・第四章 赤と銀森の中には、確かに古い砦があった。石造りの二階建てで、隣には馬車を数台収納できる車庫があった。外から見ると壁には蔦やコケが這い、使われなくなってからの年月を物語っている。 出入り口の門は、鉄の鋲で補強された大きな扉に閉ざされているが、車庫の門は開け放たれており、入ってすぐ左にある扉から砦の中へ入ることができた。 一階は広間になっており、ボロボロの棚と、二階へと続く階段しかなかった。 もっと雑草や虫の死骸で汚いだろうと思っていたが、車庫の中と砦の広間には掃除の跡が見られ、空っぽの棚の上にはホコリが積もっていたが、床の汚れはそれほどでもなかった。 ユドの話では、この古びた砦を雨宿りに利用する旅人は多く、ユドに至っては寝泊りしたことがあるという。二階には幾つかの部屋があるそうだが、一階ほど掃除されておらず、中で休めそうな部屋は一つしかないらしい。 「…雨風は十分凌げそうだね。たぶん通り雨だと思うから、止んだらすぐ出発しよう」 車庫の柱に馬を繋ぎながら、ソフィスタはメシアに話す。 「なんだ、急ぎの旅か?通り雨っつっても、夜まで止まないかもしれねーぜ」 馬車から降りてきたユドが、ソフィスタの話に割り込む。ソフィスタは「その時はその時に考えます」と、あしらうように答えた。 「あっそう。…オレは他に人がいないかどうか、砦を調べてくるぜ。誰もいなかったら、オレは二階で休むことにするよ。…ソフィスタとメシアっつったっけな。ここまで乗せてくれて、ありがとうよ」 それだけ言って、ユドはヒラヒラとメシアとソフィスタに手を振りながら、砦に繋がる扉をくぐり、後ろ手で扉を閉めた。 扉の向こうで響くユドの足音が、やがて聞こえなくなると、びしょぬれの巻衣にくるまって俯いていたメシアは、ほっと息をついた。 外の雨は、滝のような音を立てて降り続けている。砦に着く前に本降りになってしまったため、メシアの巻衣は水浸しで、絞らなくても雨水が滴っていた。 「…で、メシア。あのエルフの男に、どうして正体を隠しているんだ?」 ソフィスタは、帽子とグローブを外しながら、メシアに尋ねた。メシアも巻衣を脱ぎながら答える。 「実は、エルフにとって、我々の種族は邪魔なようなのだ」 「邪魔?何で?」 ソフィスタが帽子を絞ると、メシアの巻衣だけでは防ぎきれずに染み込んだ雨水がボタボタと滴り落ちた。 「そこまでは分からん。だが、タギからもエルフの男には気をつけろと忠告されていたのだ」 メシアも巻衣を絞り、足下に水たまりを作る。 「エルフの女は、別に警戒しなくていいのか?」 「いや、そういうわけではない。ただ、タギだけは私の味方をしてくれるようだ」 巻衣だけではなく、装束も湿って肌に張り付いてうっとうしい。紅玉の力で赤く染まっている髪からも、ポタポタと滴が落ち、装束をさらに湿らせる。 「そうなんだ…。じゃあもし、あんたの正体がエルフに…」 そこまで言って、ソフィスタは言葉を止めた。 メシアは襟飾りを外し、上半身だけ装束を脱いで肌を晒している。残っているのは、紅玉と耳飾りだけであった。 「…ソフィスタ?」 なぜかソフィスタが顔を赤くし、じっとこちらを見つめていることに気付いて、メシアは首を傾げて彼女の名を呟いた。すると、ソフィスタは慌ててメシアに背を向けた。 「…あ、いや、その…あ・あたし、馬車の中で服を乾かしてくるよ!お前の、その、脱いだやつも乾かしてやるから、よこせ!」 ソフィスタはメシアに背を向けたまま、そう言って手を差し出してきた。 日も当たらないのにどうやって服を乾かすつもりかと思ったが、すぐに魔法を使って乾かすつもりだということに気付き、「分かった」と頷いて、巻衣以外の脱いだものを、アクセサリーも含めてソフィスタに渡す。 受け取ってすぐ、ソフィスタはメシアを振り返らずに馬車へと走り、車両の中に入ってドアを閉めた。 何をそんなに焦っているのだろうと不思議に思いながら、メシアは髪を絞る。 …顔が赤かったな。まさか、この雨で、もう風邪をひいてしまったのか? そう、ソフィスタの心配をしていると、砦のほうから物音が聞こえた。 雨音が激しく、雷も轟いているので、何の音までかは分からなかったし、気のせいかもしれないが、メシアは念のため、いつユドが戻ってきてもいいよう残しておいた巻衣を頭に被せて、長く尖った耳を隠した。 砦と車庫を唯一繋ぐ扉は閉まっており、それを開かない限り、行き来することも砦の中の様子を窺うこともできない。じっと扉を睨みつけていたが、開く気配も無く、もう物音も聞こえてこなかった。 やはり気のせいだったのだろうか。そう思って、メシアは警戒を解き、肩の力を抜いた。 次の瞬間、メシアの頭上から降ってきたユドが目の前に降り立ち、右手に握る抜き身の剣の切っ先を、メシアの右肩に振り下ろしてきた。 メシアは反射的に後ろに下がり、かろうじてユドの斬撃をかわす。 …馬鹿な!一体どこから入ってきたのだ!? 砦から車庫に入って来るには、メシアが睨みつけていた扉を開くしかないはずだが、扉は閉まったままである。 ユドがいきなり上から降ってきたことを思い出し、視線を僅かに上へずらすと、天井に人が一人通れるくらいの穴が開いていた。 二階からあの穴を通って、ユドは車庫へ下りてきたのだろうか。だが、外から見ると車庫は一階建てであった。 もしかしたら、車庫の屋根裏が砦と繋がっていていたのかもしれないが、そこまで考える間も無く、後ろに下がって距離を取ろうとするメシアを追ってユドが床を蹴り、剣を構えて突っ込んできた。 足音は静かで、走るスピードはメシアより速い。すぐに追いつかれ、剣を振り下ろされる。 一度太刀筋を見ただけで、メシアには分かった。このエルフの男は、師やタギから聞いた通り、恐ろしく強い。 ユドは息継ぎ以外に口を開かず、無言のまま何度も斬撃を繰り出すが、メシアも負けじとそれをかわし、巻衣すら傷つけなかったが、それだけで精一杯で、次第に壁際へ追いつめられていった。 ふいに、ユドがニヤッと笑った。メシアがそれに気付いた時、足下の床が割れ、同時にユドは一歩後ろに下がった。 「うわあっ!?」 古くなっているせいだろうか、メシアの体重で床が抜け落ちた。 メシアは瓦礫と共に下へ落ちそうになったが、どうにか両腕を伸ばし、崩れずに残った床を掴んだ。宙吊りになり、両足を動かして足場を探ったが、空を掠めるばかりだった。 ユドは穴の手前で腰を屈め、メシアが被っている巻衣をひっつかんで、勢いよく剥ぎ取った。 露わになったメシアの尖った耳を、ユドはじろじろと見る。 「やっぱりな。おめー、人間じゃねーな?」 ユドは、ダウンベストの下に隠れていたウェストポーチの中から、拳ほどの大きさのガラス玉を取り出し、軽く上に投げた。するとガラス玉の中に炎が生じ、周囲をぼんやりと赤く照らした。 ガラス玉は宙に浮かんで留まり、メシアの姿が炎の光に晒される。 「見た目はエルフに似てっけど、エルフじゃねーな。異種族と人間のハーフか?それにしちゃ聖なる王と顔立ちがそっくりだ。…だが、オレのことをやけに警戒していたのも気になる…」 ユドは巻衣を床に放り捨て、メシアの姿を眺める。彼の言う「聖なる王と顔立ちがそっくり」という言葉の意味がよく分からなかったが、余計なことは喋るまいと押し黙り、目を逸らした。 「…オイ、おめー、一体何者…」 そう言いかけて、突然ユドは体を横に転がした。何をしているのかと思う間もなく、火花を散らす光球が、メシアが宙吊りになっている穴の上を通り過ぎ、壁に当たって弾けて消えた。 「なにしてやがるテメェ!!」 ソフィスタの怒鳴り声が、雨音を弾き飛ばして車庫内に響いた。 メシアはユドが離れた隙に、腕の力だけで這い上がる。すると、ユドに向けて手の平をかざしているソフィスタの姿が見えた。 先程の光球も、ソフィスタが放った魔法だったのだろう。 「メシア!大丈夫か!」 胸まで穴から這い出したところで、ソフィスタが駆け寄ってきた。 彼女は上半身の胸から下をマントを巻いて隠し、肩と腕は肌が剥き出しになっている。胸を覆う下着の肩紐が出ていないので、マント以外で上半身に身に着けているものは、強いて言えば眼鏡だけのようだ。 ユドは少し離れた場所で、セタとルコスに足止めをされている。何度切っても元の形に戻るスライムは、ユドにとっては相性の悪い敵のようだ。 「怪我はしていないようだね。今、魔法で上げてやる!」 ソフィスタはメシアに向けて両手をかざし、魔法を使おうと集中し始める。その魔法力の高まりを察したのか、ユドがソフィスタを振り返った。 「クソがぁ!ウザってーんだよ!!」 ユドが苛立った声を上げた、その時、彼が左右の手に握る剣の刀身に、青白い光の筋が浮かび上がった。メシアにとっては文字なのか記号なのか分からないものであったが、ソフィスタは何かを感知したようで、慌ててユドを振り返る。 「セタ、ルコス!離れろ!!」 そうソフィスタは叫んだが、彼女の声にセタとルコスが反応するより早く、二体ともユドの剣に貫かれた。 すると、剣に浮かび上がっていた青白い光の筋が、セタとルコスの体に吸い込まれるようにして消え、その直後、二体の体に白い霜が生じた。 セタとルコスは、一瞬ビクッと体を震わせたが、それきり全く動かなくなる。 「テメェ!よくもやりやがったな!!」 ソフィスタは、高めていた魔法力を、ユドを攻撃するために使おうと、彼に向けて両手をかざした。 だがユドは、セタとルコスを刺したままの剣を構えて、ソフィスタに向かって突っ込んできた。ユドの動きは速く、セタとルコスも剣に刺さっているので、ソフィスタはすぐに攻撃魔法を放てなかった。 ユドが剣を振り上げた。その勢いで剣から振り払われたセタとルコスが、いつものゼリー状の体からは考えられない硬質な音を立てて床に落ちた。形も全く崩れていないので、もしかしたら凍っているのかもしれない。 「ソフィスタ!!」 ユドが剣を振り下ろす直前に、メシアは左手の紅玉を掲げた。 紅玉から赤い光が放たれ、ソフィスタの目の前に薄い光の膜を作った。振り下ろされたユドの剣を、光の膜が阻み、ソフィスタの身を護る。 「ぐっ…なめんじゃねぇー!」 ユドは何度も剣を振り下ろすが、光の膜も、さらに強度を増し、ユドの剣を弾き続ける。 「チッ、うっぜーマネしやがって!」 時間と労力のムダだと考えたユドは剣を引き、標的をソフィスタからメシアへと戻した。 「この光は、てめーの仕業か!!」 ユドは赤い光の半球体を飛び越え、まだ胸から上までしか穴から這い出していない状態のメシアの左手を狙って、剣を振り下ろしてきた。メシアはユドを見上げ、どうにか攻撃を避けようと動こうとする。 その時、ユドが取り出して宙に浮かせたガラス玉の中の炎が、ユドのメットと剣を照らした。 「っ!!!」 殺気を帯びた眼光、銀色に輝く剣、そして赤く照らされたメット。それらがメシアの瞳に同時に映った時、強烈な恐怖がメシアの中で沸き上がった。 体が震えて力が抜け、体が穴へとずり落ちる。 そこにユドの剣が振り下ろされ、メシアの左手に突き立てられた。 中指と薬指の骨の間を縫って、手の甲から肉を貫く。その痛みで、メシアは我に返る。 「おらよっ!」 ユドは剣でメシアの左手を抉るついでに、紅玉のアクセサリーに剣先を引っかけて持ち上げ、強引に外した。 紅玉が弾き飛ばされ、次いでメシアの左手から血が噴き出す。 「ぐああっ!!」 「メシア!!」 メシアが悲鳴を上げ、ソフィスタも赤い光の膜の中からメシアの名を叫んだ。 紅玉は床に落ち、ソフィスタを護っていた光の膜は、紅玉に吸い込まれて消える。 そして、穴に落ちる直前のメシアの髪と体からも赤い光が浮かび上がり、全て紅玉に吸い込まれていった。 緑色の肌と銀色の髪の、本来の姿のメシアが現れる。それを見て、ユドがはっと息を飲んだ。 「…あれは…!」 ユドは目を見開き、体をカタカタと震わせながら、穴の奥の暗闇の中へと落ちてゆくメシアを見下ろす。 「メシア――――――!!!」 とっさに駆け寄ってきたソフィスタが穴に身を乗り出し、姿が見えなくなったメシアに向かって手を伸ばして叫んだ。それを見て、ユドは小さく舌打ちをし、足を振り上げた。 「おめーもアイツの正体を知っていながら黙っていやがったな!」 ユドはソフィスタの腹を強く蹴り上げた。ユドの爪先が腹に食い込み、ソフィスタは嗚咽をもらして後ろに跳ばされ、床に体を打ち付けると、そのまま倒れて気を失った。蹴られた衝撃で外れた眼鏡は、ソフィスタより少し遅れて床に落ち、カツンと音を立てた。 「ケッ、クソアマが…後で覚えてろよ。あのトカゲの仲間とあっちゃ、人間のおめーでも死罪かもしれねーぞ」 ユドはソフィスタを冷たく見下ろし、しばらくは目を覚まさないだろうと判断すると、メシアを追って穴から飛び降りた。 * 落下した先で、メシアは上手く着地を決めたが、無造作に積み重なっている瓦礫の上に足を着いたためグラつき、バランスを崩して倒れてしまった。 固い床の感触を確かめると、メシアは左手の怪我を右手で押さえながら立ち上がった。 肉を抉られた傷口から溢れる血は、右手の指の隙間を通って床に滴り落ちる。 メシアは周囲を見回した。 石の壁に筒状に囲まれた、薄暗く広い部屋。錆びた鉄格子が一つだけあり、蝶つがいが壊れて傾いている。 壁は垂直ではなく、高くなるにつれ内側に傾き、登れないようになっている。 メシアが落ちてきた天井の穴までは、めいっぱい跳んでも届きそうもない。 誰かを閉じ込めるために造られた地下牢なのだろう。カビ臭く湿った空気と、薄暗い空間が広がり、気味が悪い。 …この部屋の壁を登ることは困難だ。左手も、これほどの怪我を負っているのでは…。 メシアは左手の甲の傷口を確かめようと、傷を覆っている右手を離した。 右手にも、べったりと血が付いている。 石の壁に囲まれた、薄暗い空間。血にまみれた両手。何かが心にひっかかり、ユドに襲われていたことすら忘れて、メシアは両手を見つめる。 「オイ、トカゲ。オレが来たことに気付いてねーのか?」 すぐ後ろから声がして、メシアが振り返ると、いつの間にかユドが、そこに立っていた。 「フフ…まさかオレが生きてる間に、てめーら半トカゲの種族に会えっとはな。緑色の肌に尖った耳、銀色の髪…伝承の通りだぜ」 ユドは冷酷な笑みを浮かべ、両手に握る剣についているメシアの血を振り払った。メシアは再び右手で左手の怪我を押さえ、後ろに下がる。 「てめーらの種族は、見つけたら即刻斬殺。それがエルフの掟だ。おめーは、それを知っているようだな。だから、オレたちと同じような姿に変身してたんだろ?」 ユドが剣の切っ先をメシアに向けると、メシアはさらに後ろに下がった。この牢屋の出口となる鉄格子は、真後ろにある。 「く…何故だ!何故、我々をそこまで滅ぼしたがるのだ!!」 「そんなこと、おめーが知る必要はねえよ。おめーはココで死ぬんだ。理由なんか聞いても、何にもならないだろ?」 ユドがそう答えた時、天井の穴から赤い光が下りてきた。ユドが持っていた、中に炎を灯したガラス玉である。 「やっと鍛えてきた剣の腕を存分に披露できる時が来たんだ。こんなに嬉しいことはねえ!覚悟しな!!」 ユドが剣を構え、間合いに踏み込んできた。 車庫でメシアに斬りかかってきた時より速く、容赦なく急所を狙ってユドは剣を繰り出してきた。メシアは出口へと下がりながら、必死にユドの攻撃をかわそうとするが、深い傷は負わないものの、体のあちこちに赤い筋が刻まれてゆく。 「オラオラオラ!避けてるだけじゃオレにゃ勝てねーぞ!!」 ユドは面白がるように笑いながら、巧みに剣を振るう。 確かに、この牢屋から出ることができても、ユドを撒くことには繋がらないし、あの鉄格子を越えた先に逃げ道があるとは限らない。 隙をついてユドの懐に潜り込もうとも考えているのだが、どうも上手くいかない。 だが、ユドに全く隙がないというわけではなかった。彼の動きは、攻撃に力を入れるあまり、反撃されることを全く考えていないように見える。 もしかしたら、反撃されないという自信が、ユドにあるのかもしれない。メシアも自分で気付いているが、何故かユドの姿に怯えてしまい、隙があっても反撃ができずにいた。 ユドが本当にメシアを殺す気で斬りかかってくるからだろうか。だが、こういう命懸けの戦いは初めてではない。 それに、今までにも何度か感じたことがあった。この得体の知れない恐怖は。 …怯えるな!反撃をする隙があるいうのに、なぜ動こうとしないのだ!! メシアは、自分にそう言い聞かせるが、恐怖を振り払うことはできず、防戦一方のまま鉄格子の手前まで追いやられた。 「ハッ!頑張るじゃねーか!!でも、いつまで逃げていられるかな!」 ユドは二本の剣を胸の前で交差させると、それを左右に勢いよく開いて斬りかかってきた。メシアは屈んでそれをかわしたが、後ろ髪を束ねている部分から斬られ、細い銀色の筋が結い紐と共に舞い散った。 「チッ、うっとーしい!」 ユドは剣を唸らせ、その風圧で髪を払った。その間に、メシアは右手で鉄格子を掴んだ。 「うおおおお!!」 メシアは力任せに鉄格子を壁から引き剥がし、ユドに投げつけた。 ユドは剣を交差させてそれを受け止めたが、単純な力はメシアのほうが上で、小柄なユドは鉄格子と一緒に後ろに吹っ飛ばされる。常にユドから一定の距離を保って宙に浮いていた、炎を灯したガラス玉も、ユドを追ってフワーっと飛んでいった。 ユドは鉄格子に挟まれる形で床に倒れるが、その様子を確認せずに、メシアは牢屋の外へ転がり出た。 ばらけた髪を後ろに払い、素速く周囲を見回すと、細長い廊下に出たことが分かった。牢屋の中と比べて天井は手が届くほど低く、鉄格子が壁に幾つか並んでいる。 廊下の奥の壁には、鉄の梯子が立てかけられている。あの梯子を登れば上の階に出られるかもしれない。 メシアは、廊下の奥へと全力で走り出す。 …今の私では、ユドには勝てない!今は逃げるしかない! 戦闘の技術はユドのほうが上だが、腕力ならメシアのほうが圧倒的に上回るし、ユドには自分の強さへの奢りがある。普段のメシアなら、ユドとは互角に戦えたかもしれないが、既に負わされた傷と、精神的疲れもあって、今まともに戦ったら必ず負ける。 …とにかく、ソフィスタと合流して紅玉も取り戻し、ユドから逃れよう。外はまだ雨が降っているようだが、森に入ればユドを撒けるかもしれない。 そう考えながら、メシアは走った。 「っっっざっけんなよォォ!害虫以下のトカゲのくせしやがって、手こずらせんじゃねーよ!!」 後ろからユドの怒声と足音が響くが、メシアは振り返らず、廊下の奥まで来ると、右手を伸ばして鉄の梯子に飛びついた。 梯子は壁に固定され、鉄格子と同じように錆びている。見上げると暗い空洞が続いており、上の階までかなり距離がありそうだ。急いで梯子を登ろうと、メシアは梯子に足をかけて上り始めたが、七段ほど上った所で、体重を乗せた足をかけている段が、ボキッと音を立てて折れた。 「うわっ!?」 メシアは、とっさに上の段を両手で掴んだ。裂くように斬り込まれた左手の傷から血が噴き出し、激痛が走る。 その痛みに耐え、両足を壁にかけて体を支えようとしたが、その前に銀色の光が視界の隅に映った。 「死ねやオラァ―――!!!」 ユドが高く跳び、剣を逆手に持ってメシアに振り下ろした。 殺気に満ちた目でユドに睨まれ、再びメシアの中で強烈な恐怖が沸き上がり、戦慄に体が震える。 腕から力が抜け、メシアは壁をずり落ちるが、それでも心臓を狙う剣を避けることは不可能であった。 突然崩れた天井の瓦礫が、ユドの頭上に落ちなければ。 「いでぇっ!!」 ヘルメットを被っているため、衝撃は和らいだが、その拍子で剣が傾いた。 壁をずり落ちるメシアは、心臓を貫かれることは免れたものの、左肩を貫かれ、自らの体重で肉を上に裂いた。 ばっくりと開いた切り口から、血が噴き出す。 悲鳴を上げる間も無く、メシアの体は床に落ち、うつ伏せになって倒れる。ユドは、メシアの手前で軽やかに着地を決めた。 「お〜イテ。ヘルメットを被っててよかったぜ」 ユドは首を動かして調子を整えると、倒れているメシアを見下ろした。 「うぅ…ぐ…っ」 メシアは壁に寄りかかりながら、どうにか立ち上がった。肩の傷口から溢れる血が、胸の古傷を這い、腰衣に染み込む。 髪にもべったりと血が絡み、ほとんど全身血まみれの状態であった。左手は感覚が鈍り、指もろくに曲げられない。 「おーおー。それだけ血ィ流して、よく立ち上がれるな。さっさとくたばりゃいーのに」 ユドは、左手に握る剣の切っ先をメシアに突きつけ、強い殺意を込めて睨みつけた。 ユドの後ろに浮かんでいるガラス玉の灯りが、ヘルメットを赤く照らす。 「…あ…」 ふと、ユドの姿がぼやけ、別の何者かの姿が重なって見えた。 幻だということは、朦朧とした意識の中でもよく分かった。それにも関わらず、ユド以上に強い憎悪と殺意を、その幻から感じられる。 左胸の古傷がズキンと痛み、メシアは無意識的に、左肩を押さえる右手を古傷へとずらした。 立ち上がりはしたが、逃げようとも抵抗しようともしないメシアを見て、観念したと思ったのか、ユドがニィッと冷酷な笑みを浮かべて言い放った。 「観念しろ化け物。てめーの存在そのものが目障りなんだよ」 『消えろ化け物。貴様の存在そのものが目障りなのだ』 「…!!」 ユドの声に重なって、聞き覚えが無いはずの男の声が、メシアの頭の中に響いた。 鼓動は早鐘を打ち鳴らし、息が詰まる。全身がガタガタと震え、急に噴き出し始めた汗が血と混ざり合う。 瞳に映り、鼓膜を震わし、肌を撫でる全ての感覚を拒みたくなるほどの恐怖に襲われ、かろうじて体を支えていた足がカクッと折れた。メシアは壁に背をもたれたまま、床に尻をつく。 「…あ…やめ…ろ…」 唇を小刻みに震わせながら、メシアは枯れた声でそう呟いた。それが聞こえたように、ユドの長い耳がピクッと動いたが、反応はそれだけだった。 ユドは、ゆっくりと剣を振り上げる。血が絡みついた剣は、ガラス玉の灯りを浴びて、ヌラリとした輝きを放つ。 殺される。そう本能が警告した時、ユドの姿は、完全に別の何者かの姿に塗り替えられてメシアには見えていた。 思考が正常に働かなくなり、ただ怯えることしかできない。鼓動がさらに早くなり、それに合わせて血が熱を帯び、肉まで沸き立つ。 「や…め…うあ…ぁ…」 小刻みに震えていた体が、脈打つように大きく跳ね、傷口から血が噴き出す。 先程までの怯えきった様子とは変わり、悶えるように震え始めたメシアに気付き、ユドは顔をしかめた。 「あっあぐ…うがあぁぁぁぁぁ!!!」 得体の知れない何かが体の中で暴ているような感覚に襲われ、メシアは狂った悲鳴を上げた。 理由も分からないのに沸き上がる恐怖、突然肉体に現れ始めた変化、そして全身を走る激痛。それらが異常なほど大きなストレスとなってメシアの理性を押し潰し、彼の頭の中で何かがブツッと音を立てて切れた。 ユドが剣を振り下ろしたのは、まさにその瞬間であった。 (続く) |