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ありのままのメシア 第八話


 カーテンを開き、日の光を窓ガラスを通して部屋の中へと導く。
 眩しそうに目を細めて外を眺めていると、「開けて」と掠れた声が、後ろから聞こえた。
 振り返ると、ベッドの上に横たわっている女性が、土気色の顔を、こちらに向けていた。
 潤いを失い、紫色に変色した唇から、再び「開けて」と掠れた声が漏れる。
 男は、閉まっている窓と女の顔を、一度交互に見てから答えた。
「いけません。外は風があります」
「お願い…」
 弱々しく開いた目蓋から、虚ろな瞳を覗かせ、女は男に訴えかけ続ける。男は窓から離れようとしたが、彼女の言葉の意図に気付くと、静かに窓を開けた。
 絹のカーテンがふわりと膨らみ、潮の香を乗せた風が、部屋に流れ込む。
 女は掠れたままの声で、「ありがとう」と礼を言う。
「…そろそろ、妻と子供たちも来ます。あなたに教わって作ったぬいぐるみを、見せたがっていました。きっと、持ってくるでしょう」
 窓から離れ、男はベッドに近付くと、枕元に置かれた水差しを手に取った。
 中身は空になっている。
「そう…それは楽しみね…」
 女は天井を仰ぎ、目を閉じる。柔らかな風に、女の乾いた髪がカサカサと揺れる。
「…いい天気…あの子がいる街の空も、晴れ渡っているかしら…」
 窓から差し込む日差しが、小さく微笑む女を照らす。それは今にも消えてしまいそうなほど儚くて、悲しい微笑みだった。
 女はいとおしそうに、目蓋の裏から遠くを見つめている。その先にある存在を知っているから、男は目頭が熱くなるのを感じた。
 それを女に悟られまいと、男はできるだけ明るい声で言った。
「きっと晴れていますよ。…白湯を入れて参りますね」
 女がゆっくりと頷いたのを確認すると、男は水差しを持って部屋を出た。
 静かに戸を閉めると、男はその戸に背をもたれて上を向き、はあっと息を吐き出した。
 そのまま、戸に背中を引きずってずり落ちてゆき、床に座り込んでしまう。
「神様、お願いです…」
 男は胸の前で手を組み、深く項垂れた。
「せめて、あの方の魂を…メシア様のもとへ…」



   ・第一章 ソフィスタの変化

 王都ヒュブロで開催されたノーヴェル賞受賞式典で、反王子派テロリストと語って王子暗殺及び王権略奪を狙っていた、王子の叔父が、ソフィスタとメシアの活躍によって陰謀を暴かれ、捕らえられた。
 あれから数日。メシアがアーネスに来てから、やっと一月が経過した。
 初めて訪れた頃は、人間に危害を加える化け物と誤解されたりもしたが、今やすっかり街に馴染み、友達も増えた。
 ヒュブロから戻ってきてから今のところ、大きな事件もなく平和に暮らしている。まあ、プルティにいちゃもんつけられたり、アズバンやザハムに夜遊びに連行されたりなんてこともあったが、命懸けの戦いが無かっただけ平和だと、メシアは思っている。
 ただ、何故かソフィスタが以前より怒りっぽく、そして口が悪くなった。
 だが、暴力は減った。
 何かにつけてメシアを蹴っ飛ばしていたのが、最近ではその回数が減り、例え怒って拳を振り上げても、じっとメシアを見つめてから落ち着きを取り戻し、拳を引っ込めるようになった。特に、メシアの顔面を攻撃することは無くなった。
 怒りっぽくなれば暴力も増えるはずなのだが、逆に暴力が減るとは、どういうことなのろうか。全く理解できないソフィスタの態度の変わりように、一度メシアは「妊娠でもしたのか?」と尋ねたことがあったが、その時は、ここぞとばかりに攻撃魔法を叩き込まれた。
 それ以来、彼女の態度に関して、メシアは何も聞かなくなった。

 そしてもう一つ、ソフィスタは図書館を頻繁に利用するようになった。
 何やら調べものがあるらしいが、魔法生物に関することではないというので、メシアもそれに付き合っていた。
 ソフィスタが、文字を学び始める子供が読む本が収めてある本棚を教えてくれたので、彼女が調べものをしている間、暇なメシアは、その本棚から適当に本を取り出し、人間の文字の勉強をしていた。おかげで、アーネスに来たばかりの頃は、人間が使っている文字が全く読めなかったメシアだが、簡単な文字ならだいぶ読めるようになってきた。
 字が読めるようになれば、人間との生活がしやすくなるので、それはいいのだが、ソフィスタは一体何を調べるために、こうも図書館を頻繁に利用しているのだろうか。
 彼女が読んでいる本を見せてもらったことはあるが、メシアにはまだ難しくて、何が書いてあるのかほとんど分からなかった。
 分かったのは、それらの資料は、西のトルシエラ大陸に関するものだということだけであった。


 *

 今日は午後から、メシアとソフィスタは図書館に入った。
 ソフィスタは、離れた場所で本の管理を任されている司書とやらと話をしている。なんでも、特別図書庫とやらに保管されている本を読むためには、司書の許可を得られなければいけないそうだ。
 メシアは日当たりのいい窓側の席に座り、のんびりと子供用の絵本を読んでいた。周りには人が少なく、たまに図書室に入ってきても、メシアには近付こうとしない。
 …図書館であろうがどこにいようが、私に声をかけてくる者は少ないがな…。
 ソフィスタと一緒に、かれこれ一月は学校に通っているメシアだが、仲が良くなった人間は、主に教師ばかりであり、プルティには相変わらずライバル視されている。
 だが、学校の生徒に全く声をかけられないわけではない。たまに声をかけてくる者もいるが、それはソフィスタがトイレなどで一緒にいない時だけであり、彼女と合流すると、声をかけてきた生徒は、そそくさと去ってしまう。
 そういう人間を、ソフィスタは気にも留めていない。
 ソフィスタの態度が変わったのは、メシアに対してだけであり、他の人間に対しては、あまり変わっていないような気がする。
 まだ司書と話をしているソフィスタを横目で見て、メシアはそんなことを考える。
 神より使命を承ってアーネスへやって来て、ソフィスタに魔法生物を作り出す技術を捨てさせ、裁きを与えると言ったが、その使命はまだ果たせていない。
 技術を捨てる決心が付くまで待てということで、メシアはソフィスタを監視するために共に暮らしている。だがその中で、ソフィスタという人間がどのような心の持ち主かを観察し続けていた。
 ただ罪を裁くだけではなく、再び魔法生物を作り出さぬよう、命の尊さを説き、己の罪を悔い改めさせなければいけない。そのためには、ソフィスタがどのような人間なのかを知る必要があると考えたからであった。
 ソフィスタと出会う前、メシアは彼女のことを、魔法生物を作り出すという許されぬ罪を犯した者と思っていた。
 だが、メシアを化け物よばわりして退治しようとしてきた人間に比べると、ソフィスタはメシアを気味悪いだの化け物だの言いはするものの、会って間もないのに手を掴んでくれたり、面倒を見たりしてくれた。
 生命を軽んじている発言はするし、冷たい態度は多くの人間たちに嫌われており、自分さえよければ他はどうでもいいという自己中心的な面が目立つが、全く気が利かないわけではないようだし、優しい面もある。
 メシアをよく殴り飛ばすくせに、いざメシアが誰かに怪我を負わされると、献身に介抱してくれる。
 冷たいんだか優しいんだか、メシアはソフィスタの性格をなかなか掴めないまま、ヒュブロの一件以来、ソフィスタのメシアへの態度が変わってしまった。
 ただでさえソフィスタの心が読めなかったのに、ますます読めなくなってしまった。これが「オトメゴコロ」というものだろうかと、メシアは思った。
 メシアは、読み終えた絵本を閉じ、机の上に置いた。その本の表紙には、一組の人間の男女が描かれている。
 本の内容は、貧しい暮らしを強いられる人間の少女が、一国の王子に憧れ続け、やがて王子と出会い、結ばれという物語であった。
 都合の良すぎる出会い方や、いきなり王子が少女に一目惚れするなど、展開に無理がある気もするが、子供向けの絵本の大半は、子供でも分かりやすいよう原作の恋愛小説の難しい内容を省略し、また子供向けに加筆してあるからだとソフィスタが言っていたので、あまり深く追求はしないことにした。
 …それにしても、平凡な少女や貧しい少女が王子と恋をするという物語が多いな。
 基本的に、恋愛小説などは女性が読むものであり、ヒロインが平凡な少女だと、読者の女性はヒロインに感情移入しやすい。そのため、多くの恋愛小説や子供向けの絵本でも、そういう傾向のものが多くなったのである。
 それに、メシアは知らないが、かつてヒュブロの王子が旅の歌姫に恋をし、恋を成就させるためにクーデターを起こしたという実話は、世界的に有名なラブストーリーであり、現代の恋愛小説などにも影響を与えているからでもあった。
 それはともかく、メシアは今まで読んできた人間の絵本に、平凡な少女と王子の恋物語が多かったことを思い出し、こんなことを考える。
 …やはり人間の女も、地位のある男を好むというわけなのであるな。
 力のある者を好むのは、女の本能である。
 その力の形は様々で、群れを成す種族には、さらに権力という力も加わる。権力がある者の妻となれば、その力によって守られるし、生まれた子供に権力を継がすこともできる。
 まあ、感性豊かな生物であれば、外見や性格の良し悪し、互いに築いてきた関係なども、誰かを好きになる要素として加わるので、ただ権力があれば妻になるという単純な話ではないのだろうが。
 …あのヒュブロの王子も、この物語のように、さぞ多くの女性に好かれているのであろうな…。
 ヒュブロ王国の王子ティノーとは、ノーヴェル賞受賞式典で少し話したことがある程度である。しかし、敵に囲まれていると知っても、冷静で的確な判断を下していたことや、彼より身分が低いソフィスタの能力を認め、彼女の助言に従ったこと、なにより招待客の身を常に案じていたことから、ティノーが王族という身分に傲慢にならず、強くも優しい心の持ち主であることは分かった。
 身分と性格は、おそらく水準以上。外見は、人間から見れば美形らしい。王族ともなれば苦労も多く、その妻となる以前も以後も、一筋縄では済まない生活を強いられるかもしれないが、それは別として、ティノーはメシアも納得するほど、女性に好かれそうな男性であった。
 肉体派のメシアからしてみると、ティノーは男としては体が細すぎると思うが、そのへんの好みは女性それぞれだろう。
 …そういえば、ソフィスタの態度がおかしいと感じ始めたのは、ヒュブロの受賞式典とやらが終わってからであったが…。
「…そうか!そういうことか!!」
 突然、メシアが叫び、さらに勢いよく立ち上がりって座っていた椅子を倒したので、周りにいる人間たちはそれに驚かされ、メシアに注目した。
 司書から分厚い本を受け取っていたソフィスタも、メシアの声を聞いて彼を睨んだが、そのメシアがずかずかと歩み寄ってくることに気付くと、何をしに来る気だと焦った。
「すまんソフィスタ!もっと早く、お前の気持ちに気付いてやるべきであった!!」
 ソフィスタの肩を、そこに乗っているセタとルコスを避けてがしっと掴み、メシアはソフィスタを正面から見据えた。ソフィスタは、ケホッと咳き込んでから、「えっ」と小さく声を上げ、頬を紅潮させる。
「な・おまっ、声がでけーよ!だいたい、何だよ、その、あたしの気持ちって…」
 司書や、他の図書館の利用者たちは、メシアの発言に目を丸くし、次は何をいうのかとワクワクしながらメシアとソフィスタに注目している。それを気にして、ソフィスタは声を潜めてメシアを叱ったが、メシアの暴走は止まらなかった。
「隠さずともよい!生まれ育った環境も立場も違えども、お前に芽生えた、その想いは本物だ!恥じることも、偽ることもない!!」
 ソフィスタは、「あ…え…」などと、何か言おうにも言えない様子である。そんな彼女の様子などおかまいなしに、メシアはさらに続けた。
「遠慮するな!私のことなど気にせず、王子ティノーに愛の告白をしてまいれ!!」
 すると、ソフィスタの表情が、鳩が豆鉄砲でも喰らったようなものへと変わり、あんぐりと開けられた口から「…はあ…?」という声が漏れた。
「ハッハッハッハッ!私はそこまで鈍感な男ではない!お前が王子ティノーに惚れているということくらい、お見通しである!彼ほど立派な人間と一緒にいれば、きっとお前も生命の尊さに気付くことだろう!そして子供さえ産まれれば、私も安心しぉぐっ!!」
 勝手なことを熱く語るメシアの眉間に、ソフィスタが手にしている分厚い本のカドが叩き込まれ、ゴッと鈍い音を立てた。
 話を途中で強制終了されたメシアは、変な悲鳴を上げてソフィスタの肩から手を放し、眉間を押さえて床に踞る。
「…お前なあ…人に誤解されるようなことを大声でベラベラ喋るなよ…」
 静かな、だがハッキリと怒気を感じられるソフィスタの声を聞いて、メシアは彼女を見上げた。分厚い本を掴むソフィスタの腕は、高々と振り上げられ、メシアを見下ろすその表情は冷たく、碧眼の双眸は、射抜かんばかりにメシアを睨みつけている。
「そ・ソフィスタさん、やめて!その本は、ものすごく貴重な本なのよ!!」
 たまらず司書が、ソフィスタの振り上げられた腕を掴んだ。
 ソフィスタは、ゆっくりと司書を振り返り、メシアを睨んでいた目をそのまま司書に向ける。司書は「ひぃっ!」と悲鳴を上げて、ソフィスタの腕から手を放す。
 司書は、自分にまで本のカドが飛んでくると思ったのか、身を固くしたが、ソフィスタは低い声で「…すいませんでした」司書に謝ると、すっと腕を下ろし、本を両手で持ち直した。
 ソフィスタを見上げているメシアも、二人の様子をハラハラと眺めていた生徒たちも、ソフィスタの怒りが収まったのだと思ってホッと息をついたが、その矢先、ソフィスタがメシアを、続けて生徒たちを睨みつけたので、彼らは心臓が凍り付くような感覚を覚えた。
 言葉を聞かずとも、彼女が何を言いたいのかが、よく分かる。メシアには「今の話は二度とするな」と、生徒たちには「今のことは忘れろ」と脅しているのだ。
 それからすぐ、ソフィスタは一つ咳をした後、何事もなかったような顔で、本を持って適当な席に着いた。固まっていたメシアと生徒たちは、今度こそ緊張をほぐす。
「…あれ?ソフィスタはティノーに惚れているのではなかったのか…」
 その考えが間違っていたのだとしたら、ソフィスタの様子がおかしくなった原因は、一体何なのだろう。
 まだ痛む眉間を押さえながら、メシアは床に踞ったままブツブツと呟いていると、真上から少女の声が降ってきた。
「…アンタさあ、限りなく面白いヤツだね。あのソフィスタに、あんなことを言えるなんて…」
 何者かが近付いてくる気配には気付いていたが、声をかけられるとは思っていなかったメシアは、声の主の姿を見ようと、顔を上げた。
 すると、一人の少女と目が合い、その瞬間、メシアは反射的に床を這うようにして少女から遠ざかり、勢い余ってその先にあった本棚に激突した。
 棚は倒れなかったし、中に並んでいる本も無事だったが、衝突音が静かだった館内に響き渡る。
「…アタシの外見に驚いたヤツは、何人も見てきたけど…ここまでオーバーなリアクションをしたのは、アンタが初めてだよ」
 メシアに声をかけた少女は、肩を竦めて彼を眺める。
「お・お前は…!」
 メシアは巻衣を引っ張って顔を隠そうとしたが、今は巻衣を身に着けておらず、絵本を読んでいた席に畳んで置いてあることを思い出した。
 無駄だとは思ったが、腕で顔を覆いながら、隙間から少女の姿を窺う。
 横縞模様のシャツと、無地のキュロットパンツ。シャツと同じ横縞模様のソックスは、太股でベルトに固定され、さらにベルトには、錐と鉄梃といった工具がいくつか差し込まれている。
 色素の薄い金髪は男のように短く、桃色の唇は、褐色の肌に覆われているため、白くも見える。
 ここまでは、今までメシアが見てきた人間の少女の中では珍しい部類では無い。だが、彼女は人間ではなかった。
 先の尖った、長い耳。それ以外は、全く人間と同じ姿。メシアが見たことのない種族だが、その特徴と名前は知っていた。
「エルブフッ!!」
 メシアは、少女の種族の名を声に出そうとしたのだが、途中で本のカドに脳天を襲われたため、ちゃんと発音できなかった。
「…今回は、世界の爬虫類図鑑程度の薄さで済ましてやるが、次に騒いだら世界の生き物大全で脳ミソを抉るからな」
 そう静かに言い放ったソフィスタが手にしている本は、先程の貴重な本とやらよりは薄いが、そのカドの威力はあまり変わらなかった。メシアは頭を押さえて踞る。
「やあ久しぶり、ソフィスタ。…って言っても、アタシの名前、覚えてないだろ」
 先程の褐色の少女が近付いてきて、ソフィスタにそう言った。ソフィスタは、彼女の姿を見ると、思い出したように「あー」と呟いた。
「エルフの女か。名前は確かに覚えていないよ」
「…ハッキリと言うねぇ。これでも、ちょっと前まではこの学校に通っていたんだけど…」
 少女は、頭をポリポリと掻く。ソフィスタは少女から視線を外し、メシアの襟飾りをひっつかんだ。
「ほら、いつまでもそんな所で座っていたら、邪魔になるだろ。さっさと元いた席に着け」
「だ・だがな…うぐっ」
 メシアはソフィスタに文句を言おうとしたが、後ろから襟飾りを引っ張られ、呻き声を上げてしまう。
 そんなメシアとソフィスタのやりとりを、じろじろと見ていたエルフの少女は、一つため息をつくと、メシアにぐっと顔を近づけた。
「アタシは、エルフの中でもはぐれ者だ。他のエルフに、アンタを売るような真似は、したくてもできないさ。だから心配しなさんな、"ネスタジェセル"」
 メシアにしか聞こえないよう、少女は小声でそう囁いた。
 それを聞いて、メシアはピタッと動きを止め、エルフの少女を見つめる。
「おい、何やってんだ!」
 ソフィスタが、さらに強く選り飾りを引っ張った。メシアは「うげっ」と嗚咽を漏らして後ろに倒される。
 そのままぐいぐいと襟飾りを引っ張ってソフィスタは歩き出したので、メシアは犬のように這いつくばって、彼女を追う形になってしまう。
「待て!せめて立ち上がらせろ!」
 メシアは、よたよたとソフィスタに続くも、エルフの少女を気にして振り返る。
 エルフの少女は、ヒラヒラと軽く手を振っているが、どこかぶすっとした顔をしている。
「じゃあね。気が向いたら、会いにいくかも」
 そう言って踵を返し、エルフの少女は図書館の奥へと歩いていった。
 …あの者は、一体…。
 メシアは、エルフの少女の背中を見つめていたが、ソフィスタに「さっさと立てよ」と襟飾りを引かれて強引に前を向かされたので、メシアは「引っ張るな!」と文句を言って立ち上がった。


 *

 特別図書庫の本の貸し出しは禁止されており、特にソフィスタが借りた本は、ノートに書き写すことすら許されない本であった。
 そんな本でメシアの頭を叩いたことは、当然ひどく怒られ、返却する際には「今度やったら二度と貸さない」と司書に警告された。
 本の内容は、聖なる王の伝記であった。ヘロデ王国には、代々王の側近となる一族がおり、伝記も彼らが書き記している。
 基本的に王の伝記は、原本は王宮に保管され、写しなら国外にも出回っている。だが、王家の秘密や、国外に知られてはいけないことが書いてある場合、写しにはそれが反映されず、秘密を伏せて作ったということ自体も、ハッキリと明かさない。
 しかし、特別図書の伝記は、聖なる王の伝記の原本の内容を、そっくりそのまま写しているのだという。
 ソフィスタが調べている聖なる王の伝記が、ちょうどアーネスにあったのは、偶然ではない。
 東のグレシアナ大陸に、魔法の研究者たちが集り、後にアーネスの街となる集落を作り始めたのは、聖なる王がヘロデ王国の王に即位する少し前のことであった。
 そして聖なる王が即位し、それからしばらくして、ヴァンパイアカースが蔓延し始め、感染しない人間の存在が確認され、聖なる王に至っては感染者の呪いまで解いた。
 この時、王が自らの血を調べさせたのが、他ならぬアーネスの魔法使いたちであった。彼らは解呪剤を作り出し、再びヴァンパイアカースの悪夢が蘇った時のために、王の血と呪いの関係を研究し続けたという。
 聖なる王は、彼らの研究に協力し、自らの伝記が出来た暁には、王族の秘密も一切伏せずに作られた写しを寄与することを、アーネスの研究者たちに約束した。
 王の亡き後、約束通り伝記の写しがアーネスに送られ、秘密は厳重に管理され続けた。
 伝記の写しをアーネスに寄与することを考慮し、あえて書かなかった秘密もあるかもしれないが、ソフィスタが借りた伝記には、確かに王家の秘密が幾つか書き記されていた。その箇所には、いちいちチェックを付けられ、余所に明かしてはいけないと注意書きされている。
 実は聖なる王は大の猫好きで、周りに人がいない時は、語尾に「にゃん」をつけて飼い猫に話しかけていたなど、イメージがガタ落ちする個人的な秘密なんかも載っていたが、それはどうでもいいとして。
 中でもソフィスタが気になったのは、王家代々、直系の血筋の中でも、聖痕が現れた者に王位を継がせているという話であった。
 王の子供には、男の子であれ女の子であれ、第一子には必ず聖痕が現れた。
 その聖痕が、どのような形をしているのかは記されていなかったが、聖なる王にも、背中の真ん中左あたりに聖痕が現れたらしい。
 聖痕のことは、昔から秘密にされており、その理由は分からないという。
 …となると、現ヘロデ王にも、体のどこかに聖痕があるってことか。そして…十七年前に起こった事件の元凶と噂されていた、現ヘロデ王の第一子にも、聖痕が現れていたかもしれない。
 十七年前に起こった、獅子吼事件。その原因不明の魔法力消失事件は、化け物のような姿で産まれた、現ヘロデ王の第一子が起こしたものだという噂が、当時は流れていたそうだ。
 …ヴァンパイアカースを解呪する、聖なる王の血。アムセル一帯の魔法力を枯渇させた、現ヘロデ王の第一子。…その力と聖痕は、何か関係あるんじゃないかな…。
 特別書庫には、聖なる王の血を調べていた研究者が残した本もあった。
 本の筆者は、ソフィスタが推測していたように、聖なる王の血は魔法力を消すと考え、次の世代の王の血でも、それを実証したそうだ。
 さらに、血を吸った感染者の呪いを解くには至らずとも、血を吸われても感染しなかった者たちは、先祖がヘロデの王族であったことが判明した。
 これこそが、王の血が魔法力を消し、特に直系の血筋はその力が強いことを証明していた。
 だが、その理由までは解明されていない。結局、世間には、悪しき呪いを消す聖なる力とだけ広まっている。
 …アーネスの研究者が複数集まって、二世代に渡って研究した結果が、コレか…。
 他にも解明できていないことは幾つかあるが、ソフィスタが推測していたことが、かつて実証されたということは、貴重な情報であった。
 そして、さらなる驚くべき事実が、この伝記には記されていた。
 …聖なる王の名は、マーシャス。そう世間には知られているけど、本当の名前は別にあった…。
 かつて、名前を呼ぶだけで暗示をかけられる魔法があると噂されていた時代があった。
 聖なる王が産まれたのは、そんな時代の真っ只中。だから、彼は親から真の名前とは別に、もう一つのマーシャスという名前を授かっていた。
 マーシャスの名は、聖なる王の名前として広く知れ渡っており、世間に出回っている伝記でも、王の名はマーシャスと記されている。
 結局、暗示の魔法の噂はデマであったが、それが分かったのは聖なる王の亡き後であったため、彼の本当の名前は、ほとんど知られていない。
 しかし、聖なる王の名前としてではなく、彼を含む特定の人物や物事を表す単語としてなら、日常で使われることは多い。
 ソフィスタなんか、一月ほど前から毎日飽きるほど使っている。もっとも、それは聖なる王ではない別の者の名前としてだが。
 …メシア。救世主を意味する、あのトカゲと同じ名前…。
 ヴァンパイアカースの危機から、世界を救った、聖なる王。その王の本名から、救世主を意味するメシアという単語が生まれたのかもしれない。
 だが、聖なる王の本名を知る者は少なく、語源もいつしか忘れ去られてしまったのだろう。
 聖なる王の本名が、メシア。そして、顔立ちが聖なる王によく似ている、このトカゲ男の名前も、メシア。
 とても偶然だとは、考えがたい。
 言葉が通じている以上、メシアたちの種族と人間に、かつて交流があったことには、間違いないのだ。もしかしたら、歴代のヘロデ王の中に、メシアの先祖と何かしらの関わりがあった者がいるのかもしれない。
 そして、トカゲのほうのメシアの名前が、救世主を意味する言葉と知って名付けられたものだとしたら、メシアの種族は、三百年ほど前から使われ始めた人間の言葉を知っていることになる。
 それは何故か。その理由は、アーネスの図書館にこもるだけでは、調べ尽くせないだろう。
 他にも、まだまだ謎は多い。むしろ、メシアと聖なる王の繋がりを調べ始めてから、謎は増えるばかりである。
 おかげで探求心に飽きが来ない。
 …やっぱり、このトカゲ…面白いな。
 閉館時間が訪れるまで、聖なる王の伝記を、ソフィスタは楽しみながらむさぼり読んだ。


  (続く)


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