・第一章 メシア、一人で外出「いいかメシア。この湯を使って体の汚れを洗い流すんだ」「湯って…火傷をしてしまうではないか」 「大丈夫だよ、ホラ」 ソフィスタは、メシアの前で浴槽に満たした湯の中に、手を入れた。 「な。どうってことないだろ。念のため、お前も手を入れてみな」 彼女に言われ、メシアも指先からゆっくりと手を湯の中に入れる。 「どう?熱い?」 「…いや、温かい…」 「そうか。それならいい」 メシアの答えを聞くと、ソフィスタは湯から手を出した。 「じゃ、脱いだものは、この籠の中にでも入れておいて。あと、そのへんのものをヘタに触るんじゃないよ。いいね」 言うだけ言って、ソフィスタはメシアに背中を向けた。 「おい、どこへ行く」 「どこへって…家の中にはいるから、心配するな」 そして、ソフィスタは、さっさと浴室を出て行った。 一人、残されたメシアは、心配そうに湯をかき回した後、覚悟を決めて、身にまとっている布に手をかけた。自前の巻衣ではなく、ソフィスタに渡された、シンプルな柄の布だ。何でも、あの似合わなさすぎる白衣よりはマシだということで、学校から借りたらしい。 そして、ソフィスタに言われた通り、脱いだものを籠の中に入れると、浴槽に入った。 とりあえず、腰まで湯に浸らせる。 「…う〜む…」 何か、変だ。今まで、こうして湯に体を浸からせたことなど、記憶の上では一度もないので、どうも違和感がある。 それでも気長に浸かっていると、その温かさで、だんだん気持ちが良くなってきた。 すぐに立ち上がれる姿勢だった体を、思い切って肩まで湯に浸からせ、体を伸ばそうとする。しかし、メシアの体は大きく、浴槽は狭いため、完全に伸ばすことはできない。 どうにか楽な姿勢をとれまいかと、湯の中で体を動かしているうちに、何かが右足に引っかかったことに気付いた。 …何だ? メシアは、右足を引く。 すると、ゴボッという音が聞こえ、湯船に大きな気泡が生じたと思ったら、急速に水位が下がり始めた。 「えっ、うわっ!何が起こった!?」 どうやら、浴槽の底に開いた穴から、湯が流れ出ているようだ。 「何だこの穴。なぜ急にこんなものが?」 メシアには、その穴が浴槽の排水溝であることが、分からなかった。そして、その排水溝を塞いでいた栓は、メシアの右足にひっかかったチェーンに繋いであったため、右足を引くと同時に抜けてしまったことも、当然分からなかった。 「えっと…ていっ」 とにかく、湯がこれ以上流れ出ていかないよう、メシアは手で排水溝を塞ぐ。 しかし、ずっとこうしているわけにはいかない。 …どうしたものか…。 残った湯に体を浸らせながら、メシアは悩んだ。 一方、居間に戻ったソフィスタは、テーブルの上に置いてあるノートを手にとり、椅子に腰をかけた。 そのノートは、まだ新しいものだが、一ページ目は、既に埋まっている。 昨日…メシアと一緒に暮らすことが決まった時から、使い始めたノートだ。表紙に『メシア観察ノート』と書いてある。 ノートを開き、一ページ目に記されていることを、ざっと読む。 『名前はメシア。海も山も越えた、遠く離れた所にある村から来たと言うが、詳しくは聞き出せない』 『髪は銀。瞳孔はやや細く、虹彩は赤。エルフのような耳。舌は割れている。十八歳らしい』 『左手のアクセサリーは、神からもらったと言っている。紅玉から放たれる光は、人を気絶させたが、それ以外にも何らかの力を秘めている気がする』 などなど、メシアに関することで、そのページは埋められていた。 読み終えると、次のページを開いた。そして、ノートと一緒にテーブルの上に置いてあった羽ペンを取り、何も書かれていないそのページの隅に、今日の日付を記す。 …さてと、どうやって書こうか…。 今日、メシアについて分かったことをノートにまとめるつもりだが、今日はいろいろなことがありすぎて、何から書くべきかに悩まされる。 それに、疲れていることもあって、頭を働かせにくい。 今朝、アーネス魔法アカデミーに登校して間もなく、ソフィスタがメシアを叩きのめすという騒動。 そして、ソフィスタと同じ、エリートクラスの女生徒、ミーリウが作った魔法生物マリオンとの戦闘。 その中で、ソフィスタは魔法を使いすぎ、どうも体がだるい。セタとルコスもマリオンに体を焼かれ、学校で療養中だ。 しかし、朝から体に受け続けてきたダメージが一番多いはずのメシアには、疲れた様子は全く見られなかった。 特にひどかった両足首の怪我も、夕方になって帰宅し、彼を風呂に入れるため、怪我の様子を調べた時には、完全に癒えていた。 よほど体が丈夫で、回復も早い種族なのだろうか。 それとも、本当に神の御加護とやらのおかげなのか…。 …もしかして、メシアが言う『神』より、メシア自身について調べていたほうが、面白いかもしれないな…。 神に関する研究をやめるわけではない。しかし、メシアにも謎が多すぎるのだ。 どの本にも載っていない、メシアの種族。 彼が住んでいた所には、同じ種族の者が多く住んでいるのだろうか。 それはいつから?昔から存在する種族であれば、既に人間に発見されていてもいいはずだ。人間の歴史は長く、世界地図だって数百年前に完成している。 ただ、何らかのミスで発見されていないだけなのだろうか。 しかし、過去に人間との交流があることは確かだろう。そうでなければ、言葉が全く通じないはずだ。 …神からもらったっていう紅玉についても、いろいろ調べたいことはあるけど…とにかく、少しずつメシアから聞き出していくか。 そう考え、羽ペンを持ち直し、改めてノートと向かい合った。 その時、バタバタという足音と共に、メシアの声が響いてきた。 「ソフィスタソフィスタ!ソフィスター!!」 ただ事ではないメシアの声に驚かされ、ソフィスタは羽ペンを置き、足音と声が聞こえる方へと顔を向けた。 足音が止み、慌てている様子のメシアがソフィスタの前に現れたのは、ちょうどその時だった。 「ソフィスタ!湯が全て穴から流れ出ていってしまった!どうすればいい!?」 びしょ濡れの髪から水を滴らせながら、メシアはソフィスタに尋ねた。 しかしその言葉は、ソフィスタの耳には全く入っていなかった。 彼女の目の前に立つメシアは、髪だけではなく、全身もびしょ濡れだった。 その様子は、隅から隅までよく分かった。そう、隅から隅まで…。 ソフィスタは、真っ赤になった顔を、慌ててメシアから背けた。彼は何も身に着けておらず、正にありのままの姿で、ソフィスタの前に立っているのだった。 幸い、一番見たくもない部分は、ソフィスタの視界に入っていなかった。 「まず前を隠せ!!」 「前?前にはお前しかいないぞ」 ソフィスタに怒鳴られたメシアは、きょとんとした顔で言った。 「そうじゃなくてなあ!そ、その…とにかく、そこを動くな!!」 そう言って、ソフィスタは立ち上がると、ちょうど近くに畳んで置いてあったバスタオルを拾いに行った。 「ホラ!コレを巻いて、股の間にあるモン隠せ!!」 そして、バスタオルを掴むと、メシアを見ないよう注意しながら、彼に向けてバスタオルを放り投げた。メシアはそれを上手くキャッチする。 「…あ、コレのことか。…そんなに気になるか?種族も違うというのに」 メシアは、素直にバスタオルを巻き始める。 …別に気にしちゃいねーよ!!見たくないから隠せって言ってんだ!! ソフィスタはそう思ったが、これ以上そんな話はしたくなかったので、口には出さなかった。 「よし。ちゃんと隠したぞ。どうだっ」 イヤ、どうだと聞かれても…と、心の中で突っ込みを入れつつも、顔をメシアへと向け直し…固まった。 「な。ちゃんと隠れているだろう」 得意そうに胸を張るメシア。そんなことを得意そうに言われても困るのだが、それより別のことに、ソフィスタの思考は半ば止められていた。 メシアの下腹部は、確かにバスタオルによって隠されていた。 しかし…巻き方がおかしい。表現しにくい巻き方…いや、できれば表現したくない巻き方だった。 あえて言うなら、ふんどし巻き。 「……」 ソフィスタは深く…それはもう深くため息をついた。 できれば強力な攻撃魔法をメシアに叩き込んでやりたかったが、今日は疲労に疲労が重なり、もうそんな気力も沸かない。 …もう、好きにするがいいさ…。 「で、湯のことだが…」 「わかった。わかったから…」 ソフィスタは、いかにも疲れているような足取りで、バスルームへと向かった。メシアも彼女に続く。 この日の夜、ソフィスタは『メシア観察ノート』に、マリオンとの戦闘で分かった、メシアの身体的能力や、紅玉の力について記し、そして最後に『ひたすら恥知らずの常識知らずのバカ』と書いておいた。 * 次の日。学校が休みなので、ソフィスタは街へ出ることにした。 まず、メシアに留守番を任せ、仕立て屋へ行く。元々メシアが着ていた装束は、マリオンとの戦闘でボロボロにされたため、昨日の内に仕立て屋へ預けておいたのだ。 その装束を返してもらい、メシアに着せた後、彼を連れて服を買いに行く。もちろんソフィスタの服ではなく、メシアに着せる服だ。 最後に学校に寄り、セタとルコスの様子を見るついでに、借りた布を返す。 そう計画を立て、朝の九時ごろに、さあ家を出ようとして…メシアに呼び止められた。 「ソフィスタ、どこへ行く」 「お前の服を返してもらいに行くんだよ。もう直してあるはずだからな」 「そうか。では、私も一緒に行こう」 「…そのカッコで外に出る気か?」 メシアは、腰から膝まではスカート状に布を巻いて隠しているが、それ以外は、例のアクセサリーくらいしか身につけていない。 「いけないか?」 「いけないよ。留守番してな」 「そうはいかん!お前に魔法生物を作り出す技術を捨てさせ、罪を裁くために、ここへ来たのだ!お前に何かあったり、逃げ出されたりされては、それを為せなくなってしまうだろう!!」 「逃げやしないよ。すぐに戻るって」 「だめだ!何を言われようと、私も行くぞ!」 …何が何でもついて来る気か、コイツ…。 彼の目から、そう悟ったソフィスタは、「仕方ないな」と呟くと、人差し指を立て、天井を見上げた。 「あ、あんな所に魔法生物が」 「何ィ!どこだ!?」 メシアは、ばっと顔を上に向け、注意を天井へと移した。その隙に、ソフィスタは魔法力を拳に集中させる。 「こんな手にひっかかるな単細胞!!!」 そして、その拳でメシアの腹を打った。魔法力によって威力を増した、ソフィスタのパンチは、メシアを殴り飛ばし、壁に叩きつけた。 「ぐぼぉっ…おうぅ…」 メシアは床に倒れ、しばしピクピクと痙攣した後、動かなくなった。 やりすぎたかと思い、ソフィスタは、念のため彼の脈を調べる。 「…よし、生きてるな。戻ってくるまで目を覚ますなよ」 メシアが気を失っていることを確認すると、ソフィスタは家を出て、ドアに鍵をかけた。 * 仕立て屋は、家からそう遠くない。歩いて五分程度で着く。 ソフィスタは、自分が家を出ている間に、メシアが目を覚ますと困るので、早歩きで仕立て屋に向かった。そのため、三分で着いた。 これなら、メシアが気を失っている間に、用を済ませて戻ることができるだろう。そう考え、ソフィスタは一安心する。 しかし、彼女はメシアの生命力を見誤っていた。 「ソフィスター!!ソフィスタどこにいるー!!!」 彼は、ソフィスタが家を出てから一分後に、既に目を覚ましていたのだった。 そして今、ソフィスタの名を叫びながら、彼女が向かった方向とは反対の道を歩いていた。 そう、ソフィスタに殴られた時のままの格好で…。 …それにしても、何と暴力的な女なのだ、ソフィスタは…。 すれ違う人々の視線に気付かず、メシアはソフィスタの姿を求め歩く。 …あいつには、優しい心があるはずなのだが…なぜこうも私に暴力を振るうのだろう。 歩きながら、メシアは腕を組み、考え込む。 …子をしかりつける親に似たようなものと捉えるにも、度が過ぎておるし、口も悪い。それに、他者を寄せ付けようとしない雰囲気がある…。 ソフィスタと初めて会った時…走っていた所、ソフィスタにぶつかり、倒れた彼女に手を差し出した時、ソフィスタは、緑色の肌に驚きはしたようだったが、気味悪がったりためらったりすることもなく、差し出された手を掴んだ。 それが、メシアは嬉しかった。 ソフィスタと一緒に暮らし始めてからも…と言っても、まだ二日しか経っていないが…暴力を振るいはするが、人間と生活に馴染めていないメシアの面倒を見てくれている。 しかし、ソフィスタと同じ種族である人間に対しては、どうだろう。 昨日、学校で一緒にいた時、ソフィスタの他人に対する態度を見ていたが、優しい言葉をかけられても、それをうっとうしがり、受け入れようとせず、ひどい時には冷たい言葉であしらう始末だった。 メシアもソフィスタに優しく話しかけ、あしらわれたことはあるが、その態度に冷たさは感じられず、むしろ可愛いと思ったくらいだ。 優しい心があるはずなのに、魔法生物を作り出したり、口が悪かったり。 同じ人間に対しては冷たいのに、違う種族のメシアに対しては、そんなにひどく冷たい態度は見せず、かと言って、温かいとは思えない暴力と暴言。だが、どういうわけか、可愛いと感じることもある。 …分からぬ。ソフィスタとは、一体どのような人間なのか…。 知らずのうちに、道のど真ん中で立ち止まり、メシアはう〜んとうなった。 そして、気合を入れるかのように、「よしっ」と顔を引き締め、拳を突き上げると…。 「ソフィスタに子供を産ませるぞ―――――!!!!」 道のど真ん中、人々が行き交う中、天に向かって、そう咆えた。 …そうだ!やはりソフィスタには、子供を産ませるべきだ!そうすれば命を尊ぶようになるだろう!そして、我が子を思う母親の本能によって、己の持つ優しい心を他の者に対しても与えるようになるだろう!産まれる子供が種に繁栄をもたらし、ソフィスタは己の罪を悔い改め、私も使命を果たすことができる!! メシアの使命感が、生命を思う心が、彼の中で熱く燃え上がっていた。 しかし、彼に向けられる人々の視線は、冷えきっていた。 半裸で「子供を産ませる」と叫ぶメシアは、誰から見ても変質者であった。しかも、珍しい種族で筋肉質の巨体を持つ彼は、黙っていても目立つ。 このままでは、捕まりかねない。 「ちょ、ちょっとちょっとメシアくん!!」 そんな彼に、声をかける者がいた。 「そんな格好で何叫んでいるんだ!変態と思われて捕まってしまうよ!!」 そう言って、慌てて駆け寄って来る男に、メシアは見覚えがあった。 「お前は…アズバンではないか」 アーネス魔法アカデミーの教授、アズバンだ。もっとも、メシアは彼を、ただのソフィスタの知り合い程度にしか認識していないが。 「あ、覚えていてくれたんだね…って、のんきに話をしている場合じゃないよ!ホラ、これを着なさい!」 アズバンは、メシアの前まで来ると、着ていた上着を脱ぎ、メシアに渡そうとした。 「いや、寒くはない。大丈夫だ」 「そうじゃなくて…とにかく着なさい!何もないよりはマシだろう…ホラ、みんな見ているだろう」 アズバンに言われ、メシアは初めて人々の視線に気付いた。 しかし、その視線が持つ意味までは読めなかった。 …そうか。そんなに寒そうに見えるのか。 「わかった。ありがとう、アズバン」 メシアは上着を受け取り、袖を通した。わりとゆったりとしたサイズなので、一応着ることはできたが、やはりメシアの体には小かった。 「君の体は本当に大きいねえ…ところで、ソフィスタくんはどうしたんだい?一緒じゃないのかい?それに…君の服は?」 「うむ、実はソフィスタが私を殴り飛ばして家を出てしまい、今、探している所なのだ。服は、そのソフィスタがどこかへ預けたらしく、今はない。返してもらって来ると言っておったが…」 「殴り飛ばした?…とにかく、ソフィスタくんもいないし、服もないんだね」 アズバンは、周囲の視線を気にしながら、困った顔で考え込んだ。 「何にしても、そんな格好で歩いていたら、変な奴と思われるよ。服を貸してあげるから、私の家に来なさい。すぐそこにあるから」 「いいや、私はソフィスタを探さねばならんのだ。人間に変な奴と思われることくらい、何ともない」 メシアの言葉に、アズバンはさらに困った顔をする。 「…だからねえ…君の格好も発言も、人間に怪しく思われるんだよ。怪しい奴がいたら、人間はそいつを捕まえて、調べようとする。そしたらソフィスタくんを探せる時間が、ますます減ってしまうだろう。だから、ここは怪しくない格好をしておくべきだ。そうだろう」 「う〜む、それもそうだ…」 アズバンの説得に、メシアは納得する。 「分かってくれたかい。じゃあ、私の家に行こう」 「ああ。世話になる」 メシアは、アズバンの言うことに素直に従った。アズバンはホッと胸を撫で下ろす。 こうして、ソフィスタの知らないうちに、メシアはアズバンの家へと向かうことになった。 AM.9:10。メシア、アズバン宅へ。 (続く) |