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ありのままのメシア 第九話


 光が一切届かない天然の洞窟を進んでいたはずが、その景色は明らかに手を加えられた隠し通路に入ってから一変した。
 これといった光源は見当たらないのに、昼間のように明るい。
 湿って土臭い空気が無く、地上でもありえないほど澄んだ空気が漂っている。
 通路の四方を囲む平らな壁は、石とも鉄ともとれない質感で、一切の隙間も切り込みも無く奥まで続いていた。
 やがて、広い部屋に出た。
 その部屋の壁もまた特殊な鉱石のようだったが、それより壁に描かれているものを見て、女は愕然とした。
「…そんな…嘘でしょう…」
 女の震える手から、灯りを消したカンテラが落ち、床にぶつかって高い音を立てた。
 壁に描かれていたのは、荒れ果てた大地だった。
 しかし、それらは確かに絵であるはずなのに、土は風を受けているように砂煙を上げ、空では雲が流れていた。
 その様子に驚いていると、やがて窪んだ地に川が流れ、瞬く間に緑が生まれ、森と草原が出来上がった。
 川の中からカエルやトカゲのような生物が這い出し、森からは犬や馬のような生物が現れ、やがて、あるものは体が大きくなり、あるものは骨格などが変化していった。
 その中に、二本足で歩く生物の姿があった。
 彼らは獣の皮を身にまとい、石を削って道具を作り、集団で生活するようになって、家を建てて小さな集落を作った。
 集落は次第に面積を広げ、丸太や枯れ草で作られた粗末な家は、削って形を整えた木を組み込んだものへと変わり、さらに石造りの家まで建てられるようになった。
 ただ壁画が動くことに驚かされていた女だが、ここまで見てやっと、この動く壁画が示すものに気がついた。
 この大地の、そして大地から生まれた生物の、進化の過程。
 その生物の中で特に知能の高い生物が、文明を築いてゆく様。
 生物が進化するには、気が遠くなるほどの時間がかかるという。この壁画は、その過程を猛スピードで表現しているのだ。
 しかし、女が学んだ生物の進化とは、かなり違っている。何より、文明を築いているのは、人間ではなかった。
 やっと人間が現れたのは、人間とは違う別の生物が築いている文明が、今の人間の文明より遙かに進んだ頃だった。
 女が愕然としたのは、この時だった。
「…嘘…こんなことって…」
 再び呟き、女は視線を落とした。動く壁画は床にまで及んでいたが、今は何も映っていない。
「…でも…これが本当なら、私たち人間は…」
「まっ、そーゆーことになるな」
 女の隣で立っていた男が、肩を竦めてそう言った。
 人間にとって驚くべきものが数多く映し出されていたというのに、男のほうは、やけに冷静だった。しかし、壁画が示したものが衝撃的すぎて、女は彼の様子に気付けなかった。
「にしても、こんな重大な秘密が、こんな所に隠されてっとは…。こりゃほっとくワケにはいかねえ…」
 そう言って、男は女の肩に手を乗せた。女は顔を上げる。
 彼が被っている黄色いヘルメットが、女の視界に入ったが、それはすぐに、彼の手によって遮られてしまった。
「おめーの助手となって監視しててよかったぜ。考古学者って連中は、こーゆーものをよく見つけっからな」
 男は女の顔を掴み、額を握り潰さんばかりに力を込める。彼の突然の行動に戸惑いながらも、女は震える手を伸ばしたが、その前に、女の全身から力が抜けた。
 伸ばした手は、男の尖った耳を掠めて、だらんと垂れ下がる。
 男が手を話すと、女は床にばったりと倒れた。
「おめーは、俺たちの国に引き渡す。そっからどうなっかは知らねーけど」
 男は、倒れた女の腕を持ち上げ、肩に担いだ。男のほうが背が低いため、女の足は床に着いている。
「やれやれ。やっとコイツの監視が終わったぜ。…今度はどこ行こっかな…」
 女の足をズルズルと引きずりながら、男は歩き出し、部屋を出ていった。

 誰もいなくなった洞窟の中で爆発音が響き、隠し通路の入り口が完全に塞がれたのは、それからしばらくしてのことだった。



   ・第一章 ホルス

 何者かの気配を感じて、メシアは目を覚ました。
 部屋の灯は消されており、窓もカーテンに閉ざされているため、真っ暗で何も見えない。
 すぐそばのベッドでは、ソフィスタが眠っているのだが、何故か寝息は聞こえなかった。
 だがメシアには、不思議とそれが気にならなかった。
 毛布をまくって上半身を起こし、まだ目が暗闇に慣れていないまま、何気なく横を向くと、そこに人間の女性の姿があった。
 彼女の姿は、自ら光を放っているように暗闇の中でくっきりと浮かんでいた。その不自然な様子と、ソフィスタ以外の人間がここにいることに疑問を感じてもいいはずだが、今のメシアは、それを当然であるかのように受け入れていた。
 彼女はメシアに近付いて両手を伸ばし、確かめるようにメシアの頬を撫でると、優しく微笑んでメシアを抱き寄せた。
 メシアの顔が、彼女のふくよかな胸に包まれる。
 どこか懐かしい香りと、優しい温もり。まるで全てから守られているような、まるで全てのものから愛を注がれているような、そんな安らぎを感じ、メシアは目を閉じた。
 ふと、彼女の感触が消えた。
 目を開くと、既に彼女はメシアから離れていた。彼女は瞳に涙を浮かべ、悲しそうに微笑むと、ゆっくりと唇を動かした。
 何かを言っているようだが、言葉は発していない。だがメシアには、彼女が言おうとしたことが、直感的に分かった。

『さようなら』

「……!」
 メシアは思わず身を乗り出し、両腕を伸ばして彼女の体を捕らえようとした。しかし、その前に彼女の姿が消え失せてしまったため、メシアの体は何も無い空間を通り抜けて床に倒れた。
「マリアさん!!」
 そう叫んで、メシアは起き上がった。
 だが気がつくと、うつ伏せに倒れて体を起こしたはずが、仰向けから上半身を起こす形になっていた。
 やたらと鼓動が速く、呼吸も荒い。ひどく胸騒ぎがし、焦燥感に駆られる。
 メシアは慌てて周囲を見回し、先程まで部屋にいたはずの女性の姿を求める。
 暗闇に目が慣れてきても、彼女の姿は見当たらなかったが、ベッドの上でモソモソと動く影には気付いた。
「…ん?メシア、起きてんのか?」
 メシアの声で目を覚ましたソフィスタが、起き上がろうとしている。
 焦りで我を失いかけているメシアは、そこにいた者がソフィスタであることも、彼女がどんな体勢でいるかも確かめもせず、とにかく捕まえようと、飛び掛かった。
 まだ完全に頭が覚醒しておらず、暗闇に目も慣れていないソフィスタは、メシアが飛び掛かってくることに気付くことができなかった。ぼんやりとしている間に肩から抱き竦められ、そのままベッドの上で押し倒される。
 真夜中に、息を荒げた男がベッドの上で女を押し倒すなど、端から見れば大人の香り漂うシチェーションだったが、その前に別の問題が起こった。
 百キロを超える巨体を持つメシアのダイブは、押し倒すと言うより、押し潰すという表現に近く、その威力は、ソフィスタとの体重の合計も含めると、木製のベッドの耐久基準値を超えていた。
 マットの下で、ベキッと音を立てて底板が割れた。メシアとソフィスタの体は、マット越しに床に落ちる。
 急にマットが沈んだのと、落ちた時の衝撃で、気が動転していたメシアは我に返り、ソフィスタは、何が起こったのか分からないような顔で天井を眺めていた。
「……あれ?」
「あれ?じゃねえ!!」
 やっとメシアが声を漏らすと、すかさずソフィスタが激しい突っ込みを入れた。
 魔法によって威力を増幅したソフィスタの鉄拳が、抉るようにメシアの脇腹に叩き込まれた。メシアは「ほごぅっ!」と悲鳴を上げ、壊れたベッドから落ちて床を転がる。
「てめぇ、ふざけんなよ!こんな真夜中に暴れるんじゃねえ!!」
 ソフィスタは枕を持ってベッドから下り、メシアに歩み寄って蹴りを一撃加えてから、部屋を出ていった。
 ベッドが壊れる音で起こされたセタとルコスも、ピクピクと体を痙攣させているメシアの脇を素通りし、ソフィスタに続いて部屋を出て、静かにドアを閉めた。
「…あ…あれェ…?」
 部屋に残されたメシアは、まだ状況が把握できず、痛みと混乱が落ちつくまで、その場に倒れていることになった。


 *

 翌朝。昨日は熱を出してへばっていたソフィスタだが、エルフのタギの治癒能力もあって、すっかり体調が良くなっていた。
 代わりに、昨晩ベッドを壊されたせいで、機嫌が悪かった。
 しかし、朝から不安げな顔をしているメシアに気付くと、そちらのほうが気になり、怒りが半分以上静まってしまった。
 ベッドを壊してしまったことに、それほど罪悪感を感じているのだろうかと思ったが、ソフィスタが「もう気にするな」とメシアに言った時、メシアはソフィスタの言葉の意味を、一瞬理解できなかったようだった。
 ベッドを壊したことを全く反省していないわけではなさそうだが、それより他のことを、メシアは気にしているようだ。
 考えてみれば、なぜメシアはソフィスタにダイブしてきたのだろうか。彼の心配事は、そこから探ることができるかもしれない。
 だが、あの時の状況を思い出してみればみるほど、ソフィスタはメシアに声を掛けづらくなった。
 冷静になってから状況を思い出してみると、ベッドを壊される前に、ソフィスタはメシアに抱きつかれ、押し倒されていたのだ。
 それを思い出すと、何だか照れてしまう。そして、そんな気持ちになることに、ソフィスタは戸惑いを覚える。
 結局、ろくに話もできないまま、学校へ行く時間になってしまった。

 学校へと向かって歩いている間も、メシアの表情は暗かった。
 ベッドを壊したせめてもの償いに、彼はソフィスタの鞄を肩に担いでいるが、それが重くて歩くのもしんどいからというわけではなさそうだ。だが、あまり暗い顔をされると、鞄を持たせていることが悪いような気がしてくる。
 しかし、なんとなく声を掛けづらくて、しばらく二人は黙々と歩いていた。
 いつもなら、もう少し会話があるのだが、何も話さない二人を、ソフィスタの肩のセタとルコスも奇妙に思ったらしく、二人を交互に見るように体を揺らしていた。
「なあ、ソフィスタ」
 やっとメシアが口を開いた。ソフィスタは「何?」と返す。
「…私が、ラゼアンへ行きたいと言ったら、お前は一緒に来てくれるか?」
「えっ、ラゼアンへ?」
 二人は歩きながら、会話を続ける。
「あの、北西にある港町のことだよね。何でまた?」
「実は、あの町に住む人間のことが、気になってな…」
 それを聞いて、メシアはアーネスに来る前、ラゼアンで人間の女性の世話になったという話を、ソフィスタは思い出した。気になるというのは、その女性のことだろう。
 先日も、ザハムの友達のサーシャという女性に、メシアはその人間のことを話していた。
 …確か、マリアって名前だっつってたな…。
 なぜ、急にその女性のことを気にし始めたのだろうか。メシアの不安げな表情と何か関係しているのだろうか。
 それを尋ねる前に、ソフィスタは、先にメシアの問いに答えた。
「お前が行きたいって言うなら、行ってもかまわないよ。でも、ラゼアンはヒュブロの王都より遠くて、一週間くらいは学校を休まなきゃいけないから、急には無理だ」
 ソフィスタの回答を聞いて、メシアは「そうか…」と俯いた。
「そんなに早くラゼアンへ行きたいのか?」
「ああ。できれば、早く」
 そう言ってメシアは顔を上げた。ソフィスタは「ふーん」とだけ呟く。
 二人の会話はそこで途絶え、魔法アカデミーへ続く道を黙々と歩いていたが、学校の敷地内に入ったところで、突然ソフィスタの頭の中に、校長の声が響いた。
『ソフィスタさん!メシアくんと一緒に、今すぐ校長室に来てくれ!大至急だ!!』
 校長の悲痛な叫び声に、ソフィスタはビクッと体を震わせて驚き、立ち止まった。
「ソフィスタ、どうかしたのか?」
 頭を押さえているソフィスタの隣に並び、メシアがそう声をかけた。
「い・今、いきなり校長からテレパシーが届いて…すぐに校長室に来いってさ」
「校長から?何かあったのか?」
「知らねーよ。ったく、テレパシーを乱用しやがって、あのハゲ…」
『誰がハゲじゃい!!』
 ソフィスタの悪態が校長に通じてしまったようで、再び校長の声が、ソフィスタの頭の中で響く。
『私ゃハゲとらんわ!それより、早く校長室に来てくれ!走って来てくれ!お願いだ!!』
 ソフィスタの悪態に反論する余裕はあるようだが、校長の声からして、何やら切羽詰まっているようだ。
「無理です。廊下を走ってはいけないのですから」
『許す!今回ばかりは許すから、ホント、お願いします!!急いで来て下さい!!』
 朝っぱらから校長のパシリなどイヤだったが、校長が泣きそうな声でテレパシーを送ってくるものなので、ソフィスタは仕方なさそうにため息をつき、メシアに「行くぞ」と一言声をかけて、走り出した。
 テレパシーが届いていないメシアは、何が起こっているのか分からないようだが、それでもすぐに、ソフィスタに続いて走り出した。


 *

 廊下を走っていることを人に注意されても、「校長に走って来いって言われたんです」と言ってあしらいながら、ソフィスタとメシアは校長室へ向かった。
 扉の前で立ち止まり、ノックしようとしたが、その前に部屋の中から声が響いてきた。
「うわぁーやめろー!それだけはやめてくれぇー!!」
「あはははははっ!さ〜て、どうしようかなー!」
 先に聞こえてきたのは、校長の声。次いで聞こえたのは、ソフィスタにとってもメシアにとっても、どこか聞き覚えのある声だった。
 聞いた感じでは、声変わりする前の男の子の高い声だ。とにかく、部屋の中で何かが起こっているようなので、ソフィスタはノックを省略し、「失礼します」と言って扉を開いた。
 校長室の中は、やけに荒れており、壁紙は剥がれ、机の上にあったであろう書類や筆記用具が床に散らばっていた。
 校長は床にうずくまり、ローブの袖で頭を覆っている。いつもは帽子を被っているのだが、今は被っていないようだ。
 そして、部屋の正面奥にある窓ガラスは外側から割られ、窓の桟には一人の少年が座っていた。
 彼は、ソフィスタとメシアが部屋に入ってくると、笑顔で手を振った。
「メシアさん、ソフィスタさん、お久しぶりですね〜」
 長い黒髪を揺らし、金色の瞳を輝かせて笑う、ちょっとボロい服を着た、浅黒い肌の少年。その姿と声の質が、ソフィスタとメシアの記憶の中にある人物と一致した時、二人は同時に叫んだ。
「ホーク!?」
 かつて、ヴァンパイアカースという恐ろしい呪いによって、アーネスの街が危機にさらされた時、街を救うべく奮闘したソフィスタとメシアに協力し、事実上ヴァンパイアカースを消滅させた少年の姿が、そこにあった。
 掃除屋のアルバイトだと言っていたが、後で掃除屋を調べても、ホークという少年は雇っておらず、居場所も分からなかったため、あの一件以来、彼と会うのは本当に久しぶりであった。
 だが、部屋と校長の様子からして、再会を喜べるような状況ではない。メシアも、ソフィスタの後ろで部屋の様子とホークを見比べ、戸惑っているようだった。
「あ、覚えていてくれたんですね。校長に頼んで、あなたたち二人を呼んでもらったんですが…また会えて嬉しいです」
 名前を呼ばれたホークは嬉しそうに笑うが、そんなホークを、ソフィスタは怖い顔で睨んだ。
「テメェ!こんな所で何をやっているんだ!」
「うん。実は、ヴァンパイアカースを消滅させたのはボクだから、お礼の品を校長から貰っていたんです」
 以前会った時のホークは、ひ弱で気も弱い印象があり、ソフィスタが睨むと怯えていた。しかし今のホークは、外見はひ弱そうだが、うずくまっている校長と荒れた部屋の様子を無視し、ソフィスタに睨まれても表情を全く崩さなかった。
「ふざけるな!何が貰っただ!強引に私から奪っただけじゃないか!」
 校長が、少し上半身を起こして、ホークに向かって叫んだ。しかしホークが「動くと頭が見えちゃうよ」と言うと、校長は再び頭を隠してうずくまった。
「…奪ったって、まさか…」
 校長がホークに奪われたというものを、何となく察し、ソフィスタは呟いた。
 ホークは、肩から下げている鞄を開くと、いつも校長が被っている帽子を取り出し、ソフィスタとメシアに見せた。
「じゃ〜んっ。コレを貰っちゃいました〜」
「ああっ!それ返せぇぇ!!」
 帽子を見て、校長はホークに向けて手の平をかざした。
 校長の魔法力が解放されるのを、ソフィスタは感じた。しかし、ホークは相変わらずニコニコと笑っており、彼自身にも帽子にも、何の変化も現れない。
「ムダです。ボクには精神感応系も、空間歪曲系も効きませ〜ん。この帽子だって、魔法で保護されてるんでしょ?裏目に出ちゃいましたね〜」
 そう言いながら、ホークは右腕を横に真っ直ぐ伸ばした。すると、その腕から鳥の羽が生え、ホークが腕を振ると、羽は校長に向けてダーツのように放たれた。
「校長!!」
 ソフィスタとメシアが校長に駆け寄ろうとしたが、羽のスピードは速く、先に標的に到達してしまった。しかし、その標的は校長ではなく、校長の目の前の床であった。
「ボクに刃向かわないほうがいいですよ。こうして攻撃もできるし、あんまりしつこいと、この帽子を破っちゃいます」
 ホークが両手で帽子を掴み、左右に強く引っ張ると、校長が「やめてくれぇぇ!!!」と悲痛な声を上げた。
「大丈夫ですか?帽子の一つや二つくらい、くれてやってもいいではありませんか」
 校長に駆け寄ったソフィスタは、校長が無傷であることを確認すると、面倒臭そうに言った。
「ダメだ!あれは発毛促進効果がある魔法の帽子で…イヤイヤ、別に私は髪で悩んでいるわけではないが、将来のことも考えると、髪を大事にしておいて損は無いと思って特注した帽子なんだ!!」
 ローブの袖で頭を隠しながら、そんなことを言う校長を、ソフィスタは冷ややかな目で見下ろす。
 その視界に、ホークが床に突き刺した羽が映った。
 …この羽、ホークのやつは、どうやって出現させたんだ?
 ホークの腕から羽が生えた時、彼は魔法を使ったのだと思ったが、今思うと、あの時、魔法力の流れが全く感じられなかったような気がする。
 ただの気のせいかもしれないし、羽を出したことについても、ただの手品かもしれない。
 だが、このホークという少年、どうも得体が知れない。
「…ホーク、帽子を返してやれ。褒美の品が欲しいのであれば、他のものでもよいであろう」
 ソフィスタと一緒に校長に駆け寄っていたメシアが、ホークの金色の瞳を真っ直ぐ見つめ、彼にそう頼んだ。ソフィスタも、メシアの視線を辿り、ホークを見つめる。
「ボクはコレが欲しいんだけど…でも、メシアさんが返してって言うのなら、条件つきで返してあげてもいいですよ」
 話しながら、ホークは帽子を鞄の中にしまう。
「メシアさん。あなたはラゼアンへ行きたいんでしょう?朝、ソフィスタさんと話をしていましたよね」
「えっ…何故それを?」
 メシアは、ソフィスタにしか話していないはずのことを、ホークが知っていることに驚かされたが、ソフィスタは「盗み聞きしていただけだろ」と冷静に言い、ホークも「そう、盗み聞きしてたの」と素直に頷いた。
「ちょうどボクもラゼアンに用があるから、メシアさんとソフィスタさんも、ボクを追ってラゼアンへおいでよ。二人が直接取りに来れば、帽子は返してあげます」
 メシアがラゼアンに行きたがっていたことは確かで、ソフィスタも、いずれはメシアをラゼアンへ連れて行ってやるつもりだった。校長は、あの帽子をずいぶん大切にしているようだし、しばらく学校を休んでラゼアンへ向かうことを許してくれるだろう。
 だが、ホークのしてやったような笑みを見ると、彼の思い通りに動かされているような気がして腹が立つ。それに、ホークがこちらの都合のいいように動いてくれる理由が分からないし、条件に従っても返して貰えないかもしれない。
 考えるのも面倒臭いので、いっそ攻撃魔法で帽子もろとも吹き飛ばしてやろうと、ソフィスタは思ったが、まだホークには聞きたいことがあるので、止めておいた。
「…何で、あたしたちの都合のいいように動いてくれるんだ?」
 ソフィスタは、静かにホークに尋ねた。脅しているような低い声だが、やはりホークは動じていない。
「考えてみれば、ヴァンパイアカースの件でも、お前の行動には都合が良すぎる点が多い。あれは、本当は計算して行動していたんじゃないか?」
 自警隊の本部の人々が、ヴァンパイアカースに感染した時、掃除屋の仕事で本部内にいたというホークは、感染者たちから逃れ、本部を脱出した。
 そして、本部からこっそり持ち出した解呪剤で、ヴァンパイアカースの本体を消滅させ、感染者たちの呪いを消した。
 厳重な鍵をかけられている、図書館の特別書庫の本を持ち出したことなど、ホークの行動の都合の良さは、疑い始めるといくつも浮上してくる。
 少なくとも、校長がホークに使ったはずの魔法の効果が現れなかったことから、彼が只者ではないことは確かだ。
「お前、一体何者なんだ。ホークなんて人間は、本当はいないんじゃないのか?」
 ソフィスタはホークを睨み続け、ホークは表情を崩さず、笑みを浮かべたままソフィスタを眺めていた。
 メシアと校長は、どこか緊迫した空気に入り込めず、黙って二人の様子を見ていたが、やがてホークが口を開いた。
「そうです。ホークという人間は、ボクの仮の姿にすぎません」
 突然、ホークの目元をなぞるように、彼の皮膚に黒い線が現れた。
 鼻の先から額まで、髪と同じ色の黒い羽毛で覆われ、捲れ上がった前髪は、そのまま長く伸びて後ろに垂らされる。
 耳はメシアと同じくらい長く尖り、頬には黒い編み目のような模様が浮かび上がる。
 着ている服や、肩から下げている鞄も、まるで生きているように蠢き、色と形を変えてホークの体を包んだ。
 そして、腕が鳥の翼に変身すると、ホークの姿は落ちついた。
 例えるなら、それは隼の化身であった。
 黒や茶で配色された翼と羽毛は、隼そのものであり、人間の姿をしていた頃とほとんど変わっていない金色の瞳も、こうして見ると、隼の瞳だったのだと思う。
 ほんの数秒という短い時間で、これほどの変身を遂げたにも関わらず、ホークからは全く魔法力を感知できなかった。先程、羽を一枚出現させた時とは違い、もはや手品では説明がつかない。
 だが、それ以上に驚かされたのは、彼の服装であった。
 腕と足に巻かれた、金色の布地。
 真っ青なマントと、それを固定するビーズの襟飾り。
 青、赤、金の鮮やかな三色で配色されたそれらは、すぐ隣にいるメシアが身に着けているものと、よく似ていた。
 メシア自身も、ホークが変身する様も含めて、目を見開いて驚いている。
 そんな三人の様子を見下ろし、ホークは得意げに笑った。
「ボクの本当の名前は、ホルス。大地母神イシスの使者、ルクロスの戦士メシアを助け、導く者だ」
 ホークではなく、ホルスと名乗った彼の言葉を聞いて、ソフィスタはメシアを振り返った。
「…な・なぜ、イシス神と、故郷の名を?お前は一体、何者なのだ?」
 メシアは、ホルスの言葉に戸惑っていた。身に着けているものが似ているからといって、知り合いというわけではなさそうだ。
 …じゃあ、メシアとホルスが言うイシス神ってのは、メシアに使命と紅玉を与えた神のことか。そして、ルクロスというのが、メシアの故郷の名前か?
 メシアの故郷と神の名前は、何度か尋ねたことがある。だが、それは喋ってはいけないことだと言って、メシアは教えてくれなかった。
 ソフィスタも知らないことを、なぜホルスは知っているのだろうか。やはり、ホルスはメシアと何か繋がりがあるのだろうか。
 それに、メシアを導くという言葉も気になる。ホルスは、メシアに何をする気なのだろうか。
「ボクが何者かは、そのうち分かるよ。とにかく、ボクはメシアの味方だからね」
 そう言って、ホルスが右の翼を翻すと、そこに校長の帽子が現れた。帽子を見て悲鳴を上げる校長を無視し、ホルスは帽子を自分の頭に乗せると、窓の桟を蹴って外に飛び出した。
 校長室は二階にあり、物音を聞きつけた者が何人か窓の下に集まっていた。野次馬のことなど気にも留めず、ホルスは翼を羽ばたかせる。
「待ちやがれ!!」
 ソフィスタは窓に駆け寄り、身を乗り出す。ホルスは旋回しながら上昇し、その間、ホルスの体はさらに変化し、頭から足まで完全に隼の姿となった。
 校舎よりも高く上昇していくホルスに、ソフィスタは「待てっつってんだろが!」と攻撃魔法を放とうとしたが、「やめてくれぇ!私の帽子まで壊れてしまうだろぉ!!」と、校長に止められた。
「じゃあねー!先にラゼアンへ行っているから、メシアとソフィスタも後からおいで!二人以外の誰かが取りに来たら、帽子は燃やしちゃうからねー!」
 実に楽しそうな声を響かせ、ホルスは北の空へと向かって羽ばたいてゆく。
「ホルス!待ってくれ!」
「帽子返してェー!!」
 メシアと校長も窓に駆けつけ、ホルスが飛んでゆく姿を目で追った。
「…ホルス…あいつ、何を考えていやがるんだ…」
 ソフィスタが呟いた声は、校長の「帽子ィー!!」と騒ぐ声と、床にガラスの破片が散らばっていることを忘れて裸足で窓に駆け寄ったため、足の裏に破片が刺さって「あいたたたたたぁ!!」と痛がり始めたメシアの声に、掻き消されてしまった。
 そんな緊張感の無い二人に、ソフィスタは本日二度目の冷ややかな視線を送った。
 その間に、ホルスは姿が見えなくなるほど遠くへと羽ばたいていってしまった。


    (続く)


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