彼女が泣いている時、少年は彼女の隣で座っていた。 彼女が泣き止んでからも、少年は彼女と一緒にいた。 楽しそうに話せば笑い、寂しそうに話せば視線を落とし、力強く話せば真っ直ぐと前を見つめる。そんな少年の表情に、彼女は驚いた。 …どうしてこの子は、こんなにいろいろな顔をするんだろう。 一番身近にいる人々は、彼女に対して、まるで興味がないような顔しか見せない。しかし、この少年は、初めて会ったばかりなのに、様々な表情を彼女に見せる。 それは、どれも暖かく、沈んでいた彼女の心を明るくする。 いつしか、彼女も笑うようになった。 …楽しい。 彼女は、初めて心の底からそう思った。 何もかもが、初めてだった。 こんなに笑ったのも、話をしたのも、心が満たされてゆくのも。 …ずっとこのままでいたい。ずっと、この子と一緒にいられたら、どんなに幸せなことだろう…。 彼女の心は、次第に少年に惹かれていった。 "第三章 二つの孤影" マウリが産まれた時、レオは新しい家族の誕生に、両親と共に喜んだ。 しかし、今は寂しかった。 両親が、マウリの世話で手一杯になり、レオの相手をしてくれなくなったからだ。 仕方のないことだとは分かっていた。しかし、まだ幼いレオは、誰よりも親に甘えたかった。 だが、わがままを言って、親に迷惑をかけたくもなかった。 だからレオは、できるだけ気を使ってもらわないよう、外で一人で遊んでいた。 親の他にも、遊び相手はいるのだが、今は一人でいたかった。 女神像の前ですすり泣いている彼女に、飴玉を渡したのは、そんな自分と同じ寂しさを、彼女も抱えているような気がしたからだ。 本当は、泣きたくて仕方がない自分の本心が、少女の姿となって現れたように見えたからだ。 彼女に笑って欲しい。 そんなことを思ったレオは、どうにか彼女を元気付けようと、出かけ頭に親からもらった飴玉を、彼女に渡した。 しかし彼女は、飴玉を口に含むと、さらにひどく泣き出してしまったので、レオは大いに焦った。 飴が美味しくなかったのだろうか。それとも、喉に詰まってしまったのだろうか。 喉に詰まれば、泣き出すどころでは済まされないのだが、今のレオには、それが分からなかった。 レオは、彼女の背中を必死になってさすった。それでも彼女は泣き止まないので、レオまで泣きたくなってしまった。 「うっ…うう…っ」 そして、涙目になってきた時、彼女はレオの手を握り、涙を拭きながら、こう言った。 「…あめ、おいしい…。ありがとう…」 「…ってことは、完全には消えないのか?」 「ああ。元を断たねぇ限りはな」 「それって、どこにあるの?」 「レオに聞きゃ分かるだろ。まっ、風邪は治したんだ。昨晩みたいにひどくなることもねぇさ」 すぐそばで、誰かが会話をしているということだけは分かった。 意識がもうろうとしているので、その会話の意味までは理解できなかった。 すぐ目の前に、見覚えのある人の顔が見えるのだが、やはり誰かは分からなかった。 「レオ兄様!」 そう呼ばれて、レオの意識は、ようやくはっきりした。 「マウリ…?」 マウリは、心配そうにレオの顔を覗き込んでいる。 「おっ、目が覚めたか。…ったく、心配かけさせやがって」 そう言って、マウリの隣で肩をすくめたのは、ロンファだった。 「…私は、また眠っていたのか…。しかし、お前たち、何故ここに?」 「あたしがナルに頼んで、連れて来てもらったの」 ベッドの上で体を寝かせているレオの横では、涙目のルビィが座っていた。すぐ側にナルもいる。 「昨日の夜、お前の様態がいきなり悪化したって言うから、急いで連れて来て、治療してもらったんだ。…ところで、レオ。今の体の調子はどうだ?」 ナルにそう言われて、レオは自分の胸元に手を添えた。 心臓は正常に鼓動しておリ、息苦しくもない。 「…そうだな…」 レオは静かに体を起こした。目眩はしない。 「お兄様、無理はなさらないで」 「いや、もう大丈夫だ。…お前には心配をかけてばかりだな。すまない、マウリ」 「レオよぉ、俺には何も言うことはねぇのか?わざわざキカイ山まで来てやったんだぜ」 ロンファは、面白くなさそうな顔で言った。 「おお、そうだったな。その前に、私のことは『お兄様』と呼べと、何度も言っておろうが」 「……」 「冗談だ。ありがとう、ロンファ。だが、いつかはそう呼んでもらうぞ」 マウリが、ぷっと吹き出した。ナルとルビィも、声をひそめて笑っている。 「…冗談を言う気力がありゃぁ上等だ」 ロンファも、喉元をポリポリと掻きながら笑った。 「なあレオ。お前、やっぱ変な目に遭ったんじゃねーか?」 すこし落ちついてから、ナルは深刻そうな顔つきで、レオに尋ねた。 「どういう意味だ」 レオは首をかしげる。 「いやよぉ、ロンファの話じゃ、お前は何かに呪いをかけられているらしいぜ」 「呪い?…私にか?」 驚くレオに、今度はロンファが話しかける。 「そうだ。…っつっても、正体がはっきりと掴めねぇから、そうは言いきれねぇけどよ。…お前の体に、何か影のようなものがまとわりついていやがる。苦しんでいたのも、そいつのせいだろ。おまけに熱まで出ていたから、相当しんどかったろうに」 レオは、不思議そうに自分の体を触ってみるが、特に変わった様子はない。 「でだ。そいつは何度払おうとしても消えやしねぇ。しゃぁねぇから、風邪だけは治しておいてやったが…。本当に、心当たりはないのか?こんな呪い、そんじょそこらでかかるようなモンじゃねぇぜ」 「ねえ。やっぱり飛竜の巣で何かあったんじゃないの?」 ルビィが、そう口を挟む。 「話は、だいたい聞いておりますわ。レオ兄様、飛竜の巣を出て、倒れておしまいになったそうで」 「お前、なんであんな危険な所に入ったんだよ。頭悪いなぁ」 続いて、マウリとナルが、レオに言った。 レオは少し考えこむ。 …心当たり…。もしや、あの光では…。 レオは、飛竜の巣で見た、あの妙な光を思い出し、ロンファたちに話した。一瞬だけしか見ることができず、正体も分からない。だが、それは今でもレオの脳裏に焼きついており、気になって仕方がない…と。 ロンファたちは、黙ってレオの話を聞いていた。 「…それが原因であるという確証はないがな」 そう言って、レオが話を終えると、しばらく沈黙が続いたが、ロンファが口を開き、沈黙を破った。 「そうか…。どれ、ちょっくら飛竜の巣まで行ってみるか。マウリ、レオを看ていてやってくれ」 ロンファはレオに背を向け、部屋を出て行こうとする。 そこを、ルビィとレオが引き止めた。 「ちょっと待ってよ!一人で行くつもり!?」 「まて!お前一人では危険だ!それに、詳しい場所も知らんだろう。私が行こう」 レオは、勢いよく立ち上がろうとしたが、上手く体に力が入らず、ふらつき、床に手をついてしまう。 「まだ無理ですわ。いくら治療したとはいえ、あれだけ衰弱しきっていたんですもの。しばらくは安静にしていて下さいませ」 「…すまない。世話をかける」 「気にすんな。だが、確かに場所はよく知らねぇなぁ…。レオ、簡単な地図でも描いてくれ。それと、ルビィ。お前も一緒に来ちゃぁくれないか」 「おい、ちょっと待てよ!何でルビィが…」 ロンファは、ルビィに一緒に来るよう言ったのだが、ルビィが返事をする前に、ナルが叫んだ。 ロンファは肩をすくめる。 「よく考えてみろよ、ナル。お前さんには、ここの子供の世話があるだろ。それに、レオの呪いは消えちゃいねぇんだ。神官である俺とマウリは、どちらかが残って看病しなきゃいけねぇ。マウリに『お前が行け』って言わせる気か?…となると、ボディーガードとして連れて行けるヤツは、ルビィしかいねぇだろ」 ロンファにそう言われ、ナルは言葉を詰まらせるが、完全には納得しきれず、口をモゴモゴさせている。 そんなナルの前に、ルビィが飛んできた。 「ロンファの言う通り!ナルは、ここの子供たちと一緒にいなさいよ。それに、あたしは立派な大人の竜なんですから。怪物なんかへっちゃらよ。…でも、心配してくれてありがとうね」 ルビィは、ナルに微笑みかけた。ナルは頬を赤らめ、「けっ!」とそっぽを向く。 その様子を見た、ロンファ、マウリ、レオの三人は、ほぼ同時に「素直じゃない…」と思った。 * 昨日の昼頃、レオは飛竜の巣に入った。 巣から出た後、バルガンの舵を取っていた時に倒れ、キカイ山で目を覚ましたのは、日が沈んで間もない頃だった。 そして再び気を失い、次に意識を取り戻したのは、次の日の朝…つまり今朝だ。 その間、レオは何も口にしていないので、飛竜の巣へ向かうロンファとルビィを見送った後、つい腹の虫が鳴ってしまった。 ナルは笑ったが、マウリはレオに食欲があることに安心した。 ということで、マウリは「栄養のあるものを沢山食べて、早く元気になって下さいませ」と、はりきってキッチンへと向かった。 ナルも、マウリを案内するため、一緒に行ってしまい、おとなしくしているよう言われたレオは、一人部屋に残された。 しかし、それもつかの間。 「すっげー!本物の剣だぁ!」 「こ、こらっ、それは私の剣だ!」 「え、おじさんの剣なんだ。へー、かっこいー」 「お・おじさ…わああ!鞘から抜くなぁ!!」 この部屋のドアは、きちんと閉めることができず、どうしても隙間が開いてしまう。 そのため、外からレオの姿をのぞき込んだ子供が、何人か中に入ってきた。 「いいかっ。危ないので、うかつに触ってはいかんぞ!」 レオは、剣を子供に抜かれる寸前で、どうにか取り返す。 「なんだよぉっ。おっさんのケチー!」 「……」 よくおじさんと言われるロンファの気持ちが、今のレオには理解できた。 しかし、子供相手に言い返す気もなければ体力もない。 「とにかく、イタズラはするな。いいな」 そう念を押すと、レオは剣を子供たちの手が届かない所に置いた。 「ケチー!」 「じゃあ遊ぼうよー」 「ねえねえ、いっしょに遊んで!」 子供たちは、ぐいぐいとレオの手を引く。 「すまんが、後にして…」 「お兄ちゃんは、どうしてツノがはえているの?お耳もおっきいねー」 「だだだだだっ!こらっ、耳を引っ張るな!!」 ただでさえ体が弱っているのに、このパワフルな子供たちにもみくちゃにされては、さすがのレオも体力がもたない。 しだいに、貧血で頭がくらくらしてきた。 「コラーッ!お兄ちゃんはびょーきなんだから、らんぼうしちゃダメ――――!!!」 突然、一人の少女が部屋に飛びこんできて、そう怒鳴った。子供たちの体がビクッと震える。 少女はレオに駆け寄り、まとわりついている子供たちをはらう。 「だいじょーぶ?だいじょーぶ?」 先程の怒鳴り声が頭に響き、目を回しているレオの体を、少女は心配そうに支えてやる。 「あ・ああ…もう大丈夫だ。ありがとう」 レオはベッドに腰をかけると、少女の頭を撫でてやった。少女は嬉しそうに笑う。 よく見ると、彼女は昨日、レオに飴玉を渡した少女だった。 「エヘへ…あのね、またアメもってきたんだ」 少女は、ポケットから飴玉を取り出した。 「そういえば、昨日もらった飴は…」 「あれね、こわれちゃって、たべられなくなっちゃったの。だから、これあげるね」 少女は、飴玉をレオの口元に突き出した。 「あーん。あ〜んして」 レオは少し戸惑うが、一つ咳払いをすると、「あーん」と口を開いた。 少女がレオの口の中に飴玉を置き、手を引っ込めると、レオは口を閉じた。 「ねえっ、おいしい?おいしい?」 少女は身を乗り出して、レオに尋ねた。 レオは、返事をする代わりに、少女に優しく微笑んだ。 すると、その様子を見ていた子供たちが、脱兎のごとく、バタバタと部屋を出ていった。 レオは驚き、飴玉を飲み込んでしまいそうになったが、どうにかこらえた。 少女も驚いた様子で、子供たちが出ていった後を眺めていたが、何事もなかったのように、視線をレオへと戻す。 「ねっ!おいしいでしょ!」 きゃっきゃとはしゃぐ少女を見て、レオは小さく笑った。 …そういえば、あの時見ていた夢の中でも、私は…。 昨日、この少女の前で意識を失った後、レオは夢を見ていた。 幼い自分が、女神像の前で泣いている少女に、飴玉を渡す夢を…。 …あれは…過去の私の記憶なのだろうか…。 レオは、夢の内容と過去の記憶を結びつけようと試みたが、先程部屋を出ていった子供たちが、騒ぎながら戻ってきたので、思考を中断させる。 「お兄ちゃん、これあげる!」 「いっぱい食って元気になれよ、おっさん!」 「あたしのも、あたしのもたべてね!」 子供たちは、飴やらクッキーやらのお菓子を、どっさりと抱えている。 …それを取りに行っていたのか。 レオの前に、お菓子を山積みにして置いた子供たちは、食べて食べてとレオを急かす。 レオは、自分を思ってくれている彼らの優しさに、心が温まってゆくのを感じた。 そして、目の前で山積みにされているお菓子の量に、唖然とした。 …甘いものは、食べられなくはないが…。 子供たちは、そんなレオの気も知らず、輝く瞳でレオを見ている。 無邪気な瞳…むしろ善意で満ちているそれは、時として苦痛を感じるものだ。 レオは、差し出された順にお菓子を口にしていったが、途中でナルが部屋に戻り、子供たちを追い出したので、全部は腹に詰め込まずにすんだ。 * 「ねえっ、あそこがそうなんじゃない?」 巨大な竜の姿で空を舞うルビィは、前方に見える穴だらけの岩山を見て言った。 「ふーむ…。そうだな。レオの地図でも、確かにあの辺にあるな」 ルビィの背中に乗っているロンファは、振り落とされないよう注意しながら、地図と岩山を交互に眺めた。 「…あ〜あ。あたしが初めて背中に乗せて飛ぶ人は、ヒイロかドラゴンマスターって決めていたのに…なんでロンファになっちゃったんだろ」 そんなことを、ぶつぶつと呟きながら、ルビィは岩山の上空を一回りする。 「何回それを言えば気が済むんだ。しゃぁねぇだろ。俺にはバルガンの操縦は無理なんだ。それに、ドラゴンマスターはいねぇし、ヒイロは青き星へ行っちまったんだ。お前さんも、大人の竜だったら、いつまでも文句を言うな」 「はぁ〜い」 ルビィは、しぶしぶと返事をすると、岩山のふもとにある浜辺へ向かって、ゆっくりと高度を下げていった。 (第四章へ) |