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ありのままのメシア 第八話


   ・第二章 決行!家事と看病大作戦

「…今日という今日は、大人しくしておるのだぞ」
「反省してるよ。…ちくしょう…不覚だ…」
 次の日、ソフィスタは熱を出し、自室のベッドで横になっていた。
 連日、夜遅くまで調べものに熱中するあまり、体調管理をおろそかにしていたのがたたって、この様となった。メシアはソフィスタの体調が悪いことに気付いており、何度か大丈夫かと声をかけてくれたのだが、それより調べることがあったので、大丈夫だと答え続けていた。
 これは自業自得と言えよう。今日が学校の休みの日なのが、せめてもの幸運である。
 ベッドの脇に置かれたテーブルには、セタが運んできた洗面器が置かれ、その中に張られた冷たい水は、窓の外に見える真っ青な空を映して揺れている。
 セタとルコスは、椅子に座っているメシアの肩に乗り、ソフィスタを覗き込むように身を乗り出している。
「…で、静かに寝かせてやりたいところではあるが…お前のぶんの朝食は、どうしようか」
 ソフィスタの額に乗せられている濡れタオルが、まだ冷たいことを確認すると、メシアは引っ込めた手を頭に添え、う〜んと唸った。
 食事を作るのは、ソフィスタの役割。メシアと同居生活を初めてから今まで、彼が食事を作ったことは一度も無い。理由として、調理器具や調味料の使い勝手が分からないことが挙がる。
 メシアは全く料理ができないわけではなく、故郷ではたまに料理をすることもあったし、アーネスまでの旅の中でも、魚や鳥を狩って火をおこして簡単に調理していたらしい。サバイバル料理の腕にかけてはソフィスタより上だが、材料や作り方を聞くとワイルドすぎて、とても家の中では作らせられなかった。
 故郷でたまに作ったという料理も、上手いか下手かと言うと下手なほうだったらしいし、人間が使っている調理器具や調味料の使い方が分からないのでは、食べられる状態まで料理できるかどうかも怪しまれる。
 ソフィスタも、今までは自分のぶんだけで済んだので、風邪を引いても一人でどうにかしてきたし、ちょっと無理をすればメシアのぶんも作れるのだが、メシアはソフィスタに休めと言ってきかない。
 悩んでいると、玄関のドアがノックされる音が聞こえた。
 メシアは立ち上がり、ソフィスタに「ちょっと見てくる」と声をかけ、部屋を出て玄関へ向かった。
 メシアが出ていくと、部屋の中は静まり返るが、外からはボソボソと話し声が聞こえる。メシアが誰かと話しているのだろうが、内容はよく聞き取れなかった。
 しばらくすると、複数の足音が近づいてきた。
 …あいつ、家に誰か上げたのか?
 知らない人間を勝手に家に上げるなと、メシアにはしつけてある。だとしたら、顔見知りが尋ねて来たのだろうか。
 部屋のドアがノックされ、メシアの声が響く。
「ソフィスタ。ザハムと、ザハムの友達が来たのだが…」
「サーシャって呼んでちょうだい、メシアくん」
「おーいソフィスター。調子はどうだー」
 次いで、聞き覚えのない女性の声と、ザハムの声が聞こえた。
 …よりによって、騒がしい奴が来やがった…。
 げんなりしつつも、追い払うとメシアが文句を言いそうだし、風邪で頭がボーっとして何かもうどうでもいい気分だったので、ソフィスタは「入っていいですよ」と言って、彼らを部屋に招き入れた。
「よう。やっぱり風邪ひいたんだってな。見舞いに来たぜ」
 軽く手を振りながら、まずザハムが部屋に入ってきた。私服なので、今日は非番なのだろう。
「やっぱりって…何で知っているんですか?」
 ソフィスタとメシアは、風呂や着替えを除けば、いつも一緒に行動している。もしメシアがザハムに会えば、ソフィスタも彼と顔を合わせているはずだが、ソフィスタの体調が崩れ始めてから今まで、ザハムと会った覚えは無い。
「あん、聞いていないのか?メシアは毎朝、お前が起きる前に筋トレしてんだよ。俺もジョギングしてるから、天気が良い日はほぼ毎朝会ってるぜ。今朝は会わなかったけどな」
 ソフィスタは「ああー…」と掠れた声を出した。
 毎朝メシアが、ソフィスタより早く起き、運動をしていることは知っている。だが、ザハムと会っていることは知らなかった。
 ソフィスタの様子についても昨日の朝にでも聞いたのだろう。
「…そうか…今朝は運動していなかったのか?」
 ザハムの後ろから顔を覗かせたメシアに、ソフィスタは尋ねる。
「当たり前だ。明らかに様子がおかしいお前を残して、外へ出ていけるか。…本当に、大丈夫か?」
 メシアは心配そうに、ソフィスタの顔を覗き込み、彼女の頬に触れた。火照っている肌を少し冷やしてくれる感じが気持ちよかったが、急に恥ずかしいような気持ちになって、ソフィスタは体を横に転がし、メシアに手を引っ込めさせた。
「だ・大丈夫だって言ってるだろ。これくらい、一日寝てりゃ治る…ゲホッゲホッ」
 ソフィスタは咳き込み、その拍子で、かろうじて額に張り付いていた濡れタオルが落ちる。それを見たメシアが、ますます彼女を心配し、背中をさすってやろうとしたが、ザハムと一緒に来た女性に止められた。
「ソフィスタちゃんの言う通りよ。ちゃんと栄養を取って、しっかり寝ていれば治るから、そっとしてあげなさい」
 ソフィスタが振り返ると、品の良さそうな女性が、ソフィスタの目の前で微笑んでいた。
 緑と白のチェック柄のワンピースを着た、ザハムと同じくらいの歳の女性である。
 女性は、濡れタオルをソフィスタの額に戻してやる。
「あ、そいつはサーシャ。俺の友達だ。道ばたで会って、一緒に来るって言うから、ついでに連れてきたんだ」
 ザハムが、そう女性を紹介すると、彼女の表情がムスッとしたものへと変わり、彼を振り返って「ついでって何よ」と言った。ザハムは首を竦ませ「ゴメン…」と謝る。
「まったく。あなたたち、デリカシーが無さすぎよ。…ところで、ソフィスタちゃん。朝食はまだでしょ」
 以外と気の強いサーシャは、ソフィスタに向き直って、そう尋ねてきた。「ちゃん」付けで呼ばれたことに、馴れ馴れしいと思いつつも、ソフィスタは「はい」と答える。
「それなら、私が何か作るわ。メシアくんも、まだ何も食べていないんでしょ。材料があれば勝手に作るけど…いいかしら」
 それを聞いて、ソフィスタは答えに迷った。
 家にあるものを初対面の人間に使われるなど、あまりいい気はしない。そもそも、このサーシャという女性を、信用してもいいのだろうか。
 だが、メシアだけに何もかも任せられないし、ザハムもザハムで、何をしでかすか分からない。悪気がないことは分かっているが、彼らの行動は予測不能で、状況が悪化する恐れがある。
 ここはサーシャを頼ったほうがよさそうだ。
「…いいですよ」
 そっちが好き好んで手伝うと言ったのだから、勝手にしろ。そういう意味で、ソフィスタはサーシャに答えた。しかしサーシャは、そんなひねくれた意味には気付かず、にっこりと笑い、「任せて!」と胸を張った。
「それじゃあ、メシアくん。一緒に来て手伝って。ザハムはソフィスタちゃんを看ていてあげて」
「いえ、私の面倒は、そこのセタとルコスに看てもらいます。食欲も無いし、しばらく寝ています」
 ソフィスタは、メシアの肩に乗っているセタとルコスを見ながら、そう言った。二匹はテーブルに飛び移り、ソフィスタの額の濡れタオルを取り替え始め、看病ができることをサーシャにアピールする。
「あらそう。じゃあザハムは、外でアリの数でも数えていて」
「何で!?俺が見舞いに来たのに、何でついでのお前に追い出されにゃならんの!?」
「だって、あなた、他にできることないでしょう。いても騒がしいだけじゃない」
「あるよ!一人暮らしをなめんなよ!炊事も洗濯も掃除もできる、家事万全の独身男だぜ俺ァ!」
「自慢になってないわよ。それじゃあ、ソフィスタちゃんはゆっくり寝ていてね。あなたのぶんの食事も、何か作り置きしておくわ」
 サーシャはソフィスタに手を振って、部屋を出ていった。それをザハムが騒ぎながら追い、最後にメシアが「ゆっくり休んでおれ」とソフィスタに声をかけてから、部屋を出た。
 パタンと静かにドアが閉まると、セタとルコスがタオルを絞る音以外は、何も聞こえなくなった。ソフィスタの部屋は道側に面していないし、比較的人通りが少ない場所の家を選んで借りているので、日中でも静かであった。
 ソフィスタは、濡れタオルの位置を整え、目を閉じる。
 …それにしても、誰かをこの家に上げたのって、メシア以来じゃないか…。
 家に上げるどころか一緒に暮らすようになったメシアは、あくまで研究の対象として同居を許し、今でもそう思っているつもりである。
 ザハムたちを勝手に家に上げたのはメシアだし、ソフィスタも誰かが家に上がったと知った時は、良い気分にはなれなかったが、それでも台所を使うことを許すなど、人間不信を自覚している自分としては、ありえないと思う。
 一人ではメシアの面倒を見きれないから、誰かを利用しているだけだ。そう自分に言い聞かせようとしても、心のどこかが納得しない。
 それに、先程メシアが部屋を出て行った時…メシアが後ろ手でドアを閉め、彼の姿が見えなくなった時、ソフィスタは確かに寂しさを感じた。
 いつも嫌というほど顔を合わせ、彼をうっとうしく感じたこともあるのに。メシアがソフィスタに触れようとした時、それを拒んだくせに。
 メシアが部屋を出る前に言った「ゆっくり休んでおれ」という言葉も、やけに耳に残っているような気がする。
 …って、何か、あたし、さっきからメシアのことばっかり考えてないか?
 それに気付いたソフィスタは、意識すまいと心がけていた、メシアに対する恋にも似た気持ち…一度は恋心と認めた感情が、どっと沸き上がり、風邪とは別の熱まで上がり始めた。
 …やめやめ!もう何も考えるな!体調悪いんだから、さっさと寝ろ!!
 ソフィスタは、極力何も考えまいとしたが、努力すればするほど、メシアのことを意識してしまう。
 それでも、風邪で体がだるいことも手伝ってか、しばらくすると眠りにつくことができた。


 *

 サーシャは魔法アカデミーの魔法研究学部の卒業生で、炎の魔法を少々使えるし、魔法に関する知識も、それなりにあるという。
 風邪を治す魔法も、あるにはあるそうだが、サーシャには使えないし、体を休めて治るものであれば、自然に任せて回復を待った方がいいらしい。
「ということで、今日は家事と看病大作戦を決行する!」
 サーシャがキッチンで朝食を作っている間、メシアとザハムは、居間で今日の予定を話し合うことにした。
 二人はテーブルに向かってソファーに座り、用意したメモ用紙と筆記用具を広げると、ザハムが声高らかに宣言した。
「まず、ソフィスタの看病はセタとルコスがやるとし…昼食と夕食の用意と、材料も買わなければならんな」
「掃除と洗濯は?」
「掃除は私の役割なので問題は無い。洗濯はソフィスタの役割なのだが、私が手伝おうとすると、睨まれて断られるのだ」
「あ、そっか。女物の下着もあるしな。じゃ、洗濯は俺がやる」
「ま〜ザハムったら、相変わらず冗談がヘタねぇ♪」
 サンドイッチを盛った皿と、三人分のお茶を運んできたサーシャが、居間に入ってくるなり、にっこりと笑ってザハムに言った。
 その笑顔に含まれた殺気を感じ取ったザハムは、大袈裟に両手と首を横に振った。
「スイマセン!!洗濯はサーシャ様にお願い致します!!」
「わかればよろしい。一応、ソフィスタさんにも掃除と洗濯のことは聞いておくわ。家事を手伝うとは言え、人の家を勝手にいじるのって、あまりよくなさそうだから」
 サーシャは、サンドイッチが盛った皿をメシアに渡し、三人分のティーカップをテーブルに並べる。
「私とザハムは、もう朝食は取ったから、これは全部メシアくんのぶんよ。さ、食べて。ソフィスタちゃんのぶんも、別に作り置きしてあるから」
 そしてサーシャも、ザハムの隣に腰をかける。
「え〜…気を取り直して、今日の仕事を確認します」
 ザハムは鉛筆を取り、メモに『掃除、洗濯、買い物』と書き記した。
「洗濯はサーシャに決定だな。掃除は、いつもメシアがやっているってんなら、メシアにやらせて、俺が買い物へ行こうか」
「うむ。買い物は、いつもソフィスタと一緒に行くが…金の使い方など、私にはまだよくわからぬので、やってくれると助かる」
 そう答えてから、メシアはサンドイッチを口に運んだ。
 お金の管理はソフィスタがやっているし、店で売っている物の価値が分からないメシアは、一人で買い物などしたことがなかった。ソフィスタと一緒に買い物をする時も、メシアは荷物持ちで、支払いはソフィスタがやっている。
「そうなの?買い物のしかたとか、教えて貰っていないの?」
 サーシャに問われ、メシアは頷いた。するとサーシャは、思いついたように手を叩き、ザハムにこう言った。
「それじゃあ、メシアくんも買い物に連れて行って、品物の買い方を教えてあげなさいよ」
 するとザハムも手を叩き、「そりゃいいな!」とサーシャの提案に賛成した。メシアは口の中のものを噛みながら、サーシャを見る。
「でしょっ!メシアくんも、これを機に買い物くらいできるようにならなきゃ、今後やっていけないわよ。そうしなさいよ」
「そうだよな。またソフィスタが風邪をひいたなんてことがあった時に備えて、俺が買い物のしかたってやつを教えてやるぜ」
「じゃあ、買ってくるものをメモして渡すわ。掃除は私に任せてね」
 二人は矢継ぎ早に話を進め、メシアが何か言う暇も与えない。しかし彼らが話す通り、買い物のしかたを覚えて損は無いと思うし、特に意義も無いので、メシアはマイペースにパンを噛んでいた。
「よし。それじゃ、朝食が済んだら買い物に行こうぜ。それまでに俺らは買うものを決めておくからな」
「もう一度、今ある食料を調べてきたほうがいいわね。メシアくんは、ゆっくり食べていなさい」
 そう言って、ザハムとサーシャは、お茶も飲まずに居間を出ていった。
 残されたメシアは、食事を続けながら、自室で眠っているはずのソフィスタを心配する。
 …大丈夫だと言っておきながら、大丈夫ではなかったではないか。無理をしおって。
 風邪というものは、多くの動物に共通した症状が現れる。しかし、こうも本格的な風邪をひいた人間を見たのは、ソフィスタで初めてだ。
 同じ人間であるザハムとサーシャが、心配するほどひどくはないと言えば、その通りなのだろう。だが、辛そうな顔をしていたソフィスタを思い出すと、やはり心配になるし、いつも元気にメシアを叩きのめしたり皮肉を言ったりしていたソフィスタが、急に静かになると、何だか寂しい気もする。
 べつに、叩きのめされたいわけでも、悪口を言われたいわけでもないが。
 …あの街で出会った女性も、今のソフィスタのように…病気を隠して元気そうに振る舞っておったな…。
 歯ごたえの良いレタスを、パンと一緒に噛みながら、メシアは窓へと視線を投げた。
 窓から差し込む日差しが、部屋の中を温めている。
 少し風があるようで、木々は葉を揺らし、カサカサと音を立てている。
 メシアは目を細め、窓の外の景色を見つめた。
 彼の瞳には、この場から見える景色が、確かに映っている。だが心には、北に遠く離れた場所にある街と、そこに住む者の姿が浮かんでいた。
 …よい天気だ。…あなたも、今頃…この日差しを浴びているのだろうか…。
 しばらく、ぼーっと窓の外を眺めていたが、キッチンのほうから「つまみ食いするな!!」というサーシャの声と、間髪入れずに「スイマセン二度としません!!」というザハムの声が聞こえ、我に返ったメシアは、食事を再開した。


 *

 朝食を取り終え、買う物を確認してから、メシアはザハムと共に家を出た。
 既に店が開いている時間帯で、大通りも人で賑わっている。
 いつも一緒に歩いているソフィスタとは歩幅に差があり、彼女に合わせてゆっくりと歩くことに慣れてしまったメシアは、早歩きのザハムに追い越されては差が開き、その都度走っていた。
 しかし大通りに出た頃には、ザハムの歩幅にも慣れ、巻衣の衣擦れの音も安定してきた。
「メシア。いつもどこで肉を買っているんだ?」
 メシアはザハムにそう声をかけられ、メシアは少し考えてから答える。
「主に、この先にある青い看板の店で買っておる」
「あ〜あの店か。いい所に目ェつけてんな。あそこは質が良くて、値段もそこそこ…」
 そう言いかけて、ザハムは立ち止まった。
「…どうかしたのか?」
 ザハムより二歩ほど先に進んだところで、メシアも立ち止まり、ザハムを振り返る。
「…ごっ、五割引ィ!!?」
 そう叫ぶザハムの視線を辿った先には、人の行列が出来ていた。そして行列の先には、まだ開店準備中の雑貨屋がある。
 わりと大きな雑貨屋で、メシアもソフィスタと一緒に入ったことのある店だ。
 看板には垂れ幕が吊されており、ザハムはそれに記されている文字を読み上げていた。
「早朝タイムサービス?お一人様一点限り、トイレットペーパーが半額かぁぁ!!こりゃ並ぶっきゃねえ!!」
 そんな主婦みたいなことを叫びながら、ザハムは行列に加わるべく、走り出した。
「ま・待てザハム!トイレットペーパーは買う物の内に含まれておらぬぞ!!」
 メシアが、その場から声を張り上げてザハムを止めた。ザハムは立ち止まり、メシアを振り返る。
「安いうちに買い溜めしておいたほうがいいんだよ!大丈夫、肉以外はこの店で買いそろえられるから!メシアは鶏肉だけ買ってきてくれ!!」
 一緒に買い物をしてこいとサーシャに言われているはずなのに、ザハムはメシアに単独で買い物に行かせるつもりだ。
「し、しかし、私だけでは、どう買い物をすればいいのか…」
「大丈夫!鶏肉五十グラム買えばいいだけだから!ムネでもササミでも何でもいい!んで金払ってこい!他に分からないことがあったら、人に聞け!買ったら家に帰れよ!!」
 そしてザハムは再び走り出し、列の最後尾に着いた。
 残されたメシアは、ため息をつき「分かった…」と小さく返事をすると、歩き出した。当然、ザハムに声は届かないが、おそらく声を張り上げても、安売りに燃えるザハムの耳には届くまい。
 …だが、これも一つの試練であろう。何事も経験し、覚えてゆかなければならん!
 そう考え直し、ソフィスタやザハムがいなくても、きっちり買い物をこなそうと、メシアは意気込んだ。すると、自然と足取りが速くなる。
 …なに、難しいことではないはずだ。トリの肉を五十グラムを買えばよいのだ!
 メシアは「トリの肉…五十グラム…」と何度も復唱しながら、肉屋へと向かった。


 *

「ソフィスタちゃん、開けるわよ」
 ソフィスタが眠っていることも考慮して、サーシャは小さい声でそう言ったのだろうが、既にソフィスタはサーシャの気配を察して目を覚ましていた。
 細く開かれたドアの隙間から、サーシャがソフィスタの様子を覗く。
 テーブルの上にいたセタとルコスは、警戒するように体を膨らませたが、ソフィスタが「大丈夫」と声をかけると、元の大きさに戻った。
「あ、ごめんなさい。起こしちゃったかしら。…入るわね」
 サーシャは部屋の中に入り、食器を乗せた盆を、テーブルへと運ぶ。セタとルコスは、ソフィスタのベッドの上に飛び移り、テーブルを空けた。
 静かにテーブルに置かれた盆の上には、適当な蓋をかぶせた深皿と、透き通った水で満たされたコップ、銀のスプーンが乗せられている。
 サーシャが深皿の蓋を開くと、美味しそうな香りが湯気と共に立ち上った。
「お粥を持ってきたけれど、食べる?」
 サーシャに尋ねられ、ソフィスタは、少し考えてから首を横に振った。まだ食欲は沸いていない。
「そう。じゃあ、保存の魔法をかけておくわ。このままにしておけば、夕方くらいまでは保つけれど、蓋を開けると魔法の効果が消えるからね」
 保存の魔法は、物質操作系に属する魔法で、外から加わる熱や冷気などを遮断し、溶けない氷や冷めないお湯、乾かないお絞りなども作れる。
 ただし、魔法をかけられている間は、氷に触っても冷たくないし、お湯を飲んでも温かくならず、お絞を握っても水気を感じない。物を保存するということは、その物から出てくる水蒸気や熱なども、一切外に漏らさないということなのだ。
 それはそうと、サーシャは深皿に蓋を乗せ、短い呪文を呟くと、人指し指で蓋と深皿をなぞった。それで、お粥や食器に魔法をかけたのだろう。
 お粥は、蓋を開けた時に漏れた香りだけを残し、熱も香りも発しなくなる。
「ザハムとメシアくんは、買い物へ行っているわ。洗濯と掃除があるなら、私がやるわよ?洗濯は、まず男に任せることはできないでしょう」
 確かに、洗濯を男に任せることはできない。だが女でも、他人に自分の服や下着を扱われるのも、ソフィスタは嫌だった。
 今朝はメシアも運動していないと言うし、特に急いで洗わなければいけないものは無いはずだ。
 今日一日休めば体調も良くなるだろうし、洗濯も掃除も明日やろう。そう考え、サーシャに答えた。
「いいえ、洗濯も掃除も、私が明日やります。食事を作って貰えるだけで充分です」
「そう。まあ、無理はしないでね」
 サーシャは、余計なお節介はしない、わりとあっさりとした人間のようだ。それはそれで、彼女の気遣いなのかもしれない。
「…サーシャ、さん」
 ソフィスタは上を向いたまま、サーシャに声をかける。サーシャは「なに?」と返事をした。
「どうして、ここまで面倒をみてくれるんですか?」
 そう、ソフィスタはサーシャに尋ねた。サーシャは、困った顔をする。
「どうしてって…だって、あなた、風邪をひいているんでしょう?誰かが看病をしてあげなきゃ…」
「そうじゃありません。風邪をひいているからと言って、ほとんど見ず知らずだった人間の世話をする気になったのは、なぜですか?」
 ソフィスタはサーシャを、少なくとも悪い人間ではないと判断していた。
 しかし、たかが風邪をひいた人間全てを気遣うほどのおせっかいだとは思っていない。面識が全く無い人間が風邪をひいたと聞いただで、看病をしようという気になるなど、ありえない。
 ザハムがソフィスタのお見舞いに行くのだと知り、男一人をお見舞いに行かせても不便が多いだろうと考えただけかもしれないが、それにしては面倒見がよすぎる気がする。本当は、何か別の目的もあったのではないか。
 その目的は何かを、ソフィスタはサーシャに尋ねたのだった。…まあ、ソフィスタが人間不信だから、人の親切を素直に受け入れないだけなのかもしれないが。
「う〜ん…だって、ザハム一人をお見舞いに行かせても、役に立たないでしょうし、騒がしくなるだけだと思って…いえ、違うわね…」
 わりと軽い気持ちで、ソフィスタはサーシャに尋ねたのだが、サーシャは真剣に考え込んでいるようだ。
 しばらく、サーシャはう〜んと唸っていたが、急に、何だかスッキリしたような顔をすると、ソフィスタに答えた。
「正直に言うと、ザハムと一緒にいたかったし、ザハムが一人で女の子のお見舞いへ行くのも、ちょっと許せなかったからよ」
 きっぱりと答えたサーシャを、ソフィスタは「えっ?」と目を丸くして見つめる。サーシャは、少し恥ずかしそうにソフィスタから目線を逸らす。
「アイツには内緒にしてね。私、ザハムのことが好きなの」
「ええぇぇっ!!?」
 ソフィスタは、思わず毛布を捲って身を乗り出してしまうほど、驚いた。額に乗せられたいた濡れタオルが枕の上に落ちると、ちょっと驚きすぎたと反省し、濡れタオルを拾って額に戻し、横になって毛布をかけ直す。
「…これを言うと、だいたいの人が、そうやって驚くのよね…」
 サーシャの声は、少し不機嫌そうであった。ソフィスタも、今の驚き方は失礼だったと考え、サーシャに「ごめんなさい」と謝った。
「いいのよ。私自身も、何であんな奴に惚れちゃったんだろうって思うことがあるから」
 サーシャは、長いため息をついた。
 彼女がザハムを「あんな奴」と言った理由は、ソフィスタにもよく分かった。
 走り出すと止まらないし、一人でも騒がしいし、やることも話すことも下品。とても自警隊に入隊できたとは思えない性格である。惚れるどころか、友達になりたくもないし、一生関わらずにいたかったとすら思う。
 そんな人間に、なぜサーシャは惚れているのだろうと、ソフィスタは思ったが、ソフィスタ自身も「あんな奴」と呼べる緑色の熱血野郎が人間化した姿にときめいてしまったのだから、サーシャの恋をにケチをつけられる立場ではなかった。
「…私、元々はラゼアンに住んでいたの。この大陸の西側にある、港町にね」
 ソフィスタが黙っていると、サーシャが何やら話し始めた。
「魔法アカデミーの入試に受かってから、アーネスで一人暮らしするようになったの。ザハムと知り合ったのは、入試前にアーネスを訪れた時。彼も、自警隊に入隊するために勉強をしていたわ」
 どうやら、ザハムと出会い、惚れた経緯を話してくれるようだ。尋ねてまで聞きたいとは思わなかったが、興味がないわけではないので、ソフィスタはサーシャの話に聞き入る。
「お互い、入試に合格しようって励まし合っていたのだけれど、ザハムだけ受からなくて…。ザハムには悪いけど、彼は筆記は落ちるだろうって、私は予想していたわ。そしたら本当に筆記で落ちちゃった」
 やはりザハムは、頭を使うことは苦手だったようだ。まあ、今でも苦手なのだろうが。
「その時は、すごく悔しがっていたわ。でも、自警隊に入隊して、生まれ育った街を護るのが、子供の頃からの夢だからって、諦めずに勉強して…四回くらい失敗したけれど、最後には入隊できたわ」
 サーシャの話を聞いて、ソフィスタはザハムを見直した。
 苦手なものを克服し、目標を持って何度も挑戦し続けることは、とても難しいことだ。挫折を味わいながら不向きなことを続けるには、相当な根性が必要である。
 四回も失敗しているという事実はともかく、結果的には成功を収めた彼の努力は、決して馬鹿にできるものではない。
「そんな諦めの悪さと、夢のためなら何でも乗り越えてやるっていう負けん気が、カッコイイって思ったのが、運の尽きだったかしら。単純でバカでスケベで暑苦しくて…そんな奴だとは分かっていたのに…恋って怖いわぁ…」
 怖いと言うわりには、ザハムのことを話すサーシャの頬は赤く、瞳は輝いていた。実に典型的な、恋する乙女の表情である。
「ザハムには自分の気持ちを伝えないのですか?」
「…言っても伝わらなかったわ。あのバカ、ものっっっすごくニブいし、私のことを友達としか思っていないのよ。スケベのくせに、人の好意に気付かないなんて、男ってホント馬鹿よねっ。だから今は、アイツを振り向かせるために努力中よ」
 サーシャは少し性格がキツそうではあるが、面倒見はよさそうだし、アーネス魔法アカデミーに通っていたのだから、頭もいいだろう。それに顔も可愛いほうだし、スタイルも良さそうだし、何よりザハムを想っている。そんな彼女に振り向かせる努力をさせるなど、ザハムはどれだけ鈍感で、贅沢なのだろうか。
 サーシャの先が思いやられる。いっそザハムが彼女と恋仲になってくれれば、彼のうっとうしさが、少しはマシになりそうなのだが。
「…でも、私も友達として付き合っていた時のノリが抜けないし、また告白する勇気が出せないのも事実だし…苦労しているのよ…」
 そこまで話すと、サーシャはソフィスタから逸らしていた視線を戻し、ニヤリと微笑んだので、ソフィスタは嫌な予感がした。
「…で、ソフィスタちゃんのほうは、どうなのよ。お年頃なんだから、好きな人くらいいるんじゃないかしら?」
 なんとなく、聞かれそうな気はしていたが、いざ聞かれると、顔が熱くなるのを押さえられなかった。風邪をひいていなければ、赤く染まった頬を誤魔化すことができなかっただろう。
「…いませんよ。好きな人なんて」
 少なくとも、好きな"人間"がいないのは、確実だ。できるだけ平静を装い、そっけない答え方をしたつもりだ。
「そうなの?ザハムからは、メシアくんと同棲生活中って聞いたけれど…」
「な…ん・なわけありません…」
 恋をしているならまだしも、それを飛び越えて一気に同棲生活に持ち込まれてしまい、ソフィスタは動揺を声に現してしまった。
 サーシャがソフィスタの動揺を、どう捕らえたのかは分からないが、サーシャはクスッと小さく笑うと、「それじゃあ、私は居間で二人を待たせてもらうわ」と言って、部屋を出ていった。
 ソフィスタは、ふうっと息をついて、強張っていた全身から力を抜いた。
 …なんなんだよ、あのサーシャって人。何考えているのか、さっぱりわからない。
 自分の気持ちをホイホイと軽く話すし、鋭いところを突っ込んでくると思いきや、あまり干渉してこない。あれが大人の女の余裕というものだろうか。
 だが、好きな男の名をハッキリと言えるところは、羨ましいとソフィスタは思う。
 いっそ認めてしまえば、このモヤモヤした気持ちもスッキリするのだろうか。だが、認めたくないから、モヤモヤしているのだ。
 …もう考えるのも面倒くさいし、熱で考えもまとまらない…今は休まなきゃ…。
 ソフィスタは、風邪を理由に深く考えるのをやめ、目を閉じた。


  (続く)


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