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ありのままのメシア 第五話


   ・プロローグ

 雨風に身を打たれ、弱った体を引きずり、男は洞穴の中に足を踏み入れた。
 岩の壁に背中を預けて座ると、男は泥の混じった唾を吐き出し、「畜生が…」と悪態をつく。
 右腕を持ち上げると、まず歪んだ小指が目に入った。折れた骨が、皮膚を突き破って剥き出しになっている。
「畜生…」
 もう一度、悪態をつく。その声は、くたびれた服と痩せ細った体に見合って、弱々しいものであった。
 洞穴の外から吹き付ける風は冷たく、男の体温を下げるが、それより雨音が耳障りで仕方なかった。
 この洞穴が、どれだけ深いものかは分からないが、まだ奥へと進めそうだ。奥に行けば、雨音も聞こえなくなるだろう。
 それに、今は身を隠さなければいけない。
 そう考えて立ち上がり、男が洞穴の奥へと進もうとした時、上のほうから轟音が響いてきた。
 同時に足下が揺れ始め、男は地面に膝を付いた。
 その揺れの原因と、どんどん近付いてくる轟音の正体に、男はすぐに気付き、慌てて洞穴の外に出ようとした。
 揺れが激しく、弱り切った体では、這いつくばらなければ進むことはできない。
「ぐ…!うおおおぉぉぉ!!!」
 硬い岩を掻き、指の皮をすり減らし、男は必死になって前へと進んだ。
 折れた小指をぶら下げている右手を伸ばし、洞穴の外の土を掴んだ時、突然、頭上から大量の土砂が降り注いできた。
 土砂は男の右手を巻き込み、さらに男の体全体を引きずり込もうとするが、男はどうにか身を引き、体を後ろへと転がした。
 土砂は、洞穴の中にまで入り込み、出入り口を塞いでいく。
「な…そ・そんな…」
 出入り口から差し込んでいた、僅かな光も完全に遮断され、洞穴の中は暗闇に閉ざされた。
 轟音は続き、土砂もまだ洞穴の中へと進入してくる気配がある。もっと洞穴の奥へと進まなければ、この場で土砂に押し潰されてしまいそうだ。
 倒れた体の上半身を起こそうと、両手を地面に着こうとした時、男は右腕の異変に気付いた。
 手首より上の感覚が、全く無い。
 暗くて何も見えないため、右腕の状態を目視することができないので、確かな感覚がある左手で、右手を掴んで状態を確認しようとする。
 だが、左手が掴んだものは、ぐちゃりとした肉の塊だった。
 右腕が土砂に巻き込まれたのに、やけにすんなりと体を後ろに転がせたことを、さっきから不思議に思ってはいたのだ。
 その理由は、左手に伝わる不気味な触覚が物語っていた。
「う…あ…うあぁ…クソッ、クソォッ!!ちくしょぉぉォォォォッッ!!!」
 静まりつつある轟音に代わって、男の叫び声が洞穴の中に響き渡った。
 その声が引き金となったように、洞穴の奥から何かが蠢き始めた。
 しかし、その何かに対し、男が抱いた感情は恐怖ではなく、行き場を欲する憤りであった。



 激しい雨が降ると、しょっちゅう土砂崩れを起こす山が、アーネスの街から離れた場所にあった。
 三日前から雨天が続き、昨日には激しい暴風雨に襲われれば、その山が土砂崩れを起こすことは、アーネスの住民であれば誰でも予想することができた。
 案の定、土砂崩れは起こった。
 しかし街までは被害は及ばず、夜中には雨も上がり、風は少々湿ってはいるが穏やかだった。

 そして本日。
 街は、いつも通りの平和な朝を迎え、いつも通りの平和な生活を始めようとしていた。


   ・第一章 神託

 空が白み始め、間もなく街が目覚める時間がやってくる。
 ふと、メシアが目を覚ましたのは、そんな時だった。
 窓はカーテンに閉ざされているが、外からの光を完全に遮断することはできておらず、部屋の中はほんのりと明るい。
 まだ頭が覚醒しきっていないメシアは、ソフィスタのベッドへと、ゆっくりと顔を向けた。
 ベッドの上の大きな膨らみは、耳を澄ませば聞こえる寝息に合わせて上下している。
 …まだ明け方か。ソフィスタも眠っているようだ…。
 そんなことを、ぼんやりと考えていると、不意に視界の隅に、淡い虹色の光が見えた。
 メシアの眠気は、その瞬間に吹っ飛び、上半身を勢いよく起こすと同時に、被っていた毛布を振り払った。
 そして、その場で立て膝の状態で頭を垂れ、左腕を真っ直ぐ前へと伸ばした。
 左手にはめ込まれているアクセサリーは、ダイヤモンドダストのような虹色の輝きに包み込まれている。
「我らが偉大なる神、慈悲深きイシス神よ。日々のご加護を感謝致します」
 頭を下げたまま、メシアは言葉をつづる。
『メシア。私は、この紅玉を通して、いつもあなたを見守っております。…あなたがアーネスで生活を始めてから、ちょうど十日が経ちましたね』
 ハープの音色のように美しく、春の澄みきった空気のように穏やかで温かな女性の声が、メシアの頭の中に直接響いてきた。
 十八歳の誕生日を迎えた日、神が祀られている祭壇でメシアの前に現れた、あの美しい女性…神の声である。
「…申し訳ありません。あなた様より承りし使命は…罪人ソフィスタに魔法生物を作り出す技術を捨てさせ、罰を与えるという使命は、まだ全うできておりませぬ」
『いいえ。あなたは使命を果たすべく、立派に働いています。これからもソフィスタの監視を続け、生命の尊さを…真の生命の輝きこそが美しく、それは決して歪めるべきものではないということを、あの者に説いて下さい』
 メシアは、その言葉を心に留め、「はい」と力強く答える。
『…メシア。よく聞いて下さい』
 今まで穏やかだった声が、ふと厳しいものへと変わった。
『この街に危機が迫っています。放っておけば、多くの人間が血を流し、命を失います』
 メシアは僅かに体を震わせた。
「危機…と申しますと?一体何が…」
『この街より東にて、かつて人間にとって脅威であった、異形なるものが目覚めました。人間だけではなく、あなたにとっても危険となりうるものです。…気をつけて下さい、メシア。私も、あなたの力となり、あなたを守ります…』
 声は徐々に小さくなってゆき、完全に消えると、紅玉の周囲を取り巻いていた虹色の光も、紅玉の中に吸い込まれるように一気に収縮して消え失せた。
 メシアは、伸ばしていた左腕を引っ込め、紅玉を見下ろす。
「…かつて、人間の脅威であった、異形なるもの…」
 深刻そうな面持ちで、そう呟きながら、ソフィスタが眠っているベッドへと視線を移した。
 紅玉が光を発する前と同じく、彼女は規則的で静かな寝息を立てていた。


 *

 昨日の暴風雨が嘘のように、空は青く澄み渡り、朝日は清々しかった。
 メシアは雨が少ない土地で育ったのだろうか。雨が連日降り続いていることに、やたらと喜んでいた。
 暴風雨の日には家が沈むまいかとハラハラし、夜になって晴れると何やら感激するなど、とにかく落ち着きが無かった。
 だから、この天気の良さにも彼は感動するのではないかと、ソフィスタは思っていた。
 しかし予想は外れ、今朝の青空とは対照的に、メシアの表情は妙に曇っている。
 そんな表情のまま、テーブルを挟んでソフィスタとは向かい側の椅子に座り、メシアは朝食を取っていた。
 食欲はあるようだし、体調が悪いわけでもなさそうだ。何か、思い悩んでいることでもあるのだろうか。
「メシア。朝っぱらから元気がないみたいだけど、どうかしたのか?」
 彼が魔法生物に関することで悩んでいると、また面倒臭いことになりそうだから嫌だなと思いつつも、ソフィスタはメシアに尋ねる。
 視線を落としていたメシアは、声をかけられると食事の手を休め、顔を上げてソフィスタと真っ直ぐ向かい合う。
「…ソフィスタ。話があるのだ。聞いてくれ」
 いつになく深刻そうな顔をしていたので、ソフィスタも食事の手を休め、「何?」とメシアに問う。
「実は、今朝…」
「うおーいメシアー!おっはよぉう!」
 ソフィスタはメシアの話を真面目に聞こうとしていたのだが、やけに明るい男の声に雰囲気をぶち壊された。
 二人は話を中断し、声が聞こえてきたほうへと顔を向ける。
「よっ、お二人さん。お久しぶりぶり〜」
 窓ガラスの向こうから、こちらを覗き込んでいるのは、メシアと親しくなった自警隊員のザハムだった。
「…メシア。話があるって、何?」
 ソフィスタは、ザハムを見なかったことにし、メシアに向き直って話の続きを始めようとする。
「え…おい、ザハムのことはいいのか?」
「こらこらこら!自警隊員を無視するなんて、ふてぇネーチャンだなぁ!」
「街の治安を守る自警隊員の一員が、勝手に人ん家の窓から覗いてこないで下さい。用があるなら、まずドアをノックしてきて下さい」
 相変わらず手厳しいソフィスタの言葉に、ザハムの笑顔がひきつった。
「そう固いこと言うなよ〜窓開けてくれよ〜俺たち友達だろ〜」
「…私は友達になった覚えはないんですが…」
 あんまりしつこいので、ソフィスタは仕方なく席を立ち、窓辺へと向かった。メシアも続いて立ち上がる。
「それで、何かご用ですか?」
 一応、ザハムは街の治安を守っている自警隊員だし、ソフィスタより七つほど年上なので、それなりの敬語で話す。
「用がなきゃ来ちゃいけないのか?近くを通ったから、挨拶に寄ったんだよ。二人とも元気そうだな」
 ソフィスタが窓を開けると、ザハムは窓の縁に腕を乗せ、嬉しそうに二人の顔を眺める。
「うむ。ザハムも相変わらずのようであるな」
 無愛想なソフィスタとは対照的に、メシアは笑顔でザハムを迎えた。
「おうともよ!今日も俺様絶好調!せっかく来たんだから、もっと話していたいんだけど…ちょっと急な仕事が入っちまってな。これから行くところなんだ」
「急な仕事?何かあったのか?」
 ザハムの言葉を聞いて、メシアの表情が、先程ソフィスタに話を切り出そうとしていた時の、深刻そうなものへと変わる。
「ホラ、昨日は雨も風も強かったじゃねーか。その影響で、東の山が崩れちまったんだよ。そんで、誰か巻き込まれたりしていないかどうか、調べに行くってワケ。ま、あんな天気に山に入る奴もいないだろけどな」
 ザハムはヘラヘラと笑いながら話すが、メシアの表情は、ますます険しくなる。
 それに気付いたソフィスタは、彼の顔を覗き込んで、「どうかしたのか?」と尋ねた。
「街より東にて目覚めた脅威…それだ!」
 メシアはザハムの肩を掴み、強く引き寄せた。突然のメシアの行動に驚かされたソフィスタは、思わずメシアから一歩離れ、ザハムも「うぉえっ!?」と変な声を上げた。
「ザハムよ!私を、その山へ案内してくれ!」
 ただならぬメシアの勢いに押され、ザハムはろくに考えもせずに、「え、い・いいけど…」と返答した。
「ちょっと待てよメシア!なに勝手なことぬかしてんだ!」
 今度はソフィスタがメシアの肩を掴み、強く引き寄せようとしたが、屈強なメシアの体は、全く動かなかった。
「詳しい説明は後でする。今は急がねばならんのだ!ソフィスタ、お前も来い!」
 メシアはソフィスタの返事も待たず、ザハムの肩から手を放すと、窓の縁に足を乗せた。
 窓から外へ出るつもりだ。それに気付いたザハムは、慌てて後ろに下がる。
「待てっつってんだろ!」
 だが、ソフィスタの肩から伸びたセタとルコスが、窓から飛び出す直前のメシアの足を絡め取った。
 重心が前へと移動していた所に足を絡め取られたため、メシアは前のめりになって窓から落ち、顔面を地に打ち付けそうになったが、両手を着いて何とかふんばった。
「あ・危な…ソフィスタ!何をする!急いでおるのだぞ!」
 メシアは逆立ちの姿勢のまま、ソフィスタに文句を言う。
「そっちこそ、何を急いでるんだ!ちゃんと説明しろよ!」
「説明は後ですると言ったであろう!早く行かなければ、お前たちも危険な目にあうかもしれぬのだぞ!」
 メシアの言葉に、ソフィスタとザハムが「えっ…」と、ほぼ同時に呟いた。
「人間の脅威となるものが、この街の東で目覚めたのだ!それが、どれほど危険なものかは私にも分からぬが、調べないわけにはいかぬ!さあ、早くセタとルコスを引っ込めてくれ!!」
 危険な目にあうと聞いて一瞬止まった思考を復帰させ、メシアの足の裏を見つめながら、ソフィスタは頭を働かせる。
 メシアは窓の向こうで逆立ちをしているため、ソフィスタの位置からでは彼の足の裏しか見えない。しかし、彼の慌てぶりがどれほどのものかは、もがいている足の裏と、声だけで十分伝わっていた。
 …コイツが嘘を言うとは思えないけど、何かの勘違いって可能性はあるよな。もしくは、騙されているとか…。
 メシアの馬鹿正直な性格は、人間不信のソフィスタにも、ここ数日の同居生活の中で、よく分かった。
 しかし、彼が騙されやすい性格であるということは、初日で既に気付いていた。
 …勘違いにしても、コイツなりに何かしら根拠があるから、こうやって騒いでいるんだろう。でも、驚異が目覚めただなんて、いつどこで知ったんだ?
 もし昨日のうちに、メシアがそれを知ったのなら、昨晩眠る前にソフィスタに話していたはずだ。
 おそらく、ソフィスタが眠りについてから目覚めるまでの間に、彼に何かあったのだろう。今朝から様子がおかしかったことも、それで説明がつく。
 …できれば、先に詳しく聞き出したいんだけど、後で話すって言ってきかないし…まあ、いいか。
 ソフィスタが指をパチンと鳴らすと、その音に反応し、セタとルコスはメシアの足首を放して体を縮め、ソフィスタの肩の定位置に丸まった。
「分かったよ。どうせ午前中の講義には出ないから、一緒に行ってやるよ」
 ソフィスタは、ポールハンガーに掛けてあるメシアの巻衣を取ると、地面に両足を着いて立ち上がったメシアに、それを渡した。
 そして、メシアとザハムに「戸締まりとかしてくるから、外で待ってろ」と声をかけてから窓を閉め、鍵を掛けてカーテンも閉めた。
 …最近はメシアのことについて、新しい発見が無かったからな。もしかしたら、何か分かるかもしれない。どうせ止めても無駄だろうし、付き合ってやるか。
 テーブルの上に残されていた食事を適当に片付けると、ソフィスタも身支度を始めた。
 人間の脅威と聞いても、詳しいことは分からないので実感も湧かないソフィスタは、わりと楽な気分で物事を考えていた。


 *

 街を出てから東の山まで、人の足で歩いて三時間はかかる。
 街の出口に、東の山へ向かう自警隊員用に馬車が二台用意されていたので、それに乗っていれば時間は半分に短縮されたのだが、せっかちなメシアがソフィスタを抱えて途中下車し、走って山まで向かったため、到着時間が自警隊員たちとはズレてしまった。
 先に土砂崩れの現場に着いたのは、メシアとソフィスタ、そしてソフィスタの肩に張り付いているセタとルコスだった。後ろを走っていた馬車は、とっくに見えなくなっている。
 馬車一台につき馬二頭でも、荷物と複数の自警隊員を乗せているのだから、人の全力疾走と比べると確かに遅いが、馬と人では体力が違う。例え人が全力で走って馬車を追い抜いても、途中で体力が尽き、結局は追いつかれてしまう。
 その点、女一人を抱えて長距離を走り続けたメシアは、よく馬車に追いつかれずに走り続けられたものである。

「ふう…ここか…」
 少し呼吸が荒いが、長距離を走り続けていたとは思えないほど疲労の少ないメシアは、肩に担いでいたソフィスタを下ろし、一つ息をついた。
「お・お前…どういう体力してんだ…」
 走ってもいないのに、何故かソフィスタのほうが疲れてしまい、下ろされるなり膝に手を着き、肩を上下させて乱れた呼吸を整え始める。
 そんなソフィスタを不思議そうに見遣ってから、メシアは山を見上げた。
 山の中腹あたりから崩れたようで、そこから山のふもとにかけて、土砂や倒木で埋め尽くされていた。
 メシアは歩き出し、ぬかるみを避けながら、ふもとに積もっている土砂を登る。
「…すごいな…このように山が崩れるとは…」
「あん?お前、土砂崩れを見たことなかったのか?」
 メシアの何気ない一言に、呼吸を整えたソフィスタが食いついてきた。メシアは腰を屈め、泥を抓みながら答える。
「うむ。砂の山に水をかけると、確かに水が砂を巻き込んで流れ落ちるが…。雨で山が、ここまで崩されるとは知らなかった」
 子供の砂遊びと比べるなよ、とソフィスタは言いたかったが、原理は同じなので黙っていた。
 …やっぱり、雨が少ない所に住んでいたってことに間違いはないようだね。もしかしたら、山もない所なのかもしれない…。
 メシアの故郷を、少しだが絞り込むことができ、ソフィスタは笑みを浮かべるが、彼女を見ていないメシアは、当然気付かない。
「それで、そろそろ説明してくれないかな。人間の脅威が目覚めたとか言ってるけど、どこでそれを知ったの?」
 メシアが立っている場所へと向かって歩き出し、ソフィスタは彼に尋ねる。
「…今朝、まだお前が眠っている時、神より、ご神託を頂いた」
 メシアは、ソフィスタが来るのを待ってから答えた。その言葉を聞いて、ソフィスタは思わず「えっ?」と聞き返してしまう。
 背筋を伸ばして立ち、左手の紅玉を見下ろしながら、メシアは話を続ける。
「アーネスの街より東にて、かつて人間にとって脅威であった、異形なるものが目覚めた。それは、私にとっても危険になりうるものであり、放っておけば多くの人間が血を流し、命を失う…と、神は紅玉を通して、私にお伝え下さった」
「紅玉を通してって…声だけ聞いたのか?どんな声だったの?」
 ソフィスタは何かと聞きたがってきたが、メシアは「それより、今は脅威についてだ」と言って、彼女の質問を受け付けなかった。もっと詳しく聞き出したかったが、メシアの言うことももっともなので、ソフィスタは「それもそうだ」と納得し、追求をやめた。
「ソフィスタ。人間にとっての脅威であった、異形なるものに、心当たりはあるか?」
「…あるにはあるけど…」
 メシアに問われ、その心当たりというものを、ソフィスタは指を折って数え始める。
「魔法で肉体を強化された獣が人を襲ったとか、猛毒を持った植物が大量発生したとか、人食いドラゴンがいたとか…。心当たりがありすぎて、一つには絞れないよ」
「う〜む…そうか…」
「でも、脅威が目覚めたとか言っていた割には、今のところは静かだね。神託なんて、単なる夢だったんじゃないか?」
「夢であるものか!確かに神は…」
 ソフィスタに反論しかけたところで、メシアはたまたま視界に入ったものに気付き、口を止めた。
 前方、少し先に転がっている倒木の影に隠れているものを、じっと見つめる。
「メシア?どうかしたのか」
 ソフィスタもメシアの目線を追い、倒木を眺めるが、彼女の視力では影に隠れているものを見つけることはできなかった。
「…ソフィスタ…ちょっと来てくれ」
 そうソフィスタに声をかけてから、メシアは倒木へ駆け寄り、手前でしゃがみ込んだ。
「おい、どうかしたのか?」
 メシアの後に続き、ソフィスタは彼の背後に立つ。
 そして、倒木の影に隠れて転がっているものを見つけると、思わず「うわっ」と声を上げ、一歩後ずさった。
 それは、人間の右手だった。
 人が土砂と倒木の下敷きになっているのではない。体から切り離され、手首より先だけが、泥まみれになって転がってるのだ。
 指は五本とも残っているが、小指だけ変な形に折れ曲がり、皮膚を突き破って骨が出ている。
「な…ん、だよ、コレ…」
 ソフィスタは口元を押さえ、顔を青ざめつつも、メシアの隣に移動して腰を屈め、小指の折れた手を見下ろす。
 人間の死骸ともとれるそれに、さすがにショックを受けているが、我を失うほどではないようだ。
「うむ…これは人間の右手であるな。だが、妙に生々しいような…」
 メシアの言葉を聞き、ソフィスタは気味悪そうな顔をしつつも、小指の折れた手を観察し始める。
 肌は泥にまみれ、血の気の無い色をしているが、腐ってはいなかった。
 手首の部分の肉と骨は、無理矢理引きちぎられたような形で絡み合っている。しかし、血は流れ出ていない。
 体と切り離されてから、だいぶ時間が経っているのだろうか。それにしては、虫もたかっていない。
「見た感じ、大人の男のものだな。土砂崩れに巻き込まれて落ちてきたなら、もっと傷だらけになっていてもいいはずなのに、肉と骨が出ている手首の部分を除けば、目立った傷は無さそうだ。…泥を払って、もっとよく調べてみよう」
 そう言って、ソフィスタはメシアへと視線を投げた。それに気付いた、メシアは「何だ」と尋ねる。
「…拾って、泥を払え」
「私が?自分でやればよいではないか」
「ヤダよ。こんな気味悪いモン、触りたくねーもん」
「私だって触りたいとは思わんのだが…」
 メシアは文句を言うが、ソフィスタよりは抵抗がないようで、一言文句を言っただけで、右手を伸ばして小指の折れた手を拾おうとした。
 ゆっくりと指先を近付け、小指の折れた手の甲に軽く触れた時、その冷たさに、メシアはつい指を引っ込めそうになったが、突然、小指の折れた手が動きだし、メシアの指先を掴んだ。
「どわぁぁっ!!!」
「うえぇぇっ!!!」
 メシアとソフィスタの悲鳴が、同時に上がった。
 小指の折れた手は、残る四本の指でメシアの右手をがっちりと掴み、爪が食い込みそうなほど強い力で握り締めてくる。
「てっ手が動いって、あわわわわうおーっ!!」
「わーっ!バカこっち来んな!気持ち悪い!」
 頭脳派の冷血少女も、心身共に鍛えられた戦士も、さすがに錯乱しているようだ。掴んでくる手を振り払おうと、メシアは右手を上下に大きく振りながらも、取ってくれとばかりにソフィスタを追いかける。しかしソフィスタも気味悪がって、彼から大袈裟に離れていく。
「ま・待て、いったん落ち着け!お前らトカゲの尻尾だって、体から切り離されても動いてるだろ!それと同じだと思え!」
「尻尾は生えておらんわぁ!」
 二人が騒いでいると、不意に小指の折れた手の力が緩み、メシアが腕を激しく振る勢いでスポっと抜けて放り投げられた。
 小指の折れた手は、ソフィスタたちから離れた位置に落下し、泥を跳ね上げる。
「な・な・な…何だったのだ、一体…」
 メシアは右手をさすりながら、どうにか落ち着きを取り戻そうとする。
「さあ…。人間の手は、体から切り離されても動くなんてこと、普通じゃありえないけど…。そっちの手、大丈夫か?」
 さっきまでは逃げていたくせに、ソフィスタはメシアの右手を心配そうに覗き込む。
「いや、怪我はしておらん。それより、あの手は…」
 小指の折れた手は、手の平を上に向けて、指をうごめかしている。
 まるで、意志があるかのように。
「…もしかして、お前が言ってた脅威ってヤツと、何か関係があるんじゃ…」
 そうソフィスタが呟いた時、小指の折れた手が裏返り、指で地面を掻いて進み始めた。
 小指を引きずり、土砂の上を登っていく。どうやら、山の上へと向かおうとしているようだ。
 ソフィスタとメシアは、山を見上げる。
 あの手が向かう先に、何かあるのだろうか。もしかしたらソフィスタの言う通り、脅威というものに関係している何かがあるかもしれない。
 そう考えて、メシアはソフィスタに「追うぞ」と声をかけ、歩き出した。
「自警隊の連中が来るのを待たなくていいのか?」
 ソフィスタは、ここまで来た道を振り返って言った。いつの間にか近付いていた、自警隊員を乗せた馬車は、そろそろ山のふもとに辿り着こうとしている。
「あの手を見失うわけにはいかぬ。不安なら、お前はここに残ってもかまわんぞ」
 メシアは立ち止まり、ソフィスタに背を向けたまま答えた。
「いいのか?あたしを監視しなくて」
「よくはないが…どんな危険が待ち受けているかも分からぬのだ。無理に連れて行きはせん。それに…」
 ソフィスタがメシアを向き直ると同時に、メシアも軽く振り返ってソフィスタを見た。互いに目が合い、ソフィスタが「何?」と首を傾げる。
「監視をやめるわけにはいかんが、魔法生物は作り出さないと言ったお前の言葉を、今は信じよう」
 その言葉に偽りがないことを示す、真っ直ぐな瞳でソフィスタを見つめ、メシアは言った。
 それに気付いたソフィスタは、腕で顔を隠しながら帽子を掴み、少しだけ俯く。
「…馬鹿言ってんじゃねーよ。頭の悪いヤツだけを危険な場所に放り込めるか。そっちのほうが不安だ」
 相変わらず口が悪く、一言多いが、今回はメシアは反論してこない。
「付き合ってやるよ。あたしだって、自分の身を守れるくらいの力はあるし、かつて人間の脅威だったってことが本当なら、その人間の知識が役に立つかもしれないだろ」
 ソフィスタは帽子を掴んだまま歩き出し、顔を合わせないようにしてメシアの脇を通り過ぎ、小指の折れた手を追った。
 …口は悪いが、私を心配し、力になってくれるのだな。
 そっけない態度と言葉に隠されている、ソフィスタなりの気遣いを感じ取れたメシアは、再び歩き出して彼女に追いつくと、「ありがとう」と言った。
 ソフィスタは「別に…」と小さく呟いただけだったが、メシアは満面の笑みを浮かべていた。


 (続く)


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