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ありのままのメシア 第九話


   ・第三章 出発

 次の日の朝、家の戸締りを終えて外に出たソフィスタとメシアは、旅の荷物が入っている二つのザックを玄関前に置き、校長が手配してくれたという馬車の到着を玄関先で待っていた。
 見送りのために馬車より先に来たザハムとタギも、この場にいる。
 先日の話では、学校が始まる前に、プルティとアズバンが見送りも兼ねて馬車を引いてくると言っていた。校長は、極力出歩くのは控えたいそうなので、今日は来ないことになっている。
 こんな時でも朝の日課である筋トレをしているメシアとザハムと、それを手伝っているタギの様子を、ソフィスタは何気なく眺めていたが、近付いてくる車輪の音に気付いて、そちらに顔を向けた。
 布をワイヤーで張った折り畳み式の屋根に、シンプルだが丈夫そうな四輪の車両を、一頭の馬が引いている。
 大きさからして大人四人は乗れそうなので、体が大きいメシアがソフィスタと一緒に乗っても、そこそこ余裕はありそうだ。
「あー、あれに乗って行くのか。結構良い馬車じゃねーか」
 筋トレを中断したザハムの言う通り、長旅にはちょうどよさそうな馬車である。馬車は家の前まで来ると、馭者が手綱を操って馬を止めた。
 早速、車両のドアが開き、中からプルティとアズバン、そしてエメの三人が下りてきた。
「ソフィー姉様!おっはよーう!!」
 先に馬車を駆け下りたプルティがソフィスタに抱きつこうと飛び掛かって、またもや避けられて地面に突っ伏した。
「皆さん、お早うございます…うわ、すごいわね、メシアちゃん」
「メシアくん、朝からそんなに体力を使って大丈夫かい?」
 プルティに続いて下りてきたエメとアズバンが、タギの鉄梃を体を捻ってかわしながら片腕で腕立て伏せをしているメシアの様子に驚かされる。
「おはようございます、先生。…これが、校長が用意した馬車ですね」
 ソフィスタは、倒れているプルティを無視して馬車に近付くと、車両や車輪をざっと眺めた後、馬を撫で始めた。
 栗色の毛並みを撫でてやっているうちに、馬のほうからソフィスタに鼻の頭を近づけてじゃれてきた。
「馬の扱いに慣れているようですね。手綱は操れますか?」
 馭者台から下りた馭者が、ソフィスタにそう話しかけた。人嫌いなソフィスタは、馬の手綱は自分で引くと、あらかじめ校長に話しておいたのだが、馭者にもその話はちゃんと伝えられていたようだ。
 ソフィスタは「問題ありません」と、さらっと答える。
「メシア。早速出発するよ」
 そうメシアに声をかけると、ソフィスタは二つのザックを馬車の中のベンチの上に置いた。メシアは筋トレを中断し、隣に畳んで置いておいた巻衣を羽織る。
「しばらく寂しくなるな。早く用事を済ませて、早く帰ってきてくれよ、メシア!」
「ソフィスタと一緒に、元気な姿で戻ってくるんだよ」
 ザハムとタギが、順番にメシアに声をかけて、彼の背中を叩いた。メシアは笑顔で二人に頷く。
「ソフィー姉様ー!早く帰ってきてね!あとメシアちゃんには気を許しちゃダメよ!」
「旅先で怪我や病気のないようにね。あ、もしヒュブロで私の友達に会ったら、よろしく伝えてくれ」
「ソフィスタさん、校長の姿が見るに耐えられないから、早く帽子を取り返してあげて下さいね。…それと…」
 プルティ、アズバン、エメもソフィスタに声をかけ、エメはさらに何かを話そうと、ソフィスタに近付いた。
「ヴァンパイアカースの件があって、だいぶ遅れてしまいましたが、魔法力測定テストの結果が、全員ぶん出ました。今日、みなさんに渡そうと思っていたのですが…」
 エメの言葉を聞いて、一月ほど前に行った魔法力測定と魔法特性判定のテストを思い出した。
 ちなみに、同じ日に行った魔法実技テストは、一緒にテストを受けた女生徒たちとのトラブルのため、後日受け直していた。
「実技テストの結果も、明後日には全員ぶんが揃うのですが、先に魔法力測定の結果だけでも、あなたに渡そうと思って。邪魔でなければ持っていって下さい」
 エメは、持っていたハンドバッグの中から、封筒を二つ取り出し、ソフィスタに差し出した。ソフィスタはそれを受け取り、それぞれ、ソフィスタの名前と、ソフィスタの字でメシアの名前が記されていることを確認する。
 封を開いて中を覗くと、二枚の紙が入っている。浮き出る線の数と色で魔法力を測定する紙と、測定結果の詳細が書いてある紙だろう。前回魔法力を測定した時も、これと同じように二枚の紙が入っていた。
 内容は後で確認しようと、ソフィスタは封筒をセタに渡した。
「それと、メシアちゃんの測定結果で、気になることもありました。詳しくは、中の詳細を読んで下さい。あなたなら何か分かると思って…」
 エメの言葉を聞いて、メシアの何が気になったのかとエメに聞こうとしたが、プルティが「何の話?」と割り込んできたので、ソフィスタは「何でもない」と言った。プルティが話に加わってくると面倒だし、メシアに関することなら、まずはソフィスタ一人で調べたかった。
「それじゃ、行ってきます。帰りが遅れるようなことがあれば、校長に連絡を入れます」
 ソフィスタは馭者台に座り、手綱を握った。メシアも馬車に乗り込み、ザハムやアズバンら見送り組は馬車から離れる。
「行ってらっしゃい。気をつけるんだよ」
「拾い食いするなよー!」
「ソフィー姉様〜!プルティはいつでもソフィー姉様を思っています〜!」
 そんな見送り組の激励を受けて、馬車は発進した。
「アズバン!ザハム!タギ!プルティ!エメ!しばらく会えぬが、元気でな!」
 メシアは窓から身を乗り出し、一人一人の名前を呼んで手を振った。
 しかし、ソフィスタに「窓から顔を出すな!危ないだろ!」と怒られると、メシアはしょぼんとした顔で馬車の中に引っ込んだ。


 *

 アーネスの街を出てから北へ、しばらくは平地が続いている。それなりに整備された街道を辿っていれば、いずれは王都ヒュブロに着く。一本道ではないが、道の分岐点には立て札があるので、迷う心配は無いそうだ。
 馬を休ませながら進んで、日が暮れる頃には停留所に着く。もし物資の補給が必要になったら、そこから少し逸れた場所にある村に寄ればいい。そう、ソフィスタから話を聞いた。
 ラゼアンは、王都ヒュブロの北西、馬車で一日かからない程度の所にある。ヒュブロにさえ着けば、あとの道のりは楽なものだ。
「…でも、これなら予定より早く停留所に着きそうだな…っつーか、馬車の意味が無いんじゃ…」
 メシアの巻衣を膝に乗せて馭者台に座っているソフィスタが、真っ青な空をぼんやりと見上げながら呟いた。
「そんなことは無いぞ。それなりに重いので、良い運動になる」
 馬の隣に並び、馬と一緒に馬車を引いているメシアは、ソフィスタを振り返って、そう言った。
 馬車の中でずっと座っているのも退屈なので、せっかくだから体を鍛えようと思って、メシアも馬車を引き始めたのだった。
 体が大きくて重いメシアが馬車に乗っていないぶん、馬の負担が減るし、さらにメシアが一緒に馬車を引くのだから、互いに負担を分け合って体力を温存することができる。それも、メシアの常識外れの筋力と腕力だからこそ為せるのだが。
 こうしてメシアが馬を引き始めてから、すれ違う人や馬車馬を驚かせている間に、空は朝の名残を消し、太陽は白い光を地上に送り始めていた。
「…メシア。昨日は、タギと何の話をしていたんだ?」
 不意に、ソフィスタがメシアに尋ねてきた。メシアは、昨日の夕食中にタギと話をしていたことを思い出す。
「うむ、ソフィスタは前より明るくなったとか、タギに似ているとか…そんなことを話しておった」
「人のことを、勝手に話題にすんじゃねーよ。だいたい、あたしがタギに似ているわけねーし、明るくなったつもりも無い」
 確かにソフィスタは、性格が暗いか明るいかと言うと、暗いほうだ。友達を作ろうとしないし、なにより彼女の笑っている顔を、メシアは未だに見たことがなかった。
 社交辞令で笑顔を見せたり、誰かを蔑んで笑ったり、ニヤリと口の端を吊り上げたりすることは別として、嬉しかったり照れくさかったりすると穏やかに微笑むこともあるが、そういう笑顔は長く続かないし、見せたがらない。
 メシアと遊んでいる時のザハムや、ソフィスタにじゃれているプルティが見せるような、天真爛漫な笑顔。面白いことがあって、腹の奥から絞り出すような笑い声。ソフィスタには、それが無い。
 ソフィスタが人間不信で人を寄せ付けようとしないからだろう。笑顔を見せず、親しみを持たせようとしなければ、誰も寄ってこない。
 昔のタギも人間不信で、それは今のソフィスタと似ていたと話していた。タギは、自分が人間不信だったのは、故郷で家族や仲間から見放され、蔑まれていたからと話してくれた。
 …もしかしたらソフィスタも、過去に誰かにひどく心を傷つけられたから、誰も信用しなくなったのだろうか…。
 タギは家族にまで見放されたと話したが、ソフィスタは家族とは今でも仲が良さそうだ。定期的に手紙を送っていることも、家族から届いた手紙を読んでいる時のソフィスタの様子が、どことなく和やかであることも、メシアは知っている。
 メシアは、一月ほど前にソフィスタが学校で行った、魔法力測定テストとやらを思い出す。
 実技テストの最中、ソフィスタと同じ学舎で共に勉学に励んでいる者が、三人がかりでソフィスタを陥れ、ナイフで刺そうとしてきた。メシアにとっては、とても考えられない酷い出来事であった。
 しかしソフィスタは、彼女たちのことを最初から信用しておらず、最悪な性格の連中だと考えていたようで、あんな目に遭っても、わりと平然としていたし、慣れているようにも見えた。
 そういえば、不完全な魔法生物を作り出したミーリウがメシアを騙して拉致した時も、ソフィスタは面倒なことに巻き込まれたことには怒っていたが、人を騙し傷つけるミーリウの行動自体には怒っていなかったような気がする。
 まるで、人間の汚れた部分を、知り尽くしているように。全ての人間が最悪だと最初から悟っているように。
 メシアはソフィスタを振り返って見た。ソフィスタは、エメから渡された封筒の中身を見ており、メシアが振り返ったことには気付いていない。
「…なあ、ソフィスタ」
 ずっと後ろを向いていても危ないので、メシアは前に向き直ってソフィスタに声をかけた。ソフィスタは「何?」と返事をする。
「お前は、過去に心をひどく傷つけられたことはあるか?」
 そう尋ねてすぐ、ソフィスタが「は?何でそんなことを?」と聞き返してきた。
「お前は、同じ人間のことを信用しようとしない。それは、過去に誰かから酷い仕打ちを受けたり、裏切られたりしたからではないか?」
 その後のソフィスタの返事は、すぐに返ってこなかったので、メシアはさらに続けて話す。
「以前、三人の女生徒に囲まれて、酷い目に遭わされそうになっていただろう。あの時のように…」
 そう言いかけたメシアの髪が、体を伸ばしたセタに掴まれて後ろに強く引っ張られた。馬と一緒に走っているので立ち止まることもできず、メシアは「イテテテテッ!」と声を上げて仰け反った。
 セタはすぐにメシアの髪を放し、体を縮めた。メシアは頭を押さえながら、「何をする!」とソフィスタを振り返った。
「痛いではないか!走っている時に、いきなり髪を引っ張るな…」
 メシアはソフィスタに文句を言うが、メシアを見つめるソフィスタの表情に気付くと、口を止めた。
 ソフィスタがメシアに向ける視線は、ひどく冷たく、その瞳の奥にドロドロとした怒りと憎しみが感じられる。
 今まで、メシアはソフィスタに本気で怒られることもあったし、冷めた目で見られたこともある。だが、心底憎むような目で見られたことは、一度もなかった。
 メシアには理由は分からないが、少なくとも自分の発言がソフィスタに今のような表情をさせてしまったのだということは分かった。
「…あまりくだらない話をもちかけてくると、喉の奥を氷らせるぞ」
 戸惑っているメシアに、ソフィスタが低い声で告げた。メシアは返事をすることもできなかったが、やがてソフィスタは、何事もなかったように封筒の中身を再び調べ始めた。
 いつもの漫才さながらの突っ込みとは違った怒られかたをしたメシアは、気まずそうに前を向き直った。
 これ以上、ソフィスタを追求してはいけない。ソフィスタは過去を掘り返されることを嫌っているのかもしれない。そう考えて、気まずい空気のまま、メシアはソフィスタに話しかけることなく、黙々と走った。


 *

 そろそろ昼になりそうな時間、辺りが薄暗くなってきたので、メシアは空を見上げた。
 いつの間にか強まっていた風が灰色の雲を運び、太陽を既に覆い隠していた。雲を抜けて地上に降り注ぐ光は僅かで、あれから未だに互いに無言のままのメシアとソフィスタの気まずい空気が、さらに淀んだような気分になった。
「…ひと雨…いや、雷雨になりそう…」
 ソフィスタがそう呟く声が聞こえて、メシアは振り返る。ソフィスタの表情は、いつもの涼しげなものに戻っていたが、まだどこか暗く感じられた。
「雨宿りできる場所があれば、早めに入ったほうがよさそうだ。メシア、そこから何か建物は見えないか?」
 封筒をポケットにしまいながら、いつも通りにソフィスタが話しかけてきたので、メシアも先程の気まずい空気を無かったことにして、走りながら周囲を見回した。
 ここから見えるのは森と山。そして今走っている道は、あと少し進んだところで分岐している。
 一本は北へ、もう一本は東へ延び、東へ向かうほうの道は、馬車一台ぶんの幅くらいしかなく、あまり整備されていない。向かい側から来る人や馬車も、その道を素通りして街道を進んでいる。
 細い道を視線で辿ると、その先は森になっている。森の中に何かあるのだろうかと眺めていると、長方形の石をきっちりと積んだ壁が、木々の枝の隙間から見えた。
「ソフィスタ。この先の道を東へ曲がった先にある森の中に、石の壁が見えたぞ」
 森まではかなり距離があり、さらにその森の中にあるものを発見できるメシアの恐るべき視力に、ソフィスタはもう慣れてしまったようで、メシアの言うことをあっさり信用し「じゃあ、そっちへ行ってみよう」と言った。
 分岐点まで来ると、メシアと馬は東の森へ続く道へと曲がり、馬車もメシアと馬に従って進行方向を変えた。
 メシアは、このまま森まで走っていくつもりだったが、「ちょっと待ってくれー!」と聞き覚えの無い声が後ろのほうから聞こえた。
 声はソフィスタにも聞こえ、彼女は手綱を操って馬のスピードを緩めさせた。それに合わせて、メシアもスピードを徐々に緩める。
 やがて馬車が止まると、ソフィスタは膝に乗せていた巻衣を隣に置き、馭者台から下りて、来た道を振り返った。メシアも大きく深呼吸をしてから、後ろを振り向いた。
「ちょっと待ってくれー!その馬車、どこへ行くんだー!」
 そう声を張り上げて、こちらに駆け寄ってくる者の姿を瞳が捕らえた時、メシアはビクッと体を震わせ、すぐさま馭者台に置かれた自分の巻衣をひっつかんで羽織った。
「…あれは…へぇー、エルフの男なんて、久しぶりに見るわ」
 ソフィスタの言う通り、こちらに駆け寄ってくるのは、エルフの男であった。
 色素の薄い短い金髪と、長く尖った耳は、普通の人間と同じ色の肌を除けばタギに似ている。
 袖が長い黒のシャツと長ズボンの上に、ポケットの多いダウンベストと半ズボンを身に着け、頭に被った黄色いヘルメットのベルトを首にひっかけている。
 腰の左右には、それぞれ剣が吊されており、鞘には奇妙な記号のようなものが刻まれていた。
 全体的に、わりと奇抜な格好だが、人間のファッションなど知らないメシアから見れば、誰でも奇抜であった。
 エルフの男は、ソフィスタの手前まで来ると、彼女を軽く見上げ…そう、彼はソフィスタより頭半分ほど背が低かった。
 そのことが気に入らないのか、エルフの男はしかめっ面をして、二歩後ろに下がった。
「そっちへ行っても、昔の砦しかねーぞ。そこに何か用でもあんのか?」
「ああ、あっちには砦があるのか。丁度いい。雨が降りそうだから、雨宿りをしに行こうとしていた所だよ」
「あ〜、確かに雨が降りそうだな。そんなら、オレも乗っけてってくれよ。傘もねーし、ヒュブロの近くから歩いてきたから、しんどくってよ〜」
 エルフの男から見えないよう、馬車の馭者台にうずくまって隠れていたメシアは、それを聞いて焦った。
 エルフは、ネスタジェセルが世界に存在することを許さず、かつては多くのネスタジェセルが、エルフによって虐殺された。特に男のエルフは恐ろしく強く、ネスタジェセルを見つけたら、殺しにかかってくるだろう。メシアの頭の中で、格闘技の師とタギの警告が復唱される。
「…別にかまわないよ。乗っていきな」
 ソフィスタがエルフの男に、そう答えた。
 …くっ…仕方ない!
 メシアは左手の紅玉を掲げた。すると、紅玉から赤い光が霧状に現れ、メシアの全身を包み込んだ。
 ソフィスタが、その気配に気付き、馬車を振り返る。
「おいメシア、何をやってんの?」
「あ?他に誰かいたのか?」
 ソフィスタとエルフの男が、隠れているメシアのもとへ来た時には、赤い光は収まっていた。そしてメシアの姿も、すっかり変わっていた。
 長い銀髪は夕日のように赤く染められ、肌の色と質は、人間と全く同じものとなっている。尖った耳も、巻衣を頭から被ることで隠していた。
 以前、ヒュブロ城内で騎士に扮していた時のように、紅玉の光によって、姿を人間に見せかけているのである。
「お、連れの男がいたのか」
 エルフの男は、メシアの姿を見ても大して驚いていないようだったが、ソフィスタのほうはというと、口をあんぐりと開けて突っ立っている。
「ど・どうも…」
 メシアはエルフの男に、右手をヒラヒラと振って笑ったが、その笑顔はぎこちなかった。
「…め・メシア?お前、何でそんな…」
 ソフィスタが言おうとしていることを察し、メシアは口の前に人指し指を立てて、余計なことは言わないよう身振りで示した。ソフィスタはそれに気付いてくれたようで、いったん口を止めて咳払いをした。
「そんな所にいないで、馬車に乗れよ」
 ソフィスタは、エルフの男に隠し事をしていることを悟られないよう振る舞ってくれた。幸い、エルフの男は二人の様子に気付いていないようだ。彼は「じゃ、オレも乗せてもらうぜ」と言って、さっさと馬車に乗り込んだ。
「さあ、出発するぞ」
 そう言って、ソフィスタは馭者台に座って手綱を握った。メシアは、彼女の隣のスペースに座る。
「えっ、何で隣に座るんだ?」
「よいではないか。とにかく、ここに座らせてくれ」
 エルフの男と一緒に馬車の中にいたくはないし、あまり動くと巻衣が脱げてしまいそうなので、メシアはソフィスタの隣に座ったのだが、ソフィスタは何故か顔を赤くして焦っている。
 しかしメシアは、エルフの男に正体を明かさないようにすることで頭がいっぱいで、ソフィスタの様子を気にする余裕が無かった。ソフィスタは、何か言おうと口をモゴモゴと動かしていたが、馬車の中にいるエルフの男に「どうかしたのか?」と声をかけられたので、仕方なく馬を走らせ始めた。


 *

 エルフの男は、ユドと名乗った。
 ユドは各地を巡って気ままに旅を続け、これからアーネスへ向かう途中だったという。ユドもタギと同じくらい長生きしており、アーネスにも何度か寄ったことがあるらしい。タギとも知り合いで、彼女のことをユドに少し尋ねただけで、聞いてもいないことをポンポンと話し始めた。
 あまり人と喋ることは好きではないソフィスタだが、今はユドがお喋りなことに救われていた。
 隣にいるメシアは、人間の姿をしている。何故かは知らないが、ユドに正体を隠したがっているようなので、とりあえず協力はしているが、メシアにはあまり人間の姿でいてほしくなかった。
 なにせソフィスタは、この姿のメシアに、正体を知らずに初恋を果たしてしまったのだから。
 …くそっ!何か事情があって人間の姿になっているんだろうけど、このユドとかいう奴がいる間は、ずっとその姿でいるつもりかよ!
 メシアの顔を見ると、あの姿にときめいていた時の気持ちが蘇り、その気持ちを忘れていない自分に腹が立つ。
 ユドと話すことで気を紛らわそうとはしているのだが、時々口調を強めたり、とちったりしてしまう。しかしユドは全く気にせず、馬車の中からマイペースにソフィスタに話しかけていた。
「へ〜、おめーがソフィスタか。すっげー頭がいいっつーけど、勉強ばっかして根暗なんじゃねーか?」
 ユドは思ったことをズバッと言う性格のようで、態度も偉そうだった。八十年近くは生きているという彼にとって、ソフィスタなど子供のようなものなのだろうが、ソフィスタから見ても背の低い彼は子供であった。長生きしていると言う割りにはユドが持つ雰囲気に年期を感じないし、そんなに知性を感じさせる喋り方でもない。
 まあ、悪口は言われ慣れているし、怒る気も湧かないので、根暗と言われても「よくそう言われます」などと、適当に返していた。
「そ−だろ−と思ったぜ。隣のカレシも無口だな。こんな暗いカップル、初めて見たぜ。これから心中でもしにいくのか?」
 カップルと言われ、これには動揺し、「コイツとは友達ですらねーよ!」と怒鳴り散らしたくなったが、あまり感情的になると余計ひやかされると思って、ソフィスタは静かに「カップルではありません」と反論した。
「あっそ。まあ、仲が良いようには見えねーわな」
 口と態度の悪さはいい勝負だと、ソフィスタは自分でも思っていたが、口数が多いぶん、ユドのほうが優勢だと、ソフィスタは考え直す。
「ソフィスタ。カップルとは何のことだ?」
 メシアがソフィスタにくっつかない程度に体を寄せ、小声でそう尋ねてきた。人間の姿のメシアに近付かれ、ソフィスタはドキッとして体を横に傾けてメシアから離れた。
「な・何でもねーよ。知るほどのもんじゃない」
 そう答えて、ソフィスタはメシアに離れるよう、しっしと手を払ったが、逆に近付いてきた。
「おい!なぜ離れようとするのだ!」
「お前こそ、何で小声なんだよ!」
 メシアにつられ、ソフィスタも小声になる。
「う…うむ、それはだな…」
 メシアは馬車を見遣りながら、口ごもる。
「何だよ、あのエルフに話を聞かれちゃまずいことでもあるのか?そもそも、何で人間の姿になったんだ」
「…それは…じ・実はな、私は…」
 そうメシアが言いかけた時、ソフィスタの鼻の頭に滴がポッと落ち、遠くから雷が轟く音まで聞こえた。
「やばっ!降ってくる!」
 ソフィスタはメシアを押し退けて馭者台に座り直すと、手綱を操って馬を急かした。馬車の屋根は馭者台の上まで伸びているが、強めの向かい風が吹いているため、ソフィスタの服やメシアの巻衣に次々と雨が落ちてくる。
 森まで、そう距離は無いが、雨は今にも本降りになりそうだ。
 ソフィスタは、馬車のベンチの下に傘が置いてあることを思い出し、少しは役に立つだろうと考え、ユドに傘を取り出すよう声をかけうよとした。
「ソフィスタ、中に入れ!」
 しかし、先にメシアにそう声をかけられた。
 馬車の中に入ったら誰が手綱を引くんだとソフィスタは思ったが、彼はそういう意味で言ったのではなかった。メシアは羽織っている巻衣を半分広げ、ソフィスタに被せてきた。
 メシアの全身をくるめるだけあって巻衣は広いが、二人一緒にくるまるとなると、必然的に体が密着する。互いに肌が露出している腕が触れ合い、ソフィスタの顔がボッと赤く染まり、緊張のあまり体が固まった。
 赤く染まった顔を見られたくないのと、今メシアを見るとますます緊張してしまいそうな気がして、正面を向いたまま身動きが取れなくなってしまう。
「森までなら、これで少しは雨を凌げるだろう。だが急いでくれ」
「は・はいっ!」
 思考がショートしかかっているソフィスタは、思わず敬語で返事をしてしまい、早くこの状況から脱しないと、自分がどうなってしまうか分からないと感じて、ひたすら馬を走らせた。
 傘が馬車の中に置いてあるということは、見事にソフィスタの頭の中からすっぽ抜けていた。


    (続く)


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