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ありのままのメシア 第十二話


   ・第八章 記憶の中の愛情

 第五幕が始まる前に、ソフィスタはメシアと共にホルスを探したが、見当たらなかった。
 次の幕が始まるまでの時間は短く、探せる場所も必然的に限られてしまうので、見つからなくても仕方が無いとソフィスタは最初から期待していなかったが、もし、またホルスがソフィスタとメシアをおちょくりにでも来たら、その時は五発か六発はぶん殴ってやろうと、本気で考えた。
 悲劇のヒロインを演じるにあたり、今は怒りを静めようと深呼吸をし、ソフィスタは舞台の様子を眺める。
 緞帳によって客席と隔たれている舞台の中央には、両腕を背中で縛られたメシアが、膝立ちの体勢で第五幕の始まりを待っている。
 メシアの周囲には"魔力の王"の配下役の劇団員が立ち並び、メシアの正面、少し離れた位置に"魔力の王"役の劇団員が立っている。第五幕は、"魔力の王"に捕えられた"証の神"が、彼と交渉をする場面となるのだ。
 "魔力の王妃"の出番は、第五幕の最後…"証の神"が聖地に他の神々を住まわせる代わりに自らの命を差し出すことを"魔力の王"に約束した後。それまでは、このまま舞台袖でメシアの演技を見守ることとなる。
 "魔力の王"を信じて要求を受け入れた"証の神"を、バカだとソフィスタは思う。そして、そんなバカな役は、メシアが演じるにはぴったりだなどと皮肉を言ったが、そんなメシアにソフィスタは惚れているわけだし、もしメシアが、そんな危険な状況に陥ったら、何が何でもメシアを逃がし、メシアの命を狙う者を、どんな手を使ってでも撃退するだろう。
 実際に、メシアの命を狙っているエルフがいるので、この想像が現実のものになる可能性はある。
 …ホルスが、エルフをどうにかするって言っていたけど…それは信じちゃいないしな。
 やがて緞帳が上げられ、第五幕が始まった。背景は、序幕と第二幕で使用されていた、神殿の内装を表すものを用いている。
 まず"魔力の王"が、メシアに一歩近付き、セリフを喋った。
「"証の神"よ。貴様は私の妻をたぶらかし、我々の情報を聞き出していた。それは、我々を滅ぼすためなのだな」
 メシアは「違う」と首を横に振るが、"魔力の王"は「神の言葉など、誰が信じるものか」と鼻で笑った。そのセリフと、表情や態度から、"魔力の王"が神々を完全に敵視していることが、よく伝わってくる。
「"怒りの獣"が現れなくなったのも、我々に油断させるためなのだろう。"魔力の王妃"に我々の様子を確認させ、頃合を見て再び"怒りの獣"を差し向けるつもりだったのだろう。ああ、かわいそうな我が妻よ。あやうく、貴様らの悪だくみを成功させてしまうところだったんだね」
 何が何でも"証の神"を悪者に仕立て上げたいのだろうか。そうやってわざとらしく嘆く"魔力の王"に、メシアは「違う!」と叫ぶ。
「私は、争いを止め、仲間たちを助けたいのだ!人間も、これ以上誰も傷つかないように…」
 メシアの言葉を聞いて、"魔力の王"は「どういうことだ?」と、メシア演じる"証の神"に尋ねる。
「聖域を追いやられた神々は、力を失い、過酷な暮らしを余儀なくされ、命を落とした者もいる。彼らを助けるために、神々が聖域に住まうことを許してほしい」
 メシアは懇願するが、"魔力の王"は、その言葉を笑い飛ばす。
「なぜ私が神々を助けなければならんのだ!それに、聖域は我ら人間のものだ!囚われの身とは言え、貴様がここにいるだけでも忌々しいというのに!」
 "魔力の王"は、メシアの肩を軽く蹴飛ばし、メシアは勢いよく体を横に倒して、強く蹴られたように見せかける。
 ここで、王宮楽士団の演奏が始まった。力強いが険悪な空気を漂わせる曲で、"魔力の王"は「いいか、よく聞け!」とメシアに言い放ってから歌い始めた。

 世界は人間のもの 未来も やがて過去も
 神の存在は この世界から消し去る。
 足跡ひとつすら許さない 世界は神を忘れる
 完全なる 人の世界 私が築くのだ

 かつては神々が世界を総べ、人間は神に仕え、称えていた。それを、無かったことにしようとするなど、よほど"魔力の王"は神々を嫌悪しているのだろう。
 妻である"魔力の王妃"が"証の神"と密かに会っていたことを知り、さらに憎しみを募らせた"魔力の王"を演じる劇団員は、メシアを射抜かんばかりに睨みつける。演技と分かっていても、なかなか迫力があった。
 メシアが体を起こすと、王宮楽士団の演奏が、悲しげなものへと変わった。それに合わせて、今度はメシアが歌う。

 私は 仲間たちの幸せを願う
 家族を失い 友を失い
 苦しみは 悲しみは 怒りとなり
 神も人間も 怒りを子供に託す
 悲しい世界 これ以上 続けてはいけない

 第五幕の歌は、"証の神"と"魔力の王"が会話をするように、それぞれの役が交互に歌う形となっている。メシアが"証の神"の最初のパートを歌い終えると、演奏は険悪な雰囲気のものへと戻り、"魔力の王"のパートへと移る。
 
 神々が消えれば 全て終わる
 子供たちも いずれ怒りを忘れ
 争いなど無かったように 平穏に暮らせる日々が来る
 人間が幸せに生きるため 神々よ 滅んでくれ
 さあ 神々の居場所を 教えるのだ

 メシアは首をゆっくりと横に振り、曲の雰囲気が変わったところで歌い始める。

 私は 人間たちの幸せを願う
 だが 生き残っている神々を 犠牲にはできない
 神と人が 手を取り合い
 助け合い 共に生きる 平和な世界
 私たちは 分かり合えるのだ
 魔力の王よ どうか 我々を助けてくれ

 "証の神"は"魔力の王妃"と出会ったことで、神と人間が分かり合えることに確信を得た。だが"証の神"は、原本でも"魔力の王"の前では"魔力の王妃"の話を一度もしたことが無い。
 "魔力の王妃"をたぶらかしたとこじつけている"魔力の王"の前で彼女の話をすれば、"魔力の王"の怒りを買ってしまい、"魔力の王妃"まで責められてしまうと、"証の神"は危惧していたのかもしれない。
 "魔力の王"がそれに気付いているかどうかは分からないが、次のパートで、彼はついに恐ろしい取引を"証の神"に提示した。

 貴様の言うことなど 信用できない
 助けを請うなら 誠意を示してもらおうか
 仲間を犠牲に したくないのなら
 貴様が 犠牲になれ
 貴様が私に 命を差し出すのなら
 他の神々を 助けてやろう

 いかにも何か企んでいるような笑みを浮かべている"魔力の王"を、メシアは見上げる。
「私の言葉を命がけで信じることができるのなら、私も貴様を信じてやる。どうだ、できるか?」
 演奏は続いているが、"魔力の王"は普通の喋り方で、メシアに問う。第五幕の歌は、先程の"魔力の王"のパートで終わったのだった。
 メシアは俯き、少し考え込むように間を置いてから口を開いた。
「私が命を差し出せば、他の神々が聖域に住まうことを許し、命を保障してくれるのだな」
「ああ。…そうだな、貴様の処刑は二日後に行う。貴様を処刑した後に、神々を聖域に招くことを約束する」
「…分かった。その言葉を信じよう。神々の居場所を教えるのは、処刑の直前でもかまわないか?」
「まあ、いいだろう。貴様は城の地下牢に幽閉する。そこで処刑の日を待つがいい」
 "魔力の王"は、配下たちに"証の神"を連れて行くよう、身振りで示した。メシアは彼らに肩を掴まれ、乱暴に引かれて立ち上がらされる。
「約束だぞ」
 メシアが"魔力の王"に、そう言うと、照明が少し暗くなり、"魔力の王"が立っている側の舞台袖が、スポットライトによって照らされた。そこに、ソフィスタが姿を現す。
 まだ続いていた演奏が、ピアノの高音や、優しい音色の管楽器による女性的で悲しげなものへと変わると、薄暗い中で演技を続けているメシアたちを見つめながら、ソフィスタは語り始めた。
「なんてことなの…。"証の神"が"魔力の王"に殺されてしまうなんて!"魔力の王"は"証の神"の優しさを知らない。いいえ、知ろうともしない。それどころか、私が"証の神"を庇えば庇うほど、"魔力の王"の怒りは増すばかり。"魔力の王"は、何を言っても"証の神"を憎むでしょう。神々を助ける約束も、きっと守らない!」
 嘆いているわりには説明くささに余裕を感じると自分でも思うセリフを、ソフィスタは喋る。
 メシアは反対側の舞台袖に連れて行かれ、"魔力の王"は、笑みを浮かべて立っている。ここは、物陰で彼らの話を聞いていた"魔力の王妃"が、"証の神"の身を案じて嘆く場面なのである。
「"証の神"よ、どうして"魔力の王"の言葉を信じるの?"魔力の王"の憎しみを、あなたは分かっているはずなのに!このままでは"証の神"が殺されてしまう!私が"証の神"を助けなければ!今夜中にでも"証の神"を城の外へ逃しましょう。そして…叶うことなら、私も"証の神"と共に…」
 そう喋って、ソフィスタが両手を胸に添えたところで、緞帳が下り始めた。スポットライトも徐々に消えてゆき、観客席から拍手が送られる。
 …第五幕も乗り切ることができたか。今回もホルスは何も仕掛けてこなかったが…。
 ホルスが何もしてこなければ、それはそれで警戒していたことが無駄になって腹が立つ。
 やがて緞帳が下ろされきると、反対側の舞台袖からメシアが飛び出し、ソフィスタに駆け寄ってきた。彼の両腕を繋いでいたロープは外されているが、もともと簡単に着脱が可能なものであった。
「ソフィスタ!第五幕も、無事に演じきることができたな!私の演技は、どうであったか?」
 "魔力の王"役に軽く蹴られて倒れた時に乱れたターバンを整えながら、メシアはソフィスタの前に立つ。
「悪くはなかったと思うよ。…でもさあ、そういうことは、お前を指導していた劇団員に聞いたほうがいいんじゃないか?演技の玄人なんだから、良い助言をしてくれるはずだよ」
「あ…うむ、そうであるな。だが、ソフィスタと話すと緊張が解れるし、自信も湧いてくるのだ。お前がいてくれると、本当に助かる!」
 メシアの素直な言葉と笑顔に、ソフィスタの鼓動が早く大きくなる。
 …馬鹿野郎!こっちは、お前にそんな顔をされると緊張するんだよ!!
 心の中で叫びながら、第六幕に備えて背景を移動させ始めた劇団員を何気なく見るふりをして、ソフィスタはメシアから顔を逸らした。
「あ、そう。でも、第六幕もすぐに始まるから、早く助言してもらって来い。お前の出番は初っ端からあるんだから」
 照れを隠すための、ソフィスタのそっけない言い方を、メシアは特に気にもせず、「そうであるな」と頷いて舞台袖へ戻っていった。
 メシアの姿が見えなくなると、ソフィスタは深く息を吐き出した。
 …ハア。これじゃあ、我ながら先が思いやられるわ。第六幕じゃ、"魔力の王妃"が"証の神"に想いを告げるってのに…。
 第六幕では、"魔力の王妃"が"証の神"を助けるべく、地下牢から彼を連れ出そうとするのだが、"証の神"はそれを拒み、"魔力の王妃"は彼を説得する中で想いを告げるのだ。
 お芝居とは言え、メシアに向かって愛の告白のセリフを喋るなど、ソフィスタには過酷なものだが、それでも原本よりはマシであった。
 "詩の子"の原本では、その場面は愛の告白だけに留まらない濃厚なラブシーンとなっている。フェザーブーツ劇団演じる舞台では、"魔力の王妃"が"証の神"を抱きしめるだけに留めているが、もしその場面が原本に忠実であったら、公演中止による損害賠償を背負ってでも代役を断る自信がソフィスタにはあった。
 …そう考えれば、メシアと少し抱き合うくらい、どうってことない!稽古中にだって、あの場面を何度も演じたんだから、今更恥ずかしがるな!原本よりはマシなんだから!
 自分に言い聞かせ、頬を両手でバシバシと叩いているソフィスタの様子を、劇団員たちは「気合が入っているなあ」と頼もしそうに見ていた。


 *

 薄暗く照らされる舞台の床に座り、メシアは静かに第七幕の始まりを待っていた。
 下ろされている緞帳の向こうからは、第七幕を心待ちする観客の声が時折聞こえてくる。
 ホコリっぽい石壁が描かれたベニヤ板が背景として並べられ、舞台の中央には、鉄に似せて着色された木製の格子が配置され、メシアを閉じ込めているように見せかけている。
 第七幕が始まるまで、メシアは第七幕での"証の神"のセリフを思い出し、役に入り込めるよう"証の神"の気持ちを考えているのだが、どうしても払いきれない雑念があった。
 ホルスが連れ込んだ怪物のことも気になっていたが、それだけではない。
 汚れた石壁、ヌラリとした輝きを放つ鉄格子。この景色を見ていると、何かが心の中でひっかかる。そういえば、ユドと戦った廃墟の地下でも、心にひっかかる何かを感じたような気がする。
 地下の景色だけでなく、怒れるユドの姿や、ユドによって負傷して血にまみれた手を見た時など、奇妙な感覚に襲われることが度々あり、その全てに恐怖という感情も沸き上がった。
 だが今、心を落ち着かせて地下牢に似せた景色を眺めていると、なぜか温かく優しい何かに包まれているような気分になってくる。
 この景色に見覚えでもあるのだろうか。故郷ルクロスにも食糧などを保管する地下室くらいはあったし、アーネスを訪れる前に一度、人間に捕えられて牢屋に入れられたこともあったが、それらとは違う気がする。
 …あの時…ユドとの戦いの中で恐怖のあまり凶暴化したことと、この地下牢の景色には、何か関係はあるのだろうか。だが、なぜ今は恐怖ではなく温もりを感じるのだろうか。一体何を条件に、この景色は恐怖にも安らぎにもなり得るのだろうか…。
 そう考えていると、緞帳が上がり始め、観客席から拍手が沸き起こった。
 メシアは俯いて目を閉じ、一つ息をつく。
 …今は、"証の神"を演じることを考えなければならぬ。"証の神"は、仲間を助けるためとは言え、あと二日の命となってしまったのだ。この時点では既に"魔力の王妃"に恋心を抱いている彼が、愛しい者との永遠の別れに、穏やかな気分になれるはずがない。
 今は、辛い気持ちであろう"証の神"を演じなければいけないと、メシアは自分に言い聞かせる。
 緞帳が上がりきって間もなく、格子の向こう側の舞台袖からソフィスタが現れた。メシアは目を閉じて俯いているが、ソフィスタが近づいてくることは足音分かった。
 ソフィスタは格子を掴み、わざと音を立てて揺らしてから、扉になっている部分を開いた。メシアは、ソフィスタの存在に今気付いたかのように顔を上げる。
「"魔力の王妃"よ、なぜ、ここに?」
「あなたを助けに参りました。その縄を解き、ここから逃げ出しましょう!」
 ソフィスタはメシアに近付いて腰を屈め、メシアの両腕を拘束するロープに触れた。すると、そこに稲妻のような光が走り、ソフィスタは悲鳴を上げて手を弾かれる。
 これは、ソフィスタ自身の魔法による演出で、ソフィスタにもメシアにも痛みは全く無い。
「これは…縄が解かれないように、"魔力の王"の魔法がかけられています。…どうしましょう…私の力では"魔力の王"には及びません…」
 ソフィスタがオロオロと困っている"魔力の王妃"を演じていると、メシアが口を開いた。
「"魔力の王妃"よ。私は、ここから逃げ出すわけにはいかない。私が命を差し出せば、他の神々は助けてくれると"魔力の王"は約束してくれたのだ」
 メシアのセリフの後、すかさずソフィスタが「ばかっ!」と怒鳴った。普段なら、とても女とは思えない声でソフィスタはメシアを叱るのだが、"魔力の王妃"を演じている時は怒鳴り声まで女性っぽさがあった。
 稽古中、初めてソフィスタがこのセリフを女性っぽく喋り、それを聞いたメシアは、可笑しいんだか気味が悪いんだか、よく分からない微妙な気分になったが、何度も稽古をしているうちに慣れていった。
「そんな約束、嘘に決まっている!どれほど"魔力の王"が神々を憎んでいるかは、何度も教えたじゃない!どうして彼を信じるの!?"魔力の王"は、あなたを騙して神々の居場所を聞き出そうとしているんだわ!!」
 今まで、"証の神"に対し"魔力の王妃"は敬語を使っていたが、ここで口調を変えることで、"魔力の王妃"がどれほど必死に"証の神"を助けようとしているかを表現するのだそうだ。
 メシアは、悲しげな表情を作っているソフィスタを見つめ、次のセリフを喋った。
「神と人間が和解するには、互いに信頼し合う必要がある。それを望む私が"魔力の王"を信用しないでどうする」
「そんな!"魔力の王"を信用できる根拠が、どこにあるというの!」
「根拠は、ある。人間である君が、こうして私を助けに来てくれた」
「私と"魔力の王"は違う!今の人間たちだって、私とは違い、争いの中で神々に怯えて生きてきた者たちよ!信頼し合うことなんて、できやしない!」
「だが、私と君は信頼し合っていた。そうだろう?」
 ソフィスタは、言葉に詰まったように演技をする。そして少し間を置いてから、メシアの肩に手を添え、次のセリフを喋った。
「…例え"魔力の王"が約束を守ったとしても、人間と神が和解した世界に、あなたがいません。あなたの家族や友は、そんな世界を望みますか?私は…あなたに会えない世界なんて、考えたくもありません…」
 喋り方を敬語に戻し、ソフィスタは"魔力の王妃"の心が少し落ち着いたことを表現する。
「"証の神"よ。神々には、あの"怒りの獣"がいます。その強大な力を以って、人間を滅ぼしてでも神々を守ることができるでしょう」
 ソフィスタのセリフを聞いて、メシアは「そんなことはできない」と言いかけたが、ソフィスタに真剣な眼差しを向けられると、言葉を止めて怯む演技をした。
「"怒りの獣"の力があれば、人間を支配してでも共存はできます。上辺だけの共存でも、いつか人間たちも分かってくれるでしょう」
 ソフィスタのセリフの後、メシアは首を横に振る。
「だめだ。"怒りの獣"を利用してはいけない。人間たちも強く賢い。力による支配など長続きせず、神も人も多くが命を落とすこととなろう」
 そうセリフを喋って、メシアはソフィスタに優しく微笑んだ。すぐ目の前で、メシアにそんな笑顔を見せられると、ソフィスタは照れのあまり、メシアを思いっきり突き飛ばすか、顔を背けたくなったが、堪え続けた。
「"魔力の王妃"よ。私を助けに来てくれたことは嬉しいが、何を言われようと、私は逃げる気は無い。…私は、己が信じる道を選んで命を絶つのだ。後悔はしない」
 この"証の神"の「後悔はしない」というセリフに、メシアは違和感を覚えていた。
 "証の神"は、血生臭い歴史が刻まれた世界で清く平和な未来は築けないと、第四幕で語った。ならば、"証の神"自身の犠牲は、血生臭い内には入らないとでも思っているのだろうか。
 そのことをソフィスタに話したら、もしかしたら"証の神"は余命が短く、どのみち長くない命なら神と人間のために役立てたいとでも考えたのかもしれない。もしくは、何か理由があって、"魔力の王"に捕まる前から自ら命を絶つことを考えていたのかもしれないと話した。どうやら、"詩の子"を調べている者たちの中で、そんな仮説を立てた者がいたらしい。
 "魔力の王妃"への恋が叶わないものだと思い込み、恋心を断ち切ることもできずに苦しんだ末に死を選んだという説もあるそうだが、恋をよく分かっていないメシアには、そんな理由で死を望む者がいることなど信じられなかった。
 自己犠牲精神が強いとは言え、命を重んじる"証の神"の、自殺とも取れる行動には、ソフィスタも納得していないし、その"証の神"の心情には、今のところ定まった解釈は存在していないらしい。
 まあ、所詮はおとぎ話みたいなもので、ここは劇団員の指導に従うしかないとソフィスタに言われたメシアは、「自己犠牲精神が強いから命を差し出したけど、"魔力の王妃"への恋心は断ち切れていないから後悔もしているということで演技をしろ」という劇団員の指導に従い、メシアは演技の練習をしてきた。
「家族も、友も、きっと分かってくれる。どうか、君も分かってくれ。そして…神と人間が共に生きる世界で、どうか君も"魔力の王"を支えて生きてくれ」
 そのメシアのセリフを聞いたソフィスタは、メシアの肩に添えた手に力を込め、メシアの衣装を強く握った。これは台本通りの演技だが、ソフィスタを見つめながら、優しい声だが突き放すようなセリフを喋るメシアに、ソフィスタ自身も少なからず突き放された気分になってしまう。
「どうして…どうして、そんなことを言うのですか」
 微かに体を震わせ、ソフィスタは今にも泣きそうな表情を作る。そして、これはあくまで芝居だと自分に言い聞かせてから、次の"魔力の王妃"のセリフを喋った。
「"証の神"よ、私は…私が愛しているのは、あなたなのに!」
 そしてソフィスタはメシアに抱きつき、メシアに体重を預けた。
 こんな大勢の観客の前、しかもアズバンやティノーといった知り合いに注目される中、メシアに向かって声を上げて「愛している」と告白して抱きついたソフィスタは、芝居と言い聞かせてあっても、この場にいる者たちの頭を強打して記憶を消してやりたい気分になった。
 込み上げる恥ずかしさに、声が上ずってしまいそうになるのを必死に堪え、ソフィスタは演技を続ける。
「…私を実の娘のように可愛がってくれた"大地の神"に似ていたから、私はあなたを気にするようになったわ。でも、今は違うの。勇敢で優しい"証の神"を、私は愛しているのです」
 メシアの首に腕をまわし、肩に顎を乗せたソフィスタの髪が、メシアの頬に触れる。ほんのりと化粧の香りに混じって、ソフィスタの香りがメシアの鼻腔をくすぐった。
 演技と分かっていても、種族が違っても、親しく感じている女性に「愛している」と言われて抱きつかれると、愛おしく感じてしまうものだと、稽古中にメシアは思い、それをソフィスタに話したら、彼女は顔を真っ赤にしてメシアの鳩尾に蹴りを叩き込んできた。
 以来、この場面を演技すると、その時のソフィスタの暴力を思いだし、愛おしく感じなくなってしまった。
 しかし本番に限り、なぜかソフィスタの香りと体温に緊張が解されていくことに、メシアは気付いた。
 両腕を拘束している縄を引きちぎって抱きしめたいと思ってしまうほど、稽古中よりもソフィスタを愛おしく感じていた。
 この感覚は、一週間と少し前にも覚えたことがある。正体不明の恐怖に我を失い、ソフィスタすら攻撃しようとしてしまった、あの時、メシアの意識を呼び覚ましたソフィスタの声や感触。
 思い出すことも取り戻すこともできなかった大切なものが目の前に現れたような喜びに満たされ、メシアの恐怖は消え去った。メシアはハッキリと覚えていないが、今の感覚が、その時のものに似ていると、なんとなく思った。
 …あの時も、古びた石壁の建物の、薄暗い部屋の中だった。この景色は、私の中の何かを呼び覚まそうとしているのだろうか…。
 しばらく舞台は静かだったが、やがて王宮楽士団が演奏を始めると、ソフィスタはメシアから少し体を離し、目線の高さを合わせてメシアを見つめた。そして、穏やかだが少し寂しげな曲に合わせて歌い始める。

 灰色の雲に覆われた空 一筋の光が雲を貫く
 照らし出された 色鮮やかな世界 あなた思い出させてくれた

 歌いながらソフィスタは立ち上がり、観客席へと体を向けて声を響かせる。

 一筋の光は 剣となって
 雲を退け 光の道を切り開く
 勇敢なあなた 全ての命に手を差し伸べる
 優しいあなた 私の心を熱くする

 切なげな表情を作り、軽く手振りを加えて"証の神"への想いを表す"魔力の王妃"の歌を歌うソフィスタを、メシアは座ったまま、じっと見つめる。

 氷の中から目覚め 死すら望んだ孤独
 あなたと出会い 明日への希望が生まれた
 誰にも触れることができなかった 私
 あなたがいなくなれば 私も温もりを失う
 私の世界は 私の命は あなたの中にある
 どうか 共に生きて

 ソフィスタは再びメシアの前で屈み、メシアに抱き付いた。
「"証の神"よ。仲間を、人間を、未来に生きる者たちを愛するあなたは、一人の女を愛することはできないのですか?不確かな未来のために命を捨てることはできても、目の前にいる、あなたを愛する女のために生きることはできないのですか?」
 メシアに愛の告白をし、その想いを歌にして語り、再びメシアに抱き付くという、酷な動作を強いられたソフィスタの腕は、微かに震えていた。その震えをメシアは、ソフィスタが"証の神"を説得する"魔力の王妃"を心から演じているためだろうと思った。
 歌の前にソフィスタに抱きつかれた時の感覚を、もっと味わいたいという気持ちはあったが、ソフィスタがしっかり演技して代役の務めを果たそうとしているのだから、自分もしっかりと演技をしなければと考え、メシアは"証の神"の演技に集中することにした。
 …ここでの"証の神"は、"魔力の王妃"への想いが叶わないものではないことを知る。"魔力の王妃"を愛し、幸せを願っているのなら、彼女の気持ちを受け入れてもよかったはずだ。だが、それをしなかった…。
 この体勢のままセリフも無く"証の神"と"魔力の王妃"が抱き合う場面が少し続くので、その間に、メシアは"証の神"の気持ちを考える。
 もしメシアが"証の神"の立場なら、"魔力の王妃"の気持ちを喜んで受け入れたいと思う。そして、"怒りの獣"を使わず、神と人間がこれ以上犠牲にもならないよう、"魔力の王妃"と共に平和な世界の実現のために尽力しようと思う。言うは簡単だが、自らを含めた誰かを犠牲にする平和こそ、簡単に望んで良いものではない。
 それでも"証の神"が"魔力の王妃"を受け入れなかったのには、きっとやむを得ない事情があったのだろう。その事情が何かは分からないが、"証の神"が断腸の思いで"魔力の王妃"を拒んだことは、後の"証の神"のセリフで分かる。
 …私にとってソフィスタは、男として愛する者ではないが、大切に思っている者であることは間違い無い。いつか来る別れの時を考えると…仕方が無いと簡単には割り切れんな…。
 第四幕で考えていたことを思い出し、メシアは寂しい気分になる。それは表情にも現れ、"魔力の王妃"との別れを悲しむ"証の神"の気持ちを自然と表現していた。
 第六幕の歌は、最後のソフィスタのパートで既に終わっており、演奏だけが続いている。曲のタイミングを見計らい、メシアは"証の神"のセリフを喋った。
「逃げる気は無いと言ったはずだ。私の決意は変わらない。…もうすぐ夜が明ける。"魔力の王"のもとへ戻るのだ」
 辛そうな顔で、しかし厳しくソフィスタに告げ、メシアは黙り込む。
「どうして?私では、あなたの心は動かせないの?」
 メシアから少し体を離し、ソフィスタはセリフを喋る。メシアは俯いてソフィスタから目線を逸らした。
 何も言わない"証の神"の、その決意というものが固いことを悟った"魔力の王妃"は、ここで説得を諦める。ソフィスタは立ち上がり、静かに一歩下がる。
「…私、"魔力の王"を説得します。あなたを…神々を傷つけないよう…」
 ソフィスタはメシアに背を向け、ゆっくりと歩き始めた。
「でも…"魔力の王"が説得に応じなかったら、力ずくでも、あなたをここから連れ出します。…それと…」
 格子の手前まで来ると、ソフィスタは立ち止まり、メシアを振り返った。
「私、傷ついていないから、心配しないでね」
 無理に明るい声と表情を作る"魔力の王妃"を演じるソフィスタから視線を逸らしたまま、メシアは「すまない」と呟いた。離れた客席にまで声が届くよう、呟くというわりには声が大きい。
 それを聞いたソフィスタは、慌てるように格子を潜って扉を閉め、涙を拭うような仕草を見せてから、舞台袖へと走り去った。
 王宮楽士団の演奏も、第六幕でのソフィスタの出番と共に、一旦ここで終わる。メシアは天井を仰ぎ、「なんということだ…」と"証の神"のセリフを喋り始める。
「"魔力の王"を愛せなくても、触れることすらできなくても、"魔力の王"が心から"魔力の王妃"を愛しているのなら、いつか"魔力の王妃"に、その想いが届く時が来るだろう。聖域を追いやられ弱った神より…"怒りの獣"を放ち人間たちを脅かした神より、人間の王の伴侶となって生きたほうが、"魔力の王妃"は幸せになれるだろう。…そう思っていたのに…」
 メシアは上を向いたまま、ため息をついた。
「"魔力の王妃"よ。私も、君を愛していた。もっと早く、互いに想い合っていることに気付いていれば、共に幸せに歩んでゆける道を探し出すことができただろうか…」
 この時の"証の神"のセリフ…"魔力の王妃"への想いを告白するセリフは、原本には無いものだとソフィスタから教えてもらったことがあった。
 "証の神"が"魔力の王妃"を愛していたことは、確かにここで明らかになるが、舞台用ほど長くはなく、一言か二言で終わっている。
 しかし、原本には無いセリフというわけではない。舞台用の台本からは削られてしまったが、原本では"証の神"が命を落とした一年ほど後に、"魔力の王妃"は"証の神"の想いが綴られている手紙を手に入れ、そこで初めて"証の神"に愛されていたことを知るのだという。
 その手紙の一部を引用したのが、舞台"詩の子"の、"証の神"の地下牢での告白なのだ。
 結局"証の神"は、己の口から"魔力の王妃"に想いを伝えること無く命を落とす。愛する者に想いを告げられないまま、永遠の別れとなることを、"証の神"は"魔力の王"に捕えられる前から覚悟していたのだろうが、それは身を引き裂かれるような思いだったに違いない。
「何のしがらみもない、ただの男になることができれば…君と共に生きたかった…」
 そう言ってメシアが項垂れると、舞台の照明が落とされた。そして、少し間を置いてから、メシアから見て格子の向こう側をスポットライトが照らした。
 そこには"魔力の王"が立っていた。第五幕が終わってから背景の裏側に隠れていた彼は、舞台が暗くなった隙に移動して姿を現したのだった。
 同時に、王宮楽士団が弦楽器の低い音色を奏で始めた。"魔力の王"は、観客席からもうっすらと姿が見えているはずのメシアを睨みつけ、怒りと焦りが混じったような声でセリフを喋った。
「おのれ、"証の神"め。我が妻"魔力の王妃"を愛しているだと?しかも"魔力の王妃"も奴を愛しているだなんて!」
 "魔力の王"の声は大きいが、メシアは項垂れたまま聞こえないフリをしている。原本では、おそらく"魔力の王"は物陰に隠れて二人の会話を聞いていたとされており、こんな"証の神"に見つかりやすい場所で大声で独り言ちてなどいない。これは、あくまで舞台用の演出なのである。
「もはや処刑の日まで奴を生かしておくわけにはいかない!夜が明けたら処刑の準備を始めよう。他の神々の居場所を吐かせ、"証の神"を殺し、完全なる人間の世界を創るのだ!そうすれば…"魔力の王妃"よ、君も目を覚ますだろう」
 "魔力の王"は狂った笑い声を上げる。聞いていて嫌な気分にさせられる笑い声だが、"魔力の王"役の劇団員は、普段は気さくで面倒見の良い男である。それが、物語の中ではほぼ悪役の"魔力の王"の狂気の面を、ここまで演じられるなんて、役者としての意識が高いのだろうとメシアは感心させられていた。
 緞帳が下ろされ始め、観客席から拍手が送られる。"魔力の王"の笑い声は、演奏と共に止まった。第六幕は、ここで終わりとなるのだ。
 緞帳が完全に下ろされると、"魔力の王"を照らしていたスポットライトは消え、舞台全体を照らす照明が点灯した。舞台袖から劇団員たちがバタバタと出てきて、背景の移動に取り掛かる。
 メシアは肩の力を抜き、深く息を吐き出した。
「よう、第六幕も無事に乗り切ったな!」
 "魔力の王"役の劇団員が、メシアに駆け寄って軽く肩を叩いた。先ほどまでの"魔力の王"の様子とは打って変わって、声は明るく弾み、柔和な笑顔を浮かべている。
 メシアは緊張がほぐされ、笑顔を彼に見せるが、どこか疲れを感じ取れるものであった。"魔力の王"役の劇団員も、それに気づいてメシアを励ます。
「今回も、よく頑張ったよ。"証の神"の出番は、次の第七幕までだから、もう一頑張りだ」
 メシアは「うむ」と頷き、立ち上がった。
 第七幕は"証の神"が処刑される場面で、"証の神"のセリフは無いが、槍に突かれて倒れる動作などがある。それさえ乗り切れば、あとは倒れているだけで第七幕は終わり、カーテンコールまで舞台袖で待機することになる。
 ちなみに"魔力の王妃"の出番は、残すは第七幕と終幕となる。第八幕では"証の神"から聞き出した神々の隠れ里へ兵を率いて向かった"魔力の王"が、"怒りの獣"によって返り討ちに遭って命を落とすのだが、"魔力の王妃"の出番は無い。
 そのあたりも原本とは違う箇所があるのだが、それはともかく、メシアは立ち上がる。
 …第八幕には"怒りの獣"の出番がある。台本通りに進めるのなら、アメミットが再び舞台に現れるのは第八幕だろうか。
 第三幕で舞台に現れたアメミットは、ソフィスタに殺意を向けていた。それがホルスの指示であると知ったメシアは、第三幕終了後にホルスに会った時、彼を責めたが、もう二度とアメミットに殺意を植え付けるなとは約束できなかった。
 もし、メシアもソフィスタも舞台に出ない"第八幕"で、アメミットが殺意を持って登場するとなると、その標的となるのは、おそらく"魔力の王"役の劇団員のはずだ。
 もし"魔力の王"役の劇団員の身に危険が及んだら、"証の神"が既に処刑されていようが、メシアは"魔力の王"役の劇団員を助けるべく舞台に乱入するつもりだ。舞台は失敗となるかもしれないが、そんなことを気にしている場合では無い。
 それについて、ソフィスタと相談しておいたほうがいいかもしれない。そう考えて、メシアはソフィスタが去っていった舞台袖へと向かおうとした。
「おいメシア、どこへ行くんだ。お前は、ここで第七幕の準備をして待機だろ」
 しかし、メシアの両腕を拘束したままのロープを"魔力の王"の配下役の劇団員に引っ張られて止められた。劇団員の足元では、セタが床に這いつくばっている。
「第七幕が始まる前に、ソフィスタと話がしたいのだ」
「あの子と?あ〜…でも、これからお前の衣装に、この銀色のスライムを仕込まなきゃならないし、話している暇なんか無いよ」
 "証の神"は、"魔力の王"の配下によって、首を槍に貫かれる。その時の演出を、セタに協力してもらう予定になっていた。
「あの子も舞台袖の奥から出て来ないようだし、他の劇団員と話でもしているんじゃないのか?用があるのなら、第七幕が終わってからにするんだな。第八幕での、あんたたちの出番は無いから、時間も取れるだろ」
 そう言われ、メシアは仕方なく床に腰を下ろし、セタを衣装の中に詰め込み始めた。
 今まで、幕の合間には必ずソフィスタと顔を合わせていたので、それが無いと落ち着かない気もするが、舞台は待ってくれない。
 もしかしたら、ソフィスタも今の自分と同じ気分でいるのだろうか。そんなことをメシアは考えたが、首を横に振った。
 …いや、ソフィスタは心が強い。不安があっても、それに囚われることは無いだろう。
 確かに、ソフィスタは不安に囚われたりなどしていなかったが、メシアの位置からは見えない舞台袖の奥でソフィスタは、観客の前では耐え抜いていた、第六幕でのメシアとのやりとりの恥ずかしさを、壁に何度も蹴りを入れることによって発散し、落ち着きを取り戻そうと務めていたのだった。


  (続く)


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