・第五章 新たなる目的地隣のベッドでメシアが寝返りを打ち、深く息を吐き出す様子が、音で分かった。部屋の灯りを消して「おやすみ」と言い合い、それぞれのベッドに潜り込んだはいいが、メシアはずっとこの調子である。そんなメシアの様子と、彼から聞いたマリアの話が気になるソフィスタも、目を閉じてはいるのだが、なかなか寝付けずにいた。 …マリアさんは、十七年前に自分の子供を捨てた…か。 どうしても我が子を手放さざるを得ない事情があったのだろうとメシアは考えているようだし、メシアから聞いたマリアの人柄を考えると、マリアが我が子を捨てるような人間だとは、ソフィスタにも思えなかった。 …そうだとしても、どうしてそれをメシアに話したんだろう…。 我が子を捨てたという後ろめたい過去を、会ったばかりで種族も違うメシアに、なぜマリアは話したのだろう。そういう話は、信頼できる大人に話すものではないか。 実際、マリアと親しかったレジー夫妻は、マリアに子供がいることを知っていたようだ。レジーの娘がマリアの子供の存在を知らなかったのは、ソフィスタより年下の女の子に、子供を捨てるなどという話を聞かせたくなかったからかもしれない。 …まあ、誰が誰に何を話せるか話しにくいかなんて、人それぞれだろう。知り合って間も無く、人間社会を知らないメシアだからこそ話せるものもあるのかもしれない。…それにしたって…やっぱり腑に落ちないな…。 マリアの子供は、生きていればメシアと同じくらいの年齢になっているそうだが、人間ではなく…しかも肌の色が緑色のメシアを、なぜマリアは自分の子供に見立てることができるのだろうか。 それに、メシアは体が大きくて逞しく、態度や喋り方も堂々としているので、実年齢より大人に見える。メシアの種族…ネスタジェセルと人間の祖先は同じかもしれないというマリアの考え方は、まあ無くはないなとソフィスタも思うが、それでもメシアを自分の子供に見立てるには無理がある。 病気であるにも関わらず、見るからに怖いメシアを自宅に運び込んだことから始まり、メシアから話を聞く限りのマリアの言動には、不自然な点が多すぎる。 だが、もはやマリアには会うことも叶わない。マリアの謎を解き明かすには、彼女をよく知る者から話を聞くしかないのだ。 目蓋を開き、ソフィスタは隣のベッドを見る。暗くても、毛布をかぶって横になっているメシアの輪郭くらいは分かる。 おそらく、こちらに背を向けているのだろう。まだ起きているのだろうかと、彼の背中を見つめていると、その体が震え、しゃくり上げる声が聞こえた。 …メシア、泣いているのか? メシアは不規則的に何度も体を震わせてしゃくり上げる。涙を見せまいと気丈に振る舞っていたのが、今になって悲しみを堪えきれなくなったのだろうか。 ソフィスタも、切ない気持ちが込み上げ、息が詰まるような感覚に見舞われる。 「フブシュッ!!!」 いきなりメシアが激しく息を吹き出し、変な声…というより音を上げた。ソフィスタと、近くにある低い棚の上で布を被って休んでいるセタとルコスも、驚いて体を震わせる。 「…すまん…」 ズズッと鼻をすすり、メシアは謝る。どうやら泣いていたのではなく、くしゃみを堪えようとして堪えきれずに出してしまったようだ。 セタとルコスは布を被り直し、ソフィスタはため息をつく。 「…んだよ…てっきり泣いているかと…」 つい、そうぼやいてしまったソフィスタは、余計なことを言ってしまったかと口を噤んだ。 「私は戦士だ。泣きはせぬ」 メシアは、もそもそと動いて体をこちらへ向ける。 「戦士だからって、泣いちゃいけない道理なんて無いと思うけど」 さっきの震えはくしゃみのせいでも、本当は悲しくて泣きたいのなら、泣いてもいいのに。そんな気持ちも、ソフィスタの言葉には込められていた。 「守るべき仲間たちが安心して暮らせるよう、戦士は強くあらねばならぬ。痛みや悲しみで涙を見せては、敵に弱みとしてつけ込まれ、仲間も不安にさせてしまう。むしろ、仲間が涙を見せられるほど頼れる存在になれと、師に教えられてきた。私も、そんな存在になることを望み、己を鍛えてきたのだ」 メシアは淡々と語るが、それは自身の心を落ち着かせるべく言い聞かせているように、ソフィスタには聞こえた。 敵に弱みは見せられない。それは、人間不信のソフィスタも共感する。 「…でも、お前の強さを散々見せつけられてきたあたしからしちゃ、弱みにつけ込んでも返り討ちにされそうな気がするよ。今更いくら泣いたところで、お前を弱いだなんて思えるもんか」 ソフィスタは、深く考えず感じたままに、そう言った。すると、少し間を置いて、メシアが小さく笑う声が聞こえた。 「そう言ってもらえるだけで充分だ。ありがとう、ソフィスタ」 マリアの死を知らされてから、明るく振る舞おうとしても暗さを隠せなかったメシアの声が、久しぶりに心から嬉しそうに、そして優しく聞こえたような気がして、ソフィスタは頬を赤らめた。 こんな声を出すことはできても、メシアの悲しみは、きっとまだ深い。それでも、優しい声で礼を言われて名前を呼ばれてしまうと、汗が滲むほど顔が熱くなるのを止められず、そんな自分を恥じつつも、それだけメシアのことが好きなのだと自覚させられる。 「…そう…か…。まあ、とにかく、もう寝ないと。寒いのなら、魔法で部屋を暖めてやろうか?」 体を転がしてメシアに背を向け、声が上ずってしまいそうになるのを堪えながら、ソフィスタは言った。メシアは「いや、寒かったわけではない」と答える。 「そう。じゃあ…おやすみ」 「ああ。おやすみ」 いつものように、ソフィスタとメシアは声を掛け合う。なんとなく、日常を取り戻せたようにソフィスタは感じた。 好意を寄せていた者の死の悲しみは、時間をかけて和らげることはできても、忘れることはできないだろう。 それでも、メシアは悲しみに囚われまいとし、前を向く努力をしているようだし、嬉しいと感じたことは素直に受け入れている。 涙は見せないと言い張るのなら、きっとそれでもいいのだろう。彼に合わせて、少しずついつもの雰囲気を取り戻していくことが、ソフィスタがメシアにしてやれる最善かもしれない。 ソフィスタは目を閉じ、メシアの呼吸に耳を澄ます。メシアは、穏やかな呼吸を続けている。 先ほどまでの会話で少しはメシアを元気づけられたようだ。そう思うと、ソフィスタの気持ちも和らいでゆき、眠気を受け入れる余裕もできた。 * 翌朝、レジーの妻が作った朝食をご馳走になった後、ソフィスタとメシア、そしてレジーは、再び墓地へ向かった。 マリアの墓には、昨日メシアが手向けた花が置かれたままにされている。そこに、今朝買った花束が並べられ、ソフィスタたちは膝を着いて黙祷する。 やがてソフィスタが目を開き、次にレジーが目を開いた。二人は立ち上がるが、メシアはまだ膝を着いて頭を垂れている。 ソフィスタは、ちらりとレジーを見遣ってから、メシアに声を掛けた。 「メシア。あたしたちは入口の門の所で待っているから。急ぐことはないからね」 メシアは「うむ」と頷き、それを確認したソフィスタは、レジーを目で促してから歩き始めた。レジーは、何も言わずにソフィスタについて歩く。 昨日はマリアの墓前で落ち込むメシアの傍にいてやったが、少し気力が回復した今は、一人にしてやる時間があってもいいだろうと、ソフィスタは考えていた。 …それに、あたしも…。 開け放たれた門の手前まで来ると、ソフィスタは立ち止まり、ざっと周囲を見回した。 墓地には、ソフィスタたちの他には誰もいない。 「レジーさん。幾つか聞きたいことがあります」 ソフィスタは厳しい顔つきで、レジーと向かい合った。レジーは落ち着き払っており、まるでソフィスタが何かを聞いてくることが分かっていたかのように「ああ。なにかね」と言った。 「昨日、マリアさんの家で最初にメシアに会った時のあなたは、メシアのことを、メシアさん、と呼んでいました。だけどそれ以降は、メシアくん、と呼んでいますね。それは何故ですか?」 昨日、レジーはメシアに会った時、「メシアさっ…メシアさん!!」と確かに言った。その時は、急に訪ねてきたメシアに驚いて噛んでしまっただけで、特に不自然なことではないと、ソフィスタは気に留めなかった。 だが、次にメシアを「メシア君」と呼んだことには違和感を覚え、最初にメシアの名前を言い放った時の様子も、何かを誤魔化していたような気がしてきた。 ソフィスタの問いにレジーは顔をしかめたが、何も答えない。だがソフィスタには、答えてもらえなくても同じ質問を繰り返す気は、最初から無かった。 元々は一国の衛兵だったレジーは、質問は一度ちゃんと聞けば理解するだろうし、答えられないことは決して答えず、簡単には隙も見せないだろう。そう踏んでいたソフィスタは、さっさと次の質問へ移った。 「マリアさんは、元々はあなたのご両親と一緒に住んでいたんですよね。住む場所に困っていたマリアさんを迎え入れ、その後、マリアさんに家を譲った…。レジーさんは、家族ぐるみでずいぶんとマリアさんに良くしていたようですね。トルシエラ大陸で、あなたはマリアさんと知り合ったそうですが、一体、どういうご関係だったんですか?」 マリアとレジーは、だいぶ年が離れているし、レジーの妻もマリアと親しかったようなので、男女の関係にあったという線は、まず無いだろう。だが、ただの知り合いや友人で片付けられないほど、レジーら家族はマリアに良くしすぎだと、ソフィスタは考えていた。 レジーは相変わらず黙っている。ソフィスタは、次は少し聞きづらそうに尋ねる。 「…そもそも、マリアさんは何者なのですか?あの外見のメシアを一人暮らしの自宅へ運び、それを手伝ったあなたが、メシアとマリアさんを二人きりにしたのも不自然です。種族も違う見ず知らずの男を、病気の女性と二人きりにするほど、あなたは愚かじゃないはずです。メシアから聞いた話でも、マリアさんはメシアに対して不自然な点が幾つかあります。…あなたたちは、何者なんですか?メシアのことで、何か知っているんじゃありませんか?」 聞きづらそうな言い出し方ではあったが、後のほうは、厳しく問い詰めるような口調だった。 レジーは、なかなか口を開かない。黙り通すつもりかと、ソフィスタが諦めかけた時、レジーは深く息を吐き出して答え始めた。 「君が考えている通り、私はメシア君のことで、君たちに隠していることなら、確かにある。だが、私がメシア君に会ったのは、メシア君が町の近くの浜辺に流れ着いた時が初めてであり、彼のような種族が存在することすら知らなかった。それは本当だ」 「…じゃあ、メシアについて何か知っていたのは、マリアさんのほうだというわけですね?」 ソフィスタの追及に対し、レジーは怒った顔を見せた。ソフィスタは怯まず、むしろ睨み返してやったが、次のレジーの言葉には動揺させられてしまった。 「君は、メシア君のことが好きなのか?」 唐突な質問に、ソフィスタは「えっ」と声を上げてしまう。 「…は・はぐらかさないで下さい。質問をしているのは、私のほうなんですよ」 「いいや、これは大事なことなんだ。君はメシア君を、どう思っているのだね?好きなのか?大切なのか?保護者である以上の気持ちは無いのか?」 動揺したのが悪かったのか、レジーはソフィスタに、ずいずいと詰め寄ってくる。 ソフィスタは、レジーの質問の内容に戸惑い、彼に優位に立たれたことに怒りを覚え、だが口ごもるばかりで何も答えられず、そんな自分に何より苛立った。 やがてレジーは、ため息をついてソフィスタに背を向けた。 「今の君に話せることは、何も無い。もちろん、メシア君にもだ」 そのレジーの態度にカチンときて、ソフィスタは「そういうあんたこそ、メシアを大切に思っていると言えるんですか?」と、自分でも子供じみていると思いながらも聞き返した。 レジーは、少し考える素振りを見せてから答えた。 「メシア君は、良い子だ。だが、ほぼ会ったばかりの彼を…メシア君自身を大切に思っていると言っても、君からしてみれば説得力に欠けるのだろう」 「じゃあ、メシアに関わる何が、あなたにとって大切なのですか?」 レジーの「メシア君自身」という言葉がひっかかり、ソフィスタはレジーの背中を睨みながら、そう尋ねる。 「話せないと言っただろう。…ただ、私がメシア君の幸せを願っていることは確かだ。隠し事をするのも、彼のためなのだよ」 ほぼ会ったばかりのくせに、その隠し事とやらがメシアを幸せにする根拠が、どこにあると言えるのだろう。何がメシアを幸せにするかは、メシア自身が決めることであり、レジーが決めつけていいことではないと、ソフィスタは思う。 だが、メシアの幸せも都合も全く考えずに、研究のためにと私利私欲全開で彼をアーネスに留めたソフィスタは、思っても口に出してレジーを責めることはできなかった。 それに、メシアをアーネスに留まらせていなければ、もう一度マリアに会えていたかもしれないと、知らなかったとは言え負い目も感じている。 「…メシア君にとって何が幸せかは、私が決めることではないのは分かっている。それでも…彼を不幸にしてしまう恐れがある以上、今は隠すしかないのだよ」 ソフィスタに責められるまでもなく、レジーには自覚があったようだ。彼は、辛そうに語った。 「今は、ということは、いつかは話してもらえるのですか?」 「それもメシア君が決めることだ。…自ら望むまで、彼には君からも余計なことは話さないでくれ」 しつこく聞きすぎてしまっただろうか。レジーの声は、怒りに震えていた。その怒りがソフィスタに対するものかどうかは、ハッキリとは分からないが、あまり彼を怒らせても何のメリットも無いとソフィスタは考える。 「や〜れやれっと。ソフィスタも野暮だね〜」 そんな気まずく重い空気を無視した軽い口調が降ってきて、その声に聞き覚えがあったソフィスタは、反射的に振り返る。 視線の先、墓地を囲う塀の上に、隼と人間が混合したような姿のホルスが腰をかけ、ソフィスタたちを見下ろしていた。 「ホルス!てめェ!!」 ソフィスタは、今にも噛みつかんばかりにホルスを睨みつける。レジーも、見慣れない姿と衣装の少年が急に現れたことに驚かされている。 「ソフィスタのさあ、そうやってさあ、相手の気持ちも考えずに、何でもかんでも知りたがるトコロが嫌われるんだと、ボクは思うね」 「うるせえ!!てめェに言われる筋合いはねえよ!!」 「ソフィスタこそ、声が大きいよ。ここは墓地だよ?わきまえなよ」 神出鬼没の上に、余裕のある態度で高い位置から見下ろしてくるホルスにソフィスタは腹を立てるが、冷静さを失ってはいなかった。マントの裏に隠れているポーチに手を添え、ケヤキから貰った枝の球が入っていることを確認する。 これを使えば、ホルスに強力な攻撃魔法を放つことができる。ホルスは不思議な能力を持っているようだが、魔法力は感じ取れないので、こちらが魔法力を高めても気づかれないかもしれないと、ソフィスタは魔法力を高め始めた。 …今も確かに、ホルスからは魔法力を感じ取れない。でも…何だろう、この違和感は…。 ホルスの姿を見ていると、何かがひっかかる。だが、それが何かは分からず、モヤモヤして気持ちが悪い。 「ホルス!?ホルスなのか!?」 そこに、メシアが駆けつける。やたらと目を凝らしてホルスを見ているメシアに、ホルスはニッコリと笑って「やあ」と手を振る。 「ラゼアンに来られてよかったね、メシア。ボクが校長の帽子を取り上げたおかげなんだから、感謝してよね」 ホルスの話を聞いて、レジーがソフィスタに「どういうことだ?」と尋ねたが、ソフィスタは彼を無視して「ふざけんな!!」とホルスに言い放った。ホルスは「なんだよ〜」と唇を尖らせる。 「さっきから、何でそんなに不機嫌なの?もしかして、ソフィスタは拗ねているの?…そうか〜、そうだよね〜」 うんうんと頷いているホルスに、ソフィスタが「勝手なことをぬかすな!」と怒鳴るが、ホルスは「いや、隠さなくてもいいんだよ」と、わざとらしく笑う。 「メシアは行きたがっていたラゼアンに来られたのに、ソフィスタは行きたい場所へ行けないなんて、不公平だと思っているんだね。だから拗ねているんだよね。しょうがないなあ。それじゃあ、校長の帽子は、ソフィスタが行きたい場所で返してあげるとするか」 ソフィスタの「勝手なことをぬかすなっつってんだろ!!」という怒鳴り声を無視し、ホルスは腕を組んで考え込む仕草をする。それが見るからにわざとらしく、魔法力と共に高まりつつあったソフィスタの怒りも爆発寸前となった。 もはや校長の帽子など、どうでもいい。直ちに枝の球を使って強力な攻撃魔法を放ち、ホルスを痛めつけたところで捕え、彼の企みも正体も暴き尽くしてやる。そう決めた直後、ホルスが手をポンと叩き、明るい声でこう言った。 「よーし、じゃあ、こうしよう!帽子を返すのは、メシアとソフィスタがクレメストに着いてからね!」 それを聞いた時、ソフィスタは怒り以上に焦りを覚え、ポーチに添えていた手を思わずホルスに向けて翳し、高めていた魔法力を解放して光球を放った。 ソフィスタの急な攻撃魔法にメシアとレジーが驚く間も無く、破壊力を帯びた光球はホルスへと向かって飛び…本来なら対象にぶつかれば爆発するはずが、ホルスの体を通り抜けた。 光球は、そのまま真っ直ぐ飛び続け、やがて消え失せた。 ソフィスタとメシアとレジーは、何が起こったのだと目を見開いてホルスを見上げる。 「…そうくると思って、対策を取らせてもらったよ」 ホルスは手の平を塀の縁に何度も叩きつけてみせるが、手の平は音も立てずに塀をすり抜ける。 「キミたちに見えているボクの姿は…そうだなあ…幻影と言えば分かりやすいかな?」 ホルスは手の平だけでなく、足や胴も塀をすり抜けさせてみせる。そういえば、弱い風が吹いてもホルスの髪や衣服は揺れない。感じていた違和感の正体は、それなのだろう。 ソフィスタは、翳したままの手を下ろし、強く握り締めた。 「…何のつもりだ。どうして、あたしたちをクレメストへ…」 攻撃が効かないのなら、今は幻影を観察し、ホルス本体が近くにいるかどうかを探るしかない。そう考え、ソフィスタは血が上った頭を冷やそうと努めるが、声が怒りで震えるのは止められなかった。 「どうしてって…生まれ故郷に行きたくないの?ソフィスタ・ベルエ・クレメスト…キミのフルネームから生まれ故郷の街を察することなんて簡単じゃないか」 塀に座り直し、いかにも人を小ばかにした顔で、ホルスの幻影はソフィスタを見下ろす。こうして会話が成立している以上、こちらからも見える位置にホルス本体はいるはずだと、腹を立てながらもソフィスタは考え、メシアに「ここから見える位置にホルス本体がいるかもしれない。探せ!」と指示した。 メシアは、少し戸惑ったが、言われた通り辺りを注意深く見回し始めた。 「おっと、ボクの本体を探すのは、やめてほしいな。見つかる前に、ここは退散するとしようか。それじゃ、クレメストで待ってるよ」 ホルスは焦った様子で、そう言ってソフィスタたちに手を振る。逃げられてたまるかと、ソフィスタは「待ちやがれ!!と声を張り上げた。 「だいたい、クレメストまで何日かかると思ってんだ!唐突に来いと言われても、行けるわけないだろ!!」 「大丈夫。一日で着くから」 「はあ?どういうことだ!!」 ホルスの幻影とソフィスタが言い合っている間も、メシアはホルス本体の姿を探していた。 「あー、見つかるとホント面倒なことになりそうだから、必要なことだけ伝えて退散するね。えっと、馬車は置いて荷物だけ持って、東の森の中にある地下神殿へ、メシアとソフィスタの二人だけで行くんだ。そうすれば、まあなんとかなるだろう。じゃあねっ」 早口で言うだけ言うと、ホルスの幻影は泡が弾けたように消えてしまった。ソフィスタは思わず「待て!」と叫びそうになったが、その前にメシアに背中を叩かれた。 「ソフィスタ!あそこにホルスが!!」 メシアが指差したのは、ホルスの幻影が消えたばかりの位置だった。 だが、今までホルスの幻影によって隠されていたが、メシアが指し示す遥か先にある木の上に、隼そのものの姿のホルスが留まっていた。 ここからでは、注意して見ないと木の葉に紛れて気付けそうにない。メシアに言われて初めて、大きな隼の輪郭を捉えることができたのだ。 「…あんな遠くに…!?」 光球がすり抜けるまで、多少の違和感は感じていたものの、本物のホルスであることを疑わなかったほどの幻影を、これほど離れた場所に作りだすことは不可能だと、これまたソフィスタは思い込んでいた。メシアが見つけられなければ、塀の裏などに隠れているのだろうと、後でメシアに探させるつもりだった。 そもそも、ホルスからは魔法力が感じ取れない。ホルスの幻影からも魔法力を感知できなかったので、幻影であることを見抜けなかったのだ。 …あの幻影は、ホルスが魔法で作りだしたものではない。マジックアイテムを用いたなら、幻影から魔法力を感知できたはずだ。…いったい、あの幻影は、どうやって作りだしたものなんだ? ソフィスタは駆け出し、門を潜って塀の向こう側へと回った。ホルスの幻影が腰を掛けていた塀の下には、落ち葉が散らばっており、何者かがいた痕跡は見当たらない。 そうしているうちに、隼の姿のホルスは翼を広げて木から飛び立ち、見る間に遠く離れていった。もはや、枝の球を使って強化した魔法でも、ホルスには届くまい。 「くそっ!!」 そう吐き捨て、ソフィスタは右腕を振り下ろした。駆け寄ってきたメシアの脇腹に肘が当たったが、ソフィスタは気にしていない。 メシアも、鍛え抜かれた体は大した痛みを感じず、それよりソフィスタの様子が気になったので、何も言わなかった。 * メシアの並外れた視力と、生物の気配を察知する能力は、墓地の塀の上に座るホルスが本物では無いことを直ちに見抜いたが、目に映るホルスの姿が自然現象によるものなのか、それとも魔法によるものなのかまでは分からなかった。 ソフィスタにも、あの幻影の正体は掴めておらず、おそらくそのせいなのだろうか、ずっと不機嫌な顔をしている。 飛び去ったままホルスは戻ってきそうにもないので、メシアとソフィスタは、ひとまずレジーの家へ戻り、庭に停めさせてもらった馬車の馭者台に腰を掛けた。 レジーは自警隊の仕事があると言って出かけてしまったが、昼には戻ってくるそうだ。 去り際に「これから君たちが、どこへ行くにしても、力になれることがあれば協力しよう」と言ってくれた。メシアは素直に「ありがとう」と礼を言ったが、ソフィスタは何も言わずにムスッとしていた。 「…それで、クレメストという街へ行くのか?遠いのか?」 声を掛けづらかったが、ソフィスタは一向に口を開こうとしないので、仕方なくメシアから話を切り出した。ソフィスタはメシアをギロッと睨んだが、話をしなければ何も始まらないことは彼女にも分かっているようで、仕方なさそうにため息をついてから話し始めた。 「遠いよ。ホルスが言っていた通り、あたしの実家がある街なんだけど、アーネスまでは馬車を乗り継いで半月以上かけて移動した」 ソフィスタのフルネームの一部と同じ名前の街、クレメストは、ヒュブロ王国に属しているが、ヒュブロ領の最北にあり、王都から最も遠いそうだ。 そこにソフィスタの実家があり、両親と祖父が今も暮らしているという。アーネスを発つ、ほぼ直前に家族から送られてきた手紙にも、変わらず元気に三人で暮らしているとあったそうだ。 そうメシアに話すソフィスタの表情は、やはり機嫌が悪そうなものであった。生まれ故郷の話をするなら、もっと楽しそうにしてもいいのではないかとメシアは思ったが、得体の知れないホルスに家族が何かされまいかと心配なのだろうと考え直した。 「では、ここから一日で着く手段はあるのか?」 「転移魔法を使えば不可能じゃないけど…転移魔法ってのは距離があればあるほど難しくなる。校長くらいの魔法使いなら一日で行けるかもしれないけど、負担も大きいだろうな」 「ふむ…魔法を使えば可能ということか」 「でも、お前に転移魔法は効かないだろ。転移魔法以外には…魔法で空を飛ぶ船なんてのもあるけど、一般人が乗ることはできない。まだ安全性が低いとか、イロイロ理由があるみたいだ」 魔法で空を飛ぶ船については、魔法アカデミーの教室や図書館などに飾られている絵を見てソフィスタに尋ねたことがあるので、メシアは知っている。 「…ホルスは、どんな手段であたしたちを一日で…クレメストへ送るつもりなんだろう。そもそも、ヤツの言うことが本当かどうかも、あたしたちを地下神殿へ向かわせてどうする気なのかも分からない…」 ソフィスタは膝の上で握り合わせた手に力を込めた。 「その地下神殿は東にあると、ホルスは言っておったな。正確な場所は知っておるのか?」 「一度行ったことがあるから、知っている。ここからだと、徒歩で半日もかからない森の中にある。でも、ワブルさんの話じゃ地下神殿は事故で崩れたそうだけれど…」 一昨日まで滞在していた王都ヒュブロ知り合った、考古学者という職業の人間、ワブルのことを、メシアはすぐに思い出した。彼は遺跡の調査中に事故に遭い、足を負傷して松葉杖をついていた。その遺跡が、ホルスの言う地下神殿だったようだ。 「そうか。ならば、神殿の中ではなく、神殿があった場所付近に、クレメストへ一日で行ける何かがあるのではないか?」 「さあね。…さっきの幻影といい、アメミットといい、ホルスのヤツはヘラヘラした顔で、あたしの理解を超えていきやがる。あいつが今どこにいるか分からず、言う通りにしないと何をしてくるかも分からない以上…行ってみるしかないようだな。地下神殿へ」 ソフィスタは馭者台を下り、地面を踵で抉るように蹴った。 「まずは校長に通信を送って、荷物をまとめて馬車をどこかに預けたら、地下神殿へ向かおう。昼に出発すれば、地下神殿に何もなくて町へ引き返すことになっても、夜には戻れるだろう」 「では、ホルスに従ってクレメストを目指すのだな」 「…行きたかねーけどな」 まるで、自分の生まれ故郷に戻るのが嫌なように聞きとれる言い方であったが、きっとホルスに従うことが嫌なのだろうと、メシアは解釈した。 「分かった。だが町を出る前に、世話になったレジーに礼を言いたい」 「ああ。出発するのはレジーさんに挨拶してからにしよう。それまでに、通信を済ませて馬車を預けて、昼食も取っておこう。あたしはレジーさんの奥さんに、通信所の場所と、馬車を預けられそうな場所を聞いてくるから、お前は家の中に置かせてもらった荷物をまとめてくれ」 まだ怖い顔をしているが、やるべきことが決まるとソフィスタは、さっさと行動を始めた。メシアも馭者台を降り、家屋の玄関へと向かって歩くソフィスタに続く。 …私もホルスの言動は不審に思うが、ソフィスタの故郷を訪ねることは悪いことではない。 思えばソフィスタの故郷や両親について、メシアはほとんど知らない。ソフィスタのフルネームの一部が生まれ故郷の街の名前であることも、今日初めて知った。 まあメシアも、故郷ルクロスのことは人間に話してはいけないと育ての親から言われていたし、ソフィスタの故郷についても、これといって聞く機会が無かったからなのだが。 しかし、一月以上ソフィスタと共に生活し、様々な体験を経て信頼し合う仲となった今、ソフィスタの生まれ育った地や彼女の両親に興味が沸いた。 …それに、ソフィスタの故郷へ行けば、今よりソフィスタのことをよく知ることができよう。そうすれば、私の使命も果たしやすくなるというものだ。ソフィスタも久しぶりに両親に会えば、きっと喜ぶはずだ。 ソフィスタほどホルスを警戒していないメシアは、クレメストへ行くことを楽観的に考え、ソフィスタが喜んでいる様を思い浮かべて嬉しい気分になる。 だが、ふと悲しみが込み上げて立ち止る。 …親…か。マリアさんの子供は、生きているにしても、もう母親に会うことは叶わぬのだな。マリアさんも、我が子との再会を果たせずに…。 マリアと、マリアの子供を思い、なんとなく空を見上げていたメシアだが、ソフィスタに「何やってんだ、早く来い」と、実に不機嫌な声で呼ばれて、慌てて彼女のもとへと走った。 * レジーが自宅に戻る頃には、ソフィスタとメシアは出発の準備を整え終えていた。 馬車は、町の入口近くにある厩に預け、一日経ってもソフィスタたちが戻って来なかったらアーネスへ戻るよう手配したそうだ。アーネス魔法アカデミーの校長への通信と昼食も済ませ、レジーの帰りを待っていたという。 そして、彼女たちが地下神殿へ向かうことを聞き、レジーは二人を心配した。地下神殿は事故で崩れ、周辺の地盤が脆くなっている恐れもあるので、広い範囲で立ち入り禁止となっている。なので、せめて自警隊員に引率させるとレジーはソフィスタに言ったが、「結構です」とぴしゃりと断られた。 せっかく行くのなら、地下神殿跡のあちこちを調べたい。自警隊員がいては立ち入り禁止の場所に入れないので、来てほしくない。というのがソフィスタの本音だったが、ホルスに二人だけで来いと言われたからだとレジーは彼女に説得された。 地下神殿がある森へは、ラゼアンから細い道が伸びており、森に入っても道は続いているので、迷うことはない。その道の出発点まで、レジーは妻と共にメシアとソフィスタを案内した。 「レジーよ、世話になった。ありがとう」 「ありがとうございました。後日、お礼に伺います」 メシアとソフィスタに礼を言われ、レジーは「気にしないでくれ」と笑顔を見せた。 「だが、近くに寄ることがあれば、ぜひまた私の家を訪ねてくれ。私も…マリアさんも、この町で待っている」 それを聞いて、メシアは寂しげに微笑み、ソフィスタは心配そうにメシアを見ていた。 ラゼアンを発ち、平坦な道を進むメシアとソフィスタの後姿を、地平線に隠れて姿が見えなくなるまでレジーと妻は見送った。 「…大丈夫かしら。地下神殿へ、二人だけで行って…」 そろそろ家へ帰ろうと妻を促そうとした時、妻はポツリと呟いた。 「あのソフィスタという娘はしっかりしているようだし、メシア様も子供ではないのだ。きっと大丈夫だろう」 レジーは明るい声で言ったが、妻が彼の顔を見ると、その瞳は悲しみに満ちていた。 「…そう…自分の意思で生き方を決め、自分の力で生きてゆける…大人なのだ…。メシア様の生き方を、邪魔してはいけない…」 俯いたレジーに、妻がそっと身を寄せる。温もりと共に伝わる妻の愛情に甘え、レジーは妻の肩を抱き、胸の内を語る。 「だが…。せめて大好きだと伝えたかったと、マリア様は仰られた。その深い愛情を、メシア様にお伝えできないことが、私には…辛い…」 レジーの声と、妻の肩を抱く手は、震えていた。妻も瞳に涙を湛えている。 妻とはこうして悲しみを分かち合い、そして励まし合って、今も共に生きている。 メシアにも、いつかそんな存在が現れるのだろう。そして得られる幸せが、せめてこの悲しみとマリアの想いを代償とするに値するものであってほしいと、レジーは願った。 * 振り返ると、レジーたちの姿は地平線に隠れてしまっていた。ここからは、町の入口付近の家の屋根と、墓地がある丘しか見えない。 「レジーさんたちの姿は、もう見えない?」 隣を歩くソフィスタも町を振り返り、メシアにそう尋ねた。 「うむ。大地に隠れてしまった」 メシアが答えると、ソフィスタは「そっか」と言って前を向き直った。少し前までの機嫌の悪さも、だいぶ落ち着いたようである。 メシアも、荷物を背負い直して前を向き直ったが、ふと風に巻衣を揺らされ、再び町を振り返る。 潮の香りを乗せた風は、ラゼアンから吹いてきたもののようだ。 …マリアさんも、町を発つ私を見送ってくれた…。 アーネスへと向かっていたメシアは、王都ヒュブロへ続く道の手前までマリアに案内され、そこで彼女に見送られた。その別れ際に彼女と交わした会話を、メシアは思い出す。 「使命を果たしたら、あなたに会いに来てもいいだろうか。あなたとは、もっと話をしたい…」 微かに頬を赤く染めたメシアが、真っ直ぐとマリアを見つめてそう告げると、マリアは満面の笑みで、こう答えた。 「もちろんよ。この町で待っているから、いつでも遊びにいらっしゃい」 その言葉を、メシアは信じて疑わなかった。 あの明るい声が、心から嬉しそうな笑顔が、余命いくばくも無いことを知りながらのものとは、思いもよらなかった。 「…ごめん、メシア」 いつの間にか立ち止まっていたメシアは、隣から掛けられた声に気付き、振り向くとソフィスタが俯いて立っていた。 「あたしがメシアをアーネスに留めていなかったら、もう一度マリアさんに会えていたかもしれないのに…」 それを聞いて、メシアは少し驚いた顔をしてから、ソフィスタの背中を軽く叩いた。 「知らなかったことなのだ。お前が謝ることではない。それに、アーネスで過ごした日々があるから、アズバンやザハム、タギやプルティと友達になれたのだ。今もこうして、お前が隣にいる」 ソフィスタが顔を上げ、メシアを見つめた。ソフィスタの背中に添えた手から伝わる温もりと、メシアを思いやるソフィスタの心を感じながら、メシアは彼女に告げた。 「お前と出会ってから今までの日々は、掛け替えのない大切なものなのだ。だから、後悔しないでくれ」 隣にいるソフィスタの存在が温かく、彼女の優しさが心から嬉しくて、その気持ちをメシアは笑顔に現した。 眼鏡越しにあるソフィスタの瞳が潤み、薄紅色の唇は、何かを堪えるようにぐっと唇を結ばれる。だが、すぐに顔を背けられてしまった。 「…分かったよ」 メシアの手をすり抜けて、ソフィスタは再び地下神殿へと続く道を歩き始めた。 言い方はそっけなかったが、素直になれないだけなのは、メシアにも丸わかりだった。それも、ソフィスタへの信頼あってのものなのだろう。 ソフィスタに言った通り、アーネスでの日々は掛け替えのないものだ。だが、それでも拭いきれない悲しみも、マリアへの想いの現れなのだ。 それでもソフィスタの背中を見ると、前へと進む気力が沸いてくる。 マリアの死を知らされ、深い悲しみの底へと突き落とされたメシアの心を引き上げたのは、紛れも無くソフィスタの存在だった。 それから何度も、心が張り裂けそうになってはソフィスタに救いを求めていた。何も言わなくても、ただ傍にいるだけで心が救われた。 裁くべき罪人と思っていた彼女が、自分にとってどれほど大きく、温かいものになっていたかを、メシアは身に沁みて感じた。 そして、もしソフィスタが苦しみや悲しみに打ちひしがれるようなことがあったら、今度は自分が彼女の助けになりたいと、心から願った。 …そう、涙を見せられるほど頼れる存在になりたい。強がりを捨てて素直な気持ちを言えるくらいの存在に。気持ちを言葉で伝えられないまま、二度と会えなくなってしまわないように…。 もう一度、メシアはラゼアンの町を振り返り、使命を果たすためだと自分に言い聞かせていたため伝えられなかったが、次にマリアに会った時こそ告げようと心に決めていた言葉を口にした。 「マリアさん。あなたが、大好きだった…」 そして、メシアを気遣ってゆっくりと歩いていたソフィスタを追って駆け出した。 ラゼアンから吹く潮風は、細い道を並んで歩くソフィスタとメシアの背中を、励ますように押す。 (終) あとがき ←注:BGMが流れるようになってます |