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ありのままのメシア 第十三話


   ・第四章 錯覚

 レジーの家に着くと、馬車は庭に停め、ソフィスタは馬の世話を始めた。メシアは、用意された部屋へ荷物を運び、そのまま部屋で休んでいろとソフィスタに言われていたので、きれいに整えられたベッドに腰をかけて休もうとしたのだが、さほど経たないうちに、食事の用意ができたとレジーに呼ばれた。
 急な来客であったにも関わらず、見た目も量もなかなか豪勢な料理が食卓に並べられていた。レジーの妻と、ソフィスタより少し年下くらいの娘は、急な来客ならレジーの同僚で慣れているとソフィスタとメシアに笑って話した。
 しかし、レジーの家にはもう一人、末っ子の男の子がおり、メシアの姿を怖がって縮こまっていた。まあ、泣いて嫌がらないだけマシである。

「それにしても、マリアさんを助けるためとは言え、全く抵抗しなかったのは、どうかと思うよ」
「他に良い方法が思いつかなかったのだ。じっくり考える時間も無くてな」
 レジーとはテーブルを挟んで正面の席に座っているメシアは、隣に座るソフィスタと、マリアの話を続けていた。筋骨隆々のわりにはソフィスタの尻に敷かれている感のあるメシアの様子に、レジーの末の息子の緊張は解れてゆき、レジーの娘も興味深そうに二人の話を聞いている。
 メシアのほうも、レジーの家族らと共に食卓を囲み、美味しい料理をごちそうになって、少しは元気を取り戻したように見える。
 レジーは妻と娘に感謝し、彼女たちの手料理を噛みしめる。
「だからって、打ち所が悪かったら、どうするんだよ」
「それを言うなら、ソフィスタが私に放った攻撃の魔法の数々のほうが、よほど効くわ」
「…余計なことを言うな。とにかく、お前のムチャな行動は、こっちとしても心臓に悪いんだよ」
 そう話して、ソフィスタは果実ジュースが入ったグラスに口を付けたが、グラスを傾ける前に、今気付いたように「面倒なことを増やされまいかと、気が気でならないんだ」と付け加えた。
 本心ではメシアを心配し、しかしそれを悟られまいとしているのだろうか。そういう態度を娘に取られた覚えのあるレジーは、ソフィスタを微笑ましく見つめるが、同時に悲しみが込み上げてきた。
 …照れくさいから、という理由で気持ちを素直に表さないのなら…それはとても贅沢なことなのかもしれない。
 レジーは、メシアが拘置所に入れられていることを知った時のマリアを思い出す。
 あの朝、マリアの家へメシアを運んだレジーは、海水にまみれた装束を脱がせてメシアの体を拭いてやった後、メシアと二人きりになりたいというマリアの願いを聞き入れ、メシアに着せてやってくれと自分のローブを彼女に渡した後、自警隊の仕事に戻った。
 それからしばらくして、様子を見に行こうと考えた矢先に、マリアが倒れて診療所に運ばれたと、仲間の自警隊員から知らされた。
 それ以上の話は聞かずに、レジーは血相を変えて診療所へとすっ飛んだ。そして診療所で、すでに目を覚ましていたマリアが、ひどく取り乱している様子を目の当たりにした。
 マリアを診療所に運んで付き添っていた自警隊員は、緑色の肌の男を拘置所に入れたと話したらマリアが取り乱し始めたと言い、ここで初めてレジーはメシアが拘束されていることを知った。
 レジーはマリアを落ち着かせると、きっとメシアはマリアを助けようとして誤解されたのだと察し、マリアと共に拘置所へ向かったのだが、その時のマリアの心配ぶりや、診療所での取り乱しぶりは、トルシエラ大陸で暮らしていた頃でも見たことが無いほどだった。
 …あんなにもメシア様を思っていたというのに、それを隠したまま…マリア様は…。
 レジーは食事の手を休めてソフィスタを見つめていたが、ふとソフィスタと目が合い、不審がられてはいけないと思って会話に加わった。
「そう、ソフィスタさんの言う通りだ。マリアさんも、メシア君が拘置所に入れられたと聞いて、とても心配していたんだよ」
 話しながら、レジーはメシアへと視線を移した。メシアは「そうであったな…」と、すまなさそうに呟く。
「…そんなに心配されていたのか?初対面の人間に、お前が?」
 ソフィスタは、疑わしそうにレジーを見てから、これまた疑わしそうにメシアに尋ねる。
「うむ。マリアさんは私のことを、自分の子供に見立てていたようなのでな。私を叱りつけたのも、そのためだったのかもしれぬ」
「えっ、マリアさんに子供なんていたっけ」
 メシアの話を聞いて、そう声を上げたのは、レジーの娘だった。レジーは、妻と気まずそうに顔を見合わせ、メシアもレジーの娘の発言に驚いた後、手で口を覆って俯いた。
 ソフィスタと、レジーの娘と息子は、キョトンとしていたが、ソフィスタが何かを察して「この魚のソテー、とても美味しいです。港町だから新鮮な魚が買えるんですか?」と話題を変えてくれた。レジーの妻が、ほっとした顔で「ええ、朝早くに港へ行けば、そこの市場で買えるわ」と答え、メシアやレジーの娘も加わって魚料理の話が始まった。
 レジーは、話題を変えてくれたソフィスタに感謝したが、彼女がメシアに何かを耳打ちし、その様子には不安を覚えた。
 アーネス魔法アカデミーの天才少女、ソフィスタ・ベルエ・クレメスト。彼女はレジーの様子やメシアの話の中から、何かに気付いたのかもしれない。
 それは、こちらにとって都合の悪いことかもしれないが、下手なことを口にすれば、メシアにまで不審がられてしまう。そう考えたレジーは、ここはソフィスタが提供してくれた魚の話題に便乗することにした。

 ソフィスタはメシアに「マリアさんの話の続きは、荷物を置いてきた部屋に戻ってからな」と耳打ちしていた。
 食事が終わり、ソフィスタと共に部屋に戻ったメシアは、言われた通り、拘置所に入れられてからのことをソフィスタに話し始めた。


 *

 駆け付けた自警隊員たちによって拘束され、マリアの家から拘置所の地下牢に入れられるまで、メシアは全く抵抗をしなかった。その様子を自警隊員たちは、頭を打たれて意識が朦朧としている、もしくは観念したのだと判断していた。
 石壁と鉄格子に囲まれた牢の中は、マリアと会話をしていた部屋ほど広くは無いが、家具も無いので、そんなに窮屈だとは感じない。
 鉄格子の扉の向こう側にある上り階段の左右には燭台が設えられ、その頼りない灯りは牢の奥までには及んでいない。
 さらに燭台の隣には、一人の自警隊員が立っており、じっとこちらを睨みつけているが、メシアは視線を全く気にせず、鉄格子をぺたぺたと触っていた。
 …力任せにこじ開けられそうだが…それでは間違い無く騒動が起こる…。
 メシアは、ため息をついて鉄格子に背を向けた。
 …あの人間の家までの道のりは、だいたい覚えている。装束と襟飾りが、あの家に置いてあるはずなので、ここから強引に抜け出したら、それらを回収してから町の外へ逃げればいい。そして、使命を果たしに向かえばよい。…だが…。
 メシアは牢の奥へと進み、壁に両手を着いて俯いた。
 …あの家に戻ることはできても、あの人間に会うことはできない…。
 拘置所へと連れられる途中、マリアは診療所に運ばれたと自警隊員たちが話しているのを、メシアは聞いていたが、診療所の場所までは分からなかった。
 マリアに会うには、牢を抜け出した後、追手を撒きながら診療所を探して駆け回ることになる。故郷ルクロスの村より広そうで、高い家が立ち並び複雑な道を作り上げている町の中で、果たして診療所を探し出せるだろうか。道案内のような看板を見かけたが、文字は読めなかったし、そもそも人間の世界での診療所というものの外装が分からない。
 迷った時に進む先を示してくれる紅玉も、使命とは関係の無いマリアの居場所を指し示してくれるとは思えない。
 …そうなのだ。私には果たすべき使命がある。人間が住まう地で、あまり目立つ行動を取ってはいけないとも言われている。装束や襟飾りを取り戻したら、直ちにアーネスへ向かうべきなのだ。…なのに…。
 メシアは、壁に着く手の指に力を込めた。少しだけ指が壁にめり込み、砂利が落ちる。
 …あの人間に会いたい。礼を言いたいだけではない。あの人間の香りが、あの人間の温もりが、声が、優しさが…私は恋しいのだ。会って間も無い、しかも相手は人間だというのに、彼女が愛しくてたまらない…。
 使命を優先しなければいけないと、自らマリアから離れることで忘れようとしたのだが、実際にマリアから離されると、忘れるどころか、より強まってしまった、この感情。家族や友達、許嫁たちを大切に思い、そばにいたいと願う気持ちとは、似ているようで違う。
 何がどう違うのかまでは分からず、説明がつかないのに、どんどん膨らんでゆく感情に、メシアは抗うことを忘れそうになる。
 …アーネスへ向かわなければならないというのに…彼女に会いたい…私に笑顔を向けてほしい…私の名前を呼んで欲しい…。
 そう考えた直後、女性の怒鳴り声が響いた。
「メシア―――――!!!」
 狭い地下牢の中で、よく反響するその声に驚き、メシアは思わず背筋をきれいに伸ばし、顔を上げた。声がマリアのものであることに気付くより先に、階段を駆け下りてきたマリアの姿を、振り返ったメシアの瞳が捉えた。
「メシア!!」
 マリアは、もう一度メシアの名前を呼ぶ。
 …マリアさん!!
 メシアは顔を綻ばせた。見張りの自警隊員が、鉄格子に駆け寄ろうとしたマリアの腕を掴み、危ないと言って引き止めたが、マリアの後から階段を駆け下りてきた自警隊員の男に声を掛けられると、見張りの自警隊員はマリアの手を放し、鉄格子の扉の鍵を開けた。
 自警隊員が扉を開くと、マリアは転がるように牢の中に飛び込んでメシアに駆け寄り、肉付きの少ない両手でメシアの頬を包み込んだ。
 マリアは、先程の怒鳴り声に見合った表情をしているが、それより彼女を愛おしいと思っていた矢先に頬を包まれたことにメシアは動揺する。
「警棒で殴られたそうじゃない!大丈夫なの?怪我は無い?」
 マリアはメシアの肩や腕を触って、怪我が無いことを確かめると、メシアのローブの襟を掴んで引き寄せ、「頭を殴られたのよね。見せてごらんなさい」とメシアに頭を下げさせると、長い銀髪を掻き分けるようにして頭部の状態も確かめる。
「…大丈夫なの?どこも痛くないの?」
 マリアは再びメシアの頬を包み、きょとんとした目でメシアを見つめた。その視線と、手の平の感触に、メシアはさらに動揺させられるも、かろうじて頷いた。
 マリアは「そう…」と顔を綻ばせたが、すぐにキッとメシアを睨んだ。
「なんてバカなことをしたの!!打ち所が悪くて大変なことになったらどうするの!!」
 明るく優しい印象が強かった女性に、怖い顔で真正面から怒鳴られたメシアは、掴まれて固定されている頭部以外の体をビクッと震わせて驚いた。
「倒れた私を助けようとしてくれたんでしょうけど、そんなんじゃいつか大怪我をしちゃうわよ!!もっとちゃんと落ち着いて、よく考えて行動なさい!!」
 メシアを叱るマリアの様子に、牢の外にいる自警隊員たちが、おっかなさそうな顔で「レジーさん、マリアさんて、あんなに怒る人でしたっけ…」「いや、あんなマリアさんは初めて見た」と話していたが、内容が頭の中に入ってくるほどの余裕はメシアには無かった。
「怪我をしてからじゃ遅いんですからね!!もう、あんな思いは…っ」
 そう言いかけたところで、マリアはハッとして手で口を覆い、メシアの視線から逃れるように下を向いた。
 何かに気付く直前の、ほぼ一瞬だけ、マリアは悲しげで、どこか必死な顔を見せた。メシアは、それが何故か見覚えがあるような気がして、黙り込んでしまったマリアを不思議そうに見つめる。
 やがてマリアは床にへたり込み、深く息を吐き出した。
「…怒鳴ったりして、ごめんなさい。私を助けてくれたことには、本当に感謝しているわ」
 そう話すマリアの声は、感情を押し殺したもののように聞こえる。俯いているため表情は見えないが、辛そうな雰囲気をメシアは感じた。
「私ったら、あなたのことをよく知りもしないくせに、お礼も言わずに怒鳴ってしまって…。私には、あなたを叱りつける資格なんて無いのに…」
 そして、もう一度メシアに「ごめんなさい」と謝った。
 …この人間…。
 メシアも腰を屈め、マリアの顔を覗き込んだ。
 声と同様の表情をしているが、瞳には深い悲しみを湛えている。
 マリアの家で最初に顔を合わせた時も、こんな目をしていた。それを見た時から、彼女に対し薄々と感じていたものが、今、メシアの中で確かなものとなった。
「…そんな、よそよそしくしないでくれ」
 それを聞いて、マリアが顔を上げた。彼女と目が合い、にっこりとメシアは笑う。
「あなたが来てくれたことも、叱ってくれたことも、私はとても嬉しいと感じておる」
 マリアを元気づけたいと思って、メシアはそう言ったが、決して嘘をついてはいない。
 マリアは目をぱちくりとさせ、「…メシア、その声…」と呟いた。
「声?」
 メシアは首を傾げたが、すぐに「ああ!あれ?…あっ!」と、マリアの家で目覚めてからずっと出せなかった声を発していることに気が付いた。
「あ・え、声っ…あ、出る!はっ…はははっ!声が出せるようになったぞ!よかった!」
 腰を屈めたままメシアは喜び、やがてマリアも、花のように笑顔を咲かせ、メシアの手を取った。
「うそっ、やだっ、それがあなたの声なの!?ねっ、ねえっ!もっと喋ってみてよ!!」
 マリアはメシア以上に喜び、ずいっと顔を近づけた。メシアは驚きのあまり、重心を後ろに傾かせて床に尻をついて座ってしまう。
 そんなメシアの様子におかまいなく、マリアはメシアの口の両端を摘み、左右へ軽く広げた。
「はいっ、生麦生米生卵って言ってみて」
「は?なわうぎながたわたわ…」
 わけがわからないままに早口言葉を要求され、しかも口を正確に動かすことができないため、変な発音をしてしまう。マリアはプッと吹き出し、その息がメシアの鼻先にかかった。
「あははははは!かわいい!おもしろーい!ホラ、このまま他にも何か喋ってよ!」
 マリアは目に涙を浮かべて笑う。メシアは「おい、やえお!あそうな!」とマリアに抗議の声を上げたが、余計に笑わせてしまう結果となった。だが、これほど楽しそうに笑うマリアの様子に、彼女の笑顔が見たいと望んでいた矢先のこと、嬉しい気持ちばかりが沸き上がる。
 やがてメシアもマリアにつられて笑い始めた。
「…レジーさん。マリアさんがあんなに笑うところを見たのは、初めてなんですが…」
「そうだな。あれが本当に楽しい時の…嬉しい時のマリアさんなのだな」
 地下牢に似つかわない楽し気な雰囲気が漂う中、自警隊員たちは、そんな会話をしていた。


 *

 拘置所を出ると、外は見事に夕焼けに染められていた。
 メシアとマリアは、メシアを捕えた自警隊員と、マリアと一緒に拘置所に来たレジーという名の男により、馬車でマリアの家まで送ってもらった。
 誤解してしまったお詫びにと自警隊員たちが持ち込んでくれた食材で、レジーが連れてきた妻とマリアが夕食を作ってくれたが、レジー夫妻と自警隊員たちは、夕食の準備の手伝いをしただけで帰ってしまった。
 まだ仕事があるからなどと彼らは言っていたが、その時にレジーがやたらと真剣な様子でマリアと話をしていたことが、メシアには気になった。
 メシアは、再びマリアと二人きりになった。大勢の人間と食卓を囲えなかったのは残念だが、誤解が解けてからは自警隊員たちは親切にしてくれたし、こうして人間の手料理を味わい、声が出せるようになったためマリアと会話ができる。マリアの話を聞くだけだった時よりも、ずっと幸せな気持ちで夕食の時間を過ごし、気付けばすっかり夜も更けていた。
 メシアはマリアの家に泊めてもらうこととなり、日中にメシアが寝かされていた部屋とは別の部屋を用意してもらった。
 戦士の装束は、すっかり乾き、身に付けている紅玉以外のアクセサリーと共にテーブルの上に置いてある。レジーが、もう一着ローブを貸してくれたので、メシアはそれに着替え、就寝の準備を進めていた。
「メシア、入ってもいい?」
 ベッドに腰を掛け、そろそろ眠る前にマリアに声を掛けに行こうかと考え始めていたところでドアがノックされ、マリアの声が聞こえた。メシアは「よいぞ」と答える。
 ドアが開き、水差しとコップを持ったマリアが部屋に入ってくる。清楚なネグリジェ風の寝間着姿で、ゆったりとした襟元から、肉付きの少ない鎖骨が覗いている。
 痩せすぎている体といい、昼に倒れたことといい、このまま一人暮らしを続けても大丈夫なのだろうかと、メシアはマリアを心配する。
 夕食時にも、メシアはマリアにそのことを尋ねたが、マリアは「たまたま薬を飲み忘れていただけだから、心配しないで」と答えた。その笑顔を見てメシアは焦燥に駆られたが、何度聞いてもマリアは「大丈夫」と笑って答え、人間の体や病気について全く知らないメシアには「もう薬を飲み忘れるでないぞ」と念を押すしかなかった。
「喉が渇いたら、これを飲んでね。明日の朝には町を発つのでしょう。アーネスは、徒歩だと十日はかかるくらい遠いから、体を休められる時は、しっかりと休むのよ」
 マリアは、ベッドの傍にある低い棚の上に、水差しとコップを置き、そう話した。
 メシアの旅の事情については、話せることは夕食時にマリアに話してある。助けてくれた恩もあるし、何よりマリアを信頼してのことだった。
「あら、髪を梳かしていないんじゃないの?やってあげるわ」
 そう言って、マリアはメシアの隣に腰かけ、水差しを置いた棚の引き出しからブラシを取り出した。そして、メシアの肩を押して背中を向けさせ、長い銀髪を梳き始める。
 幼い頃に、こうやって育ての親に髪を手入れしてもらっていたのを思い出し、メシアは懐かしく感じるも、大人になってからこうされることに気恥ずかしさも覚えた。
 そして、こんな穏やかな気持ちにさせてくれるマリアへの親しみと感謝を込め、メシアは「ありがとう、マリアさん」と彼女に礼を言った。
「なあに、改まっちゃって」
 マリアに背を向けているため、その表情は見えないが、照れくさそうに笑っている様子を想像させる声であった。
「あなたは、見ず知らずの私を助け、とても親切にしてくれた。言葉を発することもできず、外見も違う…人間にとっては化け物のように見える私に、こんなに良くしてくれる…」
 メシアの言葉は感謝の気持ちで溢れていたが、なぜかマリアは息を呑むように呼吸し、髪を梳く手を止めた。その反応に、何かいけないことを言ってしまっただろうかとメシアは不安になる。
 少し間を置き、マリアは優しい声でメシアに語り始めた。
「…メシア。自分のことを化け物だなんて言っちゃダメよ。私たちは同じ大地に生まれた生き物じゃない。それに、猫や鳥などと比べると、よほど私たちは似ているわ。そう考えると、もしかしたら私たちの祖先は同じ種族だったかもしれないわよ」
 それを聞いて、メシアは唖然とした。
 言葉が通じる以上、ネスタジェセルと人間には、かつて交流があったことは間違い無いし、昔はネスタジェセルは人間に迫害されていたのかもしれないが、今なら分かり合えるのではないかと考えたことならある。だが、祖先が同じかもしれないという考え方をしたことは無かった。
 マリアの言う通り、他の動物や昆虫などの生物と比べれば、確かにネスタジェセルと人間は近い体をしている。生物の進化について、そんなに詳しくは無いので確かなことは言えないが、可能性は無くはないだろう。だが、その発想に至るには、偏見を持たず広い視野が必要だ。
 マリアは本当にメシアを化け物とは思っていない。他の者の感覚に惑わされず、しっかりと自分の考え方を持ち、平等に、広い視野で物事を見ることができる者なのだと、メシアはマリアを尊敬する。
 マリアがメシアの髪を梳き終えると、メシアはマリアを振り返った。
「マリアさん。今日は本当に世話になった。明日ここを発つ前に、ぜひお礼をさせてくれ」
 メシアがそう言うと、マリアは「いいのよ、気にしなくて」と笑い、手にしていたブラシを引き出しの中へ戻した。
「そうはいかぬ。…とは言え、今の私では大したお礼はできないかもしれぬが、せめて…」
 メシアはマリアに真剣な眼差しを送り、こう続けた。
「あなたは時々、辛く悲しそうな顔をする。あなたの笑顔も、何かを押し殺しているように見えることがあった。あなたは、いったい何を心に抱え込んでいるのだ。…一日にも満たない短い時間しか一緒に過ごしていない私では頼りないだろうが、せめて少しでも、その苦しみを和らげさせてほしいのだ」
 マリアが持つ明るい雰囲気の中に見え隠れする悲しみは気のせいではない。拘置所の彼女の様子を見て、メシアは確信していた。
 あの明るさと優しさも決して嘘だとは思わないが、深い悲しみと後悔の念の反動のようにも感じ取れる。
 初めて親切に接してくれた人間が苦しみを抱えているのだと思うと、このまま何もしてやれずにアーネスへ向かうことなど、メシアにはできない。神の使命を果たすことが何よりも大切だとは分かっているが、偉大で慈悲深い神に使える戦士として、恩ある者に何も返さないのも辱である。
 マリアに惹かれていることを認め、離れたくなくなってしまう恐れはあるが、そうならないよう線引きをしつつ、恩返しにマリアの苦しみを、せめて和らげたいと、拘置所を出てからずっとメシアは考えていた。
「…私、べつに苦しくなんて…。あなたとお話ができただけで充分だから…私…」
 マリアはメシアから顔を逸らし、口ごもり、そして黙ってしまった。その間も、メシアはマリアを見つめていた。
 やがてマリアは「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」と言って立ち上がった。
「私ね、西にある…ここからずっと遠い国で、結婚して、子供を授かったの」
 マリアはメシアの正面に立つ。口もとには微かに微笑みを湛えているが、瞳は明らかに悲しみに満ちている。
「…でも、子供が産まれてすぐ夫とは関係を断ち、私は子供を連れて、その国から離れたわ」
 結婚した男女は添い遂げるのが当たり前だと思っていたメシアは、夫との関係を断つという意味を理解できなかった。そして、マリアがかつては伴侶を得て子供まで授かっていたことに、なんだかモヤモヤした気分になり、それを隠すように俯いた。
「…そうか…。あなたは既に母である身なのだな…」
 メシアがそう呟いた時、マリアはスカートの裾を強く握り締め、「いいえ…」と震える声を発した。
「私は子供を産んだだけ。その子の母である資格は無い。だって、私…、その子を捨てたの」
 子供を捨てるという意味も、メシアは一瞬理解できなかった。
 弱って生存の見込みが無い子供を見放す動物がいるということなら知っている。しかし、少なくともネスタジェセルには、自分の力では生きられない子供を見放す親はおらず、そうせざるを得ないほどの状況になった例も見たことが無い。それに、知性ある種族なので、弱って生まれた子供を見放さずに済む工夫もできるだろう。
 そのため、ネスタジェセルと同等かそれ以上の知性がありそうな人間も、子供は大切に育てる種族なのだと自然と思い込んでいたのだ。
 メシアがマリアを見上げると、僅かに残っていた明るさは完全に消え去り、まるでひどい痛みを堪えているような顔をしていた。
「何も知らない…自分の力では何もできない赤ん坊だった。なのに、守るべき我が子を自分の勝手な都合で捨ててしまったの。ひどい女でしょう。…その子を捨てたのは十七年前。きれいな目をした男の子だったわ。だから、あなたに一つだけお願いがあるの」
 一呼吸置き、マリアはメシアに、こう言った。
「私のことを、ひどい女だと叱って。まだ言葉がわからず、泣くことしかできなかったあの子が私に言いたかったことを、あなたが言って」
 夫婦や親子の関係を断ち切る意味を、メシアはまだ理解しきれていなかったが、マリアの苦しみの正体は分かった。
 我が子を捨てた、自責の念。十七年前、まだ言葉が分からない赤ん坊だったということは、その子供が生きていればメシアと同じくらいの年齢になっているだろう。メシアを映したマリアの瞳が悲しみを宿しているのは、そこに理由があるのかもしれない。
 マリアの言う、自分勝手な都合というものが何かは分からない。夫と別れ子供を捨てるという事例を知り、受けたショックは大きい。それでも、自分の中ではハッキリとしていて、決して揺るがない思いが一つ、メシアにはあった。
「…違う!!」
 大きな声ではないが強い意思を込めて、メシアは言った。それを聞いて少し驚いたマリアの両手を、メシアは強く握る。
「あなたには自ら望んで我が子を捨てることはできない!どうしても、そうならざるを得ない事情があったのだろう!あなたは、それを重い罪として背負い、己を責めているのだ。そのような者を、ひどい女だとは思わない!」
 真っ直ぐな目で、メシアは語った。そして、マリアの手を握る力を緩め、宝物のように優しく包むと、メシアは微笑んで「それに…」と続けた。
「あなたは、とても優しく子供思いの素敵な女性だ。そんなあなたの血を受け継いだ子供も、強く正しく、清らな心を持っているに違いない」
 心から、そう信じて疑わないメシアの言葉に、マリアは瞳を大きく見開き、肩を震わせた。その様子に気付きつつも、メシアは話を続ける。
「もし、ここにあなたの子供がいて、私に話したことと同じことを聞かされても、あなたを信じ、あなたの心の痛みを分かってくれる。そして、必ずあなたを好きになり、あなたが母親であることを喜ぶだろう」
 瞳孔の細い赤い瞳に純真な光を湛え、メシアはマリアを見つめる。
 全てを許し受け入れる目。心からの思いを伝える声。そしてマリアに触れる手の優しい感触。メシアは全身でマリアへの思いを現していた。
「だから、そんなに自分を責めないで…」
 メシアは、さらに言葉を続けようとしたが、マリアが顔を歪め、ぼろぼろと涙をこぼし始めたので、とっさにメシアはマリアの手を離した。
「まっ、マリアさん!?あ、その…もしかして、手を強く握りすぎてしまったか!?」
 慰めるつもりではあったが、まさか泣くほどとは思っていないメシアは、焦ってそんなことを言う。マリアは手の甲で涙を拭い、「違う、違うの」と首を横に振る。
 しばらくマリアは、オロオロしているメシアの前で、両手で顔を覆ってしゃくり上げていたが、やがて、その手をメシアへと伸ばした。
 マリアの体が近付き、彼女は何をするのだろうかと思った直後、メシアの顔はマリアの胸に埋められ、マリアの両腕に抱えられるようにして頭を固定された。
 肉付きが少ない体だと思っていたが、胸はふくよかで柔らかく、驚いたメシアは思いきりマリアの香りを吸い込んでしまい、そこで自分の状況に気付いた。体が強張り、熱を帯びる。
 ネスタジェセルの男性としては外見も血統も上等のメシアは、同族の若い女性に、こんなふうに誘惑されたことが何度かあったが、今ほど体が熱くなったことは無い。異性に興味が無いわけではないが、男女の体の違いや役割を、あくまで種を存続するための機能として捉えている節があるため、性的な下心というものを、あまり抱かないのだ。
 それでも今、自分の中で高ぶっている気持ちは如何わしいものかもしれないと察し、それを人間の女性に抱いたことにメシアは困惑しつつも、少なくとも今は露わにしてはいけない気持ちだと自分に言い聞かせ、心を落ち着けようと努めた。
「…メシア。あなたは、強く正しく清らな心の子。それを映したように、きれいな瞳…」
 涙ぐんでいるマリアの声を聞き、メシアの動悸が少し落ち着いた。
「そんなあなたの言葉が嬉しかったの。…お願い事を変えさせてもらうわね。今だけ、あなたを私の子供だと思って抱きしめさせて」
 マリアの腕に力がこもり、より濃厚なマリアの香りが鼻腔を抜けて脳に染み渡る。
 メシアは思わず腕を上げ、マリアの腰に触れかけたところで、ゆっくりと下ろした。ベッドのシーツを強く握り締め、今にも溢れ出してしまいそうな気持ちが後押しする衝動に耐える。
 …そうか。マリアさんは、私を自分の子供に見立てていたのだ。
 生きていればメシアと同じくらいの年齢の我が子を、メシアと出会ったことでマリアは思い出し、悲しみを感じていたのだろう。人間がネスタジェセルの年齢を外見から判断できるとは思えないが、雰囲気からなんとなく年齢を察したのかもしれないと、メシアは深くは考えなかった。
 …きっと私も、マリアさんを母親のように感じていたのだろうな。
 彼女に対する不思議な懐かしさは、子供を産んだ女性が持つ雰囲気を感じ取り、自分の母親なのだと本能が錯覚していたからなのかもしれないと、メシアは思った。
 …だが私は、マリアさんの息子ではない。私の本当の母親は、マリアさんではない。
 そう考えると、メシアまでマリアを抱きしめることは憚られた。
 …それに、私まで彼女を抱けば…そして受け入れられてしまったら、彼女から離れられなくなってしまうかもしれない。母を思う子の、それ以上の感情を抱いてしまうかもしれない。錯覚によって翻弄されるわけにはいかない。
 心を落ち着けようと努めているうちに、先程まではメシアを動揺させていたマリアの感触と香りが、心安らぐものへと変わってゆく。
 …この気持ちも懐かしさも、錯覚なのだ。…そうだ、全て錯覚なのだ…。
 メシアは、そう自分に何度も言い聞かせていたが、やがて自然と目を閉じ、全身から力が抜けていった。

 その後のことは、メシアはよく覚えていない。
 いつの間にか眠ってしまったようで、空が白み始めた頃に目を覚まし、部屋にマリアの姿はなかった。
 何か夢を見ていたような気もするが、それもよく覚えていない。ただ、全てから守られているような安らぎと、何よりも深い愛情を注がれているような喜びに満たされていたことは間違いなく、メシアは少しの間、ベッドの上でその余韻に浸っていた。


  (続く)


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