・第十二章 金色の瞳「様子はどうだい?」声変わりのしていない少年の声に、緑色の肌の男は答えた。 「目を覚ましてから、ずっと泣いていました。何も口にしようとせず、抱き上げると暴れ出しました。今は、疲れて大人しくしているようです」 石造りの台に麻布を重ねたベッドの上では、そろそろ歩けるようになるかくらいの赤ん坊が、横たわって静かに呼吸をしている。 泣き腫らした目はうっすらと開いており、時々しゃくり上げては、痩せこけた小さな体を小刻みに震わせていた。 男は、その立派な体躯に見合った大きな手で、赤ん坊の頬を撫でようした。しかし、伸ばされた手に気付いた赤ん坊が、嫌がるように体を横に転がしたので、仕方なく手を引っ込めた。 「よほど怖い思いをしたのですね。赤ん坊の頃の記憶など、時間が経てば忘れるはずですが…。その恐ろしい記憶だけは、大きくなってからも発作的に蘇ることがあるかもしれません」 かわいそうに、と呟いて、男は赤ん坊を見下ろす。 「…うん、かわいそうな子だよ。そんな大きな傷まで負わされて…」 硬質の何かが石の床を打つ音が、少年の声と共に赤ん坊に近付く。 「いいかい。キミは、とても過酷な運命を背負っている。大きくなったら、今より辛い思いをするかもしれない。だけど、運命を恨んじゃダメだ。恨んでも、何にもならない」 音が止み、少年の声だけが、赤ん坊のすぐそばで発せられた。赤ん坊は固く目を閉じ、肩を抱いて身を強張らせる。 「それに、キミは素晴らしい力を持って生まれたんだ。世界を救う力だ。それは、キミだけが持っている力で、特別な血筋の表れでもある」 少年の声は優しく、喜んでいるようにも聞こえる。 「どうか過酷な運命に負けないで、生まれ持った力と、自分に流れる血を誇れるようになってくれ」 少年の声はさらに近づき、赤ん坊は目蓋を大きく開いた。瞳孔の細い赤い瞳が、くっきりと現れる。 「強くおなり。メシア」 少年の言葉の意味は、まだ言葉を解さない赤ん坊には伝わらなかった。 だが、目の前にある金色の瞳と、隼に似た少年の顔を、赤ん坊の瞳は確かに映していた。 * ゴーレム用のカタパルトは、地下の格納庫から、正門の近くの花壇へと続いている。つまり、花壇がカタパルトのハッチの役割を果たしているのだ。 MAゴーレムがカタパルトから飛び出した時、花壇はカタパルトの出口の脇に移動していた。 いくら夜でも、月明かりや街灯で花壇周辺はそこそこ見えるし、花壇が移動する際は音も立つので、ヴァンパイアカースに感染している者たちが、どこかでその音を聞きつけたに違いあるまい。 ちなみに、MAゴーレムのコクピットには窓が無いが、機体とケーブルで繋がっているゴーグルを装着すれば、肉眼で見える範囲の外の様子がレンズに映し出される仕組みになっている。 「感染者たちが、あたしたちに気付いて集まるかもしれない!その前に、あのRAゴーレムを止めるぞ!」 カタパルトから飛び出し、その勢いで高く跳ね上がったMAゴーレムの中から花壇を見下ろし、ソフィスタは叫んだ。 「あ、う・うむ!」 ソフィスタのマントを腰に巻いているだけの姿のメシアは、少し遅れて返事をするが、それをソフィスタが聞き取る前に、MAゴーレムを追ってRAゴーレムがカタパルトから飛び出してきた。 「待テェ――ェェ―!!」 相変わらず不快な合成音声音を発するRAゴーレムは、カタパルトから飛び出した勢いでMAゴーレムを貫こうと、右腕から伸びている光の剣の切っ先を、こちらに向けて真っ直ぐ伸ばしていた。 しかし、RAゴーレムが飛び出してくる前から、ソフィスタはMAゴーレムの左腕をカタパルトの出口に向けてかざしていた。怒りで我を忘れているバンパイアカースの意思は、それに気付くのが遅れ、その左腕から発射された網に、あっさりと剣を捕らえられてしまった。 「ギァッ!!」 網が剣に絡まり、カタパルトから飛び出した時の勢いも殺され、RAゴーレムはMAゴーレムより先に落下し、カタパルトを塞いでいた花壇の上に機体を打ち付けた。 そこから少し離れた位置で、MAゴーレムは着地する。 「グオォォォ!!何だコレはァッ!!」 網は防護の魔法が込めらた繊維でつくられており、魔法や物理攻撃に耐性があった。RAゴーレムの魔法の剣でも簡単には斬れまい。 RAゴーレムは、空いている左腕を動かして網を外そうとした。しかし、さらにMAゴーレムが発射した網に両方の腕を束ねられ、動かせなくなった。 「…捕らえたのか?」 MAゴーレムの腕から下ろされ、素足で地面に立ったメシアが呟く。 「完全じゃないけどね。ゴーレムに搭載されていた網も今ので底をついたけど、これでしばらくは奴は両腕を使えないよ。それより、アイツが平静を取り戻す前に、腹のハッチをこじ開けてウルドックの右手を引きずり出すぞ!」 そう言って、ソフィスタはMAゴーレムをRAゴーレムに近づけようとしたが、不意に横から白い光に照らされ、本能的に危険を感じ、とっさにメシアをゴーレムの両腕で包み込むように囲んだ。 その直後、MAゴーレムの背中に、破壊力を帯びた白い光球がぶち当たる。 「あうっ!」 「うわっ!?」 ソフィスタとメシアは、花火のように破裂した光に驚かされて声を上げた。だが、MAゴーレムの装甲には焦げ目すらついておらず、ソフィスタもMAゴーレムの内部に施されている防護魔法で衝撃から守られ、ダメージは受けなかった。 …今のは、攻撃魔法!まさか…! ソフィスタは、ゴーグルに映し出されている映像を、光が飛んできた校舎側のものに切り替えた。 校舎の昇降口の灯りを背に、複数の人間がこちらへ駆け寄ってくる。その先頭に、アズバンがいた。 「MAゴーレムを勝手に動かしているのは、ソフィスタくんだな!今すぐ下りて出て来なさい!」 MAゴーレムの腕に囲われているメシアにも、その声が届き、彼は思わず「アズバンか!?」と叫んだ。 「そこにいるねメシアちゃん!今度は逃がしませんよ!!」 アズバンの後ろを走っているエメも、そう声を張り上げた。どうやら、校内にいたヴァンパイアカース感染者たちが、ほぼ全員集まっているようだ。 …やっぱり!さっきの魔法も、あいつらの中の誰かが放ったものか! 「イヒ…ヒァハハハッ!!いいぞオマエら!!そのクソガキとトカゲヤロウをブッ潰セ!!!」 思うように動かせない両腕に苛立っていたヴァンパイアカースの意思が、RAゴーレムの合成音声で、感染者たちに命令した。 感染者たちは、MAゴーレムから一定の距離を置いた位置に陣取り、うち半数は魔法力を高め始め、残る半数は弱い攻撃魔法を放ってきた。 威力の弱い魔法ではMAゴーレムはびくともしないが、メシアを庇っているため身動きも取れない。いくら紅玉の力によって魔法から守られているであろうメシアでも、弱い攻撃魔法を何度も受ければ限界がくる。 感染者たちは、弱い攻撃魔法を放ってソフィスタたちの動きを封じ、その間に残りの者が魔法力を高め、強力な攻撃魔法を一斉に放つという魂胆だろう。 …こうなったら、メシアもMAゴーレムの中に入れて戦うしかないか。 この手段は、MAゴーレムに乗り込んだ時からソフィスタの頭の中にあった。 だが、MAゴーレムのコクピットは狭く、人が二人も入れば必然的に互いの体を密着させることになる。ましてやメシアのような大男が入ってくれば、狭苦しい上に暑苦しいこと請けあいである。 こんな筋骨粒々の、しかも半裸のトカゲ男と狭い部屋で密着など、一生に一度と体験したくない。 …でも、クソッ、仕方ねぇ!! ソフィスタは、身に着けていたゴーグルを外して放り投げると、MAゴーレムの腹部の装甲を開き、その奥にあるハッチも開いた。 MAゴーレムの腕に囲まれて守られていたメシアの姿は、すぐ目の前にある。彼に向かって、ソフィスタはコクピット内から手を伸ばした。 「メシア!お前も中に入れ!」 メシアはすぐにソフィスタの腕を掴み、MAゴーレムのハッチの縁に足をかけた。 「そこまでだ!!君たち全員拘束する!!」 その時、聞き覚えのある声が耳に届いて、ソフィスタとメシアは動きを止めた。そのため、ハッチに上りかけていたメシアの体重が後ろに傾き、掴んでいたソフィスタの腕を引いてしまった。 「わっわあぁぁっ!」 ソフィスタはメシアの体重に引かれ、悲鳴を上げてコクピットから落ちた。 その間、感染者たちは戸惑いの声を上げ、MAゴーレムへの攻撃を止めた。 「シールド構え!突撃―――――!!!」 かけ声と同時に、地鳴りのような足音が響き、地面に背中から落ちたメシアと、彼の上に落ちたソフィスタの体にも振動が伝わってきた。 「い・今のは…ズースさんの声?」 メシアを横から押さえ込むようにしてうつ伏せになっていたソフィスタは、体を起こしながら呟いた。 「…誰か来るぞ!」 ソフィスタの下で倒れていたメシアも、地面に膝を着いて起き上がり、周囲を警戒する。 MAゴーレムの腕が邪魔で周りの様子は見えないが、確かに何者かが駆け寄ってくる足音が聞こえる。 「メシア!ソフィスタも無事か!?」 「ザハム?」 足音と共に近付いてくる声は、ザハムのものであった。メシアは彼の名を口にする。 「メシア!ここか?」 足音がMAゴーレムの腕のすぐ向こうで止まったかと思うと、その腕が持ち上がり、武装した自警隊員が姿を覗かせた。 「うっ、コレ重っ…だ・大丈夫か!?ヴァンパイアカースに感染してはいないよな…って、おいおいメシア、何だよその風呂上がりみたいなカッコは…」 プレート入りのスーツを身に着け、メットを被って顔を隠しているが、確かにザハムだった。ザハムはメシアの姿を見て、ホークと同じことを言った。 「ザハム、何故ここに?」 「通信が届いたから助けに来たんだよ!…なあ、この、ゴーレムの腕、重いから下ろしていいか?」 ザハムの言葉を聞いて、メシアはホークから聞いた、学校から自警隊本部へ通信機で連絡が送られたという話を思い出した。 「ってことは、自警隊員で呪いに感染していない人たちが来てくれたんですね」 ソフィスタは、MAゴーレムのコクピットへとよじ登りながら、ザハムに問う。 「ああ!それと、ヒュブロから解呪剤が届いたんだ!ちと数が足りねーけど、おかげで自警隊員はほとんど復帰したぜ!…なあ、ホント重いから下ろさせろよ…」 ヴァンパイアカースが蘇ったということを知ってすぐ、王都ヒュブロや近隣の街に送った通信が、やっと功を奏したようだ。 「そうか!じゃあ、あとは残りのヴァンパイアカースの媒体を倒すだけだな!」 ソフィスタがMAゴーレムのコクピットに入り、操縦席に座ってゴーグルを装着すると、自然とハッチが閉まり、ザハムが持ち上げていた腕も動き出した。ザハムはMAゴーレムから離れる。 ゴーグルのレンズに映し出された映像を見て、ソフィスタは今の状況を把握した。 ザハムの言った通り、武装した自警隊員たちが、感染者たちと交戦している。 どうやら、セタとルコスはちゃんと学校の通信機を使って、ヴァンパイアカースの媒体が生きていることを伝えてくれたようだ。 MAゴーレムの中で、ソフィスタはニッと笑みを浮かべた。 …セタ、ルコス。でかしたぞ! 「それより、こっちの紫色のゴーレムは?コイツは敵か?」 ザハムは、普段携帯しているものよりゴツい警棒の先で、RAゴーレムを指しながら尋ねてきた。ソフィスタはゴーグルの映像を、RAゴーレム側へと戻す。 RAゴーレムは、戸惑っているのか、腕に網を絡めたまま動いていない。額の赤いランプも、今は点灯していなかった。 「あのゴーレムは、ウルドックの右手が中から操っておる!学校の者にヴァンパイアカースを感染させたのも奴だ!」 「右手?え、右手だけで?マジかよ…」 メシアがザハムに説明し、ザハムは驚かされながらも、背丈の半分以上はある盾を構え、RAゴーレムを見据える。 「…グッ、クソォ…」 RAゴーレムが合成音声を発し、網に両腕を捕らえられたまま、モタモタと体を動かし始めた。 …とにかく、ヤツがロクに動けない内に、何とか退治しないと。…解呪剤があれば、アイツに叩き込むんだけど…。 解呪剤が届いていれば、ヴァンパイアカースの媒体の退治用に最低一本は持ってきてもらいたかった。 本当は、セタとルコスに通信を頼む際に渡した手紙に、そのことも書くつもりだったのだが、そんな余裕は無かった。 「ザハムさん、解呪剤は持ってきていますか?」 あまり期待はしていないが、一応ザハムに確認しようと、ソフィスタは彼に声をかけた。 「ああ。総隊長が念のためって持たせてくれたぜ。あそこにいるシバーが何本か持っている」 そう答えて、ザハムは校門前で控えている自警隊員を指し示した。二人いるが、武装しているのでどちらがシバーか分からない。 本部をヴァンパイアカースに乗っ取られ、自身も呪いに感染し、どうにも頼りないと思っていた総隊長だが、ソフィスタが思うより総隊長は気が利く人間だったようだ。 「じゃあ、私があいつの動きを押さえるから、その隙に腹の装甲をこじ開けて下さい。左右に開いて奴が見えたら、解呪剤を叩き込んで下さい。メシアも手伝え!」 今がチャンスとばかりに、ソフィスタはメシアとザハムに指示を飛ばした。二人が頷いたのを確認すると、ソフィスタはMAゴーレムの機体を僅かに宙に浮かび上がらせ、砂煙を上げて発進させた。 前に立っているメシアとザハムを避け、MAゴーレムは両腕を前に出してRAゴーレムに突進する。 「ヌ。ぐぅ…ナメんなあァァ―――!!!」 RAゴーレムは、額の赤いランプに光を灯し、合成音声で雄叫びを上げると、網に絡め取られたままの腕と剣を振り上げた。 それを待っていたかのように、MAゴーレムの左腕からフック付きのワイヤーが飛び出し、RAゴーレムの腕と頭に、網の上から巻き付いた。 突進した勢いを殺さず、RAゴーレムの横を通り過ぎて後ろに回り込み、ワイヤーを引っ張ると、RAゴーレムは仰向けに倒れた。 既にぐちゃぐちゃにされていた花壇が、さらにひどい状態になるが、そんなことは最初から気にしていない。 「メシア、今だ!!」 ソフィスタに呼ばれるまでもなく、既にメシアはRAゴーレムに駆け寄っていた。 「メシア!コレを使って装甲を開け!俺は解呪剤を用意する!」 ザハムは警棒をメシアに投げ渡してから、シバーのもとへと向かった。警棒を受け取ったメシアは、RAゴーレムの腹部の上に駆け上る。 「腹の装甲の中央の境目に警棒を突き立てて、お前の馬鹿力でこじ開けろ!魔法は吸収されるから、スタンガンは使うな!爪を伸ばしてくる攻撃には気をつけろ!」 もがくRAゴーレムを、ワイヤーを強く引いて止めながら、ソフィスタはメシアに指示する。 メシアは言われた通り、警棒を装甲の境目に突き立てた。わずかに隙間が開き、さらに警棒をねじ込んで隙間を広げる。 普通の人間が力任せでこじ開けようとしても、そう簡単には開かない装甲だが、メシアの馬鹿力には敵わないようだ。 「ヤメロォ!このっ…なめるなあアァ――――!!」 もがいていたRAゴーレムが、合成音声で雄叫びを上げた。 さっきからずっと騒いでいるので、ソフィスタは雄叫びに気を取られることなくワイヤーを引っ張り続けていたが、突然、ワイヤーが緩み、MAゴーレムの機体は後ろによろめいた。 RAゴーレムが、網に絡め取られたままの両腕を機体から切り離し、胴体だけで動き出したのだった。 「うわぁっ!」 予期せぬ出来事に戸惑いながらも、倒れまいとソフィスタは機体をふんばらせる。 RAゴーレムの腹部の上にいたメシアも、その揺れで体勢を崩し、RAゴーレムの上から転がり落ちてしまった。握っていた警棒も、どこかに落としてしまう。 「おわっ、と、なんのっ!」 なんとか花壇の上で片膝をついて着地し、メシアは顔を上げた。 すると、覆い被さるように立ちはだかっているRAゴーレムによって、視界を埋め尽くされた。 RAゴーレムの腹部の装甲は開いており、機体の奥の暗がりの中に、ウルドックの右手のシルエットが、ぼんやりと見える。 メシアは直感的に危険を感じ、この場から飛び退こうとした。 その直前、RAゴーレムが合成音声で叫び声を上げた。 「くたばれバケモノがぁ!!目障りなんだよオォォ!!!」 その怒りに呼応するように、RAゴーレムの額の赤いランプが輝きを増した。 ウルドックの右手は五本指それぞれの爪を伸ばし、鋭い切っ先をメシアに向けた。 「……っ!!」 急に、メシアの中で強烈な恐怖が沸き上がり、無意識的に左胸の古傷を庇った。 見開かれた赤い瞳の瞳孔は膨らみ、震える口から掠れた息が漏れる。 極度の緊張のせいか、周りの動きがゆっくりに見える。その間、メシアの頭の中では何度も逃げろと警鐘が鳴り響いたのだが、足が竦んで体を動かせなかった。 「危ねェ――――!!」 全速力で駆け戻ってきたザハムが、メシアの体に横からタックルをかました。 ウルドックの右手の爪が雨のように降り注ぎ、メシアとザハムに襲いかかる。 「メシア!ザハムさん!」 体勢を整えたMAゴーレムが、ワイヤーに絡んでいたRAゴーレムの両腕を、伸ばされた爪に向けて網ごと投げ飛ばした。 途中で網が解けたため、片方の腕は網といっしょに地面に落ちたが、もう片方の腕は狙った方向へ真っ直ぐ飛び、ウルドックの右手の爪を四本ほど砕いた。 「なにボーっとしてるんだメシア!しっかりしやがれ!!」 メシアと一緒に花壇から落ちたザハムが、体を起こしてメシアの後頭部を平手でスパンッと叩いた。メシアは、「あぅっ」と声を漏らす。 「メシア!大丈夫か!」 解呪剤を打っているザハムはともかく、メシアがウルドックの爪に皮膚を裂かれていれば、呪いに感染しているかもしれない。それを心配して、ソフィスタはRAゴーレムから注意を逸らし、メシアの様子を確かめようとした。 しかし、それより先に響き渡った絶叫が、ソフィスタだけではなく、メシアにザハム、交戦中の自警隊員や感染者たちの動きまで止めた。 「アグォ――グッ――ギァァァァァ――ッッ!!!」 突然、RAゴーレムから割れた音で悲鳴が発せられた。 ソフィスタは、何事かとRAゴーレムを見る。その機体はガタガタと震え、砕き損ねたはずの一本の爪は、既に半分以上短くなっていた。 …これって、もしかして…! メシアから聞いていた、ウルドック本体の最期の様子。 解呪剤を打たれた途端、その部分から肉体が崩れていったという。今のウルドックの爪は、正にそれであった。 爪は、先から徐々に砂利となって崩れ落ちている。 …少し奴から注意を逸らした僅かな間に、一体何があったんだ…。 考えながら、崩れ落ちる砂利を辿ってゴーグルのレンズに見える景色を下へとずらしていくと、爪を突き立てられた場所の近くにガラスの破片が落ちていることに気付いた。 かろうじて原型を留めていた細長いガラス管を見て、それがヴァンパイアカースの解呪剤が入っていた注射器であることが分かった。 …あれは、ザハムに持ってくるよう頼んだ解呪剤か? おそらく、ザハムがシバーから貰ってきた解呪剤だろう。メシアを庇った時に落として割れたのか、それともウルドックの爪が注射器を割ったのか。 …いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。 RAゴーレムの腹部の装甲が開きっぱなしで、動きが鈍っている今が、ヤツをゴーレムから引きずり出すチャンスだ。 メシアのことは心配だが、ウルドックの右手を捕らえる方が先決だ。 そう考え、ソフィスタはメシアとザハムに、動けたら奴を捕まえろと呼びかけようとしたが、既に二人ともRAゴーレムに飛び掛からんとしていた。爪に引っ掻かれた可能性はあるが、メシアに呪いが発症している様子は見られないので、少なくとも今は大丈夫だろう。 「グゥ…ぐぞぉォォ…っ」 ザハム、メシアの順に、開いた装甲めがけてジャンプした時、崩れかけていた爪が根元から剥がれ落とされ、同時にRAゴーレムから発せられる合成音声がプッツリと途絶た。 それにメシアとザハムが気づくより早く、ウルドックの右手がRAゴーレムの中から飛び出した。 「おわぁぁぁっ!!!」 動く右手がいきなり目の前に現れたため、ザハムは気が動転して両腕を振り回した。 ザハムの腕に思いっきり頭を叩かれたメシアも宙で体勢を崩し、二人の体はRAゴーレムに激突した。操縦者を失ったRAゴーレムは、メシアとザハムを巻き込んで倒れる。 彼らが変な声を上げて潰されている間に、ウルドックの右手は花壇の上に飛び降り、昆虫の足のように指を動かして移動を始めた。 右手は、花壇が塞いでいたカタパルトへと向かっている。 「何やってんだ二人とも!奴が逃げるぞ!」 ソフィスタもMAゴーレムを動かそうとしたが、突然、コクピット内で警報音が鳴り響き、それに気を取られて行動が遅れてしまった。 MAゴーレムには、操縦者の魔法力が完全に尽きる前に警告してくれる機能が備わっている。この警報がそれだが、逆に仇となってしまったようだ。 ウルドックの右手は、カタパルトに逃げ込んでしまった。 「ああっちくしょう!!」 まだ動かせるMAゴーレムで、今度こそウルドックの右手を追おうとしたが、また邪魔が入った。 「させるかぁぁっ!!」 自警隊と交戦中だった感染者の男が、一人だけ逃れてきて、MAゴーレムの腕にしがみついてきた。 見覚えのある顔の教師だったが、名前までは出てこなかった。 「ふざけんな!このクソ忙しい時に!!」 ソフィスタは男を振り払おうとするが、魔法で力を増幅させているのか、彼はしぶとく機体にしがみつく。 MAゴーレムを動かすだけで精一杯の魔法力しか残っていないソフィスタ自身も、いいかげんしんどくなってきたため、それに比例してMAゴーレムの動きも鈍っていた。 「うおぉぉぉぉぉ!!!」 RAゴーレムの下敷きにされていたメシアが雄叫びを上げ、力任せにRAゴーレムを押し退けて立ち上がった。 RAゴーレムは重い機体を横に転がし、一緒に下敷きになっていたザハムも体の自由を取り戻す。 「貴様!邪魔をするな!!」 鍛えられた自警隊員であるザハムでさえ、まだ倒れているというのに、生物の限界を超越せんばかりのタフっぷりで復活したメシアが、左腕を高々と振り上げ、その手にはめ込まれているアクセサリーの紅玉を輝かせた。 MAゴーレムにしがみついていた男は、光を浴びてすぐ、MAゴーレムを離して倒れた。 「メシア!ウルドックの右手を追うぞ!」 もはやMAゴーレムは動かせまいと判断したソフィスタは、男が倒れたことを確認すると、そう叫んでハッチを開き、ゴーグルを外してコクピットから飛び出した。操縦席の脇のポケットに眼鏡が入ったままだが、かけている時間も惜しい。 ソフィスタに呼びかけられたメシアは、頷き地を蹴る。 「っまだだぁ!!」 しかし、気を失ったかと思った男が起き上がり、それに驚いて着地に失敗したソフィスタの右腕を掴んだ。 魔法で体を強化していたため、メシアの紅玉の力が通じなかったのだろうか。だが、そんなことを考える暇はなかった。 今のソフィスタでは、魔法を使えない人間であっても敵わない。 …やばっ…! 男は拳を振り上げ、ソフィスタに殴りかかろうとする。 「は・放せ!!」 無駄な抵抗だろうが、ソフィスタは腕を振り…男を払いのけた。 …え? そう。無駄な抵抗だと思っていたのに、男を振り払うことができたのだ。 「やめぬかっ!!」 駆けつけたメシアが、よろめいた男の首根っこを捕らえ、後ろに強く引いた。男は全く抵抗せず、あっけなく背中から地面に倒れる。 男は「イテッ」と声を上げた後、呆然とした顔で夜空を仰ぐ。その様子をメシアも妙に思ったようで、倒れた男の顔を、首を傾げて覗き込んだ。 「おい二人とも!あれ見ろよ!」 少し遅れて駆けつけてきたザハムが、メットを片手で外しながら、もう一方の手で、他の感染者たちと交戦中の自警隊員たちを指した。 正確には、交戦中だったと言うべきか。アズバンやエメを含み、感染者たちは全員、抵抗を止めていた。 中には、自警隊員に必死に頭を下げている者もいた。自警隊員たちも戦闘を止め、突然の出来事に戸惑っている。 「…うう…き・君たち、すまなかった…。自分でも、何であんなことをしていたのか…」 先程ソフィスタに殴りかかろうとしてメシアに引っぺがされた男が、そう呟きながら体を起こした。メシアとソフィスタは、顔を見合わせる。 「…これって…呪いが解けてんの?」 殺気立っていた感染者たちが一斉に大人しくなり、襲い掛かっていた者に謝っている様子を見ると、そうとしか考えられない。 …でも、一体何が起こったってんだ?何で急に感染者たちが我に返ったのか…いや、それより奴を追わないと! 「メシア!先にウルドックの右手を追うぞ!」 ソフィスタが、メシアにそう指示を出すと、彼はすぐにソフィスタの腰を掴み、肩に担ぎ上げた。 いきなり体が浮いたので驚きはしたが、ソフィスタは文句を言わなかった。 「しっかり捕まっておれ!!」 メシアはカタパルトに飛び込み、ソフィスタは言われた通り、メシアの首に腕をまわしてしがみついた。 急な斜面になっているカタパルトに敷かれたレールに沿って、落下する勢いで駆け下りるメシアの乗り心地は、正直怖い。ソフィスタは悲鳴を上げたかったが、歯を食い縛って堪えた。 駆け下りる先にある、ゴーレムの格納庫には、まだ灯りがついている。 …そういや、格納庫にホークを置いてきたんだっけ。あいつ、大丈夫か? ウルドックの右手がカタパルトに飛び込んでから、少し時間が経っている。もし彼がまだ格納庫にいたら、真っ先に襲われてしまったかもしれない。 ホークに対し頼りないイメージを抱いているソフィスタは、彼がウルドックの右手を捕らえてくれる可能性など、全く考えなかった。 「ソフィスタ!歯を食い縛れ!!」 格納庫の床は、既に目の前まで迫っていた。言われる前から歯を食い縛っているソフィスタは、衝撃を予想して身を固くした。 メシアはレールを強く蹴って跳び、体を宙で一回転させてから床に足を着いたが、落ちてきた勢いを殺すことはできず、そのまま床を突っ走った。 「うわっメシア、前!壁っ!」 「む・無理だ!止まれぬ!」 方向転換することも叶わなかったメシアは、ソフィスタを床に放り出し、自らは肩から壁に突っ込んだ。 格納庫内が小さく揺れ、メシアの体は壁にぶつかった反動で背中から床に倒れた。 直前で投げ出されたソフィスタは、床に落ちた時のダメージはあるが、メシアに比べると全然ましだった。 「いてて…くそっ、奴はどこだ!!」 すぐに立ち上がることができず、ソフィスタは上半身だけ起こして周囲を見回す。流石に痛かったのか、メシアは倒れたまま呻いていた。 「あ、あのう、奴って…コレのことですか?」 思わぬ所から声が上がり、ソフィスタはそちらを振り返った。 カタパルトの入り口の脇、壁に背をもたれて座っているホークの姿が、そこにあった。 どうやら、腰を抜かしているようだ。 「ホーク?お前、無事だったのか」 「無事じゃないですよーっ!!いきなり人間の手がゴロッと落ちてきて、びっくりしたんですからホントにもーっ!!」 ホークは泣き出しそうな顔でわめきながら、大げさに震える指先で自分の足元を指した。 そこには、片手に収まるほどの量の、土の塊のようなものが散らばっていた。その上には、注射器が転がっている 「うう…その声は、ホークか?無事だったのだな…」 メシアがゆっくりと立ち上がり、フラフラとした足取りでホークに歩み寄った。 「その注射器って…もしかして、ヴァンパイアカースの解呪剤が入っていたやつか?何でお前が持っているんだ?」 ソフィスタも立ち上がり、ホークに近づく。ホークはばつが悪そうに俯き、ソフィスタの質問に答えた。 「じ・実は、自警隊本部に隠れていた時、こっそり持ち出したんです。…呪いに感染するのが…怖くて…」 そういえば、自警隊本部の解呪剤のストックが一つだけ無くなっていたとザハムが言っていたことを、ソフィスタは思い出した。 多くの人が呪いに感染していく中、貴重な解呪剤をくすねてしまったことに後ろめたさを感じているのだろう。ホークの声は、徐々に小さくなっていく。 「それで、その解呪剤を…」 ソフィスタは、解呪剤が入っていた注射器と、その下に散らばる土のようなものを見下ろした。メシアもソフィスタと一緒に、それを眺める。 「これは…崩れたウルドックの体の残骸と同じものではないか。もしかして、ゴロッと落ちてきた人間の手というのは、これのことか?」 「そうそう!コレが手だったものなんですよ!いきなり手が落ちてきて、あんまり怖かったものだから、思わずこの注射器をブスッと刺したんです!そしたら何だか効いていたようだから、ブチュ〜って解呪剤を流し込んだんです!そしたら、あの手、こんなふうにボロボロになっちゃったんです!!」 メシアにに尋ねられて当時の様子を思い出したのか、ホークは興奮しながら一気に話した。 「それじゃあ、お前がヴァンパイアカースの媒体を滅ぼしたってことなのか」 「ほへ?媒体?え、コレ、媒体だったんですか?」 ホークは気づいていないようだが、ウルドックの右手を操っていたヴァンパイアカースの意思が、ホークが流し込んだ解呪剤によってかき消され、形を維持できなくなった手は、ウルドックの本体と同様に、ただの肉隗となって崩れてしまったようだ。 …もしかして、呪いに感染していた奴らが急に我に返ったのは、媒体が滅ぼされたからか? 魔法の効果は、魔法を操っている者が意識を失うと消えてしまうものが多い。ヴァンパイアカースもそれと同じで、媒体の呪いの意思が消えたことで、感染者にかけられた呪いも消えたのかもしれない。 ウルドック本体の呪いが消えた時は、感染者の呪いは消えなかったが、それはもう一体の媒体が残っていたからだろうか。 「…そうか!きっと、お前がウルドックの右手から呪いを消してくれたおかげで、皆に感染していた呪いも消えたのだな!!」 難しく考えているソフィスタとは対照的で、メシアは呪いが消されたことを単純に喜び、しゃがみ込んでいるホークの体を掴んで高く持ち上げた。 「え、そうなんですか?ボクがあの手をやっつけたら、ヴァンパイアカースが消えたんですか?」 「…まあ、そういうことになったんじゃないか?」 ソフィスタは曖昧に答えたが、メシアとホークは子供のように喜び合った。 …な〜んか腑に落ちないし、都合よく事が収まったような気もするけど…まあいいか。悪役の末路なんて、きっとこんなもんだ。 ソフィスタの頭の中では、まだ納得していないことが幾つか残っていたが、今はメシアとホークと同じように、呪いの消滅を素直に喜ぶことにした。 * 留置所に収容されていた感染者たちの呪いも解けていたという知らせは、ソフィスタとメシアが格納庫にいる間に、自警隊本部にいた隊員が届けてくれた。 ソフィスタとメシア、そしてホークの三人が、実験棟の階段を登って外に出ると、知らせを受けた自警隊員や感染していた者たちは、正門前で手を取り合って喜んでいた。 黄色のMAゴーレムの中に放置されていたカトルも、いつの間にかその集団に混じっており、戻ってきたソフィスタたちを見るなり、誰よりも早く駆け寄って、二人をゴーレムに乗って襲ったことを謝った。 さらに駆け寄ってきた自警隊員が、事件解決のために活躍したソフィスタとメシアを胴上げしようとしたが、ソフィスタは拒否し、メシアだけが胴上げされた。 ホークやアズバンたちも加わり、メシアを胴上げする中、なんとなく嫌な予感がしたソフィスタは、一人集団から離れた。 その嫌な予感は、すぐに的中した。 メシアの体が高々と宙に投げ上げられた時、彼の腰に巻かれている紺色のマントがハラリと外れ、その下に隠されていたものが露になった。 転送の魔法を浴びて服だけ転送され、前を葉っぱで隠していた時の姿となったメシアが、月や街灯の光にさらされた。 胴上げしていた人々は、思わずメシアを避け、誰にも受け止められなかったメシアの体は地面に落ち、ドスンという音を立てて、体と同じ輪郭の窪みを作った。 * 「それじゃあ、お疲れ様でしたー!」 そう言って元気よく手を振り、走り去ってゆくホークの姿を、メシアとソフィスタは校門の前で見送った。 メシアたちは、自警隊員が応援に来る前に学校で起こった出来事や、ウルドックの右手の最期の様子など、大まかな話だけ自警隊に説明し、詳しい話は後日ということで、今日はもう家に帰してもらえることになった。 学校に残っていた生徒たちは既に帰宅し、教員や自警隊員らは、まだ校内でいろいろと調べ回っている。 「…は〜。これでやっと、家に戻れるのであるな」 ホークの姿が見えなくなると、メシアは両腕を広げ、大きく伸びをした。 すると、またまた着せられた似合わなさすぎる白衣の胸のボタンが、二つほど外れて地面に落ちた。 ちなみにソフィスタのほうは、個室にあった換えの服に着替えており、汚れた服やマントは、メシアが肩から下げている鞄の中に入っている。セタとルコスも、ソフィスタが自警隊と話をしている間に戻ってきて、彼女の肩の定位置に乗っており、MAゴーレムのコクピットに置いてきた眼鏡も、忘れずに取ってきてかけている。 「バカ。これ以上あたしの仕事を増やすな」 ソフィスタに軽く叱られ、メシアは慌ててボタンを拾った。 いつものソフィスタなら、もっと声に力を入れて叱り、ついでに拳でも飛ばしてきそうなものだが、さすがにそんな元気も無いようだ。 拾ったボタンをポケットに突っ込み、メシアはソフィスタに「すまん」と謝ったが、それを無視して、ソフィスタはぶつくさ言いながら歩き出した。 「ほら、さっさと帰るぞ。明日も自警隊本部へ行かなきゃいけないし、お前の戦士の装束も返してもらうんだろ。早く帰って、早く寝て…」 校門から正面に真っ直ぐと伸びている大通りを五歩ほど進んだところで、突然ソフィスタの膝がカクンと折れ、その場にへたり込んだ。 「!ソフィスタ、大丈夫か!?」 メシアはソフィスタに駆け寄り、腰をかがめて彼女の体を支えようとしたが、片手で振り払われた。 「ちょっと、つまづいただけだ。大丈夫だよ」 そう言って、ソフィスタは立ち上がろうとするが、足に全く力が入っていない。 「…今日一日の疲れが、今になって出たのではないか?」 「仕方ないだろ。あれだけ動き回って、全然疲れた顔をしないお前のほうが異常だ」 憎まれ口は健在のようだが、自力で立ち上がることは諦めたようだ。 「何を言うか。私もそれなりに疲れておるわ」 「そうは見えねーよ。…悪いけど、やっぱり手ェ貸して」 引っ張れと言わんばかりに、ソフィスタはメシアに片手を差し出した。 「分かった。…それっ」 メシアは思い切ってソフィスタの背中と足に腕を回し、軽々と横抱きにした。 いわゆる、お姫さまだっこである。 「なっ、やめろバカ!放せ!!」 ソフィスタはメシアの腕の中でもがこうとするが、メシアはソフィスタの両手両足をガッチリと押さえ、抵抗を許さない。 「いいや放さぬ!街を救うために身を粉にして戦っていたお前を、これ以上動かせるわけにはいかぬのだ!!」 「別に街のためじゃねーよ!いいから下ろせ!」 「絶対に下ろさぬ!!それに、今日一日で何度もお前を担いでいるのだから、今さら嫌がらなくてもいいだろう」 「いや、でも、この抱き……担ぎ方だけはイヤなんだよ!」 「…何故だ?」 メシアが真顔で尋ねると、ソフィスタは口ごもり、やがて観念したのか、体の力を抜いた。 「どうした?」 「…早く歩けよ。家に帰るんだろ」 言い方はひねくれているが、メシアに抱きかかえられることを許したようだ。 メシアは黙って頷き、静かに歩き出す。 ソフィスタも何も言わずに大人しくしていたが、疲れきっていることもあって、間もなく頭をメシアの胸に預け、小さな寝息を立て始めた。 それに気づいて、メシアは立ち止まり、彼女の顔を覗き込む。 今日一日、命がけで戦い続け、やっと休んでくれた彼女の寝顔を見ると、メシアもやっと、危機が去ったことを実感し、安心できた。 普段は口の悪い彼女だが、この穏やかであどけない寝顔は、年相応の女の子らしく可愛い。 それに、人間に恐れられたことのあるメシアにとって、こうして腕の中で眠りに落ちたソフィスタには、心底救われる。 もうあのような戦いは願い下げだし、ソフィスタにも危険な目に遭ってもらいたくないが、この締めくくりは悪くない。そんなことを、メシアは思った。 「…お休み、ソフィスタ」 ソフィスタにそっと顔を近づけ、起こさないよう小さく囁くと、塞がっている両手に代わって、頬で彼女の額を撫でた。 カタパルトを滑り下りて格納庫に着いた、ちょうどその時、突然、手の甲の中央に鋭い何かを押し込まれた。 跳ね上がるように指を反らして、右手はその場に止まる。 「キミ、調子に乗りすぎ。ヴァンパイアカースの力だけで、本当に全ての人間を滅ぼせると思っているの?」 痛みに指を震わせる右手の上から、声変わりのしていない少年の声が響いてきた。 少年は床に膝を付き、手にしている注射器の針を、ウルドックの右手に突き立てている。 「無理だよ。キミが思うほど人間は弱くない。ましてや、解呪剤が発見された今となっちゃ、キミがこうなるのも時間の問題だったんだ。それに…ボクらが望む世界に、キミは存在しちゃいけない」 少年は、蠢くウルドックの指を足で踏んで押さえ、注射器の中に入っている液体を、一気に注入した。 右手に込められたヴァンパイアカースの意思が、手では出せない悲鳴を上げる。 内側から徐々に、肉や骨が粉々に散っていくウルドックの右手を、少年はクスクスと笑って見下ろしていた。 「なに、キミはちゃんと役に立ったよ。ヴァンパイアカースの感染を阻止するために、街は彼らに協力し、彼らも互いに協力し合って絆を深めた。それだけでも、蘇っても放置していた甲斐があったってことさ」 少年が足に軽く力を込めただけで、ウルドックの右手は砕け、完全に原型を失った。 靴についた肉片を、少年はうっとうしそうに振り払う。それを映している金色の瞳は、あどけない少年らしさを保ちつつも、怪しい光を宿していた。 空になった注射器を肉片の上に落とし、少年は立ち上がると、大きく伸びをした。 「さーてと、清掃員のホークに戻りますかっ」 そして少年は、床に尻をついて座り、ウルドックの右手に続いてカタパルトの向こうから降りてくる者の到着を待った。 (終) あとがき |