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ありのままのメシア 第八話


   ・第四章 夕日

 メシアと一緒に歩いていた道を辿って走っていると、街の人々がざわついていることに気づいた。
 ザハムは立ち止まり、ちょうど近くにいた男に「何かあったんですか?」と尋ねた。
「何か、向こうで誰かが大ゲンカしているらしいよ」
 男は、道の先を指差した。ザハムは、かつて誤解で指名手配にされたメシアを追い回していたことを思い出す。
 またメシアが何か問題を起こしてしまったのだろうか。彼もアーネスでの生活に慣れてきたと思って気を抜いていたことを、ザハムは後悔する。
「お兄さん、あたしは見てたよ!」
 背後から中年女が声をかけてきたので、ザハムは振り返った。彼女は、声をかけてもいないのにベラベラと喋り始める。
「この通りの先で、あの緑色の男が戦っていたんだよ!緑色のってのは、あの最近アーネスに来て噂になっている男だよ!体がでっかい奴ね!」
 やはりケンカをしているのはメシアのようだ。ザハムは中年女に「本当か?」と聞き返そうとしたが、彼女はザハムに口を開く隙を与えずに話し続ける。
「しかもねえ、そのケンカ相手がエルフの女の子なのよ!もうビックリしちゃったわ!でもあの子、確かアーネスに住んでいるエルフよねぇ。あんた知っているかい?」
 エルフの女の子と聞いて、ザハムは「あっ」と呟いた。
 エルフがアーネスを訪れることは幾度かあるが、アーネスに住んでいるエルフで女の子と言えば、一人しかいない。それが珍しくて、一時期自警隊でも話題になっていたし、ザハムが所属している第三区自警隊の担当区内に彼女の住処があるので、わりと知っている。
 …放浪癖があって、ここ数日は留守にしていたが、戻っていたのか。でも、何でメシアとケンカなんかしているんだ?
「二人とも強そうだったわよ〜。あの女の子も、ずいぶん…」
 中年女は、まだ話し続けようとしたが、ザハムは彼女に背を向けて走り出した。
 …何であの二人がケンカしてんのかは知らねーが、サーシャもソフィスタも、メシアの帰りを待っているんだ。とにかく、止めて連れ帰らねーと!
 後ろのほうで、中年女がザハムを呼び止める声が聞こえたが、無視して走り続けた。


 *

 戦っている間に少しずつ移動し、気付けばメシアとタギは、砂場があるだけの小さな公園に入っていた。
 時刻は昼になったばかりで、人の気配は無い。今までは通行人に危害が及ばないよう配慮しつつ戦っていたが、邪魔になるものは何もないことを確認すると、タギは鉄梃を手にしたまま器用に錐を抜き、路地を出てからは一度も投げつけてこなかった錐を、二本同時に投げつけてきた。
 メシアは錐をかわしながらタギに迫り、タギの鳩尾に拳を叩き込もうとする。しかし、タギは鉄梃を交差させて、その一撃を防いだ。
 力はメシアのほうが強いので、鉄梃ごとタギの体を殴り飛ばすはずだが、直前でタギが自ら後ろに跳んだため、ほとんど手ごたえが無かった。タギはバク転してメシアと距離を取ってから、体勢を整える。
「やっと邪魔の無い場所で戦えそうだね。さあ、こっからが本番だよ!!」
 タギは錐を六本抜き、メシアの両腕と両足、そして頭と体を狙って、全て同時に投げつけた。
 メシアは、両腕を狙った錐を素手で掴み取り、頭を狙った錐は歯で噛んで受け止め、体を狙った錐は蹴りで叩き落とした。両足を狙った錐は、標的が動いて軌道を避けたので、そのまま地面に突き刺さる。
 しかしタギは、攻撃を防がれることを予想していたようで、既に地を蹴ってメシアに近付き、彼の脇腹を挟むように、二本の鉄梃を振り下ろす。
 メシアは、掴んでいる錐を手放すと、身を低くして素速く前に踏み出した。振り下ろされた鉄梃は空振りし、タギはメシアに覆い被さるような形になる。
「はあぁっ!!」
 タギの懐に潜り込んだメシアが、その鳩尾に拳をめり込ませる。
「ぐっ」
「んぶっ」
 悲鳴が同時に二つ上がった。
 タギは腹にメシアの拳を喰らう直前に、膝を振り上げていた。メシアは顔面をタギの膝に、タギは腹をメシアの拳に同時に打たれる。
 今度はメシアの攻撃をまともにくらい、タギは後ろに飛ばされたが、かろうじて受け身を取って地面に転がった。
 メシアはタギの膝に鼻の頭を潰されたが、痛みはあっても鼻血すら出していない。僅差でメシアのほうが速く拳を叩き込めたため、タギの蹴りの威力が弱まったのだった。
「いったぁ〜…意識が飛ぶかと思ったわ」
 攻撃を受けた箇所を押さえながら、タギは苦笑いをしている。そんな彼女を、メシアは少し驚いた顔で見つめた。
「気絶させるつもりでやったのだが…女の体にしては、丈夫であるな」
「まあね。三十年以上も旅をしていりゃ、自然と体も鍛え上げられるもんさ」
「…長寿の種族とは聞いてはいたが…既に私の倍以上は生きておるのか」
「アタシは御歳七十九歳。アンタの倍どころじゃないよ」
 話ながらも、メシアはタギとの間合いを詰め、タギは起き上がって体勢を整える。
「こうして全力を出して戦うのも、何十年ぶりになるだろうねぇ。痛い思いをするのは好きじゃないけど、いい汗かいているって気がするよ」
「私も、手強い相手と正々堂々と勝負をするのは、久しぶりである」
 ザハムとなら、しょっちゅう正々堂々と勝負しているが、メシアからしてみれば全く手強くない相手であった。それに物足りなさを感じていたわけではないが、やはり相手が手強い者のほうが、戦いがいがある。
「ふふっ…こういう気分の良い戦いは、嫌いじゃないよ」
「そうか。私もだ」
 そう言って、互いにニヤッと笑みを見せ合うと、メシアとタギは同時に地を蹴った。
 メシアは、タギの体を薙ぎ払おうと、右足で蹴りを放ったが、タギは体を後ろに倒し、左足の踵で地面を抉りながら、メシアの足下に滑り込んだ。メシアの蹴りは、タギの前髪だけを掠める。
 タギは滑り込みながら、蹴りを放ったメシアの軸足の脛に、鉄梃を打ち込もうとした。
 だが、メシアは右足を振り上げた勢いで体を倒し、左足を浮かせてタギの攻撃をかわすと同時に、肘を振り下ろした。
 タギはそれをギリギリで体を捻ってかわし、鉄梃の頭をメシアの横腹に引っかけた。皮膚が突き破られ、そこから血が滲む。
 そのまま鉄梃を強く引かれて傷口を抉られそうになったが、深手を負う前に、メシアはタギの両手首を掴んだ。
 握りつぶすさんばかりに強く手首を握り締めると、タギは鉄梃を手放した。
「せりゃあぁぁぁぁっ!!!」
「えっ?わっ、きゃあぁぁぁぁっ!!!」
 すかさず、メシアは腕の力だけでタギの体を浮かせて振り回し、力任せにぶん投げた。メシアの雄叫びとタギの悲鳴が重なって響き、公園の近くを通りがかった人は、何事かと立ち止まる。
 タギは公園の塀に、頭を下にして背中から叩きつけられた。そして頭から地面に落ちるが、先に両手を地面に着き、体を縦に半回転させて地面に足を着く。
「あいたたたたたぁ〜!アンタって馬鹿力だねぇ〜」
 背中をさすりながらも、タギは立ち上がった。強く投げたつもりで、確かにダメージも与えられているようだが、すぐに体勢を整えようとするタギの根性と体の丈夫さに、メシアは驚かされる。
 …大した女だ。
 感心しながら、メシアはタギの鉄梃に傷つけられた横腹を見遣る。血は流れているが、それほど深い怪我ではない。
「あ〜痛い。…戦いを続けていると、こうやってお互い怪我をしていくだろうけど…まさか、もうやめようなんて言いやしないだろうね」
「なに、ソフィスタの折檻で、怪我には慣れておる」
「あん?そんなにソフィスタに折檻されるほど、アンタ何か悪いことをしているのかい?」
 メシアが冗談めかして言ったことに、タギが興味を持ったような目で尋ねてきた。
「悪いことをしているつもりは無いが、どうも私は、知らずにソフィスタの気に触るようなことをしてしまうようなのだ」
「へー。例えば?」
 まだ背中をさすりながら、タギはメシアにゆっくりと歩み寄るが、完全に気を抜いている歩き方であった。
「…ソフィスタの下着を、どうやって身につけるものなのか調べていた時…あの時が一番酷かった気がする」
 メシアがそう答えた瞬間、タギは「プフッ」と噴出し、戦いの最中ということを忘れて腹を抱えて笑い出した。
「あははははっ!何だいソレ!そりゃ怒られるに決まってんだろ!あははははィイタタタタ…」
 笑いすぎて背中の痛みに響いたようで、タギは今度は仰け反った。それでもまだ、クスクスと笑っている。
 タギが壁にぶつかる音で、公園の出入り口に集まった野次馬も、何だか楽しそうなタギの様子を見ると、本気でケンカをしていたわけではないと判断して去っていった。
「そんなに笑うことか?私は殺されかけたのだぞ」
 すっかり気を抜いているタギを見て、メシアも少し警戒を緩め、そう言った。
「え〜本当に?他には?他には何をしでかして怒られたんだい?」
「他には…最近はソフィスタの態度が少し変わったような気がして、妊娠でもしたのかと聞いてみたら、すさまじい攻撃を受けたな」
「ブフッ…いたた。アンタ、デリカシーなさすぎ…」
 時々痛がりながらも、タギはメシアの話を、笑いながら聞く。
「へぇ〜…でも、ソフィスタがそんなに乱暴な子だったなんて、知らなかったよ」
「知らなかったのか?…確かに、私以外の者にソフィスタが暴力を振るうことは少ないな…」
 魔法生物マリオンや、ヴァンパイアカースのように、命を狙ってくる者に対して反撃するのは別として、メシアにはあれほど攻撃してくるソフィスタだが、他の者に対して何かしらの暴力を振るう様子は、あまり見ない気がする。
「暴力を振るわないと言うか、あの子、人を信用しないし、全く相手にしないんだよ。悪口を言われても反応しないし、反抗することがあっても冷たい感じがして、必要以上に相手にすることはなかったんだ。優しくしてくれる人に対しても、突き放すような態度だし、人に物を頼むことがあっても、それ以上の関係は築きたがらないし…」
 メシアもタギの話を聞いて、その通りだと思った。
 ソフィスタが、人に対して無関心で、人を突き放す態度を取っていることは、メシアも気付いていた。
 アズバンやプルティといった者に対しては、まだましな態度を取るが、必ず距離を置くし、彼らに対しても怒ることはあっても、メシアに対する時とは違い、どこか冷たく、感情が薄いような気がする。
 信用も関心も無いため、突き放すため、良くも悪くも関係を築かないために、ソフィスタは怒らないのかもしれない。
 …あれ?だとしたら、私に対して怒るのは…。
「はーっ。何か戦う気が失せちまった。いいよ、今回はアタシの負けだ」
 考えていると、タギが肩の力を抜いて息を吐き出し、鉄梃を太股のベルトに収めた。
「負け?まだお前は戦えるではないか」
「アンタはまだ戦いたいのかい?」
 確かにタギとの戦いを、メシアは楽しんでいたが、買い物という目的があることを覚えているので、首を横に振った。
「戦いに勝つのに必要なのは、力だけじゃない。相手の戦意を喪失させるのも、一つの手だ。だから、やる気を無くしたアタシは負け。そうさせたアンタの勝ち。…でも、勘違いするんじゃないよ」
 ニコニコと笑顔だったタギが、急に真面目な顔をして、メシアに言った。
「戦いを続けていたら、アタシが負けていたかもしれない。でも、アンタが負ける可能性を捨てきれるほどじゃない。それじゃあ、エルフの男には勝てないよ」
 タギの実力は、メシアとほぼ互角。メシアのほうが若干強いようだが、実戦で勝敗を決するのは強さだけではない。技術や成長、その時の運や体の調子などで、僅かな力の差など簡単に埋められる。
 それでメシアが僅差でタギに勝てたとしても、エルフの男には、当然及ばない。
 エルフの男がどれほど強いかは、話でしか聞いたことがない。だが、メシアの種族をこの世から抹消するために生まれた種族なら、生まれつき戦いの才能もあるだろうし、メシアと同じように幼い頃から鍛えられているのなら、長生きしているエルフのほうが有利である。
「だから、もっと自分を鍛えな。訓練を怠るんじゃないよ」
 メシアは師の教えに従い、ほぼ毎日格闘技の訓練を怠っていない。サボってしまった日と言えば、ソフィスタに叩きのめされた怪我が治っていない日くらいである。
 だが、タギに忠告され、改めて肝に銘じた。
 今のメシアでは、エルフの男には勝てない。だが、訓練によって力をつけることに、タギは期待しているのだ。もしかしたら、自ら負けを認めたのも、メシアに強くなる余地があると感じたからかもしれない。
 メシアはタギに、「うむ」と頷いた。それを見て、タギは表情を和らげる。
「よろしい。…時間取らせて悪かったね。約束通り、鳥を売ってる店を教えてあげるよ」
 タギは、そう言ってメシアに手招きをし、歩き始めた。
 メシアは完全に警戒を解き、肩の力を抜いた。
 …ふう。急に戦いを申し込まれた時は、どうなるかと思ったが…これでやっと、トリを買って帰ることができる。
 突然現れてメシアを驚かし、問答無用で戦いを挑んできたが、エルフについて教えてくれたし、約束通りトリを売っている場所も教えてくれそうだ。
 エルフは敵だ、見つかったら殺されるなどと教え込まれてきたが、タギのように話が通じる者がいてよかったと、メシアは思った。


 *

 空になった食器を運んでキッチンへ向かうと、サーシャが昼食の準備を進めていた。
 既に作り終えた料理を、サーシャはてきぱきと皿に盛りつけていたが、ソフィスタの姿に気付くと、食器を置いて軽く手を振った。
「わざわざ運んできてくれたの。少しは具合も良くなった?」
 サーシャはにっこりと笑い、ソフィスタに近付いて両手を差し出した。食器を渡せと言っているのだろう。
 ソフィスタは、コップ以外の食器をサーシャに渡す。
「はい。おかげで、だいぶ良くたりました。ありがとうございます」
 ありがとうと言うわりには、声にも表情にも感情がこもっていないが、サーシャは気にせず食器を受け取った。風邪でボーッとしているからだと思っているのだろうか。
「ザハムとメシアくんは、まだ買い物に行っているわ。先に昼食を取ってもいいけれど…お粥を食べたばかりで、お腹空いていないかしら」
 食器を片付けながら、サーシャがそう言ったので、ソフィスタは「はい」と答えた。
「まだ熱は下がっていないようなので、風邪薬を飲んだら、また休みます。…すいません、何かとお世話して頂いて」
 ソフィスタはサーシャに礼を言い、ペコッと頭を下げた。
「いいのよ。…あ、薬を飲むなら、コップにお水を入れるわよ」
「いいえ、自分で入れます。薬を取りに居間へ行くので、運ぶものがあれば、持っていきますが」
「えーと、それじゃあ、そこに置いてある食器だけ持っていってもらえる?あとは私が運ぶから」
「分かりました。適当にテーブルに並べておきます」
 サーシャが示した食器と、使いかけの空のコップを持って、ソフィスタはセタとルコスと一緒にキッチンから離れていった。ソフィスタを見送りながら、サーシャは苦笑いをして肩を竦めていたが、ソフィスタは気付かなかった。

 食器をテーブルの上に並べると、ソフィスタは居間の棚から薬瓶を取りだし、魔法でコップの中に真水を注いだ。
 ソファーに座り、薬瓶の蓋を開け、中に入っている錠剤を取り出した時、ガチャリと音が聞こえた。
「ただいま戻ったー」
 メシアが帰ってきて、玄関の戸を開けたようだ。彼の声が、居間にいるソフィスタに届く。
 探しに行ったザハムが、メシアを見つけて戻ってきたのだろう。そう思ったため、次に聞こえてきた声に、ソフィスタは自分の耳を疑った。
「へー、いい家に住んでるじゃん。お邪魔しまーっす」
「ピッピキー!オジャマシマシマスー!」
 ザハムのものではなく、しかも女性の声が聞こえ、さらに男とも女とも人間ともつかない奇声が聞こえたので、ソフィスタは思わずソファーから立ち上がった。
 …メ・メシアのやつ…今度は何を連れてきやがったんだ…。
 風邪とは別の頭痛に見舞われ、ソフィスタは錠剤をテーブルの上に無造作に転がすと、ソファーの上にへたりこだ。
 ずかずかと二つの足音が近づき、居間の戸が開かれた。まずメシアが顔を覗かせ、顔からソファーに突っ伏しているソフィスタの姿を見つける。
「ソフィスタ?どうした。さらに具合が悪くなったのか?」
「グアイクッタノカー?」
 あの奇妙な声が、メシアの声の後から聞こえたので、ソフィスタは顔を上げた。そして、メシアの姿に驚かされ、体をビクッと震わせた。
 心配そうな顔でソフィスタに近付いてくるメシアは、砂やらアザやらで汚れ、髪もボサボサに乱れていた。腹部を覆うように巻いている巻衣は、かろうじて汚れていなさそうである。
 さらに彼は、脇に鳥かご抱えており、中には一羽の鳥が入っていた。
「ワオ、パジャマ姿のソフィスタなんて、レアなもの見たわ。なに、風邪ひいてんの?」
 メシアの後に続いて、居間に入ってきたのは、エルフの少女のタギだった。彼女の髪と服も、砂で汚れている。
 連れてきた少女といい、鳥といい、汚れた姿といい、どこから聞けばいいのか分からず、ソフィスタの動きが止まる。
「メシアくん、帰ってきたの?女の人の声も聞こえたけれど、誰?」
 料理を運んで、サーシャも居間に入ってきた。そしてソフィスタと同じく、メシアとタギと鳥の姿を見て、肩を震わせて驚いた。
「おお、頼まれた鳥を買って帰ってきたぞ」
 メシアは朗らかに、サーシャにそう言ったが、サーシャは「へっ?」と裏返った声を上げた。
「ほれ、ちゃんと店の者に計ってもらって、五十グラムの鳥を選んで買ったぞ」
 メシアはサーシャに鳥かごを見せるが、サーシャは料理を持ったまま、キョトンとしている。
 そこで、ソフィスタは勘付いた。タギとメシアの汚れた姿については知らないが、メシアが鳥かごを持っている理由には、ピンときた。
 料理に使う鶏肉五十グラムを買ってくるよう頼まれ、勘違いして生身の鳥を買ってきたのだと。
「…えっと、その鳥をさばいたことはないわね…どうしましょ…」
 サーシャは料理をテーブルの上に置き、とりあえず鳥かごを受け取った。
「え、さばくって?」
 今度はタギが、キョトンとする。
「…メシア。お前、鶏肉を買えと頼まれておいて、ホントに生身の鳥を買ってきたんだな」
 ソフィスタの言葉を聞いて、メシアは「うむ」と頷き、サーシャとタギは「ああっ」と声を上げて手を叩いた。どうやら二人は、状況を理解したようだ。
「む?どうかしたのか」
 状況が理解できていないメシアは、呆れ返っているソフィスタら三人の女性の様子に、首を傾げる。
「あ〜そうだったの〜。てっきり何かの実験に鳥を使うのかと思って、ペットショップに案内しちまったよ。ゴメン、アタシが悪かった」
 タギはソフィスタとサーシャに、苦笑いしながら謝った。
「そうだったの。でも、こんな勘違いをされたのは、初めてだわ」
 サーシャも、仕方なさそうに笑っている。
「…あ〜、頭が痛くなってきた…」
 ソフィスタは側頭部を押さえ、再びソファーに突っ伏した。
「おい、ソフィスタ、大丈夫か?」
 まだ状況が把握できていないメシアが、ソフィスタの心配をして、ソファーの手前で立て膝を着いた。
「あーっ!メシア、帰ってきてんじゃん!ケンカしてただとか聞いたから、心配したんだぞー!」
 さらに、ザハムが帰って来るなり、騒ぎ始める。
「ケンカ?…メシア、お前、一体何をしていたんだ?」
 ソフィスタは、しんどそうに顔を上げ、メシアに尋ねる。
「うむ、このタギと、少々戦っていたのだ」
「そうそう。あ、先にケンカをふっかけたのは、アタシのほうだよ」
「…あ、そう…」
 急に人が増え、メシアが起こしたさらなる問題も発覚し、もう考えるのもイヤになってきたソフィスタは、深くため息をついて、ソファーに顔を押しつけた。
「どうしたのだ、ソフィスタ。窒息してしまうぞ」
 メシアはソフィスタの肩を掴み、仰向けにさせた。
 その時の二人の体勢は、仰向けにされたソフィスタにメシアが覆い被さっているような体勢であった。それに気付き、ソフィスタの心臓がドクンと跳ね上がる。
「わっ!だ、大丈夫だ!」
 ソフィスタは、慌ててメシアの腕を払った。
 まるで、触るなとばかりに腕を振り払われたメシアは、ショックを受けたようで、悲しそうな顔をする。
「あ、ゴメン、痛かったか?」
 ソフィスタは体を起こし、手を伸ばしてメシアの腕に添えた。
 その時、メシアの後ろにいるタギが、じーっとこちらを見つめていることに気付き、ソフィスタはハッとして動きを止めた。
 サーシャとザハムは、いつの間にかいなくなっており、キッチンのほうから二人の声が聞こえる。鳥かごは机の上に置かれていた。
 タギの視線が、なんとなく気まずくて、ソフィスタはメシアの腕から手を離した。
「…えと…メシア、そのコップと薬を取ってくれないか?」
「?…うむ」
 メシアはソフィスタの態度を妙に思ったようだが、追求はしてこなかった。一方、タギは何やらニヤニヤと笑っている。
「ふ〜ん、本当に体調が悪そうだねえ」
 そのニヤニヤ顔のまま、タギもソフィスタに近付いた。メシアは横に移動し、タギにスペースを空けてやる。
「…な・何だよ」
「いやなに、アンタの男と勝手に戦わせてもらったことと、間違って鳥を買わせちまったことのお詫びをしようと思ってね」
 タギは、「誰があたしの男だ!」と突っ込むソフィスタの肩に、ポンッと手を乗せると、目を閉じて項垂れた。
 すると、タギにパジャマ越しに触れられている部分が、不自然に熱を帯び始める。
「…お前、まさか!」
 ソフィスタは、タギの手を振り払おうとしたが、先にタギ自ら手を離し、顔を上げた。
「風邪ひいてんだろ。これで少しは良くなるさ」
 タギは、そう平然と言うが、ソフィスタの表情は厳しかった。
 …エルフの女の治癒能力って…寿命を削るんじゃ…!
 エルフの男が強く、女は治癒能力を持っているということは、おそらくほとんどの人間が知っている。
 そして、エルフの女の治癒能力の代償が、使い手の寿命であるということも。
 そのことを気にかけているソフィスタに気付き、タギはノンキに笑って見せた。
「ちょっと風邪を治すくらい、どうってことないよ。それに、完全に治したわけじゃないしね。でもまあ、明日には治っているだろうよ」
 タギはヘラヘラと笑っているが、ソフィスタはまだ不満そうな顔をする。
 風邪を治してもらったのなら、それにこしたことはない。どうってことないと言っているし、彼女が勝手にやったことなのだから、責めるつもりも無い。
 ただ、人を本気で心配する姿をタギに見られたことに、なんとなくソフィスタは腹を立てていた。
 それに、そんなソフィスタの反応を、タギは楽しんでいるように見える。
「それよりさ、昼メシの支度をしているんだろ。アタシにも手伝うよ」
 タギはソフィスタに背を向け、「イヤ、お前は帰れよ」と言うソフィスタの言葉を無視して、居間を出てキッチンへと向かった。
「そうだ!タギよ、お前も一緒に食事をせぬか!」
 さらにメシアまで勝手なことを言い出す。
「メシア!お前まで何を勝手なことぬかしてんだ!」
「良いではないか。食事は大勢で取ったほうが楽しいぞ」
 メシアはソフィスタに、これでもかというほど良い笑顔を見せて、そう言った。その瞳の輝きや笑顔のオーラが強すぎて、ソフィスタは何も言えなくなってしまう。
 立ち上がり、居間を出ていくメシアを見送ると、ソフィスタは全身の力が抜け、ソファーからずり落ちた。セタとルコスが、疲れ切った彼女に同情するように寄り添う。
 …ったく、マイペースな奴らめ。風邪よりも、あいつらに付き合わされるほうがしんどいわ…。
 ある程度風邪を治してもらいながら、心身共に疲れた気分になったが、キッチンのほうから楽しそうに話す四人の声と、漂ってくる美味しそうな香りには、悪い気分になれなかった。

 *

 食欲を取り戻したソフィスタも加え、五人で昼食を取り、その後はザハムが持ってきたカードゲームで異様に盛り上がったり、メシアが買ってきた鳥に言葉を教えまくったりと、とにかく遊び尽くした。
 買ってきた材料を使い、みんなしてメシアとソフィスタの夕食を作ったりもしたが、もちろん、あの鳥を材料には加えていない。
 ザハムとサーシャ、そしてタギが帰ると言い出した頃には、空が赤く染まっていた。すっかり熱も下がったソフィスタと共に、メシアは三人の見送りのため、外に出た。
「お見舞いに来たつもりなんだが、すっかり遊んじまったな。楽しかったぜ!」
 遊ぶのに遊んで満足したザハムが、爽やかな笑顔でそう言った。隣にいるサーシャも、ニコニコと笑っている。
「ホント、楽しかったよ。風呂まで借りて、悪かったね」
 メシアとの戦闘でボロボロだったタギは、ソフィスタ宅で体を洗い、サーシャの魔法で服も洗って乾かしてもらっていた。
 メシアも、タギの後に風呂に入って髪と体の汚れを洗い落としたが、服はアズバンから貰ったお古を着せられている。あの、かつてアズバンと同居していた、バイオリンがめちゃくちゃ上手くて、現在は王都でティノーに仕えている男の服である。
 そしてタギが抱えている鳥かごの中では、メシアが間違えて買った鳥が、さっきから「クソトカゲー!」と鳴いている。
 ハイテンションで遊ぶメシアやザハムたちの突っ込み役に回っていたソフィスタは、メシアに「クソトカゲ」を連呼し、言葉を鳥に覚えられてしまった。
「…まあ、いいけど…。その鳥、ちゃんと返してこいよ」
「うむ。頼んだぞ、タギ」
 ソフィスタはあまり気にしていないようだが、メシアは鳥の鳴き声を聞いて、気まずそうに苦笑いをする。
「あはは…。それより、もしまたソフィスタが風邪を引いたら、今度はアタシが飯を作るよ。独自に改良を重ねた、エルフの郷土料理は、自慢の一品さ」
 タギはメシアとソフィスタだけでなく、ザハムとサーシャにも、そう誘った。ソフィスタは面倒臭そうな顔をしたが、メシア、ザハム、サーシャの三名は、わあっと盛り上がる。
「エルフの料理をご馳走してもらえるなど、夢にも思わなかったわ!是非作ってくれ!」
「俺もエルフの郷土料理って食ったことねーよ!作る時は俺も呼んでくれ!」
「よかったら、レシピも教えて!私もラゼアン伝統の手作りお菓子を作って持っていくから!」
 サーシャのその言葉を聞いた時、メシアはピタリと動きを止め、「えっ…」と呟いてサーシャを見た。視線に気付いたサーシャも、「え、何?」とメシアを見る。
「いや、ラゼアンに伝統のお菓子があるとは、知らなかったのでな」
「メシアくん、ラゼアンを知っているの?」
 メシアは「うむ」と頷いた。ザハムとタギも「そうなんだ〜」とメシアとサーシャの会話に参加し、ソフィスタも、以前メシアがラゼアンに寄ったことがあると言っていたのを思い出した。
「へー。良い町だったでしょう。あそこは、私の故郷なのよ。子供の頃は、ずっとあの町に住んでいたわ」
「そうなのか?では、マリアという名の女性を知らぬか?私がこの街へ来る前に世話になった人間の女性なのだが…」
 急に聞かれて、サーシャは戸惑ったようだ。いきなりすぎたかなと、メシアは反省したが、サーシャはわりとすぐに答えた。
「ああ、マリアって名前の人なら、確かにいたわ。でも、家も離れていたし、あまり喋らなくて暗い感じのする人だから、話したことはほとんど無いし、よく知らないわね」
「暗い?…私が会った時は、とても明るくて、よく喋る人間だと思ったのだが…」
「そうなの?そうには見えなかったけれど…。でも、少なくとも私が知っているマリアという名前の人は、明るい人じゃなかったわ」
「…そうか…」
 そこで会話が途絶えると、少し間を置いてから、タギが「そろそろ行くよ」と口を開いた。
「この鳥も、今日中に返品しないといけないしね。それじゃ、またね」
「じゃ、俺たちも行くか」
 ザハムもサーシャの肩に手を乗せ、彼女を促した。「そうね」と頷くサーシャは、少し頬を赤らめていたが、夕日の光に誤魔化されてメシアは気付かなかった。
「じゃーなメシア!もし朝のランニング中に会ったら、一緒に走ろうぜ!!」
「またね、ソフィスタちゃん。ちゃんと夕食取ってね」
 ザハムとサーシャが、メシアたちに背を向けて歩き出し、タギも「じゃ、アタシも行くよ」と言って手を振り、ザハムたちとは逆の方向へ歩き出した。
 三人を見送り、ふと空を見上げると、薄い雲が鮮やかな夕焼けに染められていた。
 西の空の低い位置にゆらめく夕日は、ひときわ赤く輝いている。
「メシア、家に入るぞ」
 ソフィスタはメシアに、そう声をかけると、先に家の中に入ろうとした。
「まあ待て。見ろ、美しい夕日であるぞ」
 ソフィスタの手を取って引き、彼女を隣に立たせると、メシアは夕日を指した。
 真っ赤な円を描く夕日は、少し眩しく、メシアは目を細めた。
 赤と紫で彩られた雲。地上を照らす黄金色の輝き。まるで全てを祝福するかのような、神秘的な景色。
 目の前に広がる美しい光景に魅入るメシアの銀髪が、柔らかな風と光にさらされ、黄金色を帯びて揺れる。
 何気なく、隣にいるソフィスタを見遣ると、メシアの顔をじっと見つめる碧眼と目が合った。夕日を見ろと言ったのに、なぜ私の顔を見ているのだろうかと、メシアが首を傾げると、ソフィスタは慌てて視線を夕日へと移した。
「あ・ああ。きれいな夕焼けだな」
 何を慌てているのか、メシアには分からなかったが、その素振りが何だか可愛くて、メシアは微笑みを浮かべた。
「…おい、いいかげん手を放せよ」
 そう言って、ソフィスタが掴まれている腕を振ろうとしたので、メシアは言われた通り、手を放した。すると、ソフィスタはすぐに夕日に背を向け、家の中に戻ろうとした。
「あまり眺めていなかったようだが、いいのか?」
「夕日くらい、いつだって見れるだろ」
 確かに夕日はいつでも見れるものだが、いつも全く同じ景色が見られるわけではないし、こうして気付いた時にじっくりと眺めるのが良いのではないかとメシアは思ったが、あまり外の風を受けていても、ソフィスタの風邪がぶり返してしまうと思い、何も言わずに彼女の背中を見送った。
 メシアは再び夕焼けを眺めてから、名残惜しそうに背を向け、ソフィスタに続いて家に入ろうとした。

 ―――――メシア……

 耳を掠めた風の音に名前を呼ばれたような気がして、メシアは立ち止まった。
 どこか懐かしい香りを感じて振り返ると、先程とほとんど変わらぬ景色が、地上と空に広がっていた。
 風は止んでいる。懐かしいと感じた香りも消えていた。
「……?」
 ふと、景色がぼやけた。
 瞬きをすると、瞳からぽろりと涙が零れ、頬を伝って落ちた。
 目に砂でも入ったのだろうか。それとも、夕日が眩しかったのだろうか。
「メシア、お前も家に入れ」
 ソフィスタに名前を呼ばれたので、メシアは涙を拭い、「うむ」と答えて家の中に入った。
 涙の理由は風か光だろうと考え、あまり気にしないことにした。





 部屋の中全体が、ほんのりと赤く照らされている。
 男はベッドの前で立ち尽くし、そこに横たわる女の顔を、じっと見つめていた。
 彼女は目蓋を閉じ、穏やかな顔で眠っている。それが二度と覚めることの無い眠りであることを、男は悟っていた。
 胸の上で組まれている女性の手を取ると、冷たく、硬い感触が伝わり、涙が零れそうになったが、歯を食いしばってそれに耐えた。
 彼女の手の中に、銀色の髪を編みこんで作った紐を握らせる。
「…私には、これくらいのことしかできません。しかし、あなたとの約束は、必ず守ります」
 彼女の手を、そっと胸の上に戻した時、男は柔らかな風を感じた。
 窓が開け放たれており、絹のカーテンが風を受けて揺れている。
 風は収まり、窓の向こうでは、夕日が静かな輝きを湛えていた。
 男は女の手に、自分の手を添えたまま、目を細めて夕日を眺めていたが、やがて彼女から手を放して背筋を伸ばすと、目を閉じ、頭を垂れた。
「どうか安らかに…マリア様…」
 風が残していった微かな香りに、彼女の魂を感じた男は、彼女が痩せ細った体で生きていた頃に何度も願ったことを、再び己が信じる神に祈った。


  (終)

あとがき


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