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ありのままのメシア 第三話


   ・第三章 メシアの逃亡劇

 植木に囲まれた大きな公園では、ペットを連れた人間や、元気の良いお年寄りが、朝の散歩を楽しんでいた。
 その公園の隅。公園の外側からも内側からも目立たない、植木に囲まれて影になっている場所に、メシアは立っていた。
 表情から焦りの色が消え、心と体は開放感に満ちている。
 しかし、近くの茂みが大きく揺れ、切羽詰まった様子の男が姿を現した時、メシアは激しく動揺した。
「だ―――――っっ!!もう限界!もうヤバイ!」
 悲鳴を上げながら、この場所に飛び込んできたのは、ザハムだった。彼はメシアより少し距離を置いた位置で、木と向かい合って立った。
 薄暗い場所であることも手伝い、何やら慌てているザハムは、メシアの存在に全く気付いていない。
「ドチクショウ!何でこんな朝早くから、公衆トイレが満員なんだー!!」
 ザハムは急いで腰のベルトを外し、ズボンを下着ごと下ろした。
 そして、男性特有の体外器官を、両手を添えるようにして支え…手っ取り早く言うと、立ち小便を始めた。
 メシアは無言のまま、ひどく、ひどく気まずそうな顔をする。
「は〜…間に合った…」
 ザハムは大きく安堵のため息をつき、全身の緊張をほぐした。
 だが彼もまた、メシアに気付くと激しく動揺し、「おぅわっ!!」と驚いて肩を震わせた。
「っちょ、てめっ…」
 ザハムは、自分の体内から流れ出ているソレと、メシアを交互に見た。その動作を三回ほど繰り返した所で、彼の視線はメシアに留まる。
「………………」
 ザハムは、呆然とメシアの様子を眺めた。
 その気持ちは、メシアにもよく分かった。何故なら、ザハムがズボンを下ろした時のメシアも、同じ心境だったからだ。
 今、二人は同じ状況下にあった。
 それを悟った時、二人の心の中でゴングが鳴り響いた。
 無防備で、しかも男性共通にして最大の弱点を丸出しにしている状態を、互いに晒しているのだ。隙だらけにも程がある。
 この勝負、出ているものが先に止まった方が勝ちとなるだろう。
 …うおおおおおおお!!止まれ止まれ止まれ早く止まれぇぇぇ!!!
 もよおしていた時とは別の焦りが生じ、二人は一心不乱になって出し続ける。
 こうして、公園の隅で人知れず、妙なバトルが繰り広げられたのだった。
 その決着は、早くについた。
 勝利の軍配が上がったのは、メシアだった。ザハムより先に出し始めていたのだから、当然と言えば当然である。
 メシアは、下ろしていた下着を上げ、捲り上げていた腰巻きを下ろし、巻衣を羽織り直した。
「あ、コラ待て!逃げるな、俺の昇進!!」
 ザハムの静止する声を無視し、メシアは茂みを跳び越えると、走ってその場から離れようとする。
 互いに手も足も出せない状態なら、話し合って誤解を解くことができたかもしれないが、ソフィスタやアズバンがいなければ、自分の身の潔白を証明しきれない。あの血気盛んな自警隊員は、証拠の無い話など、おそらく聞く耳持たないだろう。
 それに、右手の平の怪我の原因を覚えていないメシアは、ザハムの近くにいては危険だと考えていた。
 …とにかく、ソフィスタを探さなければ…いや、一度どこかに身を潜め、様子を窺おう。もしかしたら、ソフィスタとアズバンが誤解を解いてくれているかもしれぬ…。
「待ちやがれトカゲ!!くそっ、俺の昇進がかかっているってのに…!」
 去り際に、ザハムがそんなことを呟く声が聞こえた。
 彼が言う「昇進」という言葉に首を傾げつつも、メシアは植木の影から影へと移って走り続け、やがて公園を出た。


 *

 ソフィスタはズースと一緒に、メシアを探し歩いていた。
 時々すれ違う自警隊員にも、メシアを見つけたら保護するよう呼びかけているが、今のところ、メシアの姿は見当たらないし、見かけたという情報も届いていない。人通りが多くなり始めたので、どこかに隠れているのだろうか。
 そしてザハムの居場所に関しても、まだ何の情報も得られていない。
「…ズースさん。その、ザハムっていう自警隊員は、そんなに暴れん坊なんですか?」
 隣を歩くズースに、ソフィスタは何気なく尋ねた。
「ん?ああ…そうだな。暴れん坊だ」
 そう答えて、ズースは気が重そうにため息をついた。
「あいつが君の家に勝手に踏み込んで、メシアくんに暴力を振るったことは、私からも詫びよう。本当にすまなかった」
 ズースは立ち止まり、ソフィスタに頭を下げた。
「上司に頭を下げさせるなんて、相当問題のある隊員のようですね」
 歩みすら止めず、謝罪の言葉も素直に受け取らない、年下の少女であるソフィスタの冷淡な態度に、ズースは戸惑いを覚えつつも、彼女を追って歩き出す。
「し・しかし、悪い奴じゃないんだ。熱くなると歯止めがきかなくなるが…」
 ソフィスタはズースの話を無視し、周囲を見回しながら歩き続けた。
 すると、前方に人集りが見え、ソフィスタは後ろを歩いているズースに、「何かあったんじゃないですか?」と声をかけてから、走って人集りに近付いた。
 そこには、自警隊員が四人、通行人に体を支えられて上半身だけ起こしていた。
「すいません!何があったんですか!?」
 ソフィスタは、自警隊員の一人に駆け寄り、手前で腰を屈めた。いきなり見知らぬ少女に声をかけられたためか、その自警隊員は一瞬戸惑ったが、彼女に続いて駆け寄ってきたズースの姿を見て、僅かに身を乗り出して答えた。
「隊長…!ザハムが手配書の男を捕らえ、我々に預けたのですが…逃げられてしまいました。申し訳ありません…」
 頭痛がするのか、自警隊員は側頭部に手を添え、時々辛そうに顔を歪めている。
 …ってことは、あたしが先生たちと話をしている時、目を覚ましたザハムがメシアを捕まえて、場所を移動したってことか。…その割には、戦った痕跡もなかったな…。
 強化ガラスを素手で粉砕するメシアが、簡単にザハムに負けるとは思えない。ザハムに騙されて、抵抗せずに連れて行かれたのかもしれないが、あの突貫自警隊員は、そんな回りくどいやり方はしないだろう。
 まあ、何故メシアがザハムに捕まえられたのかは、後で本人に聞けば分かることだ。そう考え直し、ソフィスタは隊員の体をざっと眺める。
 見た所、隊員たちに目立った外傷は無い。おそらく、メシアが無傷で昏倒させたのだろう。
 …でもメシアの奴、逃げる前に、指名手配の誤解を解こうとはしなかったのか?いくら捕まったからって、こいつらを問答無用で叩きのめしても何も解決しない…むしろ事態が悪化することくらい、あのバカでも分かるはず…。
「あの、メシアは…その緑色の肌の男は、どこへ逃げたか分かりますか?あと、逃げる前に何か言っていませんでしたか?」
 その点が気になり、ソフィスタは隊員に尋ねた。
「いや、どこへ行ったかは見ていない…そういえば、あの化け物、人間の言葉を話していたな。だが、我々と話をしている暇はないと言っただけだ…ずいぶん慌てていた様子だったが…」
「慌てていた?…そうですか…」
 そう呟いて背筋を伸ばし、ソフィスタは考え込むような仕草を見せる。
「…とにかく、早くメシアを見つけないと…。ズースさん、ここお任せします。私は先にメシアを探しに行きます」
 ソフィスタはズースを振り返り、彼にそう言った。
「そうだな…分かった。我々もすぐに捜索に当たろう。もし見つけたら、詰め所まで連れてきてくれ」
 ズースの答えに頷くと、ソフィスタは当てもなく走り出し、その場を離れた。
 …ちくしょう。こんなことになるんなら、セタかルコスのどっちかだけでも、メシアに付き添わせておくんだった。これじゃ昨晩と同じじゃないか…。
 両肩、それぞれに乗っているセタとルコスを見遣り、ソフィスタは小さく舌打ちをした。


 *

 路地裏に駆け込んだメシアは、誰もいないことを確認してから、積み重なっている木材の影に隠れると、疲れたように息を吐き出した。
 …はぁ…これでは昨晩と同じではないか…。
 その場に腰を下ろして体を休め、メシアは現在の状況の確認のため、頭の中を整理する。
 昨晩の合コン騒動で指名手配にされてしまい、街の治安を守っている自警隊とやらの隊員の一人が、早速ソフィスタの家を尋ねてきた。
 その自警隊員…ザハムという名の男は、メシアを見るなり、いきなり襲いかかってきたが、ソフィスタの魔法により眠らされた。
 メシアは意識が無いままのザハムを担ぎ、ソフィスタと共に学校へ向かったが、学校の玄関前で、自警隊員とアズバンが話をしていたので、ソフィスタだけ先に様子を見に行き、メシアは塀の影に隠れて待っていた。
 しかし暇を持て余し、ザハムが持っていた警棒をいじって調べていたら、突然、強烈な衝撃に全身を襲われた…と、ここまでは覚えている。おそらく、あの衝撃で気を失ってしまったのだろう。
 次に気が付いた時には、周りの景色も変わっており、見知らぬ自警隊員に体を担がれていた。リング状の鉄枷で両腕を繋がれ、右手の平を負傷していたが、猛烈な尿意に駆られ、焦りで頭が働かなくなっていた。
 やむなく、その場にいた隊員たちを攻撃してしまったが、今考えると、失敗したなと思う。
 …せめて、もよおしていなければ、あの場で話し合えたかもしれぬというのに…。
 故郷の村では、戦士として心身共に鍛え抜かれたメシアだが、排泄欲には我慢の限界があった。何だか自分が情けなくなるが、食欲や睡眠欲以上に耐え難い生理的欲求なので、仕方ない。
 …悔やんでも仕方がない。問題は、これからどうするかだ…。
 ザハムが追ってくると思って、つい隠れてしまったが、このまま隠れ続けているわけにはいかない。
 …一番良いのは、ソフィスタと合流することだ。本来の私の目的は、ソフィスタの監視なのだからな。…だが、どこにいるかが分からない…。
 こちらからソフィスタを探しに行ってもいいのだが、注意すべきはザハムだ。もしかしたら、ソフィスタが自警隊に事情を説明してくれたかもしれないが、ザハムにまで行き届いている可能性は低い。つい先程、公園で会った時の彼は、まだメシアを敵として見ているようだった。
 …暫く時間を置いてから、探しに行くべきだろうか…。
 未だ両手首を捕らえたままの鉄枷を見下ろし、メシアはため息をついた。
 おそらくザハムか、自警隊の誰かが取り付けたのだろう。自警隊の人間は皆、これと同じ鉄枷を腰に吊していた。
 つなぎ目があるので外せるとは思うが、外し方が分からない。壊すという手段もあるが、右手の平を負傷している状態では力を入れづらく、壊すのに苦労しそうだ。
 急いで外す必要がないのであれば、スムーズに外せる方法を知っからでいいだろう。少々邪魔ではあるが、鎖を引きちぎって両腕の自由を取り戻したので、動くぶんには支障は無い。
 鉄枷は放置することにし、メシアは視線を鉄枷から右手の平へと移した。
 建物の屋根の合間に覗く空から僅かに差し込む光だけでも、怪我の様子はよく分かった。
 皮膚の表面に焦げたような跡が見られ、その周りは赤くなっている。警棒を握っていた時、強い衝撃を感じたことは覚えているので、おそらくその時に負った傷だということは分かった。しかし、感電したことなど今まで一度も無かったので、電撃による傷だということまでは分からなかった。
 …ただの熱で負った火傷であれば、右手の平を焼かれたくらいでは、気を失いはせん。…さては魔法か?
 薄暗い中、メシアはじっと右手の平を見つめる。
 不意に、赤みを帯びた部分が真っ赤な鮮血に見えた。
 へばりつくように手の平を濡らし、指の隙間から滴るそれに、メシアは息を飲むが、瞬きをすると消えてしまった。
 …今のは…?
 メシアは、僅かに震える右手の平を、不思議そうに見つめる。
「…メシア?」
 しかし、すぐ近くから声が聞こえ、メシアは顔を上げた。丁度、ソフィスタがメシアの目の前に顔を覗かせた所だった。
「ここに隠れていたのか。少し目を離した隙に、いなくなるなよ」
 ソフィスタはメシアの姿を確認すると、安心したように息をつき、腰を屈めてメシアと目線を合わせた。
「あ・ああ…すまなかった。だが、お前が私を見つけてくれて、よかった」
 そう言って、メシアは表情を綻ばせた。感情を素直に表すメシアを、ソフィスタは何故か直視したがらず、彼から視線を逸らし、「別に…」とだけ呟き、メシアが不自然に上げている右手に気付くと、話を逸らすように「どうかしたのか?」と尋ねた。
「うむ…どうも知らぬ間に怪我をしてしまったようでな」
 メシアはソフィスタに、警棒をいじっていたら気絶し、四人の自警隊員の前で目を覚ましたこと話した。話を聞きながら、ソフィスタはメシアの右手を取り、怪我の様子を調べる。
「…これは電撃傷ってヤツだね。おそらく、警棒にスタンガン機能がついていて、いじっていたら安全装置が解除されて、感電したんだろ。お前バカじゃないか?」
 メシアにとって聞き慣れない言葉をソフィスタは連発するが、一言多く付け足された「バカ」という単語だけは、よく分かった。
「ば・バカとは何だバカとは…」
「黙れ。大人しくしていろ。気を失うほどの電撃を受けたら、体の表面以上に、内側のダメージが怖いんだよ。具合が悪かったり、触って痛む所があったら、すぐに言いな」
 メシアの言葉を遮るソフィスタは、いつになく真剣な面持ちだった。そのため、メシアは素直に口を噤む。
 ソフィスタは、グローブを外してベルトに挟むと、メシアの手首の動脈に指を添えた。脈拍を確認し終えれば、右手の平以外にも負傷していないかと、メシアの巻衣を捲り上げ、体を慎重に調べ始める。
 右手の平以外に負傷が見当たらなくても、どこが痛むか、手足に障害は無いかと、メシアはしきりにソフィスタに尋ねられた。
 その様子に、ソフィスタが真面目に自分を心配してくれているのだと、メシアは思った。ソフィスタにしてみれば、感電というものがどれほど危険なものかを…場合によっては死に至ることを知っているから真剣になっているのだが、まあ心配してくれていることには変わりない。
「…ここじゃ精密に検査できないから、確証はないけど…他に異常は無いようだな。気絶するほどの電撃を喰らって、この程度の怪我で済んだってのは異常だけど…」
 そう言って、ソフィスタはズボンのポケットからハンカチを取り出し、折りたたまれているそれに手をかざした。
 淡く、青白い光が彼女の手の平に生じ、ハンカチへと吸い込まれるように消えた。
 そして、一度広げたハンカチを三角に折ると、メシアの右手を取り、患部を包んだ。
 ハンカチは不思議と冷たく、まるで水の中に手を浸しているようだった。
「魔法で消毒と冷却の効果を込めたハンカチだ。あくまでも応急処置だから、下手に触ったりするなよ。…それと、もう警棒にも触るな。スタンガン…雷の魔法を封じた武器のことだけど、それについても、後で説明してやる。覚えて、今後気をつけるようにしな」
 心地よい冷気に、痛みが和らいでいくのを感じながら、メシアはソフィスタに微笑む。
「面倒見が良いな、ソフィスタ」
「お前がバカやって世話を焼かせるからだろ」
「…悪いとは思っておるが、誉めてやったのに、そんなふうに返すことはないだろう」
「じゃあ誉めるな」
 冷たく、しかもきっぱりと言われ、メシアは笑顔を引きつらせたが、仕方なさそうにため息をつき、ハンカチを巻くソフィスタの様子を黙って見守る。
「…なあ、ソフィスタ…」
 何気なく、メシアはソフィスタに声をかけた。ソフィスタはハンカチの端を結んで固定しながら、メシアに「何?」と尋ねる。
「ここへ隠れる前に、ザハムと鉢合わせになったのだが…」
「ザハムと?いつ?」
「…う・うむ…四人の自警隊員から逃れた後だ。偶然、鉢合わせになってしまってな。ぐ・偶然にだ…」
 メシアは、明らかに何かを誤魔化しているように話し、それに気付いたソフィスタは、疑い深そうな目で彼を見る。
「それで、そのザハムからも逃れて、ここに隠れていたってわけか?」
「その通りだ。…その時、あの人間の男は、私のことを昇進だとか言っておったが…どういう意味か、分かるか?」
 昇進という単語の意味は知っているが、何故ザハムが自分をそう呼んだのかが分からず、メシアはソフィスタに尋ねたのだった。ソフィスタは、「そんなの簡単な事じゃねーか」と言ってから、メシアに説明し始める。
「組織の中で功績を認められれば、それなりに高い地位につけて、給料…働いたことで得られる代償、つまり貰える金の量が増えるってもんだ。街の治安を守っている自警隊も、まるっきりボランティア…無償で働いているわけじゃないんだから、例外じゃない。組織の中に地位があり、高い地位であるほど給料が高くなれば、下で働いている連中も、地位を得たくて真面目に働くようになるだろ」
「…金を得たいがために、街を守っているというのか?」
「まあ、人間なんてそんなもんだ。自警隊員だって金が無いと生活できないし、働きに見合った正当な金を貰って街の平和を守っているんだから、何を考えて働いているかなんて、どうでもいいだろ」
 …そういう意味で聞いたわけではないのだが…。
 自警隊員にも自分の生活があるし、家族を養わなければいけない者もいるだろう。自警隊は街の平和を保つために働き、街は隊員の生活を保つため、その働きに見合った給料を払う。これは当然の、そして正しい取引である。
 ただ、ソフィスタの説明の仕方は、非常に聞こえが悪いのだ。
 治安を乱す輩を捕らえるという、時には危険を伴う仕事に自ら就いている以上、隊員たちには少なからず街を思う心があるはずだ。そう、メシアは考えていた。しかしソフィスタの説明では、まるで自警隊員が金目当てでしか働かない連中ばかりに聞こえる。
 そういう人間もいないとは限らないが、それにしてもソフィスタは人を信用しなさすぎだ。
 もっとも、ソフィスタにしてみれば、メシアは人を信用しすぎなのだろうが。
「あのザハムも、お前を捕まえれば、その功績を認められて、昇任できるとでも思ってるんだろ。だから、お前を昇任って呼んだんだよ」
「…つまりそれは、ミーリウが私を下着で呼んだことと同じようなものであるな」
 メシアの言葉を聞き、ソフィスタは微妙な顔を見せるが、やがて面倒くさそうに「そんなところだ」と言った。
「…まあ、功績を認められたいという気持ちは分かるがな…」
 メシアは、肩を竦めて呟いた。ハンカチを結い終え、手を下ろしたソフィスタが、「どうして?」と問う。
「私も幼い頃、己の実力を認めて貰いたいがために、無茶をしたことがあったのだ」
 種族も住まう土地も違うメシアが、身の上話を始めたからだろう。ソフィスタは彼の話に興味を持ち、「どんな無茶をしたんだ?」と話を促した。
「その頃、切らしていた薬草があってな、危険なので入るなと厳しく言われている森の中へ採りに行ったのだ」
「それで、認めて貰えたのか?」
「いや、途中で村の大人に見つかり、引きずり戻されてしまった。…村に戻ってから、私の格闘技の師匠にひどく叱られ、納屋に押し入れられたものだ」
 そう話して、メシアは懐かしむように小さく笑う。
 一方、ソフィスタは不思議そうな顔で、メシアを見ていた。
「へえ、格闘技を習っていたんだ。…でも、そういうことを叱るのって、親の役目じゃないか?自分の子供でもないのに、勝手に納屋に押し込んだら、人間の社会じゃ犯罪だぞ」
 確かに、親しい仲の大人であっても、余所の子供を小屋に押し込むなど、子供に非があってもやりすぎだ。それはメシアも分かる。そもそも、子供に対する仕置きは、親の仕事だ。
「…私には、叱ってくれる親がいなかったのでな。だから、師匠が親に代わって私を叱ってくれたのだ。それに…私を育ててくれたのは、師匠と、師匠の妻。私にとっては、師匠ら夫婦が両親であった」
「え…それじゃあ、お前の本当の両親は…」
 ソフィスタの問いに、メシアは右手に結われたハンカチを眺めながら答えた。
「私が生まれてすぐ、不慮の事故で亡くなったそうだ。顔も何も分からぬ」
 メシアがそう言い切ってから、二人の間に沈黙が訪れた。
 だいぶ活気づいてきた街の音だけが路地裏まで届き、反響する。
「…そうか…悪かったな…」
 先に口を開いたのは、ソフィスタだった。黙ってハンカチを眺めていたメシアは、彼女へと視線を移した。
 メシアを騙しても殴り飛ばしても謝らなかったソフィスタが…口では謝ることはあっても、悪びれた様子を全く見せなかったソフィスタが、申し訳なさそうに謝罪の言葉を述べ、俯いている。
 そんな顔を初めて見せた彼女に、メシアは目をぱちくりさせ、こう尋ねた。
「…何故、謝るのだ?」
 ソフィスタは面食らったようで、思わず「へっ?」とメシアに聞き返す。
「何でって…あたしが謝っちゃ可笑しいか?」
「いや、そんなことは無いが…何に対して謝ったというのだ」
「そ・それは、その…親のことを聞かれたから、お前が落ち込んだんじゃないかと思って…」
「何故、親のことを聞かれると、私が落ち込むのだ?」
 メシアは、じっとソフィスタの目を見て問う。
 視線をメシアから逸らして、言葉を濁すソフィスタの様子は、明らかに戸惑っているが、メシアには何故ソフィスタが戸惑っているのか、全く分からなかった。
「その、だって、お前…両親がいなくて、親がいる子供を羨ましがったり、親がいないから寂しいと思ったりしたこと、無いのか?」
「両親がいたからこそ、私が生まれたのではないか。それに、師匠ら夫婦が、他の子供の両親と同じように私に接してくれたので、羨ましがったことなど無い。寂しがったことも…」
 そこまで言って、メシアは急に言葉を止めた。そして、考え込むような仕草を見せてから、ソフィスタに尋ねた。
「…ソフィスタ。私を気遣って謝ったのか?」
 とたんに、ソフィスタは顔を赤くし、肩を大きく震わせた。
「そっそそそんなんじゃねーよ!!何であたしが爬虫類なんかを気遣わなきゃいけないんだ!」
 動揺と怒りが入り交じった声で、ソフィスタはそう吐き捨てた。
 その様子は、一昨日の魔法生物との戦いの最中に見せた彼女の態度を思い出させる。
 メシアに「優しい心がある」と言われたソフィスタは、頬を赤らめ、怒ったようにそっぽを向いてしまったのだった。
 ひねくれた性格で、口も悪い彼女だが、その時だけは、そのひねくれた態度と口の悪さが、妙に可愛いとメシアは感じた。
 そして、今も。
「…とにかく、お前が何も気にしていないってんなら、この話は終わりだ。いいな」
 ぶっきらぼうに言って、ソフィスタは立ち上がった。何故かは分からないが、それがまた可愛くて、彼女を見上げるメシアの表情に、自然と笑みが零れた。
 見守るように優しく、温かな笑みであるが、ソフィスタはそれが苦手なようだった。彼女は、居心地が悪そうに視線を逸らす。
「えと…それより、お前、いつもなら左手につけている、あのアクセサリーだけど、どうして襟飾りに引っかけているんだ?」
 誤魔化すように、ソフィスタは話を切り替えたが、メシアは気付かない。
 ソフィスタの言う通り、四人の自警隊員から逃げ出した時に襟飾りに引っ掛けた紅玉は、まだそのままになっている。
「うむ。洗っていない手に、それをはめ込むわけにはいかな…」
 急にソフィスタに問われたので、メシアは正直に答えようとしたが、途中ではっとして口を噤んだ。
「洗っていないって…お前、何か汚いモンでも触ってたんじゃないだろうな」
 先程まで、脈を計ったり、怪我に処置を施したりと、何度もメシアの手を触っていたソフィスタは、グローブを外した自分の手を胸の高さまで持ち上げ、ジト目で彼を睨む。
「い・あ・まあ、その、なんだ…」
 今度はメシアがうろたえ始めたが、やがて腹をくくり、ソフィスタに深々と頭を下げた。
「…すまん…さっき、用を足しておってな。そのために紅玉を外し…まだ手を洗っていなかった…」
「洗えバカ野郎!!!」
 メシアが答え終えた直後、ソフィスタは悲鳴のような声で、ツッコミを入れた。薄暗く、狭い路地で出された大声は、うるさく反響する。
「さっき思いっきりお前の手ェ素手で触っちまったじゃねーか!!ったく汚ねーなぁ!!」
 ソフィスタは、わめきながら両手を前に突き出した。そこに生じた水が、ソフィスタの手を洗い流していく。
「悪かった!近くにザハムがいたので、洗っている暇が無かったのだ!」
「お・お前、ザハムの近くで、そんな悠長なことやってたのか!?」
「違う!ザハムが後から来たのだ!だがザハムも、もよおしておったので、先に用を済ませた私は、奴から離れ、ここまで逃げてきたのだ」
「じゃあ、二人揃って用を足していたってことか?アホかお前ら…」
「あん?誰か呼んだか!?」
 訳の分からない言い合いに、聞き覚えのある声が割り込んできた。
 …ザハム?
 一瞬、メシアとソフィスタは顔を見合わせた。すかさず、ソフィスタがメシアの隣にしゃがみ込み、息を潜める。
「今の…ソフィスタだな!もう一人の声は、トカゲ野郎のか!!」
 しかし、既に姿を見られた後たっだようだ。こちらからは、ザハムの姿は見えないが、路地の入り口から、足音が近付いてくる。
「お前が大声を出すから、見つかってしまったではないか!」
 小声で、しかし鋭く、メシアはソフィスタに言った。ソフィスタも小声で「お前の声だって、あいつに聞こえているじゃねーか!」と反論する。既に存在を気付かれているようなので、今さら小声で話しても遅いだろうが。
 さらに、メシアが警棒のグリップをいじっていた時に鳴った音が、一度だけ響いた。あの音に何の意味があるのか、詳しいことは分からないが、音が鳴ると同時に電撃を浴びたメシアは、あまり良い予感がしなかった。
 木材の影に隠れたまま、いつでも立ち上がれる体勢を取り、ソフィスタを庇うように、彼女の前に腕を伸ばす。
「ここかっ!?」
 積み重なっていた木材が、バトンを伸ばしきった警棒によって横薙ぎにされ、音を立てて崩れ落ちた。
 身を固くしているメシアとソフィスタの前に、ザハムが姿を現す。
「よっしゃ見つけたぜ!!今度こそ逃がしゃしねぇ!!」
 メシアの姿を確認するなり、ザハムは警棒を振り上げた。
 熱くなってはいるが、一般人を巻き込まない配慮は残っているのだろう。メシアの右隣でしゃがんでいるソフィスタに当たらなぬよう、メシアの左肩を狙って振り下ろす。
 メシアはソフィスタを軽く突き飛ばし、身を低くしたまま前に出ると、警棒を掴んで振り下ろされたザハムの腕を、左肩で受けた。
 ザハムが、僅かに笑みを見せる。
 ソフィスタの家でメシアに攻撃を仕掛けた時と同じように、警棒を振り下ろせば、メシアは前に出て受け止めると考えていたのだろう。すかさず、前に出てきたメシアの顔面に膝を入れようとする。
 しかし、メシアはザハムより、一歩行動が早かった。
 メシアはザハムの膝を、右肩で受け止めた。分厚い筋肉が盾となり、ダメージはほとんど無い。
 さらに、ザハムが振り下ろした腕を左手で掴み、強く引いた。バランスを崩していたザハムの体は、あっけなく引っ張られ、引きずり下ろされるように、メシアの左脇で腹を地面に打ち付けた。
「いでっ!…このやろっ!!」
 ザハムは、すぐに抵抗しようとするが、その前に、メシアはザハムから離れ、距離を取る。
 ふと、羽織っている巻衣に、いつもとは違う重みを感じたが、その理由を確かめている暇は無かった。
「ザハム!私を捕らえたくば、追ってくるがいい!!」
 そうザハムに言い放って、メシアは彼に背を向け、路地から出ようと走り出した。
「上等だ!待ちやがれ!!」
 立ち上がったザハムは、体勢を崩して壁に寄りかかっているソフィスタには目もくれずに、メシアを追う。
 メシアは、立ち止まらずに振り返り、二人の様子を確認する。
「おい!待てメシア!!」
 ザハムだけではなく、ソフィスタもメシアを追おうとしていたが、メシアが「手を出すなソフィスタ!」と声を上げると、彼女は肩を震わせて、動きを止めた。
 …ザハムは私を追ってくる。ソフィスタは…追ってきたとしても、追いつけまい。
 メシアは前を向き直り、路地を飛び出した。近くを歩いていた人間が、驚いて足を止める。
 後ろから、けたたましく響く足音と声で、ザハムの気配を確認しながら、通行人の合間をすり抜け、メシアは走り続けた。


   (続く)


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