家を飛び出した彼女は、来たことのない村の、女神像の前で、ひざを抱えて座っていた。 この世界を見守っているという、愛と美の女神アルテナ。その像は、優しく微笑みながら、青空と共に彼女を見下ろしている。 …どうして私には、アルテナ様みたいに微笑みかけてくれる人がいないの? 彼女は、女神像を見上げた。その美しい姿には、所々に補修された跡が見られ、丁寧に手入れをされていることが分かった。 …私も、アルテナ様みたいになれば、みんな私を大切にしてくれるかな…。 彼女は、微笑むアルテナと、家族の顔を重ねて見ようとした。しかし、家族に微笑みかけられた記憶がないので、上手くいかない。 彼女は下を向き、ひざの間に顔をうずめた。 …帰りたい…。 最終的には家に帰るつもりだったので、家までの道は覚えていた。その気になれば、いつでも帰れる。 …私のこと、心配しているかな。帰ったら、私を叱ってくれるかな。 しかし、家を飛び出した時に、背中に感じた視線が、足かせとなって彼女の動きを封じていた。 無言の軽蔑。無力であることを思い知らせる、刺すような視線…。 …もう、あんな思いはしたくない。 彼女は、自分が誰からも愛されていないのではないかと、ずっと不安だった。 だから家を飛び出し、心配され、注目されることで、不安を消し去ろうとしたのだが、結局は、愛されていないということを、身に染み込ませてしまっただけだった。 …帰りたい。でも、帰るのが怖い…。 彼女は、静かに泣き出した。 スカートのすそを握り締め、顔をひざに押し付け、この言いようのない寂しさに、ただ涙を流した。 「あーん」 突然、誰かの声が、すぐ近くで聞こえたので、彼女は顔を上げた。 目の前に、人が立っている。 涙でばやけて、よく見えないが、四つか五つくらいの少年のようだ。 少年は、右手を前に差し出し、じっと彼女を見つめている。 彼女は、目をぱちくりさせた。 「あ〜ん」 そう言って、少年は、右手を彼女の目の前に、押し付けるように突き出した。 よく見ると、指先で何かをつまんでいる。 彼女は、軽く涙を拭うと、それをまじまじと見つめた。 ひびの入った、小さなガラス玉のようなそれは、夕日のように真っ赤な色をしている。 どうやら、飴玉のようだ。 彼女は、口を開いた。 少年は、彼女の口の中に飴玉を置くと、指を引っ込めた。 彼女は口を閉じ、舌で飴玉を転がす。 飴玉は、少しずつ溶け、彼女の口の中を甘味で満たす。 口をモゴモゴさせている彼女を見て、少年は、少し腰を落とすと、にっこりと笑って彼女に尋ねた。 「おいしい?」 嬉しそうに笑う少年の顔を、彼女は驚いたように眺めていたが、急に息が詰まり、目頭が熱くなったので、再び顔をうずめて泣き出した。 "第二章 フラッシュバック" 柔らかく、暖かいものが、レオの体を包んでいた。 呼吸は穏やかで、全身は、ほんのりと熱を帯びている。 まるで、よく晴れた日に、草むらで寝そべっているようだ。 しかし…。 …やけに騒がしいな。 何かがぶつかり合う音、壊れる音、足音、奇声、泣き声…などなど、とにかく騒々しくて、ぼんやりとしているレオの頭にガンガン響く。 …どこだ、ここは…。 レオは、今の自分が置かれている状況を確かめようと、うっすらと目を開け、手足を動かした。 どうやら、仰向けになって、毛布に包まっているようだ。 「あれ?気がついたの!」 すぐ耳元で、聞き覚えのある声がした。レオはそちらへ顔を向ける。 目の前には、かわいらしいリボンをつけた猫が、ちょこんと座っていた。 「ルビィ?」 「よかったぁ〜。アルテナ様にお祈りしても、目を覚まさないんだもん」 ルビィは、胸を撫で下ろした。 「なぜお前が?私は…」 レオは体を起こそうとしたが、目眩がして起き上がれなかった。 「寝てなきゃだめよ。熱が出ているんだから」 ルビィは、レオに毛布を掛け直してやる。 「熱?」 そういえば、やけに体がほてっているし、頭も痛い。 「そのまま、じっとしていてね。ナルー!レオが気がついたよー!!」 ルビィは、叫びながら飛んでいった。声が少し頭に響く。 レオは、辺りを見まわした。 そこは、天井や壁に鉄のパイプが張り巡らされている、狭い部屋だった。 ルビィが出ていったからだろう。完全に閉めきられていないドアが、キイキイと音を立てながら揺れている。 ドアの隙間からは、例の騒音が聞こえてくる。 …ナルと言っていたな。…とすると、ここはキカイ山か。 レオは、状況を把握した。 キカイ山の一室にあるベッドの上で、毛布に包まり、眠っていたのだ。 よく聞いていると、聞こえてくる声は子供のものだと分かるので、ここがキカイ山であることに、間違いはないだろう。 「よっ。調子はどうだ」 ドアが大きく開き、ナルが部屋に入ってきた。肩にルビィを乗せている。 ルビィは、ナルの肩から、レオの元へと飛んだ。 「前に比べると、ずっとよくなっているわね」 「そりゃ、見れば分かるよ」 ナルも、つかつかとレオに歩み寄った。 「ナル…」 レオは、また体を起こそうとしたが、「だから寝ていなさいってば」と、ルビィに前足で顔を抑えられた。 ナルも、レオの頬に手を当てる。 「…熱はまだ下がっていねーな。ま、あんな所で寝ていりゃ当然だろ」 「あんな所?」 「なんだ。覚えてねーのかよ」 不思議そうに尋ねてきたレオに、ナルは面倒くさそうに答えた。 「バルガンの舵の前で倒れていたんだよ。そん時は、息は切らしているわ、体はガタガタ震えているわで、ホント焦ったぜ。たまたまオレ様が上空を通ったからよかったけどよぉ。…お前、病気でもしてんのか?何か思い当たるふしはあるか?」 ナルにそう言われて、レオはようやく思い出した。 …そうだ。私は、飛竜の巣を出た後、突然奇妙な感覚に襲われて…。 「…いや、特に何も…。それより、ナルが助けてくれたのか。ありがとう」 「感謝しろよ。あの重てーバルガンごと運んできてやったんだからな」 レオは素直に礼を言うが、ナルはぶっきらぼうに答えた。 「なーに偉そうにしてんのよ。ねえ、聞いてよ!ナルったら全然変わっていないんだよ!あたしのことを、いっつもチビだのガキだの言ってさぁ。そーゆー自分の方が、チビでガキのくせにねー!」 ルビィは、ナルを前足で指しながら、レオに話した。 「オレはガキじゃねえっつってんだろ!何度も言わせるな!このチビネコ!」 「あたしだってチビでもネコでもないわよ!そーやって、見た目の悪口しか言えない所なんか、すっごく子供ね!!」 「うるせぇブス!ブスブスブース!!」 「あっ、四回もブスって言ったー!レディに対して、ひどいじゃない!!」 …変わっていないのは、お互い様ではないか…。 レオは、そう思ったが、口に出すと、ケンカの火の粉が自分にまで降りかかってきそうなので、黙っておいた。 「…すまんが、もう少し静かにしてくれ。頭に響く…」 いかにも病人のような声で、レオが言ったので、ナルとルビィは、慌てて口を閉ざした。 「おっと、悪いな。それより、ルビィ。オレ様はガキ共に夕食を作ってやらねーといけないからよ、ちょっとレオを看てやってくれ。レオ、今日は泊まっていけ。明日にでも、神官を連れてくるからよ。どうやら、ただの熱じゃなさそうだからな。じゃあな!」 ナルは、言うだけ言って、さっさと部屋を出ていってしまった。ルビィは、笑顔でナルを見送る。 …ケンカばかりしているわりには、仲がよさそうだな。…いや、ケンカするほど、仲がいいのだろう。 レオは苦笑する。 その様子を見たルビィが、「何?」と聞いてきたが、レオは「なんでもない」と答えた。 「あ、そう。…ところでさあ。本当に心当たりはないの?なんで倒れちゃったのか、全然分からないの?それに、どうしてあの海にいたの?」 "あの海"とは、ペンタグリアがあった海のことだろう。 「実は、飛竜の巣に入っていたのだ。その時は、何ともなかったのだが…。巣を出てから、妙な感覚に襲われ…後は覚えていない」 「ええーっ!!飛竜の巣って、すっごく強い怪物がいる所じゃない!グェンじいちゃんから、そう聞いたことあるよ!なんでそんな所に入るのよぉ!!」 叫ぶだけ叫んでから、レオが辛そうに耳を塞いでいることに気づき、ルビィは小さな声で「ゴメン」と謝った。 「た・ただの好奇心で入ってしまったのだ。…今では、巣を荒らしてしまったことを、反省している」 「ふ〜ん。…もしかして、そこにいる怪物の毒にやられたんじゃない?」 「いや、毒を浴びた記憶はないが…。やはり、これといった思い当たるふしは…」 そう言いかけて、レオは考え込んだ。 …そういえば、あの光は何だったのだろう…。 レオは、ハーピィクイーンの群れに襲われた時、一瞬だけ見えた光を思い出した。 鈍い金色の光…。なぜか気になり、正体を確かめようとしたが、結局明らかにすることができずに、巣を出てしまった。 …しかし、どこかで見たことがあるような…。 難しそうな顔で黙っているレオに、ルビィが心配そうに話しかけた。 「どうしたの?頭痛いの?気分が悪いの?」 「ああ…いや、大丈夫だ。心配するな」 レオはルビィに笑顔を見せるが、少し辛そうだ。 「あ、そうだ!氷枕を持ってきてあげる!今日、ナルがいっぱい氷を持って来てくれたの!その帰りに、レオを見つけたんだってさ。すぐに持ってくるね!!」 叫びながら、ルビィは飛んで部屋を出ていった。やはり頭に響く。 …まったく。元気だな。 そう考えてしまうのは、自分が病人だからだろうか。 レオは頭をさすりながら、考えなおした。 …しかし、本当に心当たりは何もないな。 知らない内に毒を受けてしまったのだろうか。それとも、飛竜の巣に入る以前に、何かあったのだろうか。 しかし、どれも推測にすぎず、確かな証拠もない。 それに、熱のためか、思考力が低下しており、うまく頭が働かない。 レオは目を閉じた。 …今は無理をせず、休んでいた方が良さそうだ。 そう思って、眠りにつこうとした時、ふと、ドアがきしむ音が聞こえた。 …ルビィか?早いな…。 レオは、まぶたを開き、ドアの方へと視線を投げた。 ドアの隙間から、幼い少女が顔をのぞかせている。 少女は、警戒しているようにレオを見ていたが、危険はないと悟ると、パタパタと駆け寄ってきた。 「びょーき?びょーきなの?」 少女は、レオの肩をさすった。 「風邪をひいてしまっただけだ。移るといかん。離れていろ」 レオは、少女の頭を優しく撫でてから、そう言った。 少女は、素直にレオから数歩離れるが、何か思い出したかのように手を叩くと、ポケットを探り始めた。 「あ、あったあった」 少女は、ポケットの中から何かを取り出すと、再びレオに駆け寄り、それを差し出した。 「アメあげる。元気になるよ。おいしいよ」 少女が手にしているのは、薄い紙に包まれた、飴玉だった。 「…ありがとう」 レオは、少女の手から、飴玉を受け取った。 「エヘヘヘ…」 少女は嬉しそうに笑った。レオも微笑み、少女の頭を撫でてやろうと、手を伸ばした。 しかし、その手は宙でぴたりと止まる。 「あ…」 レオは、伸ばした手の先にいる少女を、じっと見ている。 「…?」 撫でてくれると思い、少し顔を下に向けていた少女は、なかなかレオに撫でられないので、不思議そうに顔を上げた。 …以前にも、こんなことがあったような…。 レオは、伸ばしていた手を引っ込め、渡された飴玉を眺める。 「ねえっ、どうしたの?」 少女は、レオの肩を揺すった。 「…いや、何でもない」 そう言って、レオは少女の方へと顔を向けた。 すると、突然目の前の景色が一変した。 壁や天井が消え、真っ青な空が映し出される。 「なっ…!」 しかし、その映像は、一度瞬きをすると、元の部屋の景色に戻ってしまった。すぐ側では、少女が首をかしげている。 「…今のは…」 レオは額に手をあて、天井を仰いだ。 再び天井が消え、今度は先程とは別の映像が見えた。 そして、その映像も、すぐに消え、休む間もなく、また別の映像が現れた。 小さな手。 絡み合った小指。 冷たい瞳。 瓦礫の山。 記憶にない映像もあれば、どこかで見たことがあるような映像もあり、それらは繰り返し、レオの頭の中をよぎり続ける。 そして、声。映像と共に、何度も繰返される声。 『…いや…』 「あ・ああ…」 『…いや…一人は…』 「あ・あ…ぐ…」 『…一人は…いや…!』 「ぐあっ…あああ!!」 飛竜の巣を出た時に味わった、あのめまぐるしく変化する感覚が、再びレオを襲った。 必要以上に体内に空気を取りこんでいるはずなのに、息ができないように苦しい。胸は熱く、全身から汗が出ているのに、妙に寒い。 体だけではなく、気まで狂ってしまいそうだ。 握り締めていた飴が、ぐちゃっと潰れ、指の隙間から零れ落ちる。 少女が何かを叫んでいたが、レオには全く聞こえなかった。 部屋に戻ってきたルビィが、すごい力でレオの体を揺すったが、それにも気がつかなかった。 急に声と映像が消え、あの感覚も少しずつ弱まっていったが、それはレオの意識が遠のいていったからであり、体だけは、まだ苦しみ続けていた。 (第三章へ) |