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ありのままのメシア 第九話


 何かが皮膚を突き破り、肉を裂いて体の中に押し込まれた。
 固く冷たいものが、心臓に近い部位から自分の体の中に進入してくる、その奇妙な感覚に、未発達な思考が一瞬止まる。
 やがて肉の中に沈んでいた何かが引き抜かれ、そこから鮮血が噴き出した時、初めて痛みを感じて悲鳴を上げた。
 思わず傷口を押さえたが、その小さな手の指の隙間から漏れた血は床に滴り落ちて、たちまち血溜まりを作った。
 急速に弱った体を横に倒し、悲鳴すら上げられなくなると、目の前で銀色の光が煌めいた。
 脂ぎった血の塊が絡む、その銀色の光に沿って視線を上へと動かすと、こちらを見下ろしている誰かと目が合った。
 何者なのかは分からない。顔もはっきりと見えない。だが、その者を全く知らないとは思わなかった。
 身近にいて、愛情を与えてくれる者。初めて会った時は、なぜかそう直感した。
 しかし与えられたのは、激しい痛みと、低く冷たい言葉。そして、強烈な憎悪を纏った視線。

 …こわい…

 失血によって朦朧としていたはずの意識が、恐怖に煽られて冴え始めた。

 …こわい…こわい…!!

 湿った空気が漂う、薄暗い空間で、切り裂くような悲鳴が反響する。

 …こわいこわいこわイコワイコワイコワイコワイ!!!

 銀色の光が振り上げられ、脳天をめがけて振り下ろされたが、あまりの恐怖に頭の中が真っ白になり、ただ目を見張ることしかできなかった。


   ・第五章 狂気の救世主

「ゴォアァァァァ―――――ッッッ!!!」
 メシアが狂った雄叫びを上げると、それと同時に炎を灯していたガラス玉が光を失って床に落ち、辺りが薄暗くなった。
 ユドは何故か全身の力が抜け、剣を握る両手の力が緩んだ。そのため、メシアの脳天をめがけて振り下ろされた剣は、勢いが衰えて狙いも逸れる。
 それでも刃はメシアの両肩に食い込んだが、肉を切り裂くことはなかった。
 ただでさえ分厚いメシアの筋肉が、さらに膨れ上がって剣を弾き、既に負わされていた傷を強引に塞いだ。
「なっ…何だよ、化け物が!」
 一瞬だが急に体から力が抜けたこと、そしてメシアの様子がおかしいことに戸惑いながらも、ユドはどうにか足に力を入れ、後ろに跳んだ。
 メシアは、ズシンと音を立てて立ち上がる。
 岩肌のようにごつごつとした筋肉が、メシアの全身を鎧のように覆い、木の幹のように太い両足で床を強く踏み込むと、そこに亀裂が走った。
 耳と鼻から血を垂らしているが、ギロリとユドを睨みつけた瞳は、すさまじい殺気を湛えている。
 薄暗い闇の中に浮かぶ、その禍々しい姿に、ユドは身震いをする。
「…へっ、上等だ。手応え無い相手で物足りないと思ってた所だぜ!」
 ユドは立ち上がり、剣を構えようとしたが、それより早くメシアが床を蹴った。
 完全に理性を失っているメシアは、真っ向からユドに飛び掛かった。体が大きくなったわりには素速く、避けようとしたユドの足を掴んで振り上げた。
「グルォォォォォ!!!」
 メシアはユドの体を勢いよく振り回し、壁に叩きつけた。
 壁の表面が砕け、ユドは瓦礫と共に床に落ちる。近くに転がっていたガラス玉は、それに潰されて割れた。
 メシアは、瓦礫に埋もれかけているユドに追い打ちを掛けようと、両腕を振り下ろしたが、先にユドが瓦礫から這い出した。
 振り下ろされた両腕は瓦礫を散らし、床を砕く。ユドは転がるようにメシアから距離を取り、立ち上がると血をペッと吐き出した。
「くそったれが!」
 狭く灯りもない場所では不利と考えたのか、ユドは二階へと続く梯子のもとへと駆け出した。メシアは、すかさず彼を追う。
 獰猛な獣のように吼え、瓦礫を蹴散らしてメシアはユドに突っ込むが、間一髪の所でユドが梯子の段を掴んで上ったので、メシアは勢いのまま壁に激突した。
 その衝撃で、梯子の支柱を固定している壁が崩れた。梯子は後ろに倒れ、ユドも下に落ちそうになったが、思い切って梯子から離れ、左右の壁を交互に蹴って上の階を目指した。
 崩れた壁の瓦礫がメシアの頭上に降り注ぐが、メシアは両腕を交差させて頭を庇い、屈んで足に力を込めた。
 もう少しで上の階に到達しそうな所で、ユドがチラリと下を見遣った時、メシアは床を強く蹴って垂直に跳躍し、その衝撃で足下を埋め尽くす瓦礫を吹き飛ばした。
 ほぼ一瞬でユドに到達したメシアは、彼に驚く暇すら与えず体当たりをかました。ユドの体は上の階の天井に背中から激突し、それを追って飛び出し出したメシアは、ユドの腹をめがけて右手を伸ばした。
 はらわたを抉らんばかりに突き出されたメシアの手を、ユドは寸での所で体をよじって避け、天井を蹴ってメシアから離れた。メシアの腕がめり込んだ天井の壁は、音を立てて砕ける。
「っぶねーな!ブッ殺してやる!!」
 床に着地をしたユドは、袖で額の汗を拭ってから体勢を整える。メシアも瓦礫の上に両手足を着いて下りると、ユドを振り返った。
 そこに、剣を構えたユドが突っ込んできた。
「死ねェ―――!!!」
 ユドは低い体勢でメシアの懐に潜り込み、固まった血が残る腹に剣を突き立てようとしたが、メシアは素手で剣の腹を叩き、軌道を両脇にずらした。そして、勢い余って前のめりになったユドの左右の前腕を掴んで強く握る。
 黒地のシャツの袖の下で、ブチッという音が立て続けに響く。その皮膚を引き裂く痛みに、ユドは思わず剣を手放した。
 重力に従って落ちる剣が、床の上でガランと音を立てるより先に、メシアはユドの両腕を、前腕から握力だけでへし折った。


 *

 腕をつねられ、その痛みでソフィスタは目を覚ました。
 目を覚ますなり、ソフィスタは勢いよく体を起こすが、胸を隠しているマントが落ちそうになって、慌てて押さえた。
 すぐそばにセタとルコスがいる。セタの体には、ソフィスタの眼鏡が乗せられていた。
 ソフィスタの腕をつねって目を覚まさせたのも、この二体だろう。ユドの剣の魔法で体を氷らされたはずだが、かろうじて元の柔らかさに戻った表面だけを動かしている。
 ソフィスタは、弱々しく動く二体を拾い上て肩に乗せ、その上からマントを羽織って自分の胸を覆い隠した。その状態で二体に魔法力を送ると、二体は与えられた魔法力を使って氷った部分を自ら元に戻し始めた。
 …くそっ!どれくらい気を失っていたんだ!
 頭は完全に覚醒しており、気を失う直前の出来事まで、はっきりと覚えている。雨に濡れた服を乾かそうとしていたら、ここへ来る途中に馬車に乗せたエルフの男、ユドが、なぜかメシアに襲い掛かっており、それを助けようとしたソフィスタまで攻撃を受けた。
 ユドに追い詰められたメシアは、床に開いた穴に落ちていった。その際、ユドがメシアの紅玉を外していたことも思い出す。
 外からは、まだ激しく降り続けている雨の音が響いてくるので、気絶してからそう時間は経っていないはずだ。体に妙な脱力感があり、何やら恐ろしい気配を感じるが、とにかく状況を確認しようと、セタから眼鏡を受け取って掛けた。
 その時、ソフィスタは初めて自分の周囲を取り巻く虹色の光に気が付いた。
 ダイヤモンドダストのような光の粒子が細長く連なって、ソフィスタの体から一定の距離を保ってくるくると旋回しており、触れてみようと手を伸ばすと、その動きに合わせて光も軌道を変えて距離を保った。
 …ど・どうなってんだ、コレは…。
 光の軌道の向こうにユドとメシアの姿は無く、何故か馬車馬は膝を折って床に伏せ、疲れたように頭をフラフラと動かしている。
 セタとルコスは怯えるように縮こまり、ソフィスタ自身も、誰かに威圧されているような感覚がある。
 気を失っている間に、一体何が起こったのだろうか。とにかく、ここでぼんやりと座っているわけにはいかないし、メシアのことも心配だ。そう考えて立ち上がろうと、床に手を着いた時、指先に何かが当たった。
 見ると、そこにはメシアの紅玉が落ちていた。紅玉は、ソフィスタの周囲を漂う虹色の光と同じ輝きに包まれている。
 …どういうことだ?紅玉を使えるのは、メシアだけのはずじゃ…。
 突然メシアに襲い掛かったユドや、妙に怯えた様子のメシア。そして、この虹色の光と周囲の空気。理解ができないことが多くてソフィスタは軽く混乱しかけたが、砦のほうから雨音を裂いて響いてきた破壊音を聞くと、悩んでいる暇は無いと考え直し、紅玉を拾って立ち上がった。
 メシアは床に開いた穴に落ちていったが、ユドが騒ぐ声も砦のほうから聞こえるし、地下から響いてきたような音ではない。もしかしたら、メシアとユドは地下から一階に上って戦っているのかもしれない。
 ソフィスタは走り出し、厩舎と砦を繋ぐ扉へと向かう。
 …それにしても、何なんだろう、この感じは…。
 空間を埋め尽くす恐ろしい何かに、魂を狙われているような感じ。それは、意識を取り戻してから、ひしひしとソフィスタに伝わっていた。馬車馬の様子がおかしいのも、それに怯えているせいかもしれない。
 …これは…メシアが紅玉を使って、敵を威圧する時の感覚に似ている…。
 以前、メシアが教えてくれた。紅玉を使って、相手に精神的に強い圧力をかけることができると。ソフィスタ自身も紅玉の力で威嚇されたことがあったし、直接ではなくても強い威圧を感じることもあった。
 だが、今それを放っているのは、ソフィスタが手にしている紅玉ではない。むしろ、この紅玉が放っている虹色の光は、ソフィスタを奇妙な感覚から守っているような気がする。
 とにかく、この紅玉は持っていた方がよさそうだと考え、メシアがしているように左手に装着した。そして、扉の前まで来た時、扉の向こうからユドの叫び声が聞こえた。
「死ねェ―――!!!」
 絶叫するように甲高い男の声に、ソフィスタは肩を震わせて驚いたが、その言葉がメシアに向けたものであることを察すると、慌てて扉を開いた。
 砦側に足を踏み込み、薄暗い空間が広がる一階の広間をざっと見回すと、紅玉の光も届かない奥の暗がりの中で動く影に気付いた。
「メシア!!」
 ソフィスタはメシアの名を叫び、そちらに駆け寄ろうとした。
「うがっぐ…ぎゃぁぁァァ―――!!!」
 しかし、二歩進んだ所で影が悲鳴を上げたので、ソフィスタは思わず立ち止まった。
 悲鳴は、ユドのもの。背が低くて分かりやすい彼のシルエットが仰け反り、間接が無いはずの部分から腕が折れ曲がった。
 シャツの袖と皮膚が破られ、裂かれた肉から骨が突き出す。そこから上がった血しぶきが、もう一つの影に降り注いだ。
 ソフィスタは、その影の正体に気づくことができなかった。それは、残酷な光景にショックを受けたからだけではない。
 可能性がある者の存在は知っている。だが、その影から感じ取れる禍々しい気配は、思い当たる者が持つ雰囲気とあまりにかけ離れていた。
 悲鳴を上げ続け、肉と皮でかろうじて繋がっている腕を揺らしているユドの体が、ゆっくりと持ち上げられた。その時、窓から差し込んだ雷光が広間の奥まで届き、二つの影の姿を一瞬だけ照らし出した。
 苦痛で顔を歪ませたユドの首を、片手で掴んで持ち上げる、緑色の肌の巨躯。
 乱れた長い銀髪の隙間から覗く、理性を失い狂気と殺意に満ちた瞳。少し前までソフィスタが見ていたメシアと比べて、明らかに大きく膨らんだ筋肉。
 全身が汚れ、血にまみれ、今なおユドの腕から溢れる血を浴びている。
 一瞬見えただけでも、メシアの様子はソフィスタの目に焼き付いて離れなくなった。もし悪魔というものが存在するのなら、今のメシアの姿は、正にそれだと感じてしまうほど恐ろしく、そして信じがたかった。
「…メ…シア…?」
 震える声で、ソフィスタはメシアの名を呟く。
 メシアはユドの体を振り上げ、その背の低い体を力いっぱい壁に叩きつけた。壁は大きな音を立てて砕け、悲鳴すら上げられずに倒れたユドに、瓦礫が降り積もる。
 砂塵とホコリで煙が上がったが、壁に開いた穴から吹き込む雨風に散らされた。
 その様子を呆然と眺めていたソフィスタは、立ってはいるものの足はガクガクと震え、握りしめた手には汗が滲んでいた。
 瓦礫の中からユドが這い出す気配は、全く見られない。ソフィスタは最悪の予感がして、血の気が引いた。
 …メシア…?あれが本当にメシアなのか…?
 ソフィスタは、ゆっくりと視線をメシアへと戻した。壁の穴から頼りなさそうに光が差し込み、メシアの姿をぼんやりと浮かび上がらせる。
 メシアは、しばらく肩を激しく上下させて息を切らしていたが、立ち尽くしているソフィスタへとゆっくりと顔を向けると、喉の奥から低いうなり声を上げた。
 その血走った目に姿を捕らえられ、ソフィスタは背筋を凍らせる。
 …何があったんだメシア!一体どうしちまったんだよ!
 今まで感じていた恐ろしい気配が直接ソフィスタに向けられ、メシアに何か呼びかけようとしても、恐怖のあまり声が出かった。それどころか、逃げ出すことばかりを考えてしまい、足が竦んでいなかったら、既にメシアに背を向けていたかもしれない。
「グ…ォ…グルァァ―――ッッ!!!」
 メシアは、裂けんばかりに口大きく開いて吼え、いっそう筋肉を膨れ上がらせた。すると、体の所々に赤い筋が走り、内側から押し出されたようにプシュッと血しぶきを上げた。
 それを見て、ソフィスタは気付いた。
 メシアの体に絡みつく血は、ユドを痛めつけて浴びた返り血だとばかり思っていたが、そうではなかったのだ。
 どういった経緯でメシアがあのような姿になったかは分からないが、あの姿は、メシアの体にも負担をかけているようだ。
 考えてみれば、メシアがユドに手を深く斬り込まれた怪我からの出血もあっただろうし、その怪我も今は塞がっているようだが、そのぶん別の形で体に負担がかかっているはずだ。
 その後もユドと戦ったであろう疲労も考えると、メシアは肉体を酷使しすぎているのだ。メシア自身は痛みや疲労を感じていないように見えるが、完全に我を失った彼の状態が長引けば、肉体はもちろん、精神まで元に戻らなくなるかもしれない。
 禍々しいメシアの姿と気配に対する恐怖と、ソフィスタのよく知るメシアがいなくなってしまうかもしれないという恐怖が、ソフィスタを煽り、迷いと焦りを与える。
 メシアが怖い。元のメシアに戻って欲しい。メシアを助けたいが、助ける術が分からない。
 どうすればいいかと必死に考えるが、思考がまともに働かない。緊張のあまり心臓が震え、呼吸が荒くなってきた。
 それでも、この場から逃げ出してはいけないと、ソフィスタは心の中で何度も自分に言い聞かせ、じっとメシアを見つめた。
 …逃げるな!怯えるな!メシアのほうが、ずっと辛い目に遭っているはずなんだ!今まで散々メシアに助けられてきたくせに、ビビってんじゃねえ!
 ソフィスタの脳裏に、アーネスで共に過ごしていた時のメシアの姿が浮かぶ。
 魔法生物マリオンとの戦いの中、自分は傷つきながらも、ソフィスタには傷一つと負わせないと言ったメシア。
 魔法実技テストの時、女生徒たちに襲われそうになったソフィスタを助けに駆けつけたメシア。
 ヴァンパイアカースが街中に蔓延した時も、ヒュブロで魔獣と戦った時も、メシアはソフィスタの力となり、共に困難に立ち向かった。
 平凡な日常の中でも、朝と夜に決まった挨拶を交わし、一緒に食事をする彼の存在に、人を拒み続けていたソフィスタの心は確かに温かみを感じていた。
 怒って、怒られて、うっとうしがったことも何度もあった。その時の気持ちを今思い出すと、どこかに喜びが感じられる。
 目を閉じ、自分を落ち着かせようと息を吐き出してから目蓋を開くと、先程までと全く変わっていないはずのメシアの姿が、不思議と変わって見えたような気がした。
 まだメシアの姿を恐ろしいとは感じる。だが、それ以上に彼を助けたいという願いがあり、体の震えも止まっていた。
 どうすればメシアを助けられるのか分かったわけでもないのに、迷いという感情は、ほとんど消えている。
 メシアが両足に力を込め、床に亀裂を走らせた。飛び掛かってくるつもりだと直感した時、ソフィスタの両腕が自然と動き、それを取り巻く虹色の光がフワリと浮かび上がった。
「ゴォォアァ――――ッッ!!!」
 メシアは雄叫びを上げ、同時に床を蹴って低く跳んだ。
 ソフィスタは、その場から逃げようとせず、突っ込んでくるメシアに向かって、ただ差し伸べるように両手を伸ばす。
 殺気を纏い、怒りと狂気に歪められたメシア。その心も姿も受け止めようと、ソフィスタは覚悟を決めていた。
「メシア―――ッ!!」
 メシアの雄叫びに負けじと、ソフィスタは彼の名を叫んだ。メシアに首を掴まれ、突進する勢いのまま体重をかけられても、ソフィスタは怯まなかった。
 突然、ソフィスタの周囲を取り巻いていた虹色の光が広がり、光はメシアの髪の先まで包み込んだ。
 すると、メシアが一瞬体を震わせ、ソフィスタの首に食い込みかけていた指から力が抜けた。それでもソフィスタの体は背中から床に叩きつけられそうになったが、寸でのところでセタとルコスがソフィスタの背中と後頭部を保護し、衝撃を和らげてくれた。
 メシアはソフィスタに覆い被さるように倒れ込み、彼の体の重みでソフィスタは呻き声を上げる。
 虹色の光は、徐々に薄れてゆく。メシアの全身から力が抜け、そのぶんだけ筋肉がしぼんだが、元の姿に戻るほどではなかった。
 あの禍々しい気配は、既に感じられない。
「…メ・メシア?」
 上半身だけ這い出すと、ソフィスタはメシアの肩に手を添え、彼に呼びかけた。
 メシアは体を小刻みに震わせ、掠れた息を漏らしている。
「メシア!おい、しっかりしろ!メシア!!」
 声を上げてメシアの名を何度か呼ぶと、メシアは「う…」と呻き、ソフィスタのマントを掴んだ。
「…ソ…ソフィ…ス…タ…?」
 ゆっくりと顔を上げ、ソフィスタを上目遣いで見るメシアの瞳からは、狂気の色は消え去っていた。
 しかし、いつも自信に満ちて堂々としていたメシアには珍しく、表情は恐怖と不安で満ち、助けを求めるように弱々しくソフィスタを見つめていた。
「メシア!あたしが分かるな?もう大丈夫だ!」
 何が大丈夫なのか、自分でも分からなかったが、とにかくメシアを安心させたいという一心で、ソフィスタはそう言ってメシアの額を撫でた。するとメシアは、ほっとしたように微笑み、その直後に意識を失った。
 ソフィスタの腹に顔を埋め、穏やかではないが呼吸はしており、体の震えも止まっている。体を休ませるために、本能が眠りをもたらしたのだろうと考え、ソフィスタは胸を撫で下ろした。セタとルコスも、やっと安心したようにソフィスタの肩に乗る。
「うおおおぉぉぉぉぉぉっ!!!」
 そのとたんに、凶暴な叫び声が上がったため、ソフィスタは思わず体をビクッと震わせた。
 壁に開けられた大きな穴。そこに積もる瓦礫に埋もれていたユドが、大袈裟に瓦礫を散らして立ち上がった。
 全身ボロボロで息は荒く、メシアにへし折られた両腕は力無く垂れ下がり、裂かれた肉からボタボタと血が零れ出ている。
 いつ倒れてもおかしくない姿でありながら、ユドは怒りに顔を歪ませ、ソフィスタとメシアを睨んだ。
「く…くそぉぉ!これほどの屈辱は初めてだ!!早死にする種族の分際で、このオレ様を、ここまで痛めつけやがって!!」
 頭に血が上り、今にも飛び掛かってきそうなユドの様子に、ソフィスタはメシアの体を庇うように、彼の頭を両腕で包んだが、ユドは瓦礫を蹴って軽く後ろに跳ぶと、ぬかるんだ土の上に、よろめきながらも着地した。既に雨は弱まり始め、雨音はほとんど聞こえなくなっている。
「そこの小娘も、覚えてやがれ!エルフを敵に回したことを後悔させてやっからな!!」
 そう捨てセリフを吐いて、ユドは背中を向けて駆け出した。
 ユドの姿が森の奥へと消えると、ソフィスタは警戒を解き、息を吐き出しながら項垂れた。砂や血が絡むメシアの髪に、汚れを気にせず顔を押し当てる。
 …ちくしょう!一体、何が起こったってんだよ!あのエルフに、メシアの様子…わけ分かんねえ!
 自分の力ではユドという名のエルフに太刀打ちできなかったこと。今まで培ってきた知識を以てしても理解し得ない事態に直面したこと。
 そして、理性を失い禍々しい姿をしていたとは言え、今まで何度もソフィスタを助けてくれたメシアに恐怖を感じてしまったこと。
 そんな自分が無力で不甲斐なく、悔しくて、ソフィスタは歯噛みした。


 *

 鞄の中に入れてきたタオルでメシアの体の汚れを拭い、馬車の中に備え付けてある救急箱から消毒液や包帯を取り出して、メシアの怪我に応急処置を施した。
 出来る限り傷口は塞いだつもりだが、いつものメシアと比べると傷の治りも遅く、時間が経つと包帯に血が滲む。それほど、彼の体は弱っているのだろう。
 既に乾かした自分の服を身に着けると、ほとんどミイラのように包帯を巻いたメシアを、セタとルコスに手伝わせて馬車に乗せて寝かせ、彼の巻衣とソフィスタのマントを上に掛けてやった。
 馬は、まだぐったりとしていたが、せめて森の外に出ようと、強引に車を引かせた。
 あのエルフの男、ユドは、ソフィスタがエルフを敵に回したと言っていた。何のことだか分からないが、もし彼が仲間を呼びに行ったとしたら、この場所に長居しては危険だ。馬を休ませるなら、安全な場所まで行ったほうがいい。
 地図によれば、ここから北東へ、そう遠くはない場所に村があるはずだ。ユドは南へ向かっていったので、アーネスへ引き返すよりは安全だろうし、人が住む場所ならメシアにちゃんとした治療を施せる。
 そう考えながら、ゆっくりと砦の外へ出ると、ソフィスタは辺りの様子がおかしいことに気がついた。
 森の中から、生き物の気配が全く感じられない。
 雨は既に止んでおり、まだ暗くなり始める時間でもない。なのに、鳥や虫の鳴き声も聞こえず、植物すら生気を失っているように感じた。
 木々が生い茂っているのに、まるで見渡す限りの乾いた大地に放り出されたような、そんな感覚を覚える。目を閉じれば、ここが森の中であることすら忘れてしまいそうだ。
 …そういえば以前、あたしが魔法力を急激に失って動けなくなったことがあったけど、あの時と、なんとなく感じが似ているような…。
 動植物や大気、あらゆる物質にも僅かながら魔法力は宿っているが、それは微量すぎて、測定用のマジックアイテムを使わずに探知できる者は、アーネスにすらいない。
 だから、周囲から本当に魔法力が消え失せたとしても、ソフィスタにはそれが分からない。それでもソフィスタは、周囲の魔法力が消えたか極端に濃度が薄くなったのだと考えた。
 上級魔法の中には、周囲の魔法力を吸収して自分の力にすることができるものがある。
 もし、この奇妙な空気がメシアの変貌と関係があるとしても、魔法に疎い彼には、そんな上級魔法など使えるはずがない。何より彼の魔法力は、おそらく異常なほど低く、もしくは全く持ち合わせていないかもしれない。
 今朝、エメがソフィスタに渡した、以前行った魔法力測定と魔法特性判定のテストの結果。メシアが使った測定用の黒い厚紙と、それに添付されていた、測定の結果を記した用紙。砦に来る前まで、ソフィスタはそれを調べていた。
 測定用紙は、測定する際にメシアが折り曲げ、紙を掴む手に汗が滲んでいたせいか乾いた跡が残り、少しボロボロになっている。
 魔法力がある者が測定用紙を持てば、色のついた線が浮かび上がる。しかし、魔法が全く使えない者など、測定できる魔法力の最低基準値を下回る場合は、線が浮かび上がらない。
 ソフィスタは、メシアから魔法力を探知しようとしてもできなかったし、メシアに測定用紙を持たせた時、線は全く浮かび上がらなかったので、彼の魔法力は低いのだと単純に考えていた。
 しかし測定結果には、こう書かれていた。

 『測定用紙の機能が作動せず、測定不能』

 測定用紙に込められた測定機能は、魔法力を消費して働く。測定する魔法を込めると共に、一回ぶんの測定に必要な魔法力も注がれている。紙を折り曲げたり表面が少し破れたくらいでは、その機能は失われない。
 例え魔法が使えず、測定用紙に測定結果が表示されないほど魔法力が低い者でも、その者の魔法力を探知しようとする機能は働いているため、測定用紙の魔法力は必ず消費される。そして測定開始から一分後、結果を表示したまま用紙の機能にロックがかかり、測定用紙としての再利用は不可能となる。
 だがメシアが使った測定用紙は、一分以上、汗が滲むほど手に持っていたにもかかわらず、測定結果を見るためにエメが封筒から取り出した時、なぜか機能が作動したという。
 測定用紙の不良でもなく、原因は全く分からないと、既にエメが調べ、詳細を測定結果の備考欄に書き記してある。
 もしかしたら、原因はメシア自身か、メシアが身に着けている紅玉にあるかもしれない。測定結果を見てからユドに会うまで、ソフィスタはずっとそのことを考えていた。
 普通の人間ではありえない、メシアと魔法力の関係。
 変貌したメシアの体。理性を失い荒ぶる姿。彼が周囲にもたらしたであろう異変。
 そして、ソフィスタを守り、メシアに正気を取り戻させた、紅玉の力。
 メシアと紅玉の、新しい能力が見つかっては、それ以上に分からないことが増えてゆく。
 …とにかく、今はメシアを休ませよう。ちゃんとした手当てもしてやらないと…。
 力無く揺れる木々の葉の隙間からは、ソフィスタの不安を写したように、空を覆う鉛色の雲が覗いている。
 生命の鼓動が全く感じられない不気味な森を抜け出してからも、この日、太陽の光が地上に差し込むことはなかった。


  (終)

あとがき


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