・第六章 思い出を追ってメシアは、力任せに肘掛けを外した座席を横一列に並べ、そこにソフィスタを寝かせた。エルフのナダの自爆魔法で、あちこちダメージを受けた機関車を、このまま走らせ続けても問題無いか調べると言って、トゥバンは機関車を停止させたが、その前にメシアの右腕の手当てをした。 医者として地上で暮らしていたラスタバンに育てられただけあって、手際がいいが、時折鼻をすすり、涙を拭っていた。 ラスタバンを失ったばかりなのだ。辛くて当然だろう。手当てをしてもらっているメシアにも、彼の気持ちがよく分かった。 しかし、メシアが慰めようと声をかけても、トゥバンは「大丈夫だから」と言って、それ以上メシアに喋らせなかった。 そして手当てが終わると、車内の瓦礫の撤去をメシアに頼み、機関車の外側の様子を調べに出ていった。 怪我をしているにも関わらず、大きな瓦礫をひょいひょいと持ち上げて運び、外へポイポイと投げ捨てる作業を黙々と続けていたメシアに、ソフィスタが「お前は本当に頑丈だな」と声をかける。 メシアは、持っていた瓦礫を外に捨ててから、ソフィスタのもとへ来て「落ち着いたか?」と尋ねる。大きな瓦礫や壊れた座席は、既に一通り外へ投げ捨ててある。 「ああ。少しずつ魔法力は回復しているよ」 ソフィスタは右手を軽く振って見せる。仰向けになって座席に寝かされた彼女の肩にはセタとルコスも乗っており、べちゃっと潰れていた体は膨らみを取り戻しつつある。 座席の下には、メシアが瓦礫の下から回収した枝が、魔法力の回復を促進させる魔方陣を描いて広がっている。それにしては回復が遅いとソフィスタは感じるが、人の踏み入らない地下深くで、魔法に関わるものが何も無い場所だからかもしれない。 ちなみに、ソフィスタの帽子と眼鏡も枝と一緒に瓦礫に埋もれていたが、それもメシアが回収し、帽子だけ近くの座席に置いてある。帽子は汚れて少し破れただけで済んだが、眼鏡はレンズもフレームもボロボロで修復不能となっており、「踏んだら危ないから瓦礫と一緒に捨てて」とソフィスタに言われたメシアは、割れたレンズも全て拾って外に捨てた。 替えの眼鏡まで壊されてしまい、「眼鏡って、新調するのが手間で面倒なんだよな…」とぶつくさ言うソフィスタだが、ぶつくさ言えるほど呼吸が落ち着き、顔色も良くなってきたことに、メシアは安心する。 そして、彼女が魔法力を使い果たした理由を思い出し、ソフィスタに尋ねる。 「…エルフは…まさか人間も、自らの命を犠牲にする魔法が使えるのか?」 「ああ、自爆魔法のことね…」 ソフィスタは、難しそうな顔で話し始めた。 「自分の命を魔法力に変えて強力な魔法を使うなんて技術は、ぶっそうだから、人間は禁呪として技術ごと破棄したそうだけど、エルフと人間じゃ法も秩序も違うし、奴らは長生きだから、長いことかけて独自に自爆魔法を開発することもできるのかもね。…それでも、簡単に使える魔法じゃないはずなのに…」 「魔法力が高くなければ使えないということか?」 「いや、少なくともナダ自身の魔法力は、そんなに高くなかった。魔法力以上に、気持ちの問題みたいなのがあるんだよ。…心の底から自らの死を望むなんて、そうそうできるもんじゃないだろ。大切なもののために命を捨てる覚悟ができても、何かしらの苦痛から解放されたくて死を望んでも、本当は生きたい、死にたくないって思うもんだ」 ソフィスタの話は、メシアにもよく理解できる。彼自身、神より与えられた使命に命を賭す覚悟を持ったし、体を張って何度もソフィスタを助けている。 だが、本当に命を失ってしまえば、その時点で何もできなくなってしまう。故郷ルクロスの戦士として、生きて長く神に仕え、仲間を守り続けることが真の使命だとメシアは考えているので、死にたいとも死んでもいいとも思ったことは無い。 「基本的に、生き続けることは生物の本能でもあるしな。そういう本能や執念に、魔法は強く影響を受けるから、死ぬと分かって魔法を使うことは難しいんだ。…でも、その本能や執念を完全に捨てることができれば…例えば生きること以上の執念を持つとか、命より優先される本能があるとか…」 それを聞いて、メシアはタギや格闘技の師であるゼフの話を思い出す。 エルフは、ネスタジェセルの存在を消すために生まれたと言っても過言ではない。 ネスタジェセルの存在を、この世界から抹消することが、エルフの本能であり掟である。 もしや、その本能が自爆魔法を可能としているのだろうか。 命への執念より優先される、ネスタジェセルの抹殺。タギは例外として、ほぼ全てのエルフに、そのような本能があるというだけでも恐ろしいが、もっと恐ろしいことをメシアは考えてしまった。 …まさか、エルフは皆、自爆魔法が使えるのでは…。 ナダの自爆魔法の威力は凄まじく、機関車のスピードと、ソフィスタの素早い判断が無かったら逃れきれなかっただろう。 それに、今回はトンネル内という閉鎖された空間で自爆魔法を使ったが、もし外で使われたら、全く関係の無い者まで巻き込むかもしれない。 「…まあ、用心するにこしたことはないけど、おそらく全てのエルフが自爆魔法を使えるわけじゃないと思う」 黙って考え込んでいるメシアの不安を察して、ソフィスタはそう言った。 「以前、ユドってエルフと戦ったよね。あいつはナダより魔法力が高かったけど、自爆魔法を使わずに逃げていった。重傷を負って剣も握れず、それでもネスタジェセルを始末しなきゃいけないなら、自爆魔法を使うしかなかったはずだ」 あの時、メシアは気を失い、近くに速い乗り物も無く、メシアを一人で担いで遠くへ逃げられるほどの力もソフィスタには無い。まだ精霊ケヤキに出会っておらず、枝の球で魔法障壁を強化することもできない。あの状況で、もしユドが自爆魔法を使っていれば、確実に仕留められていただろう。 ナダは、拘束されるも両腕は健在で、脱出のチャンスをろくに伺いもせずに自爆魔法を使ったのだ。ユドもナダのように、確実にネスタジェセルを仕留めるためや、秘密を守るために、あっさりと命を捨てられるなら、両腕を失い今にも失血で倒れかねない状態でネスタジェセルを始末するために、自爆魔法を使わないはずがない。それがソフィスタの考えだった。 「きっとユドは、自爆魔法を知らないか、知っていても自分の命のほうが惜しかったんじゃないかな。もしくは、他にも自爆魔法を使うための条件があって、それをユドが満たしていなかったとか、エルフの中でもナダが異常だったってだけかもしれない」 ソフィスタの考えは、あくまで可能性の話でしかなく、決して楽観視していいものではない。 ホルスがエルフをどうにかすると言っていたが、それも信用していない。現に、どうにかできていないから、三人のエルフに襲われたのだ。 メシアの不安は分かるが、不安になりすぎてもいけないし、ユドが自爆魔法を使わなかった事実についても、ちゃんと考えなければいけない。だからソフィスタは、メシアの不安を和らげ落ち着かせようと、自分の考えを話した。 しかし、まだメシアの表情は暗い。 「自爆魔法を使わずとも、エルフは強い。ユドとの戦いを経て、なぜか私も急に強くなったが、それでもナダを喰い止めるだけで精一杯であった。…それに、奴らは強力な武器も持っておる。あの光を放つ武器など、機関車を一瞬で切り裂いた…」 エルフの一人が持っていた光線銃。バターでも切るかのように、機関車とラスタバンの足を焼き切った、恐るべき威力の武器。 その銃口がメシアに向けられた時、なぜか光線は銃を持っていたエルフの額を貫いたが、あのエルフは間違い無くメシアを殺そうとしていたし、たまたま銃が壊れるなどしてメシアを撃てなかったのかもしれない。 …それとも、私を攻撃しようとしたから、光はエルフに向けて放たれたのか?もし、あの武器がソフィスタに向けられていたら、光はソフィスタを貫いていたのだろうか…。 「おーい、機関車を走らせるぞー」 客車の出入り口が開き、トゥバンが乗り込んできた。 「走らせて大丈夫なのか?」 ソフィスタは、セタとルコスを膝に乗せて、上半身を起こす。メシアがソフィスタの体を支えようしたが、手振りで制された。 「後ろのほうが、ちょっと壊れてて危ないから、客車の後ろ半分を切り離して走らせる」 「切り離す?そんなことできるのか?」 ソフィスタは床と天井を見回すが、切れ目も継ぎ目も無い。 「うん。客車は四ヶ所から切り離せるんだ。切り離した部分は、ちゃんと塞がれるし、車体が軽くなるぶん速度も上げられるぞ。でも、危ないから余計に速度を上げないで走らせるよ」 そう言ってトゥバンは、座席の上の棚を見上げ、切り離す側に荷物が置かれていないことを確認する。 「切り離してもいいか?落し物は無いか?」 トゥバンの喋り方は、やけに淡々としていた。それに気付いても、ソフィスタとメシアは何も言わずに頷くだけだった。 「そうか。メシア、瓦礫を片付けてくれてありがとな。切り離す時に揺れるから、メシアも壊れていない座席に座ってろ」 そう言って、トゥバンはさっさと操縦室に入った。 行動も淡々としているように見えるが、目には涙が滲んでおり、話し終えると唇をぎゅっと結んでいた。 この場が、いつまでも安全かは分からないし、機関車を操縦できるのはトゥバンだけなので、ソフィスタとメシアを目的地まで送るためにと、必死に悲しみを堪えているのだろう。自分にできること、やるべきことだけを考えて動くことで、今にも決壊して溢れ出してしまいそうな感情を押し留めているのかもしれない。 慰めてやりたいが、もうしばらくはそっとしておいてやるべきだろうか。考えているメシアに、ソフィスタが「座りなよ」と声をかける。 メシアは、ソフィスタと向かい合って座席に座る。 「…ソフィスタ、すまなかった」 急にメシアに謝られ、ソフィスタは「なに謝ってんの」と彼を見る。 「お前までエルフによって危険な目に遭ってしまったのは、ネスタジェセルである私が巻き込んでしまったからだ。ユドに存在を知られ、ソフィスタを巻き込んで危険に晒してしまい、あのようなことは二度と起こすまいと気を付けていたつもりだったが、危機感が足らなかったのだ。三人のエルフの襲撃に遭い、お前は背中を負傷し、ラスタバンが手当てをしてくれなければ助からなかったかもしれない。…そのラスタバンも、我々を護って命を落としてしまった…」 ラスタバンの首が斬り落とされる光景は、ほぼ一瞬しか見えなかったが、その一瞬があまりに衝撃的で、メシアの目に焼き付いて離れなかった。 「ユドとの戦いで負けても、その後で急に私が強くなったことに過信している部分があったから、またエルフと遭遇しても逃れられると考えていたのだろう。…もっと、もっとソフィスタを巻き込んだという自覚を持つべきだったのだ。そもそも、我々ネスタジェセルのことを、あまり人間に話してはいけないからと、エルフのことも黙っていたのが間違いだったのだ。もっと早く話していれば、ユドをやり過ごすこともできたかもしれない。だから…ソフィスタ、すまなかった」 メシアは椅子から降り、床に膝を着いてソフィスタに頭を下げた。その表情はソフィスタからは見えないが、彼の拳は硬く握られて震えている。 ソフィスタは、しばらく黙ってメシアを見下ろしていたが、やがて息を吐き出し、手を伸ばして彼の頭を軽く小突いた。 「そんなに謝らないでよ。落ち込む気持ちは分かるけどさ、エルフについてはユドの件の後に、知っていることを全部話してくれたじゃない。危険を知った上でメシアと一緒にいるのは、あたしの意思だから、巻き込まれたなんて思っていないよ。それに、今回エルフに見つかったのは、ちゃんと対策を取った上での不運か、その対策を考えたあたしが至らなかったせいだ。…アーネスの天才少女だの呼ばれていながら、あんな戦闘狂ども相手に、無様なもんだよ」 「いや、ソフィスタは本当によく戦ってくれた。私もトゥバンも、お前に助けられたのだ」 「メシアこそ、あたしを庇って怪我したじゃない。お互いさまだよ」 「私がソフィスタを巻き込んでしまったのだ。護ることは当然の責任で…」 「そういうのやめろっつってんだ!!!」 メシアの話を遮って、ソフィスタが怒鳴った。メシアは驚いて顔を上げ、ソフィスタはハッとして「ごめん」と怒鳴ったことを謝った。 メシアの「護ることは当然の責任」という言葉は、まるで罪悪感や義務で助けたように、ソフィスタには聞こえた。 メシアに悪気は無かっただろうし、彼が罪悪感や義務だけで誰かを助けようとする男では無いことも、ソフィスタを大切に思っているから体を張ったことも、頭では分かっている。 それだけソフィスタもメシアを信頼し、大切に思っているのに、つい怒鳴ってしまったのは、ソフィスタが思う「大切」は恋愛感情であり、メシアのほうは仲間意識や友情といったものという違いがあるからだろう。 巻き込んだだの責任だのと言われ、ソフィスタの恋心が一方通行であることを思い知らされたような気がして、頭に血が上ってしまったのかもしれない。それはソフィスタの独りよがりな怒りであるが、理不尽に怒ってしまうほど感情がコントロールできなくなってしまうのも、メシアへの想いの表れなのだろう。 だが、そんな理不尽で訳が分からない怒りをぶつけられるほうは、たまったものではない。ましてやメシアは、マリアの死を知らされたばかりだというのにラスタバンを殺され、かなり気持ちが参っているはず。落ち込む気持ちは分かると言っておきながら、頭に血が上って彼の気持ちを忘れて怒鳴るなど、最低だ。 そんな自分を恥じ、しっかり頭を冷やしてから、ソフィスタは困った顔をしているメシアに話し始める。 「…ほら、ラゼアンを発った時に、言っていたじゃないか。アーネスで過ごした日々は、メシアにとって掛け替えのない日々だったって」 つい一昨日まで滞在していた、港町ラゼアン。そこに住んでいたメシアの恩人マリアは、メシアがアーネスで暮らしていた頃に亡くなっていた。 もしソフィスタが、メシアをアーネスに留まらせていなければ、彼はもう一度マリアに会えていたかもしれない。そう思って、ソフィスタはメシアに謝ったが、メシアはソフィスタを責めず、ソフィスタと共にアーネスで過ごした日々は掛け替えのない大切なものだから、後悔しないでほしいと言ってくれた。 「ああ言ってくれて、あたしは気持ちを救われたし…けっこう嬉しかった。なのに、巻き込んだとか言ったら、その掛け替えのない日々を後悔しているように聞こえるだろ。あたしが…嬉しいって感じたことを、無かったものにするような言い方は、何て言うか…とにかく、やめてくれ。責任だとか、そんな言い方もやめろ」 真っ直ぐメシアを見て、言葉を選んでソフィスタは話した。 嬉しい、寂しいといった気持ちを正直に伝えることは苦手だが、メシアが悪いわけではないことを伝え、彼を元気づけるためにと、つっかえながらも最後までメシアと目を合わせて話すことができた。 その瞳に秘められた恋心にまでは気付けなかったが、励まそうとする気持ちには気付き、メシアはソフィスタに「言い方が悪かった。すまぬ」と素直に謝った。 「いいよ。お互い、もう謝るのはナシだ。それより、これからのことを話し合おう」 落ち着いた声で言って、ソフィスタはメシアに座席に座り直すよう促した。 メシアが座席に腰を下ろした、ちょうどその時、機関車が音を立てて揺れ、客車の中央で壁と床が裂けた。 真上から刃を落とされたように、綺麗に切り離された客車の前半分は、後ろ半分を置いて前進を始める。さらに天井から、じゃばら状の薄い金属製の門…シャッターが降りてきて、切り離した部分を塞いだ。 「…真っ二つにされても走れるんだね、この乗り物。…後ろ半分は、トンネル内に放置されるのかな…」 ラスタバンと二人のエルフが機関車から落ちた後、トンネルの天井から門が降りていた。あれは、機関車が通過したら門が降りてトンネルを塞ぐよう、あらかじめラスタバンが設定しておいたのだろう。 …ラスタバンは、クヌムは人間に知られちゃいけない施設だと言っていた。もしかしたら、あたしたちが地上に出たら、もう誰もクヌムや地下のトンネルに入れないよう設定したのかもね…。 今朝、トゥバンに案内されてクヌムを移動していた時、昨日は開いたのに今朝は開かなくなっていた扉があった。 きっとラスタバンは、エルフにクヌムの場所がばれたと知り、エルフに利用されないようクヌムを破棄するつもりで、地下から北へ移動するために必要なもの以外の機能を停止させていたのだろう。 例えソフィスタたちがクヌムに落ちてこなくても、エルフにクヌムの場所がばれなくても、トゥバンが成長して外の世界で生きられるようになったら、もしくは自分の死期がきたら、直ちにクヌムを破棄できるよう、既に準備を整えていたのかもしれない。あんな巨大地下施設、二度と誰も入れないようにして破棄しろと急に言われても、すぐに手を回せるとは思えない。 おそらくトンネル内の各所で、機関車が通過したら門が降ろされ、封鎖されてゆくのだろう。 そして、ソフィスタたちが地上に出て、地下への入口まで封鎖されたら、クヌムの存在は誰にも知られないまま機能を失い、廃墟となって地下深くに封じられることになるのだろう。 ソフィスタがクヌムの存在を世間に公表すれば、長い時間はかかるが掘り起こすことはできるだろう。だが、それをエルフが黙って見ているわけがないだろうし、エルフにばれないように掘り起こせる規模でもない。 それに、例え機能を失っても、数千年前に現在の人間の技術を超える施設が存在し、そこで人食いドラゴンが大量生産されていたなんて、ソフィスタが言っても世間は信じそうにないし、軽率に存在を明かしていい代物にも思えない。 誰もいなくなり、誰も出入りができなくなったクヌムは、ソフィスタが黙っている限り地下に埋もれ続け、ソフィスタたちがこの世を去れば、クヌムの存在を知る者も世界からいなくなるだろう。 トゥバンにとっては、ラスタバンと共に暮らした家であり、生まれ故郷であり、ラスタバンとの思い出がたくさん詰まった場所でもあるクヌムが、そうやって忘れ去られてゆくのかもしれないと思うと、ソフィスタはもの哀しさを覚える。 シャッターの向こうで、取り残されて遠ざかってゆく車体が、そんなクヌムの行く末と、今生の別れとなってしまったラスタバンを現しているように思えた。 「…トゥバンは、帰る家と家族を失ったんだね…」 操縦室のドアの窓越しに見える、トゥバンの後ろ姿を眺め、ソフィスタはぽつりと呟いた。 「…失うことは悲しいが、残されたものや、これから得られるものが、きっとたくさんある」 どうしようもない悲しみを抱えるトゥバンに心を痛めるソフィスタを励ますように、メシアは力強く言ったが、それはマリアを失った自身を励ます言葉でもあった。 残されたものや、これから得られるものがあることに気付けば、トゥバンも悲しみを乗り越える決意ができるだろう。だが、彼の幼い心に負った傷は、この試練を乗り越えるにはあまりに深すぎる。 大きな翼と、がっしりとした筋肉のついたトゥバンの背中は、今はとても弱々しく見えた。 * 翌日の昼、機関車が目的地に着いて停車した。 機関車が走行している間、三人は交代で仮眠を取り、食事の時間もしっかり設けた。 トゥバンも仮眠が取れるよう、必要な操縦だけソフィスタがトゥバンに教わったが、機関車は問題無く走り続けたため、その教えが役に立つことは無かった。 トゥバンは食事と睡眠以外で操縦室から出てくることは無く、ソフィスタとメシアも、機関車が走っている間はトゥバンをそっとしておくことにしたので、彼に今後のことについては全く話せなかった。 「ここの出口は、大きな街の近くの山の森の中にあるんだって。クレメストっていう名前の街かどうかは知らないけどな」 トゥバンは、ここまで機関車を操縦したのは初めてだが、ラスタバンの操縦で来たことならあるという。 ソフィスタは元気になったセタとルコスを肩に乗せ、荷物は全てメシアが担いで機関車を降り、トゥバンの案内で出口へ向かった。 メシアの戦士の装束は、だいぶボロボロになっていたため、アーネスの自宅から持ってきた替えの服に着替え、紅玉の力で人間に姿を変えている。トゥバンも、メシアから借りた巻衣を肩に掛けており、地上に出たら、それで姿を隠させるつもりだ。 ラスタバンや、他のアメミットのように、トゥバンにも変身能力が備わっているそうだが、今のトゥバンには、翼の大きさを倍にするか半分に縮めることしかできず、眠るなどして意識を失うと、元の大きさに戻ってしまうという。 まあ、翼を小さくして畳んでいれば、メシアの巻衣はトゥバンの太い尻尾まで包めるので、大きな尻尾のある獣人ということで、ぱっと見は誤魔化すことができるだろう。 こうして念のためのエルフ対策を取り、三人はメシアがクヌムに落ちた時と同じように、緑色の光に囲まれて地上へと運ばれた。 土や落ち葉を押し上げて光が地上に飛び出し、出口が金属製の門によって塞がれると、光は消えて三人は門の上に降ろされた。 辺りは木々に囲まれて薄暗い。メシアが周囲を見回す限り、地面を突き破って出てきた光と音に驚いた動物が逃げていく以外、何者かの気配は無かった。人が踏み入った形跡も全く見られず、この出口までエルフに知られている心配は無さそうだ。 足元の門は機能を失い、地下への出入り口を完全に封鎖してしまったようだ。おそらく、これでクヌムと、クヌムに関わる場所への出入り口が封鎖され、全ての機能が停止したのだろう。 こうなることはトゥバンも予測し、地上に出る前にソフィスタとメシアに説明していた。もしエルフに見つかったり、ラスタバンが命を落としたら、クヌムは完全に封鎖すると、トゥバンはラスタバンに前々から聞かされており、封鎖の方法も教わっていたという。 エルフに見つかった以上、ラスタバンがクヌムを封鎖するよう動いていたことは、トゥバンにも分かっていた。ただ、あれほど早くエルフが侵入するとは思っていなかったそうだ。 ソフィスタは、念のため門を隠し、自分たちの痕跡も消しておこうと、枝の球を操って土や落ち葉を門に被せた。土をしっかり固め、自然に見えるよう落ち葉を乗せる、その作業は、あっという間に終わった。 「じゃ、暗くなる前に、せめて街道に出よう。まずは、ここがどこかを把握しないとね。現在地が分からないと、どの方角に街があるかも分からないからね」 そう言って、ソフィスタは周囲を見回す。何か現在地を知る手がかりがあればと思ったが、ここからは木々しか見えないし、ソフィスタの裸眼では少し離れた場所にある物の細部までは見えない。 どうしたものかと悩んでいたら、メシアが声をかけてきた。 「ソフィスタ。水の流れる音が、向こうから聞こえるぞ。行ってみないか?」 ルクロスからアーネスまでの、ほぼ自給自足の長旅の中で、飲み水の確保の大切さを命がけで学んでいたメシアは、その驚異的な聴力で水の音を捉えていた。 「そうだね。手掛かりになるかもしれないし」 三人は、ひとまず水の音がするほうへと向かった。獣道も無く足下も悪いので、やむなくソフィスタはメシアの肩に担がれた。荷物とソフィスタの重さなど感じていないように、軽々と木々を抜けてゆくメシアの後ろを、トゥバンも遅れることなく着いて行く。 進むにつれ、確かに滝の音がソフィスタにも聞こえてきた。やがて視界が開け、目の前に岩塊に囲まれた川が現れた。 上流の細い滝から、緩やかな斜面を岩塊を縫って下ってゆく川は、ほぼ真上から降り注ぐ陽光を反射して水面を輝かせている。 流れに沿って吹く湿った風は、メシアには少々冷たかったが、この太陽の光と穏やかな自然の美しさに、無事に地上に出られたという実感が沸いて気持ちが和らいだ。 メシアはソフィスタを担いだまま、ゆっくりと歩いて川に近付くが、後ろにいたトゥバンは、楽しそうに声を上げて走り出し、メシアを追い越して川に飛び込んだ。 「何だコレー!すっげーキレイ!!こんな川、オレ見たことないー!」 ソフィスタが「おい、足元見ないと転ぶぞ!」とトゥバンを注意した時には、既にバシャッと飛沫が上がり、巻衣を捲ったトゥバンの足首まで水に浸っていた。 「うひぃー!!冷たい冷たいぃ!!」 悲鳴のように叫んでいる割には、表情は明るい。メシアもソフィスタを肩から降ろして川に近付き、屈んで水面に指先を浸した。 「確かに冷たいな。それに、この辺りは少し寒くないか?」 「クレメストの気候は、アーネスと比べてけっこう寒いし、川の近くじゃなおさらだよ」 ソフィスタはメシアの隣に立ち、じっくりと周囲を見回す。 「…ああ、ここはクレメストの北にある山の中だね。滝の上から見下ろすと、なかなかの景色なんだよ」 「ここへ来たことがあるのか?」 懐かしそうに滝を見上げていたソフィスタだが、メシアに声をかけられると、急に不機嫌な顔になって「何度かね」と答えた。 メシアはソフィスタの表情に戸惑い、彼女が過去を追及されるのを嫌う傾向があることを思い出す。 「とにかく、現在地は分かった。川沿いに下っていけば橋があるから、そこから道なりに山を下って行けば、街道に出てクレメストの街が見えてくる。山道がちょっと長いんだけど、日が沈む頃には街に着けるんじゃないかな」 「では、その橋の場所までは、またソフィスタを担いで降りていったほうがよいな」 岩塊や倒木で、川沿いはかなり足場が悪い。ソフィスタは「そのほうが速いよな…」とため息をつく。 「あーっ!!メシア!これ見て!!ほらコレ!!」 ソフィスタとメシアが話している間も川で遊んでいたトゥバンが、川の中から何かを掬い上げてメシアに駆け寄ってきた。 「コレ!コケセオイムシ!コイツも初めて見た!」 トゥバンが差し出す手の平の上には、緑色の昆虫が乗っていた。 「コケセオイムシ?」 トゥバンの手の平の上でじっとしている虫を、メシアは珍しそうに眺める。ソフィスタは、虫を見てもメシアほど興味を持たなかった。 「水辺に生息して、苔に擬態する昆虫だよ。前羽の模様が苔に似ていて、苔を背負っているように見えるから、コケセオイムシって名前なんだ。…初めて見るのに、名前は知っていたのか?」 「うん、クヌムの昆虫図鑑に載っていたんだ。それに…コイツがいる場所の近くには、キレイな水があるから、そういう生き物のことは覚えておくといいって、じーちゃんが教えてくれた」 はしゃいでいたトゥバンだが、ラスタバンのことを思い出して、声のトーンを落とした。そして腰を屈め、苔が張りついた岩の上に、虫をそっと下ろして逃がしてやった。 「そうか。…私も、故郷を出る前に、飲み水の探し方を教えてもらったな。アーネスまでの道中、その教えのありがたみを何度も感じたものだ」 「そりゃ生きるために水は必須だからね。水がある場所では植物も育つし、生き物も集まるから、食糧の確保もできるしね」 ソフィスタの話を聞いて、トゥバンが「えっ」と声を上げてソフィスタを見上げた。ソフィスタは「何?」と首を傾げる。 「…ううん、じーちゃんも、ソフィスタと同じこと言ってたから」 トゥバンは立ち上がり、川や辺りの木々を眺める。 「クヌムの上の森の中にも川はあるよ。その川の水で植物が育って、その葉っぱや木の実を食べる動物が集まって、動物の糞や死骸が植物の栄養になって…そうやって水がある場所には生命が溢れて、だからオレたちも水を飲んで、果物や動物の肉を食べて生きられるんだって」 風が木々を揺らし、葉が音を立てる。その音を追ってトゥバンが見上げると、ちょうど二羽の鳥が枝から飛び立つ様子が見えた。 「自然の恩恵と、それを受けて生きる命の強さを知ることは、とても大切である。自分が生きてゆくためにも、誰かと共に生きてゆくためにもな」 そう言って、メシアはトゥバンの肩に手を置いた。飛び立った二羽の鳥は、空で同じ種類の鳥の群れと合流し、飛び去ってゆく。 「そうだね。…ラスタバンは、トゥバンには地上で誰かと生きる幸せを教えてやりたかったって、あたしに話したよ」 ソフィスタも、空いているほうのトゥバンの肩に手を置いた。 「まあ、地上ではないけど、誰かと触れ合って生きる幸せなら、とっくに教えて貰ってんだろ。クヌムでラスタバンと一緒に暮らして、その日々は幸せだったんじゃないか?だから、ラスタバンのことが好きなんだよね」 そう言って、ソフィスタはちらりとメシアを見た。メシアは視線に気付いたが、そこに含まれる好意と照れまでは気付かなかった。 「…だったらさ、ラスタバンが教えてくれたことを、地上で見たり体験してみたらどうかな。お前がメシアにクヌムを案内して喜んでいたみたいに、楽しいものや凄いものをトゥバンに教えるのを、ラスタバンも楽しみにしていたはずだよ。…ラスタバンは、数千年も生きて、世界中を巡ったんだから、それだけ様々な景色を見て、様々な体験をしてきたんだろう。トゥバンと分かち合いたかったものも、たくさんあったはずだよ」 「そうであるな。楽しいことは、誰かに教えて分かち合いたくなるものだ。トゥバンも、私が驚く様子を見て笑っておったし、ラスタバンの料理が美味しいと言ったら、喜んでいたではないか」 メシアが優しく微笑むと、それを見つめるトゥバンの瞳に涙が滲んだ。目と鼻の奥が締め付けられるような感覚に顔を歪ませ、頬を震わせると、そこに大きな手が、そっと添えられた。 「これから様々な景色を見て、ラスタバンがお前と分かち合いたかった気持ちを…お前に伝えたかった気持ちを感じよう。ラスタバンの教えを思い出し、それを教えた時のラスタバンの気持ちに気付こう。きっとラスタバンの心は、お前に寄り添い、気付いてくれる日を待っている」 頬を包む温もりが、諭すような口調が、トゥバンを慈しむラスタバンのものと重なり、トゥバンの中で、ラスタバンとの思い出が溢れ出した。 それに押し出されるように、トゥバンの瞳から涙が零れ、メシアの手に落ちる。 「トゥバン。あたしたちと一緒に、アーネスへ行こう。そこで、自分がやりたいことを見つけるんだ。ラスタバンを辿って世界を巡りたければ、そのための勉強や準備をすればいいし、ずっとアーネスにいてもいい」 ソフィスタとメシアを地上へ送り出すことができるのは自分だけだと、トゥバンは悲しみを堪えて気を張っていたが、二人の優しさによって、彼の心が解きほぐされてゆく。 「あたしもメシアも、お前の力になるよ。だから、これからのことは心配するな。悲しいのも、今は我慢しなくていい」 二人の優しさが、ラスタバンとの思い出が、甘えてもいいのだと抱きしめてくれたように感じて、トゥバンは地面に膝を着いて背中を丸め、押し留めていた感情を解放した。 「うん…うんっ…う、うわああぁぁぁぁん!!!」 トゥバンは心のままに声を上げ、とめどなく涙を流した。 ソフィスタとメシアはトゥバンの傍らに屈み、頭と背中を撫でてやりながら、赤ん坊のように泣きじゃくる彼を優しく見守った。 ラスタバンから「誰かと触れ合って生きる幸せ」と聞いて、ソフィスタが思い浮かべたのは、メシアの姿だった。 メシアへの恋心を自覚してからは、傍にいると安心するし、ソフィスタの片想いではあるが、メシアもソフィスタと一緒にいて楽しいと言ってくれたので、今はこの関係でいいし、お互い変に気を使わないから、これはこれで心地よいと、ソフィスタは感じていた。 こうして、誰かと一緒にいる幸せを感じるのは、ソフィスタにとって久しぶりのことだった。 メシアと出会う前の、人間不信で冷血で友達もおらず、欲しいとすら思わなかった頃のソフィスタなら、きれいごとだの夢物語だのと馬鹿にしていたであろう幸せを、ソフィスタは確かに感じ、素直に喜んでいたのだ。 クレメストへ来いと、ホルスに言われるまでは。 これから向かう街、クレメストは、ソフィスタの故郷であり、人格を形成した場所でもあった。 自分を歪めたのは、街のほんの一部の汚れで、ほとんどの者が気付かず、気付かれていても既に忘れ去られていそうなほど小さな汚れだが、ソフィスタにとっては忘れることのできない大きな汚れだった。 この街に、メシアと共に訪れたくなかった。今はメシアと離れたい。 自分の心を歪めたものを、メシアに見られたくない。その汚れから、自分の過去を覗かれたくない。 トゥバンが泣き止んでから山を下り、麓の街道に出た頃には、空は夕暮れの色に染まっていた。 そこから見えるクレメストの街は、近付くにつれ、ソフィスタの心を映すように影を落としてゆく。 (終) あとがき |