕で"魔力の王妃"が怪物に襲われそうになった所に助けに入る形での登場となる。
 "大地の神"を演じていた時に身に着けていたマントと冠は、舞台袖の奥の長テーブルの上に畳んで置かれており、その傍にはセタがいる。メシアは"証の神"役として、既に衣装を整えており、やる気も満々のようだが、ソフィスタは「いつでも、じゃなくて、登場する場面になってから来い」と、呆れたようにメシアに言った。
「う・うむ、そうであるな。分かっているとも」
「分かっているなら、早く手を放せ。あたしも早く準備しなきゃいけないんだから」
 舞台袖でずっと第二幕の様子を見守り、劇団員たちの演技やソフィスタの頑張りに感動していたメシアは、興奮がなかなか冷めず、彼女の手を握ったままであることも忘れていたが、そう言われて思い出した。
「すまん!そうであった!」
「声を抑えろってば。じゃあ、ルコスはセタと一緒に、こっちで待機だ」
 両手を解放されたソフィスタは、ルコスをメシアの左肩に乗せた。次の幕でのセタとルコスの出番は無いが、こちら側の舞台袖で待機させることになっている。
「…しっかりやれよ、メシア」
 そうメシアに告げて、ソフィスタは反対側の舞台袖へと走りだした。足音は極力立てないよう、注意している。
 …あまり厳しいことを言うつもりは無かったんだけどな…。
 今になって気付いたが、ルコスをメシアがいる側の舞台袖へ移動させるのに、わざわざソフィスタがルコスを連れて行く必要は無かった。リハーサルでも、ルコスは自分で移動していた。
 なのに自然と足を運んでしまったのは、メシアが緊張していまいかと心配する気持ちと、メシアと会話をすることで自身の緊張をほぐしたいという気持ちがあったからだろう。
 メシアに手を握られ、メシアの声を聞いて、自分は緊張がほぐれたが、メシアにはこれといった励ましの言葉をかけてやれなかった。かろうじて「しっかりやれよ」と言葉を絞り出したが、言い方がそっけなく、自分でも励ましの言葉になっていなかったと思う。
 …ああもう!今更後悔したって遅いんだ!メシアがちゃんとやってくれることを信じて、あたしは自分の役目を果たすことに専念するしかない!!
 そんなモヤモヤとした気持ちを振り払おうと首を振るソフィスタの背中を見送っているメシアに、ソフィスタと入れ違いでこちらの舞台袖へやってきた劇団員が「羨ましいね〜」声をかけてきた。
「あの子に何て言われたんだ?ガンバレとか、励ましの言葉を貰ったんじゃない?」
 ニヤニヤと笑ってメシアを小突く、その劇団員は、序幕に登場した人間の男と、"魔力の王"の二役を演じている者であった。
 "魔力の王"は、後に"証の神"を処刑するので、メシアが演じる二役は、この劇団員が演じる二役に殺害されることになるのだ。しかし舞台の外では、歳が近いこともあって、男性の劇団員の中では誰よりもメシアと仲良くなっていた。
 メシアは、先程までのソフィスタとのやり取りを思い出す。
 彼女の態度はそっけなく、これといった励ましの言葉はかけられなかった。しかし緞帳が下ろされた時、こちらの舞台袖へ来る必要は無いのに真っ先に来てくれたことを、メシアはソフィスタの手を握る前から気付き、喜んでいた。
 序幕でのメシアの緊張ぶりが、あまりに酷かったから、気になって注意しに来ただけかもしれないが、それでもソフィスタと少し会話ができたことが、メシアにとってはじゅうぶん励みとなっていた。
「…言葉は無くとも、ソフィスタは私の励みとなってくれたのだ」
 メシアは、実に嬉しそうな笑顔を浮かべて、そう答えた。
 まるで、ソフィスタとの深い絆を示すような言葉に、深読みした劇団員は「ヒュー、熱いじゃ〜ん」とメシアをからかい、舞台袖の奥へと去って行った。メシアの肩から飛び降りたルコスも、セタのもとへと床を這って行った。
 メシアは「…熱い?何が?」と小首を傾げつつ、背景用の大道具を移動させている劇団員たちを手伝いに向かった。


 *

 上り始めた緞帳から覗く舞台の景色は、森の中を表すものへと変わっていた。
 演奏はまだ無く、舞台には人の姿も無かったが、緞帳が上がりきると、ドレス姿のソフィスタが舞台袖から現れた。
 第三幕の冒頭には、第二幕の最後の場面から数日が経過したことの説明が入る。ソフィスタは舞台のへりに立ち、語り部として観客席に向かって語り始めた。
「目覚めてから数日が経った。人間と神が争うこの世界の状況、そして、それが現実であることを、私はようやく理解できた」
 赤いドレスを身に纏い、銀色に塗装されたのティアラやネックレスを身に着けた、見た目は大人びて煌びやかな姿だが、寂しげな表情からは、悲観に暮れた少女の面影が覗える。
「私は"魔力の王"の妻とされ、"魔力の王妃"として人の国での地位を与えられた。神々が生み出したという怪物が襲ってくる気配は無く、怪物を恐れている人々のように危機感までは持てないまま、城の中で日々を過ごしていた。広く清潔な部屋をあてがわれ、服や食べる物も充分に与えられる、不自由の無い暮らし…」
 そこまで語ると、ソフィスタは俯き、首を横に振った。
「…だけど、私には自由の意味が分からなくなってしまった。変わってしまった景色。知っている人間がいない世界。心を許せる者は誰もおらず、触れられることすら拒んでしまう。"魔力の王"の妻になんて、なりたくなかった。でも、私は何になりたいのか、何になればいいのかも分からない。私は、生き方を見失ってしまった…」
 ここで演奏が始まり、悲しげな曲が流れる中、ソフィスタはへりに沿って歩き、舞台の中央へと進んだ。
「この森だけは、聖域で変わらず残っている。"大地の神"は、まだ幼かった私とここで遊んでくれた。私の心の拠り所は、この森に残る楽しい思い出の中だけ…」
 ソフィスタは舞台の背景を一度見渡すと、へりから二歩後ろへ下がり、曲に合わせて歌い始めた。

 何も分からないまま 全てが変わり
 心だけが 取り残された
 慈しむような あの優しい笑顔は
 色褪せること無く 覚えていのに

 時には見えない何かを探すように、時には誰かに語りかけるように、ゆっくりとした動作を加えながら、ソフィスタは歌う。
 歌声も動作も美しく、台本通りに完璧にこなしているソフィスタの演技を、目の肥えた観客や劇団員たちがどう感じているかは分からないが、演技の良し悪しは素人感覚でしか分からないメシアは、素直に声に聴き惚れ、動きに見惚れていた。
 だが、それ以上にメシアが凄いと感じているのは、たった一人で舞台に立っても、間違えることなく歌と動作をこなすソフィスタの度胸であった。序幕でガチガチに緊張していたメシアだからこそ、この劇場にいる誰よりも、それを強く感じていた。
 他人に興味関心が無いソフィスタだからこそ、メシアよりも視線を気にしていないからかもしれないが。

 思い出に縋り 目を閉じる
 目を開けば 知らない世界
 何度逃げても 込み上げる孤独
 自分の存在すら 霞んでゆく

 眠っている間に長い月日が流れてしまったことが、どれほど"魔力の王妃"を孤独にし、心を弱らせたかが、寂しげな曲と歌詞から伝わってくる。
 歌っているソフィスタの表情と動作も、そんな感情を表すもので、演技と分かっていても、メシアは胸を締め付けられる感覚を覚えた。
 だが、人と接している時のソフィスタは、この歌から読み取れる"魔力の王妃"の性格とはほとんど真逆である。
 心が強く、どんな時でも自分を見失わない。思い出に縋らず前を見据え、予測できない事態に陥っても立ち向かい、最善を尽くす。人間不信で人を寄せ付けないが、孤独と言うより孤高と呼ぶほうが相応しい。
 もしソフィスタが"魔力の王妃"と同じ境遇に置かれても、自分のやりたいこと、やるべきことを探し出し、それを成すためなら"魔力の王"にも立ち向かうだろう。そう考えてしまうほど、メシアはソフィスタの強さと賢さを、出会ってから一月の間に思い知らされてきた。
 …それがソフィスタの全てでは無いが…。

 私は誰なの? 誰になればいいの?
 どこへ行けばいいの? 愛する者は どこへ行ってしまったの?
 あの頃と変わらない空は ただ遠い
 そこへ行けば 私は帰れるの?

 歌を聞きながら、メシアは思い出していた。
 物心がつく前に両親を亡くしたことを語ったメシアに、ソフィスタは申し訳なさそうな顔を見せた。
 メシアがソフィスタを庇って怪我をした日の夜、ソフィスタは、余計なことに巻き込んだとメシアに謝り、庇ったことに礼を言ってくれた。
 ユドとの戦いの中で恐怖のあまり理性を失い、ユドの両腕をへし折るほど狂暴になっていたメシアから攻撃されかけても、ソフィスタはメシアから逃げ出さず、呼びかけてくれた。
 ソフィスタには、確かな優しさがある。それは、家族や友達の思いやりに触れ、それを愛しく感じることで得られるものだと、メシアは考えている。
 だからメシアは、心に壁を作って他者を寄せ付けまいとするソフィスタの態度が、無理をして強がっているように見えるのだ。
 本当は心から信頼できる誰かを求めているのに、何かがソフィスタを人間不信にし、寂しさを否定しようているのではないかと。
 以前、それをソフィスタに直接聞いたことがあるが、ソフィスタは否定していた。
 港町ラゼアンへ向かう旅が始まった時にも、過去に誰かに心を傷つけられたから人間不信になってしまったのではないかと尋ねたが、心底憎むような目でソフィスタに睨まれたため、追及できなくなってしまった。
 そのため、ソフィスタが他者を寄せ付けない態度を取る理由を、メシアは知らないままであった。
 …だが、本当は"魔力の王妃"のように、誰の目にも触れない場所では悲しんでいるのではないか…。
 考えているうちに、第三幕での"魔力の王妃"の歌は終り、舞台の中央に立っていたソフィスタは、メシアがいる舞台袖とは反対側へ、ゆっくりと移動を始めた。
 歌の後は、舞台の中央から怪物が姿を現すことになっている。ソフィスタは、五歩ほど進んだ所で立ち止まり、軽く周囲を見回した。
「…私が一人で城を抜け出したことは、まだ誰にも気付かれていないのかしら。ここへ来たことも、誰にも知られていないはず。…誰も追ってこないのなら、ずっとここにいようかしら。ここにいれば、楽しかった頃に戻れる気がする…」
 ソフィスタは、その場で膝を抱えて座り込む。演奏は徐々に音量を下げて消え、そのほぼ直後、舞台中央に設置された背景用の大道具が、ガタガタと音を立てて揺れ始めた。
 ソフィスタは、はっとして顔を上げ、「何?誰かいるの?」と怯えた演技をしながら立ち上がる。
 ちょうどその時、少し俯いて考え事をしていたメシアも、はっと顔を上げた。
 間もなく、舞台中央の背景が左右に開き、後ろに隠されているはずの怪物のハリボテが現れる手筈になっている。象ほどの大きさはある獣を模し、内側から手動で口や体を動かせるハリボテで、その腕がソフィスタに向けて伸ばされた時が、メシア演じる"証の神"の出番となる。
 だがメシアは、自分の出番が近づいたことに気付いて顔を上げたのでは無かった。
 強烈な殺意を纏った何者かの気配。まるで、気配を消して近付いてきた獣が、今まさに牙を剥き出して襲い掛かってきたかのように、それは突然現れた。
 姿は見えないが、殺意を持った何者かが、間違いなく近くに隠れている。そして、その殺意はソフィスタに向けられている。メシアの勘がそれを悟った時、王宮楽士団たちの演奏が始まり、同時に舞台中央の背景が、予定通りに左右に開かれた。
「きゃあぁぁぁぁ!!!?」
 ソフィスタも台本通りに怪物を見上げて悲鳴を上げ、床に倒れた。だが目の前に現れた怪物は、大きさ以外は予定とは異なるものであった。
 ハリボテではなく、明らかに生きており、怪物と呼ぶに相応しい異形な姿の獣。
 胴体は獅子に似ているが、後ろ足は象のようで、尻尾の先には魚のようなヒレがついている。
 頭部は金色の鱗に覆われており、瞳孔は縦に細長いので、トカゲのようにも見えるが、鼻から後頭部にかけて鋭い角が並んで生えている。
 とても自然界で生まれた生物とは思えない、様々な獣を無節操に混合したような、その姿に、ソフィスタは本気で驚かされて悲鳴を上げていた。ただ、舞台では女性らしい動作を心がけろと劇団員に指導されてきたので、無意識的に悲鳴は女っぽくなっていたのだった。
 だが、驚くべきは怪物の姿だけではない。本物の怪物の登場に、観客席からも悲鳴が上がる中、王宮楽士団たちは全く驚きもせずに演奏を続けているのだ。
 怪物の恐ろしい姿と、それを目の当たりにした"魔力の王妃"の危機感を表現した、激しい曲。それを構成している、王宮楽士団たちが奏でる楽器の音色は、乱れなく統率されており、彼らが冷静であることを示していた。
 …どういうことだ!?この劇団じゃ、団長がぶっつけ本番で予定外の演出を仕掛けてくることがあるとは聞いたけれど…これは違うだろ!!舞台としても生物としても規格外だろ!!
 ソフィスタが混乱していると、怪物は口を開き、喉の奥から低い声を発した。
「我は"怒りの獣"!!愚かな人間どもに聖域を追いやられた神々の怒りを思い知るがいい!!」
 この怪物が人間の言葉を発しただけでも驚きだが、それが"詩の子"に登場する"怒りの獣"のセリフであったことが、ソフィスタをさらに混乱させた。
 人間を滅ぼすために神々が生み出した"怒りの獣"。本来なら、この場面でハリボテで登場するはずだった、その役を、この生きている怪物が担っているとでもいうのだろうか。
 ならばこちらも"魔力の王妃"の役に徹するべきだろうか。そんな考えがソフィスタの頭に過る。"怒りの獣"のセリフの後には、怯える"魔力の王妃"のセリフが入るのだ。
 しかし、この怪物のギラつく目には、本物の殺意が宿っているようにソフィスタは感じた。このまま演技を続けて、身に危険が及ばないとは限らない。
 頭の整理が追い付かず、ソフィスタが声も出せずに床に這いつくばっていると、怪物は前足を振り上げ、鋭い爪を剥き出しにした。それを見て危険を感じ、台本通りに演技をしている場合では無いとソフィスタは判断し、ひとまず横へ飛び退こうとした。
 だがその前に、観客席から上がる悲鳴も、王宮楽士団の演奏も押しのける大きな声が舞台に響き、ソフィスタは動きを止めた。
「やめろ――――――!!!!」
 舞台袖から、"証の神"役の姿のメシアが、文字通り飛び出し、怪物が振り上げた前足に蹴りを喰らわせた。
 前足を弾かれ、よろめいた怪物の脳天に、さらにメシアは拳を振り下ろして追い打ちをかけた。怪物は頭から床に叩きつけられ、床板を砕き木片をばらまく。
 近くにいたソフィスタは、割れた床に足を取られて落ちそうになったが、背中からメシアに体を抱きかかえられ、引き上げられた。
 メシアはソフィスタを抱えたまま後ろへ跳び、その場から離れる。
「大丈夫か!怪我はしておらんな!」
 ソフィスタの体を放し、メシアは彼女に、そう声をかける。まだ混乱している表情だが頷いたソフィスタを見て、怪我はしていないようだと判断すると、メシアは怪物からソフィスタを庇うようにして立った。
 怪物は、床にめり込んだ頭を引き上げると、ソフィスタとメシアをギロリと睨んで口を開いた。
「なぜですか、"証の神"よ!神々の敵である人間を、なぜ庇うのですか!!」
 これも、"怒りの獣"の台本通りのセリフである。
「人間を傷つけてはならぬ!!お前も、これ以上血で染まってはならぬ!!神と人の命の奪い合いなど、もう終わりにするのだ!!」
 怪物が"怒りの獣"のセリフを言ったので、メシアも無意識的に"証の神"のセリフを出した。それを聞いて、この怪物も床の破損も演出の一部であったのだと思ったのか、観客席からの悲鳴が止んだ。
 なぜ、この怪物が"怒りの獣"を演じているのかは分からないが、暴れて劇場を破壊する気が無いのなら、観客たちには芝居は続行中だと勘違いさせておいたほうが都合がいいかもしれないと、ソフィスタは考える。これだけ大勢の観客が一斉にパニックを起こせば、怪物に襲われずとも怪我人が多数出るだろう。
 "証の神"が"怒りの獣"に攻撃するなど、"詩の子"の原本にも台本にも無く、そもそも"証の神"には、巨大な怪物の頭を素手で殴り飛ばして床にめり込ませるほど強いという設定も無いのだが、今回の舞台は特別版と銘打って宣伝してあるので、その辺りも観客は勘違いしてくれるだろう。
 だが、ソフィスタとメシアにとって、ハプニングがもう一つ起こっていた。
 序幕での歌や、"大地の神"のセリフは、他の劇団員が担当して声を出し、メシアは口を動かすだけだった。
 しかし先程、メシアは"証の神"のセリフを思いっきり声に出していた。それに気付いたソフィスタは、観客には聞こえないほど小さな声で「あっ」と呟いてしまった。
 メシアは怪物を警戒し、睨み続けており、ソフィスタが呟く声も、自ら声を出してセリフを喋ってしまったことにも気付いていない。
「…分かりました。私は神々の僕。神々の王である、あなたの命に従い、引き下がりましょう。しかし、人間が神々に危害を加えようものなら、私はあなたの命に背いてでも人間を攻撃します」
 そう告げると、怪物はソフィスタとメシアに背を向け、左右に分かれて開いたままだった背景をくぐって裏側へと移動した。
 怪物が通り過ぎると、背景はゆっくりと閉ざされた。その際、ソフィスタとメシアの位置から、背景を動かしている劇団員たちの姿が見えたが、すぐ傍を怪物が横切っても、彼らは全く動じていなかった。
 演奏が止み、怪物は姿と殺意だけでなく、その気配まで消していた。一瞬でどこかへ移動してしまったかのように消えた気配を、メシアは不思議に思ったが、ひとまず危険は去ったようだと考え、ソフィスタを振り返った。
「もう大丈夫だ、ソフィ…」
 本当に"証の神"の役であることを忘れているメシアは、ソフィスタの名を口に出そうとしたが、とっさにソフィスタが「"大地の神"よ!!」と嬉しそうに叫んでメシアに抱き付いてきたので、舞台に立っていることを思い出し、口を噤んだ。
 ソフィスタは、メシアの耳元で囁く。
「話は後だ。今は演技を続けろ。"証の神"のセリフは、今後はお前が声に出せ」
 第三幕は、もう少しで終わる。怪物のことは気になるが、劇団員と王宮楽士団は平然と仕事をこなしていたし、観客席も落ち着きを取り戻したようなので、今は第三幕を終わらせることが先決だ。
 そしてメシアが"証の神"のセリフを喋ってしまった以上、ここで急に、メシアに代わって声を出していた劇団員と切り替わるより、メシアが喋っていたほうがまだ自然だと、ソフィスタは判断した。
 ソフィスタがメシアに抱き付く予定は台本には無かったが、王宮楽士団は空気を読み、序幕の歌に似た曲の演奏を始めた。ロマンチックな雰囲気が舞台に漂うが、ソフィスタとメシアの内心は、切羽詰っていた。
「ここからは、台本通りに"魔力の王妃"と"証の神"の会話を演じるぞ。あたしのセリフの後、間を置かずに"証の神"のセリフを言うんだ。いいな!」
 メシアの代わりに声を出していた劇団員が、本物の怪物の登場に驚いていなければ、背景の後ろに隠れているはずだ。メシアにセリフを喋らせることにしたのはソフィスタの独断であり、他の劇団員たちとの意志の疎通は出来ていないので、メシアの声と劇団員の声が被ってしまう恐れがある。しかし次の"証の神"のセリフをメシアが先に言えば、空気を読んで後のセリフもメシアに任せてくれるだろう。
 小さく、しかし鋭い声でメシアに指示すると、ソフィスタはメシアから少し体を離し、喜びに瞳を潤ませる"魔力の王妃"を演じ始めた。
「"大地の神"よ!生きておられたのですね!お会いしとうございました!」
 彼女の意図をなんとなくだが汲み取ったメシアも、言われた通り、すぐに"証の神"のセリフを続けた。
「人間の少女よ。"大地の神"を知っておるのか?だが私は"大地の神"ではない。私は"証の神"。"大地の神"は、私の曽祖父である。五十年以上前に命を失ったと聞くが…」
 序幕から今までのソフィスタや、舞台に立った劇団員たちと同じように、奥の観客席まで届くようメシアもしっかりと声を出していた。思ったよりちゃんと演じているメシアの様子に、ソフィスタはホッとしつつ、"証の神"の言葉に驚く"魔力の王妃"の表情を作る。
「"大地の神"ではないのですか?…ああ、でも、あの方の血は、この世界に受け継がれていたのですね…」
 そう言いつつも、ソフィスタは悲しそうに項垂れる。メシアは、そっとソフィスタの肩を掴んだ。
「今の騒ぎに気付いた人間が、ここへ来るかもしれない。私は、神と人間の争いを止めるべく動いているが、今は人間に見つかるわけにはいかんのだ。どうか私のことは、他の人間には話さないでくれ」
 ソフィスタは顔を上げ、メシアを見つめて答える。
「…はい。誰にも話しません。ただ…、またあなたとお会いできますか?」
 ソフィスタのセリフの後、少し間を置いてから、メシアは答える。序幕でメシアに代わってセリフを喋っていた劇団員と声が被る心配は、もう無いだろう。
「また、ここへ来る。次に会った時は、"大地の神"を知る君が何者なのか、教えてくれ」
 メシアは柔らかく微笑むと、立ち上がって踵を返し、割れた床を飛び越えて舞台袖へと戻った。少し笑顔がぎこちなかったが、どうにかハプニングを乗り越え、第三幕での役目を果たしたメシアの背中を見送ると、ソフィスタは"証の神"と再会できることを喜ぶ"魔力の王妃"を演じた。
「"証の神"…。"大地の神"に似ているのは、あの方の子孫だからなのね。それほど時は過ぎていたのね。…だけど、"証の神"の、あの優しい笑顔に、私の孤独が晴れるのを感じた。あの方のことを、もっと知りたい。また会える日が待ち遠しい…」
 そう独り言ちていると、緞帳が下ろされ始めた。演奏も、そろそろ区切りの良いところに差し掛かるので、そこで終わりとなるだろう。
 切なそうに遠くを見つめて"証の神"を思う"魔力の王妃"を演じる、ソフィスタの姿が、緞帳によって隠されると、観客は今まで以上に盛大な拍手を舞台へ送った。
 迫力のある芝居に興奮した観客たちは、緞帳の向こうにいるソフィスタの表情が、冷やかで恐ろしいものへと一変したことなど、知る由もなかった。


  (続く)


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