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ありのままのメシア 第十二話


   ・第九章 ホルスの試練

 メシアは両腕を後ろに回されて拘束されたまま、舞台の中央で膝を着き、距離を取って正面には"魔力の王"が立っていた。それぞれ、"魔力の王"の配下役の劇団員に囲まれている。
 緞帳が上げられ、その様子が観客たちの前に現れる。
 背景は、城の外にある処刑場を現すものが配置されている。この第七幕で、ついに"証の神"は処刑されるのだ。
 芝居だと分かっていても、セタによる演出で槍に貫かれるように見せかけるだけだと分かっていても、稽古中にメシアが処刑される光景を見せつけられた時、嫌な気分になった。それを思いだしながら、ソフィスタは舞台袖からメシアを見守る。
 ソフィスタがいる舞台袖からメシアは、"魔力の王"と、その配下を挟んだ先にいる。ソフィスタの視力では、メシアの姿はぼやけて見えていた。
 …第七幕にはメシアのセリフも無いし、"怒りの獣"の出番も無い。スムーズに演じきることができればいいけど…。
 心配事は尽きないが、心配すれば解決するわけでもないし、ソフィスタの出番も、すぐにくる。今は、自分が登場するタイミングを誤らないよう、舞台に集中するしかない。そうソフィスタが気持ちを切り替えたところで、王宮楽士団の演奏が始まり、"魔力の王"が観客席側を向いて歌い始めた。

 見よ 陽が昇り 聖地は金色に輝く
 今日を祝福する太陽 私を称える光
 私が創ろう 完全なる 人の世界
 証の神よ 貴様は その贄となる

 "魔力の王"はマントを翻し、メシアに手をかざす。すると、メシアの隣に立つ劇団員が、腰に差していた剣を抜き、切っ先をメシアの首元に軽く突きつけた。
 フェザーブーツ劇団が舞台で使う剣や槍は、殺陣の場面ではリアリティを出すために金属製のものを用いているが、舞台"詩の子"では斬り合う場面は無いので、着色により鉄製に見せかけた木製のものを用いている。遠くからでは分からないが、剣も槍も切っ先は丸まっており、殺傷力を極力落とされている。
「待って!"魔力の王"よ!!」
 ソフィスタは、メシアが剣を突きつけられたタイミングで舞台に姿を現した。演奏は続いており、メシアは何も聞こえていないように俯いたまま動かずにいる。
「おはよう、"魔力の王妃"よ。昨晩は、よく眠れたかい?」
 "魔力の王"は、駆け寄ってきたソフィスタに、にっこりと微笑んだ。それを無視して、ソフィスタは"魔力の王"に詰め寄る。
「どういうこと?"証の神"の処刑は、明日のはずでしょう」
「…どのみち死ぬんだ。じらさず殺してやったほうが、彼も楽に死ねると思ってね」
「でも、処刑は明日と"証の神"と約束したのでしょう。王が約束を破るなんて!」
 予定外に早まった"証の神"の処刑に、気が動転しつつも、彼を殺させまいと必死になる"魔力の王妃"を、ソフィスタは持ち前の演技力で表現する。そんな彼女の様子を見て、"魔力の王"は表情を一変させた。
「ひどいだと?それは"証の神"のほうだ!私の妻をたぶらかし、心を奪うなんて、神が聞いて呆れる!!…君は、今晩も奴を助けに行くつもりだったのだろう?昨晩、君が何をしていたか、私は知っているんだよ」
 "魔力の王"のセリフを聞き、ソフィスタは大げさな身振りで驚く演技をした。王宮楽士団も、"魔力の王妃"の動揺を表すような効果音を奏でる。
「…あ・"証の神"は悪くない!!"証の神"は、私をたぶらかしてなんかいないわ!"証の神"は…ただ仲間や家族を、私たち人間も救おうとして…」
 ソフィスタが歯切れが悪くセリフを喋っていると、"魔力の王"は、己の怒りを鎮めるかのように、深く息を吐き出した。そして、次のセリフを、ゆっくりと喋り始める。
「仲間か…。"証の神"は、これで他の神々が救われると信じているようだ。そのまま幸せに死ねるだけ、感謝してもらわぬとな」
 ソフィスタは「そんな…まさか!」と声を上げる。メシアや、他の劇団員たちは、"魔力の王妃"と"魔力の王"の会話が聞こえないふりをしていた。
 再び"魔力の王"が歌い始める。

 証の神の命は 今 終わらせる
 神々の存在を 私が終わらせる
 君は解放され 私との未来が始まる
 私は 君を責めてなどいない
 君を救おう 証の神 奴の死を以ってして

 第七幕での歌は、これで終わりとなる。"魔力の王"は、狂気めいた笑い声を上げた。
 ソフィスタは頭を抱えて項垂れる。その様子を見て"魔力の王"は笑い声を止める。
「ああ…"証の神"よ!ごめんなさい!私のせいで!」
 ソフィスタが嘆いていると、メシアに突きつけられていた剣が、高々と振り上げられた。
 いつ剣が振り上げられるかは、演奏で分かるよう示し合わせてあった。そのタイミングで、ソフィスタとメシアは同時に顔を上げ、視線が交わる。
 原本では、"魔力の王妃"と"証の神"は、剣が振り下ろされた瞬間に見つめ合ったとされている。"魔力の王妃"は"証の神"に駆け寄ろうとし、そこで"証の神"は顔を上げて"魔力の王妃"に優しく微笑み、直後に首に刃を沈められるのだった。
 舞台用の台本では、先に見つめ合って"証の神"が微笑み、それから"魔力の王妃"が彼に駆け寄る…という流れになっている。
 だがメシアは、急に厳しい顔をして、背景を見上げた。ソフィスタからは表情までは見えないが、顔を背けたことは分かる。
 台本には無い行動に、ソフィスタや劇団員たちが戸惑う暇も無く、今度は観客が騒ぎ始めた。
 メシアの視線の先、背景の裏側から、巨大な尾びれが振り上げられる。
「避けろぉ―――!!!」
 芝居を無視して、メシアは剣を振り上げていた劇団員に体当たりをし、他の劇団員数人も巻き込んで舞台の中央から離れた。尾びれに気付いていないソフィスタや"魔力の王"も、ただならない空気だけは察し、自然と後ずさりをする。
 尾びれが舞台の中央に振り下ろされ、背景用の大道具の一部が壊れて倒れた。メシアのおかげで、倒れた背景に巻き込まれた者はいなかった。
 大きな音を立てて床を打った尾びれを見て、ソフィスタは、それがアメミットのものであると気付く。
「"怒りの獣"だー!!」
 劇団員の誰かが、そう叫んだ。
 第三幕で"怒りの獣"を演じていたアメミットの、第七幕での登場は、間違い無く予定外で、そもそもアメミットは生物学的にも規格外の存在だ。それにしては、アメミットを"怒りの獣"と呼んだ劇団員の順応が早すぎると、ソフィスタは思う。
 アメミットが背景の向こうから姿を現し、舞台の中央に陣取った。
「おのれ、人間どもめ!お前たちの矮小な命でさえ等しいく愛し、私を止めた"証の神"を処刑するなんて、もはや許せぬ!!"証の神"よ、やはり人間は神々に害為す存在でしかない!今ここで滅ぼすべきだ!!」
 アメミットが喋っている間も、王宮楽士団たちは演奏を続けている。観客たちは、背景が倒されたことには驚いたものの、"怒りの獣"の役らしいことを喋るアメミットに、今回もフェザーブーツ劇団の演出と捉え、座席で舞台の様子に目を見張っている。
 メシアを囲んで立っていた劇団員たちは、慌てふためいて逃げ出し、舞台袖へと引っ込んだ。"魔力の王"と、彼の周囲にいた四人の劇団員たちは逃げ出さなかったが、こんな恐ろしい怪物を使ったアドリブをぶち込まれ、頭も体もついていけないといった様子だ。
 …ホルスの野郎、ここで怪物を叩き込んできやがって、何をさせたいんだ!!
 嫌な予感しかせず、ソフィスタは魔法力を高め始めた。
 アメミットは、ゆっくりとメシアに近づく。メシアは、アメミットから己に対する敵意が感じられないため、こちらとしてはどう行動すれば良いのか分からず、とりあえず懐に隠れているセタに「出てくるな」とだけ声をかけておいた。
「"証の神"よ。あなたは、ここで待っていて下さい。私が直ちに、あの人間どもを殲滅させてみせましょう」
 そう言って、アメミットはメシアの体を尻尾で撫でた。硬い鱗の感触が衣装の上から伝わってくるが、アメミットが気を使っているためか、重いとは感じなかった。
 しかし、尾びれの先がメシアの両肩をかすめた時、衣装が摺り切られる音と共に、肩に僅かな痛みを感じた。
「さあ、滅ぶがいい、人間どもよ!神々の世界のために!!」
 アメミットが吠え、獅子の上半身の毛を総立たせて尻尾を振り上げた。細い瞳孔でソフィスタたちを見据え、後ろ脚に力を込める。
 いかにも、これからソフィスタたちに襲い掛からんとする体勢のアメミットに、メシアは慌てて叫んだ。
「やめろ!!人間たちを傷つけてはいけない!!」
 メシアは、両腕を戒めるロープを引きちぎり、アメミットの前に立ちはだかろうとした。
 だが、いくら力を入れてもロープを引きちぎることができず、それどころか、肩から指先まで、急速に感覚が失われてゆく。
 メシアは戸惑い、その隙にアメミットはソフィスタたちをめがけて、薙ぎ払うように尻尾を振った。
 "魔力の王"と、その配下役たちが、短い悲鳴を上げて床に伏せる。
「そのまま動かないで下さい!」
 近くにいる劇団員たちにしか聞こえないよう声量を抑えて、そう言い放つと、ソフィスタは尻尾に向けて手をかざした。
「ルコス!!」
 舞台袖に隠れているはずのルコスの名を呼びながら、ソフィスタは魔法力を解放し、攻撃を防ぐ魔法障壁を出現させた。ソフィスタの声は観客にも聞こえているだろうが、ルコスの名を魔法の呪文と勘違いさせるよう叫んだつもりだ。強引な気もするが、この派手なパフォーマンスを前にして、そんな細かいことに気付く観客など、そうはいないだろう。
 アメミットの尻尾は、魔法障壁によって大きく弾かれる。
 …思ったより、威力が無いな。もっと魔法障壁の強度を弱めて魔法力を節約してもよかったか?でも、アメミットの力が計りきれていない以上、下手に手を抜くことはできない。
 魔法障壁に込められた魔法力は、受けた攻撃に対し反発する力を働かせることで消耗し、それによって込められた魔法力が尽きれば消えてしまう。
 だが、アメミットの攻撃では、思ったより魔法力の消耗が少なかった。それでも、直撃すればソフィスタの体は軽々と吹っ飛ばされたことだろうが。
 …尻尾での攻撃は、遠心力が加わっているから、確かに強力だ。でも、それを差し引いても…。
「やめろと言っておろうが!!こんなことをして何になるというのだ!!」
 ソフィスタがアメミットの力を分析していると、メシアがソフィスタとアメミットの間に割り込み、アメミットを見上げて叫んだ。
「何になると…?これは異なことを言う。私は人間を滅ぼすために、神によって生み出されし存在。人間を排除することは、神より承りし使命であり、本能なのです」
 まるで、信心深いメシアと、メシアら種族ネスタジェセルを滅ぼさんとするエルフを足したようなセリフである。
 そうやってアメミットが喋っている間に、背景の裏側を通って移動してきたルコスが、ソフィスタの足元に近付く。
「そんな…だが、それは…」
 メシアは無意識的に歯切れが悪くなる。そんなメシアを無視し、アメミットは吠えた。
「さあ、人間どもめ!皆殺しにしてくれる!まずは…"魔力の王妃"!貴様からだ!!」
 アメミットはメシアを飛び越え、前足を突き出してソフィスタたちに飛び掛かった。
 メシアは、ソフィスタたちを助けるべく駆け寄ろうと、彼女を振り返ったが、ソフィスタが生じさせた魔法障壁が、ソフィスタとメシアを隔てていることに気付いた。
 先ほどの尻尾での攻撃は魔法障壁で防げたが、今度はアメミットの全体重が乗せられた攻撃だ。防ぎきることができないかもしれない。そう考え、ソフィスタは劇団員たちに「避けて!!」と伝えながら、足元のルコスを掴み、衣装の肩の膨らみの中に隠した。
 アメミットの前足が、魔法障壁に触れた。劇団員たちとソフィスタが、攻撃を避けるべく飛び退いたのは、その瞬間であった。
 魔法障壁は、いとも簡単に消滅し、アメミットは前足から床に着地する。大きな音を立てて床は揺らされるが、壊れることはなかった。
 …おかしい!今の魔法障壁の消え方は、アメミットの体重に耐えきれなくなって消えたのとは違う!!
 魔法障壁は、アメミットの攻撃に対し、反発する力を全く働かせずに消え去った。アメミットの体重が乗った攻撃が、例え今の魔法障壁の強度では耐えられないものだったとしても、多少なりとアメミットを押し返したはずだ。
 …力に押し負けたんじゃなく、消えた…。あいつ、魔法の効果を打ち消す魔法が使えるのか?でも、アメミットからは魔法力を全く感じ取れない…。
 とても自然の生物とは思えない体と、その体積を縮めて箱のような形態となれるアメミットが、魔法生物なら納得できるのだが、魔法力を感じ取れない以上、その線は有り得ない。
 …いったい、コイツは何なんだ!ホルスのヤツ、こんなバケモノ、どこで見つけて、どうやって手懐けたんだ!!
 ソフィスタは体勢を整え、アメミットを睨もうと顔を上げたが、その視線はメシアの背中によって遮られた。
「ソフィスタ、怪我は無いか!」
 メシアがソフィスタに駆け寄り、アメミットと向かい合ったまま彼女に声をかける。"魔力の王"と、その配下役たちは、ソフィスタとメシアの横を通り過ぎ、アメミットから離れてゆく。
「バカ!気持ちは分かるが、あたしのことは"魔力の王妃"と呼べ!あたしも、お前を"証の神"って呼ぶから!!」
 思いっきり名前を呼ばれたソフィスタは、小声でメシアを注意する。メシアは「え?あ、うむ!」と、ソフィスタにつられて小声で返事をした。
 ソフィスタは、さりげなくメシアの背中に寄り添う。彼の衣装の肩の辺りが破られ、露出した肌に一文字の傷がついていることにソフィスタは気付いたが、今は、あまり気にしないことにした。
 彼の耳元で、ソフィスタは囁く。
「あの怪物は…何のつもりで第七幕にまで現れたかは知らないが、"怒りの獣"の役として演技をする気はあるみたいだ。とにかく、あいつは"怒りの獣"、あたしのことは"魔力の王妃"と呼ぶようにな!」
 アメミットは、舞台"詩の子"の話の流れは無視して乱入してきたが、人間を滅ぼすために神々によって作られたという"怒りの獣"の設定は守っている。こうして台本に無い行動を取らせる以上、ソフィスタたちもアドリブで対応せざるを得ないことも考慮した上で、ホルスはアメミットに指示を出しているはずだ。
 アメミットにとって、こちらも予想外の行動を取っても、"怒りの獣"として対応するはずだ。確信は無いが、疑い探り検証する暇も無い。
 とりあえずメシアには、ソフィスタを"魔力の王妃"、アメミットを"怒りの獣"と呼ばせれば、舞台"詩の子"の特別編として芝居は続けられるだろう。
 だが先ほど、メシアはうっかりソフィスタの名前を呼んでしまった。分かりきっていたことだが、メシアにはアドリブは無理だ。ここはソフィスタがメシアを先導するしかない。
「いいか、"証の神"。できるだけ、あたしから離れるな。離れることがあっても、すぐに戻ってこい。そのほうが指示を出しやすい。ここからは、演技はあたしに合わせて…」
 ソフィスタは早口でメシアに話していたが、その途中で、メシアは己に向けられた殺気に気付いた。
「うおおぉ―――!!」
 雄たけびを上げて、"魔力の王"の配下役の劇団員たちが、メシアめがけて槍を突き出してきた。メシアは、とっさにソフィスタの衣装を咥えて引き、一緒に床に倒れ込んで槍をかわす。
 頭上で四本の槍が交差し、穂がかち合って劇団員たちがもたついている間に、メシアはソフィスタと共に劇団員たちと距離を取る。
 かろうじて、槍が届く範囲からは出ることができたが、メシアとソフィスタは、槍を構え直す劇団員たちとアメミットの間に挟まれる形となる。
「"証の神"め、お前のせいだ!お前さえいなければ!!」
 "魔力の王"の配下役たちは、怒りに満ちた形相でメシアを睨む。それを見て、"魔力の王"役の劇団員も「謀ったな、"証の神"め!!」とメシアを指差しながら叫ぶが、ソフィスタは彼の声や視線から戸惑いを感じた。
「ど・どうなっておるのだ、ソフィ…"魔力の王妃"よ。彼らの殺意は本物だ」
 稽古期間中は仲良く寝食を共にしていた劇団員たちに殺意を向けられ、メシアは困惑するが、ソフィスタに言われた通り、彼女を"魔力の王妃"と呼ぶようには努めた。
「あたしにも分かんねぇよ。もしかしたら、あいつらもホルスに何かされたのかもしれない。…"魔力の王"だけは、そうは見えないけれど…」
 背中を合わせて立ち上がり、ソフィスタはアメミットと、メシアは劇団員たちと向かい合いながら、小声で話す。
「でも、あの槍はそんな脅威にはならないだろ。…"怒りの獣"のほうは、どこまで凌げるか分からない…」
 木製の槍は、殺傷力は低いとは言え、本気で襲い掛かられたら怪我をする。
 彼らの殺意は本物で、しかし本人の意思ではなくホルスに植え付けられたものだとしても、こちらが一方的に痛い目に遭う道理は無いと、ソフィスタは考えている。
「うむ…だが、私の体が、どうもおかしいのだ。腕に全く力が入らぬ」
「は?どうして!」
「分からぬ。"怒りの獣"が現れたあたりから、肩から指先までの感覚が無くなっていったのだ」
 それを聞いて、ソフィスタは、メシアの肩の傷に原因があるのではないかと察した。
 …そういえば、メシアは"怒りの獣"の尻尾に体を撫でられていたな。あの時に肩を傷つけられ、傷口から麻酔薬のようなものが染み込んだのかもしれない…。
「…"証の神"よ。これでもまだ人間を庇うつもりですか?」
 ソフィスタが考えていると、アメミットが喋り始めた。
「人間たちは、あなたの命を何とも思っていない。そんな人間たちが、あなた亡き後に他の神々を救うと、本気で信じているのですか?答えて下さい」
 答えろと言われ、メシアは言葉に詰まった。
 台本に無いセリフを求められているからではない。メシアも、"証の神"が心から人間を信じて命を差し出したのだとは思えなかったからだ。
 …命の奪い合いは、間違っている。自ら命を差し出す行為も、間違っている。それでも"証の神"が死を選んだのは、深い事情があったからなのかもしれない。だが、"魔力の王妃"を愛していたのなら、全てを投げ打ってでも愛する者と共に生きたいとは思わなかったのだろうか…。
 アメミットに問われ、改めて考え始めると、ますます何と答えればいいのかが分からなくなってゆく。難しそうな顔で悩み、黙っているメシアを、アメミットも黙って見つめていたが、やがて、ため息をついた。
「…私の使命は、人間を滅ぼすこと。そして、それによって神々を守ること。しかし…あなたには考えを改めて頂く必要がありますね。あなたが庇う人間によって、少し痛い目に遭ってはいかがですか?」
 アメミットは、まるで笑うように牙を見せ、口の端を釣り上げる。怪物のわりには表情が人間じみているが、そんなことを気にする余裕はソフィスタとメシアには無かった。「痛い目」と聞いて、警戒心ばかりが高まる。
「ちょうどそこに、あなたを殺そうとする人間たちがいます。人間と分かり合うことなど不可能であることを、身を以って思い知るとよいでしょう。…大丈夫。あなたが殺されそうになったら、その前に私が人間たちを殺します」
 そう喋るアメミットの瞳が、ソフィスタにはホルスのものと重なって見えた。常に優位に立っているつもりで余裕があり、こちらにとっては冗談では済まないことを面白がっている、性質の悪い悪戯っ子のような瞳だ。
 "魔力の王"の配下役たちが、示し合わせたかのように揃って槍を構え直し、穂先をメシアに向ける。
「そして…"魔力の王妃"よ。お前の存在が"証の神"を惑わしているのなら、私がお前を殺してやる!!」
 ただでさえ恐ろしい形相を、さらに怒りで醜く歪ませ、アメミットはソフィスタに吠える。芝居だと思いこんでいる観客たちも、その迫力に震えあがった。
 だが、怒りの矛先を向けられているソフィスタは、怯むどころかアメミットを睨み返した。
 …さっきから殺す殺すって、うるせーんだよ!!!
 観客席からは見えないよう気を配った"魔力の王妃"らしからぬ表情に加え、そう怒鳴りつけてやりたかったが、そこは堪えた。
 メシアを導く者だと自称するホルスに操られているであろう者たちの、先程から連呼される殺害宣言は、いったい何なのだろうか。そもそもホルスは、メシアをどこへ導いているつもりなのだろうか。
 ホルスの考えが、全く読めない。ホルスの言動が、全く理解できず、何が嘘で何が本当なのかも分からない。
 この舞台も、ホルスがどんな結末を望んで話の道筋を変えたのか、分からない。訳も分からないまま、ソフィスタとメシアはアメミットたちの言動に踊らされながら、"魔力の王妃"と"証の神"を演じ続けているのだ。
 この舞台は、もはやホルスに主導権が握られているのも同然だ。それがソフィスタには気に入らず、腹を立てていた。
「…"魔力の王妃"。"怒りの獣"も、本気で我々を襲うつもりのようだ。ここは戦うしかないのだろうか。もちろん、手加減はするが…」
 メシアは、まだオロオロしている。ソフィスタは、さり気なくメシアの腕を触り、全く反応が無いことを確認した。
 これもホルスの指示によるものなのだろうか。第三幕で、アメミットを拳の一撃で床にめり込ませたメシアへのハンデのつもりだろうか。
「"証の神"、紅玉の力で、こいつらを気絶させることはできないのか?」
「…少なくとも私は、左手に着けて掲げなければ、紅玉の力を使うことはできぬはずだ」
 ユドに紅玉を外された時、メシアの手から離れていたにも関わらず、紅玉は自らの意思でそうしたように、ソフィスタを虹色の光で包み込んでいたそうだが、それ以外で、メシアの左手に装着されていない状態で紅玉の力を使えた試しは無い。
 人間の姿に変身している最中は、紅玉がメシアから離れさえしなければ、元の姿に戻ることは無い。その辺りは検証済みである。
 メシアの答えを聞き、ソフィスタは「そうか」と呟く。
 …メシアの腕は動かないし、エルフのユドも紅玉のことは知っている。できるだけ隠したままで頼らないほうがいいかもね。あたしの魔法は…まだアメミットの攻撃を何度か防げるくらいの余裕はあるな。
 ソフィスタは、今の自分たちの状態と、アメミットと"魔力の王"の配下たちの状態、そして今までにアメミットが見せてきた不思議な能力を、可能な限り把握し、そこから打開策を探る。
 …観客たちには芝居だと思いこませたまま、この状況をどうにかするのが最善かもしれない。いざとなったら、芝居を無視してでも逃げるなりするけれど…そうなった時、ホルスがアメミットにどう行動させるかが分からない…。
 ソフィスタは、アメミットが観客にまで危害を加える可能性を危惧していた。
 アメミットが"怒りの獣"を演じている以上、この舞台"詩の子"が成り立っている間は、観客席にまで危害を加えないだろう。確信は無いが、下手に芝居を壊すよりは、今の状態を保ったほうが、まだ安全だとソフィスタは考える。
 それに、アメミットの能力は計り知れないが、なんとなくだが、ソフィスタには弱点が見えていた。
 …ってか、いいかげんホルスの奴に踊らされるのは、うんざりなんだよ!!そっちがアドリブぶち込んでくるのなら、こっちだってテメェの考える筋書きをぶっ壊してやる!!
 ホルスには腹を立てさせられ続ける中、魔法力が高いとされている割には悲観してばかりな"魔力の王妃"を演じ続けるのも、嫌になってきた頃だった。ソフィスタは、深く息を吐き出すと、メシアに告げた。
「人間のほうは、あたしがどうにかする。"怒りの獣"が攻撃を仕掛けてくるようなら、防ぐに徹しろ。だが尻尾の攻撃は、極力避けろ。いいな」
 ソフィスタの声は落ち着いており、どこか吹っ切れているような感じすらした。それを不思議に思いながらも、メシアは「うむ」と答えた。


 *

 ホルスは観客席の後ろから、舞台の様子を眺めていた。
 第一幕でメシアがホルスを見つけたのと、同じ場所である。第七幕でアメミットが乱入する、ほぼ直前から、この場所にいるのだが、今のメシアには観客席を気にする余裕など無かった。
 だが、もし見つかっても、それはそれで面白いことになりそうなので、かまわない。そう考えてホルスは、この場所に戻ってきたのだった。
「…やれやれ。お芝居は静かに観賞するものじゃないの?」
 観客たちは、思わず立ち上がって身を乗り出したり、声を上げたりしながら、舞台を楽しんでいる。うっとうしいが、その気持ちはホルスにも分かった。
「ふふふ…これだけ舞台をひっかき回しても、まだ芝居として成り立たせようとしているんだ。よく頑張るね。こりゃあボクも、約束通りエルフのほうには、しっかりと手を回してあげないと」
 "魔力の王"の配下役とアメミットに挟まれ、メシアは戸惑っているが、ソフィスタは冷静に状況を分析し、打開策を練っているといった様子だ。舞台まではかなりの距離があるが、ホルスの金色の瞳は、メシアとソフィスタの表情をハッキリと映し出していた。
 小声で話し合っているのも、口の動きから察したが、話の内容までは分からない。だからこそ、彼らがどのような行動に出るかが、ホルスは楽しみでしかたない。
「ごめんね、メシア。やっぱりボクは、この物語が好きになれないんだ。だから、ちょっと物語を壊しちゃうついでに、君たちに試練を与えちゃった」
 ソフィスタが何やらメシアに話しかけ、メシアが頷く。それを確認し、ソフィスタはアメミットを見上げた。どこか吹っ切れたような、その表情を見て、面白いことが起こりそうな予感に、ホルスは胸を躍らせる。
「さあメシア。ソフィスタと協力して、ボクの試練を乗り越えてみせろ!そして君たちが、この物語を、どんな結末へと導いてゆくのか、ボクに見せておくれ!」
 ホルスの声は、騒めきと演奏も手伝い、舞台から目が離せない観客たちの耳には届いていなかった。


  (続く)


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