LUNAR2ばっかへ

Perfect Black


 "第八章  英雄四人、白くなる"

 ルビィ宛ての書き置きを部屋に残してから、ヒイロ、ロンファ、レミーナの三人は町を出て、東にある古代遺跡へと向かった。
 仮面の黒騎士の手紙によると、遺跡の手前にバルガンは停泊しており、そこに彼とジーンはいるらしい。
 町から遺跡までは、徒歩で半日ほどで着く。途中、切り立った崖に挟まれた道も通るが、これといった障害物は無いはずだ。順調にいけば、日が暮れる前には着くだろう。
 もしかしたら遺跡に着く前に、黒騎士が何らかの罠を仕掛けてくるかもしれない。アイテムや武具を奪われ、ほぼ丸腰であるヒイロたちは、用心しながら遺跡へと進んでいった。

 崖に挟まれた道を抜けると、遺跡が見えるより先に、巨大な船体が視界を遮るように現れた。
「バルガン…」
 ヒイロは思わず立ち止まり、そう呟いた。
 その船体は、正しく竜汽船バルガンであった。黒騎士の手紙の通り、遺跡の前に停泊していた。
 ヒイロたちから見て、正面に船首が位置しているので、乗り込むには舷側にある階段まで回り込むことになるだろう。
「結局、罠らしきものは無かったな…」
 ロンファの言う通り、町からここまでの道のりで罠らしきものには遭遇せず、獣に襲われることもなかったので、予定通り日が暮れる前に着くことができた。
 旅で歩き慣れているヒイロたちにとって、特に険しくもない道を半日近く歩いたくらいでは、全く疲れない。だが、黒騎士に身包みを剥がれたヒイロとロンファが履いている靴は、履き慣れていない借り物の靴であるため、少々辛かった。
「とにかく、中に入るわよ。アルテナ様の像があるはずだから、まずはそこで疲れを癒しましょう」
 そんなヒイロとロンファを、レミーナが気遣う。
「いや、先に俺が疲れや癒してやる。バルガン内のアルテナ像のもとまでたどり着く前に、黒騎士が現れるかもしれねえ。いいな?」
 ロンファは、ヒイロたちの答えを待たずに祈り始めた。たちまち、淡い緑色の光が生じ、三人を包み込む。
「ああ、用心するに超したことはないな。…相手は、あのレオ…いや、黒騎士だからね。油断は禁物だよ」
 足の痛みが和らぎ、疲労が消え去っていくことを感じながら、ヒイロは引き締まった表情で、ロンファとレミーナに声をかけた。二人とも、ヒイロへと顔を向けて頷く。
 やがて光が消えると、ヒイロは「行こう!」と声を上げ、舷側の階段へと向かって走り出した。ロンファとレミーナも、彼に続いて走り出す。
 …そう言えば…以前にも、こうしてバルガンに乗り込んだことがあったな。
 走りながら、ヒイロは一年ほど前の出来事を思い出していた。
 ロンファと出会った次の日、ルーシアは魔王だと騙されていたレオが、彼女を捕らえてバルガンの牢屋に閉じ込めた。ヒイロはロンファとルビィと共にバルガンに忍び込み、ルーシアを奪還したのだった。
 当時は、ヒイロにとってレオは確かに敵であり、レオにとってもヒイロは敵であった。港町アザドで、彼と協力し合って戦った頃から仲間意識も芽生え始め、ゾファーとの戦いを終えた時、レオは初めて友達としての笑顔をヒイロに見せた。
 青き星に戻ってしまったルーシアを追って始めた旅の中でも、レオはヒイロとロンファだけではなく、ルビィとレミーナ、そしてジーンにも、その笑顔を向けていた。
 …そのレオが、再び敵に回るなんて、思ってもみなかった…。
 ヒイロは、走る勢いを緩めずに階段を上り始める。
 …あの時と違うのは…一緒にバルガンに乗り込むのは、ルビィではなくレミーナ。レオは黒騎士と名乗っており、捕らわれているのはルーシアではなくジーン…でも、レオがサファイアを奪った以上、取り返さないとルーシアには会えない…!
 ヒイロは強く拳を握りしめた。既に階段の中腹まで上っている。
 …待っていてくれ、ルーシア!サファイアとメダリオンを取り戻し、必ず君に会いに行く!そして、レオ…君も必ず元のレオに戻してみせる!ボクたちの友達の…仲間のレオに!!
 そう決意し、改めて顔を引き締め、ヒイロは階段の先を見上げ…。
「うわあぁぁっ!!!」
 悲鳴を上げて立ち止まった。ヒイロより二段遅れて階段を上っていたロンファとレミーナは、急に立ち止まった彼にぶつかりそうになったが、どうにかブレーキをかけることができた。
「キャアッ!いきなり止まらないでよヒイロ!落ちたらどうしてくれ…」
 レミーナはヒイロに怒鳴りつけるが、彼の向こうから姿を現した巨大な物体に驚かされ、怒りも消え失せた。
 階段の上から、直径が階段の幅と同じくらいある岩が転がり落ちて来る。
「おおぉ下りろ!急いで階段を下りるんだー!!」
 ヒイロたちは、一斉に方向転換し、下りると言うより落ちるに近い勢いで、階段を下り始めた。
 そんな彼らを逃すまいと迫ってくる岩は、回転のスピードも、落下する速度も速く、おそらくヒイロたちより早く階段を下りきるだろう。
 つまり、ヒイロたちは途中で弾かれるということだ。
「だ・駄目だ!飛び降りろー!!」
 ヒイロが叫ぶまでもなく、三人は横に大きく跳び、地面へと落下した。
 ルナの一般的な民家の二階から飛び降りるくらいの高さがあり、気が動転したまま飛び降りたこともあって、三人とも着地に失敗し、地面に体を打ち付けて倒れた。
 岩は階段を下りきると、そのまま転がってバルガンから遠ざかってゆき、やがて崖にぶつかって止まった。
「う…おい、大丈夫か?」
 背中をさすりながら、ロンファがむっくりと体を起こした。
「…なんとか…」
「大丈夫じゃないわよ…イタタタ」
 ヒイロとレミーナも、上半身を起こす。落下の衝撃で全身が痛むが、外傷は浅く、骨も折れていない。
「畜生…こりゃ、俺とヒイロが二人でバルガンへ戻った時と同じ罠じゃねえか!」
 ロンファは悔しそうに拳を地面に叩きつけた。ヒイロも額に手を添え、ため息をつく。
 一昨日の夜、泥酔して眠ってしまったヒイロとロンファが目を覚まし、荷物や服を盗まれたことをジーンに告げられた後、彼ら二人はバルガンへ戻った。その時も、先程と同じように岩が転がり落ちてきたのだった。
「ハーッハッハッハッハッハッハッハッ!!まさか、同じ罠に二度も引っかかるとはな!この間抜けめ!!」
 その時、高らかな笑い声が頭上から降ってきた。ヒイロたちはバルガンを見上げる。
 声の主は、バルガンの船縁に片足を乗せ、偉そうに腕を組んでヒイロたちを見下ろしていた。白いマントをはためかせ、黒い騎士服を身に纏い、黒い仮面で顔の上半分を隠している、その姿は正しく…。
「レオ!!!」
「レオではなーい!!仮面の黒騎士である!!!」
 と、三人に同時にレオと呼ばれれば、お決まりのように否定する仮面の黒騎士であった。
「まったく!何度私の名前を間違えれば気が済むのだ!揃いも揃って物覚えの悪い連中め!いいかげんにしろ!」
「うるせえ!!テメェこそいいかげんに目を覚ましやがれ!」
 黒騎士の怒鳴り声に負けじと、ロンファは立ち上がりながら叫んだ。そんな彼を、黒騎士は鼻で笑う。
「目ならとうに覚めておるわ!寝ぼけたことを言うな!まだ酒が抜けきっておらんのか、ロンファよ!!」
「寝ぼけているのは、あんたのほうでしょーが!!」
 レミーナも立ち上がり、ロンファと一緒に黒騎士を怒鳴りつけた。
「いいや!寝ぼけているのは貴様らだ!だから同じ罠に二度も引っかかったのではないか!?ハッハッハッハッハッ!!」
 そう言って、黒騎士は再び高らかな笑い声を上げた。悔しいが、ヒイロたちは何も言い返せない。
「フッフッフッ…その調子では、船内の各関門の途中で力尽きてしまうぞ。私を捕らえ、ジーンを救い出すこともできまい」
 ヒイロたちを見下すように眺めながら、黒騎士は意味ありげに言った。
「関門?どういうことだ!」
 立ち上がり、ヒイロは思わず腰に吊している剣の柄を握ろうとするモーションを取ったが、その手は空を掴み、剣どころか何の武器も持ち合わせていないことを思い出させた。
「ふっ…物覚えの悪い貴様らに話した所で、どうせすぐに忘れてしまうのだろうが…まあいい。よく聞け」
 一言多い黒騎士の言葉に、ヒイロたちは眉を吊り上たが、黙って黒騎士の話を聞くことにする。
「私は、これから船内のある部屋へと向かう。ジーンも、その部屋にいるが…あの女は、貴様らと同じく物覚えは悪いが、物分かりはいいようだ」
 黒騎士の「物分かりはいい」という言葉に、ヒイロたちは、ジーンは大人しく黒騎士に従っているのだと考えた。おそらく、身の安全の確保しつつも、黒騎士を油断させて隙をつき、彼から武具や紋章を取り替えすためだろう。
「じゃあ、ジーンは無事なのね!」
 レミーナが黒騎士に問うと、またしても彼は意味ありげな言葉を口にした。
「ああ。私もジーンには手荒な真似はしたくない。…彼女は、私が完璧な悪に近付くためには、必要不可欠な存在なのだからな」
「悪に近付くためって…どういうことだ?何故ジーンが必要なんだ?」
 今度は、ロンファが黒騎士に問う。
「それは、私のもとまで辿り着くことができれば分かる。貴様らはジーンを救い出すために、私を捕らえなければいけないわけだ。だが、船内に仕掛けられた罠が、貴様らの行く手を阻むだろう。どれも容易には突破できない関門だ。私のもとに辿り着く前にくたばらないよう、せいぜい頑張ることだな!ハッハッハッハッハッハッ!!」
 笑いながら、黒騎士はマントを翻すと、わざとらしく靴音を立てて船端から離れ、ヒイロたちの視界から姿を消した。
「お・おい!待ちやがれ!」
 ロンファは、黒騎士が立っていた位置に向けて手を伸ばすが、当然届くはずもなく、黒騎士の姿も既にそこにはない。
 黒騎士の高笑いと足音が聞こえなくなるまで、ヒイロたちはその場でバルガンを見上げていた。
「…完璧な悪に近付くためって、どういうこと?ロンファ、分かる?」
「いや…流石に、その辺のレオの行動は読めねえ」
 レミーナの問いに、ロンファは呆れたような声で答える。
「とにかく、船に乗り込もう。どこに罠が仕掛けてあるのか分からないから、焦って先を急がずに、用心して進もう」
 ヒイロは二人を促すと、周囲の様子を注意深く窺いながら、再び階段を上り始めた。ロンファとレミーナも互いに頷き合うと、ヒイロの後について階段を上る。
 そして、今度こそ階段を上りきれると思い、ヒイロが最後の段に足をかけた、その時…。
「うわあぁぁっ!!!」
 その段だけ、薄く蝋のようなものが塗ってあり、それに気付かなかったヒイロは足を滑らせ、すぐ後ろにいたロンファとレミーナを巻き込んで階段を転げ落ちた。

   *

 船内に入ってすぐの所に、アルテナ像が祀られている部屋がある。
 二回も階段から落ちた際に負った怪我は、ロンファによって癒されたが、単純な罠に二回も引っ掛かったことによる精神的疲労までは癒しきれなかった。
 これから先も、どんな罠が仕掛けられているか分からない。心を落ち着かせ、万全の状態で黒騎士の関門に臨まなければいけない。なので、三人は船内に入ったら、真っ先にアルテナ像に祈って疲れを癒そうと考えていた。
 例え疲れが無くても、アルテナ像があれば祈ることがルナの風習でもあるが。
 しかし、部屋の前まで辿り着き、ホッとする思いでドアを開くと…。
「あれ〜ぇ!!?」
 三人は、目玉が飛び出んばかりの驚きに満ちた顔をして、声を上げた。
 アルテナ像は、きれいさっぱり無くなっていたのだ。
「ウソォ!何で!?二日前まではちゃんとあったのにー!!」
 レミーナは、隣に立っていたロンファの襟首を掴み、ガクガクと揺すり始めた。
「おっ落ち着け!俺だって知りてぇよ!」
 ロンファはレミーナの腕を掴み、引き剥がした。そんな二人の様子を尻目に、ヒイロはアルテナ像が安置されていた台座へと近付く。
「…きっとレオが像を移動させたんだよ」
 台座の手前で立ち止まり、ヒイロは周辺の様子を調べた。その間、ロンファとレミーナもヒイロに歩み寄る。
「でも、あの像を一人で動かすには苦労しそうね」
「昨日と一昨日の晩にさらった奴に運ばせたんじゃねえか?」
 二人はヒイロを挟んで横に並び、何も乗っていない台座を見下ろす。
「…そうか。さらわれたのはジーンだけじゃなかったんだ。その人たちも助けないといけないな」
 そう言って、ヒイロはロンファとレミーナを交互に見た。
「そうだな。それと…怪我を負ったら、俺の癒しの力で回復できても、魔法力は町へ戻らないと回復できねえぜ」
「レオと戦う可能性も考慮すると、魔法力は温存しておきたいわ。できるだけ罠は回避するよう、気をつけて進みましょう」
「そうだね。竜の紋章や、様々な武具を持っているレオとは違って、ボクたちは丸腰だ。魔法力まで尽きてしまったら、確実にレオに倒されてしまう。レミーナの言う通り、魔法力を温存しながら進もう。ボクが先に進むから、レミーナ、ロンファの順に続いてくれ」
 ヒイロはロンファとレミーナが頷くのを確認すると、「よし、行くぞ!」と気合いを入れ、入り口から向かって部屋の右隅にある階段へと進んだ。

   *

 階段には何の仕掛けも無く、ヒイロたちは難なく下りきることができた。だが、気は緩められない。
 度胸と経験で遺跡のトラップをくぐり抜けてきたヒイロを、ロンファとレミーナは頼っている。それを、ヒイロは背中で感じていた。
 もちろん、ヒイロも二人を頼りにしている。ロンファの癒しの力はもちろん、強力な攻撃魔法を駆使するレミーナは、丸腰のヒイロより遙かに戦力になる。仮面の黒騎士という強敵が待ち構えている以上、戦力として失うわけにはいかないし、なによりロンファとレミーナは、大切な仲間なのだ。
「レオは、ある部屋でジーンと一緒にいるって言っていたわよね。それって、どこの部屋かしら…ロンファ、分かる?」
 廊下を歩きながら、レミーナはロンファに尋ねた。
「…おそらく、この下の階にある自分の部屋だろう。あの部屋が一番広いし、造りや家具が豪華だからな」
「広い部屋を選ぶのは分かるけど、豪華なことに意味はあるの?」
「今のレオが、質素な部屋を好むと思うか?」
「…ごもっとも」
 ということで三人は、まず下りの階段を目指して進んだ。しかし…。
「あれ?階段が塞がれている…」
 階段の手前で、ヒイロたちは立ち止まった。
 この場に辿り着くまでは何の罠も無かったが、いざ階段を下りようとしたら、鉄のシャッターがヒイロたちの行く手を阻んでいた。
 三人は、横に並んでシャッターの前に立つ。
「こんなものがあったなんて…魔法で壊せるかな?」
 シャッターを拳で軽く叩き、その厚みを確認すると、レミーナはヒイロを見ながら、そう言った。ヒイロは首を横に振る。
「いや、こんな狭い場所で魔法を使うことは危険だ。それより…ココに窪みがあるだろ?きっとカギになるものを差し込んで回せば開く仕組みになっているんだよ」
 シャッターの右端に星形の窪みを見つけ、ヒイロはそれを指でなぞる。
「でも、カギなんて私たち持っていないわよ」
「たぶん、この階のどこかに隠されているだろう」
 ロンファの言葉に、ヒイロは「どうしてそう思うんだ?」と問う。
「それが、お約束ってもんだ。まあ、あいつとはガキの頃からの付き合いの俺を信じろ。ほれ、さっさとカギを探しに行こうぜ」
 ロンファに促され、ヒイロとレミーナは頷いた。
「…そうね。じゃあ、近い部屋から探しましょうか」
 三人はシャッターに背を向け、再びヒイロを先頭にして通路を引き返す。
 そして、早速差し掛かったドアの前で止まり、ヒイロはドアノブに手をかけた。
「気をつけろよヒイロ。今度こそ罠がありそうな気がするぜ」
「ああ、ボクもそんな気がするよ。二人は、もう少し後ろに下がってくれ」
 ロンファとレミーナは、ヒイロに従い、二歩ほど後ろに下がった。ヒイロはそれを確認すると、慎重にドアノブを回す。
「うわあっ!?」
 回しきったところで、ドアが勢いよく内側に開き、ヒイロはドアノブを掴んだままの手を引かれ、前につんのめった体勢で部屋の中に飛び込んでしまった。
「ヒイロ!!」
 ロンファとレミーナは腕を伸ばし、ヒイロの服を掴んで止めようとしたが、慎重になってドアから離れていたことが災いし、既に手遅れだった。
 ヒイロはドアノブから手を放し、これ以上つんのめって前に転ばないよう、ふんばろうとした。しかし、風を切る音と共に正面から飛んできた何かが顔面を直撃したと思うと、ヒイロの視界は鮮血のように真っ赤な色で染められた。
「ヒイローッ!!」
「キャァァッ!!」
 ロンファとレミーナが悲鳴を上げた。ヒイロの顔面を中心に飛び散る真っ赤な飛沫は、ロンファとレミーナにも届き、それぞれの服に赤い斑点を作り出す。
「うっ…うああ…っ!」
 ヒイロは苦しそうにうめき声を上げ、顔を押さえて床に膝を着いてしまう。
「待ってろ!すぐ癒してやる!!」
 すかさず、ロンファはヒイロに駆け寄ると、彼と同じように膝を着いて、祈り始めた。
「ヒイロ!ダメよ!痛くても傷口を触っちゃ!」
 レミーナも、ロンファに続いてヒイロに駆け寄り、ヒイロの腕を引こうとした。
「うっうわっ!カハッケハッ!!」
 しかし、レミーナがヒイロの腕を掴むより速く、ヒイロは着ている服の襟を掴み、それで顔を拭き始めた。乾いた咳を漏らしながら、何度も強く顔に服を擦りつける。
「お・おい、ヒイロ!!何やってんだ!そんなことをしたら…!」
 それに気付いたロンファは祈りを中断し、ヒイロの腕を掴んで、拭くのを止めさせた。そして、怪我の具合を確かめようと、彼の顔を覗き込んだ。
「はっ放せ!ケホッケホッ…うわ、目にキタキタキタキタぁ!!」
 ヒイロは、ひどい痛みに耐えているように、硬く目を閉じ、意味不明な言葉を発しつつも咳を続けている。
 襟で顔を拭いたため、その様子がはっきりと分かったのだが、ヒイロの顔に外傷は全く見られなかった。
 頭から流れ出た血が顔を濡らしていたのかと、ロンファは思ったが、赤い液体は確かにヒイロの顔面から飛び散っていた。
「…どこも怪我していないんじゃない?」
 その様子をロンファと一緒に見ていたレミーナも、不思議に思って首を傾げた。
「もしかして、こりゃ血なんかじゃなく…」
 ロンファは、ヒイロの腕を掴んでいる手を放した。ヒイロは再び襟で顔を拭き始める。
 その間ロンファは、自分の服にこびりついている赤い液体を指先で掬い、鼻を近づけて匂いを嗅いだ。
 どこかで嗅いだ覚えがあり、なんとなく食欲が沸く匂い。舐めてみると、最初は美味しいと感じたが、熱く痺れるような感覚が、間を置いて舌に襲い掛かってきた。
「からっ…香辛料かコレは!!」
 血だと思っていたそれは、タバスコだった。
「…は?香辛料?そんなもの、どこから…」
 ヒイロが顔面を大怪我したと思って焦っていたレミーナは、飛び散った赤い液体の正体を知ると、気の抜けきった顔で呟いた。
 ダンゴムシのように体を丸くして床に転がり、悶えているヒイロを他所に、ロンファは部屋の中へと視線を移した。
 部屋の奥、出入り口からちょうど真正面の位置に置かれている棚の上に、大きな水鉄砲が設置されており、発射口から赤い液体を滴らせている。
 床には弛んだワイヤーが一本、無造作に落ちていた。よく見ると、ヒイロが開いたドアのノブにもワイヤーが絡まっている。
 おそらく、外側からノブを回せば、ドアは内側に勢いよく開き、その反動で水鉄砲から香辛料が発射される仕組みになっていたのだろう。
「レオが言っていた関門って…もしかして、コレのことか…?」
 トラップを作動させる仕組みはともかく、結果的には子供の嫌がらせ程度の罠に、ロンファとレミーナは開いた口が塞がらない。
「かっ辛っ辛いっ!ケヘッガハッ…ロ・ロンファ!どうにかしてくれー!!」
 だが、そんな子供の嫌がらせ程度にしても、目や口に香辛料が入ったヒイロにとってはたまったものではない。喉を押さえ、まぶたを服の袖で擦る。
「…それくらい我慢しろよ。剣で斬られたわけでもないんだからよ…」
 ロンファは、力無い声でヒイロに言った。
「それくらいってもんじゃないよ!!頼む!目だけでも癒してくれー!!」
 これほどのた打ち回りながら必死に叫ぶヒイロの姿は、ロンファもレミーナも見たことが無い。よほど苦しいのだろうと思ったロンファは、立ち上がって祈り始めた。
「ほらヒイロ!ロンファが癒してくれるみたいよ!暴れていないで、大人しくロンファの力で回復させなさい!」
 レミーナは、それ以上ヒイロが目を擦らないよう、後ろから羽交い締めをするような形で彼を押さえつけた。
「でも…もしこの部屋でカギが見つからなかったら、他の部屋も探して回らなきゃいけないのよね…」
 大人しくレミーナに押さえつけられ、咳だけしているヒイロは、彼女の言葉を聞いて、ものすごく気が重くなった。
 ロンファが祈りを終え、目の痛みが徐々に和らいでいっても、ヒイロの気持ちは沈んだままだった。
 …カギが見つかるまで、こんな罠と付き合わなきゃいけないのか…。
「とにかく、あたしたちの中で一番運動神経が高いのはヒイロなんだから。もしここでカギが見つからなかったら…次の部屋のドアも、ヒイロがを開けてね」
 次の部屋のドアはロンファに開けて貰おうかと思った矢先、可愛らしい笑顔でレミーナにそう言われ、ヒイロの気はさらに重くなった。
 だが、彼女の言うことはもっともなので、何も言い返すことができなかった。
 痛みが完全に引くと、ヒイロはため息をついて立ち上がり、「よし、カギを探そう…」と、何とも力の無い声で呟いてから、タバスコの匂いが漂う部屋に踏み込んだ。

   *

「報告しろ。準備の方は、どうなっておる」
 見るからに上等な椅子に、足を組んで腰掛けている黒騎士は、手前で跪いている神官の男に、そう言った。
「お申し付け通り、万端に整えました。いつでも始められる状態であります」
 神官は、頭を下げたまま答えた。黒騎士は「よろしい」と頷く。
「あとは、連中が来る頃合いを見計らって始めるまでか…」
 黒騎士は満足げに…だが、どこか人を小馬鹿にするような笑みを浮かべ、天井を見上げた。
 天井の向こうからは、バタバタと騒々しい足音が響いてくる。
「フフフ…奴らめ、順調に罠を突破しているようだな。…もう良い頃合いか…」
 そして、黒騎士は静かに立ち上がると、意味無くマントを翻し、神官に向かって言い放った。
「始めるぞ!ジーンをこの部屋に連れてこい!」
「はい、かしこまりました」
 神官は立ち上がり、一礼してから黒騎士に背を向け、その場から立ち去った。
 黒騎士は椅子に座り直すと、顎を持ち上げ、天井を仰いだ。
「フッフッフッフッフ…さあ来い、ゾファーを倒した英雄たちよ!貴様らの武勇伝に、この私が終止符を打ってやる!ジーンの姿を見て絶望に打ち拉がれ、私の絶大な悪の力の前に倒れるがいい!!ハッハッハッハッハッハッハ!!ハーッハッハッハッハッハッハ…イテッ」
 ふんぞり返って高らかに笑っていた黒騎士だが、ふんぞり返り過ぎて椅子が後ろに倒れてしまい、座った姿勢のまま背中を打ち、短い悲鳴を上げた。

   *

「…や、やっと階段を下りられる…」
 階段を塞いでいたシャッターが上へと収納されて開いてゆく様子を、ヒイロは疲れきった表情で眺めた。
「ヒ・ヒイロ、大丈夫か?疲れを癒してやろうか?」
 今にも前のめりに倒れ、そのまま階段を転げ落ちていきそうなヒイロを心配し、ロンファは後ろから彼の肩を掴んで、そう尋ねた。
「いや、さっき癒して貰ったばかりだから、いらない…ありがとう」
 ヒイロはロンファを振り返り、笑顔を作って見せる。非常に痛々しい。
 無理もない。シャッターのカギが見つかるまで、各部屋のドアは全てヒイロが開いていたのだ。
 一部屋につき、ご丁寧に一つずつ罠が用意され、そのほとんどがドアを開いた時点で作動するものだった。当然、真っ先に被害に遭うのはヒイロである。しかも、回避しようのない罠ばかりで、時々ロンファとレミーナも巻き添えを喰らっていた。
 ちなみに、どんな罠が仕掛けられていたかと言うと。
 ドアを開くと、何故か小麦粉が降りかかる。
 ドアを開くと、何故か冷水が降りかかる。
 ドアを開くと、何故か魚の擂り身が降りかかる。
 ドアを開くと、何故か猫がニャーニャー鳴いている。
 最初にドアを開いた部屋と同様、まるでコントのようで、後で掃除に苦労しそうな罠ばかりだった。黒騎士は、ちゃんと後始末のことも考えているのだろうか。
 しかし、以外と効果は絶大だった。
 大量の小麦粉が頭の上から降り注ぎ、全身真っ白になれば、動くたびに小麦粉が舞い上がり、吸い込んでは咳と一緒に白い粉を吐き出す。
 冷水を被れば小麦粉は落ちたが、体を急速に冷やされて会話すらままならなくなった。まあ、後でレミーナが魔法で暖めてくれたが。
 魚の擂り身は、ただ体を生臭くするだけの嫌がらせかと思ったが、その後に猫が何匹もいる部屋に入ってしまい、魚の匂いに食欲を刺激された猫たちに襲いかかられ、三人ともひっかき傷だらけになった。
 ようやくカギを見つけた頃には、ヒイロはすっかりボロボロになっていた。ロンファによって怪我も肉体的疲労も癒され、外見上ボロボロなのは服だけとなったが、あんな罠に引っかかりまくったヒイロの精神的ダメージは大きい。ものすごく、ものすごくバカにされているような気分になる。
「…それにしても…あの罠、全部レオが考えて仕掛けたものなのかしら」
 階段を下りながら、レミーナがそう呟いた。また足下が滑りやすくなっているかもしれないので、三人とも慎重に足を運んでいる。
「そう言えば…レオが考える罠にしては、妙にガキ臭すぎるな。レオなら、落とし穴とか、転がる岩とか、床から槍が出てくるとか…単純でありきたりだが、攻撃的な罠を仕掛けるはず…バルガン内じゃ無理だからか?」
 レミーナの前を進むロンファも、彼女が呟いた言葉に気付き、考え込む。
「もしかして、レオに協力して罠を考えた奴がいるってことかしら」
「…そうだな。だが、悪の味方になったアイツに、好んで協力する奴なんかいねえだろ。きっと無理矢理手伝わせているに違いねえ」
「まあ、そうだろうけれど…それにしても、面白がって仕掛けた罠にしか見えなかったんだけど」
「…面白いので仕掛けました、で済むもんか。あんな罠…」
 先頭を歩くヒイロにも、二人の会話は聞こえていた。彼の低い声に、ロンファとレミーナは思わず肩を震わせて怯える。
 その時、階段の上のほうから聞こえた物音に、再び二人は肩を震わせ、ヒイロは反射的に振り返って身構えた。
 階段の上で、見知らぬ人間がヒイロたちを見下ろしている。
「な、何!?」
 ヒイロよりワンテンポ遅れ、レミーナとロンファも振り返った。同時に、階段の上に立っている人物は、大きなゴムボールのような球体を、ヒイロたちの頭上を目がけて投げつけた。
 球体は、三人の頭上で風船が割れるような音を立てて弾け、泥のようなものをヒイロたちにぶちまけた。
 三人は、とっさに両腕で顔を覆ったが、泥は服や髪にへばりつく。
「くそっ!誰だ!!」
 ロンファは腕の隙間から顔を覗かせ、球体を投げつけてきた人物の姿を、再び確認しようとした。
 しかし、顔を伏せている間に逃げたのだろう。階段の上には誰も立っていない。
「もうっ!何なのよコレ!髪がぐちゃぐちゃになったじゃない!!」
 レミーナは、髪にこびりついた泥の固まりを掴んだ。手の中で泥はぐちゃっと潰れ、指の隙間から油のように滑りのある液体が滲み出る。
「うわっ気持ち悪いわね!しかも生臭くない!?」
「これは…さっきの魚の擂り身と同じだ!!」
 ヒイロの言う通り、泥のようなそれの正体は、魚の擂り身だった。
「さっきの?…ああ、あの罠に使われていたやつか」
 ロンファは、上の階でヒイロが引っかかった罠の一つを思い出し…青ざめた。
 …ってことは、まさか…。
 三人揃って、嫌な予感がした。息を飲み、しばらくその場で沈黙する。
 しかし、その沈黙はすぐに破られた。
「ニャーニャーニャーッ!フニャーオッ!」
 鳴き声と、地鳴りのような足音を響かせながら階段の上から現れたのは、猫の群れだった。上の階の罠でヒイロを散々ひっかいた、あの猫の群れだ。
「うわあぁっ!やっぱりー!!」
 真っ先に声を上げて驚いたのは、ヒイロだった。猫の群れは、わらわらとヒイロたち目がけて階段を下りてくる。
「ロンファ!レミーナ!早く逃げるんだー!!」
 ヒイロに言われるまでもなく、ロンファとレミーナは階段を駆け下りていた。ヒイロも二人に抜かれる前に走り出し、転がるように階段を下りる。
「ヒイロ!どこでもいいから一旦部屋に逃げ込もうぜ!!」
 階段を下りきってから、ロンファはヒイロに言った。ヒイロは首を縦に振る。
「分かった!それじゃあ…」
 走りながら、ヒイロは近くに逃げ込めそうな部屋がないか探そうとした。しかし、その前に「あっ!」と声を上げ、ロンファとレミーナを振り返った。
「もうレオの部屋の近くまで来ているんだ!いっそ、そこに逃げ込もう!!」
 それを聞いたロンファとレミーナは、一瞬、驚いた顔をしたものの、「そうだな…もうここまで来てんだ!飛び込んじまえ!」と、開き直ったようにロンファは言い、レミーナも三度ほど頷いた。
 その様子を確認すると、ヒイロは前に向き直った。既に、レオの部屋の外側の壁沿いに、ヒイロたちは走っている。そのため、意気投合してから五秒と経たぬ内に、レオの部屋のドアのノブに手をかけることができた。
「飛び込め!早く!!」
 ヒイロはドアを開き、部屋の中に飛び込んだ。そして、ロンファとレミーナが続いて部屋に飛び込むのを確認してからドアを閉めようとしたのだが、勢い余った二人に体当たりを喰らわされた。
 ヒイロは、仰向けになって二人に押し倒されつつも、何とか足を伸ばし、ドアを蹴った。ドアは大きな音を立てて閉まる。
 三人は赤い絨毯の上に、重なって倒れ込んだ。まだ体にこびりついている魚の擂り身が飛び散り、絨毯を汚した。
「うう…イテテテ…悪いな、ヒイロ」
「ご・ごめん、ヒイロ。でも何とか猫は振り切れたようね…」
 ロンファとレミーナは、体を横に転がしてヒイロの上から下りた。二人に肺を圧迫されていたヒイロは、大きく息を吐き出す。
 ふいに、オルガンの音が鳴り響き、ヒイロたちはひどく驚かされ、顔を上げた。
「フッ…やっと来たか」
 部屋の出入り口前、ヒイロたちが倒れている場所より正面奥に、黒騎士が立っていた。
 偉そうに腕を組み、不敵な笑みを浮かべながら、ヒイロたちを見下ろしている。そんな黒騎士の態度に、ヒイロたちは激しい怒りを覚え、鬼の形相で彼を睨みつけた。
 酒場でヒイロとロンファの服を剥いだことから始まり、ここに辿り着くまでの罠の数々。その上、こうも人を見下すような態度を取られれば、怒りの業火が滾るのも当然である。
 しかし、その業火を一瞬で鎮火する存在が、黒騎士の傍らで苦笑いを浮かべながら立っていた。
 黒騎士とは対照的に、真っ白な姿をしているその存在を確認した時、ヒイロたちの頭の中も真っ白になり、凍りついたように動きを止めた。
「あ…?」
 ヒイロたちは、あんぐりと開いた口から気の抜ける声を漏らした。
 黒騎士の傍らに立ち、ヒイロたちの思考を停止させた、それは…。

 純白のウェディングドレスに身を包んだ、ジーンの姿だった。

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