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ありのままのメシア 第八話


   ・第三章 エルフ

 人間が用いている文字は、簡単なものしかメシアには読めない。
 だが、店のシャッターに貼られた紙の『休業』という文字は読めたし、理解することもできた。
 どうやら、明後日までは店は開かないらしい。店内改装のため臨時休業と紙には書かれていたが、そこまでは読めなかった。
 …なんと都合の悪い…。これでは、トリの肉五十グラムが買えぬ…。
 メシアは、がっくりと肩を落とす。
「困ったな…他にトリを買える店は、あったか…」
 ここで突っ立っていても仕方がないので、がっくりしつつも道を引き返し始めた。
 …うぅむ…ここはザハムと合流し、トリ五十グラムを売っている店が他にないか、聞いてみようか…。
 そこまで考えて、メシアはザハムに「分からないことがあったら、人に聞け」と言われていたことを思い出した。
 …そうだ。なにもザハムを探さずとも、他の人間に聞いてもよいのだ。
 もう街の人間はメシアを見慣れているので、声をかけても逃げられるようなことはないだろう。ちょうど後ろから近付いてくる足音があったので、さっそくメシアは振り返り、その足音の主に尋ねようとした。
「あのっ」
「なに?」
「うおぅっ!?」
 声をかけられた者がテンポ良く返事をし、さらにメシアもテンポ良く声を上げて驚いた。
 後ろにいたのは、先日図書館で会った、褐色の肌のエルフの少女であった。
 昨日も彼女の姿を見た時は驚き、思わず後退しすぎたが、今日はその場に留まった。
「お・お前は、昨日の…」
「おや、今日は逃げないんだね」
 エルフの少女は、膨らんだ胸がメシアの腹筋に触れそうなほど近づき、彼を見上げた。
「アンタ、メシアって名前なんだってね。アタシの名前はタギ。よろしく」
 タギは、じっとメシアの顔を見つめる。メシアも、戸惑いながら彼女を見つめ返す。
「逃げないのかい?アタシは、アンタたちが恐れている、エルフだよ」
「…いや、お前は違う…エルフではあるようだが…」
 人間と似た姿で、耳だけ尖っている種族。メシアはエルフという名の種族の姿を、故郷ではそう教えてもらっており、タギの姿は、それと一致する。
「エルフは我々を嫌い、この地に存在することを認めない。そして我々の種族を、侮辱する言葉で呼んでいるはずだ。だが、お前は私を"ネスタジェセル"と呼んだ。それは、我々の種族の呼び名であり、我々にとって神聖な意味を持つ。侮辱しているのなら、その名で呼ぶはずがない」
 タギは目を細め、「へぇ」と呟く。
「アンタたちが、自分の種族を"ネスタジェセル"って呼んでいることは、アタシも知っている。だから、それが正式な名称だと思って、そう呼んだだけだよ。…アタシはアンタたちのことを、人間よりは知っているつもりだけど、アンタたちも、アタシらの種族のことを、けっこう知っているみたいだねぇ」
 ケラケラと笑いながら、タギはメシアから一歩後ろに離れ、彼に背を向けた。
「ねえ、どこかで二人だけで話さないかい?アンタも、アタシに聞きたいことあるんじゃないの?」
 そう言って、メシアの返事も待たずにタギは歩き始めた。
 お使い中のメシアは、寄り道してもいいものかどうか迷ったが、五十グラムのトリの肉が売っている場所も含め、確かにタギには聞きたいことがあるので、少しの時間ならいいかと思い、彼女について歩いた。


 *

 メシアの故郷は、人間たちと同じ大地の上にあって、人間の世界とは完全に隔離された場所にある。
 メシアたちの先祖が、そこで寄り添うように暮らすようになったのは、人間に迫害されたからだと、物心がついた頃には既に教えられていた。
 だが、メシアが九歳になったころ、格闘技の師が、当時の人間に手を貸していた種族がいることを、初めて教えてくれた。
 それが、エルフと呼ばれる種族だと。
 エルフは数こそ少ないが、寿命が長く、特にエルフの男は、恐ろしく強いという。
 彼らは、ネスタジェセルがこの世界に生きることを、この世界に存在した証を残すことすらも許さない。そこに理由は無く、それは何年経とうと消えることのない、エルフの本能。ネスタジェセルの存在を消すために生まれたと言っても過言ではない。
 そして、多くの先祖が、エルフによって虐殺された。そう教えてもらった時、ひどく怖く感じたことを、メシアは覚えている。
 故郷を発つ直前でも、エルフには見つかるな、決して戦いを挑もうとするなと、師から念を押された。
 だが、エルフの女性については、これといって何か聞いたことは無い。
 喋ることも振り返ることも無く、ただスタスタと先を進むタギの背中を見つめながら、メシアはエルフについて、故郷で聞いたことを思い出していた。
 やがてタギは、人目につかない路地に入り、奥の袋小路まで進んで立ち止まった。
 後ろを歩いていたメシアも、彼女より三歩ほど離れた位置で立ち止まる。
「ん〜…ここでいいか」
 タギは、ざっと辺りを見回してから、メシアと向き合い、早速口を開いた。
「で、アンタたちにとって、アタシたちエルフは何だと思われているんだい?」
 ちょうど考えていたことを質問されので、少し驚いたが、メシアは正直に、師から聞いた話をタギに教えた。
 だが、あくまでエルフがどう思われているかを教えるだけであり、故郷の場所など、人間にも隠していることは決して話さなかった。
 なぜか不敵な笑みを浮かべつつも、タギは黙ってメシアの話を聞き続けていた。
「…そして今となっては、人間たちは、もはや我々が存在していたということすら覚えていまい。だがエルフは、今でも我々の姿を見れば、即座に命を奪おうとするだろう。…そう、私は教えられておる」
 俯き加減だったメシアは、そこまで話すと顔を上げ、タギに「本当なのか?」と尋ねる。
 タギは、「本当だよ」と即答した。
「ネスタジェセルは見つけたら直ちに始末しろ。それがエルフの掟だって教えられている。そしてネスタジェセルの存在を、決して人間に知られるな。それが世界の…そして人間のためだってね」
 メシアは「どういうことだ?」と問う。
「さあね。詳しい話を知る奴は、ほぼいないし、どうもアタシは、エルフの中でも、その本能が薄いようで、昔からはぐれ者扱いされててさ…おかげで、子供の頃に国を追い出されちまった」
 タギは肩を竦め、「おかしな話だろ」と自嘲するように笑った。それはタギ自身にではなく、エルフという種族に対しての嘲笑のようだ。
「今やネスタジェセルの存在なんか、伝説みたいなもんだ。だから最近のエルフはたるんでいるけど、掟や秘密は子供に伝え続けている。そもそも、何で人間には秘密にしなきゃいけないんだろ。その徹底ぶりも異常だし…」
 そこまで話して、タギは下を向いて息を吐き出し、「ちょっと喋りすぎちまったかね」と呟いた。
「じゃ、もっかいアタシに質問させとくれ。アンタは、何が目的でアーネスへ来たんだい?」
 この問いには、メシアはすぐに答えることができなかった。
 今まで、アーネスを訪れた理由を尋ねられると、「ソフィスタは歪んだ命を作り出す技術を編み出し、我らが神はそれを嘆いた。だから彼女に裁きを下すために、メシアをアーネスへ使わせた」というような答えを返していた。
 神の姿や、神の誕生についても、ソフィスタには話したし、他の人間に聞かれても答えられる。
 だが相手が、かつて先祖たちを虐殺したというエルフとなると、話は変わる。人間には話してもいいことを、ネスタジェセルの天敵であるエルフに話してもいいものだろうか。
 悩んでいると、タギが「答えたくないなら答えないでもいいよ」と言った。
「噂くらいなら聞いているよ。神に命じられて、ソフィスタを監視しているとか。理由は知らないけれど、ソフィスタの承諾を得ているようだし、ソフィスタに危害を加えるようなこともなさそうだね」
 タギは、何の意味があってか歩き出し、メシアの脇を通って背後に回る。そこからさらに三歩ほど進んだところで、タギは立ち止まった。
「エルフは数が少ない。一つの島国の半分で収まる程度しかいない。アタシたちの国の外でエルフを見かけることも、めったに無い。でも…アンタはアタシと会った。はぐれ者でも、エルフのアタシにね。まあ、しばらく留守にしていたけれど、一応アタシはアーネスに住み着いているんだから、出会って当然か」
 メシアがタギを振り返ると、タギは、メシアに背を向けて立っていた。彼女の先にある通りでは、人が行き交っている。
「もしアタシが、はぐれ者じゃなくて、アンタが聞いている残虐なエルフだったら…アンタ、殺されているよ」
 タギは、ちらりとメシアを見た。その視線から感じられる怒りと、「殺されている」と言う言葉に、メシアは緊張する。
 しばらく互いを睨むように見つめていたが、先にタギが視線を逸らし、ふうっと息を吐き出した。
「…とりあえず、アタシのほうからは、もう質問は無いよ。アンタは?」
 タギにそう言われ、メシアは少し考えてから、こう答えた。
「最後に、一つだけ聞かせてもらいたいことがある」
 タギは「いいよ、言ってみな」と頷いた。
「トリを売っている店は、どこだ」
 最後の質問などと言っておきながら、今までの話と全く関係のないことを、メシアはタギに尋ねた。そのため、拍子抜けたタギは、保っていた余裕のある表情を崩した。
「…真面目に質問してんのかい…他に聞くことがあるんじゃないの?」
 タギは、短い髪をパサパサと揺らして頭を掻く。
「真面目に質問しておる。確かに、エルフについて聞きたいことはあるが、ソフィスタのためにも、早く五十グラムのトリを買ってやらねばならんのだ。だが、いつもソフィスタと一緒に行く店が今日は閉まっていて、困っておった」
 エルフに関することは、後で聞いてもいいし、ソフィスタに聞いてもいい。だが、風邪をひいているソフィスタを思うと、早く彼女に栄養のつくものを食べてもらって、風邪を治してほしいという気持ちが沸き上がるのだった。
 メシアの気持ちを汲み取れたかどうかは分からないが、タギは頭をポリポリと掻いて短い髪を揺らし、仕方なさそうにため息をつくと、「分かった。教えてやる」と答えた。
「おお、そうか!それは助かる!」
 メシアは、タギの返答を喜んだが、タギはさらに「ただし…」と続けた。
「アンタがアタシと戦って、勝ったらね!!」
 タギの言葉に、メシアが「え?」と意表を突かれている間に、タギは素速く前に踏み出し、ジャンプしてメシアの側頭部めがけて回し蹴りを繰り出した。
 突然のタギの攻撃に、メシアは戸惑ったが、考えるより先に体は動いていた。身を低くして紙一重で蹴りをかわしつつも、タギの後ろに回り込む。
 タギはメシアに背を向けた状態で地面に着地したが、間髪入れずにメシアがいる側へと体を向ける。しかし、タギが攻撃し続けることを予感していたメシアは、既にタギから大幅に距離を取っていた。
「い・いきなり何をする!なぜお前と戦わねばならんのだ!!」
「ふぅん。図体がでかいわりには、けっこう速く動くねえ」
 騒いでいるメシアを無視し、タギは脹ら脛のベルトに差し込まれている錐を三本取り出し、右手の指の間に挟んで持った。
 本来なら工具として使われるべき錐を、タギは武器として構え、メシアはその標的にされている。それに気付き、メシアは焦ったように手を振った。
「やめぬか!私は、ただトリを売っている店を聞いただけなのだぞ!それは、そんな危険なものを取り出して戦わなければ教えてもらえないほどのことなのか!?」
「んなわきゃないだろ。いいから戦いな!言っとくけど、手加減はしないからね!」
 問答無用で、タギは三本の錐を投げつけてきた。
 メシアは巻衣をひっつかみ、脱ぐ勢いで錐に叩きつけた。錐は巻衣に突き刺さるが、重みですぐに抜け落ち、音を立てて地面に転がった。
「飛び道具は効かないかい?それじゃ、これならどうだ!」
 今度はタギは、ベルトから鉄梃を二本抜き、L字に曲がった頭のほうを上にして両手に構えた。鉄梃は、タギの指先から肘まで長さがあり、釘を差し込む切れ目を境に二股になっている尖端は、鋭く尖っていた。
「やめろと言っておろうがぁ!!」
 狭い路地に響き渡るメシアの悲鳴に紛れ、タギの靴の踵が地面を蹴って音を立てた。
 タギは身を低くして、メシアに向かって突っ込んでくる。
 …速い!!
 先程、蹴りを繰り出された時も感じたが、タギの動きは速く、小柄で身軽な体を生かして、この狭い路地の中で立ち回っていた。
 訓練を積んだ者でなければ、できない動きだ。
 メシアは、壁際に積み重なっていた木箱を蹴り倒し、タギの行く手を塞いだ。タギは一瞬スピードを緩め、その隙にメシアは後ろに跳んでタギと距離を取り、狭い路地を抜けて通りに出た。
「もういい!トリを売っている店は、他の者に聞く!」
 巻衣を肩に担ぎ、メシアはその場から逃げようとしたが、タギは木箱を飛び越え、メシアに次いで路地から飛び出した。
「つれないこと言うんじゃないよ!せっかく会ったんだから、もっと付き合いな!!」
 いきなり路地から飛び出してきた二人を、何事かと眺める通行人をよそに、タギは再び鉄梃を振り上げ、メシアに襲い掛かった。
 横腹を狙って振り下ろされた鉄梃を、メシアは素手で掴んで止めたが、すかさずもう一方の手に握る鉄梃が、メシアの脳天めがけて振り下ろされた。
 容赦ない攻撃だが、メシアはそれも余っている手で掴んで止めた。するとタギは鉄梃を手放し、がら空きになったメシアの腹を両足で蹴って後ろに跳び、跳躍したまま錐を抜いて投げつけてきた。
 ちょうど手にしていた鉄梃で、メシアは錐を叩き落とす。
「すごいじゃないか。今の錐を防ぐなんてさ」
 タギはヒュゥっと口笛を吹き、口の端を吊り上げて笑った。その笑みには余裕があったが、それを睨みつけるメシアの顔には、余裕が全く無かった。
 …エルフの男は強いと聞いたが…女も強いではないか!!
 力と打たれ強さなら、メシアのほうが強い。現に、タギが振り下ろした鉄梃は難なく防げたし、蹴りを喰らっても、メシアは全く体勢を崩さなかった。
 だがそれは、蹴りを喰らったという事実を意味する。彼女の判断力と動作の素早さに、メシアの体がついていけなかったのだ。
 その後、投げつけられた錐を叩き落とすことができたのも、ほぼ紙一重であった。もしタギにもっと力があって、蹴りでメシアの体勢を崩していたら、錐は直撃していたことだろう。
 もしかしたら、故郷を出てから出会ってきた者たちの中で、魔法無しでの肉弾戦ならタギが一番強いかもしれない。
 逃げながら戦っても、迷いながら戦っても、こちらがやられるだけだ。そう判断したメシアは、鉄梃を後ろに放り投げ、身構えてタギと対峙した。
「おっ、やる気になったかい?」
 新たにベルトから抜いた錐を両手に構え、タギはメシアとの距離を、じりじりと詰める。
 しかしメシアの瞳には、まだ迷いの色が浮かんでいた。
「いや、気は乗らぬ。こうしてお前と戦うことに、何の意味があるというのだ」
 タギがいつ動いても対応できるよう警戒しながら、メシアはタギに問う。
 その場に居合わせた人間たちは、メシアとタギから距離を取り、彼らの様子を何事かと眺めている。
「…意味なら、あるよっ!」
 タギは地面を蹴り、一気にメシアに近付いた。
 錐はメシアの肩を狙って振り下ろされたが、メシアはタギの手首を掴んで止める。そのまま力任せにタギを投げ飛ばそうと考えたが、その前にタギがメシアにしか聞こえないよう、小声で話し始めた。
「エルフの男は、アタシより強い。そして奴らは、ネスタジェセルの命を狙っている…それは分かっているんだろ?」
 タギは両腕の力を緩めず、メシアが力を緩めれば、錐は肩を貫くだろう。その状態で、二人は小声で会話をする。
「お前に勝てなければ、エルフの男にも負けるということか」
「ああ、その通りさ。アタシに負けちまうようじゃ、もしエルフの男がこの街に来たら、アンタは確実に殺される。そしてアタシは、アンタの存在を知りつつも見逃していたことにされる」
 タギは、握っている錐を器用に回転させて逆手に持ち、タギの手首を掴むメシアの手に突き立てようとした。
 メシアは、とっさにタギの手首を放した。タギはそれを予想していたかのように、素速く動いてメシアの背後に回り込んだ。
 しかしタギは、メシアを攻撃せず、互いに背を向け合ったまま会話を続けた。
「もしアンタがアタシより強ければ、アタシの手には負えない相手だったどいう言い訳ができるかもしれないけれど、アタシより弱いネスタジェセルを殺さず生かしていたと知られたら、面倒なことになりそうだ」
「…つまり、この街にいたければ、お前より強いことを証明してみせろというのだな?」
「そういうこと。アンタが負けたら、この街を出て、生まれ育った土地へ戻りな。それが、アンタのためでもあるんだよ」
 タギはそこで話を区切り、メシアが放り投げた鉄梃を拾いに走った。メシアもタギを振り返り、いつ攻撃を仕掛けてきても対応できるよう身構えながら、考える。
 アーネスへ向かう旅の途中、メシアは人間に襲われても、極力戦わずに逃げていた。
 やむを得ず戦ったこともあったが、メシアのほうが圧倒的に強かったし、自警隊の中でも強いほうだと自慢しているザハムも、一撃で倒したことがある。まあ、あれからザハムも熱心に鍛錬するようになったが、時々手合わせをしても、まだメシアには及ばない。
 しかし、メシアより体の細いタギは、今まで出会った人間の誰よりも強く、メシアを苦戦させている。
 魔法を使って肉体を強化したりすれば、並の人間でもメシアと対等に戦えるのかもしれないが、タギは魔法を使っているようには見えない。魔法には疎いメシアだが、動きを見れば、それが本当に己の身体能力だけで動いているかどうかくらいは分かる。
 そして、彼女の攻撃から、あまり殺気を感じられないことも。
 戦士としての力を競い、確かめ合う。そこに憎しみも悪意もなく、親しみすら覚えるほど清々しさがある。一方的に戦いを始められたにもかかわらず、先程から己の血が喜び勇んでいるような気がするのは、そのためだろう。
 戦士として心身共に鍛えられてきたメシアは、強い者と技を競い合えることに、純粋に心を躍らせる。
 メシアは、無造作に肩に担いでいた巻衣を、タスキのようにして体に巻き付け、角を軽く結んで固定した。
「闘志を燃やし、心を静めよ。鋼の意思を持ち、拳に宿せ」
 身構えながら、格闘技の師の教えを復唱すると、瞳からは迷いが消え、表情も戦士のそれとなる。
「今度こそ本当に、闘う気になったようだね」
 鉄梃を両手に握り、メシアと間合いを取って退治していたタギが、彼の表情の変化に気付いてニヤリと笑った。
「それじゃ改めて…いざ勝負といこうかい!」
 タギは鉄梃をクルッと一回転させて構え直すと、強く地を蹴り、メシアに飛び掛かった。


 *

 浅い眠りについていたソフィスタは、玄関のドアが開く音が微かに聞こえ、目を覚ました。
 部屋にはソフィスタの他には、セタとルコスしかいない。二体とも、ソフィスタの傍に控えている。
「ただいまー。昼と晩のメシの材料を買って来たぞー」
 続いて、ザハムの声が聞こえた。サーシャがパタパタと廊下を小走りする音が響き、足音は玄関へと向かっていく。
「おかえり。ごくろうさま」
「あー喉乾いたー。何か飲むものないか?」
 玄関から聞こえてくるザハムとサーシャの会話に、ソフィスタは心の中で「何で人の家で夫婦のような会話を繰り広げているんだ…」と突っ込みを入れた。
 そして、メシアもザハムと一緒に買い物に出ていた事を思い出し、あれ?と思う。
 …メシアの声が聞こえないな。アイツもザハムと一緒に帰ってくるはずなんじゃ…。
 ソフィスタが、そう疑問を抱いた時、ちょうどサーシャがザハムに「あれ、メシアくんは?」と尋ねる声が聞こえた。
「まだ帰ってきていないのか?鶏肉だけ買って家に帰れって言ったんだけど…」
「…つまり、買い物を教えてやると意気込んでおきながら、メシアくんを置き去りにしたということね」
「…そ・そうとも言う」
 気まずそうにザハムが答えると、しばし声も物音も止んだ。
 …あのダメ自警隊員め…ちゃんとメシアを見張っていろよ…。
 熱でだるいし、ザハムがバカなのは前から分かっていたことなので、ソフィスタは怒る気にもならず、仕方なさそうにため息をついた。
 …鶏肉を買わせに行かせたって言っていたな。でも、いつもメシアと一緒に行く肉屋は、改装のため休業のはず…。
 メシアがまだ帰ってこないのは、肉屋へ行ったが休業中のため、他の店を探しているからかもしれない。もしくは、探しているうちに道に迷ったとか。
 …あいつ、目を離すとしょっちゅう騒ぎを起こすからな…また何かトラブルにでも巻き込まれているんじゃないだろうな…。
 不安を覚えながらも、何気なく窓を見遣ると、ガラス越しに見える空は、実に平和そうな晴天だった。街も比較的静かなので、おそらく時刻は昼だろう。
「しょうがないわねー。荷物は私が片付けるから、ザハムはメシアくんを探してきて。その間に昼食を作っておくから」
「分かった。じゃ、行ってくる」
 再びサーシャとザハムの声が聞こえ、その後、外へと去っていく足音と、玄関の戸が閉じる音が聞こえた。
 ザハムはメシアを探しに外へ出て行き、サーシャはこれから昼食作りに取りかかるのだろう。
 …そういえば、お粥を作ってもらってあるんだっけ…。
 取り替えたばかりなのか、まだ冷たい濡れタオルをセタに渡し、ソフィスタは体を起こした。相変わらず熱で頭がぼんやりとするが、朝よりは楽になっているような気がする。
 テーブルの上に置かれている盆には、サーシャが置いていった時と変わらず、蓋をかぶせたままの深皿と、水を注がれたコップ、銀のスプーンが乗っている。それを見ると、急にお腹が空いてきた。
 サーシャが昼食を作り上げるまで、まだ時間がかかるだろう。先にこれを食べておこうと思って、ソフィスタは蓋を開けた。
 食器にかけられた保存の魔法が解除され、フワッと湯気が立ち上る。
 細かく刻んだ野菜が米に混じっており、ほんのりと柑橘系の香りがする。
 …いい香り。完全に、風邪をひいた人間用のお粥だな。
 ソフィスタは、盆ごと膝の上に置き、スプーンを手に取って、お粥を食べ始める。塩加減も絶妙で、米も野菜も柔らかくて食べやすい。
 …美味いな。サーシャって、料理も得意なんだ。
 もしザハムが風邪を引いて寝込んだら、サーシャがこのお粥を作って食べさせてやれば、案外コロッといくかもしれない。
 …あ、でも、バカは風邪引かないからダメか。…それにしても、人が作ったお粥を食べるなんて、久しぶりだ…。
 実家では、風邪を引いた時は、母がお粥を作ってくれていた。
 母がソフィスタを心配し、ソフィスタのために何かしてくれたことが、すごく嬉しくて、お粥がいっそう美味しく感じられた。
 アーネスに来てからは、風邪を引いても一人で寝ているだけだった。セタとルコスを作り出す前までは、世話をしてくれる人も、心配してくれる人もいなかった。まあ、ソフィスタが人を拒んでいたからでもあるが。
 ちなみに、プルティと出会って以降、風邪を引いたのは、今回が初めてである。
 …でも今は、ザハムがお見舞いに来たし、サーシャがお粥を作ってくれた。それに、メシアはあたしが体調を崩し始めたことを、気にしていてくれた…。
 ふと、頬に受けたメシアの手の感触が蘇った。
 メシアがソフィスタの料理を美味しいと言ってくれた時。メシアがソフィスタに優しいと言ってくれた時。体を張って守ってくれた時。そして、具合が悪いソフィスタの顔を心配そうに覗き込み、頬に手を添えた時。そんな時にソフィスタが感じていた、喜びに近い感情が、心の中で膨らんでゆく。
 …な・何考えているんだ、あたしは。おせっかいなメシアが誰かを心配するのは、特別なことじゃない。ザハムとサーシャが家に来たことにしても、本当は鬱陶しいって思っている。あたしが喜ぶような要素は、何一つ無いはずなのに…。
 ベッドの上から出られず、何もすることがないためか、今日はそんなことばかり考えてしまう。
 しかし何を思っても、アーネスへ来てからメシアと出会う前までは感じることがなかった気持ちと、人を寄せ付けない性格のはずの自分の心の変化を、ソフィスタは認めようとはしなかった。
 ヒュブロ城で人間の姿をしていたメシアにときめいてしまったことも含め、人間不信の自分にあるまじき感情を全て忘れてしまえとばかりに、ソフィスタはサーシャが作ってくれたお粥を、荒っぽく掻き込んだ。


  (続く)


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