・第四章 もう一つの顔リジェーンの杖から黒い煙が吹き出し、柱の内側全体に及んだ時、実験室の中の様子をガラス越しに見ていた生徒たちがどよめき立ち、その騒ぎはメシアたちがいる部屋にまで届た。「リジェーンさん。全体が見えなくなるような魔法は使ってはいけないはずですよ。魔法の誤発ですか?」 エメがマイクに向かって発した言葉は、スピーカーを通して確かに実験室に伝わっているのだが、返事が来ない。 「…リジェーンさん?聞こえないのですか」 僅かに身を乗り出し、再度リジェーンに呼びかけたエメの隣で、メシアはガラスに両手を着き、不思議そうに煙を眺めている。 …おかしい。やけに静かだ…。 分厚いガラスによって隔たれていても、物音と声は聞こえていた。 しかし、リジェーンの杖から煙が生じ、ルフルも魔法を使うようなモーションを見せた後、実験室から聞こえる音は、ぱったりと途絶えた。 それに、この黒い煙の魔法が、エメが言う通り、実技テストでは反則とされているものであれば、その魔法に対し、何らかの騒ぎがソフィスタたちの中で起こってもいいはずだ。なのに、声も全く聞こえてこないとは、どういうことなのだろう。 「もうっ、ルフルさんも何か魔法を使っていたみたいだけど、何を使ったかまでは分からないし…これじゃテストにならないわっ」 エメは拗ねたように唇を尖らせ、そう独り言を呟くと、もう一度マイクに向かって、言葉を発しようとした。 その時、煙の一部を突き破って、光球が現れた。 それがソフィスタが放った魔法であることは、メシアにはすぐに分かった。しょっちゅう彼女の魔法の餌食になっているので、それも当然だろう。 光球は、柱と同じ高さに達すると消え、光球が開けた穴も、すぐに煙で埋め尽くされてしまった。 穴は、充満している煙の、ほぼ真上に開いたため、メシアたちの位置からでは、穴から煙の中の様子を覗き込むことはできなかった。 「何だ?今の魔法、誰が使ったんだ」 エメと一緒に実技テストの試験官を務めている男性教師も、マイクに向かって言ったが、やはり煙の中から返事は無く、誰の姿も見えない。 しかし、開いた空間を埋め尽くそうと煙が流れ動いたことで、一部の煙が薄れたことに、メシアだけは気付くことができた。 そこから、うっすらと、そして一瞬だけ、ソフィスタの姿が見えた。 「ソフィスタ!」 メシアはソフィスタの名を叫び、ガラスから離れ、セタとルコスを肩に乗せたまま、部屋の出入り口へと走り出した。 「ち・ちょっと、メシアちゃん?どこへ行く気よ!」 エメがメシアを呼び止めるが、今のメシアの耳には、エメの声は全く届いていなかった。 一瞬だけ、しかも煙幕でぼやけた光景だったが、メシアには確かに見えたのだ。 ソフィスタが、あの三人の女生徒たちによって取り押さえられている様を。 …まさか、あの女どもが、ソフィスタに嫌がらせを?…違うにしても、声や音まで聞こえてこない以上、確かめにゆかねばならん! 「おい、待ちたまえトカゲ君!!」 既に部屋の引き戸の取っ手を掴んでいるメシアを追って、男性教師が走り出した。 メシアが戸を開き、部屋の出入り口をくぐってすぐ、男性教師も続いて出ようとしたが、あまりにメシアが勢いよく引き戸を引いて開いたため、その反動で戻ってきた戸が、男性教師の側頭部にヒットし、ゴスッと大きな音を立てた。 それに気付かず、メシアは走り去り、見捨てられた気分になった男性教師は、その場にしゃがみ込み、しばらく頭を押さえて唸ることになった。 * 外されたベルトが床に投げ捨てられ、金具がカシャンと音を立てた。 リジェーンがソフィスタのズボンに手をかけるが、ソフィスタは抵抗するどころか、表情一つと変えない。 「なぁに、もう諦めたの?つまんな〜い」 ソフィスタの左腕を絡め取っているルフルは、ナイフの柄をソフィスタの頬にグリグリと押しつけた。 「あ、分かった!泣くの堪えているんでしょ!」 ルフルの隣で、ソフィスタの右腕を絡め取っているサイアが、そう言って笑った。しかしソフィスタは、反論することもなく、うつむき加減に黙っている。 「ガマンしないで泣いてもいいのよ?女の子だもんね」 ズボンに手をかけたまま、リジェーンがソフィスタに声をかける。言っていることは優しそうだが、面白がっているような表情には、優しさの微塵も感じられない。 ソフィスタは、静かに息を一つついた。 「…ああ、泣きたいねぇ。あんたたちの救いようのない頭の悪さには、さすがに哀れむよ」 こんな状況でも落ち着き、悪態をつけるソフィスタに、リジェーンたちは苛立ちに顔を歪める。 「あんたねぇ!置かれている立場を分かってんの!?」 サイアがソフィスタの頬を抓み、強く引こうとした。しかし、何かに気付いたように目を見開き、動きを止める。 「こいつ…魔法を使う気よ!」 サイアは、ソフィスタが魔法力を高めつつあることに気付いて叫んだ。 優勢に立っていると安心しきって、ソフィスタをいたぶることに夢中になっていたため、ソフィスタが魔法力を高めていたことに、三人は気付けなかったのだ。何より、服を脱がされそうになっているというのに、魔法力を高めることに集中できるとは、思ってはみなかった。 リジェーンたちは慌てて止めようとするが、僅差でソフィスタが先に魔法力を開放した。 「てめーらみてぇな最悪な連中の相手なら、慣れてんだよ」 低い声でそう言ったソフィスタの指先から、四つの小さな光球が生じ、サイアとルフルの両手に放たれた。 光球は、二人の手に当たって弾けると同時に、静電気に触れたような痛みを与えた。サイアとルフルは、思わず腕を引っ込める。 その隙を突いて、ソフィスタは自由を取り戻した両腕の肘を、サイアとルフルの鳩尾にめり込ませた。 「うぐっ」 「あうっ」 二人はくぐもった悲鳴を上げ、前のめりになった。ルフルの手からはナイフが零れ落ち、床に当たって金属音を響かせる。 すかさず、ソフィスタは二人の胸ぐらを掴み、引き寄せて勢いをつけ、後ろに突き飛ばした。 「なっ…」 その素速い動きに、リジェーンは呆気に取られる。 我に返ったのは、ソフィスタがリジェーンの腹に拳を叩き込んでからだった。 突き上げるように拳を打ち込まれ、リジェーンの体が僅かに浮く。ソフィスタは、リジェーンに杖で押さえつけられていた両足を引き抜き、その足でリジェーンの体を横薙に蹴った。 「きゃぁんっ!」 リジェーンの体は肩から床に叩きつけられ、杖と一緒にその場に転がる。 ソフィスタは特に体を鍛えているわけではない。何年か前に、簡単な護身術を習った程度である。 だが、冷静に状況を分析し、判断できる能力が、ソフィスタの力を十二分に引き出し、さらに魔法を組み合わせれば、彼女はそこらの自警隊員より強かった。 ソフィスタと同等の魔法力の持ち主でも、三人がかりだからと油断していた女の子など、敵ではない。それに、今のソフィスタの心には、女を殴りつけることに躊躇しない冷酷さがあった。 リジェーンが蹴られたためか、彼女の魔法によって生じている黒い煙が安定性を失い、ソフィスタたちがいる煙の晴れたスペースに、少しずつ流れ込んできた。 あっという間に形勢逆転されたことに驚いているサイアとルフルは、尻餅をついたまま動けない。 そんな二人を無視し、ソフィスタは立ち上がってリジェーンに近寄ると、彼女の襟首を掴んで持ち上げ、強引に立ち上がらせた。 ソフィスタのズボンのベルトは外されたままだが、少しウェストがゆったりするだけで、立ち上がってもずり落ちることはない。 「きゃっ…な・なんてことするのよ!女を殴るなんてサイテー!!」 自分がやろうとしていたことを棚に上げて騒ぎ、リジェーンは両手でソフィスタを突き飛ばそうとしたが、それより早く、ソフィスタは平手でリジェーンの左の頬を打った。 グローブをはめてはいるため、素手で打たれるより威力は劣るが、頬を打たれたことにショックを受けたリジェーンは、一瞬思考を止めた。 ソフィスタは無言のまま、冷たい目でリジェーンを見ている。 「っ…いったいわね!この…」 我に返ったリジェーンが、ソフィスタに文句を言おうとしたが、最後まで言い終わらないうちに、今度は彼女の右の頬に、ソフィスタの平手が打ち据えられた。 そして、またリジェーンが口を開こうとすれば、ソフィスタは平手を飛ばす。 繰り返している内に、リジェーンが何も言わなくても平手が飛ぶようになった。息をつく間も与えず、ソフィスタは無言でリジェーンの頬を交互に叩き続ける。 周囲の煙が濃くなり、サイアとルフルの姿が見えなくなってしまったが、彼女たちは声も上げず、動く気配もない。 次第に悲鳴は弱々しくなり、リジェーンの瞳が涙で滲み始めたが、ソフィスタは表情一つと変えずに、何度もリジェーンの頬を叩く。 「…や…やめっ…ご…」 頬を叩かれながらも、リジェーンが言葉を振り絞ろうとすると、ソフィスタの手がぴたりと止まった。 「…やめて…ごめんなさい…」 小刻みに体を震わせ、今にも枯れそうな声でリジェーンは言った。 痛みで熱を帯び、真っ赤に染まった頬に涙が伝い落ちる。それを見たソフィスタは、彼女を哀れむどころか、ドロドロとした怒りがこみ上げ、その苛立ちに歯噛みする。 「おい、ふざけんなよ。なに被害者ぶって泣いてんだ?人を校内の笑いものにしようとしておきながら、顔叩かれたくらいで泣きやがって…」 ソフィスタは、リジェーンの襟首を掴む腕を引き寄せ、顔を近づけて睨みつけた。リジェーンはソフィスタに怯え、横を向いて顔を合わせようとしない。 しばらく睨みつけていた後、ソフィスタはわざとらしく舌打ちをすると、リジェーンの襟首から手を離し、代わりに彼女の後頭部を片手で掴んだ。リジェーンは「ひっ」と細い悲鳴を上げる。 「くそったれが…メソメソ泣き出すほど弱いんだったら、最初から手ェ出してくるんじゃねえ!!!」 ソフィスタは、リジェーンの頭を掴んだまま、その腕を振り下ろした。 リジェーンが甲高い悲鳴を上げるが、恐怖と哀願の混じったそれは、今のソフィスタにとっては苛立ちの要素でしかない。 自分を不快にするものは全て消えてしまえとばかりに、腕に体重を乗せ、倒れこむようにリジェーンの顔面を床に叩きつけようとする。 「ソフィスタ!!」 しかし、不意に聞こえてきたメシアの声が、ソフィスタの動きを止めた。 リジェーンの頭を掴む手からも力が抜け、支えを失ったリジェーンの体は、床に崩れて黒い煙に覆われる。 「ソフィスタ!どこにいるのだ!いたら返事をしろ!」 再び、ソフィスタの前方に立ち込める煙の中から、メシアの声が聞こえた。 ソフィスタは顔を上げ、ゆっくりと背筋を伸ばして立った。その瞳からは、先程までの冷酷な色が薄れている。 「…メシア…」 ぼんやりと彼の名を呟いた時、視線の先に立ち込めている煙が払われ、メシアの姿が現れた。 「ソフィスタ!無事か?」 メシアはソフィスタの姿を確認すると、少しほっとしたように口元を緩めた。そして、両腕を伸ばして近付き、肩を掴もうとする。 しかし、煙のせいで足下が見えなかったため、そこに転がっていたリジェーンの杖を、メシアは踏んでしまった。 「おおぉわぁぁっ!?」 ちょうど転がりやすい所を、転がりやすい角度に踏んでしまい、メシアの体は前のめりに倒れそうになった。 メシアは伸ばしていた両腕で、まだぼおっとしているソフィスタに、思わず捕まったが、捕まった場所が悪く、結局転んでしまった。 そんなメシアをほったらかして、彼の肩に乗っていたセタとルコスは、ソフィスタの肩へと飛び移った。 「…うぅ…そ・ソフィスタ、大丈夫か?」 自分が転んだばかりだというのに、メシアはソフィスタの心配をし、転んだ体勢のまま顔を上げる。 同時に、ソフィスタもメシアを見下ろそうとして…その時の自分の状態と、メシアの視線が捕らえているものに気づいた。 転ぶ直前、そして今もメシアが掴んでいるものは、ソフィスタのズボンであった。 ベルトを外されただけなら、確かにずり落ちなかったが、力を入れて引っ張られたら話は違ってくる。 スラリとした色白の足が、脹ら脛まで露出し、ソフィスタの下腹部を隠している下着が、メシアのアングルから見事に見えていた。 白のレースという、以外と清潔感のある下着であった。 「あ・わ・うわあぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!」 先程までの冷酷さは、どこへすっ飛ばされたのか、ソフィスタの顔が、たちまち赤く染まった。ブラウスの裾を引っ張り、前屈みになって下着を隠す。 「あ、すまん。…大げさだな」 メシアはソフィスタが悲鳴を上げたことに驚き、掴んでいたズボンを離した。口では謝っているが、さほど悪びれた様子は無く、最後の余計な一言は、あまりに無神経なものだった。 「こっこの、クソトカゲッ!恥を知りやがれ!!」 ソフィスタは、メシアの頭にゲンコツを叩き込んだ。勢い余って、メシアの額が床に打ち付けられる。 「あだっ!…そんなに怒ることはないではないか!ええと、下着を見られたことを怒っているのだろう?女性として隠すべき部分を隠す機能を果たす生地を見られたことに、恥ずかしいと感じているのは分かるが…」 ソフィスタがズボンを腰まで引き上げ、セタとルコスに眼鏡とベルトを探すよう指示を出している間、メシアはさらに余計なことを口にする。 「説明するなアホ!!黙れ!息するな!」 「息を止めろというのか?…まさか、この煙を吸い込んではいけなかったのか!?」 「そういう意味で言ったんじゃねーよ!!ああもう、お前の相手をしていると、ホント調子が狂う…」 ソフィスタは帽子を掴み、がっくりと項垂れ、長いため息をついた。 「なんだ、息をしても大丈夫なのではないか。ソフィスタ、お前はいつもおかしなことを言うな」 立ち上がり、腕を組んで偉そうに言うメシアに、もうツッコミを入れる気力も無い。全く噛み合わない彼との会話に疲れ、肩の力も抜けきってしまった。 「それよりソフィスタ。あの三人の女たちは、どこへ行ったのだ?お前が彼女らに押さえつけられている姿が見えたから、駆けつけたのだが…」 そう、メシアに尋ねられて、脱力していたソフィスタは、メシアの声が聞こえる直前までの出来事を思い出した。 そして、気が付いた。 メシアとのやりとりで、ソフィスタの心に満ちていた黒い怒りが、いつのまにか消え去っていたことを。 メシアの声が聞こえた時、冷たい暗闇の中に、光が差し込んだことを。 …ばかばかしい。いつもメシアに対し、こういう態度を取っているじゃないか。コイツがあんまり馬鹿なもんだから、ついリジェーンたちのことを忘れちまって、いつもの自分に戻っただけだ。 「…別に、何だっていいだろ。お前には関係ないことだ」 自分の心の変化に動揺を覚えつつも、リジェーンたちの仕打ちに、再び黒く冷たい怒りがこみ上げてきた。 うつむいているため、その表情はメシアからは見えないはずだ。ソフィスタからもメシアの表情は見えないが、彼はちょっと困った顔で、頭一つぶんは身長差のあるソフィスタを見下ろしていた。 その視線と、彼の表情を何となく察したソフィスタは、うつむいたままメシアに背を向け、一歩前に出て彼から離れた。 ズボンを下ろされたことに怒っているわけでも、彼を特に嫌っているわけでもないが、何故か今のメシアの顔を見るのに気が引け、今の自分の顔も見せたくなかった。 「とにかく、この状況を、どうにかするよ。こうも煙が充満してちゃ、テストもとっくに中止になってるだろう」 それに、リジェーンたちが、また何をしてくるか分からない。そうとも考えたが、口には出さなかった。 既に煙によって、自分の体でさえぼやけて見える。眼鏡もかけていないので、さらに視界は悪い。 魔法で軽く煙を払って、周りだけでも視界を晴らそう。下手に動くと、先程のメシアのように転びそうだし、どこかに落ちている眼鏡を踏んでしまう恐れもある。 そう考え、メシアに勝手な行動を取らないよう注意しようとした、その矢先…。 「ソフィスタ―――――ッ!!!」 突然メシアが、後ろからソフィスタに飛びかかってきた。 その声に驚き、とっさに振り返った時には、ソフィスタの体はメシアに抱き竦められ、足が床から離れていた。 あまりの出来事に、ソフィスタの頭の中が白くなる。 メシアは、ソフィスタを庇うように抱えて床を転がり、その勢いを利用して体を起こした。 立て膝になっているメシアの肩に顔を埋められ、まだ体が浮いているような気がしていたソフィスタは、彼の腕の力が緩んだところで我に返り、慌ててその腕を振り払おうとした。 「な…バカッ!急に何を…」 しかし、メシアの左肩の一部が赤く染められていることに気付き、ソフィスタは動きを止めた。 鋭利な刃物か何かによって皮膚を裂かれたようで、そこから血が流れ出ている。 「え…ど・どうしたんだよ、その怪我は!」 メシアを見上げると、彼は厳しい表情で、じっと前を見つめている。 「皮膚を裂かれただけだ」 メシアは前を向いたまま、そう言ってソフィスタを放す。 彼の視線を辿ると、そこにはリジェーンが、呼吸を荒げて立っていた。 メシアが動いた周辺は煙が払われているため、眼鏡がなくてもリジェーンの姿を確認することができた。 いつの間に拾ったのか、自分の杖を左手に、ルフルのナイフを右手に握っており、その銀色の刃には、赤い斑点がついている。 眼鏡をかけていなくても、それが血であることに気づくことができた。 「メシア…まさか、お前…」 ソフィスタは、メシアに飛びかかられた理由を知った。 ソフィスタとメシアが言い合っている間に、リジェーンは杖とナイフを拾った。ソフィスタとメシアの注意は、完全にリジェーンから外れていたし、煙を操っているのはリジェーンの魔法なので、上手く煙に紛れて動くことができたはずだ。 そしてリジェーンは、ナイフでメシアを切りつけた。 しかし、狙いはメシアではなかったはずだ。 リジェーンはソフィスタを狙ってナイフで切りつけようとしたが、それに気付いたメシアが、体を張ってソフィスタを庇ったのだ。 ソフィスタは視線をメシアへと戻し、呆然と彼の顔を見上げる。 「何の真似だ!いくら何でも、これはやりすぎであるぞ!」 右手で傷口を押さえながら立ち上がり、メシアはリジェーンに向かって、そう吼えた。ソフィスタも、メシアを追うように立ち上がり、リジェーンへと顔を向ける。 「…あんたには関係ないわよ…」 リジェーンは低い声で唸り、杖とナイフを払うように振るった。 「あいつ、キレていやがる…」 ソフィスタが小さく呟くと、メシアが「切れているのは私の皮膚のほうだ」などと場違いにボケたが、彼は真面目に言っているので、この際放っておく。 「このクソ女…その顔、ズタズタにしてやる…!」 リジェーンがナイフを構え、こちらに向かって走り出した。 「やめろ!やりすぎだと言っておろうが!」 メシアはソフィスタを軽く後ろへ突き飛ばすと、ナイフを掴むリジェーンの右腕を、左手で捉えた。ソフィスタはよろめき、倒れることはなかったが、メシアから数歩離れてしまう。 リジェーンは、メシアの手を振り払おうと、右腕に力を込めるが、ただでさえ力の強いメシアに、少女の細腕が敵うはずもなく、びくともしない。 「邪魔しないでよ!!また切り裂かれたいわけ!?」 右腕が戒められ、使えないと悟ると、自由の利く左腕を振り下ろし、その手に握る杖でメシアの体を打ち据えようとした。 だが、拭った血が残るメシアの右手が、あっさりと杖を掴む。 素手で壁を壊せるメシアの力に、リジェーンの力が敵うわけがないが、動いたことでメシアの右肩の傷が開き、さらに血が滲んだ。 それを見て、ソフィスタは心にチクリと痛む何かを感じ、思わずメシアの名を叫びそうになった。 「リジェーン!!やめなさい!!!」 しかし、それより早くエメの声が響き、同時に周囲を渦巻いていた煙が急速に薄れ始めたので、ソフィスタは言葉を飲み込んだ。 瞬く間に煙は消え去り、部屋のガラスの向こうにいるエメや、見学中の生徒たちの姿が、はっきりと見えた。 ソフィスタとメシア、リジェーン、さらに柱の内側の隅で縮こまって座っていたサイアとルフルも、急な出来事に驚きを隠せずにいた。 時が止まったように、五人は固まっていたが、ソフィスタの眼鏡とベルトを乗せたセタとルコスだけは、床を這って動いていた。 二匹はソフィスタの肩に飛び乗ると、眼鏡とベルトを彼女に渡す。 「…あ、の、私…」 エメの声と、今の自分の様子を見られたことで我に返ったリジェーンは、手にしているナイフと杖と、ガラス窓の向こうにいるエメを交互に見る。 もう襲いかかってくることはないと判断し、メシアはリジェーンの左腕と杖から手を離した。 血を拭った右手で掴んだため、杖にもメシアの血がこびりついている。 「まったく!何やってるんだ君は!!」 エメと一緒にいた男性教師が実験室に入ってきて、リジェーンに駆け寄り、彼女の手から杖とナイフを取り上げた。 「ち・違う!私、私…そう、ソフィスタが私をはめたんです!私が、あいつをナイフで切ったように見せかけるよう仕組んだんです!私が切ったんじゃありません!!」 リジェーンは、ソフィスタとメシアを指で指しながら、そう言い逃れようとする。眼鏡をかけ、ベルトを締めたソフィスタは、小さな声で「ふざけやがって…」と呟いた。その声はメシアに聞こえていたようだが、彼はソフィスタを横目で見遣っただけで、何も言わなかった。 「嘘をつかないで下さい!また切り裂かれたいのかって、あなた、自分で言っていたじゃありませんか!私たちや、見学している生徒全員が、確かに聞いているんです!!」 エメの言葉に、リジェーンの顔が引きつる。 その表情のまま、リジェーンはルフルを振り返ると、彼女は首を横に振った。 エメは、厳しい口調で続ける。 「あなたたちのテストは中断します。リジェーンさん、ソフィスタさん、サイアさん、ルフルさん。こちらの部屋へ来て下さい」 「でも、エメ先生!違うんです!私、あの…」 リジェーンは、なおも言い逃れようとし、サイアとルフルを助けを求めるように見たが、二人とも、目を逸らしてしまう。 「こうなった原因は後で聞きますが、あなたがメシアくんに怪我をさせたことは事実です。さあ、そこの二人も立ちなさい」 エメに言われ、サイアとルフルは互いに顔を見合わせる。そして、おずおずと立ち上がった。 その様子を見ていたソフィスタは、肩を竦めると、メシアに歩み寄り、彼の左腕を掴んで、エメに声をかけた。 「エメ先生。その前に、メシアの怪我の手当をしてきてもいいですか?消毒と止血だけで済みそうなので、すぐに戻ってきます。それまで待っていてもらえませんか」 傷口が開かないよう右手で押さえ、エメたちのやりとりを黙ってみていたメシアは、ソフィスタを見下ろす。ソフィスタもメシアを見上げ、そして目が合うと、気恥ずかしそうにそっぽを向いた。 「…そうですね。分かりました。手当が終わるまで待っています。カトル先生、二人に付き添ってあげてくれませんか?」 カトルと呼ばれた男性教師は、エメの言葉に頷き、ソフィスタに「先に彼女たち三人を隣の部屋に連れて行くから、外で待っていてくれ」と言うと、リジェーンたちを引き連れて、部屋を出ていった。 四人を見送ると、ソフィスタはメシアの腕から手を離し、「ついてこい」とだけ言って、歩き始めた。 いつになくそっけないソフィスタの態度に、メシアは不思議そうな顔をするが、特に問い詰めようとはせず、素直に彼女の後ろについて歩き出した。 (続く) |