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ありのままのメシア 第三話


   ・第四章 一撃昏倒ボディーブロー

 メシアの足は、ザハムより速かった。
 しかしメシアは、あえてザハムがついてこられるよう、スピードを抑えていた。
 通る道に、これといった障害物は無く、通行人も自らメシアを避けて道を開けるため、足止めを喰らうこと無くザハムとは一定の距離を保ち続けていた。
 追いかけっこを初めてから、然程時間は経っていない。二人とも、体力にはまだまだ余力があり、汗一つとかいていない。
 だが、ザハムはメシアとの距離が縮まないことに、苛立ちを覚えているようだ。後ろを振り返ると、苦虫を噛み潰したような顔で、ザハムはメシアを睨みつける。
 もしかしたら、メシアが手加減をして走っていることに気がついているのかもしれない。
 メシアは前を向き直る。
 十字路に差し掛かると、迷わず右に曲がった。馬車が一台通れるくらいの幅で、両脇には家が建ち並んでいる。
 目的の場所を目指して、メシアは走っているのだが、その場所までの道を知っているわけではない。今、走っている道だって、曲がる直前までは、通り抜けられる道かどうかも知らなかった。
 メシアが知っている、アーネスの街の中の道と言えば、迷っている時に進んだ道や、ソフィスタの通学路だけである。この街へは来たばかりなので、それも当然だ。
 なのに、初めて訪れたアーネスで、実は存在すら知らなかった魔法アカデミーに辿り着くことができ、そこでソフィスタと巡り会えたのは…メシア曰く「神のお導き」らしい。
 実際、本格的に迷った時に紅玉を見遣ると、行く先を示すように光が宿っていたりもしたが、それはさておき、今現在のメシアは、目的の場所があるはずの位置を、勘だけで把握し、適当な道を選んで走っていた。
 今、走っている道を抜ければ、大通りに出るはずだ。ソフィスタの家から魔法アカデミーまでの通学路でもあるので、そこに出れば、あとの道順は分かっている。
 知っている道に出られると気が緩んだためか、羽織っている巻衣の重みを思い出した。
 ソフィスタと路地裏で一度合流し、別れる直前、急にいつもより重くなったのだ。
 メシアは、その原因を探ろうと、巻衣の端を掴み、持ち上げた。
 すると、人の頭ほどの大きさはある、銀色のゼリー状の物体が、巻衣の裏から這いずり出てきた。
 その物体の正体は、すぐに分かった。
「せ・セタ!?」
 ソフィスタと別れる直前まで、彼女の右肩に張り付いていたはずのセタが、いつの間にか、メシアの巻衣の裏へと移動していたのだ。
 セタはメシアの右肩へよじ登り、そこに張り付いた。
「お前、何故ここに…」
 顔を右に向け、メシアはセタに問う。しかし、声を出す器官が備わっていないセタは、それを示すように、体を左右に揺らした。
 …そういえば、セタもルコスも、言葉を発することがなかったな…。
 体を震わす様子を見て、セタが口を利けないことを、メシアは悟る。
 …おそらく、セタはソフィスタが差し向けたのだろうが…。いや、そんなことより、今はザハムだ。
 そう考えた所で、メシアは、ふと気がついた。
 …ザハムの気配が消えている!?
 走りながら、すぐさま後ろを振り返る。通行人が数人、走り去ったメシアに驚かされ、その場に立ちつくしていた。
 ザハムの姿は見当たらない。
 …セタに気を取られる直前まで…いや、この道に入るまでは、確かにザハムは私の後を追って走っていたはずだ。
 メシアは、さらにスピードを緩める。
 …振り切ってしまったのだろうか。いや、そんなはずはない。
 考えながら、メシアは前を向き直る。丁度その時、視界が開け、大通りに出た。
「おりゃあぁぁぁっ!!!」
 突然、横からザハムが現れ、メシアの行く手を阻んだ。
 彼は雄叫びを上げ、メシア目がけて警棒を振り下ろす。
 てっきり後ろにいると思っていたザハムの襲撃に、メシアは驚かされるが、考えるより早く、ザハムの攻撃をかわそうと体が動いた。肩のセタを庇うように腕で覆いながら、横へ跳んで攻撃をかわす。
「くそっ、せっかく近道して回り込んだってのに…」
 などと、ザハムが舌打ちするのが聞こえた。
 どこをどう通って先回りしたかは分からないが、メシアに比べれば、ザハムのほうが遥かに地の利があることは確かだ。
 …自分より足が遅いからと、油断していた…。
 大通りを歩いていた人間は、突如現れたメシアとザハムに驚かされ、足を止めて二人を眺めている。その様子を、ざっと確認しながら、メシアは体勢を整えた。
 その間に、警棒を構え直したザハムが、雄叫びを上げてメシアに迫ってきた。
「待てザハム!!」
 そう言い放って、メシアは右手の平をザハムに向けてかざした。ザハムは、思わず体を強張らせて立ち止まる。
「一つ、聞かせろ!お前は何のために私を捕らえようとしているのだ!」
 メシアは、真剣な眼差しでザハムに訪ねたが、ザハムは鼻で笑って答える。
「ハァ?そんなモン、てめぇが犯罪者だからだろうが!!」
 ザハムは警棒を振り上げ、強く踏み込んでメシアに襲いかかった。
「違う!それは誤解だ!!」
 声を荒げながらも、メシアはザハムの攻撃をくぐり抜け、彼の背後に回った。背後を取られたザハムは「しまった!」と声を上げ、慌てて振り返ろうとする。
 しかし、そこにメシアの姿はなく、数メートル先でザハムに背を向けて走っていた。
「おい!また逃げる気か!?何回逃げても同じだぞ!往生際が悪い奴だなぁ!!」
 ザハムもメシアを追って走り出した。ソフィスタに負けず劣らず口が悪く、「腰抜け」だの「臆病者」だのと、メシアへの悪口をわめき散らしているが、全く無視し、メシアは真っ直ぐと大通りを駆け抜けていった。


 *

「はっ…はぁ…あの二人、足速ぇよ…」
 ソフィスタは、走るスピードを緩め、やがて立ち止まった。グローブを外したままの手を膝に付き、息を切らす。
 メシアとザハムを追って走り出したはいいが、二人の足は全速力のソフィスタより速く、すぐに見失ってしまった。
 それでも、二人がどこへ走り去ったのかは、だいたい分かっていたので、迷うことなく追い続けていたのだが、呼吸が荒くなり、体力に限界を感じ始めたので、少し体を休めることにした。
 左肩に乗っていたルコスが、地面へとダイブする。ルコスは猫ほどの重さもないが、疲れ切っている状態では、子猫でも重荷に感じてしまう。
 肩が軽くなり、徐々に呼吸も落ち着いていった。
「ふぅ…。それにしても何だってメシアは、手を出すななんて言ったんだ…」
 ソフィスタが背筋を伸ばし、歩き出そうとすると、ルコスも動き出し、ソフィスタの前を地面を這って進む。
 ザハムは、相変わらず人の話を聞かず、問答無用でメシアを叩きのめそうとしていた。なので、逃げ出すのは分かる。
 しかしメシアは、逃げ出す直前に、捕まえたければ追ってこいなどと、ザハムに言い放った。
 まるで、ザハムをおびき寄せるように。
 …あいつ、何の考えがあって、ザハムと鬼ごっこをするつもりなんだ?…ったく、勝手なことしやがって…。
 ソフィスタは、ルコスについて歩く。すれ違う人々の中には、驚いた様子で突っ立っている者や、通りの向こうを指し示しながら会話をしている者などの姿があった。
 おそらく、メシアとザハムが走り去って行ったのだろう。
「ソフィスタさん?」
 後ろのほうから名前を呼ばれ、ソフィスタは立ち止まって振り向いた。ルコスも彼女の隣に並び、声の主の姿を窺うように、体を半分持ち上げる。
「あ、ズースさん」
 離れた場所から、ズースが駆け寄ってくる。
「丁度よかった。さっき、ザハムがメシア君を追いかけて、この道を走っていったそうだよ」
「知ってます。さっき、二人に会いましたからね」
 ズースはソフィスタの手前で立ち止まった。
 彼の呼吸は乱れ、額には汗がにじんでいる。おそらく、ソフィスタと同様、メシアとザハムの後を追って走り続けていたのだろう。
「会った?どういうことだ?二人が追いかけっこをしている所に、鉢合わせしたのかね?」
「…そんな所です」
 詳しく説明する必要はないし、説明するのも面倒くさいと思ったソフィスタは、あいまいに答え、「それより、二人を追いましょう」とズースを促した。
「走れますか?」
「ああ。全速力だと、ちときついがね」
 ズースの答えを聞くと、ソフィスタはルコスを見遣った。彼女の視線に気付いたルコスは、体をうねらせ、軽く走って追える程度のスピードで進み始めた。
 すぐさま、ソフィスタはルコスを追うが、ズースは一瞬、躊躇してから走り出した。
「そいつが、君が作り出したという魔法生物のスライムかね?」
 ズースに問われ、ソフィスタは「はい」とだけ答える。
「ほお、すごいな。そいつはメシア君の居場所が分かるのかね」
「いいえ、正確には、もう一体のスライムの居場所を感知しているんです」
 セタとルコスは、一つの体を作り出す課程で分裂させた、いわば双子のようなものだった。普通の人間でも、双子というものは互いに引き合うものがあり、セタとルコスの場合は、その勘が特に鋭く、正確なのだった。
「念のため、メシアにセタを…もう一体のスライムを、くっつけておいたんです」
 メシアに行方不明になられ、探し回るのは、これで何度目になるだろう。いいかげんうんざりしていたソフィスタは、路地裏でザハムに見つかる直前、はぐれることを予想して、メシアの巻衣の裏にセタを押し込んだ。
 メシアを見失ってからも、セタが発信器の代わりとなって、メシアの居場所をルコスに伝えていたため、ソフィスタは迷うことなくメシアを追うことができたのだった。
「じゃあ、こいつについていけば、あの二人を見つけられるということか」
 ソフィスタは「はい」と答え、頷く。
「そうか。いやいや、流石、天才少女だな。こんな生物を作り出せるとは。アズバン先生からも、君の頭の良さは聞いているよ」
 ズースは素直にソフィスタの才能に感心し、誉めたのだが、ソフィスタは黙って走り続けている。
 ズースからは見えないが、ソフィスタは露骨にうっとうしそうな顔で、彼を無視していた。しかしズースは、自分の声が彼女に聞こえていなかったのだと判断し、そのまま彼も黙ってソフィスタの後に続く。
 元々、人と話したがらないソフィスタは、無駄な会話を持ちかけると、こうやって無視するなり生返事するなりして避けていた。
 だが、嫌な顔をしたのは、無駄話を持ちかけられたからだけではない。
 性格は良いほうとも言えず、尚かつ学校のエリートクラスの中でも優秀な彼女は、嫌みのきいた声で「頭が良い」だの「天才さん」だのと言われていたことがあった。
 そのため、それが心からの誉め言葉であっても、ソフィスタは嫌な顔をするのだった。
 もっとも、真っ向から嫌みを言う人間は、入学したての頃に比べて、ずいぶん減ったが。
 全く相手にしていなかったことと、ソフィスタに目をつけ、いわゆるシメようとした上級生グループを、逆にシメたことで、多くの生徒は彼女を怖がり、嫌みを言う者も減ったのだ。
 当然、近寄ろうとする者も減ったが、それについては、うっとうしい奴が減って助かると、ソフィスタは考えていた。
 …走っている時に、余計なこと話してくるな。そっちだって年なんだから、どうでもいいことに体力使うなよ。
 心の中で、そう悪態をつき、ソフィスタはいつもの涼しげな表情に戻って、前を進むルコスを追い続けた。


 *

 大通りに出てから一分と経たぬ内に、メシアは目的の場所にたどり着くことができた。
 ソフィスタの通学路の途中にある、広い空き地だった。雑草が茂り、所々にゴミが落ちている。
 メシアは、その中央に佇む。
「ようやく観念しやがったな!」
 メシアを追っていたザハムも、ある程度距離を取った位置で立ち止まった。彼は乱れた呼吸を整えながら、ざっと周囲を見回す。
 空き地を囲う低い柵の外側には、一人二人と野次馬が増えつつあるが、だれも柵を越えて中に入ってこようとはしない。
「空き地か…。へっ、決闘の場には丁度良い」
 ザハムは不敵な笑みを浮かべ、警棒を一振りする。ヒュンと風を切る音が、メシアの耳に届いた。
 メシアは振り返り、ザハムと向かい合う。
「やいトカゲ!今度こそ逃げるんじゃねーぞ!!」
 そう勇んで、ザハムは身構えるが、メシアは表情を変えずに、ゆっくりと口を開いた。
「貴様こそ、今度こそ私の問いに答えるのだ。何故、私を捕らえようとする。私を犯罪者だと思っているから…本当に、ただそれだけのためか?」
 淡々と紡がれるメシアの言葉には鋭さが潜んでおり、僅かにザハムを怯ませた。
「…テメェ…何が言いたいんだ」
 ザハムは、唸るように聞き返す。
「…確かに、私は街の人間に危害を加えた。故意でなくとも、それに変わりはない。だから、私を危険な存在と考えて捕らえようとするのならば、その誤解を解くために、大人しく捕まろう」
 メシアの言葉が意外だったためか、ザハムは明らかに驚いた顔をした。それにかまわず、メシアは一呼吸置いてから、話を続ける。
「だが…お前は、私を倒せば昇進できると考えているようだな。上の者に己の力を示すために、地位を得たいがために、私を力ずくで捕らえようというのであれば…」
 そう言って、メシアはザハムに向けて、紅玉をあしらったアクセサリーをはめていない左の拳を突き出した。手首を捕らえたままの鉄枷から垂れ下がっている鎖が、じゃらんと音を立てる。
「その時は、私も遠慮なく拳を振るおう」
 メシアは、潜ませていた気迫を露わにし、細長い瞳孔でザハムを睨みつけた。ザハムは思わず一歩退くが、その怖じ気を払うように、警棒を荒々しく振り、風圧で雑草を揺らした。
「ふざけんな!!俺をバカにしてんのか!?街の治安を守り、それを乱す奴はとっちのめる!それが俺ら自警隊だ!地位だの昇進だの、そんなモンはオマケに過ぎねぇ!言っておくがな、俺はそんなちっせぇオマケにこだわる人間じゃねーんだよ!!」
 あれだけ昇進昇進と騒いでいたくせに、きっぱりとそう言い切ったザハムへ、野次馬から拍手が送られた。
 ザハムは気をよくし、予告ホームランさながら、警棒の先端をメシアに向けた。どうやら、自己陶酔に陥っているようだ。
 そんな調子のいい彼の様子を見ると、地位はオマケに過ぎないなどと言ったことが、本気かどうか疑わしくなる。
「そうか。うむ、それは素晴らしいことだ」
 一方、メシアはと言うと、ザハムが言ったことをすっかり信じ込み、素直に感心していた。
「ザハムよ。お前が街を…人々の平和な暮らしを守ろうとする心を持つ者である…ということは分かった。街の平和を乱す存在に対し容赦しないのは、その気持ちが強い故だろう。…悪いこととは言えないが…」
 メシアは、肩に乗っているセタに「離れておれ」と囁いた。セタは、一瞬躊躇するように体を震わせるも、肩から飛び降り、土の上を這ってメシアから離れた。
 それを確認すると、メシアは改めてザハムを見る。
「もう一度、問う。私の話を聞く気は無いのか?」
「グダグダうるせぇ!男だったら拳で語りやがれ!腰抜け野郎!!」
 ザハムは警棒を軽く振ってから握り直すと、いつでも踏み込めるよう、体勢を整えた。
 メシアは、仕方なさそうにため息をつくと、巻衣を脱ぎ去り、雑草の上に落とす。
「…闘志を燃やし、心を静めよ。鋼の意思を持ち、拳に宿せ…」
 己に言い聞かせるように、メシアは静かに言葉を紡いだ。僅かにそれが耳に届いたザハムは、「何か言ったか?」とメシアに問う。
「戦いの場における、我が師の教えだ。この勝負、受けて立ってやろう!」
 握り締めた両の拳を胸の高さまで上げて構え、力強く言い放ったメシアの表情は、意を決して戦いに挑む、戦士のそれとなっていた。


 *

「メシア?」
 ルコスの後ろについて、大通りを進み続けていたソフィスタは、前方に人集りができていることに気付くと、ついメシアの名を口にした。
 あの人集りはメシアが集めたものだという確証は無いが、今、街を騒がせている者と言えばメシアしか思い浮かばない。
 ソフィスタは、走るスピードを上げた。ルコスは体をうねらせて高く跳ね、すれ違い様にソフィスタの左肩に乗った。
「あ、ソフィスタさん、待ってくれ!」
 さらにソフィスタの後ろを走っていたズースも、すぐにスピードを上げて彼女を追う。
「よっしゃぁ!いい度胸してんじゃねーかトカゲ!いざ、尋常に勝負!!」
 威勢の良いザハムの声が、人集りの中から響いてきた。
 …やっぱり、メシアとザハムだ!勝負って…あいつら、何やってんだ!!
 どうやら、人集りは空き地を中心に集まっているようで、さらにその空き地の中央に、ザハムがいるようだ。メシアの声は聞こえず、人集りと言っても隙間が無くなるほど集まっているわけではないが、ここからでは姿も確認できない。しかし、ザハムが言った「トカゲ」は、メシアのことに間違いない。
 ソフィスタが人集りの合間を縫って、空き地を覗き込むと、やはりザハムと対峙していたのは、メシアだった。
 いかにも、これから戦いを始めそうな体勢で向かい合っている二人の姿を確認すると、ソフィスタは空き地を囲う柵に足をかけ、跳び越えようとした。
 丁度その時、ザハムが砂埃と雑草を巻き上げて地を蹴り、メシアに向かって突っ込んでいった。
「待てザハム!!」
 柵の前に立ったズースが、身を乗り出して叫んだが、頭に血が上っているためか、ザハムの耳には届かなかったようだ。
 メシアも、ズースに気付いているのか無視しているのか、声に対して反応を示さず、ザハムが攻撃をしかけてくるのを、じっと待っていた。
 柵を跳び越えたソフィスタは、二人の間に割って入ろうと走るが、とても間に合いそうにない。
 …駄目だ!今からじゃ魔法でも間に合わない!
「お前ら、やめろ!!!」
 ソフィスタは、まだ届かないメシアに向けて、右手を伸ばした。ザハムは、既にメシアの目の前まで近付き、警棒を振り上げている。
「でやあぁぁぁぁぁぁっ!!!」
 ザハムが雄叫びを上げた時、その場にいる者…ソフィスタにズース、ザハムや野次馬たちも、警棒がメシアの体を打つことを予感した。
 しかし、それより早く、メシアが動いた。
 左足を一歩前に踏み出し、ザハムとの間合いを一気に詰める。
 重心を前へと移動させながら、ザハムの鳩尾を抉るように左の拳を打ち込む。
「ごぼっ!!」
 ザハムの短い悲鳴と、肉を打つ音が、その場に響き渡り、前へと突っ込んでいたはずのザハムは、たちまち後ろに吹っ飛ばされた。
 浮き上がったザハムの体は、回転しながら地に打ち付けられ、やがて柵に背中からぶつかり、その反動で前のめりになって倒れると、そのまま動かなくなった。
 あまりに一瞬の出来事で、状況を把握できないズースや野次馬は、ザハムが吹っ飛んでいった後に舞う砂埃や雑草を、あんぐりと口を開いて眺めていた。
 ソフィスタも動きを止め、強烈なパンチを放った体勢のままのメシアを、目を丸くして見つめ、何か言いたそうに口をぱくぱくさせる。
「フウゥゥゥ…」
 時が止まったように静まり返り、誰もが思考を一時停止させている中で、唯一自分のペースを保っているメシアは、深く息を吐き出し、姿勢を正した。
「…お…お前、こ・この馬鹿野郎!!」
 状況を把握し、我に返ったソフィスタは、早速メシアを怒鳴りつける。その声で、ズースも我に返り、慌てて柵を跳び越え、倒れているザハムに駆け寄る。
「あの突貫野郎を殺す気か!?手加減しろよ!」
 ソフィスタは、メシアの装束を掴み、荒々しく揺すった。
 殴られたザハムについては、おそらく自業自得で殴られたのだろうし、そうでなくても、他人に感心を持たないソフィスタは、誰が誰を殴ろうと、どうでもよかった。むしろスカッとしたくらいだ。
 ただ、自分の保護下にあるメシアが、人前で自警隊員を派手に殴り飛ばすと、また面倒なことになりかねないので怒っているのだった。
 セタが地べたを這って彼女の足下まで来たが、荒れているソフィスタの様子に、肩に跳び乗ろうかどうか迷っている。
「ちゃんと手加減したぞ!私も、お前にあれくらい強く殴られたことがあったが、生きていただろう」
「てめーを基準に人の体の丈夫さを計るな!!」
 メシアの装束を掴んだまま、ソフィスタは離れた場所で倒れているザハムを見た。腰を屈めて彼の様態を調べていたズースはソフィスタと目が合うと、ザハムが生きていることを、頷いて示した。
 確かに、学校の実験室の分厚い壁や、強化ガラスを素手で壊したメシアが本気で人間を殴り飛ばせば、即死に至らせることも可能だろう。
 ソフィスタに蹴られたり殴られたり、自分でスタンガンに触れて感電したりと、やられてばかりのような気がするメシアだが、それらの攻撃に耐えて怪我の治りも早く、基本的な身体能力に優れている上に格闘技を心得ており、魔法生物の攻撃を正面から受けても動じない、強い精神力の持ち主でもあるのだ。
 さらに、紅玉の未知なる力まで備えているが、それを差し引いたとしても、メシアは反則並みに強い。彼がその気になれば、今だってソフィスタを力ずくで黙らせることができるのだ。それを考えると、メシアが騙されやすい馬鹿でよかったのかもしれないと、ソフィスタは思う。
 騒ぎを聞きつけたのだろう。他の自警隊員も何人か駆けつけ、ザハムを覗き込む。
 ズースは、彼らにザハムを任せると、早足でこちらに向かってきた。
「おい!なにも殴ることはないだろう!」
 ズースは、自分より背の高いメシアを見上げて睨み、鋭く言い放った。ソフィスタはメシアの装束から手を離し、気まずそうに一歩退いた。しかし、事の張本人であるメシアは、特に反省する様子も、怒鳴りつけられたことに戸惑いや怒りを覚えた様子も見せない。
「ザハムは、私が抵抗せずに捕まってやると言ったにも関わらず、一方的に攻撃してきおったのだ。だから、私は私の身を護るために拳を振るったまでだ」
「だからと言って、あそこまでやらなくても…」
「こちらが遠慮したところで、何の解決にもならなかった。どちらかが倒れなければ、奴は止まらなかっただろう。そのために、私が犠牲になってやる義理もない」
 メシアの厳しい言葉に、顔には出さなかったが、内心ソフィスタは驚いていた。
 魔法生物マリオンとの戦闘では、メシアは怪我をした足で無理をしたり、身を挺してソフィスタを庇ったりと、自らを顧みない戦い方が目立っていたので、自己犠牲の性質があるとソフィスタは思っていた。
 だが、メシアはザハムに対し、冷たいことを言った。しかし、その気持ちは分かる。
 一方的に悪と決めつけられ、話もろくに聞いてくれないような者のために、あえて己の身を犠牲にすることなど、願い下げである。ソフィスタの場合は、もし相手側に非がなくとも、どちらかが犠牲にならなければいけない状況に陥れば、ためらうことなく相手を犠牲にすることだろうが。
「…そうだな。怒鳴ったりして、すまなかった…」
 言葉を詰まらせていたズースが、そう言ってメシアに頭を下げた。
 メシアは特に何も言わず、代わりにソフィスタが「それより場所を変えましょう」とズースを促した。


   (続く)


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