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ありのままのメシア 第七話


   ・第六章 初恋の大打撃

 柔らかい土の感触がローヒールの底を通じて伝わり、肌を冷やす空気を感じて、ソフィスタは城の外に転送されたのだということが分かった。
 閉じている目蓋の向こうから光が感じられなくなると、ソフィスタは目を開き、瞳に城の中庭の景色を映した。
 夜空には、くっきりとした満月が輝き、中庭を青白く照らしている。
「さあ、こっちへ来い!!」
 すぐそばから声が聞こえ、腕を荒々しく掴まれた。一緒に外に転移してきたハバルの存在を思い出し、隣を振り向くと、そこには確かにハバルがいた。
 ソフィスタを人質にするつもりで、会場からさらってきたのだろうが、ソフィスタは、そうと分かって大人しくなるような性格ではなかった。
 弱い魔法で、ハバルの手に静電気が走ったような痛みを与える。
「ぐおっ…」
 痛みでハバルの力が緩んだ隙に、ソフィスタはハバルの手を振り払い、ドレスのスカートの裾を持ち上げて足払いを放った。
 こんなドレス姿の少女に、まさかここまで抵抗されるとは思っていなかったハバルは、まともに足払いを喰らって、あっさりと地面に突っ伏して倒れた。
 さらにソフィスタは、ローヒールの踵を後頭部にねじ込もうとしたが、その足が振り下ろされる前に、ハバルの左手の三つの指輪の内、白い宝石の指輪が煌いた。光に気付いたソフィスタは足を引っ込め、後ろに下がって大きく距離を取った。
 白い宝石から、会場に現れた黒い毛の魔獣と同じように、白い毛の魔獣が出現した。白の魔獣は、ハバルをまたぐようにして地に足を着き、地響きを立てた。
 …白い魔獣!?あの野郎、もう一匹魔獣を隠し持っていやがったのか!
 低い唸り声を上げ、狂気に満ちた赤い双眸でソフィスタを睨みつける白の魔獣の姿に、ソフィスタは背筋にそって血液が逆流するような感覚を覚えた。
 鋭い牙と、土にめり込んだ爪。普通の人間よりはるかに大きな体。かつて戦争に用いられていたくらいなのだから、それなりの持久力や魔法への耐性もあるだろう。
 圧倒的に、ソフィスタのほうが不利である。
「うぐ…くそっ、どこまでも歯向かいやがって!」
 ゆっくりと立ち上がるハバルの顔や服は土で汚れ、紳士的な態度をかなぐり捨てた口調と目つきには、もはや品位のカケラも無かった。
「ハバル様こそ、もう諦めてはいかがでしょう。会場に放った魔獣は、魔法アカデミーでも特に有能な魔法使いたちが、全力で止めるでしょう。あなたがここで逃げ延びることができても、反逆者として一生追われる身となります」
 ソフィスタは涼しげな態度ではあるが、白の魔獣を警戒していないわけではない。表には現さないが、ハバルを刺激しすぎないよう、言葉には気を使っていた。
 ハバルはハンカチで顔の汚れを拭い、ニヤリと笑った。
「それはどうかな?私には、この魔獣がいる。そして、転移魔法の指輪もある。これを使って再び力を集め、必ずヒュブロの王となるのだ!!」
 ハバルは自信ありげに言うが、ソフィスタにはハッタリに聞こえた。
 どこで手に入れたは知らないが、黒い宝石の指輪と白い宝石の指輪は、魔獣を一体ずつ封じているのだろう。ハバル自身の魔法力は低いようなので、あの指輪そのものが、封印も兼ねて魔獣を操るマジックアイテムなのかもしれない。
 そして琥珀色の宝石の指輪は、確かに転移魔法の効果が込められているようだが、移動距離は短い、もしくは事前に指定した場所へしか移動できないものだろう。
 王子暗殺に成功した後、全てのテロリストを捕らえて手柄にするつもりだったのなら、ヴォイドを止めに向かわせたテロリストも例外ではないはずだ。彼らを始末するために、ここで合流するつもりだったのかもしれない。
 テロの首謀者であることを暴かれてしまった今、ハバルがこの場所に来る意味は無い。そして、ソフィスタを連れてここに来てから、ハバルは転移魔法を使おうとしていない。少なくとも、指輪の転移魔法でこの場から逃げられることはないということだ。
 そんなことを考えながら黙っているソフィスタを眺めていたハバルは、観念したと思ったのか、その場から手を差し出した。
「ソフィスタ・ベルエ・クレメスト。君は頭が良く、度胸もある。これからは私に協力し、私のために魔法生物を作り出しせ。私のために働くことを誓うのなら、ヒュブロの王となる私の側近にしてやろう。金も地位も与えてやる。どうだね?」
 ハバルの誘いを聞き、ソフィスタは悩む。
 この男に協力する気など、はなから無い。だが、ここで誘いに乗ったフリをして、ハバルを捕らえるチャンスを窺うという手もある。
 だがハバルは、金で雇ったテロリストを全員捨て駒にするような男だ。近づけば何をされるか分からない。
 せめて、あの指輪を取り上げることができればいいのに。あの指輪が魔獣を支配しているとしたら、指輪を奪って魔獣の支配権を得ることができるかもしれない。
 …魔獣をハバルから離れさせ、その隙に指輪を奪う。…でも、魔獣を相手に、あたし一人で戦っても勝ち目は無い。
 この白の魔獣から感じ取れる魔法力は、校長やプルティほどではないが、ソフィスタよりは強い。加えて、身体能力もソフィスタをはるかに凌いでいるはずだ。どんな作戦を立てるにしても、身の安全は保障できない。
 …あ〜あ。やっぱり首突っ込まなけりゃよかったかな〜。
「どうした?そんなに考えるほどではないだろう。…まさか、時間稼ぎのつもりか?それとも、この状況の打開策でも練っているのかね?」
 ハバルがソフィスタの図星を突き、ずいっと一歩前に踏み出した。白の魔獣も静かに動いてハバルの隣に並ぶ。
「私の側近では不満かね?なんなら、私の妃にしてやってもよいぞ」
 それを聞いたソフィスタは、ものすごくイヤな顔をしたくなったが、我慢した。
「そうだな、お前はまだ若すぎるが、容姿に問題は無さそうだ。聡明で美しい女ほど、私に相応しい」
 ハバルの、ソフィスタを見る目の質が変わった。弱みは見せまいとドレス姿で凛と佇むソフィスタの顔に、体に、品定めするような視線が絡みつく。
 その目に、ソフィスタは嫌悪の念を抱くが、それ以上に呆れた。
 …こんな時に、何を馬鹿なこと考えているんだ。頭イカれてんのか?
 いくら時間を稼ぎたくても、ハバルの妃になるなどと、嘘でも言いたくない。
 それに、時間稼ぎもそろそろ限界だ。ハバルは白の魔獣と共にゆっくりと近づいてくる。
 …仕方ない。危ない橋は渡りたくないんだけど…戦うっきゃなさそうだ。
 一つため息をつくと、ソフィスタはハバルを静止するように、手の平をかざした。ハバルと白の魔獣は、それを見て立ち止まる。
「ふざけるな。そんな最悪な条件を、誰が呑めるか」
 急にソフィスタの口と態度が悪くなって、ハバルは驚いたようだった。
「利用価値も、上に立つ器量も無い人間の下につくなんざ、御免だ。それに、お前はアーネス魔法アカデミーの人間を敵に回した時点で、とっくに終わっていたんだよ。金で雇ったテロリストたちも、お前を見限ったことだろう。もう捕まるのも時間の問題のお前の味方になった所で、何の得になるってんだ。ましてや妃なんて、吐き気がする。…それに…」
 そこで言葉を区切り、ソフィスタはメシアと赤い髪の騎士の顔を思い浮かべる。
「…待たせている奴がいるんでね。そいつの所に戻らないとな」
 我ながらくさいセリフを言ったと思って、ソフィスタは顔をハバルから背けたくなったが、肩を震わせて怒っているハバルと、その隣に控える白の魔獣の様子を見失うわけにはいかなかった。
「…そうか。ならば、貴様のような無礼な小娘を生かしておく必要も無いな!!」
 ハバルは、左手の指輪を右手の平で覆った。すると白の魔獣が、人を丸呑みできそうなほど大きな口を開き、満月を仰いで咆哮した。
 大気が震え、ソフィスタのドレスの裾が、微かに揺れる。しかし、覚悟を決めたソフィスタは、怯えることなくハバルと白の魔獣を見据えていた。
「ハッ。自分の甥を殺そうとするような野郎のほうが、よっぽど無礼者だ。救いようの無いロリコンオヤジが、王家の血筋に泥塗ってんじゃねーよ」
 ソフィスタに鼻で笑われ、ハバルは血走った眼でソフィスタを睨み、払うように左手を振った。
「魔獣よ!あのクソ生意気な小娘を殺せ!!」
 口で命令されるより早く、白の魔獣は地を蹴り、ソフィスタに飛び掛った。
 ソフィスタは、話をしている間に高めていた魔法力を解放し、白の魔獣と自分の間に魔法障壁を張った。
 微かに光を帯びた透明の壁に、白の魔獣は頭からぶつかった。障壁の範囲は狭いが、そのぶん強度に魔法力が注がれているので、白の魔獣の突進にも余裕で耐えられた。
 正面からの攻撃は防がれると理解し、白の魔獣は前足の爪を、横から振り下ろそうとした。ソフィスタは破壊力を帯びた光球を放ち、白の魔獣の前足にぶつけた。
 光球が炸裂し、白い毛が飛び散るが、白の魔獣自身へのダメージはそれほどでもないようだ。しかし、攻撃の軌道を逸らすことには成功したので、爪はソフィスタの真横に振り下ろされ、土を抉った。
 攻撃魔法を放ったため、魔法障壁は消えたが、白の魔獣の攻撃で立ち上った土煙に紛れて、ソフィスタは素早く移動し、白の魔獣の脇を通り抜けてハバルに近づいた。
「その指輪をよこしやがれ!!」
 土煙の中から飛び出したソフィスタが、左手に光球を掲げ、ハバルめがけて放とうとしたが、突然、背後で強い魔法力の高まりを感じて、反射的に白の魔獣を振り返った。
 魔獣の尻尾の毛が逆立ち、何本かずつ絡まり合っている。
「やれ!そいつを八つ裂きにしろ!」
 ソフィスタに気付いたハバルが、後ろに下がりながら白の魔獣に命令した。
 白の魔獣の尻尾の毛が、幾つもの楕円形の刃となって、ソフィスタに向けて放たれた。
 今から白の魔獣の攻撃を防ぐために魔法を使い直す暇は無い。そう感じたソフィスタは、左手に掲げている光球を、とっさに楕円形の刃に向けて放った。
 楕円形の刃は、光球とぶつかって爆発を起こし、消滅するが、光球一つで全ての攻撃を相殺することはできなかった。
 苦し紛れの抵抗だということは、自分でも分かっていた。それでも何もしないよりはマシだと思って光球を放ったのだが、攻撃を受けることには変わり無さそうだ。残った刃が、ソフィスタに襲い掛からんと降り注ぐ。
 …やられる!
 そう思った時、ソフィスタの体が何者かに強く抱きすくめられた。
 ソフィスタの視界に、いくつもの赤い筋が揺れる。
 足が地面から離れ、抱すくめられたまま体が横に飛び、楕円形の刃は標的を失って地面に突き刺さると、元の白い毛に戻った。
 ソフィスタの体は、重力に従って地面に落ちるが、その衝撃は弱かった。
「ぐっ…」
 ソフィスタと地面の間に体をもぐらせ、彼女のクッションとなった者が、小さくうめき声を上げた。
「あ・あなたは…」
「お客様、お怪我はございませんか?」
 顔を上げたソフィスタに、安心させるように微笑みかけたのは、ヴォイドがある部屋で待たせておいたはずの、赤い髪の騎士であった。
 彼は起き上がって、ソフィスタを解放し、額に巻いているバンダナのずれを整えた。
 非常事態だったとは言え、赤い髪の騎士に強く抱きしめられていたと思うと、恥ずかしいような嬉しいような気持ちになり、そんな自分を「こんな時に何を考えているんだ!」と心の中で叱りつけながらも、ソフィスタは「はい、大丈夫です」と答えた。
「よかった…。獣の鳴き声が聞こえたので、急いで参ったのですが、一体、何が起こっているのでしょうか。あの巨大な獣は、どこから来たのですか?」
 赤い髪の騎士は、白の魔獣を見上げた。突然割り込んできた新たな敵に対し、白の魔獣は威嚇するように唸っている。
「テロの首謀者は、あのハバルだったのです。王権を握るために王子暗殺を企み、正体を偽ってフルムーンを組織していたのですわ。あの白い魔獣は、ハバルに従い、わたくしを殺そうとしております」
 ソフィスタは、お嬢様口調に戻って、赤い髪の騎士に状況をざっと説明した。しかし、ハバルのことは呼び捨てにしている。反逆者かつ、ソフィスタを殺しにかかってくる者を様付けで呼ぶ気は無かった。
「王子の叔父君が?そんな…」
 赤い髪の騎士は、離れた場所に立っているハバルを見る。ハバルは、赤い髪の騎士が現れたことに、戸惑っていたが、彼と目が合うと、慌てて白い宝石の指輪を輝かせ、「あの二人を殺せ!」と白の魔獣に命令した。
 白の魔獣は、ソフィスタと赤い髪の騎士をまとめて踏み潰さんと前足を振り下ろしてきたが、赤い髪の騎士が再びソフィスタを抱え、後ろに跳んでそれをかわした。
「お客様、魔獣とは、一体何者なのですか?」
 芝生の上に着地し、赤い髪の騎士はソフィスタに尋ねた。魔獣の存在は、魔法に通ずる者以外、あまり知られていないので、赤い髪の騎士が魔獣を知らなくても、おかしくはない。
「魔法によって、半永久的に体を強化させられた獣のことですわ。おそらくハバルが、あの指輪を使って魔獣を操っているのでしょう」
 ハバルが魔獣に指示を出す度に、魔獣が封られていた指輪が光っているので、ハバルの命令は指輪を介して魔獣に伝わっているのだろうと、ソフィスタは考えていた。
「では、あの魔獣は、無理やり戦わせられているということでしょうか」
 赤い髪の騎士の言葉に、ソフィスタが頷くと、彼は「なんということを…」と悲しそうに呟いた。その時の声と表情に、ソフィスタの胸がトクンと鳴った。
 一瞬、危険な状況にあるということを忘れてしまったが、白の魔獣が尻尾の毛を逆立てたので、我に返った。赤い髪の騎士も、尻尾の毛が不自然に波打っていることに気付く。
「お客様、お下がり下さい!」
 攻撃を仕掛けてくると直感したのだろう。赤い髪の騎士は、ソフィスタをその場に残して白の魔獣に向かって突っ込んでいった。ソフィスタは「騎士様!!」と、まだ名前を知らない彼を呼び止めるように叫ぶ。
 白の魔獣は、赤い髪の騎士に標的を定め、楕円形の刃となった尻尾の毛を放とうとしたが、その前に、赤い髪の騎士が白の魔獣の手前で跳躍し、白の魔獣の鼻の頭に蹴りを放った。
 蹴りは白の魔獣の気を僅かに逸らす程度の威力であったが、その隙に、赤い髪の騎士は白の魔獣の頭の上に登り、眉間に踵を叩き込んだ。
 白の魔獣が「ギャインッ」と鳴き、集中力を失って、楕円形の刃は元の柔らかい毛に戻った。
 よほど強いダメージを与えられたのだろう。人間の大人の四倍以上の大きさはある魔獣に、集中力が途絶えるほどの攻撃を喰らわせた赤い髪の騎士は、ソフィスタが思っていた以上に強かった。
 しかし…。
 …あの人、何で剣を抜かないんだ?
 赤い髪の騎士の腰には、鞘に収められたままの長剣が、確かに吊るされている。白の魔獣の眉間に攻撃を加えた時に、もし踵ではなく剣を刺していたら、それで白の魔獣を倒せていたかもしれない。
 どんなに強くても、素手で魔獣を倒せる人間など、聞いたこともないし、おそらく不可能だ。案の定、白の魔獣はダメージを忘れたように激しく頭を振って動き、赤い髪の騎士を振り払った。
 赤い髪の騎士は地面に着地し、めげずに真っ向から白の魔獣と戦うが、やはり長剣を抜かない。
 …まさか、魔獣を気遣っているのか?
 白の魔獣は無理やり戦わされていると聞いた時の、赤い髪の騎士の悲しそうな表情を、ソフィスタは思い出す。
 いくら操られているとは言え、本気で殺しにかかってくる獣を哀れむだけならともかく、手加減までするなんて、ソフィスタは馬鹿だと思う。
 それなのに、胸がきゅっと締まり、切ない気持ちになるのは、なぜだろう。
 …いや、あたしこそ馬鹿じゃねーか!こんな時に変な気分になってんじゃねーよ!!
 ソフィスタは、自分で自分の頬をピシャッと叩き、気を取り直して現状を確認する。
 赤い髪の騎士は、白の魔獣に致命傷を与える気はないにしても、白の魔獣の気を引くには十分役に立っている。
 一方ハバルは、赤い髪の騎士に手こずっている白の魔獣を、歯噛みしながら眺めている。
 …会場に黒い魔獣を残して逃げたってことは、多少は魔獣と距離が離れていても、操ることは可能ってことだろう。だったら、この白い魔獣も置いて一人で逃げればいいのに。
 だが、こちらとしては好都合である。ソフィスタは魔法力を高め、気付かれないよう近づこうとした。
 しかし、あまり白の魔獣が赤い髪の騎士に手こずるもので、ここで見ていても無駄だとようやく悟ったのか、ハバルはソフィスタが近づく前に、その場を離れようとした。
 …ちっ!まだ確実に魔法を当てられる距離じゃないのに!
 今は眼鏡をかけていないので、もっと近づかないと当てるのが難しい。仕方なくソフィスタは、命中率を上げるために、破壊力を帯びた光球を複数生じさせて放とうと考えた。
 しかし突然、白の魔獣が口を大きく開いて吠えたので、ソフィスタは反射的にそちらに顔を向けた。
 口を開いた白の魔獣のすぐ手前に、赤い髪の騎士がいる。そして、白の魔獣の喉の奥に、赤い光が見えた。
 白の魔獣の魔法力が高まっている。口から何かを吐き出して、赤い髪の騎士を攻撃するつもりなのだろうと、ソフィスタは直感する。
「騎士様ぁ!!」
 とっさにソフィスタは、赤い髪の騎士に向けて手をかざし、高めていた魔法力を解放した。
 赤い髪の騎士を囲って光の幕が現れ、その直後、白の魔獣の口から炎が吐き出された。
 炎は光の幕ごと赤い髪の騎士を包み、彼の姿を隠すが、あの威力の炎なら、光の幕が熱気まで防ぐはずだ。
 間に合ってよかったと、ソフィスタがホッと息をついた、その時、金属が摺れる音が聞こえた。
「小娘ェェェ!!」
 ソフィスタが赤い髪の騎士を気にしている間に、彼女に気付いたハバルが、右手に抜き身の短剣を握って襲い掛かってきた。
「わあっ!」
 ハバルが短剣を振り下ろしてきたが、ソフィスタはそれを、一歩後ろに下がってかわした。しかし、ハバルは左腕を伸ばし、ソフィスタのドレスのスカートを掴んで引いたので、慣れないローヒールとドレス姿で動きづらかったこともあって、ソフィスタは足元をぐらつかせ、倒れそうになった。
 ハバルが短剣を振り上げる。満月の光を反射して輝く短剣は、まるで不気味に笑っているように見えた。
 スカートを放され、ぐらついた体もバランスを取り戻したが、短剣は既に振り下ろされ、ソフィスタは為す術無く目を見開くことしかできなかった。
 突然、短剣が放つ光が遮られ、目の前が影に覆われた。
 ドスッという音が、ソフィスタのすぐ耳元で聞こえた。肉を打つような音であったが、ソフィスタに痛みは無い。
「くっ…」
 うめき声が聞こえて顔を上げると、ソフィスタの目の前には、赤い髪の騎士が立っていた。
 ソフィスタに背を向け、左腕にはハバルが握る短剣が突き立てられている。
「き・貴様!?」
 ハバルは短剣から手を放し、後ずさった。
「はあっ!!」
 赤い髪の騎士は、左腕の短剣を放置して、ハバルの腹に蹴りを入れた。ハバルの体がブワッと浮かび上がり、曲線を描いて後ろに飛ばされ、地面に体を叩きつけて落ちた。
 赤い髪の騎士は、躊躇なく左腕から短剣を引き抜いた。短剣を地面に投げ捨てると、傷口を手で押さえる。
 白い手袋が、たちまち赤く染まった。それでも赤い髪の騎士は、痛みなど感じていないように平然としていたが、ソフィスタは血相を変えて赤い髪の騎士の腕を掴んだ。
「ご・ごめんなさい!私のせいで…」
 ソフィスタは、怪我の止血を施そうとするが、赤い髪の騎士は、すぐに彼女の手を振り払い、体を軽く突き飛ばした。
 よろめいたソフィスタは、赤い髪の騎士にうっとうしがられたのかと思ったが、二人の間を隔てるように、楕円形の刃が地面にいくつも突き刺さったのを見て、彼が白の魔獣の攻撃からソフィスタを守ったことに気がついた。
 白の魔獣は、離れた場所からこちらを睨みつけており、尻尾の毛を逆立てている。
 白の魔獣から感じられる魔法力の流れからして、すぐにでも攻撃をしかけてくると思ったソフィスタは、赤い髪の騎士を庇って前に出た。
「騎士様!わたくしの後ろに!!」
 白の魔獣が、楕円形の刃を放ってきた。ソフィスタは両手を前にかざし、そこに魔法障壁を生じさせた。
 光の壁が楕円形の刃を弾き、弾かれた刃は、白く柔らかい毛に戻る。
 しかし、白の魔獣は息をつく暇も与えず刃を放ってくる。
「騎士様!左腕のお怪我は大丈夫ですか!?」
 魔法障壁を保つのに魔法力を消費しつつ、ソフィスタは振り返らずに、赤い髪の騎士に尋ねた。背後から「大丈夫です」と答えが返ってくる。
 不意に、攻撃が止んだ。
 白の魔獣は、攻撃を続けても無駄だと判断したのだろう。尻尾に残る楕円形の刃は放たず、低い体勢でソフィスタたちの様子を窺っている。
 魔法障壁が消えたら、あの刃が飛んで来る。そう思って、ソフィスタは魔法障壁を維持し続けるが、いつでも強度を戻せる程度に、魔法力の消費量は抑える。
 ハバルは、地面に転がったまま、うめき声を上げていた。
「ありがとうございます、お客様。助かりました」
 そう言って、赤い髪の騎士がソフィスタの隣に並ぶ。
 短剣を刺された箇所からは、もう血は流れていないようだ。何らかの処置を施したのだろう。
 それでも、赤い髪の騎士の手袋にべっとりとこびりついた血を見ると、胸が締め付けられる。
「…騎士様。なぜ、あの魔獣に手加減をして戦っているのですか?」
 ソフィスタは、頭一つぶんは背の高い赤い髪の騎士を見上げ、そう尋ねた。赤い髪の騎士もソフィスタを見下ろし、二人の目線が重なる。
「あの魔獣が、自らの意思とは関係なく戦わされているからですか?だから、魔獣を傷つけないよう手加減をしているのですか?」
 ソフィスタが、もう一度尋ねると、赤い髪の騎士は少し戸惑った後、こう答えた。
「…はい。罪の無い、あの獣を、私は救いたいのです」
 まるでメシアのようなことを、赤い髪の騎士は言った。もし彼がメシアだったら、「罪があろうが無かろうが、殺す気でかかってくる奴にまで手を抜くんじゃねーよ馬鹿野郎!!」などと、ソフィスタは怒鳴って蹴りの一つや二つは入れる所である。
 しかし、赤い髪の騎士に対しては、そこまで怒る気にはならず、しかし彼のやっていることが正しいとも思わなかった。
「でも、その結果、あなたは魔獣の攻撃を受けそうになり、あなたを守るために魔法を使ったわたくしは、ハバルに殺されそうになりました。そして、わたくしを庇って、あなたは傷を負いました。…あなたは、とても強いのに、剣を抜かずに手加減をして戦うから、戦闘が長引き、敵の反撃を許しているのではありませんか?」
 ソフィスタの厳しい言葉に、赤い髪の騎士は、ハッと息を呑んだ。
「魔獣に罪が無いのは、分かります。でも、あなたが魔獣に心を痛めているように…あなたが傷つくことで心を痛める人間がいるのです!」
 最後は声を荒げて、ソフィスタは赤い髪の騎士に言い放った。
 赤い髪の騎士の、自己犠牲ともとれる性格を逆手に取り、傷つくのは自分だけではないということを、あえて伝えることで、自らの行動を省みるよう仕向けたつもりだった。
 だが、赤い髪の騎士が傷を負うことで、ソフィスタが心を痛めていることは、自分でも認めていた。
 赤い髪の騎士の怪我を見ると、大切なものを失ってしまった時のように、辛い気持ちになる。
 彼には、体にも心にも傷を負ってほしくない。彼を苦しめたくない。彼を…失いたくない。
 そんな思いが、ソフィスタに声を荒げさせたのだった。
 …そうだ。あたしは、この人のことを…。
「…申し訳ございません。お客様のおっしゃる通りです」
 赤い髪の騎士は、やっと剣の柄に手をかけた。
「もっと早く気付くべきでした。確かに、このままでは戦いにくい」
 ようやく剣を抜いて戦ってくれると安心したソフィスタを裏切るように、赤い髪の騎士は、剣を鞘ごと強く引っ張り、ベルトからブチッと引きちぎって外すと、邪魔とばかりに地面に放り捨てた。
「えっ…あの、何を…?」
 赤い髪の騎士の謎の行動に、どうしたらいいのか分からずオロオロしていると、彼は鋲や鉄板で補強されたブーツまで脱ぎ捨て、ズボンの裾をビリッと裂き、さらに上着のボタンを引きちぎって、黒のシャツ一枚に覆われている胸元を軽くはだけさせた。
「では、行ってまいります」
 ソフィスタが「何しに!?」と突っ込む間もなく、赤い髪の騎士は魔法障壁を迂回して、白の魔獣に向かって突っ込んでいった。
 すかさず白の魔獣が、楕円形の刃を放った。ソフィスタは慌てて魔法障壁を解除し、赤い髪の騎士を守る魔法を使おうとしたが、その前に、楕円形の刃が次々と赤い髪の騎士をめがけて降り注ぎ、いくつもの衝突音が響いて土煙が上がった。 赤い髪の騎士の姿は、土煙に覆われて見えなくなる。
「はっ…ハハハハハッ!馬鹿めが!!」
 いつの間にか立ち上がっていたハバルが、赤い髪の騎士がいたほうを指差して笑い声を上げた。ソフィスタは、ハバルを睨みつけようとしたが、土煙の向こうから「キャオンッ!!」という鳴き声が聞こえたので、そちらに気を取られる。
 土煙は、内側から風を受けてブワッと広がり、その中央には、首を持ち上げてのけぞっている白の魔獣の姿があった。
 白の魔獣の口から、血と砕けた牙の欠片が吐き出された。下の牙のほとんどは原型を失い、あごの下の肉がへこんでいる。強い打撃を受けた証だ。
 白の魔獣は、よろめいた体になんとかバランスを取り戻そうとしていたが、いつ移動したのか、近くの木の上にいる赤い髪の騎士が、太い枝を蹴って跳躍し、白の魔獣の脳天に踵を叩き込んだ。
 ドゴォンという、ハンマーで大きな杭でも打ったような音が響き、白の魔獣は顔面から地面に突っ伏した。
 体を支えていた四本の足は力を失い、カクッと関節を折り、支えを失った体は顔面に続いて地面に突っ伏す。
 ピクピクと前足を痙攣させる以外、白の魔獣は動きは止まった。
「…うそ…」
「バカな…」
 あれほど時間をかけて戦っていた白の魔獣を、赤い髪の騎士は、武装解除した状態であっさりとねじ伏せてしまった。その様子を、ソフィスタとハバルはポカーンと眺めていた。
「ぐ…くそっ!」
 ソフィスタより先に我に返ったハバルが、左手を振り上げた。それに気付いたソフィスタは、嫌な予感がするので、魔法力を高め始めた。
 …あ・あの赤い髪の騎士の力は異常だけど、味方なら強いに越したことはない。とにかく、今はハバルを捕らえるのが先だ!
 ソフィスタは、ハバルに攻撃魔法を放とうとしたが、その前に、城の二階の窓ガラスを破って黒い影が飛び出した。
 ソフィスタと赤い髪の騎士は、反射的に城を振り向き、黒い影を目で追う。
 …あれは、会場に現れた黒い魔獣!
 ハバルが指輪の黒い宝石から出し、会場に放置してきた黒い毛の魔獣は、中庭に降り立ち、地響きを上げた。
 前足から地面に着地し、その後に後ろ足がスタッと地面に着いたが、黒の魔獣は足元をふらつかせ、倒れそうになった。
 よく見ると、黒の魔獣の毛は所々が氷りつき、前足の爪はほとんど剥がされ、むき出しの肉からは血が滲んでいた。
 会場にいる校長たちと戦ったのだろう。既に全身はボロボロで、息も上がっている。
 黒の魔獣は、一番近くにいる赤い髪の騎士を睨みつけ、欠けた牙を剥き出しにして吠えた。
 赤い髪の騎士は、別の魔獣が現れたことより、そのボロボロの姿に驚いているようだった。
 黒の魔獣は、後ろ足の指から血を噴き出しながら地を蹴り、赤い髪の騎士に飛びかかった。
「わあっ!?」
 赤い髪の騎士は後ろに跳んで、黒の魔獣が振り下ろした前足をかわした。黒の魔獣は、すかさず赤い髪の騎士を追おうとしたが、後ろ足の膝がカクッと折れ、バランスを崩して横に倒れた。
 …あいつ、もう戦えそうにないな。
 ほとんど無傷だった白の魔獣を、蹴りの一撃で倒した赤い髪の騎士なら、あれほど怪我を負っている魔獣など、相手にもならないだろう。
 だが赤い髪の騎士は、起き上がるのに手間取っている黒の魔獣に、攻撃を与えようとせず立ち尽くしている。手負いの獣に追い討ちをかけるようなことは、彼にはできないのだろうか。
 ソフィスタは、半ば正気を失ったような笑みを浮かべているハバルと、困っている赤い髪の騎士を、一度だけ交互に見ると、赤い髪の騎士に駆け寄りながら叫んだ。
「その魔獣は、わたくしが引き受けます!騎士様は、ハバルを追って下さい!」
 赤い髪の騎士の隣に並び、ソフィスタは両手を黒の魔獣に向けてかざした。
「ハバルの指輪を奪えば、魔獣を止めることができるかもしれません!わたくしが魔獣の動きを封じますので、あなたはハバルを捕らえて下さい!」
 赤い髪の騎士が、黒の魔獣と戦うことに躊躇しているのなら、彼にハバルを捕らえに向かわせたほうがよさそうだし、手負いの魔獣の足止めくらい、ソフィスタにもできる。
 それに、赤い髪の騎士には、あまり辛い戦いをさせたくないという気持ちもあった。
 赤い髪の騎士の返事も待たずに、ソフィスタは黒の魔獣の動きを止めるべく、魔法を放った。
 黒の魔獣の首や肩などの関節が氷に覆われ、立ち上がりかけていた黒の魔獣は、再び倒れる。その衝撃で氷に亀裂が走ったが、すかさず魔法で修復した。
 …上手くいってる。おそらくアズバン先生が使った氷の魔法の効果が、まだ残っている。これを利用すれば…!
 自分の魔法力を節約しつつ、黒の魔獣の動きを止められる。赤い髪の騎士もソフィスタの魔法を見て、黒の魔獣の足止めを任せても大丈夫だと判断したようだ。ソフィスタに「おはやく!」と急かされると、力強く頷いて、ハバルに向かって走り出した。
「うわっ、く・来るな!!」
 えらい速さで向かってくる赤い髪の騎士に気付き、ハバルは左手を掲げるが、指輪は光るものの、白の魔獣は気を失っており、黒の魔獣はソフィスタに足止めされ、転移魔法の指輪もやはり使えず、ハバルには逃げる術が無かった。
「失礼致します、ハバル様!」
 ご丁寧にもそんなことを言う割には、赤い髪の騎士がハバルに掴みかかる様子に容赦は無く、ハバルは肩を掴まれ、引きずりおろすように倒された。
「お客様!指輪を全て奪取致しました!!」
 赤い髪の騎士は、ハバルの体を片腕で押さえつけながら、もう一方の手で剥ぎ取った三つの指輪を、ソフィスタに見せるように掲げた。
 ソフィスタの視力では、ここからではちゃんと見えないが、赤い髪の騎士が何かを摘んで掲げていることくらいは分かったし、彼の言うことは信じていた。
「その指輪を使って、魔獣を封印して下さい!念じるだけで封印ができるはずです!」
 マジックアイテムは、魔法が使えない者のために作られたものなので、赤い髪の騎士にも簡単に使えるはずだと、ソフィスタは考え、彼に魔獣の封印を頼んだ。しかし、それを聞いたハバルが声を上げて笑った。
「ハハハハハ!無駄だ!魔獣は封印を解いた者にしか操れん!私が命令しない以上、その魔獣は命が尽きるまで暴れ続けるぞ!!」
 ソフィスタの予想の範囲内ではあったが、できれば予想で済ませたかったことを、ハバルはわざわざ説明してくれた。
 ならば、力ずくでハバルに言うことをきかせようかと考えるが、今のハバルの様子からして、それは難しいかもしれない。
 どうしようかと悩んでいると、赤い髪の騎士がハバルを放して膝を着き、三つの指輪を左手の平に乗せてハバルに見せた。
「ハバル様。あなたが、二体の魔獣を封印して下さい」
 赤い髪の騎士の声が聞こえたソフィスタは、彼を振り返る。
 頼んでも無駄だと彼に言おうとしたが、黒の魔獣が前足の氷の一部を砕いたので、慌てて魔法に集中する。
 ハバルは起き上がり、赤い髪の騎士から指輪を奪い返そうと手を伸ばしたが、赤い髪の騎士は、右手でハバルの腕を掴んで止めた。
「ハバル様。二体の魔獣を封印して下さいますね?」
 赤い髪の騎士は、ハバルの腕を折らんばかりに強く握り、脅すような強い口調で言った。その痛みにハバルは呻き声を上げる。
「ぐぅ…っフフフ…こんなことをしても無駄だ。私を殺しても、魔獣は止まらん。私の命令以外に、封印する術は無い!」
 ハバルは、魔獣を封印できるのは自分しかいないので、殺されることも、あまり酷い目に遭わされることもないと思って、強気に出てきたようだ。
 赤い髪の騎士は、困った顔をしてソフィスタを見遣ったが、黒の魔獣を止めるのに集中しているソフィスタは、それに気付かなかった。
「…そうですか。でしたら…」
 しかし、赤い髪の騎士が低い声で呟いた時、まるで我が身に危機を察した瞬間のようにソフィスタの背筋が凍り、ぶるっと身震いをした。
 黒の魔獣も暴れるのを止め、キュゥンと弱々しく鳴いて首を竦める。
 心なしか、草や木、ソフィスタが操っている氷までもが、怯えて気配を潜めているように感じた。
 全てを威圧する強烈なそれは、赤い髪の騎士が発していた。ソフィスタが赤い髪の騎士を振り向いても、この位置からでは彼の背中しか見えず、ソフィスタや魔獣にに対してそれを発していないということは分かっても、震えは止まらなかった。
 彼の目の前にいるハバルなど、たまったものではないだろう。案の定、ハバルは腰を抜かし、地べたに尻を着いてガタガタと震えていた。
 正にヘビに睨まれたカエルの状態になっているハバルに、赤い髪の騎士は、強い怒気を孕んだ声で言葉を発した。
「魔獣を封印して下さい。さもなければ…」
 赤い髪の騎士が発する威圧感に気を取られ、ソフィスタは魔法を解いていたが、魔獣は震えるばかりで身動きを取ろうとせず、ソフィスタ自身も、魔法を解いてしまったことに気付けなかった。
 重い沈黙の中、赤い髪の騎士が言葉を続けた。
「ハバル様の爪を一枚ずつ、じっくりと剥ぎ、その指の肉を先から少しずつ削ぎ落とし、指が無くなったら傷口に木の枝を捻じ込んでさしあげます。もちろん、足の指も同じように」
 ハバルが「ひっ」と息を呑み、黒の魔獣も地に伏せて縮こまった。
 しかしソフィスタは、赤い髪の騎士の言葉を聞いて、少しだが緊張が和らいだ。
「わ…わかった…い・今、魔獣を封印する…」
 ハバルは声を振り絞り、空いている手を赤い髪の騎士に差し出した。
 赤い髪の騎士が、ハバルの腕を放し、差し出された手に三つの指輪を乗せた。
 ハバルがその指輪を握り締め、しばらくして手を開くと、黒の魔獣と白の魔獣は、瞬く間にドロッとした土のようなものに変わり、それぞれの色の指輪の中に吸い込まれていった。
 それが収まると、赤い髪の騎士はハバルの手から再び三つの指輪を取り上げた。ハバルは地面に両手を着き、がっくりと項垂れる。
 その様子を見て、赤い髪の騎士は息をついて肩の力を抜いた。赤い髪の騎士の強烈な威圧感と、魔獣が消えたことで、緊張が解けたソフィスタも、フラフラと近くの木に背をもたれた。
 穏やかな風が流れ、虫の鳴き声が聞こえるようになる。急に周囲の空気まで和んで、荒れた中庭の様子を眺めても、先程までの戦闘が嘘のように感じられた。
 赤い髪の騎士は立ち上がり、ソフィスタを振り向いた。それに気付き、ソフィスタは赤い髪の騎士に駆け寄ろうとしたが、先に赤い髪の騎士のほうから歩み寄ってきた。
 ふと、赤い髪の騎士がハバルを脅す時に言った言葉を思い出し、ソフィスタは顔を真っ赤にした。
 赤い髪の騎士は、ソフィスタの前で立ち止まると、少し申し訳なさそうに笑って、こう言った。
「貴女がテロリストを脅した時のお言葉を、お借りさせて頂きましたが…上手く脅せて、よかったです」


 *

 ハバルを魔法で意識を失わせ、ハバルが腰に巻いていたベルトで彼の手首と足首をまとめて縛ると、フィスタと赤い髪の騎士は、中庭にあるベンチの中で原型を留めているものに腰をかけた。
「騎士様、お怪我のほうは…」
 ソフィスタは、赤い髪の騎士の怪我を心配して、隣に座って汚れた手袋を取り替えている彼に声をかけた。
「お気遣い、ありがとうございます。大した怪我はございません」
 短剣を腕に突きたてられておいて、大した怪我はないなどと、よく言えるものだ。だが、その怪我も既に血は止まり、他に大きな怪我はなさそうだ。
「私より、お客様のお怪我は?」
 赤い髪の騎士が、ソフィスタの顔を心配そうに見つめた。ソフィスタのドレスは、あちこちほつれ、セットされていた髪型も乱れているが、これといった外傷は特になかった。
 しかし砂汚れがひどく、そんな姿を赤い髪の騎士に見られていると思うと、恥ずかしくなって、ソフィスタは「わたくしも、大した怪我ではございません」と答えながら、せめて顔の汚れくらいは落とそうと、ハンカチを取り出した。
「そうですか。…あの二体の魔獣は、怪我を負ったまま指輪に封印されてしまいましたが、大丈夫なのでしょうか…」
 赤い髪の騎士は、手の平に乗せている指輪を見下ろしながら、そう言った。ソフィスタは、汚れを払う手を止め、彼の心配を払うために口を開いた。
「このタイプの封印は、封印されている間に怪我が治ることはありませんが、悪化することもありません。魔獣の生命力は高いので、封印を解いてから治療を施せば、すぐに治るでしょう」
 魔獣を見たのはソフィスタも初めてだったし、できればこのまま生かしておき、後で調べたい。だから、ソフィスタが魔獣の封印を解いて従わせ、手当てもしようと考えていた。
 だが赤い髪の騎士に「治療を施す」と言った後に、魔獣が禁呪によって生み出されたものだということを思い出した。
 禁呪を使った者は、その威力によっては死罪にもなり、禁呪によって作り出されたものや、体を改造されたものも、即刻処分されることになっている。
 赤い髪の騎士は、魔獣のことを知らなかったので、禁呪に関する法も、知らないことだろう。しかし、魔獣の怪我を心配している彼に、果たして本当のことを話してもいいのだろうか。
 そう悩んでいると、赤い髪の騎士がソフィスタに、こう尋ねてきた。
「お客様。魔獣を元の獣の姿に戻すことはできないのでしょうか」
 ソフィスタは、少し考えてから答えた。
「…そうですわね…アーネス魔法アカデミーに、この指輪を預けて調べさせれば、もしかしたら元に戻す方法が見つかるかもしれません」
 魔獣を生きたまま元の姿に戻したという事例は、少なくともソフィスタは聞いたことがない。だがそれは、魔獣を元に戻す方法を誰かが調べる前に、ほとんどの魔獣が処分され、研究するためのサンプルが手に入らなくなったからだろう。今のアーネスの魔法研究者たちの技術を以ってすれば、魔獣を元に戻せるかもしれない。
 そしたら、今後魔獣は処分されずに済むし、ソフィスタも魔獣の研究に携わることができるだろう。
 …元の姿に戻すってのは、あたしにとっても悪いことじゃないな。魔獣を処分せずに済むなら、この人も喜ぶだろう。
 そして、赤い髪の騎士が喜ぶ様子を想像すると、自分まで嬉しい気分になる。自分らしくない感情だとは思ったが、もう戸惑いも苛立ちも覚えなかった。
「そうですか。では、この指輪はアーネスの者に預けます」
 ソフィスタは、自分がアーネスの者だと赤い髪の騎士に教えようとしたが、先に赤い髪の騎士が指輪をポケットにしまったので、まあいいかと思って、開きかけた口を閉じた。
「…ありがとうございます。お客様」
 赤い髪の騎士がソフィスタの手を取り、そう礼を言った。彼の白い手袋ごしに伝わる、大きくて力強い手の感触と温もりを敏感に感じ取り、ソフィスタは緊張のあまり声が出なくなった。
「貴女を危険な目に遭わせてしまったことは、深くお詫び致します。ですが、貴女のご助勢が無ければ、私はテロリストや魔獣を止めることができなかったでしょう」
 赤い髪の騎士は、真っ直ぐとソフィスタを見つめ、微笑んだ。目の前にいる彼の表情、仕草、声、言葉が、ソフィスタの心を締め付けすぎて、軽い眩暈まで覚えさせた。
 そんなソフィスタに追い討ちをかけるように、赤い髪の騎士は言葉を紡いだ。
「だから…貴女が傍にいて下さって、本当によかった」
 赤い髪の騎士の心からの笑顔と言葉を敏感に感じ取って、ソフィスタの心臓がドクンと跳ね上がった。
 鼓動は早いのに、喉まで締め付けられたように、呼吸が上手くできない。
 まるで、ソフィスタの世界が赤い髪の騎士に独り占めされたようだった。赤い髪の騎士のことしか考えられず、涼しげな風の音も、月の美しい輝きも、彼を飾るためだけの存在となっていた。
 …ああ、あたしは本当に、この人のことを…好きになっている…。
「…あれ?」
 ソフィスタが、うっとりとした顔で赤い髪の騎士を見つめていると、彼は、ふと何かに気付いたように、目をぱちくりさせた。
 そして、急に真剣な顔つきになって、ソフィスタの手を放した。ソフィスタの手は支えを失い、自分の太腿の上にパタリと下ろされる。
 それでもソフィスタはボーッとしていたが、赤い髪の騎士がソフィスタの頬に両手を添え、ずいっと顔を近づけたので、さすがにそれには気付いた。
 全身の熱が一気に上昇し、瞳を大きく見開く。
 …うわああぁぁぁ!!!何をしてんだ、この男は!!
 いつもなら、男にこんなことをされようものなら、即座に攻撃魔法か拳か蹴りを飛ばすソフィスタだが、緊張やら興奮やらで、頭がこんがらがって体はガチガチに固まって、全く身動きが取れなかった。
 赤い髪の騎士は、ただソフィスタを見つめているだけだったが、それでもソフィスタにとっては十分兵器であった。
「貴女は…もしや…」
 赤い髪の騎士が何かを言いかけた時、城のほうから「あー!いたいた!」という声がしたので、彼はソフィスタから顔を逸らし、声がしたほうを向いた。テンパッていたソフィスタの耳には、声は届いていなかった。
「おーい!二人とも、無事かーい!」
 そう声を上げ、手を振りながらこちらに歩み寄ってくるのは、アズバンであった。タキシードの所々がほつれ、ぴっちりと整えられていた髪形はボサボサになっていたが、大した怪我は負っていないようである。
「アズバン!!」
 赤い髪の騎士はソフィスタから手を放し、ベンチから立ち上がって、アズバンに駆け寄った。するとソフィスタは、緊張の糸がプツッと切れて、ベンチにもたれかかった。
 親しそうにアズバンの名前を呼んでいるので、やはり彼は、ヒュブロに勤めるアズバンの友達のようだ。二人は、互いに一定の距離まで近づくと立ち止まって、話し始めた。
「うわ、君もボロボロじゃないか。周りもひどいありさまだし…何があったんだ?もしかして、魔獣と戦ったのかい?」
 そうアズバンに尋ねられ、赤い髪の騎士は頷く。
「ああ。なぜ、そのことを?」
「私も校長たちと一緒に、会場で魔獣と戦っていたんだ。そしたら、急に魔獣が会場の外へ逃げてしまったんだ。…もしかして、君たちが魔獣をやっつけた…とか?」
「ああ、その魔獣なら、二体ともあのお方が封印して下さった」
 赤い髪の騎士は、目線でソフィスタを示した。ぐったりとしていたソフィスタは、慌てて立ち上がって背筋を伸ばす。
「二体!?もう一体いたのかい!?それを君たちが倒したのか…流石だね。…あ、校長とプルティくんも、無事だよ。魔獣が現れてパニックを起こした招待客を避難させるのに体力を消耗しすぎて、会場でバテているが、特に怪我も無いし、ティノー王子もご無事だ」
 アズバンがそう話した直後、彼に続いて城のほうから、複数の人間の足音が近づいてきた。見ると、ティノーと彼の近衛兵が、こちらにやってくるところだった。二人の後にも、ヒュブロ兵が六人ほどいた。
 近衛兵は、倒れているハバルに気付くと、ティノーに何やら話してから、後ろの兵たちにハバルを捕らえに向かわせた。
 ティノーは、赤い髪の騎士に近づき、彼の背中を叩いて笑った。
「君たちが叔父上を捕まえてくれたんだね!よく頑張ってくれた!」
 ティノーは、離れた場所にいるソフィスタのことも見ながら、そう言った。近衛兵も、赤い髪の騎士と握手を交わす。
 近衛兵の服は、ざっくりと切り裂かれて血の跡が残っているが、にこやかな表情を見ると、そんなに重傷を負ったわけではなさそうだ。もしくは、アズバンらアーネス魔法アカデミーの者に、迅速に怪我の処置を施されたのだろう。
「君のことは、アズバンから聞いたよ。そんな格好をしているから、てっきり我が国の騎士かと思っていたが…」
 ティノーの言葉が聞こえたソフィスタは、「えっ…?」と呟いた。
 …あの人、ヒュブロの騎士じゃなかったのか?
 訳あって、アズバンの友達がヒュブロの騎士に変装でもしているのだろうか。とにかく詳しく話を聞いてみようと、ソフィスタは赤い髪の騎士たちに歩み寄る。
「君たちは、我が国の恩人だ。特に君と彼女は、少し前に世界を救ってくれたばかりだというのに、今回はヒュブロのために戦ってくれて…いくら感謝しても足りないよ」
 さらにティノーが話すと、今度は赤い髪の騎士が「えっ…?」と呟いて首を傾げた。
「ホラ、あれだ。ヴァンパイアカースが復活した時、君たちが中心となって、感染の拡大を阻止すべく戦ってくれたじゃないか。そうだよね、ソフィスタくん」
 不思議そうにしている赤い髪の騎士に、アズバンが、そう説明をした。そして、赤い髪の騎士の隣に並んだソフィスタの名前を呼んで、ニッコリと笑った。
 今まで赤い髪の騎士に対して、なんとなく隠していた名前を、アズバンにさらっと明かされたが、それより、アズバンの説明が理解できず、ソフィスタは若干混乱していた。
 …ヴァンパイアカースの拡大を防ぐべく、戦った?あたしと、この騎士が?…でも、あの時あたしと一緒に戦っていたのは、この騎士じゃなくて…。
 そこまで考え、あのヴァンパイアカースの件で共に戦った者の顔を…アズバンと共に王都に来ているはずの、緑色のトカゲ男の顔を思い浮かべた時、ソフィスタはバッと赤い髪の騎士を見上げた。
 赤い髪の騎士も、じ〜っとソフィスタを見つめている。
 …あ…え?…まさか…!!
 嫌な予感をソフィスタが感じ、それが何なのかがハッキリとする前に、赤い髪の騎士が「ああっ!!」と声を上げ、パンッと手を叩いた。
「やはり、お前はソフィスタであったか!姿は似ているが態度が全く違うので、別の者かと思っておったわ!!」
 今までソフィスタに対して恭しく振舞っていた赤い髪の騎士が、態度を一変させ、額に巻いているバンダナを、上に持ち上げて外した。すると、そこに隠されていた長く尖った耳が、ぴんっと跳ねるように現れた。
 さらに赤い髪の騎士は、外したバンダナの結び目の中から、ソフィスタにとって見覚えのあるものを取り出した。
 紅玉があしらわれたアクセサリー。メシアが神から承り、肌身離さず身につけているそれを見て、ソフィスタの思考が凍り付いた。
 赤い髪の騎士は手袋を外し、メシアがしているように、紅玉のアクセサリーを左手に装着して掲げた。とたんに、赤い髪の騎士の肌や髪から、浮かび上がるように赤い光が生じた。
 光は、紅玉に吸い込まれてゆき、やがて、赤い髪の騎士の体から光が消えると、彼の姿はすっかり変わっていた。
 夕日のように鮮やかな赤い色をしていた髪は、月の青白い輝きに似た銀色を帯び、肌の色は、人間のものとは遥かに違う緑色を帯びていた。
 正確には、元に戻ったと言うのだろう。唖然とした表情のまま、ソフィスタはそれを理解し、今、目の前にいる者の名を呟いた。
「…め…メシア…」
 あの紅玉を見た瞬間に、予感はした。赤い髪の騎士は、メシアが人間に化けた姿であると。
 今までヒュブロの騎士だと思っていた者が、実は人間ではなく、しかも自分がよく知っている者であったことに、ソフィスタはショックを受ける。
「あれ?もしかして、お互い気がつかなかったのかい?」
 アズバンは、ソフィスタとメシアを交互に見る。
「ほう。それが、君の本来の姿か。人間の姿でいた時と、顔立ちは変わっていないように見えるね」
 ティノーは、緑色のトカゲ男の姿に戻ったメシアを、珍しそうに眺める。
「そうか?鏡を見た時は、全く違う生き物に見えたが」
 王子であるティノーに対しても、メシアは敬語を使うのをやめていたが、ティノーは気にしていない。
「…だが確かに、あれほど姿を変えていれば、ソフィスタが気がつかなかったのも無理はないか。お前も、そう思うだろう」
 メシアはソフィスタに話をふったが、ソフィスタは石のように固まったまま、全く反応しない。不思議に思い、メシアはソフィスタの顔を覗き込む。
「ソフィスタ?どうしたのだ」
 メシアがソフィスタと目の高さを合わせ、少し顔を近づけると、やっとソフィスタは口を動かした。
「…お…おっ…お前…お前なぁぁぁぁぁぁ!!!」
 般若のごとく、ソフィスタの顔が真っ赤に染まり、目つきが凶悪になった。メシアは身の危険を察してソフィスタから離れようとしたが、その前に胸倉を掴まれ、「ヒィッ!」と悲鳴を上げた。
 アズバンやティノーらも、ソフィスタの凶暴な気配に怯え、思わず数歩後ずさった。
 ソフィスタは空いている腕を振り上げ、怒りで一気に膨れ上がった魔法力を、その拳に集中させた。
「ふざけんなぁァァ―――――――――!!!!」
 魔法によって威力を増した渾身のパンチが、ソフィスタが叫ぶ同時にメシアの顔面に叩き込まれた。
 メシアは、のけぞった状態で後ろに飛ばされ、宙で体を一回転させた後、背中から地面に落ちて、木の幹にぶつかるまで土を抉りながら滑走した。
 メシアが抉って飛び散った土は、アズバンやティノーの服を汚したが、ソフィスタが恐ろしすぎて、二人とも服どころではなかった。
 ティノーの隣にいる近衛兵も、ハバルを運んでいた兵たちも、あの清楚なドレスからは想像も出来なかったソフィスタの様子を、ポカーンと口を開けて眺めていた。
「…め・メシアくん!大丈夫かい!」
 まずアズバンが我に返り、体をピクピクと痙攣させてのびているメシアに駆け寄った。ティノーと近衛兵も、アズバンに続いてメシアに駆け寄る。
 ソフィスタは、肩を激しく上下させてメシアを睨んでいたが、やがて呼吸が落ち着くと、ローヒールで地面を強く踏んで踵を返し、「ソフィスタくん?どこへ行くんだ!」と呼び止めるアズバンを無視して、大股で歩いて中庭から離れた。
 そして、城に入る直前で立ち止まり、平和そうに輝いている満月をギロッと睨みつけてから、吐き捨てるように言った。
「クソッ!ときめいて損した!!」


 *

 フルムーンに加担していない兵や使用人たちは、会場から離れた別の部屋に閉じ込められていたらしい。
 なんでも、テロリストに騙されて、まとめて一部屋に集められたのだという。魔獣が会場を離れた後、捕らえたテロリストからそのことを聞いたティノーは、中庭へ行く前に戦力を集めようと、近衛兵と共に閉じ込められている人々を解放したのだった。
 ヴォイドが設置されている地下室に置いてきたテロリストも捕らえられ、負傷した兵は保護された。どうやら、その負傷した兵こそが、かつてアーネスでアズバンと同居していた男らしい。地下室から運び出された彼は、駆け寄ってきたアズバンの無事を喜び、アズバンも彼の命に別状は無いことを喜んだ。
 アズバンは、怪我が治ったらまたバイオリンを聴かせてくれと彼に話していた。
 そして、魔獣との戦いと招待客たちの避難でヘバッていた校長とプルティも、無事にソフィスタたちと合流し、ソフィスタは校長に、指輪に封印されている魔獣のことを話した。校長は、アーネスに戻ったら魔獣を元に戻す方法を調べると、かろうじて意識を保っているメシアに約束した。

 こうして、反王子派テロ集団フルムーンは壊滅し、ヒュブロを包んでいた不穏な影は、ソフィスタたちの活躍によって取り払われた。
 信頼していた兵や叔父に裏切られたティノーは、ショックを隠しきれなかったが、黒の魔獣との戦いの中で体を張ってティノーを守ろうとした近衛兵のように、心からティノーを慕っている者は多く、ティノー自身も、見た目より芯がしっかりとしている男なので、いずれは彼らの手によって国も立ち直るだろう。
 ただ、今まで恋愛に興味は無いと言い張っていたのに、姿を変えていたとは言え、よりによってメシアに初恋を果たし、自分でもありえないほどメロメロになっていたソフィスタは、恋心を認めていたことが悔しいのやら、メシアに惚れていた自分が腹立つのやらと、一日や二日では晴れないモヤモヤしたものを抱えることになった。


 *

 後日、校長とプルティとアズバンの三人は、転移魔法でアーネスへ先に戻り、ソフィスタとメシア、そしてセタとルコスは、予定通り馬車で王都を発った。
 プルティはソフィスタと一緒に帰りたがっていたが、「本来ならサボリが発覚した時点でアーネスへ送り返すところを大目に見ていたのだから、帰りくらいワガママを言うのはやめなさい!」とアズバンに厳しく言われ、しぶしぶ先に帰ることを承諾した。
 肩にセタとルコスを乗せたソフィスタは、メシアと一緒に、ティノーが特別に手配してくれた馬車に乗り、座り心地の良いソファーに腰をかけ、窓から入り込む静かな風を受けてくつろいでいた。
 メシアは、窓から空を覗き、千切れた雲が過ぎていく様子を、目を細めて眺めている。
 向かい側に座っているソフィスタは、そんなメシアの横顔を、じっと見つめていた。
 …やっぱり、よく見ていると、コイツ…聖なる王に似ているな。
 ヒュブロ城内で見た、聖なる王の肖像画の模写を思い出しながら、ソフィスタはそんなことを考える。
 今まで聖なる王の肖像画の模写など、アーネスで見かけても、じっくり見たことは無かったし、そもそもメシアは人間とは肌の色などが違うので、今まで気付かなかった。だが、今こうしてメシアを見ていると、目や口などの顔のパーツは、肖像画の聖なる王とほぼ一致しており、堂々とした雰囲気も、よく似ている。
 後でメシアから聞いた話では、あの赤い髪の騎士の姿は、紅玉の光で身を包むことで、肌の色や質感を人間のように見せかけていただけだという。
 騎士の服は、城の門の前にいたテロリストから借りたものだったそうだが、それはともかく、ただ肌の色と質を変えただけということは、顔立ちそのものには全く手が加えられていないということになる。
 ちなみにメシアは、紅玉の力で人間の姿に変わるのは今回が初めてらしい。アズバンが城に入る前に、メシアに「その紅玉の力で人間の姿にはなれないのかい?」と聞いてきたので、試してみたら出来たという。
 そして、騎士姿の時のバカ丁寧な立ち振る舞いは、アズバンに「とにかく相手が誰であろうが、しこたま敬いなさい」と言われたのを、忠実に守っていたそうだ。
 …肌の色と質感を変えただけで、聖なる王にそっくりになるなんて…偶然なのか、それとも…。
 メシアを見つめて考え事をしていると、不意にメシアが顔を向けてきたので、ソフィスタは反射的に目を逸らした。
「ソフィスタ。昨晩は、なぜ私を殴り飛ばしたのだ。正体を隠していたからか?」
 メシアは、ソフィスタが今一番聞かれたくなかったことを、いきなり聞いてきた。
 昨晩、ソフィスタに殴り飛ばされた後、メシアはアズバンによってホテルの部屋に運ばれた。ソフィスタとは部屋が別々であったため、馬車に乗るまではろくに顔を合わせる時間もなかったから、あのソフィスタの強烈な一撃について、今まで聞かれずに済んでいた。
 だから、殴られたショックで昨晩のことを忘れていたらいいとソフィスタは願っていたのだが、それは叶わなかったようだ。
「…そんなこと、どうでもいいだろ。過ぎたことは気にするな」
 そう、ソフィスタにぶっきらぼうに言われ、メシアはムッとして眉を吊り上げた。
「悪いことをした覚えがないのに殴られて、気にするなで済むか!それに、殴られた原因が分からなければ、今後気をつけることができないではないか!」
「うるさい!テメェの顔面にでかいハエがとまっていたんだよ!!」
 正論を言うメシアに、ソフィスタはいいかげんなことを答えた。それを聞いて、メシアはさらにヒートアップする。
「嘘をつけ!そんなハエなどとまっておらんかったぞ!!」
「テメェの顔がハエに見えたんだよ!!」
「なんだと!?」
 メシアはソファーから身を乗り出し、両手を伸ばしてソフィスタの頬を掴んだ。そして、一気に互いの顔を近づけ、鼻先を軽く触れ合せた。
「よく見ろ!私の顔のどこがハエに見えるのだ!!」
「うわぁぁぁ―――――――!!!!」
 メシアと顔が急接近したことで、ソフィスタはパニックのあまり絶叫し、急激な感情の高ぶりによって高まった魔法力で、思わず攻撃魔法を放った。
 ソフィスタの手の平から放たれた衝撃波を、至近距離から正面に受けたメシアは、吹っ飛ばされて背中からソファーに突っ込んだ。
 馬車が大きく揺れ、外で馬が嘶いた。馭者の「何やってんですか!静かにして下さい!」という声が外から響いてきたが、興奮しているソフィスタの耳には届かなかった。
「ばっ馬鹿野郎!いきなり何すんだよ!おおお驚くだろうがぁぁ!!!」
 激しく脈動する心臓を落ち着かせるように胸を抱えながら、ソフィスタはメシアを怒鳴りつけた。
「うぅ…き・貴様こそ、いきなり私を攻撃するとは、どういう…」
 相変わらずタフなメシアは、すぐに起き上がってソフィスタに反論しようとしたが、「やかましい!黙れ!!」とソフィスタに全力で睨まれ、尻込みする。
「う…何だというのだ…」
 メシアは納得がいかない顔で、ソファーに座りなおした。
 …くっそー!なんだってこんなヤツにときめいちまったんだ!
 姿を変えていたとは言え、こんなデリカシーの無いトカゲ男の、一体どこにときめく要素があったのだろうと思うと、やはり腹が立つ。
 しかも、赤い髪の騎士にときめくようになったのは、ヒュブロ城で彼と出会った、ほぼ直後。もはや一目ぼれである。
 …でも、それって、あの赤い髪の騎士の外見にときめいたってことなのかな…。
 例えば、赤い髪の騎士の外見がソフィスタの好みだったとして、それなら彼に似ている聖なる王の肖像画を見た時も、何かを感じてもよかったのではないだろうか。
 肖像画の聖なる王を、確かにいい男だとは思ったが、それは現代の女性の美的感覚を参考にしただけであって、ソフィスタ自身は別に好みの顔だとは思わなかった。
 ならば、赤い髪の騎士の外見が良いからときめいたということではないのだろうか。
 …でも、初対面の男に対して、外見以外の何にときめけるんだよ…いや、あいつはメシアが化けた姿だから、本当に初対面ってわけでもないけど…。
 赤い髪の騎士は、メシアが肌の色などを人間に似せた姿であり、顔立ちや体格はメシアのままで、今思えばバカ丁寧な仕草や言葉遣いの中にもメシアの癖が現れていたような気がする。声の質に変化は無かったはずだし、天然気味だが潔く正直者で勇敢な性格も、メシアそのものだった。
 …もしあたしが、赤い髪の騎士の見た目と中身がメシアに似ていることに、心のどこかで気付いていたとしたら…。
「って、あたしゃさっきから何を考えてんだ!!!」
 急にソフィスタが叫び、ソファーに拳を叩きつけたので、メシアだけではなく、ソフィスタの肩に乗っているセタとルコス、そして外にいる馬と馭者までもが、体をビクッと震わせた。
「いきなり叫ぶな!びっくりするではないか!」
「すいません!ほんっと静かにして下さい!」
 メシアと馭者に同時に怒られたソフィスタは、自分でもバカみたいに叫んだと思って、「悪かったよ」と謝ると、うつむいて目を閉じた。
 …もうやめだ!昨晩のことは悪夢だと思って、もう考えないことにするぞ!
 そう、ソフィスタは心に誓ったが、アーネスまでの二日間の旅路を、この馬車の中でメシアとほぼ二人きりで過ごすのだという状況を思い出すと、これから何回も、このモヤモヤした気持ちを呼び起こされそうな気がして、気が重くなった。
 そしてメシアは、アーネスに着くまでの二日間、この様子がおかしいソフィスタに、どう接すればいいのだろうと、困っていた。

 空は青く、心地よいそよ風が草木をなびかせている。
 そんな平和な天気と、それとは裏腹の馬車内の気まずい空気は、二日間ばっちり続くのであった。


  (終)

あとがき


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