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ありのままのメシア 第七話


   ・第三章 赤い髪の騎士

 授賞式は滞りなく終わり、会場では立食パーティーが開かれていた。
 ソフィスタは、面識の無い人間から声をかけられたり、校長が知り合いを紹介してきたりと、うんざりするほど多くの人と挨拶を交わした。
 こういった社交の場での立ち振る舞いは心得ていたので、相手の機嫌を損ねるような態度は決して取らず、お嬢様風の言葉遣いと裏声と笑顔を保ち続けていた。ソフィスタの性格を知っている校長からは、怪訝そうな顔で見られたが、気にしなかった。
 楽士団が穏やかで落ち着く曲を演奏していることが、せめてもの救いだったが、きつい香水の香りや無駄話を作り笑顔で耐え続けるのも、そろそろ限界になってきた。
 ソフィスタは招待客たちを避けて校長に近づくと、「中庭で休んできます」と告げ、すぐに会場の出口へと向かって歩き始めた。
 もう少しで、この騒々しい会場から出られる。そう思った所で、ソフィスタは若い男に声をかけられた。
「やあ、楽しんでいるかい。ソフィスタ・ベルエ・クレメスト」
 心の中で「ゲッ」と呟き、ソフィスタは声の主を振り返った。
 そこには、メシアと同じくらいの歳の青年が、中年の男を従えて立っていた。
「まあ、ティノー王子様。お声をおかけ下さり、光栄ですわ」
 ソフィスタは、アーネスでの口の悪さからは想像もできないほど優雅なお嬢様口調で、あの無愛想からは想像もできないほど可憐に微笑み、スカートの裾をつまんで恭しく頭を下げた。
 ヒュブロの王族の正装を身に纏い、腰のベルトに短い錫杖を差している、この青年こそ、療養中の王に代わって国を治めているヒュブロの王子、ティノーなのである。
 種族の違う者同士が子を授かるケースは、ごくまれで、その少ない成功例の末裔がティノーであるわけだが、外見は全く人間と同じで、それもかなりの美青年であった。
 フワリとした金髪、少しタレ目だが端正な顔立ち、王族らしい優雅な立ち振る舞い…などなど、正に王子様と呼ぶに相応しい。
 しかしソフィスタにとっては、女性の理想の王子様を絵に描いたようなティノーの容姿など、どうでもよかった。
 …くそっ!よりによって、一番会いたくなかった奴が来やがった!!
 尊敬の念のカケラも無いことを思われているとは露知らず、ティノーは柔らかい微笑みを湛えていた。
「そう固くならないでくれ。あ、こちらは私の叔父上だ」
 ティノーは、隣に控えている中年の男性を紹介してきた。ソフィスタは頭を上げ、背筋を伸ばして中年を見る。
「初めまして。ハバル・レユリオン・ヒュブロです。ヴァンパイアカースの件でも、貴女のお名前は耳にしております」
 ティノーの父…現ヒュブロ王の弟にあたるハバルの名は、ソフィスタもヒュブロに来る前から知っている。城下町でも評判が良く、会場でも紳士的であった。
 人間不信で他人に対する関心も薄いソフィスタにとっては、ハバルの評判がよかろうが紳士的であろうが、内心どうでもよかった。しかし、ここは社交辞令で「わたくしも、ハバル様はとてもお優しく、ご立派なお方と、お噂を聞いておりますわ」などと、適当にお世辞を言っておいた。
「ああ。それに叔父上は、何度も私の命を救ってくれた。初めてテロリストに襲われた時も…」
「王子、おやめ下さい」
 誇らしげにハバルのことを紹介していたティノーだが、当のハバルに小声で注意され、口を噤んだ。
「っと、すまない。こんな所でテロリストの話をするのはやめよう。失礼した」
 そうソフィスタに謝るティノーの声は、疲れているようだった。
 何度も命を狙われていれば、気が滅入るのは当然だろう。それでも招待客を不安がらせまいと、柔らかな笑顔を保ち続ける心がけは立派である。
「今夜は楽しんでいってくれたまえ。それじゃ、また後で」
 ティノーは軽く手を振って、ハバルと共にソフィスタから離れた。ソフィスタは、二度と来るなと願って笑顔を作り、会場の中央へと進む彼らを見送った。
 やがて人ごみに紛れて二人の姿が見えなくなると、ソフィスタは肩の力を抜いた。
 …やれやれ。わりと早く開放されて、よかった。
 ホッと一息つくと、ソフィスタは、今度こそ会場を出るべく、ちょうど開け放たれていた出口の扉をくぐった。


 *

 城内の構造は、城に入ってすぐ見つけられた案内板で、ほぼ把握している。
 会場を出てから、ソフィスタは中庭へと向かって、迷うことなく歩いていた。
 外の空気を吸えば、会場内で悪くなった気分も、落ち着くだろう。とにかく閉会まで中庭で時間を潰そう。そう考えながら歩いていると、廊下に面している扉の片側だけ開け放たれている様子が、前方に見えた。
 扉の脇には一人のヒュブロ兵が控えており、扉の奥からは、女性の話し声が聞こえた。
「ステキ…家にある肖像画で見るよりも、こっちの肖像画のほうが、ずっとハンサムだわ…」
「ティノー様は、お優しくて爽やかな美青年だけれど、この方は凛々しくて頼もしそう!」
 誰のものかは分からないが、彼女たちは、男の肖像画を見ているようだ。扉の向こうは展示室にでもなっているのだろうか。
 歴代のヒュブロの王か、はたまたヒュブロに名を残した偉人か。どちらにしても、ハンサムであろうが凛々しかろうが、肖像画などソフィスタの興味の対象ではない。
 ソフィスタは、ヒュブロ兵に軽く会釈だけして、扉の前を通り過ぎる。
 それから間もなく、扉の向こう側にいた女性たちが廊下に出てきたようで、二つのヒール音と話し声が後ろのほうで響いた。
「はぁ〜…できれば、あのお方と同じ時代に生まれたかったわ」
「でも、あの頃はヴァンパイアカースが猛威を振るっていたというじゃない。そんな時代でもいいの?」
 ヴァンパイアカースという単語に反応して、ソフィスタは立ち止まった。
 …ヴァンパイアカースが猛威を振るっていた頃って…?
 ソフィスタが後ろを振り返ると、ドレス姿の二人の女性が、ソフィスタとは逆方向へ、お喋りをしながら歩いていた。
 扉の脇にいるヒュブロ兵だけがその場に残り、彼は二人の女性を見送った後、開いているほうの戸を閉めようとした。
「あの、お待ち下さい」
 ソフィスタは扉のもとへと引き返し、ヒュブロ兵に声をかけた。ヒュブロ兵は、戸を半分ほど閉めたところで止める。
「こちらでは、どなたの肖像画が飾られているのですか?」
 そう尋ねると、ヒュブロ兵はすぐに答えた。
「ヘロデ王国の聖なる王の肖像画でございます。模写ではありますが、原物と同じ大きさで描かれております」
 ソフィスタは、心の中で「やっぱり…」と呟いた。
 ヴァンパイアカースが猛威を振るっていた時代の人物で、現在も肖像画として残されている者と言えば、真っ先に挙がるのは聖なる王である。
 ヴァンパイアカースの恐怖から世界を救った彼は、当時の王宮画家の手によって肖像画として描かれ、その原物はヘロデ王国に保管されていると、アーネスの授業でも教わったことがある。
 小さいサイズの模写ならアーネスにもあるし、歴史の授業で使う教科書にも刷られているので、ソフィスタも聖なる王の顔を見たことはあるのだが、顔などどうでもいいと思っていたので、ハッキリとは覚えていなかった。
「よろしければ、お入りになってご覧下さい」
 ヒュブロ兵が、親切にも閉めかけた戸を全開にして、そう勧めてきた。
 …聖なる王について、調べたいと思っていたところだし、顔もちゃんと覚えておいたほうがいいだろう。原物と同じ大きさの絵なんて、めったに見れるものでもないしな。
 そう考え、ソフィスタはヒュブロ兵に礼を言って、扉をくぐった。
 そこは、やはり展示室になっていた。天井が高く、清潔感のある白い壁に囲まれた部屋で、聖なる王の肖像画は、入って真正面の壁に飾られていた。
 見物人が近づきすぎないよう囲いが設けられているので、模写でもそれなりに価値はあるのだろう。
 他にも、昔ヒュブロで使われていた旗や、他所の国から寄与された品などが展示されているが、肖像画は、聖なる王のものだけである。
 …これが、聖なる王か…。
 金色の額縁に囲われ、頭から胸のあたりまで描かれている。実際の体の大きさの四倍は拡大して描かれているので、眼鏡を外していても、服の細かい装飾まで見えた。
 代々ヘロデ王に受け継がれている、赤い冠。
 正当なヘロデ王の証である、十字の紋入りのマント。
 スッと通った鼻筋に、キリッとした目。凛々しく整えられた顔立ちは、ティノーのような美形とはまた違った、力強い美しさがあった。
 ティノーが、絵に描いたような「王子様」なら、こちらは正真正銘の「王」といった感じである。堂々と正面を見据え、口元に静かな笑みを浮かべている、その様は、自信と威厳に満ちていた。
 先程の二人の女性が話していた通り、確かに凛々しくて頼もしそうである。
 …見たところ、年齢は三十代前後ってところかな。ティノー王子みたいにヒョロっちい感じがしないのは、年季の差かね。
 ソフィスタは、聖なる王の姿を隅々まで眺め、細かい特徴などを覚えると、それ以上は観察せずに、肖像画に背を向けた。
 …まあ、今の女から見れば、確かにいい男のようだね。
 男の外見の良し悪しくらい、ソフィスタも区別をつけられる。しかし、あまり興味は無いので、他の人間と見分けがつき、なおかつ特徴を覚えさえすれば、それ以上は眺めていても無意味だと思った。
 …さっきの二人の女みたいに、また肖像画を見に来るやつがいるかもしれないから、さっさとここを出よう。
 履きなれないローヒールの踵を鳴らして、ソフィスタは展示室を出ると、扉の脇に立ち続けているヒュブロ兵に軽く頭を下げ、再び中庭を目指して廊下を歩き始めた。


 *

「…な、なんだって!?」
 ソフィスタが会場を出てからも、談笑を楽しんでいた校長は、焦っている様子で近づいてきたアズバンから告げられた言葉に驚かされ、思わず聞き返してしまった。
 アズバンは、校長に話したことを復唱する。
「ヒュブロの兵と騎士の中に、フルムーン一味の者が紛れていました。確認できたのは二人だけですが、会場の外が妙に静かだったことも気になりますし…他にも何人か潜んでいるかもしれません」
 他の招待客に聞かれるとパニックになりそうだし、どこにテロリストが潜んでいるかも分からないので、アズバンは校長にしか聞こえないよう小声で話した。
「ところでパパ。ソフィー姉様は?それと、ティノー王子様は?」
 校長の服の袖を摘んでいるプルティもまた、小声で尋ねる。
「それが、中庭で休んでくると言って会場を出たきり、まだ戻っておらん。王子は…」
「中庭ね!それじゃあ、プルティが呼んでくる!」
 校長の話を最後まで聞かず、プルティは会場の出入り口へと引き返した。
 出入り口の扉は、すぐ近くだったが、その扉の取っ手を掴もうとするプルティの手は、ヒュブロ兵によって阻まれてしまった。
「お客様。間もなく、ティノー王子様とハバル様のスピーチが始まります。申し訳ございませんが、会場の中でお待ち下さい」
「でもっ、プルティは外に行って…」
 ソフィスタを探しに行くのだと、プルティはヒュブロ兵に言おうとしたが、その前に、後ろからニュッと伸ばされたアズバンの手が口を塞ぎ、それを止めた。
「外に出たくてもガマンしなさい。さ、校長のところへ戻ろう」
 そう言って、アズバンはプルティの口を塞いだまま、彼女を校長のもとへ連れ戻した。
「ソフィスタくんが外にいることは、秘密にしておこう。彼女なら外から我々をサポートしてくれるだろうし、あのヒュブロ兵もテロリストだったら、ヘタに我々の情報を教えるわけにはいかない」
 アズバンに耳元で囁かれると、もがいていたプルティは抵抗を止め、こくんと頷いた。
「だが、外からサポートするにしても、この状況を伝えに行かにゃならん。王子とハバル様も、少し前に会場を出たようだが、今はどこにいるのか分からん。…何を企んでいるのか知らんが、フルムーンの連中が動き出す前に、何とかしなければ…」
 校長は、帽子を押さえながら俯き、う〜んと唸った。アズバンから解放されたプルティも、校長の視線を追うように俯いて、困った声で呟く。
「こういう時こそ、魔法が役に立つのに…」
 テロ対策として設けられた、魔法を封じる装置『ヴォイド』が、こんな所で裏目に出るとは、誰も思っていなかったことだろう。
 普段、魔法力が高いぶん、いざ魔法が使えなくなると、その不安は人より大きくなるのかもしれない。校長とプルティの声には、力が全く感じられない。
 それを励まそうと、アズバンは明るい声を発した。
「そう暗くならないで下さい。魔法は使えなくても、こちらには頼れる友達がいるのですから」
 アズバンは、近くにずっと突っ立っていた男の腕を引いた。
 校長は、顔を上げる。
 ヒュブロの騎士の礼装と長身が目立つ青年が、アズバンに腕を掴まれて立っている。校長は青年を見上げ、アズバンに「彼は?」と尋ねた。
「だから、頼れる友達ですよ。招待客は会場から出られないようですが、彼なら外に出してもらえるかもしれません。大丈夫。彼は強いし、信頼できる男です。ねっ」
 騎士服の青年は、アズバンに背中を軽く叩かれ、少し照れたように微笑んだ。
「…そうか。アズバン先生が、そう言うのなら…」
 校長は青年の顔をじっと見つめる。隣にいるプルティも青年を見上げているが、彼女の目は機嫌が悪そうに吊り上っていた。
「じゃあ、ソフィスタくんは、君が探してきてくれ。それと、もしティノー王子を見つけたら、テロリストが紛れ込んでいることを伝えてくれ」
 アズバンは、もう一度、騎士服の青年の背中を叩くと、「頼んだよ」とウィンクしてみせた。
 騎士服の青年は、力強く頷くと、アズバンたちから離れ、会場の出入り口へと向かった。


 *

 はっと目を覚まして体を起こし、空を見上げると、青白い光を帯びた満月が、星々に囲まれて輝いていた。
 …フルムーン…満月…か。
 反王子派テロ組織フルムーンが、王都ヒュブロのどこに潜んでいるか分からない、この状況では、美しい満月からは不吉な予感しか感じられない。
 中庭に来てから、適当なベンチに腰掛け、特にすることもなくぼんやりとしていたら、転寝をしていたようだ。外に出た時はおぼろげにしか見えていなかった満月が、今はくっきりとした円を描いている。
 じっと月を見上げていると、そよそよと冷たい風がドレスとストールを揺らし、ソフィスタは小さく身を震わせた。
 どれくらい転寝をしていたのか分からないが、そんなに時間は経っていないはずだ。時間も確認したいし、そろそろ会場へ戻ろう。そう思って、ソフィスタは立ち上がり、中庭を後にした。

 会場へと向かって歩いていると、中庭へ向かって歩いていた時と比べ、人の数が少なくなっていることに気付いた。
 …そういえば、閉会式の前に、ティノー王子とハバル様のスピーチがあるんだっけ。
 会場の外を出歩いていた招待客は、スピーチの時間に間に合うように戻ったのかもしれない。
 それにしても、警備兵の数まで減っているのはなぜだろう。まさか、持ち場を離れて会場へ向かったわけではあるまい。
 不信に思いながら歩き続け、やがて、誰もいない通路に出た。
 次の右の通路を曲がって真っ直ぐ進めば、広いホールに出る。そしてホールの中央にある階段を上ってすぐ左の扉から、会場に戻れる。
 まだ距離があるなと、会場までの道順を思い出しながら歩き、右に曲がる通路に差し掛かったので、体の向きを変えようとした。
 その時、突然ソフィスタの視界が暗くなった。
「えっ?」
「うわっ!!」
 次の瞬間、何者かが勢いよくぶつかってきた。ソフィスタは後ろに飛ばされてしまう。
「あうっ!」
 床に背中を打ちつけ、ソフィスタは悲鳴を上げた。
「あ、も・申し訳ございません!」
 ぶつかってきた人物は、おたおたとソフィスタに右手を差し出した。
「いって〜っ…廊下を走るなって言われた経験…」
 そう言いかけて、ソフィスタはハッとして口を噤んだ。
 アーネス魔法アカデミーの廊下でメシアと出会った時も、こうやって彼からソフィスタにぶつかってきた。その時のことを思い出したせいか、ヒュブロ城内では裏声とお嬢様口調で礼儀正しく振舞っていたソフィスタだが、つい地声を発し、口調もセリフも、あの時と全く同じになってしまった。
 ソフィスタは倒れたまま、頭だけ上げる。
 白い手袋をはめた大きな右手から視線を辿らせていくと、袖口に施されている二羽の白鳥の刺繍が見えた。
 腰のベルトに長剣を差し、左胸にはヒュブロの国章のバッヂが取り付けられている。
 金色で縁取られた白い服は、ヒュブロ城に入ってから何度か見かけた、ヒュブロの騎士の礼装のものであった。
 大きな手と声からして、男であることはすぐに気付いた。体も大きく逞しく、服越しでも筋肉の膨らみが分かった。メシアといい勝負かもしれない。
「いいえ、わたくしこそ、よく前を見ずに歩いておりましたわ。ごめんなさい」
 ソフィスタは声を裏声に戻し、口調も変えて、騎士に謝った。
 心の中では「痛ェだろうが!気をつけやがれ!!」と思っていたが、それが顔に表れないよう笑顔を作り、差し出された手を掴んで上半身を起こした。
 そして、視線を上へとずらし、騎士の顔を見た時…。
 …あれ?
 心の中で何かがひっかかり、ソフィスタは騎士の顔を見つめたまま、動きを止めた。
 スッと通った鼻筋に、キリッとした目。顔立ちは全体的に凛々しく整えられ、その輪郭をなぞる髪は、静かに流れる川のように真っ直ぐと長く、夕日のように鮮やかな赤い色をしている。
 眉と耳は、額に巻かれた緑と黄色の縞模様のバンダナによって、半分以上隠されている。
 そして、髪と同色の赤い瞳。ソフィスタの視線は、その瞳に吸い寄せられる。
 …この人の顔、何か見覚えがあるような…。
 赤い髪の騎士をボンヤリと見つめていると、彼はソフィスタの手を掴んだまま立ち上がり、グイッと引いた。
 ソフィスタを立ち上がらせようとしたのだろうが、ボーッとしていたソフィスタは、勢い余って前へと倒れそうになった。
「おっと、危ない」
 赤い髪の騎士は、つんのめったソフィスタの肩を掴んで、彼女の体を支えた。そして「大丈夫ですか?」と顔を覗き込む。
 ソフィスタは、まだボーッとしている。それを妙に思った赤い髪の騎士が、ソフィスタに少し顔を近づけて「あの、お客様?」と声をかけてきたところで、ソフィスタはやっと我に返った。
「えっ?あ、いえっ、だだだ大丈夫ですわっ」
 支えられていた体に自力でバランスを取り戻すと、ソフィスタは、裏声をさらに裏返らせたような声を発してしまった。
 変に思われてしまったかと心配したが、赤い髪の騎士は特に気にしている素振りは見せず、ソフィスタの肩を掴む手を、そっと離した。
 掴まれていた時の感触が、やけに強く残っているような気がする。それに、何故か頬が熱を帯び、心臓もいつもより速く脈打っている。
 見覚えがあると思ってジロジロと見ていたら、赤い髪の騎士が顔を近づけてきたので、それに驚かされたのだろう。そう、ソフィスタは自分の身に起こっている症状に説明付けると、後ろに一歩引いて彼から離れた。
「では、失礼致します」
 ソフィスタは、一歩おいた距離を保ちつつ、右に回りこんで赤い髪の騎士の隣を横切ろうとした。
「お待ち下さい!」
 しかし、赤い髪の騎士に腕を掴んで止められ、ソフィスタはビクッと体を震わせた。
 腕を掴んで呼び止められただけで、こんなにも動揺するものなのだろうかと不思議に思いつつ、赤い髪の騎士に「何か?」と極力落ち着かせた声で尋ねた。
「その、実は、探している者がいるのですが、名前は…」
「おや?君たち、こんな所で何をしているんだ?」
 不意に、別の男の声が聞こえた。ソフィスタは声が聞こえたほうを振り返り、赤い髪の騎士も、ソフィスタの腕から手を放し、同じ方向に顔を向ける。
 ソフィスタが歩いてきた廊下側から、二人の近衛兵を従えたティノーが近づいてくる。
 会場ではあまり会いたくなかった人物だが、何故か今は、彼らが来たことで救われたような気持ちになった。
「これは王子様。先程まで中庭で休ませて頂いておりましたので、これから会場へ戻るところですわ」
「そうか。私も、そろそろ会場へ戻ってスピーチを行わなければいけないので、君も遅れないようにな。…ああ、そこの騎士。彼女を会場まで送ってあげたまえ」
 そう言って、ティノーは二人の近衛兵と共に、ソフィスタと赤い髪の騎士の横を通り過ぎようとしたが、また赤い髪の騎士が「お待ち下さい王子!!」と言って、今度はティノーを呼び止めた。
 ティノーは立ち止まって、赤い髪の騎士を振り返り、「何だね」と尋ねる。
 赤い髪の騎士は、二人の近衛兵とソフィスタを交互に見て、何やら迷っていたようだが、やがてティノーに跪き、頭を垂れた。
「申し上げます。城内にフルムーン一味の者が紛れ込んでいる恐れがございます」
 赤い髪の騎士の発言は、ソフィスタやティノーに衝撃を与えた。
「なんだって!?どこでそれを!」
 ティノーに問われた赤い髪の騎士は、顔を上げて答える。
「城門前にいた兵士と騎士が、フルムーンに加担する者でした。二人は、城壁の影に拘束して隠されております。しかし、内部の者にまでテロリストの手が及んでいるとなると、その二人だけで済むとは思えませぬ」
 ソフィスタとティノー、そして二人の近衛兵は、赤い髪の騎士の説明を、戸惑いながらも聞いていた。
 説明を聞き終えると、ティノーは、深刻そうな顔で「ううむ」と唸り、少し何やら考え込んでから、赤い髪の騎士に言った。
「…そうか。だが、君の話だけでは信用できない」
 ティノーの言葉に、赤い髪の騎士は「えっ?」とでも言いたげに瞬きをする。
「テロリストのことは、私も警戒している。兵士や騎士を全て把握しているとは言い切れないので、裏切り者や、城の者に扮したテロリストがいる可能性も、確かにゼロではない。だが、その可能性なら君にもあるということだ」
 ティノーの厳しい言葉に、赤い髪の騎士は、困った顔をする。
 信用できないということは、この赤い髪の騎士は、あまりティノーとは顔を合わせることがないのだろうか。
 もしかしたら、騎士に昇格したばかりの者かもしれない。そう考えると、赤い髪の騎士から、どこか初々しさが感じられるような気がする。
「ですが王子様。この方がフルムーン一味の者なら、なぜ仲間が潜入していることを、王子様に伝えているのでしょう」
 赤い髪の騎士の困っている様子を見かねたからか、ソフィスタは自然と口を開き、ティノーにそう言った。
 ティノーと赤い髪の騎士は、ほぼ同時にソフィスタを見る。
「王子様を撹乱させるために、そう言ったのだとしても、調べる余地はあるはずですわ。もしかしたら、この方の発言を証明できる者がいるかもしれません」
 言い切ってから、なぜ人間不信の自分が、初対面の人間を庇うように喋っているのだろうと思った。
 ティノーの言っていることは、間違いではない。自分が言ったことも、間違っているとは思わない。互いに、あくまで可能性を挙げているだけだ。
 しかし、そういう理屈抜きに、この赤い髪の騎士は信じられる人間だと、どこかで感じている。
 見覚えのある顔だからだろうか。だが、初対面であることは確かなはずだ。
「…そうだな。では、君。テロリストを捕らえたということを証言できる人間は、いるか?」
 ソフィスタが悩んでいると、その間に考えをまとめたティノーが、赤い髪の騎士に尋ねた。
「はっ。アーネス魔法アカデミーの教師アズバンと、校長の娘プルティが、会場におります。テロリストを捕らえたのは、その二人でございます」
 知っている人間の名前を出され、ソフィスタは思わず「えっ?」と呟いてしまった。
 …アズバン先生、もう会場内にいたのか。でも、何でプルティまで一緒に来ているんだ?
 おそらく、アズバンの見送りとして城の前まで来たが、テロリストの件があって、ドサクサに紛れて入ってきたのだろう。
 だとしたら、メシアもプルティと一緒に見送りに来ていてもいいはずだ。彼は今、どこでどうしているのだろう。
 …いや、今は、そんなことを考えている暇は無い。
 メシアのことを頭から振り払うと、ソフィスタはティノーに話しかけた。
「アズバンとプルティのことでしたら、わたくしが知っておりますわ。わたくしでよろしければ、会場へ確認して参りますので、王子様は会場の外でお待ち下さい」
 それを聞いて、ティノーは「そうだね。分かった」と頷き、近衛兵の一人に「彼女を会場まで送ってさしあげたまえ」と命じた。
 近衛兵の一人は、はソフィスタに近づき「会場までお送り致します」と手を差し出してきた。ソフィスタは一瞬躊躇したが、近衛兵の手に自分の左手を手に重ねた。
 すると、近衛兵はソフィスタの左手を強く掴んで引き、ソフィスタがつんのめった所で背後に回り、彼女の首を右腕で捕らえた。
「お・おい、何をしているんだ!!」
 もう一人の近衛兵が、ソフィスタを捕らえた近衛兵に近づこうとしたが、それより早く、ソフィスタの首に短剣の切っ先が突きつけられた。
「動くな!この女の首が跳ぶぞ!」
 ソフィスタは息を呑み、ティノーたちも動きを止める。
「なっ…どういうことだ!今すぐ彼女を放せ!!」
 ティノーにそう命令されても、ソフィスタを捕らえた近衛兵は、ティノーを鼻で笑い、剣の腹をソフィスタの頬に押し当てた。
「お分かり頂けませんか?残念ながら、私もフルムーン一味の者、反王子派テロリストなのです」
 ティノーと、ティノーの脇にいる近衛兵は、その言葉にひどく驚かされたようだ。しかし、赤い髪の騎士は、その二人ほど驚きはせず、テロリストと名乗った者を、じっと睨む。
「そんなバカな!君がテロリストであるわけがない!君は、父上の代からの近衛兵ではないか!」
「ああ。だから好都合でしたよ。ティノー様は、私がテロリストであることを見破れず、信頼しきって、この少女を任せた。…やはりあなたは、王位を継ぐに相応しくない」
「貴様ぁ!!ティノー様になんてことを!!」
 ティノーの隣にいる近衛兵が、そう叫んで剣の柄を握ったが、テロリストがソフィスタの髪を掴んで引き、その白い首筋に刃を添えたので、近衛兵はピタッと動きを止めた。
 ぞっとするほど冷たい鉄の感触が伝わり、ソフィスタは微かに身を震わせる。
「さて、ティノー様。そろそろスピーチを始める時間ですよ。会場に戻り、何事も無かったようにスピーチを行って下さいますね?そこの二人も、会場に戻れ!」
 テロリストは、ティノーと近衛兵、そして赤い髪の騎士に、そう指図した。
 …スピーチを行えって…どういうことだ?
 このテロリストは、ティノーの父親である現ヒュブロ王の代から近衛兵として仕えていると、ティノーは言った。それが何故フルムーンに加担しているのかは知らないが、ティノーの信頼が厚かったことは、彼の驚きようからも読み取れる。
 それだけティノー王子に気を許されている人間がテロに加担しているのに、何故王子暗殺に何度も失敗しているのだろうか。
 …単純に王子の運がよかっただけかもしれないけど、この受賞式典で、テロの首謀者が何かを企んでいることは確かのようだね。
 魔法が使えない上に、首に刃物を突きつけられているにも関わらず、こうやって落ち着いて頭を働かせられることを、ソフィスタは自分でも驚いていた。
 魔法生物やらヴァンパイアカースやらを相手に、命がけの戦いを経験したからだろうか。恐怖を感じなかったわけではないが、今になって思い出してみると、自分でもよく戦えたものだ。
 だが、あの戦いの中で、例え離れていても共に戦っていると感じていた存在が、今回はいない。
 メシア。彼の強さは、魔法が使えない今こそ、誰よりも頼れる存在となったであろうに。
 …プルティは会場に入ることができたみたいだけど、メシアは無理だったみたいだな。
 明らかに強そうで目立ち、城に入っただけでも騒ぎを起こしそうなメシアのことを、赤い髪の騎士は話さなかった。少なくとも、城の中にはいないだろう。
 今回ばかりは、メシアの力を借りられないかもしれない。常識外れで問題の多い男だが、魔法生物やヴァンパイアカースとの戦いの中で、何度もソフィスタを助けてくれた彼の力が借りられない思うと、もっと不安を感じてもいいはずだ。
 …でも…何だろう。アイツがいなくても、心強い何かを感じる…。
 ふと、赤い髪の騎士の姿が、ソフィスタの瞳に映った。
 ソフィスタを人質に取られているにも関わらず、彼は全く動揺していないように見える。じっとテロリストを睨みつける、その様は、堂々としているように感じた。
 人質のことなど気にしていないようにも取れるが、それでも不快にはならない。むしろ、安心するような、そんな気さえする。
「おい、何ぼけっとしているんだ!さっさと会場に戻れ!!」
 その場で迷っていたティノーたちに、業を煮やしたテロリストは、短剣の切っ先をティノーに向け、そう怒鳴った。
 ソフィスタの首筋に添えられていた刃が離れた。そう脳が認識した瞬間、ソフィスタは片足をスカートの中で振り上げ、踵を思い切りテロリストの脛に、抉るように叩き込んだ。
「あがっ!!」
 レースを重ねたスカートの上からだが、ローヒールの踵の威力はテロリストに悲鳴を上げさせた。テロリストは、思わず顔を下に向ける。
 そのため、悲鳴が上がると同時に身を低くして迫って来た者に、気付くことができなかった。
 状況を把握できていないままのテロリストの両腕が掴まれ、強く引かれた。
 前につんのめったテロリストが顔を上げると、その顔面に、赤い髪の騎士の頭突きが入り、ゴッという音が響いた。
 テロリストは、握っていた短剣を手放してしまう。床に落ちた短剣は、解放されたソフィスタに軽く蹴られ、壁際まで滑走していった。
「せぇいっ!」
 ソフィスタがテロリストから離れた直後、赤い髪の騎士がテロリストの足を払った。テロリストがよろめいたところで、赤い髪の騎士は素早くテロリストの背後に回り込み、テロリストの両腕を押さえつけながら床にねじ伏せた。
 膝を内側に折り曲げた状態でねじ伏せられたため、テロリストは自分の膝が腹に食い込み、「ガハッ」と咳き込んで床に唾を散らす。
 赤い髪の騎士は、片手でテロリストの両腕を押さえつけているが、テロリストがもがこうとしても、びくともしなかった。
 …すごい…。あの人、強いじゃないか。
 騎士という立場と、体の逞しさからして、強そうだとは思っていた。だが、彼はただ腕力があるだけではなかった。
 ソフィスタがテロリストの脛を蹴ってすぐ、赤い髪の騎士は動いていた。その素早い判断とタイミングの良さに、ソフィスタは感心する。
「お客様、お怪我はございませんか?」
 そう言ってソフィスタを振り返った赤い髪の騎士と目が合い、ソフィスタは何故か慌てて視線を逸らし、「いいえ」と答えた。
「君、よくやってくれた!」
 ソフィスタの無事が分かると、ティノーは安心したように微笑んで、赤い髪の騎士に近づいた。ティノーと同じく、為すすべなく立ち尽くしていた近衛兵も、少しばつが悪そうな顔をしてティノーに続く。
「ぐ…ちくしょう…」
 テロリストは、抵抗しても無駄だと悟ったようで、力を抜いて項垂れた。そんなテロリストを、ティノーが見下ろす。
「…まさか、信頼している近衛兵に、フルムーン一味の者がいたとは…。どうやら、テロリストが兵や騎士に紛れているという話は、本当のようだね。他に何人、テロリストが紛れているんだ?君たちは、一体何を企んでいるんだ」
 静かだが厳しい口調で、ティノーはテロリストを問い詰めた。しかし、テロリストは押し黙っている。
 …ダメだな。あれじゃ、完全にナメられている。
 まだ若く、王位も継承していない王子の言葉には、あまり力が無いようだ。
 仕方がない、と思いつつ、ソフィスタはティノーに「ちょっとよろしいでしょうか」と声をかけた。
「わたくしに、このフルムーン一味の者に質問をさせて下さいませ」
「え、ああ、かまわないが…」
 ティノーは一歩横に移動し、ソフィスタに場所を譲った。ソフィスタは「恐れ入ります」と頭を下げてから、ティノーが立っていた位置に移動する。
「では、お伺いさせて頂きますわ。あなた方は、いつ行動を起こしますの?」
 まだ何かを企てていると言っていないのに、いきなりそう尋ねられて、テロリストは少し驚いたようだが、何も答えなかった。
 しかし、最初から答えを得られるとは思っていなかったので、一度尋ねただけで次の質問に移った。
「では、王子様と共に行動をしていたからには、行動開始の合図は王子様にあるということで、よろしいですわね?例えば…これから行うスピーチとか…」
「い・いや、それは違う…」
 やっとテロリストが口を開き、ソフィスタの話を否定した。するとソフィスタは、微かに口の端を吊り上げ、ティノーたちにこう言った。
「おそらく会場内に、既にフルムーン一味の者が潜入しております。それも複数ですわ。そして王子様のスピーチの始まりか終わりに、テロリストたちは行動を起こすでしょう。もしかしたら、式典の招待客を人質に取るつもりかもしれません」
「おい、何でそう言いきれるんだ!!」
 テロリストが声を荒げ、体を起こそうとしたが、赤い髪の騎士の力には敵わず、体を少し揺さぶった程度にしか動けなかった。
 ソフィスタは、睨みつけてくるテロリストに対し、余裕に微笑んで見せた。
「間違っていることを、わざわざ教えて下さるなんて、おかしいですもの。ですから、ちょっとカマをかけてみたのですが…その様子からすると、わたくしの推測は、ほぼ当たっているようですわね」
 わざわざ受賞式典に潜入しているからには、式典に乗じて何かをしでかそうとしていることは、すぐに予想できる。
 そして、せっかく会場内には招待客が集められているのだから、人質として利用しない手は無い。むしろ、そのつもりでテロを企てているはずだ。
 そして受賞式典は、王子のスピーチの後に閉会する。招待客やティノーが会場に集まるタイミングは、もうスピーチの前か後にしか残されていない。
 と、そこまで予想はできても、あくまで予想の範囲内。だからソフィスタはテロリストにカマをかけ、自分の考えに確信を持たせたのだった。
 テロリストは、悔しそうに歯噛みをしている。
 …なめんなよ。こっちはメシアが来る前まで、もっと口の達者な詐欺師と何度も話していたんだ。
 そう口に出して、このテロリストを馬鹿にしてやりたかったが、王子の前でもあるし、ソフィスタは猫を被り続けた。
 ふと、テロリストを見下ろす視線を少し上にずらした時、赤い髪の騎士が、じっとソフィスタを見つめていることに気がついた。
 少し不思議そうにソフィスタを見つめる彼の瞳に、ソフィスタの鼓動は速まり、息が零れそうになる。
「そうか。会場内にテロリストがいるとなると、招待客の身が危険だ」
 そう呟くティノーの声が聞こえたので、ソフィスタは「そうですわね」と相槌を打ち、赤い髪の騎士から意識を逸らす。
「とにかく、テロリストたちの行動がハッキリとしない以上、下手に行動はできないな。…悪いが、君も手伝ってくれないか?」
 ティノーにそう協力を申し出られ、ソフィスタは少し考えた。
 正直言うと、ソフィスタは面倒臭いと思っていた。ソフィスタにとっては他人であるティノーが、テロリストに命を狙われていると知った時も、関係ないと思っていた。
 しかし、その命を狙われている人間が目の前にいると、流石に見捨てらるほど冷酷ではない。
 それに、赤い髪の騎士に今も見られていると思うと、何故か冷たいことが言えなくなる。
 …なんなんだよ、この騎士は…。でもまあ、ここで自分の株を上げて王子に恩を売っておけば、都合のいいこともあるかもしれないし…仕方ないか。
 あまり乗り気ではないことを悟られないよう、ソフィスタは力強い笑顔を作り、「もちろんですわ」とティノーに頷いた。


  (続く)


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