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ありのままのメシア 第四話


   ・第五章 安らぎの時間

 メシアの怪我の治りは、相変わらず早く、保健室に着いた頃には、既に血も止まり、傷口が塞がりかけていた。
 メシアの異常にタフな体に慣れているソフィスタは、今さら驚かなったが、一緒にいたカトルは、ずいぶん驚いていた。
 傷口を消毒し、こびり付いている血を洗い、念のため包帯を巻く。その処置は、すぐに終わり、三人はエメのもとへと戻った。

 エメとカトルは、テスト中に起こったことについて、リジェーンたちを問い詰めた。
 リジェーンは、ソフィスタに殴られたから、つい怒ってナイフを手にしてしまったと言った。確かにリジェーンの頬は、ソフィスタの平手打ちを何度も喰らったため腫れていたが、怪我と見なされるほどではなく、リジェーンがメシアに怪我をさせたことは紛れもない事実なので、不利な立場にあることは変わりなかった。
 それにエメは、ルフルが無音の魔法を使っていたことを見破っていた。
 全体が見えなくなる煙幕の魔法に、音を外に漏れないようにする無音の魔法。そういった魔法は、実技テストでは禁止されている。
 なのに、その魔法をリジェーンとルフルが同時に使うなど、魔法の誤発が偶然重なったとは考えがたい。
 少なくとも、リジェーンとルフルはグルで、何か隠したいことがあったから、二人で協力して魔法を使ったのだと推理し、ソフィスタのベルトと眼鏡が外れていたことから、ソフィスタに変なちょっかいを出そうとしていたのではないかと、エメはリジェーンとルフルの図星を突いた。
 的を射たエメの推理を聞いても、リジェーンは誤魔化そうとしていたが、ルフルは観念したのか、素直にそれを認めた。
 ルフルは泣きながら、事前にリジェーンとサイアと打ち合わせをし、ソフィスタをはめたのだとエメに話した。
 しかしサイアは、自分だけは何もしていないと言い張った。
 確かにサイアは、煙幕で姿が隠れるまでは、禁止されている魔法を使わず、普通にソフィスタと実技テストを行っていた。煙幕が晴れてからも妙な行動は取っていないので、エメとカトルにとっては、サイアがリジェーンたちとグルだったという確かな証拠はない。
 サイアがリジェーンたちと一緒にソフィスタを押さえつけていた所を見たメシアと、裏切られたことに怒ったリジェーンとルフルに糾弾されても、彼女は白を切っていた。
 そんな中、ソフィスタだけが、興味なさそうに黙っていた。
 まるで自分は関係ないとでも言いたげなソフィスタの態度に気付いたリジェーンが、またキレかけて、こんなことを言い放った。
「その態度がムカつくのよ!全部あんたが悪いんだわ!そうやって、いっつも偉そうにしているから、周りの人間はイライラするのよ!」
 それに対して、ソフィスタは、やはり涼しげに言い返した。
「そんなのは勝手な思い込みだ。だいたい、態度が悪いからリンチしましたーなんて言い訳を、その歳で通せると思ってんのか?そんなに、あたしの態度が気に入らないってのなら、あたしのことを相手にしなけりゃいいだけの話だろ」
 そう言ったきり、ソフィスタはリジェーンに何を言われても、相手にしなかった。
 メシアも、何か言いたそうな顔をしていたが、口を開くことはなく、ソフィスタもそれに気付かなかった。

 結局、校長が昨日から一ヶ月近く出張でいないため、リジェーンたちの処分について詳細が決められず、連絡が取れるまで三人は自宅謹慎ということになった。
 ソフィスタは、今まで通り学校に通うことはでき、実技テストも後日受け直しとなったが、校長が帰ってきたら、指導を受けることになるだろう。
 しかし、ソフィスタにとっては、今回のケースは初めてのことではなかった。
 エメたちと話を終えた後、あまり気落ちもせず、メシアを連れて教室に戻った。
 今朝のソフィスタとリジェーンたちのやりとりを見た時は、ずいぶん口うるさくしていたメシアだったが、何故か今は静かで、しかし何か考え込んでいるような顔をしていた。

 家に帰っても、メシアはリジェーンたちの話を、ソフィスタに振ることはなかった。
 かといって、気まずい雰囲気を漂わせるわけではなく、話しかければ、いつも通りに対応してくれる。しかし、何事もないように振る舞っているわけでもない。
 むしろ気まずいのは、ソフィスタの気分であった。
 ソフィスタの人間関係について、あれだけ騒いでいたメシアが、急に大人しくなってしまい、これはこれで気味が悪かった。
 それに、いつも他人に対して冷たいソフィスタには珍しく、胸にわだかまりができてしまい、どうにも落ち着かない。
 しかし、本日メシアについて分かったことは、しっかり観察ノートに記していた。
『メシアは魔法について全く知らず、おそらく彼の故郷では魔法が使われていない』
『魔法力は、測定用紙で測定できる範囲以下。現時点では特性も不明』
『世界地図を見たことはないが、地図というものの存在は知っている』
『千年以上は前から、メシアの種族は文字を使っているが、人間に知られてはいけないらしく、詳しくは不明』
 まず、観察ノートに書き記したのは、この四点だった。
 しかしもう一つ、気になることがあった。
 実技テストの最中、リジェーンは自分たちの様子が外から見えないよう、煙幕の魔法を使い、ルフルは声や音が外に漏れないよう、無音の魔法を使った。
 リジェーンの魔法は、彼女が杖をメシアの体に打ち据えようとした時に、効果が消えたようだった。
 そしてルフルの魔法の効果は、後でエメから聞いたのだが、メシアがソフィスタをかばって怪我をしたあたりから、物音が聞こえるようになっていたそうなので、その時に消えたのだろう。
 あれは、単に魔法の効果を持続できる時間を過ぎたからだろうか。それにしても、リジェーンは煙が急速に薄れていったことに、ずいぶん驚いていたような気がする。
 リジェーンのほうは我を失っていたので、魔法の効果が消える時間を忘れていても、おかしくはない。
 だが、ルフルのほうはどうだろう。
 自分が使った魔法の効果が、いつ消えるかくらい、分かっていたはずだ。ならば、魔法の効果が消える頃、何らかの合図をリジェーンたちに送っていてもおかしくはない。
 つまり、あの二つの魔法の効果は、持続できる時間が過ぎたからでも無く、使用者の意に反して消えたかもしれないということだ。
 もしかしたら、魔法の媒体である杖とナイフを、リジェーンが乱暴に扱ったから、効果が切れてしまったのかもしれない。しかし、ソフィスタの攻撃を受けたリジェーンとルフルが、それぞれ手にしていた杖とナイフを落とした時は、魔法の効果は消えなかった。
 他にも原因は考え得るが、ソフィスタには、メシアが関係しているような気がしてならなかった。
 メシアが左手にはめ込んでいる、アクセサリー。それにあしらわれた、紅玉。
 メシア自身も把握しきれていない、あの紅玉に秘められた力が、リジェーンとルフルの魔法に、何らかの影響を与えたのではないだろうか。
 魔法の効果が消えた時、メシアは紅玉の力を使っていなかったようだが、それでも知らぬ間に紅玉の力が発動していた、なんてこともあり得る。
 できれば、もっと詳しくメシアから話を聞き出したかったが、今日の出来事の話はしたくないので、聞く気になれない。
 そんなモヤモヤした気持ちを抱いたまま、夜になってしまった。

 *

「包帯を取り替える必要は、なさそうだね」
 ソフィスタはベッドに腰掛け、床に座り込んでいるメシアの包帯を外した。
 傷口は塞がっており、痛みと痕は少々残っているが、そのうち消えるだろう。
 …あまり痕が残らないのは、治りが早いからなのかな。化け物並みの自己治癒能力が不思議なのは、もちろんだけど…。
 二人とも着替えを終えているが、メシアは怪我の様子を見るため、上半身だけ裸になっている。
 既に気付いていたが、メシアの体には、目立つほどの傷痕は、ほとんど無い。
 火傷の跡や、動物に噛まれた痕はあるが、近くでよく見ないと気付かないし、人間だって誰にでもこれくらいの傷痕はあり、日が経てば消えていく。
 両足首にある、酸に焼かれた痕。昨日、スタンガンを喰らってできた、右手の平の電熱傷。これら最近負った怪我の痕も、ずいぶん薄くなっていた。
 しかし一つだけ、普段は戦士の装束に隠されている部分に、際立って大きな傷痕があった。
「なあ、メシア。前から聞こうと思ってたことなんだけど…この傷は?」
 ソフィスタは、メシアの左胸と左肩の真ん中あたりを指さし、彼に尋ねた。
「ああ、これか。…赤ん坊の頃に負った怪我の痕だ」
 そう答え、ソフィスタが指し示した部位を、メシアは右手で軽く撫でた。
 そこにある傷痕は、確かに古いもので、肩から胸にかけて縦に伸びている。
「赤ん坊の頃に、そんなでかい怪我を?何でまた…」
「詳しくは分からぬが…尖った岩にぶつけてできたのだろうと、師匠からは聞いておる」
 傷痕を見る限り、確かに尖ったもので深く肉を抉られた痕のようだ。
「師匠?…ああ、そうか」
 メシアは生まれてすぐ、不慮の事故で両親を亡くし、格闘技の師に育てられたという話を、昨日彼から聞いた。ソフィスタは、それを思い出す。
 もしかしたら、メシアの古傷は、その不慮の事故に巻き込まれて負った怪我なのかもしれない。
 しかし、亡くなった両親に関わる話を聞き出すことは、さすがに気が引けるので、古傷についてこれ以上追求するのはやめた。メシアは聞かれても気にしないだろうが、ソフィスタは気にするのだ。
 …でも、赤ん坊の頃に、こんなに大きな傷を負って、よく生きていられたな。
 この傷が、どれほど深いものか、正確には分からないが、一歩間違えれば心臓にまで達し、命を失っていただろう。
 いや、これだけ心臓に近い部位に深い傷を負えば、出血も相当なものだったはず。赤ん坊でなくても、出血によるショック死に至る確率は高い。
 …人間の医療技術じゃ、こんな重傷を負った赤ん坊を助けることなんて、不可能だ。魔法を使ったとしても、よほど早急に、そして正確に処置をしなければ、体力も免疫力も無い赤ん坊は助けられない。
 人間の魔法でできる治療は、物質操作系の魔法の応用による止血や消毒、精神感応系の魔法による麻酔や、傷の治りを促進するなどの処置くらいで、その場ですぐに傷を癒すという魔法は使えない。
 エルフの女性のみ、治癒魔法を使えるとされているが、その力の代償は魔法力ではなく、自らの寿命だという。
 …でも、メシアの故郷では魔法は使われていない…。
 ならば、一体どうやって赤ん坊だったメシアの命は救われたのだろう。確かに彼は、並はずれた生命力の持ち主のようだが、それだけで助かったとは考えがたい。魔法とは別に、メシアら種族には不思議な力が備わっているのだろうか。
 …ホント、こいつは分からないことだらけだ。飽きないな。
 メシアの紅玉、メシアの種族、そしてメシア自身の謎。彼からは、まだまだ謎を掘り出せるかも知れない。
 それを考えると、自然と笑みがこぼれる。
「さっ、あたしはもう寝るよ。お前も休みな。一晩休めば、こっちの傷も完治しているだろ」
 外した包帯を丁寧に丸めて、中身の入っている眼鏡ケースの隣に置くと、体をベッドの上に横たわらせた。
 メシアは寝間着を着直しながら、座ったままソフィスタを見つめていたが、ソフィスタは仰向けになって目を閉じているため、彼の視線に気付かなかった。
「…なあ、ソフィスタ…お前は…」
「え、何?」
 不意に、メシアに声をかけられたと同時に、ベッドが沈む感覚と、シーツの擦れる音がしたので、ソフィスタは目蓋を開き、上半身を起こした。
 すると、ソフィスタのベッドに腰をかけ、彼女を見下ろしていたメシアと目が合った。
 体を起こしたことで、急にメシアと顔の距離が狭まってしまい、ソフィスタは驚いて動きを止めた。
「本当は、寂しいのではないか?」
 互いに顔を見合わせた状態で、メシアが口を開いた。
 しばし、室内に静寂が訪れる。
 メシアは真剣な眼差しで、ソフィスタを見つめている。
 眼鏡のレンズを通さずに彼の顔を間近で見るのは、初めてだった。瞳孔の細い、赤い色のメシアの瞳から、不思議と目をそらすことができず、まばたきをするのも忘れて、ソフィスタは彼を見つめていた。
 しかし、先にメシアがまばたきし、目蓋によって視線が遮られた、その一瞬の内に、我に返ったソフィスタは、ベッドに腰掛けるメシアの背中を思いっきり蹴った。
 メシアは「がほぉっ!」と、悲鳴を上げ、ベッドの上から床へと叩き落とされる。
「がはっゲホッぐふっ…い・いきなり蹴るな!何故蹴ったのだ!!」
「うるせー!!い、今、変なムード出ただろうが!」
 ソフィスタは顔を真っ赤にし、床で四つん這いになって咳き込んでいるメシアに怒鳴り散らした。離れた場所に敷かれているマットの上で体を休めていたセタとルコスが、何事かともそもそ動き出す。
 ベッドの上で互いに見つめ合いながら、寂しいのかなどと言われると、変なシチェーションを想像してしまい、メシアにその気は無いと分かっていても恥ずかしくて、思わずソフィスタはメシアを蹴り飛ばし、怒鳴り散らしたのだった。
「むうど?何だそれは。そんなものを出した覚えはないが…」
「やかましい!!だっだいたい、何なんだよいきなり!寂しいだとか、そんなこと言いやがって…」
 ソフィスタは、うっとうしそうに前髪を掻き上げながら、腕で顔を隠す。
 メシアは体を起こし、床に胡座をかいて座り、ソフィスタと向かい合った。
「うむ。お前は友達などいらないと言い、他者に対して、突き放すような態度を取ってはいるが…私にはそれが、無理をして意地を張っているように見えるのだ」
 メシアの言葉を聞いたソフィスタは、一瞬、戸惑うような反応を見せる。
「セタとルコスを作り出してしまったのも、その寂しさ故ではないか?本当は、心から信頼できる誰かを求めているのではないか?」
「…寂しくなんかないって、何度も言わせるなよ」
 ソフィスタは、ぶっきらぼうに言って、メシアの言葉を否定した。
「信頼できる誰かなんて、期待しちゃいない。腹の底で何を考えているか分からない人間なんて、信用できるか」
「…何故、そんなふうに考えるのだ。まるで人間全てが、悪い心の持ち主のようではないか」
「人間ってのは、そういう生き物だ」
 ソフィスタは再びベッドの上に寝転がり、毛布をひっつかんで頭まで被った。
「そんなことはない!確かに、人間に限らず、やましい心は誰にでもある。だが、思いやりの心というものもあるではないか。ソフィスタ、お前にも、その心があるだろう。自分の中に確かにある心を、なぜ信じられんのだ」
「…思いやりってのは、駆け引きの一種にすぎないんだよ。信じれば…つけ込まれて、利用される」
 ソフィスタのベッドに両手を着いて身を乗り出し、メシアは熱く語ったが、それに対して、ソフィスタの言葉は冷めきったものだった。
 しかし、その声は小さく、しかも毛布を被っているため必然的にくぐもり、メシアの耳にはハッキリと聞こえなかったようだ。彼に「何と言ったのだ」と聞かれたが、ソフィスタは面倒臭そうに「何でもない」と答えた。
「もういいだろ。今日はもう寝かせろ。疲れてんだ。お前も寝な」
 ソフィスタは毛布の中から腕を伸ばして、スタンドの紐を掴んで引き、灯りを消した。
 光源を失い、部屋の中が真っ暗になった。メシアはソフィスタのベッドに両手を着いたまま黙っていたが、やがて諦めたように「分かった」と呟いた。
 メシアが立ち上がると、彼が体重をかけていたぶん沈んでいたベッドが浮く。
 その感覚に、ソフィスタは何故か物寂しさを感じ、同時に、メシアとのやりとりで忘れかけていた、胸のわだかまりを思い出した。
 この胸のわだかまりの原因は、だいたい分かっている。
 そして、こんなスッキリしない気分から解放される方法も、だいたい分かっていた。
 それは、とても簡単な方法だであるということも。
 …ああもうっ!胸くそ悪い!
 ソフィスタは荒っぽく寝返りを打ち、毛布の中でメシアに背を向けた。
「…おい、メシア」
 怒っているんだか落ち着いているんだか、全く読めない低い声で名前を呼ばれたため、メシアは「な・何だ…」と控えめに返事をした。
 ソフィスタは毛布を巻くって頭を出し、一度、深呼吸をすると、メシアに背を向けたまま言った。
「……ごめん。余計なことに巻き込んで、怪我までさせちまって…悪かったよ。それと…庇ってくれて、ありがとう」
 先程の、メシアの名前を呼んだのと同じ声ではあるが、ソフィスタは確かにメシアに謝り、そして礼を言った。
 ソフィスタがメシアを叩きのめして負わせた怪我に比べれば、リジェーンがナイフで切りつけた傷は、まだ浅いほうなのに、今回に限って謝るなんて、自分でもおかしいと思う。
 思いやりなんて、駆け引きの一種に過ぎない。信じればつけ込まれ、利用される。そう言っておきながら、メシアの行いに礼を言うなんて、矛盾していると思う。
 それでも言わなければ、気が済まなかった。
「…どういたしまして」
 少し間を置いて返ってきたメシアの声は、明るく、そして優しいものだった。
 その声と同じ雰囲気の笑顔と視線を背中に感じ、気恥ずかしくなって、ソフィスタは再び毛布の中に頭を引っ込める。
「窒息するなよ」
「黙れ。早く寝ろ」
「わかった。お休み、ソフィスタ」
 メシアは、床に敷いたシーツの上に体を寝かせ、毛布をかける。
「…お休み…」
 昨晩と同じように、ソフィスタはそっけなく返した。
 しかし、感情のこもっていない声とは裏腹に、胸の奥に込み上げてくる何かがあり、ソフィスタはそれを押さえ込むように背中を丸めた。





 研究の技術を狙う詐欺師の相手は、人間不信でなければ務まらない。
 彼らは人の親切心につけ込み、弱みを見つけては叩いてくる。
 魔法アカデミーでも、入学当初から誰に対しても興味なさげで、そっけない態度を取っていたため、生徒たちから疎まれ、嫌みを言ってくる者も多く、リジェーンたちのように変なちょっかいを出してくる者もいた。
 そういう輩には、決して弱みを見せてはいけない。感情を読まれてはいけない。つけいる隙のない冷徹な人間にならなければ、必ず叩かれる。
 周りの人間は、最悪な奴らばかりだ。
 そして自分自身も、最悪な人間だ。
 そんな考えを持った時、心は自然と冷めきり、独りになっても寂しさを感じず、人を傷つけても心が痛まなくなった。
 リジェーンたちに怒りを感じた時も、人間なんてこんなもんだという、諦めのような感情があった。
 こんな救いようのない連中のことなど、どうでもいい。どうなってもかまわない。傷つけても、自分の心は痛まない。
 そんな冷めた感情が、冷酷な怒りとなって表れていた。

 しかし、その憎しみが薄れ始めたのは、間違いなくメシアの声が聞こえた時だった。
 メシアの声が聞こえた時、不思議と安心感が生まれ、憎しみを外へと追いやっていった。
 あの、常識外れで単細胞で、放っておくと何をしでかすか分からないメシアに、なぜ安心感を覚えたのだろう。むしろ、状況を悪化させてしまうのではないかという不安な気持ちになったはずだ。邪魔だと感じてもよかったはずだ。
 現に、彼はソフィスタのズボンをずり下ろし、例のごとくソフィスタはメシアを殴った。
 この時、憎しみが外へと追いやられたことに気付いたソフィスタは、メシアの馬鹿さ加減で、ついいつもの自分に戻ってしまっただけだと、自分に言い聞かせた。
 だが、それは本当に『いつもの自分』だったのだろうか。
 過去にもリジェーンたちのように、アーネスでソフィスタの怒りを買った者がいたが、それに対しても、冷たく、どす黒い怒りの感情が沸き上がっていた。
 しかしメシアに対して怒る時は、感情が高ぶり、炎のように荒々しい怒りが込み上げ、やたらと暴力的になってしまう。
 あの、冷酷になった自分が、怒った時の『いつもの自分』のはずだ。
 『いつもの自分』に戻ったのは、リジェーンたちがソフィスタの怒りを買った時である。
 ならば、『いつもの自分』ではない自分が出てくるようになったのは、いつからだろうか。
 はっきりと分かるのは、メシアに対して初めて怒った時。
 いきなり「子供を産め」と言われたことなど、あの時が初めてだったので、普段とは違う怒り方をしてもおかしくはない。しかし、それ以降も、彼に対する怒り方は、暗く冷たいものではなく、荒々しいものだ。
 なぜ、メシアに対してに限って、あのどす黒い怒りが沸き上がらず、感情的になってしまうのだろうか。
 メシアの前では冷徹な人間に徹しなくてもいいという安心が、知らずの内に芽生えているとでもいうのか。
 いや、徹するまでもなく、自分は元々冷徹な人間だ。
 そうだと思っているのに。

 そして今、たった一言だけメシアと交わした言葉に、ソフィスタは温もりを感じた。
 ずっと一人で暮らしていたから、その一言を懐かしく感じただけだろうか。しかし、聞こえる寝息に、確かに安心感を抱いている。
 研究のために手元に置いているだけのはずなのに、誰かが傍にいるということを意識し、安らぎを覚えている自分がいる。
 セタとルコスも、作り出してからは常に一緒にいるが、それ以上にメシアの存在を感じている。
 すっと保ち続けていた強気な姿勢が、人を寄せ付けない雰囲気が、心の壁が、ただそこに在る者の気配だけで消え去っていた。
 アーネスに越してきてから住んでいる家が、何度も一人で夜を明かした薄暗い部屋が、こんなに居心地良く感じられたのは初めてだった。
 まるで、ここが自分の本当の居場所であるように。
 メシアがいる、この場所が…。

 馬鹿馬鹿しいと否定できるほど、意識はハッキリとしていなかった。
 既に睡魔は、脳の隅々まで浸透しつつある。
 明日になれば、『いつもの自分』に戻るだろう。
 誰にも心を開かない、そっけない自分に。常に強気で、弱みを見せない自分に。冷血で、冷徹な心の自分に。
 しかし、目が覚めてすぐ、いつもの自分に戻ったとしても、おそらくメシアが先に告げるであろう言葉が、再びソフィスタの心を温めてくれるだろう。
 毎晩、彼が必ず「お休み」と言ってくれるように、毎朝、彼が必ず言ってくれる言葉が。
 「おはよう」という、一言が。


  (終)

あとがき


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