LUNAR2ばっかへ

記憶の牢獄


 成長し、美しい容姿を得た彼女は、周囲からもてはやされるようになった。
 容姿に人間の価値を見出した彼女は、それに執着し、それが永遠であることを望んだ。
 …年老い、美貌を失えば、また私は孤独になってしまう…。
 今まで、誰からも注目されることのなかった彼女は、それが不安で仕方がなかった。

 そんな彼女の望みに、ゾファーという姿なき者が答えた。
 ゾファーは、言うことに従っていれば、永遠の若さと美貌を与えることを、彼女に約束した。
 彼女は、その約束にすがりついた。
 ゾファーは、まず彼女に女神アルテナの名を語るよう命じ、そのために必要な力を与えた。
 彼女は、ゾファーに命じられるままに行動し、女神アルテナを中心とする組織、"アルテナ神団"を興した。
 彼女は、永遠の若さと美貌が手に入ることに夢中になりつつも、人々の信仰の対象になったことに、優越感を覚えた。
 もう、幼い頃に出会った少年のことなど、彼女の頭の中にはなかった。
 しかし、完全に忘れたわけではない。
 だからこそ、女神のような美貌に、異常なほど執着していたのだ。

 ある時、彼女の元を訪れた、一人の青年の姿を見た時、彼女は驚愕した。
 初めて自分に微笑みかけ、初めて自分を幸せな気持ちにしてくれた、あの少年が、確かに彼女の目の前にいた。
 成長し、立派な青年の姿をしているが、あの頃の面影は、はっきりと残っている。
 彼女は、彼が約束を守りに来てくれたのかと思った。
 彼に触れたい。
 共に再会の喜びを分かち合いたい。
 しかし、ゾファーがそれを許さなかった。
 一方、彼のほうも、病に倒れた妹の命を救うべく、彼女の元を訪れただけであり、彼女との再会に驚いている様子もない。
 約束を忘れているのだろうか…と、彼女は不安になったが、彼の妹の病を治してやってからは、心底彼女に仕えるようになったので、ただ身分をわきまえているだけだと考えなおした。

 その後、聖都ペンタグリアが築き上げられ、彼女はそこに身を置いた。
 都市には、彼女を守護するドラゴンマスターと、竜の力を授けた四人の幹部、そして一部の信者だけが、ペンタグリアに出入りすることを許された。
 彼らは、皆ゾファーに選ばれた者であり、彼女は、そんな彼らに不満を感じていた。
 彼らは、己の欲望を満たす存在としてしか、女神アルテナを…彼女を見ておらず、彼女が偽の女神であることを知っている、ドラゴンマスターを含めた複数の信者たちは、彼女を見下していた。
 四人の幹部達も、彼女を見下していたが、ただ一人、心から彼女を尊敬する者がいた。
 四人の幹部…四英雄、"白の騎士レオ"
 幼い頃、出会い、そして再会した彼だけは違っていた。
 しかし、彼は彼女が偽の女神であることを知らなかった。
 それでも、彼女に絶対の忠義を誓い、命をかけて戦う彼を、彼女は不満に思わなかったが、やがて真実を知った彼は、神団を去り、彼女の前から姿を消した。
 彼女は嘆いた。
 …なぜ…なぜ妾の元を去る!妾を裏切るのか?あの約束は嘘だったのか?
 だが、彼女は彼を信じていた。
 初めて優しくしてくれた彼が、初めて微笑みかけてくれた彼が、自分を裏切るわけがない。そう信じていた。
 では、なぜ…


『私が女神アルテナだったら、あなたは私を守ってくれる?』

『うん!まもる!』


 確かに、そう約束したはずなのに、なぜ妾の元を去る。
 約束を忘れたから?
 レオがドラゴンマスターではないから?
 妾が偽の女神だから?
 …そうじゃ。妾が偽の女神だから…。

 妾は真の女神となり、レオをドラゴンマスターとしよう。
 そうすれば、約束を忘れているとしても、レオは妾を守り、妾のために尽くしてくれる。
 妾が真の女神となればよいことじゃ。

 そのためにも…。
 ゾファー様、妾に永遠の若さと美貌を…。


 やがて、ゾファーに裏切られた彼女は、魂を食われ、命を失った。


 "第五章  約束"

 影は陸地から海へと飛び出した。
 波は穏やかで、影は滑るように移動する。
 その影より上へ、ずいぶん離れた所に、巨大な竜の姿をしたナルが羽ばたいている。
「ちゃんとつかまっているな!はなせば海にまっさかさまだぜ!」
「ああ…」
 背中に乗っているレオに、ナルは叫ぶが、レオは生返事だ。
 本当に大丈夫なのかと、ナルは心配するが、いちいちレオの様子を確認するのも首が疲れる。
 レオは、ナルの毛にしっかりと掴まり、真剣な眼差しで前方を見つめている。
 その視線の先に連なる山脈を越えた所に、飛竜の巣がある。
 以前、そこへ迷い込んだレオは、妙な光を見た。
 それからというもの、不可解な現象がレオを襲うようになった。
 その原因は、今もレオにまとわりついているはずの、黒い影のようなものだとロンファは言った。
 黒い影…。それが一体何なのか、今のレオにはよく分かった。
 …これは…彼女だ。私が幼い頃も…そして今も、孤独から逃れずにいる、彼女の断片だ。
 レオは、ナルの毛を掴む手に、力を込める。
 …ずっと忘れていた。彼女とは、既に出会っていたのだ。そして…。
 レオの脳裏に、不安げな顔で見つめてくる少女の姿が浮かんだ。
 寂しかった頃、自分と同じ寂しさを抱えているように見えた彼女…。

『私が女神アルテナだったら、あなたは私を守ってくれる?』

 彼女の問いに、レオは『うん!まもる!』と答え、それを約束した。
 そして数年後、再び彼女と会った時、彼女は女神アルテナの名を語っており、永遠の若さと美貌を欲していた。
 …まさか、彼女はあの約束を覚えていたから…。
 彼女の、永遠の若さと美貌への、異常なほどの執着心。
 しかし、それは真の女神アルテナとなるための手段に過ぎなかったのではないだろうか。
 いつまでも美しい容姿のままの女神となることを望んでいたからこそ、その執着心はあったのではないか。
 …私が、女神アルテナとなったあなたを守ると言ったからか?女神になれなければ、あの約束は成立しないと思っていたからなのか?
 胸が絞めつけられるような感覚に、レオは唇を噛んだ。
 責任感、罪悪感などといった感情が、レオの中で渦巻き、心を痛めていた。
 …違う!約束は成立しなかったのではない!本当の約束は、守ることが出来た!
 渦巻く感情の中で一番大きなものが、レオの心を熱くさせた。
 それは正義感。
 何者にも屈することのない、彼の信念。
 …彼女を救わなければ!
「ナル、急いでくれ…」
 レオがそう言うと同時に、ナルはレオを振り落とさないよう注意しながら高度を上げていった。
 すると、前方の山脈の向こうから、巨大な湖が姿を現した。

   *

 錫杖は、ロンファたちを警戒しているかのように、少しずつ後ろへ下がって行った。
 ロンファは、それに合わせてじりじりと前に踏み出す。
 緊張しているのだろう。額からは汗がにじみ出ている。
 そんな張り詰めた空気の中、上空で待機しているハーピィクイーンの群れと、ロンファの肩にしがみついているルビィだけが、ぎゃあぎゃあと騒いでいた。
「ねえねえねえっ!あれ、動いているじゃないの!オバケ?女神様だってウソついていた女の人のオバケなのぉ!?」
 特に、ルビィはすぐ耳元で騒いでいるので、ロンファにとってはかなりの迷惑だった。
「そうだ。…まあ、あの女のものかどうかは分からねぇが、強い怨念が、あの杖の中に宿っている。…こいつさえ静めりゃ、レオの呪いも消えるだろう」
「ウヒェェッ!やっぱりオバケなのねぇ!ヤダヤダヤダッ!おっぱらってよー!!」
「うるせぇ!集中できねぇから静かにしろ!!」
 錫杖と向かい合ったままルビィを一喝すると、両手を胸の前で組んだ。
 すると錫杖は、くるっと縦に回転し、先端をロンファに向けると、砂煙を巻き上げながら突進してきた。
「どわあっ!」
「きゃあっ!」
 ロンファはブリッジで、ルビィは横に飛んで、錫杖をかわした。
 錫杖は、そのまま岩壁に突っ込むかと思いきや、ぶつかる直前で角度を変え、真上に向かって上昇した。
 その先には、ハーピィクイーンの群れが飛び交っている。
「な、何だ一体…」
 ロンファは、体勢を整えながら錫杖を見上げる。
 錫杖は、一匹のハーピィクイーンの体を貫いた。そのハーピィクイーンは、いやな悲鳴を上げる。
 そして、そのまま錫杖ごと落下し、地面に体を打ちつける。
「…な、なに?なんなのよぉ…」
 ルビィは、その様子をロンファの後ろから窺っていたが、突然、ハーピィクイーンの体が不自然にうねり始めたので、思わず身を乗り出した。
 皮膚が内側から張り裂け、中からさらに巨大で不気味な体が現れた。錫杖は体内に呑み込まれる。
 苦痛に悶えているかのようにばたつかせている翼は、そのからだの一回りも二回りも大きく広がる。
 女性の美しい顔は醜く歪まされ、異常なほど赤く鋭い眼光からは、背筋が凍りつくほどの殺気を感じられる。
「…っち。こいつぁやっかいなことになっちまった」
 ロンファは、目の前で唸るその怪物の姿を見て、舌打ちをした。
 怪物は、でたらめに牙が生えている口を、かぱっと開き、血の混じった胃酸を滴らせながら、ロンファたちに向かって跳躍した。
 ロンファとルビィは、お互い逆の方向に大きく跳んで、それをかわす。
 怪物は、顔面から地面に突っ込み、豪快な音を立てて周囲の岩をえぐった。
「ひゅ〜、おっかねぇ」
 ロンファは体勢を整えると、怪物を静めようと、祈り始めた。
 それに気がついた怪物は、がばっと顔を上げた。顔を押し付けていた地面の一部が、胃酸で焦がされている。
 …邪魔をする気か!
 怪物は、ロンファへと体を向けると、再び跳躍した。
「待ちなさい!」
 しかし、横から飛んできたルビィに、行く手を阻まれた。
 ルビィは大きく息を吸うと、思いきり吐き出した。
 息は炎となり、怪物を呑み込む。
 怪物は熱に悶えるが、それでも前へ進もうとする。
 しかし、赤竜の強力な炎は、やがて怪物の動きを止めた。
「や、やったのかな?」
 そう言ってルビィが気を抜いた時、鈍い金色の光が炎の中から飛び出した。
 怪物の体内に飲み込まれていた、あの錫杖だ。
「うぇぇっ!」
 ルビィは驚いてそれを見る。
 錫杖は、再びハーピィクイーンの群れの中へと上昇する。
「ま・待てぇっ!!」
 ルビィは慌てて錫杖を捕らえようとするが、錫杖に触れた瞬間、見えない力がルビィを弾き飛ばした。
 …来るな!
 ルビィは岩壁に叩きつけられそうになったが、どうにか止まると、祈り続けているロンファの元へと飛んだ。
「何よあれ!なんか触れないんだけど!!」
 ルビィは悔しそうに錫杖を睨む。
 錫杖は、また別のハーピィクイーンを貫き、落下する。
 ハーピィクイーンは、先程と同様、巨大な怪物へと変貌した。
 ロンファは祈りを中断し、ルビィに言った。
「キリがねぇ!ルビィ、お前には、あの怪物の相手は無理だ。あれは俺がどうにかするから、お前は時間を稼いでくれ!」
 そして、祈りを再開する。
 ルビィは、こくっと頷くと、怪物に向かって飛んだ。
 怪物はロンファを睨みつけるが、飛んで来たルビィに顔を焼かれる。
「あんたの相手は、あたしよ!」
 ルビィは、怪物の所々に火を吹きかけて威嚇する。
 …なぜ妾に牙をむく!
 怪物は、ルビィへと標的を定めた。そして、羽を大きく広げると、空気を叩き、体を浮かせる。
 突風がロンファとルビィを襲うが、両者、どうにか持ちこたえる。
 怪物は、口から胃酸を吐き、辺りに撒き散らした。
 ルビィはロンファの前へと飛び、降り注ぐ胃酸を炎で防いだ。
 胃酸に焦がされた岩や地面は、しゅうしゅうと白い煙を立てており、怪物の体も、自らの胃酸に一部を溶かされている。
 怪物は、ズシンと大きな音を立てて、地に降り立つ。
「もおっ!めちゃくちゃねコイツ!!」
 ルビィは再び怪物に向かって飛んだ。
 すると、怪物もルビィをめがけて跳躍した。その勢いと恐ろしい形相に、ルビィは脅え、体を硬直させる。
 怪物は、頭でルビィを弾き飛ばし、そのままロンファへ突っ込んで行く。
 ロンファは祈りに集中しており、動く気配を見せない。
「キャアッ!ロンファ―――ッ!!」
 ルビィはロンファの元へと急ぐが、間に合いそうもない。
 しかし、怪物の動きが、突然止まった。
 ロンファは、怪物に向けて両手をかざしている。
「ルビィ。よくやった。後は任せな」
 そう言って、ロンファは口元に笑みを浮かべた。ルビィは、ロンファの肩に乗る。
「もう、やっつけたの?」
 ルビィは怪物を見た。
 怪物は羽を広げ、腹部をロンファたちに向けて突き出すような姿勢で痙攣している。
 腹部の肉は、まるで粘土をこね回すように、ぐにゃぐにゃとうごめく。
「ああ。もう少しだ…」
 ロンファが、糸を引くように片手を動かすと、怪物の腹部の肉が裂け、中から錫杖の先端が現れた。
 錫杖は、怪物の体内から少しずつ引きずり出されていく。
「さあ、大人しくアルテナ様のもとへ召されやがれ!」
 ロンファは、目を閉じた。
 すると、錫杖の周囲に淡い緑色の光が生じ、錫杖を包み込んだ。
 錫杖は大きく震え、悲鳴のような金属音を響かせる。
 …いやだ…。
 光は錫杖に宿る影まで浸透し、消し去ろうとする。
 …いやだ!いやだ!!いやだ!!!
「グアアアアァァァ――――!!!」
 怪物は、口を極限まで開き、咆哮した。大気が震え、岩壁に亀裂が走る。
 上空のハーピィクイーンの群は、狂ったように奇声を発しながら逃げて行った。
 ロンファとルビィは、アルテナの加護によって守られていたが、それでも、この岩をも粉々にせんとする咆哮は、二人に多少のダメージを与え、ロンファの集中力を途絶えさせる。
 錫杖を包んでいた光は、しゃぼん玉のように弾け、消え去った。
「ぐっ…」
 ロンファは体を後ろによろめかせ、ルビィはコロコロと宙を転がる。
 その隙に、体の自由を取り戻した怪物はが、ロンファたちに向けて、大きく口を開いた。
「!!」
 胃酸を吐く気だ。そうロンファは思ったが、体勢はまだ整っておらず、今攻撃をしかけられては、対処しきれない。
 ルビィに至っては目を回しており、怪物の行動にすら気がついていない。
 怪物が、胃酸を吐き出した。
 ロンファは、胃酸に焼かれることを予想し、無駄だと分かっていても身を固くした。
 しかし、胃酸はロンファの服すら焦がすことが出来なかった。
「やめろぉぉぉぉぉ!!!」
 突然レオの声が聞こえたかと思うと、強い衝撃と共に、ロンファとルビィは横に飛ばされた。
 レオが、体当たりで二人を突き飛ばしたのだ。
 ロンファはルビィをまきこんで地面を滑走し、レオはロンファが立っていた場所に倒れる。
 そのため、怪物が吐き出した胃酸を全身に浴びてしまう。
 それを見たルビィが、悲鳴を上げた。
「レオ!!」
「なっ…レオだと!?」
 ロンファは慌てて起き上がった。
 胃酸によって焦がされた地面が、白い煙を立て、レオの姿を隠す。
「おいっ!レオって…まさか…」
 ロンファは、立ちこめている煙と、呆然とそれを見ているルビィを、交互に見る。
「…っこのぉ!!」
 ルビィは、キッと怪物を睨むと、大きく息を吸った。
「待て、ルビィ!!」
 しかし、炎を吹く寸前で、煙の中から飛び出したレオに口を塞がれる。
「ムゴッ…れ、レオ?」
「レオ!お前、無事だったのか!!」
 あれだけ胃酸を浴びたわりには、まったくの無傷のレオに、ロンファは驚く。
「無事じゃなかったぜ。オレ様がいなけりゃな」
 今度は、上からナルの声が聞こえた。
「ナル!」
 ルビィが顔を上げると、そこには巨大な竜の姿をしたナルが、三人を見下ろしていた。
「ったく、ムチャしやがって。オレ様が魔法で守ってやらなかったら、火傷じゃすまされなかったぞ」
 そうぼやきながら、ナルは人間の少年へと姿を変えた。
「お前ら、どうしてここに?」
 ロンファは二人を指しながら言った。
「レオが、どうしても来たいって言うから、仕方なく連れて来てやったんだよ」
 ナルの答えに、ロンファとルビィは同時にレオを見る。
 レオは、怪物へと向かって、一歩前に踏み出した。
「待てレオ!お前は大人しくしていろ!!」
 ロンファはレオの肩を掴むが、すぐに振り払われてしまった。
「お前たちは手を出すな!!」
 レオは怪物と向かい合ったまま、ロンファたちに怒鳴った。
 今のレオは、体も弱っており、顔色も悪い。
 しかし、それを疑ってしまうほどの気迫が、レオの声にはあった。
 ロンファたちは、思わず退いてしまう。
 レオは怪物を見据えた。
 いや、正確には、怪物の腹部から突き出ている錫杖を、レオの視線は捕らえていた。
 錫杖は、怪物の体と共に、かすかに震えている。
 レオは錫状に歩み寄る。
 怪物の口から零れる胃酸が、レオの肩に落ちるが、レオは少し顔をしかめるだけで、姿勢を崩さない。
「レオ!」
 ロンファが、レオの傷を癒そうと前に出るが、ナルに止められた。
 ロンファはナルに文句を言おうとしたが、突然、ルビィがレオを指しながら騒ぎ出したので、何事かとレオを見る。
 レオの伸ばした手が、錫杖に触れている。
「ねえっ!あたしがあの杖を捕まえようとしたら弾き飛ばされたんだよ!なのにどうしてレオは平気なの!?」
 レオは、普通に錫杖に触れており、錫杖も、レオを拒もうとしない。
「…すまない。あなたを独りにしてしまって…」
 レオは、辛そうに言った。
「私は、ずっと忘れていた。約束も、あなたのことも…いや、覚えていなくとも、あなたの気持ちに気がついていなかったから、こんなことに…!」
 今まで、体をかすかに震わせていた怪物は、完全に動きを止めた。
 殺気に満ちていた赤い瞳からは、生気すら感じられない。
 やがて、怪物の体は、乾いた土のように崩れ始めた。
 崩れた体は、一部を残して、風に流されてしまった。
 そして、残された体の一部は錫杖に集結し、一人の女性の姿をかたどった。
「なっ…!」
「うそっ!!」
 ロンファとルビィは、前へ身を乗り出した。
 しなやかな身体。
 長い黒髪。
 整った顔立ち。
 かつて女神の名を語り、醜い怪物となって朽ち果てていった女性の姿が、そこにあった。
「…レオ…」
 彼女は、恍惚とした笑みを浮かべる。
 どこか狂気めいており、魅入ってしまいそうなほど美しい。
「レオ…。妾は女神となろう。永遠の若さと美貌さえ手に入れば、妾は真のアルテナじゃ…」
 レオの頬に、彼女の細い指が這う。
 肌は、やや赤みを帯びた綺麗な色をしているが、それは背筋が凍るほど冷たかった。
「妾は真の女神となり、そなたをドラゴンマスターとしよう。そうすれば、そなたは妾を守り、妾のために尽くしてくれるな…」
「…っ、違う!!私は…!」
 レオは、そう叫び、彼女の肩を掴んだ。しかし、彼女の体は砂でできた人形のように脆く、レオが掴んだ部分はえぐれ、そこから少しずつ体が崩れていく。
「アルテナとなった妾の傍らに、常に身を置いておくれ…」
 彼女はレオの背中に腕をまわし、体をすりよせた。
 やはり冷たいその体は、すでに半分以上は崩れている。
「頼む!話を聞いてくれ!あなたも…私も、このままではいけない!!」
 レオは、崩れゆく彼女の身体を包み込むように抱き、必死になって叫び続けた。だが、レオの声が届いていないのか、彼女は恍惚とした表情のまま、唇を動かした。
「一人は…いや…」
 彼女の瞳から、一滴の涙が零れ、レオの胸元を濡らした。
 それを最後に、彼女は完全に塵と化し、風に乗ってレオの体をすり抜けていった。
 それでもなお叫び続けるレオの腕の中には、あの錫杖だけが残されていた。
「違う!本当は違うのだ!!なのに、なぜ…」
 レオは地面にひざをつき、錫杖を強く抱きしめた。
「なぜ…こうも残酷な運命をたどってしまったのだ!!!」
 レオは天に向かって吠えた。しかし、錫杖は何の反応も示さず、ただ揺れる度に涼しげな金属音を奏でていた。
 その悲しい雰囲気に、ロンファたちは、しばらく何も言えなかった。

   *

 再び巨大な竜へと変じたナルは、飛竜の巣を飛び立ち、キカイ山に向かってゆっくりと飛行していた。
 レオは、ナルの背中で体を横に寝かせ、ロンファとルビィは、レオが落ちないように支えてやっている。
 ロンファの治療で、胃酸に焦がされた個所は完全に癒されたが、体はまだ衰弱しており、意識ももうろうとしている様子だ。
「…そうか。過去にそんなことがあったのか…」
 幼い頃の出来事。そして、今までに起こった不思議な現象をレオから聞いたロンファは、そう呟いた。
「じゃあ、あの人は、レオと話した事を覚えていたから、アルテナ様みたいになりたがっていたのね」
 ルビィは、レオが抱えている錫杖を、切なそうに見た。
「おそらくは…な」
 レオは、はっきりとは答えない。
 彼女が永遠の若さと美貌を望むようになった背景に、レオの姿があった事は確かだろう。だが、それだけであの執着心が生まれたとは思えない。
 すすり泣く少女の中に見えた自分。
 今もレオの中に渦巻く影から感じられる、孤独な彼女の気持ち。
「…彼女は、私と会う以前から、孤独だった…」
 一人きりであることが、どれだけ寂しいことか。
 レオがそれを知ったのは、マウリが産まれた時…彼女と出会った頃だった。
 しかし彼女は、そんな自分よりずっと孤独だったような気がする。
 だからこそ、誰かと共にあることを強く望んでいたのではないか。
「そして、今も…」
 レオは、錫杖を握る手に力を込めた。
「…むこうに戻ったら、その杖についているやつを払い落とすぜ。そうすりゃ、お前にかかっている呪いも消えるだろうさ」
 ロンファは、暗い声で言った。レオは悲しそうな顔をする。
「…彼女を救うことは、できないのか…」
 レオは、錫杖を抱きしめた。皮膚に食い込み、痛みを感じるくらいに、強く抱く。
「この杖に宿る彼女は、生きていた頃の記憶の中で、ずっとさまよい続けている…。その中では、永遠に手に入れられないものを求めて…繰返し、記憶の中を…」
 うわごとのように呟いているレオの頬を、ルビィは不思議そうにつついた。
「ねえ、どうして分かるの?」
 しかし、レオはルビィに気がついていないのか、そのまま続ける。
「…記憶は、新たに作られることも、失うこともない。そして、思い出すことも…だから…」
 レオはまぶたを閉じ、少しずつ全身の力を緩めていった。
「…彼女があの約束を忘れてしまったのは、女神という存在に執着しすぎたからだろうか…。私も忘れていた、本当の約束を…」
 そこまで言って、レオは黙り込んでしまった。
「忘れたって、何を?まだ何か約束してたの?ねえ、ねえってばぁっ」
 ルビィは、レオの肩を強く揺すろうとしたが、ロンファに止められた。
「やめろ。寝かせておけ」
 レオは、杖を抱いたまま眠ろうとしている。
「…よっぽど疲れているんだね…」
 ルビィは羽を広げると、レオの肩にポンと乗せた。
「おやすみ。レオ」
 そう言って、ルビィはレオに微笑みかけた。




「…もしも、あなたがドラゴンマスターで、私が女神アルテナだったら、あなたは私を守ってくれる?」
 彼女の問いに、少年は目をぱちくりさせていたが、しばらくすると、にっこりと笑って答えた。
「うん!まもる!」
 少年の答えは、彼女にとって嬉しくてたまらないものだった。
 そして、彼女はそのことを約束してもらうため、少年と小指を絡ませた。
 そこから伝わるぬくもりが、彼女の心まで伝わり、優しく暖める。
「約束だよ!絶対に一人にしないでね!」
 彼女は、涙目で少年を見つめた。少年は、元気良く返事をする。
「うん!…でも…」
「でも?」
 彼女は、少し不安になった。しかし、少年の表情は、いたって優しい。
 少年は少し間を置くと、小指を絡ませたまま、照れくさそうに言った。



「ぼくがドラゴンマスターじゃなくても、きみがアルテナさまじゃなくても…まもってあげるからね」

 (終)

 あとがき


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